復刻版
昭和27年版・横浜市全域図で見る
戦後の市電路線電停名
オールカラー版

お求めは
こちらへ


A5判・カラー32頁
本体価格
1200円
本文見本



↑クリックで拡大
戦争中の空襲により焼け野原となってしまった横浜市内の中心部も、昭和20年(1945)8月15日の終戦と共に復興が始まっていった。当時の市民交通の主役であった横浜市電は、明治37年(1904)に神奈川(現・横浜駅東口)〜大江橋(現・桜木町駅前)間2.6Kmで走り始め、以後、順次路線を延伸させていき、戦後の昭和27年(1952)の時点では、すでに全盛時に近い路線網を完成させていた。しかし、間門〜八幡橋間(昭和30年開通)と保土ヶ谷駅〜通町間(昭和31年開通)といった路線は未開通であったことが、この地図からも判読できる。昭和30年代に横浜駅西口の開発が行なわれるまでの横浜の中心地は桜木町界隈で、市電もここから発着を行なう運転を基本としていた。現在の根岸線は開通しておらず、東横線と並んだ形で、国電の終点は桜木町であった。生麦・六角橋・保土ヶ谷・間門・山元町・弘明寺・杉田といった各方面へ向かう市電たちが、桜木町駅前に居並ぶ姿は壮観で、まさに市民交通の主役としての活況に満ち溢れていた時代であった。市電は1〜13系統に分かれて運転されていたことや、バス路線がまだ市電の補完的な役割をしているにすぎず、主役と呼ぶには程遠い状態であったことも、系統図から読み取れる。さらにこの昭和27年当時の地図からは、まだまだ戦後の混乱期ともいえる市内の様子さえも垣間見ることが出来、当時に想いを馳せる手がかりにもなるであろう。
戻る