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今日ものんびり鹿島鉄道
想像していたよりコンパクトな写真集でしたが、内容の充実した、詳細まで調査されていることに感心しました。鹿島鉄道には加越能鉄道・加越線で走っていた気動車が、第二の人生を送っていました。遠く茨城の地で活躍していた様子がわかり、とても興味深く拝見しました。

(ペンネーム「キモやん」さんより)
茨城県の人でなく、横浜の高校生たちが本を作られたことに驚き、感動しました。
鹿島鉄道では、霞ヶ浦沿岸から筑波山が見えるところを走る景色が大好きでした。
玉造のお寺近くの山へホタルブクロの花を見に行ったのが、鹿島鉄道に乗った最後の思い出となりました。
その時は、小川高校の近くで体が揺れゴトンゴトンという音と、大きな蓮の葉のある田園が左右の目に映ったのが印象的でした。  

(茨城県水戸市/T・Sさんより)
子育てで大変お世話になった「かしてつ」がなくなってしまい、忍びなく思っています。
忘れられない家族の思い出が残る写真集を制作して頂き、ありがとうございました。 

(茨城県小美玉市/A・Mさんより)
茨城新聞で武相鉄研の活動を知り、大変だったろうと思いました。
私も60有余年お世話になり、今さらながら寂しい思い出一杯です。 

(茨城県行方市/K・Hさんより)
廃線前に自分でも写真を撮ろう、と思って二度ほど乗車しましたが、思うように撮れませんでした。なので、この写真集が出たことを嬉しく思っています。 

(茨城県石岡市/O・Yさんより)
茨城新聞に横浜の高校生たちの作った本のことが大きく載り、感心しました。
私は鹿島鉄道のすぐそばで生活していたので、列車を見られなくなったのが、すごく悲しく思えるのです。
でも、この写真集があるので、いつも思い出すことが出来ます。こうした記録を残してくれて、本当にありがとうございます。  

(茨城県行方市/H・Mさんより)
私は玉造〜榎本間の線路脇にある牛舎で牛の世話をし、一日中鹿島鉄道を見ながら生活してきました。
私自身も高校の3年間、この鉄道に乗って鉾田まで通いました。
さらに子供たちも、これで水戸や土浦まで通学していました。
幼い孫も踏切が「キンコン・カンコン」と鳴るや、すぐに飛び出して気動車を見に行ってました。
廃止となる最終日は、一日中2両編成に満員のお客を乗せて走っていました。
孫は廃止になることも分からず、列車を見送った後も「バイバイまた来てね!」と手を振っていました。
列車が走らなくなると、すぐに作業員がやって来て、踏切に鉄パイプを打ち込み、線路側にロープを張り「危険 立入禁止」の看板を設置していました。

(茨城県行方市/Y・Kさんより)
私の家の前を鹿島鉄道が走っていましたので、その82年間の月日を思い出します。廃線となる時は、思わず涙が出ました。
石岡一高時代の3年間、毎日乗り、今も思い出深い鉄道です。

(茨城県小美玉市/M・Aさんより)
廃線となり寂しさが募ります。霞ヶ浦と筑波の風景に、この写真集に残るかつての情景を重ね、鹿島鉄道を想い出していきたいと思っています。

(茨城県行方市/S・Yさんより)
廃線となり、寂しく思っております。曽祖父たちが鉄道設立時に奔走し、用地買収などで大変苦労したと聞いております。

(茨城県石岡市/I・Aさんより) 
地元に住んでいても、なかなか記録写真を撮ることが出来ませんでした。貴重な写真集です。

(茨城県水戸市/O・Mさんより)
鹿島鉄道を後世に残せず、非常に残念でなりません。少しくらい世の中に無駄があっても良いと思うのですが、鉄道ひとつ残すことが出来ませんでした。写真集、楽しんでおります。

(茨城県石岡市/S・Hさんより)


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