[大学1年]
1998年4月、慶應義塾大学理工学部学門3に入学。物理が得意な外部の人をみて、かなり圧倒される。
というか、前期の電磁気と後期の力学は本当にやばかった。さらに、自分の好きな化学の講義を1年通して何回さぼった
ことか。また、一般教養でとってしまった音楽。講義ではいつも内職をしていたけど、試験は教科書そのままだったから、
解答用紙を埋め尽くしました。
サークルは、慶應弓道同好会と歌舞伎研究会に入会。先輩方の温かいアドバイスの甲斐があってか、無事に2年に進学。
学生対教師の比から、面倒見がよいだろうと判断し、また行って見たい研究室があった(天然物合成をやっている山村・西山研
究室とバイオ有機化学の太田・須貝研究室)ことから、化学科を選んだ。今でも、このときの選択は、間違っていなかったと思う。
もし、応用化学科にいっていたら、埋もれていたんだろうな。というか、先生が1人でやっている研究室が多すぎ。社会に優秀な
人材を送り出すには不適切な環境だと思われたのも、俺が応用化学科を敬遠した理由。
[大学2年]
2年に上がる1週間前に、左足大腿骨を骨折。約2ヶ月の間、日吉から近い菊名記念病院に入院。このときに、自分より
年上の友人をたくさんつくる。動けるようになってから、毎晩のように喫煙室でお菓子を食べながら、世間話(外科にかかって
いたわけだから、当然禁酒)。2年の前期は、松葉杖で登校。送り迎えなどしてもらった両親には、本当にお世話になった。
さらに、サークルの方々には色々と励まされました。何とか、2年の3月にボルトを抜いて、もとの身体にもどる。といっても、
怪我前の状態からほど遠いけれど(今でも)。でも、やはり2年の時に一番印象に残っているのが、三田祭。あのときの
写真があったら、是非アップしたい。
[大学3年]
3年からは矢上の生活。一年間通して、週18コマの授業を受ける。といっても、3年生はこれくらいが当たり前です。
今だから言えること。火曜と木曜の3限から終わるまで実験があったんだけど、その前にはちゃんと講義がつまっていまして、
もちろんのように履修はした。しかし、レポート提出日の木曜の1限は、ほとんど出ていなかった。それでも、大丈夫であった
のだからね。偶然にも、俺が出たときに出席をとってくれたおかげだろうか・・。履修した授業のいくつかは、楽勝という理由
でとっていたような(工学の基礎数学・体育実技などなど)。また、アメリカ・Virginia 州の William and Mary 大学に夏休み
に留学してきました。この時の映像は、近々アップするつもりです。さらに、KQCの友人5人と台湾も旅しました。この時の思い
出は今でも忘れることができません。
[大学4年]
薬学部を含め理工系学部は、4年生から卒業研究と題して研究室に配属されます。私は、何とか第1希望の太田・須貝研究室
に入ることができました。ここでやっていることは、典型的な生物資源であり、我々の体内で巧妙なことをやってくださっている
酵素を用いた光学活性物質の合成です。最初はなかなか選択性のよい酵素を探索できなかったのですが、12月に岡山の学会で
発表をさせていただく機会をいただきました。須貝先生には大感謝です。そして卒論前に、ついに素晴らしい酵素を偶然にも
発見することができまして、2002年3月に日本化学会で発表することもできました。卒業研究でやっていることは、残念ながら
4年生が終わるまでには完成しそうにないので、たぶん修士の初めもやっているのではないかと思います。学部3年までは土曜日も
休みが当たり前だったので、週休1日は慣れるまでに時間がかかりました。このようにほとんどを研究室に束縛されてしまったので、
弓道以外はほとんどできませんでした。
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