コレ読んでみた! 読者からのツイート

今よみがえる非電化時代の八高線
「八高線」の本、懐かしく拝見させて頂きました。八高線は、当時通っていた小・中学校の側を走り、貨車の荷物が多いと坂が登れず戻って来ては、「なんだ坂、こんな坂。」と言ってるように「シューシュー、ポッポー!」と勢いをつけ登っていました。
そんな日常の光景が、昨日のように浮かんでくる本の内容でした。数々の楽しい思い出のあるSLたちに出会えて嬉しくなりました。

埼玉県/S・Mさんより
飯能の大久保踏切近くで育ったので、通学途中に長い貨物列車の数を数えるのを毎日の楽しみにしておりました。お正月などは、SLの引く特別列車なども見られたのを覚えています。当時は、タブレット交換もありました。
便利さと引き換えに、せわしい世の中になってしまい、「ローカル」とは無縁なのを寂しく思います。

狭山市/A・Dさんより
40数年前、嫁ぐ際に花嫁姿のままで八高線に乗って来たのが、一番懐かしい思い出です。一時間に一本程度しか走らないので、乗り遅れて長時間、駅に佇んだこともあります。 泣き通しの長男をおぶって揺られて帰宅したことなど、数々の想い出がいっぱいです。火事で全焼した明覚駅も、今はログハウスの素敵な駅舎に生まれ変わっております。

埼玉県/O・Hさんより
子供の頃、槻川(青山)の鉄橋を渡ったり、線路の上や土手の登り降りの競争をしたりして遊んだので、八高線には大変思い出深いものがあります。 16歳の時に父からミノルタ・ハイマチック7というカメラを買ってもらい、写真を撮り始めましたが、八高線の写真は数枚しかありません。 今はそれをとても後悔しており、この本は貴重な資料・記録として、また私自身の思い出としても大切にしております。

埼玉県/O・Kさんより
八高線の大事故には、忘れられないものがあります。親友の姉が事故犠牲者となったからです。昭和22年2月25日朝、東飯能を発車した満員の八高線列車が鹿山峠の下りカーブで脱線転覆し、180名の死者を出す大惨事となりました。東京からの買出し客に混じって、飯能の人も繊維関係の人や出張の方などが犠牲となりました。この事故の際、近隣の消防団、医療関係者の活躍は、後の世まで語り継がれるものでした。 この冊子を作り上げた皆様に感謝しております。八高線を愛する一人として、大切にしたいと思います。

所沢市/S・Hさんより
一頁一頁めくる度に、子供の頃の感慨がつのってまいります。 神流川の土手でクローバー摘みなどをして遊びました。酔った父が乗り過ごし、夜遅く歩いて帰ってきたことなども思い出しました。 当時は、まだ下久保ダムもなく、神流川は魚が透けて見えるほど、美しい水をたたえた清流でした。兄と川遊びを楽しんだこと、川を渡る風の音さえも懐かしさでいっぱいです。 雪を頂いた赤城を背に神流川を渡る、14頁の八高線写真のなんと美しいこと! 40年以上昔、貨物列車が冬空の下、白煙たなびかせ過ぎ去るのを、貨車の台数を数えながら待った踏切。朝4時を過ぎると通る始発貨物列車の地を震わせるような鉄路の響き。そんな時間まで時のたつのも忘れて本を読み耽った高校時代。鉄路のカーブで決まって鳴らす汽笛の音など、思い出は尽きません。地元の同窓会へも八高線に乗って参加したことを話すと、「なぜ、そんなことを!?」と笑われましたが・・・・・。八高線は、ちょっとオシャレで小さな2両編成になっていました。 まなこ閉じれば、鮮明に少女時代、八高線の非電化時代がよみがえってまいります。 本当に心あたたまる懐かしくも豊かなひと時を頂きました事に、心からお礼申し上げます。

岩槻市/S・Yさんより


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