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作文練習帳

 僕の家には狭いながらも自分の書斎があります。広いスペ一スではありません。たった3畳の大きさ
 長年、書斎が欲しいと思って来て、家を建て直す際にやっと出来た一人きりになれる唯一の空間。
 他の人が何と言おうと断じてここは僕の書斎なのだ。(実情は、パソコン部屋!!??)
 日記とは別にもう少し長いスパンで、普段思っていることを書こうと思って居ります。
 このHPのメインになるようにしようと思っています。

 第 1622  先達          2025.08.27(火)

 スマホについて書けば、色々なご意見が有る事でしょう。予め注釈を入れて置いた方が良さそうだ。ジイジもバアバもスマホの知識がほとんど有りません。
 電車がそれほど混んでいなくて、運良く座れたとする。見ると、向かい側の7人掛けのシ一トに座った全ての人が各自スマホを覗いている。何か奇異に感じる。
 こちら側の座席でも、居眠りしている方を除けば、同様にスマホに熱心なのである。同じようなことしているのを見ると、まるで何か新興宗教にでも取り付かれた集団の中に紛れ込んだかのようだ。洗脳され、高額のツボでも買わされなければ良いのだが。
 折角座れたのだから、本でも読んだ方がとても有意義だと私は思うのだ。ただ、各自にはそれぞれの考えが有り、スマホを見ようが、本を読もうが勝手である。人にはそれぞれに価値観が有り、各自の価値観を尊重しなければいけない。
 私が本好きだからと言って、向かい側に座っている乗客に向かって『 本でも読んだ方が良いですよ 』などと、声を出して言う事は決してありません。ただ、心の中で思うだけです。
 それでは、僕が電車の中でスマホを全く使わないかと言えば、極くまれに電車の『 乗換案内 』や、行ったことのない場所の『 マップ 』を見る程度はあります。頻度は極々低い。
 スマホを持っていても通話は『 Lineの通話 』がほとんどで、電話回線での通話は少ない。Line以外のSNSもほとんど使うことはなく、昔のガラケーで十分なレベルなのである。だから僕の場合、一度フル充電すれば1週間は持つ。
 他の方はどうか知りませんが、一般のジイさんやバアさんのスマホの使っているレベルはこんなものなどではと想像するのです。 高齢者でも自由自在に使用している方も実際に居ると思うのですが、あくまで私の想像です。
 カミさん、僕と同じようにほとんどスマホを使っていないのに、4年使っている機種で毎日充電しなければ成らないのです。バッテリ一の消耗が激しい。僕のは一週間持つのを知っていますから、自分のスマホのバッテリ一が劣化しているのではないか、あるいは4年間使っているのだから、もうスマホ自体が草臥れているのではと思っていたようです。
 スマホのショップの予約を取って、バッテリ一交換か、4年間使ったのだから機種の変更が必要なのか、相談に行きました。
 ショップのお兄さんに言われたこと
① スマホはふつう毎日充電するのは当たり前なのです。お兄さんは1台の機械を使っていて、1日に2回充電している。高速充電すれば1時間ほどで充電できる。おさむジイのスマホは4年以上使っていて、1回/週の充電はちょっと運が良い。
② カミさんのスマホの『 設定 』からバッテリ一の『 健康状態 』を調べてもらったら、『 健康状態良好 』だった。 カミさんのスマホのバッテリ一は劣化していないと言う事でした。
 ショップのお兄さんは正直な方だったのである。客の方から相談に来たのだから、『 バッテリ一も寿命ですよ 』とか、『 もう4年も使ったのですから、新しい機種と交換した方が良いですよ 』と言うのが普通だと思うのです。
 ジイジもバアバも標準的な充電の頻度や、バッテリ一の健康診断の仕方を知らなかったものだから、スマホのショップに相談に行ったのです。①と②の説明を聞いた後に、機種交換の説明を聞いたって、もう上の空です。
 カミさんのスマホが健在なら聞く耳持たないよね。ジジイもバアバもスマホの知識が無かったと言うことです。 『 先達はあらまほしきことなり 』でした。

 第 1621  ボ一ルペン       2025.08.14(木)

 考えてみると、私たちは子供の頃から色々な筆記用具を使っています。小学生の頃はもっぱら鉛筆、その後は、シャ一プペンシル、ボ一ルペン、万年筆、筆と言ったところでしょう。筆は学校の習字時間にしか使っていません。一時期万年筆を使った時期も有りましたが、今は所有もしていません。
 今はボ一ルペンを使うことが一番多いかな。幾分値の張るものは全体が金属のボディで出来ています。上向きでも書けるスペ一スペンなども有ります。僕なんかが使う物はごくごく安値な、握る部分が透明のプラスチック製で、中のチュ一ブに入ったインクの減り具合が分かるモノです。
 ただ、このボ一ルペンもインクを最後まで使い切った経験が『 ある時期 』までなかった。大抵はしばらく使わないうちに、インクが先端のボ一ルの部分で固まってしまって書けなくなってしまった。
最近はそんな経験はないけれど、ずっと以前はボ一ルペンを逆さに置いておくとインクが流れ出て、手や衣類を汚してしまうことも有った。
 先ほど、『 ある時期 』までボ一ルペンを使い切ることがないと書いた。たまに途中で書けなくなって廃棄してしまうこともありますが、仕事をリタイアした後はほとんど、最後まで使い切ってしまうようになった。大抵は2~3週に1本の割だ。あまり長い期間でなく、集中して使うことが肝要のようです。
 自分でも結構早いなと思って、ボ一ルペンを摑む部分に使用開始年月日を刻んでおく。やはり2~3週間で使い切ってしまう。決して無駄遣いしている積りはなく、普通に使っていて使い切ってしまうのだから仕方がない。モノを考える時に、考える項目やプロセスを書いて整理する癖があり、その時に使うせいかもしれない。
 HP用にテキスト文を書いて(打って)います。その下書きに使っているのではと思われるかも知れません。HPの場合はいきなりパソコンに打ち込んで、1~2回読み直して修正しUPしてしまいます。ずっと後から読み直して、文がおかしいとか、明らかに打ち間違いが出て来てしまうのはこの推敲が足りないからです。
 ¥100shopに3色のボ一ルペンとシャ一プペンシルがセットになった、いわゆる『 3色ボ一ルペン 』を売っている。3色のボ一ルペンのそれぞれの色に役目を付けて、例えば『 赤は仕事関係の予定 』、『 青は遊び 』、『 緑は家族の関連 』の予定を手帳に記入するなんてことをやっている方がいらっしゃる。
 僕の経験では、どうしても使用頻度に偏りが出て、『 赤 』が一番先に無くなってしまう。当初の役割分担の目論見は出来なくなってしまい、次の3色ボ一ルペン購入の運びとなってしまう。老人の『 もったいない精神 』から、残った『 青色 』、『 緑色 』もとにかく他に用途に使います。
 斯くして、私の机のペン立てには、シャ一プペンシル機能のみが使える『 元3色ボ一ルペン 』が3本残り、いずれ来るとも分からないシャ一プペン機能の出番を待っている。今の僕はシャ一プペンシルを使う頻度が激減してしまった。僕の精神異常のせいも有って筆圧が高く、シャ一プペンシルの2Bの芯がたびたび折れてしまうのだよ。

 第 1620   お米       2025.08.09(土)

 我が家の斜め前にドラッグストアがある。このところ、このドラッグストアに行く機会もだいぶ減ってしまった。暑いから、ただ単に私が行かないだけで、家人は今まで通り行っている。
 今年はお米の価格が高騰したり、ス一パ一のお米用の棚が空っぽになって大騒ぎした。農林水産省の見解では当初、集荷業者、中間流通業者が価格を吊り上げるために、売り惜しみして、業者の倉庫に備蓄しているから、米の価格が上がっているのではと言う見解を出していた。
 何だか、時代劇の『 米問屋の○○屋 』のような話だ。○○屋が米蔵に大量の米を備蓄し、大儲けを企んでいて、お代官にお目こぼしに小判の詰まった菓子折りを献上する場面を見るかのようだ。結果から言えば、農林水産省の役人の見当違いだった。テレビの時代劇番組の見過ぎなのではないか?
 その後の調査で、中間の業者が倉庫に積み上げていることはほとんどなく、農林水産省が立てている『 需要予測 』より、実際の消費の方が38万トンも多かった。米が足りなかったのである。需要予測が狂ったのは、インバウンドつまり外国からの旅行者が増えて、日本食を食べたことも米ふ足の要因の一つなのだと言う。
 私も以前ほど行かないと言うだけで、『 世間見 』のために、時にドラッグストアにも足を運ぶ。以前、お米は10 kgの袋入りがほとんどであった。今は大抵が5 kg入りになっている。
 最新のお米の価格はふ案内ですが、5 kgで3500円台なのではないのでしょうか? もちろん¥4000以上の銘柄も有りますが、10 kgで1万円を超えるとイメ一ジ的に打撃が大きいから、5 kg売りにしているのでしょう。
 『 のど元過ぎれば熱さ忘れる 』で、ちょっと前まで、毎日何度も報道されていたお米の価格や手に入らないと言う報道はすっかりなくなってしまった。日本人は『 熱し易くて、冷めやすい 』と言うけどホントだね。  今まで政府は米の需要予測からずっと減反政策を取っていた。ここに来て一転して増産政策を取るのだと、まったく安直な世の中です。
 その昔、『 貧乏人は麦を食え 』と言って、八方からお小言を頂戴した政治家が居ました。後に首相にもなりましたが、1950年当時、池田勇人蔵相が『 所得の少ない方は麦、所得の多い方はコメを食うと言うような経済原則に沿った方へ持って行きたい 』と言ったとか。
 お米が品薄だったり、米の価格が上がっても、今回、麦を食べると言う発想がほとんど出て来ていない。麦を食べることはそれほど後ろ指を刺されるほどの事なのでしょうかネ? 急に麦を食べる人が増えても、今度は麦の需給が問題となってしまうだけだけど。
*お米と麦の価格の対比をしなければいけない。麦はお米よりそんなに廉価なものなのか
*代替に麦を食べると言っても、麦そのものをたくさん売っていません。確かに麦も売っていますが、米に少量混ぜて食べるくらいの量しか売っていない。
*僕らが子供の頃、弁当に麦の混じったご飯を持って来ている子が、弁当を隠すようにして食べていた光景を見ているけど、そんな恥ずべきことだったのか ?
*トロロご飯には麦飯は相場であるけど、まあ、トロロご飯は流し込むようにして食べてしまう。僕は麦を食べるのはそんなに卑下して食べるものではないと思っています。うどん、蕎麦、パン、スパゲティなど麦に由来する食べ物はたくさんある。
*今、『 江戸の【新】常識 』と言う本を読んでいる。それに拠れば、江戸時代、『 生産者たる農民の大半は普段米を食べられなかった。年貢米をおさめても手元に半分以上米が残った。その大半を換金のために売り払ってしまうからである。主に麦やアワ、ヒエなどの雑穀を常食していた 』と書いてあった。こんな記述により、多くの人が麦が米よりも廉価で、レベルの低い食べ物のイメ一ジをうえ付けられていたのだ。
*僕も米と麦の価格差をちょっと調べてみた。『 貧乏人は麦を食え 』どころではないのである。麦の方が却って高い。昔は安かったのかな?

 第 1619   趣味の読書    2025.07.24(木)

 『 ご趣味は?』と問われて、『 読書です 』と答えるのは、何処となく高尚な趣味の持ち主で、人格も良さそうな印象を相手の方に与えるのではないか。一口に本と言っても、ジャンル、内容は多岐に渡る。児童書からことに拠ったらエロ本まで様々であろう。趣味を問われた時に、読書が趣味と言っておけば、趣味が『 競輪・競馬・麻雀・パチンコ 』よりは、相手の方に無難な印象を与えるのではないでしょうか。
 本を読むということは、読まなければ死んでしまうと言う性質のものではない。読んだ方が良いのかもしれないが、読まなくたって別に困るということもない。
 現に世の中には一年に一冊も本を読まないという人はゴマンと居る。読まないからと言って、生活に支障をきたすなんて話も聞いたことがない。『 本を読め、読め 』と、本を読むことの効用を説くのは、本が売れれば幾ばくか収入の足しになる、著作者、出版社、書籍の取次業者、書店などの利害関係者の回し者だと疑った方が良い。(戯言です)
 若い人が本を読んで知識を得ることにより、学業や仕事に有効だったり、人間形成に役に立つという効果はきっとある。若い人は寸暇を惜しんでたくさん本を読むべきである。
 老い先短い、老人である僕が今更、本を読む必然性はない。本を読むことによって得た知識などを生かす場所がないのだ。併せて、読んだ内容など明日になったら、好むと好まざるとに関わらず、脳内から自動消滅、忘れてしまうからだ。老人にとって本を読むことは、お迎えが来るまでの単なる『 暇つぶし 』に過ぎない。
 老人でも本を購入して読む場合には、幾ばくかの社会貢献、経済効果を期待できる。金も出さずに図書館で借りて読もうなんて思っている老人は困りものなのである。老人は時間的余裕を十二分に持っている。借りて来て読もうとする場合は貸出限度一杯まで借りて来る。いざ、若い人が借りようと思って検索機で調べても、無常にも『 貸出し中 』の表示が出てしまうのである。 図書館では中々借りたい本には巡り合えないのである。
 たとえ、老人には本を読む必然性はなくとも、僕は本を読む。『 そこに本があるからだ 』ではなく、他にやることがないからかなぁ。

 第 1618   ウソ       2025.07.23(水)

 フェイクニュ一ス、特殊詐欺など、昨今はウソや騙しの世の中になっている。貧乏な老人が住む我が家にも変な電話がかかって来る。固定電話は普段、留守番設定にしているのですが、伝言機能に『 電話料金の未払いがあって、払って頂けないと電話が使えなくなります 』と真面目腐って伝言を入れてくる。そんなことウソだと分かっているから、聞いているこちらは余裕があり騙されない。笑って聞いているが相手の男は騙そうと真剣なのであろう。
 敵は騙しのプロなのだから、あの手この手と日々研究しているのである。こうなると、私は騙されてしまう人々に好感を持ってしまう。老後の資金のすべてを取られてしまったというのは、本当に悲し過ぎる。騙されて被害を被った方は、きっと腹立たしく思っておられると察しますが、騙されて取られた金額がそれほどでもない場合には、『 勉強になりました 』と言った心の余裕を持ちたいものです。その勉強も予め授業料が設定されているなら良いのだが、残念なことに適正標準価格が表示されない性質を持っている。
 フェイクニュ一スや特殊詐欺以外にはウソはないかと言えば、そんなことは全くない。世の中ウソだらけである。
 例えば、お芝居はウソの積み重ねである。ウソの山で出来ている。この場合には『 虚構 』と言う体裁の良い言葉を使っている。人々はわざわざ電車賃を使ってウソの山を見に行き、泣き笑っている。
 テレビのBS265は『 よしもとの番組 』を放送している。ジジイは『 よしもと新喜劇 』の放送を時々見ている。あんなもん、初めからバカバカしい、くだらないと分かっている。どうしたわけか、バカバカしいと分かっていても見てしまう。テレビだけでなく、実際に劇場まで見に行く方もいる。20年以上前だが、ジジイも難波グランド花月と言う劇場で、もちろん入場料を払って見たことがある。
 小説、アニメ、映画、その他では『 虚構 』と言っていますが、内容は皆ウソばかりで、ウソを承知で作成し、見たり、読んだり、鑑賞しているのです。ウソだと分かっていて、ウソの世界を見ているのだから安心して見ていられる。
 『 金もいらなきゃ、女もいらぬ、わたしゃ、も少し背が欲しい 』と言ったボ一イズものの演芸があったけど、最近見なくなった。私たちの周りにも、時には変な方が現れる。金は要らぬ、めい誉もいらぬ、自分はもっぱら無私、無欲、滅私奉公など大それた言葉を発することのできる人間が現れる。そんな人間は何だか信用できそうにない。これに反して金は好きで、女は大好き、めい誉心も強くて、オッチョコチョイで自分の利益となることなら何でもする(犯罪はのぞく)ような人は、僕としてはずっと付き合い易い。正直言ったら僕だってそうだ。ことに拠らずとも、表面は善人ぶって、中身は偽善者なのです。
 もう、大変な威力を発揮していることは皆さん御存じですが、SNSだって選挙の際に絶大なる威力を発揮している。僕自身も気を配って見たり読んだりしている。
 新聞やテレビ・ラジオのニュ一スですら、真実を伝えていない。会社の方針に沿って、都合の悪いことは言わない、書かないのである。
 新聞でも初め大々的に誤った記事を出しておいて、読者に誤った情報をうえ付けておきなが、後で『 間違えました 』と書いた訂正謝罪記事の何と小さいこと。訂正記事は初めの何ばいも大々的に流さないと、読者に定着した誤った認識は払拭出来ない。
 そんな世の中で、私たちは何処までが本当で、どこからがウソなのかを見極める目を育てなければならないのです。世の中何を信頼してよいか分からない。僕たち高齢者の全員が『 騙され予備軍 』なのであります。気を付けようね。

 第 1617   ラーメン       2025.07.21(月)

 『 昼は何食べる? 』と言われる。カミさんは冷やし中華のモトが一人分、冷蔵庫内に残っているから、それを食べると言っている。そう言えば、カップ麺は食べているけど、専門店のラ一メンも、鍋で調理するインスタントラ一メンも、どちらもここしばらく食べていないことに気が付いた。食べていないと知ると無性に食べたくなるのが我儘なところである。
 階段横にある箱内の在庫状況を調べたら、カップ麺は各種あるが、調理するインスタントラ一メンは一つも在庫がない。今日は気温が35℃にもなる猛暑の予測だが、暑い時こそ熱いものを食べたくなる。一度食べたいと思うと、何とかして食べたいのだ。我が家の斜め前はドラッグストアなのです。ちょっと買い物袋と財布をもって出れば、すぐに入手出來るのです。
 『 サッポロ一番 塩とんこつ 』と『 明星 チャルメラしょうゆ味 』とモヤシを買ってきた。2種類買って来て、『 さてさて、さては南京玉すだれ どちらにするか? 』 どちらも捨てがたい。沈思黙考の末、『 塩とんこつ 』を食することにした。チャルメラは次回のお楽しみとする。
 インスタントラ一メンなのだが、昔は確か『 即席ラ一メン 』と言っていた。最近そのなまえをすっかり聞かなくなってしまった。ジジイの『 化石化 』を象徴する言葉なのか?
 ラ一メンの袋に500mlの水を沸騰させなど書いてある。60年以上前に即席ラーメンなど、毎日のように作ったのである。その頃の勘で水の量など『いい加減』。
 水が沸騰するまでの時間を使って、豚バラ肉を切り、長ネギも刻んでおく。モヤシも洗って笊に入れ水切りをしておく。
 水が沸騰すれば、まず豚バラを投入して湯の中でバラバラにほぐす。先日、キッチンタイマ一を買ったものだから、タイマ一の顔を立て、使ってみる事にする。3分にセットして麺を入れる。しばらくするとアクが出てくる。このアクを退治することが、正義の味方の役目であるのだ。
 キッチンタイマ一が示す残り時間20秒を示すところで長ネギを投入、残り10秒のところでモヤシを入れたのである。モヤシなどシャキシャキ感がある方が良い。
 タイマ一の指示で火を止め、袋入りの味付け粉末を入れてかき混ぜ、直ちにドンブリに移し替える。もう一つ添付されているゴマをパラパラとまき散らせば出来上がりなのである。
 我が高校生の時に食べたモノより格段美味しくなったように感じる。本当のところを言えば、60年も前に食べた即席ラ一メンの味などとうの昔に忘れてしまっている。格段に美味しくなったと言うのは、即席ラ一メンのメ一カ一殿に対するお世辞、社交辞令の類である。食後、ドンブリや鍋などを自分で洗って片付けるのは、60年前と何の変りもない。

 第 1616   他人との比較       2025.07.11(金)

 小学校のクラス会は例年6月の第3土曜日に開催される。今年は幹事さんのご都合で7/5となった。小学校のクラス会に出席してきました。児童数が少ない過疎地並みでもないのに、恐らく全く珍しいと言うか、小学校の怠慢なのか、このクラスは6年間クラス替えが一度もなかった。親御さんの仕事の都合などで、もちろん転入転出は有りましたが、6年間ずっと同じクラスの方々もたくさんいらっしゃる。
 早生まれの方は来年ですが、クラス仲間は今年、数え年で祝う『 喜寿 』なのであります。コロナ蔓延の時期に、クラス会は中止となりましたが、毎年開催されてきました。いつも同じ幹事さんのお世話になって、幹事さん以外の出席者は誠に気楽なクラス会なのであります。
 私たちは団塊の世代で、1クラス50人以上おりました。クラス会出席者もこの頃はほぼ決まってしまい、15人前後でしょうか。出席率で3割くらい。皆さん、小学生時代を懐かしんでいるのはもちろんですが、何故、毎年同じような顔ぶれのクラス会に出席なさるのですかね?
 『 人生訓 』や『 生き方 』など書かれたハウツ一本を読みますと、必ずどの本にも一番先に、書かれている事柄が『 自分を他人と比較してはいけない 』『 自分は自分 』と言うことだと思います。
 クラス会って、まあ、難しい面を多く含んでいます。現役世代のクラス会ならどの会社に勤めていて、役職は、年収はどんなものか何てことなのでしょうが、クラス会でそう言った話が出るのは良くない。もし出たら、止めた方が良い。人生では勝ち組、負け組の方がどうしても出てしまう。自分が負け組だと思っている方は、居た堪れなくなって次回からは出席されなくなってしまう。
 『 他人と比較してはいけない 』と言っても話の端端にどうしても関連したことが出てしまう。
 私たちは今、ほぼ全員がリタイアして、(一人だけまだ仕事なさっている方が居ました)年金生活を送っていらっしゃる。(配当で暮らしが楽な人が居るかどうか知らん)比較しないことは非常に難しい。どうしても、友人の様子を観察してしまうことになる。
*ボケの兆候が現れていないか
*頭髪量の比較
*シミ、シワなど老化に関わる外観品質
*話題の豊富さ
*日頃行っている、散歩、体操、運動などの状況
*日々の過ごし方、趣味など
*会話に対する反応速度、的確さ
*居住地域でのボランティア活動
*趣味のサ一クル活動、カルチャ一センタ一参加など
*にじみ出る生活の程度
 その他、人それぞれ観測する比較の対象は違うと思います。
 自分を他人と比較してはいけないと分かっては居ますが、そこは『 建前と本音 』で、それぞれあまり口に出すことなく、暗黙裡に自己と比較して、安堵したり、『 勝った、負けた 』と思っているのであります。
 会話の中で、頭の回転が素晴らしく、実に素早く、的確に反応される女性が居りました。この方は決して認知症などに成らないなと、羨ましく思った次第です。
 爺が一番関心のあったのが、やはり認知症の兆候がないかの観測。今回出席された方にはまったく見受けられませんでした。もう喜寿ですから、居てもおかしくない。出席されていないクラス仲間にはあるいはいらっしゃるかも知れないし、あるいはもっと悪い事態になっているかもしれない。
 いつも書いているから分かっていらっしゃると思いますが、僕もほぼ毎日、『 体操 』『 漢字書き取り 』『 算数ドリル 』をやっている。算数ドリルではほとんど感じないが、漢字書き取りではしばしば自らの愚かさ、ボケさ加減を感じる。何度繰り返してやっても忘れてしまうし、覚えられないのだ。
 例えば『 慢 』と『 漫 』の使い分けが正しく出来ますか?
『 慢 』は 慢性、自慢、我慢、怠慢、高慢、緩慢 etc.
『 漫 』は 漫才、漫画、漫歩、漫然、漫遊、漫談、冗漫、散漫 etc.
『 堕 』と『 惰 』の使い分け
『 堕 』は堕胎、堕落 etc.
『 惰 』は惰眠、惰性、惰力、怠惰 etc.
 等々、同じような形の文字でも、使い分けの違う組み合わせなど、それはもうたくさんあるのです。爺は2種の書き取りのテキストを使っていますが、1周するのに3~4カ月掛かる。もう10周くらいやっているのに、頭の中の記憶装置に一向に定着する気配がないだけでなく、今迄書けていた熟語すら今回は新たに忘れて書けなくなってしまう場合が多発する。いっそのことハングル文字のようにしてしまえば楽なのにとも思いますが、漢字には『 尊重しなければ成らぬ漢字の文化 』がある。
 こんなことHPに書いて、ボケの下り坂に踏ん張りを掛けているのは、もうバレているのですが、クラス会にては面と向かっては何もやっていない風を装っている。
 人生を送るにあたって、他人と比較してはいけないと頭では分かっているのに、実際問題では皆、無意識に比較しているのだなぁ。

 第 1615   7月になりました     2025.07.03(木)

 7月となりました。早いもので2025年も、もう半分過ぎてしまった。毎年、年始に『 今年こそは100冊の本を読もう 』と目標を立てます。2022年まではほぼ毎年目標をクリア出来ていました。2023年、2024年は目標まで達しなかった。今年こそはと頑張っている。
 実は2022年までは勤めていたのです。片道1時間半の通勤時間が、規則的な読書時間確保となっていたのです。2023年以降は毎日が日曜日で自由になる時間がたくさんある筈なのに、いつでも読めると思うと、それが却って災いする。
 年間100冊の本を読むと言うことは、簡単に喩えて言うと、『 一週間に必ず2冊ずつ本を読む 』と言う事なのです。特に長い小説や厚い本などを除けば、新書版や文庫本など、1週間に2冊の本を読むのは割り合い簡単です。でもね、1年は52週ですから、52週連続して、必ず毎週2冊ずつと言うのはかなりキツイ。
 1週サボって1冊しか読めなかった。次の週、または別の週にふ足分をカバ一すれば、もちろんOKです。とは言え、度重なるともう大変。目標達成できなくなってしまう原因となる。毎週の積み重ねがとても大切です。
 一応どんな本を読んでも良いと自分では思っていますが、自分の好みで自然と、バイオレンス物、H系、漫画、推理小説、SF、時代劇風のモノなどは読まなくなってしまった。(これは、爺の好み、尺度ですからお気になさらないで下さい) 爺が読むのは新書系の本が多く、途中に小説を取り混ぜれば、読んでいない本などもう気ちがいになるほど、たくさんある。
 爺は76歳なのであります。老い先短くて読む本も選び、内容の薄い本を読んでいる暇などないのです。パソコンで『 一生の内に読んでおきたい100冊の本 』などと言うようなキ一ワ一ドで検索すれば、読んでおくべきような本の題めいなどのリストを直ぐに手に入れることが出来ます。
 年間100冊の本などと言わず、1冊の本をじっくり時間掛けて読むと言うのも一つの読書法であります。爺の場合はもう『 認知症真っ最中 』なのである。本を読んでも、それこそ3歩あるけば、内容を忘れてしまうのである。爺の脳内の『 知識の濃度 』をある程度の水準で維持するには、籠の中のリス(?)が車を走り続けるように、絶えず本を読んでいなければ成らないのです。
 作家、著述家の方々が骨身を削って書き上げた本から、知識を得たり、感動させて頂くのです、出来れば本を購入して読むべきものである。ただね、本音を言えば、本を読んだ後、毎年毎年100冊前後の蔵書が増えることは、ウサギ小屋に住む住民にとっては大変困る事態なのであります。本を読み終わったら、古書店に持ち込んで売却すればよいのですが、実際に売ってみると、購入価格に比べてため息の出るくらいの価格でしかお引き取り願えない。
 爺とて自分で必要と思う本は年間でも10冊程度は買っています。
 その他の本は2週間に一度、市立図書館に行って借りて来て読んでいます。爺の行く図書館は川崎市内では一番大きい。図書館にはどのくらいの数の蔵書があるのか知りませんが、図書館と言えど、中々希望する本には簡単に巡り合えません。
 予め、借りたい本を10冊くらいメモしていきます。図書館では本棚に向かう前に、先ずは検索機で『 この図書館に蔵書しているのか 』『 貸し出し中か 』『 どの棚に置いてあるか 』を調べてから本棚に向かいます。人気のある本は何方も読みたいと思っているのです。10冊メモして行って、巡り合えるのは2~3冊程度ですかねぇ。
 読んだ本は記録してあり、6月末時点で、54冊読んだ。年の半分の時点で、ちょっと貯金が出来ている。この先も頑張る積りです

 第 1614   上腕三頭筋        2025.06.26(木)

 えらく久しぶりに作文練習帳に文を書くような気がします。自己顕示欲旺盛、目立ちたがり屋のバカジジイも、しばらく書き込みをしていないと、やはり何となく寂しくて、また書き込みをしようと言う気になるものです。
 今日はまた、変わった題目である。もちろん僕も体育の専門家ではないので、あるいは考え違いが有るかも知れない。予め言っておきますが、間違っている場合はご容赦願いたい。漫画風に筋肉の絵を描いて両側の細くくびれた部分が骨に繋がっていて、関節を曲げたり、伸ばしたりする。筋肉の両脇の部分を頭筋と言う。
 腕を曲げて腕力を鼓舞する如く力コブを作る。上腕の前面側の筋肉を『 上腕二頭筋 』と呼ぶ。筋肉の端部側が2つに分かれているので、『 二頭筋 』と言う。上腕三頭筋は腕の後ろ側にある大きな筋肉で、筋肉の端部側が3つに分かれて骨と繋がっているので、『 上腕三頭筋 』と言うのである。力自慢の腕が太い方がいらっしゃるが、その方は大抵、上腕三頭筋が太いのである。
 爺は着衣の状態の外眼は『痩せて』見えるようである。ご存じと思うが、『 BMI 』と言う指標がある。『 体重を身長の2乗で割ったもの 』である。BMIの指標で概ね『22』が標準的な値である。BMIによるおさむ爺の標準的な体重は57kgほどなのだが、爺の現在の体重は66~67kgくらいでおよそ10kgオ一バ一なのである。BMIで言えば『24』に届くかどうかと言うところ。ちなみに『25~』は肥満と言われる領域になる。
 爺の10kgオ一バ一について、体じゅうに満遍なく肉や筋肉が付いているのならこれはまだ許せる。そうでないから困っている。お腹周辺と、腰の背面側の両脇に『 脂肪 』が集中している。
 この歳になれば、海やプ一ルに行って裸体を晒すこともないが、おさむの美意識が許さない。『 お腹の脂肪を取る 』をキ一ワ一ドにあちこち検索すると、お腹を凹ます体操情報が得られる。運動項目をリストアップし、日々実施したか記入する表を作成した。外出などの行事がなければ、ほぼ毎日30分~1時間の運動を自らに課して、日毎チェックの数が増えることを楽しみに、自己満足していたのである。
 仕事をリタイアした後は、8000歩/日 歩くなど、自らに厳しく課題を課して行かないと、老人の体力は落ちるばかりである。と言いながら、おさむ爺はほとんど歩いていない。
『 お腹の脂肪を取る 』をスロ一ガンに、歩くことより、『 自重筋トレ 』を励むことを選択したのである。筋肉モリモリのボディビルダ一のような体に成ろうなんて願望は全くない。持っている器具も、自家製 鉄アレ一1個、自転車のチュ一ブ1本のみ。後は椅子くらいなもの。もっぱら自分の体重を使った『 自重筋トレ 』である。
 普通、何も運動をしていなければ、先ほど言っていた上腕の後ろ側の『お肉』はタプタプである。体操をしているとあちこちの筋肉が鍛えられてくる。
 もう、10年ほど前からですが、体中のあちこちの皮下に塊が出来るようになりました。形成外科に行って診断を受けたら、『 脂肪腫 』だろう、恐らく良性だろうと思うが、取り出して病理検査を行わないと判断できないと言われた。6/19に大学病院で上腕後ろ側から検査のために腫瘊(食指の第一関節ほどの脂肪の塊)を取り出してもらいました。脂肪診断だから、『 しぼう診断 』など使い古されたギャグは言いません)昔話の『こぶとり爺さん』も多分顔に出来た脂肪腫ではないかと想います。
 『 抜糸までは激しい運動するな 』と言われ、家でもずっと大人しくして、運動もしていませんでした。昨夜(6/25)、風呂上りに患部に薬を付けようとしたところ、たったの1週間ほどで、おさむ爺の上腕三頭筋はすっかり衰えて、腕の後ろ側がタプンタプンに成っているではありませんか。本当にガクッと来ました。
 私の住む横丁の一番奥に私より年配の爺さんが住んでいます。(した。かな)仕事を辞めてから毎日歩いていました。『 最近、見かけないな 』と思っていたら、入院なさっているとの由。『 老人は1週間寝たきりに成ってしまうと、もう歩けなくなってしまう 』と言います。あんなに毎日歩いていた方でも、もう足が衰えて寝たきりに成ってしまうんだなと思った次第です。
 抜糸後は運動を必ず再開して、きっと元のように戻そうと思って居ります。

 第 1613   天気予報        2025.05.24(土)

 まだ5月だと言うのに、気温が30℃を超える地域が現れた。ただ、昨年、一昨年ほどの暑さにはならないのだとの予報です。何故そんなことが分かるのかと言えば、海水温が昨年ほど高くなっていないとのことです。太平洋の海水温で夏の暑さを予測できるなんて、私にとっては大変興味深いことです。海水温が昨年ほど高くないなら、強烈な台風発生の頻度も少ないのかしら。
 天気予報もここ十年ほどでかなり精度が上がりました。古い話ですが、60年も前の、1964年の東京オリンピックの開会式当日の好天を、前日に予想出来なかった。もっと古くて、1959年、5000人以上死者、行方ふ明者の被害をもたらした超猛烈台風の伊勢湾台風の来襲情報を、本州に近付く少し前の時まで分からなかった。台風被害に対する準備をすることが出来ずに、多数の死傷者を出してしまった。
 スマートフォンのアプリで『 雨雲レーダー 』を調べると、『 15分後に雨が降り出します 』とか、『 今降っている雨はあと30分後に上がります 』などの情報を教えてくれます。今居る場所やこれから出掛ける外出先でのお天気情報がピンポイントで入手できる時代になったのです。
 テレビ、ラジオでは未だに『 神奈川県ではところにより、雨が降るところがあるでしょう 』なんて天気予報を流しています。実際に丁度、雨に降られれば、『 自分が居たところが、丁度ところに拠って、雨に降られたのか 』、あるいは雨に遭遇しなければ、『 自分が居た場所はところに拠らなかったのだ 』なんて、何とも呑気な情けないような事になります。自分ではスマホのアプリ、『 雨雲レーダー 』による情報はかなり信頼できると思っています。
 私たちが子供の頃、遠足や運動会の天気は、空を仰いで祈るしかありませんでした。“てるてる坊主”を軒先に吊るしたものですが、最近のお子さんはこんなおまじないのような習慣・儀式はやらないのでしょうか? 軒下に吊るしてある“てるてる坊主”を見ることも無くなってしまった。
 おまじないのてるてる坊主を軒下に吊るし、そのご利益で晴れた時の嬉しさっていったらないです。僕の小学生の頃には下駄を履いている子供は居なかったけれど、『 あ~した、天気になあれ~ 』とズック靴を飛ばしていたものです。その時代の方がずっとゆったりとして豊かだったような気がします。
 ただね、その頃はまだ子供で生活苦も感じていなかったから、『 豊か 』なんて書いているのかも知れません。まだ、太平洋戦争が終わってから、10~20年くらいの時期ですから、皆まだまだどの家庭も貧しかった時代の事です。

 丁度良い具合に今、“『その日暮らし』の人類学 ” 小川さやか著、光文社新書と言う本を読んでいる。まだ 1/4 ほどしか読んでいませんが、現代に生きる人々にとって、『 生き方について 』かなり考えさせられる指摘です。読後に書いてみたいと思います。

 第 1612   柳の下のドジョウ    2025.05.18(日)

 身の回りで次のような会話が平然とされていることに気が付くものです。
 『 この間、○○のお店で□□を食べたけど、とても美味しかった。改めて感じたけれど 、○○のお店の□□を食べたら、もう他のお店で□□を食べる気にはならないわ 』とAさんが言った。Aさんに限らず、こう言った会話は私たちの身近で何処にでも転がっているものです。
 随分、恥知らずの大雑把な方だと思います。『 蓼食う虫も好き好き 』で、『食』に関わる好みは人それぞれなのであるだけでなく、たとえAさんでも、その日の体調、気温、湿度、風向きなどなど、またそのお店にたまたま、子連れのお客さんが居て、小さな子供が店内を駆けずり廻って、ふ快な思いをしながら食べたのでは、同じ品目の□□の筈の味の感じ方は全く変わってしまうのです。
 数回食べただけで、この界隈の店では○○のお店の□□が最良だと決め付けたり、『 ○○のお店の□□はとても美味しい 』と結論付ける厚顔さには呆れてしまう。言われたBさんも少なからず影響を受け、自分も○○のお店の□□を食べたことがなければ、一度は食べてみない事には会話から取り残されるのではと思うのであった。個人の嗜好を決まったことのように結論付けるのは大変な迷惑なのであります。そんなお店に行ったことは有りませんが『 星☆の数が何たら 』と云う評価も余計なお世話だなとヤッカミ半分で想います。
 明治時代の文豪に夏目漱石と言う方がいらっしゃった。官費で留学された大変優秀な方ですが、留学先で世間の評価や評判とか、友人知人がハマってしまう事に影響され、異国の地で精神的に病んでしまった。
 後に漱石流の『 自分本位 』と言う考えを基準として、周囲の考えを気にせず、自分の考えを大切にするという考えを表している。
 戦争以前の日本では、『 親兄弟、家族のため、村や国のために 』との教育がなされて、多くの方々が亡くなりました。戦後育ちの僕たちは、自分の人生は自分で決めると言う考え方が尊重されて来たのであります。
 『 柳の下にドジョウはいない 』と言うことわざがあります。一度、 柳の下にドジョウがいたのを見た人は、『 柳の下にはドジョウが居るものだ 』と一回の経験から勝手に思ってしまって、その考えが広まってしまったのかも知れない。たまたま柳に木の下にドジョウが居たのを見て、一つの視覚情報を得ただけなのに、勝手に一般化して法則にしてしまう方がいるからこそ、『 いつもドジョウが居る訳ではない 』と否定することわざを作らなければ成らなくなってしまうのです。
 次の話もよく有りそうなことです。風邪を引いた時に、『 この薬を飲んだらすぐに治った 』と言う経験から、『 この薬はよく効く 』と勝手に一般化して“風邪引きさん”に喧伝し、暗に従わせようとするのである。
 その人にとって風邪が治ったのは、栄養あるものを食べて早く寝たからか、もう既に風邪が完治する時期に達していたので治ったのか、本当に薬の効果で治ったのか、実際のところは分からないのであります。
 自分の限られた範囲での経験則や判断をすぐにル一ル化して、他の人にも適用化させたがる方が世の中には何と多いことか。その多くは善意の基に無意識に行われているのだろうがところが始末が悪い。そのほとんどが『 余計なお世話 』であることをよく考えた方が良いと信じている。

 第 1611   音読          2025.05.09(金)

 元々自分は口が達者に動く方ではない、活舌も悪いと思っている。それでも在職中は工業団地の工場見学の案内人やら、プレゼンテ一ションの仕事もあって、人前で話すことも多かった。仕事を辞めてから3年経って、元々口数の少ないところ、益々喋る機会が減ってしまった。
 別に何の理由が有る訳でもないが、妻との会話も必要以外には喋らなくなってしまった気がする。来年の5月末には丸50年にも成るので、取り立てて話すことも無くなってしまったのである。
 もう大分前から、何か喋ろうとすると、咄嗟に言葉が出ないようになっている自分に気が付いていた。自分は吃音ではない。もう亡くなってしまったが、落語家の三代目三遊亭圓歌(かつての歌奴)さんは、子供の頃、吃音であったというが、地道な弛まぬ訓練の結果、噺を商売とする職業にも成ったのである。
 逆に人間の生来持つ機能でも、使わなければ、段々と衰えてしまう。それどころか、早晩認知症に成ってしまう可能性大なのだ。
 僕も言語能力の衰えを自覚して、日常、落語の『 じゅげむ 』や『 厄払い 』の口上を大きな声を出して唱えるように心掛けてもいた。
 自治体の広報誌やカルチャ一スク一ルのチラシなどから、手軽に出来そうな『 朗読 』のサ一クルや講座などがないかも探していた。
 時間の拘束なども関係なく、声を出して本を音読すれば良いのだと思って、昨日(5/8)より、短い小説を選んで音読を始めてみた。丁度手頃なサイズの本が有った。志賀直哉の本があって、手始めに昨日は『 小僧の神様 』、そして今日、『 清兵衛と瓢箪 』を大きな声を出して音読してみた。
 ラジオなどで時々朗読の番組があります。もちろんあんなに上手に出来ません。初めから上手く出来るはずもない。何十回も練習して始めて成せる技なのでありましょう。
ちなみに、選んだ作品は旧仮な遣いで、漢字も旧の漢字を用いていて、何と読むのか分からない漢字が頻出、ジジイでも容易に読めない。漢字は漢和辞典を引き引き読み進めている。調べた結果、ルビを付けた。
 せいぜい、20~30分で読み終わることの出来る短い小説を何篇か選んで、それらをとっかえひっかえ選んで、毎日繰り返して音読すれば、認知症の発症を少しでも遅らせる事が出来るに違いないと信じることにしよう。

 第 1610   まだまだだなぁ     2025.04.25(金)

 今、『 中学生までに読んでおきたい日本文学⑤ 家族の物語 』という本を読んでいます。全10巻ある内の5巻目です。この本は図書館で借りたのですが、図書館の中でも子供向けの本が置いてあるエリアにあったのです。
 初め『 中学生までに読んでおきたい 』とあるので、ちょっと甘く見ておりました。私、自分ではごく普通の方よりは本をたくさん読んでいる方だなとの自負があったのです。その鼻柱はペキンと折られてしまいました。5巻目には13人の古今の有めいな作家のおなまえと作品が連ねてある短編集です。中学生までに読んでおきたい筈の目次の作品の題めいを見てどれ一つ読んだ事がないのです。
 読み進めると、下の欄外に事細かく注釈が書いてあります。私はジジイですから75年の生活体験があり、今の中学生はこんなことまで注釈に書かないと理解出来ないのかと思うのですが、これは現実なのでしょう。
 実を言って、ジジイは昔の貧しかった時代の様子を読んで、涙して読み進めております。ジジイの読書量もまだまだだなぁ、もう歳で命の方は先がないのに、読書は先が長い。

 第 1609   足掛け        2025.03.30(日)

 足掛けと言ってもここでは、相撲やレスリングなどの格闘技の技ではありません。例えば、『 足掛け3年 』などと表すときに用いる『 足掛け 』であります。国語辞典によれば、『 期間を数える時に、1年・1月・1日に満たない最初と最後の端数も一つとして数える方法。例えば3/3から4/2までは足掛け二月(ふたつき)で、丸一月(ひとつき) 』なのであります。
 この数え方は『数え年』の数え方と同じです。数え年では、産まれた時が1歳、その子の誕生日に関わらず、すべての人が一斉に次の正月を迎える毎に歳を重ねていく数え方です。極端なことを言えば、12/31に産まれた方は、産まれた時点で1歳、翌日の元旦には2歳に成ってしまう。
 今は七五三とか、古希、喜寿、米寿などの寿年にしか使われていません。数え年に関する知識のない方は、満年齢でされている方も多いです。まあ、そんなことには目くじら立てて主張すべきことではなく、人それぞれのお考えでやれば良いことです。
 カミさんが旅行会社のパンフレットを見て、『 今年、50年なのだから 』と言って何処かに行こうと考えているようです。確かに今年の5月末で、我が夫婦も結婚して満49年になります。満50年には1年ふ足です。正確に言えば『 足掛け50年 』なのであります。金婚式なのでありましょうが、足掛けでも何処かに旅行に行こうと言うのは賛成であります。
 とにもかくにも、50年と言うのは長い年月です。どちらがと言えば差し障りがあるでしょうが、お互いに耐え忍んで来たからこそ持ち堪えることが出来たと言うところなのでしょう。お陰様で、子供も3人授かることが出来、夫婦としての使命も果たせたのではと思っております。
 日本でも少子高齢化が叫ばれて久しい。人口は経済成長の原動力であります。これから日本は一体どうなってしまうのでしょうか?
 話題は少子化と言うことになりますと、地球の人口は年々少しずつ増えております。日本より状況が酷い韓国は一体どうなってしまうのでしょうかね。韓国の人口はおよそ5000万人くらいです。一人の女性が生む子供の数『 合計特殊出生率 (2024年版)』で0.9です。よほどテコ入れでもしないと、韓国は衰退・消滅してしまう。 隣国の中国も人口が減少化して、『 高齢化社会 』になっています。かつての 『 一人っ子政策 』という人口抑制政策のツケが出ているのです。働き手がふ足して来ています。
 中国の政治家たちは日本に『 歴史問題を忘れるな 』とたびたび言い続けています。自分たちこそ、歴史を学んだ方が良い。中国は領土を広げようとしている。東シナ海や南シナ海で自らの領土を拡大する方向に進んでいます。
 併せて発展途上国に融資をして、中国からの借金で途上国は借金まみれです。今はあまりうまく行っていないようですが、あの 『一帯一路』もそうです。借金してまで港や建物を作ろうなんて考える途上国のトップも悪いのですが、金を貸した中国も途上国を借金漬けにして、金を返せなくなった港の使用権を得るなど手を広げて来た。
 歴史に学べと言うのは、モンゴル帝国や、オスマントルコも破竹の勢いで領土を広げました。領土を広げれば広げるほど、それを維持するための軍事力が必要となる。軍事力を増強するには、国民から税金を多く徴収しなければ成らなくなって、国民は重税に耐えられなくなって疲弊してしまう。
 中国はもう既に成長に暗雲が漂い始めていると言われる、少子高齢化の中国が、いずれ衰退が加速度的に進むに違いないと思っています。
 トランプ大統領も色々な政策を発表して自国民はもとより、周辺各国を驚かせていますが、同じようにグリ一ンランドやガザの領有について案を述べています。自分の所の間口を広げることには金が掛かるのですから。
 例によって、足掛けから脱線してしまいましたが、一つの夫婦も『身の丈を考え』、一歩ずつ生活を考えて行かなければいけないことは変わりません。このブログでは政治のことは書かないつもりでしたが、つい余計なことを書いてしまったようです。

 第 1608   アメリカ        2025.03.17(月)

 僕が育った家に白黒テレビが来たのは、小学校3年生(1958)くらいの時だったか。チャンネルを変えるのも、今のリモコンボタン式と違って、回転させる方式で良く故障した。何しろ16インチくらいの白黒テレビで、どういう訳だか部屋を暗くしてテレビの前で正座して見ていたことを思い出す。
 当時はテレビ局もまだ充実していなくて、アメリカからドラマなどの番組その物を購入して、音声を吹き変えて放映していた。広い芝生の庭があって、明るい雰囲気のパパとママが居て、子供たちは3人くらい。ママが大きなオーブンを使ってアップルパイを焼いていた。アメリカと言えば『 ママの焼いたアップルパイ 』がアメリカの中流家庭の象徴だったように思えます。
 小学生だったから、アメリカってこんなに豊かで素晴らしい国なんだと、子供たちは皆、印象付けられたと思う。小学3年でも先の戦争で日本を打ち負かせた相手だと知っていた。こんなに力のある国と戦争しても勝てるわけないと感じていた。

 僕も老い先短いものだから、なるべく有意義と思われる本を読みたい。ネットで『 社会人が読んでおきたい100冊の本 』と言う言葉で検索して、読む本を選んでいる。得られたリストを持って図書館に行くようにしている。図書館で蔵書の検索をしても、所蔵していなかったり、”貸し出し中”であったりと、検索した本に直ぐにあり付ける率は割合低い。
 そのリストにあった本で、書かれたのが2007年だったから、もう18年経過している本ですか『 貧乏大国アメリカ 』と云う岩波新書を昨夜(3/16)に読み終えた。
 白人の方もそうですが、先祖がアフリカ系の方や、ヒスパニックの方の貧困が深刻のようだ。アメリカ人と言うと太った方が多いように感じる。本の中では『 太っているのは貧困の象徴 』だと書いてある。医療費も医療保険も高くて、中々治療も受けられない。貧困から抜け出そうと軍隊に入るのもそう簡単に解決策とならない。かえって泥沼に入り込む可能性もある。効率を考えた民営化、市場主義も状況を悪くする元凶に成っている。
 本に書かれていることのが、アメリカの現状を表わしているとは思わないが、アメリカと言う国の弱さ、脆弱性の一面を知ることができたような気がする。本の紹介をしても表し切れない。時間があったら、読んでみたらと思います。

 

 第 1607   ツボ         2025.02.23(日)

 最近、僕のHPの『 日記 』『 作文練習帳 』において、写真が増えたと思います。このHPを作ろうと思った時には、文が書きたかった。インタ一ネットと言う道具を使って拙い文を発信してみたかったのです。僕にとっては、『 折鶴 』、『 ウクレレ製作記 』、『 ザリガニ 』はオマケみたいなもので、あくまでも自分の考え方を書き込む雑記帳のようなものを作りたかったのです。
 誤解して頂いては困りますが、だからと言って、『 折鶴 』、『 ウクレレ 』、『 ザリガニ 』をいい加減に作った積りは全くありません。やる以上は全力を傾けた積りです。
 日記にも作文練習帳も『 テキスト形式 』に拘ってきました。画像はとてつもない威力を発揮することは僕も分かっています。100の言葉で説明しても理解し難いことでも、1枚の写真をご覧頂くことで、分かって頂ける事は十分あると分かっております。だけど、ずっとテキストに拘って来ました。
 作文連絡帳(始めの頃は書斎)においても、1600項も駄文を書いて来て、昨今はおさむ爺もあまり書くネタが無くなって来てしまったと言うのが正直なところなのです。もう直に勤めを辞めて丸3年になります。外に出ないで家の中にばかりいて、テレビもほとんど見なければ書くネタなんかないんだよね。
 たびたび作文を書かなくなったせいで、表現力が大分落ちてしまったように自分でも思っています。それを補完する意味で写真を取り入れるようになったに違いない。初めの頃の意思と違って、最近では画像も良いかなと思っている。でもね、HPで書こうとすることに全くの関係ない花や景色は『 賑やかし 』に過ぎないと思うから載せないことにしようと思っています。

 製造業で働いていた62歳までのある時期のかなり長い間、精神科に通っていました。かなりな期間、品質管理と言えば体裁が良いですが、会社の製品のクレ一ム係を担当やっていました。自分がチョンボしたなら仕方ありません。会社内の他の誰かがミスしたことを、会社のクレ一ム係としてお客さんの所に行って謝らなければなりません。お客さんによっては、怒鳴り散らす人も居れば、『 直ぐに代替品を持って来い 』とも言われます。
 会社は受注生産の製品を製造していましたので、代替品など直ぐに持って行けないのです。お客さんと会社の製造部門の『 そんな短い期間で出来る訳がない 』との板挟みで苦しみました。なまじの精神の持ち主でなければ、長く務まる仕事ではないと思っていました。
 自分でも苦しくて、家族の生活も有るので、精神科に通うことになったのです。その際に、抗ふ安剤、抗うつ剤を処方され飲んでおりました。だらだらと長い間飲み続けると依存性がつき、急に止めると変な症状が出ると言われています。
 もう、嫌だと62歳で製造業から抜け出し、以降72歳までは製造業ではなく、比較的気楽な仕事を見付けて、抗ふ安剤、抗うつ剤からは離れることが出来ました。
 睡眠に関しては、僕は寝付きが良いのですが、製造業を離れて完全にリタイアした今でも、ほとんど毎日のように、夜中に目が覚めてしまい、夜中に1時間ほど眠れずにおりました。月に一度通っている内科医にお願いして睡眠薬を処方してもらっておりました。
 睡眠薬は『 依存性はある 』とのことです。量を少なくすれば依存の度合いも低減できるのではと、錠剤をハサミで1/4くらいに分割し、少なくして寝る前に飲んでおりました。夜中にも目覚めるのですが、飲まずに寝るとのはかなりの違いを実感します。でもこのままずっと睡眠薬に頼った生活は嫌だとずっと思っていました。
 自己暗示かも知れませんが、ネットで気持ちを安定させる方法を見付けて実施したところ、始めてから半月間ほどです。お陰様で夜中に一度も目が覚めず、目が覚めたら朝でしたと言う状態になりました。もちろん睡眠薬なしです。
 それはツボのお陰だと思っております。ツボと言っても『 統一教会のツボ 』はお金が大変かかる高価なものだそうですが、僕の言うツボは無料、タダです。ネット見ていたら、『 快眠のツボ 』、『 入眠のツボ 』、『 リンパのツボ 』など、それこそありとあらゆるツボを紹介するサイトがあります。
 人それぞれで、効用に違いがあると思います。たまたま、僕にはそのツボが合ったのだと思います。ツボではなく自己暗示かもしれません。寝る前に教えられたツボを刺激(指で押す)しただけで、夜中に目覚めることが無くなってしまった。
 今のところ、睡眠薬を飲まずに済んでいます。『 想うツボ 』ですな。私にとっては睡眠です。併せて『 血糖値を下げるツボ 』も刺激しておりますが、こちらは健康診断の際に血液検査でもしなければ、効果が分からないので、次回血液検査までのお楽しみ。

 第 1606   ハウツ一        2025.02.12(水)

 僕は、後いくらもしないうちに死ぬ。今75歳なんだけれど、ほんの50年も前だったら、もうとっくに死んでいてもおかしくない年齢なのです。医療が進んで、もう社会に役にも立たないのに、取り合えず生かされている。
 ときたま国から『 平均寿命 』と云うものが発表される。最新版はどうだか知らないけれど多分、男が81歳くらいで、女が87歳くらいだったと思う。これを見て(聞いて)、自分の年齢と照らし合わせて、『 自分はあと平均して何年生きる 』なんて言って人が居るけど、それは大きな誤りです。
 あの発表される数値は、今生まれた人、つまり“新生児”がこれから平均して何年生きるか、言い換えると『 新生児の平均余命 』を表わしています。今生きている人の平均余命ではありません。
 それでは、今生きている人の平均余命はどうなのかと言うと、厚生労働省から示されている。 『 平均余命 』のキ一ワ一ドにて、ネットで検索すれば、年齢階層別に表で見ることが出来ます。
 普通は、先ほどの新生児の平均余命から考えた余命より長いと思います。新生児が自分と同じ年齢になるまでの過程に、病気をしたり、交通事故に遭って亡くなる可能性がある筈で、新生児の平均余命を押し下げている。自分はそれらの障害を乗り越えて今の年齢になっているので、意外に自分の平均余命は長いのです。

 平均余命など書く積もりでなかったのです。何処かで脱線してしまって止まらなくなってしまった。本が好きなのだけれど、僕にはもう老い先が短い、残された時間が少ないのです。残された時間のうちでも、最期の方では本も読めないと思うのです。僕に残された、その短い時間にどうせ読むなら良い本を読みたい。でもね、自分で調べて判断するとしても、良い本かそうでないかは、読んで見なければ分からない。ただ、世の中にはお節介な(親切な)方が居て、ネットにアップされていて教えて下さっている。
 取り合えず、『 社会人が読んでおくべき本 』というキ一ワ一ドで検索してみた。相当するようなサイトが出てきたよ。早速、リストをコピ一して、図書館に行った折に、その中の一つを“図書の検索”をしてみた。図書館の蔵書の中に在って一冊借りてきたよ。
 読んでみた。残念ながら、ジジイが読む本ではなかったな。若い人が読むようなハウツ一ものだった。例えば、引っ込み思案な、臆病な、何事にも消極的な人を励ますことが書いてあった。
 言葉は違うのだけど、『 前向きに生きるためには、自分に自信を持とう 』と云うようなことが、真面目くさって書いてある。アホかいな。該当して悩んでいる人は、それが出来ないから、青年になっても交際している女(または男)友達は居ないし、みんなで集まっても黙っていたり、隅っこの方に居たり、仕事が上手くいかず悩んでいるのです。
 『 自分に自信を持とう 』と云うのは、『 羽は持っていないけど、ビルの屋上から羽ばたいて飛び出してみましょう 』と云うほど難しいことなのです。若い人を励まそうと思うには、もっと根本のことを伝えなければいけないと思うな。ハウツ一の本より、相応しい小説を読むことを薦める方が良いような気がします。『 こんな本を読んでみたら 』と本の紹介する方が良いと思うな。
 『 自分に 自信を持とう 』と云う本は途中で読むのを止めてしまった。ジジイもね、中学生や高校生の頃は引っ込み思案で、臆病で、何事にも消極的な嫌な性格だった。悩んでいる人は自分の性格の弱さを、もう十二分に承知しているのです。こんな性格のままでいると、『 これから社会に出て、やっていけない 』と気付かないといけない。それならどうしなければいけないのか、自分で悩んで乗り越えなければいけないのです。
 なまえは覚えていないけど、ストレスに関する学者さんが『 ストレスがゼロとなったら、その人間は滅びる 』と何処かの本に書いてあった。ストレスが有るからこそ生きるための抵抗力が備わる。一年中、同じ温度で何の刺激も無ければ、その人間は心身ともに脆弱となり、抵抗力が無くなり、免疫力を失うのだと。
 人間の誰もが、背が高くて、聡明で、美しくて、体が丈夫で、強い存在ではありません。産まれ付き臆病な人も入れば、体が弱い人や、泣いてばかりの人も居る。世の中には、病気や障害が無くても50、60歳になっても異性を知らない方さえ居るのです。でもね、そんな弱虫な、臆病な性格の男(女)でも、自分の弱さを意識しながら一生懸命努力しようとする姿はきっと立派だと思います。

 

 第 1605   出前迅速         2025.02.04(火)

 『 すずめ百まで踊り忘れず 』と云う言葉が有ります。子供の頃に覚えたことは、後々、大人になっても忘れないと云う意味だと思います。
 ボケ防止に漢字の書き取りの練習をやっています。『 じんそく 』と云うのは、漢字で書くと『 迅速 』なのであります。迅速と云う字に達するまで、私にとっていつも思い浮かべる言葉は、『 出前迅速 』なのです。私が『 迅速 』と云う漢字を覚えたのは『 出前迅速 』と云う看板からでした。
 子供の頃、町のラ一メン屋さんや日本蕎麦屋さんの看板や幟に、よく『 出前迅速 』と云う言葉が書いて有りました。家庭から電話で何か出前を注文しても、中々届かない。痺れを切らして、電話で催促をすると、『 今、出ました 』、『 今、やってます 』と云う回答が定番でありました。
 『 出前迅速 』と云う言葉は、『 うちの店では出前のご注文を頂いても早く配達しますよ 』と云う宣言なのです。『 出前迅速 』と云う言葉が有ることは、一般的に出前と云うのは中々早く配達されないものだという事に成ります。
 今、調理された料理をバイクや自転車で運ぶ専門の『 宅配 』と云うのが商売になっているようです。早く届くとか、スピ一ドは営業上の大きな武器となることでした。

 私も時々ネットで買い物をします。先日もネットで本を買いました。ネットの本屋さんから、○○日に発送手続きをしました。『 ゆうメ一ル 』でお届けしますとのこと。
私、ゆうメ一ルによる配達は経験したことありませんでした。発送手続きをした翌日か、その翌々日に着くのだろうと思って、留守にして受け取り出来なく、再配達をお願いするようでは申し訳ないと思って、ずっと家におりました。
 でも来ませんでした。そう云えば、郵便に関するものは『 土日配達なし 』なのでした。配達は、対面の受け渡しでなく我が家の郵便受けに入って居りましたから、対面の受け取りはふ要で良かったのでした。
 結局、受け取ったのは土日を挟んで、発送手続きの日から6日目でした。もし、黒猫ヤマトや佐川急便なら、発送手続き日の翌日か、悪くても翌々日には着きます。土日配達なしと云うのもありません。ラインで配達の連絡も暮れます。
 ゆうメ一ルは配達の状態のチェック機能がないそうです。遅いし、品物の後追いも出来ないなら、宅配便と勝負出来ないね。こんな『 殿様商売 』のようなことをやっていたのでは先が知れる。
 最近のハガキや封書も以前に比べたら配達されるまでにえらく日数が掛かるようになった。宅配便とゆうメ一ルの費用はどうなっているのか知りません。恐らく宅配便の方が高いと思いますが、『 時は金なり 』と言いますからね。
 今回、ゆうメ一ルは我が家の郵便受けに入れて頂きました。少し、大きくなって、対面で受け渡しをするようになると、再配達をするようだと申し訳ないので、受け渡しのために在宅していなければならないのも、配達予定日が分からないとちょっと困ったことになるなぁ。

 第 1604   高い山          2025.01.29(水)

 本を読むのが好きです。もう僕も75歳ですから、これからそうそうたくさんの本を読むわけには行かないと思う。終活もしなければいけない。本は買うと溜まってしまって処分に困る。なるべく本は買わずに図書館で借りるように心掛けています。そんな訳で、もうずっと長い期間、2週間に一度は図書館通いをしております。
 今はただ闇雲に読んでいるのです。僕には残された時間が少ない。読んでみてガッカリするような本は、出来れば時間の無駄だから読みたくない。『 先達はあらまほしきものなり 』と徒然草の中で兼好さんが書いているように、何を読んだら良いのか、教えてもらいたい。使える手段は活用したい。 “ 社会人が読んでおきたい100冊の本 ”と言うキ一ワ一ドを使ってパソコンで検索したら、100冊ではなかったが、80冊くらいの丁度良さそうなリストが出て来た。内容はまだ良く分からないけれど、新書版のリストのようだった。
 僕もジジイでありますから、その中で読んだことあるに違いないものが有るのではと見れば、読んだことのあるものは、80冊くらいの中のたったの2冊しかなかった。『 山は高ければ挑戦し甲斐のあるものだ 』。著者もゆうめいな方がたくさん入っている。リストを印刷して、図書館にあるものを頑張って読もうと思う。読むような本がたくさんあることは本当に嬉しいことです。
 リストの中の著者めいや本のなまえから推察すると、小説やエッセイなどの文芸書のリストではないようです。毎度、新書版だけでは正直言って飽きる。別途、文芸書のリストも探してみて、二本立てで行こうと思う。 毎年、年初に思うのですが、良い本を読みたいと言っても数値化しないと目標達成できたかどうか判断できない。
1.年間100冊読了を目標とする。月に8冊以上は読まなければ成らぬ。1月は8冊クリアできそうだ。
2.文芸書なら、純文学、中間小説までで、大衆小説に属するようなものは読まない。
3.ジャンルとしては、自分の好みの問題で バイオレンス、H系のモノ、SF、推理小説、漫画 その他は読まない。
 ジジイの目標だけど、どうなることやら。

 第 1603   水彩 埴輪展           2025.01.25(土)


昨年の秋に上野の博物館で埴輪展が開催されました。おさむ爺も11/30に見に行きました。大変な数の人が鑑賞に来ていました。本当にこんな数の方々が埴輪に興味を持たれていたのでしょうかね。あまりの人出の多さに驚いてしまった。
さて、おさむ爺はリタイアしてしまって、要するに暇なのだよ。3枚の埴輪の絵を描いてみました。水彩画。 ある日、絵を描いてみたいなと思ったのが、確か一昨年の秋だったか? 暇だったのだと思う。カミさんに子供たちが小学生の頃使っていた水彩画の道具があるかどうか聞いたら、あると言う。『 よし、じゃぁ、やってみよう 』
早速、100 円ショップに行って、画用紙と12色の水彩絵の具を買って来た。何もケチって100円ショップで資材調達した訳ではないのです。我が家近くには文具店がないのです。私が越して来た45年くらい前には確かに、個人営業と見られる文具店が何軒も存在した。経営が成り立たないらしく、一軒減り、一軒減りで、とうとう無くなってしまった。
今や、私の周辺ではノ一トやボ一ルペンは100円ショップでしか買えなくなってしまった。色々な文房具を買おうと思ったら、電車に乗って買いに行かなければならないのである。世の中変わってしまったのだ。
初期投資200円(税抜き)で水彩画を始めることになった。子供たちが使っていた、パレットや筆はもちろん活用しました。絵具もあることはあったが、30年以上前の絵具で、既に固まってしまったものも多く、まだ使えそうなものはもちろん使っています。
お絵描き教室に通って習っている訳でもなし、すべて自己流。図書館で水彩画の本は借りて来て、この状態で船出しました。とにかく、描きまくり。もうかれこれ20枚くらい書いたのではないでしょうか。
昨年、埴輪展に行ったので、私も『 水彩埴輪展 』をやってみようと3枚描いてみました。先生に習った訳でもなし、全くの素人水彩画です。普通なら、趣味で絵を描くことが有っても、自分だけの世界に留めておくのが一般でしょう。おさむ爺は75歳です。既に面の皮が充分肥厚しております。折角書いたものですから、どなたでも見て頂きたいと思うのが人情です。どうぞ、ご遠慮なく笑ってやって下さい。

 第 1602   すべては他人との比較から     2025.01.16(木)

 おおよそ自分を含め人と云うのは、始末に負えないものだと思います。自惚れるし、つけ上がるし、劣等感・優越感、ねたみ・そねみを持ちます。その他にも表現の仕方は様々ですが、状況に合わせて、その都度様々な感情を持つものです。
 もし、人が社会生活を営まず、単独で行動していたならば、このような感情を持たないものだと思います。自惚れ、つけあがり、優越感・劣等感などなど、全ては自分以外の他人が居るからこそ、心の中に湧き上がって来るものなのです。自分以外に比較する相手が居なければ、このような感情は起こらないに違いありません。一人暮らしの人が、大きな音で放屁しても面白くも、可笑しくもありません。
 全ては他人との比較です。自分を他人と比較しての自己評価と、同じことを相手の方や第三者が評価をして、自分の評価が高い方で一致していれば、心悩ますことはほとんどありません。
 自分が思っているほど、他人が評価して呉れていないのではと云う猜疑が、全ての始まりなのではないのでしょうか。人々はそれに苦しみ悩みます。
 この事を知っている修行している行者は、他人に影響されないよう、人里離れた山に籠もり修行をします。
 世俗を超越した、並外れた人なら、世俗の中に身を置いても修行は出来るはず。世俗を離れた所でしか修行が出来ないような行者はやはり凡人なのでしょう。『 よし、コレで大丈夫 』と思って、自分では悟りを開いたと思っても、山里に下りれば、やはり煩悩に苦しむに違いない。
 よく、諺にある、『 医者のふ養生 』、『 坊主のふ信心 』、『 儒者のふ身持ち 』と云うように、その道に長けた人でも自分のことには、何かと目が届かないものなのです。
 会社勤めをしていた若い頃に、自分の仕事が会社の中で一番忙しく、重要で、私が居なくなっては会社はとても困るなんて、世間知らずの自惚れた時期もありました。上司は仕事も出来ず、ボンクラだ何て思っていたことも正直言えばありました。自分の遣っている仕事に対する対価も、もっと評価されてしかるべきだ、何て感じていたことも確かです。今、当時のことを考えると、世間知らずの大バカだったと思います。
 確かにある一箇所に注目すれば、自分は他の人よりも優れた能力を持っているかもしれない。ただ、それはある一面に限られます。総合的に評価すれば、自分よりはるかに勝っている方はたくさんいらっしゃる。
 組織は欠員が出れば、それは一時期困ることがあるかもしれませんが、その方が居なくても組織は成り立ちます。斯様に一個人の力は弱く。皆が纏まった総合力は強い。若い頃は中々このことに気付かないものです。人は皆、ちょっとの切っ掛けで、天狗になったり、劣等感を持ったり、思い上がったり、落ち込んだりします。本当に人は始末の悪いものだと思います。
 人を批判する時は、概ね自分も悪いところがあるものです。

 

 第 1601   整理整頓        2025.01.13(月)

 おおよそ、私が苦手としていることは『 整理整頓 』であります。それこそ小学生の頃から、また就職してからでも、こうしてリタイアした今でも、私の生活圏の中でいつも心の片隅で意識していた標語は『 整理整頓 』でありました。もっとも、中学3年の半ばまで自分専用の机は持っていなくて、円形のちゃぶ台で勉強していましたから、その面では机の上の整理整頓は当てはまらないかも知れません。
 在職時の私の机の上はそれこそゴミの山、自宅の机の上も本や雑誌が積み重ねてあります。ワ一プロ機能である単語の変換をした時、次にその単語が出た場合に、すぐさま同じ熟語に変換されることを学習機能と言います。一度経験したら、次にはそれに対応する機能です。私には60年以上経ても、整理整頓に関する学習機能がまったく無いと言う事に成ります。
 負け惜しみに、あまりに整然としているところは、『 生活感がない 』とうそぶいております。
 どなたかに机の上や、周辺を整えられでもしたら、見たいものが何処に在るのか見付からず、かえって困ってしまいます。ゴミの山ですが、何が何処に置いてあるのかは分かっている積もりなのです。
 在職中ですが、帰宅時には机の上には電話他はほとんど何も無い状態で会社から帰られる方がいらっしゃいます。数多くの配布資料や仕事で使う書類など、どうなさっているのでありましょう。整理するのは、必要なものと、要ない書類を区別し、要ない資料と判断されたものは廃棄してしまっているに違いありません。ある時など、必要なのに誤って廃棄してしまったらしく、私の所に来てコピ一させて欲しいと依頼して来たこともチラホラ。
 20余年前、家を建て替える時に、本、雑誌、その他のガラクタ類の、私の所有物の大半を捨てました。当座使わなくても、これはきっといつか使えると思って取っておいた物、若い頃、涙して読んだ青春の思い出の本などです。感傷に浸ってまた見始めると切りがありません。心を鬼にして廃棄いたしました。おおよそ、物を整理出来ない人の根本は、『 これはきっといつか使える。取り合えず、トットコ 』なのだと思います。
 今になって、『 これは確か、持っていたな 』と思って探してみますが、結局は無いと分かって、一抹の寂しさは有るものの、無くてもナンとかなるものです。これまでに書いたことは『 整理 』ではなく、『 片付け 』と云う範疇の事でした。
 『 大人の整理 』とは集めた情報を必要な時に取り出せることじゃないか。それが『 整理 』なのです。私、23歳くらいの時、独身寮に居て、自己投資の積もりで平凡社の世界大百科事典を購入しました。その当時の価格で10万円以上したと思います。当時の私の給料2ヶ月分では買えなかった。それが役に立ったかといえばノンです。引越しの度に重たい思いをして運びました。コスパは非常に悪かった。
 今は、どうかと言えば分からない事があれば、スマホかパソコンで検索すれば大抵のことはタダで分かってしまう。地図も要らない、列車の時刻表も要らない。場合に拠っては新聞すら購読なさっていない方すら居る。
 個人的に集めた資料・情報もただ集めただけで、すぐに取り出せなくちゃ何の役にも立たないよね。身の回りの整理整頓も大切の様ですが、『 知的な整理 』もとっても難しい。

 第 1600    青山学院        2025.01.03(金)

 『 箱根駅伝では何が起こるか分からない 』と駅伝界では言われているらしい。取り敢えずは、青山学院が昨日、往路優勝し、今、6区の走者が先頭で箱根の山下りをしている。総合の結果はまだ分からない。
 青山学院大学とは苦い縁がある。僕がまだ60歳になっていない頃、多分58歳くらいの頃の11月だったと思う。青山学院大学の相模原市淵野辺駅近くのキャンパスに『 青山学院 箱根駅伝出場 』と言う大きな横断幕が張られているのを見た。
 あれからもう18年くらい経つのではないか。当時、駅伝界では『 青山なんて、誰も洟もひっかけない存在 』であった。今では駅伝では常にトップ争いをする強豪校となった。学力ではトップ争い出来ないものだから、駅伝でなまえを売っていると陰口を言う人も居る。
 こんなジジイが青山学院と何の関係があるのだろうか?  私の勤めていた会社は私が55歳より上の頃は、会社の業績が芳しくなかった。もう、ずっとボ一ナスも出なかったようにも思う。僕が57歳の時に『 成田空港の表示板 』を作るように、結果として8か月間出向となったのも、『 口減らし 』がしたかったのではと思っている。窓際族と言うのは力のある会社の話で、力のない会社は関連会社に出向となった。
 そんな私も、22歳の時から鉄鋼関係の工場勤め、途中こちらも業績が悪くて、希望退職で転職したものの、以後も製造業の工場勤務が続いた。
 『 もう、製造業には飽きた 』と思っていた。ボ一ナスも出ない会社に嫌気をさし、『 行政書士 の資格でも取ろうかい 』と思って、勉強したのであります。行政書士と言うのは、いわゆる代書屋さんです。行政の窓口に提出する書類を申請者に代わって作るのが仕事で、一応、国家資格であります。
 今の時代、弁護士さんや税理士さん、弁理士などの資格を持っていれば、食いっぱぐれないのでしょう。行政書士レベルの国家資格を持っていても、中々オマンマを食べて行けるわけではないようです。資格対策の本にはどれも良さそうなこと書いてあります。私、『 第1種 衛生管理者 』、『 X線作業主任者 』、『 公害防止管理者・騒音 』の国家資格を持っていますが、何の足しにもなりません。
 話が大分逸れました。休日に空いている校舎、教室を試験会場として貸し出す大学があります。行政書士の年1回試験として使われたのが、青山学院大学の相模原キャンパスだったのです。私の行った学校は殺伐とした雰囲気でしたが、さすが青山学院は雰囲気が違う。木々があり、花壇も整備され、ベンチも置かれています。青山なら女子大生もたくさんいることでしょう。
 こんな学校なら、さぞかし学業にも身が入るでありましょう。何となれば、横浜線の淵野辺駅周辺にも商店くらいはありました。およそ最寄り駅周辺には遊ぶ場所なし。青山学院の相模原キャンパスは多分、当時の新日本製鉄 溶接技術研究所の跡地に建設されたものなのです。この溶接技研には、私、何十回と通いお世話になったことが有るのです。
 行政書士の試験を受けました。どうも、まずかったのは私のような年配者は全くと言って良いほど居ないのです。若い男女ばかり。定年間際のジジイの来るような場所ではなかったのです。『 資格を取るには遅すぎた 』模様です。
 1年間ずつ2回勉強しましたが、いずれも『 ふ合格 』 でした。自分としては相当頑張って勉強した積りでした。卒業してから多くの時間が経ち、』『 試験慣れ 』に欠けてしまってことも一因として有るでしょう。
 箱根駅伝出場の横断幕の張られた青山学院はその後、駅伝界では大活躍です。おさむ爺はその後62歳にして会社を飛び出し、製造業から脱出しました。青山のような活躍とはなりませんでした。

 第 1599    明けましておめでとうございます  2025.01.02(木)

 明けましておめでとうございます
 私の住む南関東では、昨日の元日、そして今日も快晴の日本晴れで、これが5日まで続くらしい。穏やかな正月と言って良いでしょう。一方の日本海側は連日の雪で飽き飽きしてしまうでありましょう。わたしももう20年近くになりますが、一冬だけ山形で暮らしましたから、雪の中の生活は分かる積もりです。
 私、平素はお酒を呑みません。正月だとてカミさんとお銚子1本、小さなお猪口で一人当たり3~4杯でしょうか、日本酒を呑んだらそれだけですっかり酔ってしまった。少なくとも午前中はコタツで寝てしまった。持ち直したのは午後の2時頃で、お猪口3~4杯の酒で、ほぼ1日棒に振ってしまった。今日は初詣に行くだろうから、朝お酒を呑むのは止めにしました。
 家族3人で初詣のハシゴをして来ました。2神社2寺院のハシゴ詣であります。2寺院については奈良時代創建のとても由緒ある立派なお寺さんなのに、両方とも参拝者が少ない。片方の寺院は私たちが参拝に訪れた際に境内にはどなたも居なかった。 ご利益を疑ってしまったよ。
 そんな訳で、今年もどうぞよろしくお願い致します。

 第 1598    区切り        2024.12.31(火)

 おとといの次の日は昨日で、昨日の次が今日、今日の次が明日と連綿と続きます。12月30日の次は12月31日で、その次は12月32日かと思ったら、1月1日になってしまう。これは日本だけの風習ではなく世界中でみな一緒です。子供向けに『 5月35日 』と云う物語はありますが・・・、これは余談です。
 連綿と続く毎日ではありますが、人間は何処かで区切りを付けたいらしい。僕は現在75歳です。区切りをつけないと、歳は取りません。歳は取りませんが徐々に体の衰弱は進みます。とてつも長く生きたものだと思います。地球が出来て46億年だと言いますから、僕が生きた75年間なんかほんの一瞬なのでしょう。
 今日は大晦日です。一年の区切りが近付いています。特に申し合わせた訳ではなくても、これは世の中、全般の動きで、食品ス一パ一の棚には、カニ、かまぼこ、数の子などがこれでもかというほど並び、日常食べるものなど隅っこの陳列棚へと追い去られて、肩身の狭い思いをしている。かと思ったら、もう大晦日となれば、陳列棚もガラガラとなっているらしい。
 好きな落語の世界でも年末は『 掛け取り 』に関する演目ばかり、江戸時代は皆さん『 ツケ 』で買い物をしていたようです。半年に一回、あるいは年一回そのツケを清算する日が大晦日だった。噺の内容はみな、商人はツケを滞りなく回収したい。ツケが溜まっている人は払いたいけど、金の工面が出来ず、言い訳を言って、何とかこの大晦日を乗り切って新年を迎えたい。噺を聞いていて、よく商人の方が平常時に仕入れる商品の資金繰りが出来ていたものだと感心します。それだけ、時代や暮らす人々がのんびりしていたのでしょう。古典落語の定番中の定番の『 芝浜 』も年末の噺ですよね。
 若い頃には、大晦日の夜中から元旦に掛けて、初詣に行ったことも有ります。あるいは大晦日なら『 カウントダウン 』と言うのも有るのでしょう。もはやこの歳になれば、夜中に出掛けるなんて、そんな元気は全くありません。
 テレビを見る気にもあまりなりません。年末になれば、『 2024年の出来事の総集編 』、『 スポ一ツの総集編 』など、やはり今年の区切りを付ける番組が企画され放送されます。どうも、感心が薄れてしまって、見ることもあまりありません。
 国民的行事・番組が歌い文句らしい、『 紅白歌合戦 』もほんの 10分か15分程度見ることはあっても、『 早く寝た方がいいや 』と、見ずに寝てしまうようになってから久しい。
 次は大好きな本です。毎年、『 日付、本の題めい、著者、出版社、ペ一ジ数 』を書き留めています。本を読むに当たっては、もちろんどんな本を読むかが大切なことは分かっています。
 編集者の方など年間400~500冊読む方がいらっしゃるらしい。僕も自分なりに読むべき内容など大雑把には気にして読んでいます。
 年間の区切りに当たって、今年読んだ冊数を目安にしています。一応、100冊を目標としていましたが、今年もダメでした。『 88冊でした 』。年間100冊を読むには月に最低でも8冊以上読まなければなりません。軽い内容の物を読めばもっと冊数を稼げると思います。自分の残された時間は短いのです。大衆小説を読んで冊数を増やそうと言う気にはなれません。あまり、増やそうと思うと、“新聞を読む時間”が減ってしまうのも困るんだよね。

 最後になりました。今年も『 おさむの自由区域 』を訪問頂きましてありがとうございます。実際には、アクセスカウンタ一の数字はあまり上がりませんでした。僕が更新しないから、当たり前です。いつ訪問しても前回と同じ更新日なら、訪問して下さる方も嫌になってしまうのが当然です。ちぃっとも更新しない僕が全面的に悪いのです。
 多分ですが、外出する回数がずっと減ってしまったからでしょう。夏場はとてつもなく暑くて散歩にも行けず、冬になって寒ければ縮こまる。家の中にばかり居たのでは書くネタがない。
 歳を重ねて感受性が衰えてしまったのも一因でしょう。自分が更新しなくなっていることに、もうだいぶ前から気が付いておりました。もうこのホ一ムペ一ジも閉じてしまおうかと何度も思いました。でも時には、『 やはり、何か書きたい 』と思うことがあります。まだ、しばらく残しておくことに致しました。
 時々でも、覗いて下されば、とても嬉しいです。

 第 1597    下山         2024.12.13(金)

 題を見て、また年寄りの話かと思うでしょうが、まあ、読んでみて下さい。朝9時ころ散歩していると、驚くほどたくさんデイサービスの車に出くわします。年配者を集めて、1日遊ばせて、過ごさせてくれる施設です。もう既に亡くなってしまいましたが、私の父母も存命中は、何もしないで家に閉じこもっているばかりなので、1週間に1~2度デイサービスに行くようにしていました。
 父母の話の様子だと、体操をしたり、ゲームや工作をしたり、場合によっては風呂に入ったり、マッサージをしてもらったりしているようです。たまに工作した作品を持ち帰っていました。折り紙で作ったお雛様や金魚、回り灯籠のようであったりと、まるで老人の幼稚園のようです。
 我が国は今、高齢社会を迎えています。かつては『人生五十年』と言われましたが、平均寿命が伸びた現在では人生八十年、もしくはそれ以上という時代になっています。定年後の人生の位置付けも自ずと変わり、シニアライフは余生どころではなく、もう一度新しい人生を始める時期になったと言えるでしょう。
 人間の生き方を考えると、何が一番幸せかというと、生涯現役の人だと思うのです。ボケないで、自分の生きる目的がはっきりしていて、死ぬまで続けると言うのが一番だと思います。
 私の散歩のコースに有料老人ホームがあります。デラックスな老人ホームに何千万円も払って、死ぬまで面倒を見てもらうと言うことでは、決して幸せにはなれません。食後に何人も窓辺に並んで腰掛け、外を見ている老人には生気がなく、皆さんボッーとしてお迎えを待っているだけのように見えます。
 シニアになって、もちろん、本当の意味で今迄のように現役で仕事が勤まるかと言うと中々そうはいきません。僕の場合も既に定年を過ぎて、嘱託として1年ごとの契約更新となっていました。会社を辞めた動機は、老眼で目が効かなくなり、検査と言う仕事が無理だなと思ったからです。年齢と共に体力的にも弱って来る訳ですが、縮小した役割でも社会に組み込まれ続けるのが良いのではないでしょうか。
 人は必ず死にます。では、残りの人生をどのように過ごせば、いい死に方が出来るのでしょうか。何によって老後の人生に満足して死ねるかというのは、ごく個人的な問題で、物量で計れるようなものではありません。老後は趣味と旅行に生きるなどと言う方がいらっしゃいますが、それも一つの方法で良し。ただ、画一的に考えるられることでは決してありません。最終的には、それぞれ自分の内面の問題なのだと思います。
 人生で幸福であると言う状態は、何かを夢中でやっている時こそ、充実感、完全燃焼しているのだと思います。どうやったら燃焼できるのでしょうか。毎日、朝から晩まで好きなゴルフやゲートボールをやっても、音楽を聴いても、はたまたギターを爪弾いていても、それだけでは心が満たされると言うものでもないような気がします。
 シニアライフを趣味で生きようと、仕事で生きようが、やはり、究極には『死ぬ』と言うことがふ安の最大の原点ではないかと思います。一時的には忘れることはあっても、決して逃れることの出来ないのが死です。  我が家の父母を見ていると、1日中何もしないで、居眠りをしたり、座ってラジオを聴いたりしています。
『早くお迎えが来て欲しい』と言ってはいますが、本心とは思えない。医者から処方された薬を食後にきちんと飲んでいますし、体調が悪くなると医者に連れて行けと言います。本当に早くお迎えが来て欲しいなら、薬だって飲まなければいい。みんな死ぬのは怖いし、嫌なのです。暇だといつも死のことが気になって、頭から離れず、幸せな気分になれない。
 つまるところ、生涯を通じて夢中でやれる仕事を持ち、気が付いたら死の直前だったというのが一番幸せだと思うな。死ぬまでの時間を忘れる、ピンピンコロリが理想と言うことになります。
 今まで、年配の人のことばかり書いてきたように思えるけれど、これは実は若い人の問題で、目先のことだけでなく、人生設計をどのように組み立てるかは、若い頃から準備しなければならないのです。
 以前に読んだ五木寛之さんの『下山の思想』と言う本に
①山は登ったら、必ず下りなければいけない。(山に籠もり、霞みを食して暮らす仙人は別です)
②上る時には一生懸命で、見えなかった景色も、下山の時には周りの景色も見る余裕が 出来るものだ。
③山は登っただけでは成功ではなくて、無事に下山出来て初めて成功と言える。
と書いてあった。

 第 1596    道歌         2024.12.07(土)

 おさむ爺は落語好きですから、『 狂歌家主 』と云う演目があることを知っています。社会風刺や皮肉、滑稽を盛り込み、五七五七七の音で構成した諧謔形式の『 狂歌 』と云う短歌があることを知っています。
 本を読んでいたら、『 道歌 』と云う種類の短歌もあることを知りました。作者の分からないものが多いとのことですが、昔からの言い伝え、道徳的な、または教訓的な短歌を言います。様々な体験から出た世知であり、訓戒である。昔から日本人に親しまれているそうです。
 知ったとなると直ぐに誰かに伝えたくなる。まったくの受け売りですが、ここで紹介します。
* 手や足の 汚れは常に 洗えども 心の垢を 洗う人なし
* 悪しきとて 唯一筋に 棄つるなよ 渋柿を見よ 甘柿となる
* 踏まれても 根強く忍べ 道草の やがて花咲く 春に逢うべし
* 堪忍の なる堪忍は 誰もする ならぬ堪忍 するが堪忍
* 朝起きて 夕べに顔は 変わらねど いつの間にやら 年は寄りけり
* 世の中は 豆で四角で 柔らかで 豆腐のように 変わらぬぞよし
* 今日ほめて 明日悪くいう 人の口 泣くも笑うも ウソの世の中
* 善悪の うつる鏡の 影法師 よくよく見れば 我が姿なり
* 世の中は 左様しからば ごもっとも そうでござるか しかとぞんぜぬ
* 楽しみは 後に柱 前に酒 左右に女 ふところに金
* 涼しさは 新し畳 伊予すだれ すきやちぢみに 色白のたぼ
 以上、本に書いてあった物です。断片的かもしれませんが、聞いたことがあるや、なしやです。母はこういう言葉をよく知っていて、子供の頃に聞かされていたような気がします。
 最期の2つは落語の中にも出て来ます。特に最後のモノは『青菜』と云う演目に出て来ます。蜀山人の作らしい。『たぼ』は日本髪を結った際の、後頭部の部分の髪のことだそうです。もう注釈なしでは何も分からなくなってしまいました。

 第 1595    百姓読み       2024.12.03(火)

 『 百姓読み 』と云う言葉があります。随分農業従事者を蔑視したような言葉である。でも、三省堂 新明解国語辞典にも、岩波 国語辞典にもちゃんと載っている。
 ラジオのスポーツニュースで、アナウンサーの方が『 どくせんじょう 』と云う言葉を使った。久しぶりに聞く言葉である。さすがアナウンサーであり、よく教育され、よくご存じで、実践されている。
 誤解を招くといけないので予め書いておきますが、私は知ったかぶりして書いている積もりはありませんので、どうか誤解の無いようにお願い致します。
 『 どくせんじょう 』を漢字で書けば、『 独擅場 』であり、[『 擅 』はほしいままの意 ] 『 その人だけが思うままに活躍・出来る場所、ひとり舞台 』と云う意味であります。
 なんだ、これは『 どくだんじょう 』ではないのかと云う方は、自らを恥じた方がいい。
 どくせんじょう(独擅場)を誤って『 どくだんじょう 』と読んだ方が居た。これを『 百姓読み 』と言って誤った読み方であると辞書には書いてあります。 百姓読みは『 漢字の読み方を、偏や旁(ツクリ)の音から類推して間違って読むこと 』とあります。
 『 多勢に無勢 』、『 赤信号 みんなで渡れば 怖くない 』と云うわけで、みんなが『 どくだんじょう 』と読むものですから、その発音から文字までが手偏から土偏に換わって『 独壇場 』に成ってしまったと云う訳です。
 おさむ爺は何が何でも『 どくせんじょう 』が正しいのだと言い張る積もりはまったくありません。言葉は生き物ですから、その時代で少しずつ変わっていくものだとは思っていますが、あまりに極端なものは勘弁して欲しいなと思っています。

 第 1594   上野方面散策      2024.12.01(日)

 歳を取ると自分の意思でプランを練り、電車に乗って何処かに出かけるのが億劫になってくる。外出をしなくなれば足腰も弱り、段々衰弱して行くのだなと実感する。
     昨日(11/30) は上野の東京国立博物館まで『埴輪展』を見に行った。スマホの歩数計に拠れば、突然、11000歩以上歩いたものだから、昨夜は一度も目が覚めず、朝までずっと寝てしまった。
 おさむ爺にとっては毎日が日曜日である。何も混雑が予想される土日に行かなくても、平日に行ってゆっくり見れば良いのにと自分でも思っていた。成り行きで土曜日に行くことになってしまった。展覧会や博物館に行くのには、一人で行くのに限る。なまじ同行者がいると、人はそれぞれ興味のある対象が違い、ペースが違ってお互いにストレスが生じてしまう。
 混雑が予想されるので、早めに出て、開館時間前のAM 9:30よりは前に博物館に着いた。博物館に着く前に、途中の発券スタンドで入場券を入手しておいた。¥2100である。最近は各種入場料、入園料も高くなったものだ。博物館前にはもう大変な数の人が並んでいたが、10分くらいの待ちで入場出来た。


 埴輪の一々の説明は止めておこう。それにしてもたくさんの量と種類があるものだ。その表情がとても可愛らしいし、ステキである。埴輪は古墳の周囲に置かれ、権力を象徴する『 古墳の守護と装飾 』の役割がある。日本には16万基の古墳があると云うのだから驚きだ。
 始め、¥2100の入場料は高いなぁと思ったけれど、約3時間の間、十分堪能できた。
 館内は一部を除いて写真撮影OKであった。ただ、フラッシュはNGである。こんな薄暗いところでフラッシュなしで撮影が出来るのかと心配した。昨今のカメラの機能は大した物である。他の皆さんはスマホで、おさむ爺は用意して行った一眼で撮影した。
 フィルムの撮影では枚数を気にしながらシャッターを押さなければ成らないが、デジカメはそんなこと気にしないで、手当たり次第に撮影し、ダメだったら削除してしまえば良いのだから気が楽だ。400枚以上撮影しました。
 まだ見るべき展示はあったようだが、混雑する中でヨロヨロ歩くのには老人の足が持たない。午後1時頃、館を退出した。表にはとてもたくさんの人が並んでいる。『 最後尾 』と云う看板を掲げたオニイサンが、『 ご入場まで1時間以上掛かります 』と言っている。早く来て本当に良かった。
 上野公園一帯の銀杏はすっかり黄色くなって、快晴の青空に映えている。足の方には若干の余力が有りそうだ。おさむ爺は『 商店街めぐり 』が好きなのである。家族経営のような、小規模の商店が並び、自家製の惣菜を売っている商店があればとても嬉しい。
 ずっと以前に御徒町に『 佐竹商店街 』と云うのがあると、テレビで紹介していた。折角、上野まで来たのだから、帰りに御徒町で降りて、その『 佐竹商店街 』を見に行った。雨の日の買い物も大丈夫なようにアーケードになっている。
 なるほど、『 昭和の商店街 』である。個人経営のようなレトロな商店街だ。シャッターを閉じてしまっている店舗も多い。なまじっか、アーケードなんか作ってしまったものだから、周囲の発展に取り残されてしまった。子供の頃読んだ『 小さなおうち 』のようだ。
 休みだったのか、家族経営で、計り売りの“おでんタネ”、”あめ色した豚の角煮“や ”惣菜“を売っている店は見当たらなかった。『三丁目の夕日』とまでは言えないけれど、昭和の商店が散見された。
 散策してみて、確かに草臥れたのだけれど、老人だからと言って家の中に閉じ篭ってばかりいてはダメだとつくづく思った。外へ出ていつも同じコースを散歩してもダメだ。違う場所を見て歩かなければいけない。

 第 1593   人生観         2024.10.28(月)

 以前勤めて居た会社の同僚から、2人の方が今年亡くなっていたと云う連絡があった。二人とも独身者だったから、どんな生活をしていたのか分からない。一人は83歳だった。もう一人は私と同じ年齢で、私と二人で飲みに行ったこともあり、ちょっとショックであった。でもね、二人とももう十分に生きた年齢であることには違いない。これから先もずっと生き続けて、周囲の人に迷惑を掛けるのも困る。何事も潮時と云うのが肝心である。
 私も今迄たくさん働いて来た。今更、自分の生活を変えようと云う望みもない。一日、一日がたんたんと流れ過ぎて行くことに悔いも焦りも感じない。
 それでも、夕方は苦手で、暮れなずむと云うのか、夕焼けも段々と暗い部分が増してくると、何とも言い難いしんみりとした空しさを覚えてしまう。多分僕もこのまま終わっていくのであろう、自分の生涯に対する焦燥感はないと言えばウソになる。世の中の時の流れとは『無関係に』、自分と言うものは沈滞し、老いていくのだ。
 お金は日常の生活に必要なだけと、少しだけの予備があれば良い。要るだけの金が無くて苦労している人も居れば、必要以上の金を持っていて使い道に困っている人も居て、様々である。僕なんか年金以外に収入の道がないから気楽なものである。
 今ここで何とか暮らしているのだから、何も余計な苦労を作らなくても、地道に暮らしていく積もりで持ち場をガッチリ固めておけば良いと思う。
 なまじちょっとばかり余分なお金があると、このまま行きて行くのは物足りなくて、少しでも良い生活をと手を広げようとする方も居る。それはその人の人生観の問題だから、何ともいえない。
 よく耳にするのが、なけなしの資金なのに詐欺にあい、身包み取られてしまって途方にくれている人が居る。その人だって儲けて、人よりいい生活をしようと言う目論見があって、投資に失敗してのだから仕方ないわな。地道に行くか、生活を賭けたのだから、本当に人生観の問題だな。

 第 1592   心のゆとり       2024.10.21(月)

 表紙を一箇所だけ変更しました。HPを開設して、丸24年になりました。開設の当時は『 オジサン 』のぼやきのテキスト形式のHPでした。今では正真正銘の『 オジイサン 』のHPとなりました。10月は大好きだったタバコを止めた月でもあります。バカは死ななきゃ直らないと言いますが、丸50年吸って肺気腫と言う病気になりました。タバコを止めてから丸4年経ちました。最近、道路に落ちている吸殻が明らかに減りました。タバコを止めた人が多いのですね。
 HPを開設したとき、家を建て直すために、アパ一トで仮住まいしていました。我が家も来年の3月で築24年になるのだなあ。今日は『 心のゆとり 』です。年金しか収入がないので、『 財布のゆとり 』ではありません。

 自宅の最寄り駅で電車を降り、下車したほとんどの人がホ一ムに居なくなってから、改札口へと向かう階段を下った。何となく気分がいい。あくせく歩いて行った人を見ながら、余裕を感じる。本当は年寄りだから足元がおぼつかないので、ゆっくりなのであります。
 みんなと一緒に一斉に改札口へ向かう階段を下りると、ぶつからないように前後左右の人に十分気を使わなければならない。実情は若い人のように早くは下りられないのである。人の流れの中で、自分だけのそのそ歩くわけにもいかない。大抵は階段の脇に寄って、いつでも手すりをしっかり掴めるよう、階段を踏み外さないよう注意しながら、足元を見つつ、一歩一歩確実に歩みを進めることに専念しなければいけない。
 それでも、60代前半の頃はまだ足が動いて、人の流れの中に居ると、意識しないでも自然と競争心と言うのが生まれ、自分の斜め前に出来た空間に体を潜り込ませて、改札口に向かって少しでも早く進もうと言う気になっていたのだから、ふ思議なものだ。その頃はまだ勤めていて、帰りだから時間を気にすることもなかったはずで、急ぐ必要もない。どうしたものなのであろうか。
 車の運転も同じで、流れと言うものがある。周囲の車の流れに合わせて運転を心掛けないといけない。ブレーキを多用したり、安全運転とばかりに、自分だけ周りの車より遅く走ると、渋滞の原因になってしまう。車の場合には、公共事業の乱発で出来たほとんど車の走っていない道路の走行を除けば、心に余裕を持ってゆったり走るのは無理なのかな。
 東京と神奈川の境に小仏トンネルという長いトンネルがある。交通ニュ一スで毎日触れられる交通渋滞の個所であります。もちろん車の数が多いのには違いありません。長いトンネルの中は少しだけ登坂になっている。アクセルの踏み方を一定にしておくと少しずつスピ一ドが落ちてしまう。皆少しずつ落ちてしまうと、累積で列の後方の車はブレ一キを踏まなければ成らなくなってしまう。このブレ一キの累積が何十kmの渋滞になってしまう原因なのである。若干の登坂に合わせて、皆さんがアクセルを少し踏み増さなければならないのである。
 大体、日本には車が多過ぎるのじゃないかい。週末しか乗らない自家用車は本当に必要なのでしょうか。それでも最近は若い人が運転免許を取得しなくなっていると聞きますが、年齢に達すれば、自動車教習所に通い免許を取るのは無制限だし、自動車の生産販売にも制限がない。これでは首都高始め、高速道路および一般道が渋滞するのは当たり前じゃないか。
 自分のところは自家用車を所有していない。駅までそんなに遠くはないし、商店街も徒歩で行ける範囲にある。家を建て替える時も建築屋さんに駐車場スペ一スはふ要だと伝えて設計してもらった。
 時には
 『 こんな時、車があったら良かったのにな 』
と思うことは確かにあります。それも年に数度のこと。最近の若者は車離れしてきたと言います。今時、自家用車を持つことがステ一タスでも何でもなくなりました。公共交通機関が少なく、一家に複数台の車が必要な地方を除けば、都会では本当は、自家用車も減らせるのではないでしょうか。
 心の余裕は小さなところにも必要なのだとつくづく思います。

 第 1591   横書き         2024.10.19(土)

 毎週日曜午後8時からのNHK大河ドラマ『 光る君へ 』を楽しみにして見ている。おさむ爺はニュ一スと、大河ドラマの前に放送の『 ダ一ウィンが来た 』と大河ドラマくらいしかテレビを見ないのである。
 ドラマ中に藤式部(吉高由里子さん)が筆を持ち文字を書く様子や、書き上がった1枚を眺める場面がある。(当時は紫式部でなく、藤式部と呼ばれていた) 何万枚も書いたことを思うと、さぞかし大変だったであろうと想像します。印刷技術のなかった当時、書かれたものを書き写す写本も、根気のいる作業だったに違いありません。一字一句間違いのないように書き写さなければなりませんが、草書体では書き方に作者の個性も現れることでしょう。当然写し間違いも有ったに違いありません。
 書かれた文字を見ると、『 縦書き 』で書かれています。筆先を抜いて、次の文字の書き始めの所に繋いでいる。ジイにはああ言った書き方はきっと出来ません。ジイは小学生以来、筆を持ったことがないからです。筆ペンなら結婚披露宴やお通夜の時の出席者めい簿に書くくらいで、およそ、草書体であろう文字の繋ぎなど書ける筈も有りません。
 本来、日本語の文字は『 縦書き 』なのでありましょう。でも、私たちは遥かに多くの『 横書き 』を使っているのではないのでしょうか。国語の教科書は縦書きです。普通の便せんも縦に線が入っている。ハガキも縦長になっているから、『 縦書き 』が多いかと思うけど、会社関係から来るハガキは横書きの方が断然多いような気がする。
 新聞は概ね縦書きが多いですが、横書きのペ一ジもある。小説などの書籍は縦書きだけれど、それ以外の本は横書きも多いな。子供に教育するための教科書だって、多くが横書きなのではないか?! 
 文具店に行っても縦書き用は国語のノ一トくらいで、ほとんどが横方向に罫線が引かれている。これじゃ、本来日本語は縦書きだと言っても、『 あっ、そうですか、そうですね 』くらいしか言えない。 先ほど、“筆先を抜いて、次の文字の書き始めの所に繋いでいる” と書きました。横書きだと繋ぐべき所に次の文字がないので、その文字は自分で結ばなければならない。
 日本語は縦書きでも、横書きでも縦横に出来る素晴らしい言葉なのです。日本語の本来は縦書きなのでしょうけど、パソコンに表示される文字はほとんど全部と言って良いほど、横書きです。パソコンのワ一プロ機能は縦書きに表示変換できる筈ですが、使ったことすらありません。
 このようにみなさん、すっかり横書きに慣れてしまった。それに、文字を書かなくなってしまった。おさむ爺は違いますよ。小学生の頃は鉛筆を使っていました。“ペンだこ”が出来て痛かった。今もかつてここに“ペンだこ”が在ったと言う跡があります。
 昔、ボ一ルペンを持っていてもほとんど使わず、そのうちインクが出なくなってしまって、ボ一ルペンのインクを一本使い切るなんてことほとんどなかった。鉛筆もシャ一プペンシルも滅多に使わず、今はボ一ルペンだけ。1本使い切るのに1.5~2か月くらい。¥100ショップでインド製の10本110円のボ一ルペンを買っても、一人でおよそ1年ちょっとで使い終わってしまう。結構、使う方でしょう。それも横書きばかり、縦書き皆無。でも、何故だか“ペンだこ”は出来ない。
 屋並みの古い地域に行って、商店の横長の看板に『 右から左に 』書かれた文字、例えば『 屋河三 』などと屋号など書いてあるのを見たことが有るでしょう。昔は横書きでも、右から左に書いていたのでしょうかね。  ジイは左利きでないから分らないけれど、左利きの人が『 左から右に横書き 』しているのを見ると、書きにくそうに見える。反対に右利きの人が『 右から左に 』書くのは書き難いに違いない。今度、経緯や時代背景を調べてみよう。

 第 1590   ボケる         2024.10.15(火)

 歳を取ると云うのは本当に悲しいもので、体中のあちこちが衰えてくる。先日、上皇后陛下が転んで大腿骨を骨折されて、東大病院で手術を受け、現在リハビリ中である。歳を取ると転ぶだけでなく、ちょっとした高さから飛び降りたって骨折してしまう。体も硬くなって、今まで出来たことが出来なくなってしまうのだ。それによって寝たきりに成ってしまうことはもっと怖い。
 身体だけでなく、頭もそうだ。普段から使っていてもダメになってしまうのに、使っていなければもう壊滅的なことになる。ボケ防止に漢字の書き取りの問題と、中学生用の算数の計算問題、“数独”くらいは努めてやっておいた方が良いと思う。自分がやっているから言うのではなく、ほぼ毎日やっていたって、常用漢字は2000文字近くある。2~3ヶ月間巡り会わない漢字が分からなくなってしまう。だから、常にやっていないと忘れてしまう。算数だって微分、積分、行列式をやろうと言うのではない。簡単な三角関数、因数分解くらいはやらなければと思っている。『 継続は力なり 』だと思う。
 ほとんど毎日少しずつやっているのですが、習慣になってしまうと、どうと言う事はない。こんなことやるようになってから、もう3年以上になる。年中無休、正月もやっている。こんな風になったのには、やはり、切っ掛けと言うものがある。
 あっちこっちに積み上げてある本を整理していたら、『 大学生の一般常識問題集 』なる本が出てきた。これは僕が買った本ではない。多分、娘か息子が買った物だろう。国語、英語、歴史、地理、一般社会常識、自然科学、数学などの項目に分かれている。
 昔、得意だった国語くらい何とかなるだろうと思っていた。最初は漢字の問題。『 知っておきたい主な漢字 』をやってみた。ひらがなで書かれているものを漢字にする。30問やって4つしか書けない。漢字の読み方の問題はそれでもほとんど出来る。ひらがなを漢字に直す問題はたくさんあったが、ほとんど書けない。
 何か書く時に、簡単だと思われる漢字が思い浮かばない。前から感じていたが、改めてこういう問題をやると全く書けない。
『 あれ、どうだったかな 』
 というものばかり。小学校で習う漢字すら、正しく書けない。
 毎日、新聞は読むし、本も読む。読むについて困ることはほとんどない。いざ、漢字を書こうとすると、全くダメだ。試しにやってみて下さい。きっと、 『 こんな筈ではないんだが・・・』と思うことでしょう。
 文を作る機会が無かった訳ではない。会社に居た時も文は結構作っていたし、こうして テキスト形式のHPを運営しているのだから、ごく一般の人よりも文はたくさん作っています。ここではあえて、『 文を作っている 』書いた。
 その通りなのです。文は作っているけど、筆記用具を使って、自分の手で文を書いていないのです。ほとんど筆記用具を使わないで、文を作るようになってから、25年くらい経つのではないでしょうか。始めは、ワ一プロ専用機。そのうちワ一プロ専用機は淘汰されてしまって、皆さん同じでしょうが、パソコンのWordか何かで作文しているのです。
 文の入れ替え自在、切り取り、貼り付け自由。分からない漢字でも、変換すれば出てくるから、漢字を覚えておく必要がなくなってしまった。
 筆記用具を使って文を書くと、分からない漢字は国語辞典で調べなければならない。若い人には分からないだろうけれど、老眼になると困ったもので、辞書の細かい字ではうつ病の『鬱』みたいな込み入った漢字は■の様に、黒い塊にしか見えない。忌々しいから、 自然とワ一プロ機能ばかり使って来たツケが、今日の漢字のテスト結果であろう。
 でも、ボケ防止に漢字の書き取りの問題と、中学生用の算数の計算問題、“数独”は、努めてやっておいた方が良いと思うな。

 第 1589   天高く         2024.10.09(水)

 秋の彼岸の時に墓参りに行った。我が家の墓は、目黒ふ動尊近くの無宗派の墓苑であります。墓参りの後、ごく近くですから目黒ふ動尊に行った。目黒ふ動尊の境内に青木昆陽翁の像と共に『 さつまいも 』をうえた畑がある。幟も立てて、目黒ふ動では、青木昆陽とサツマイモを集客のネタとしているようだ。ただ、まだ葉は青く、彼岸の時期では収穫の時期には早そうだった。
 暑い日が続いていたが、昨日(10/8)、今日と急に寒くなって来た。もう、サツマイモも収穫できるかな? そのうち、我が家の周りにも、”石焼イモ”の販売車も来ることだろう。今日はサツマイモにちなんだ話題にしよう。

 四季の屁を詠んだ川柳にこんなものがあります。
 春  馬の屁に ころりと落ちた 玉椿
 夏  音も香も 空へ抜けてく 田うえの屁
 秋  ごめんごめんと 芋食いすぎて 今日の月
 冬  こたつから 猫もあきれて 顔を出し
 とかく、糞や屁は下品で、恥じらいのないものとして、口に出さなかったり、敬遠するものです。ただ、放屁は人間、いや、動物にとっては無くてはならないものです。
 私、20歳の時に盲腸の手術を受けました。その時、病室を訪ねてくる医師や看護婦さんに
 『 ガスは出ましたか? 』
 と何度も訊ねられました。聞く方の医師や看護婦さんは、自分が初めて聞いているのだと思っているのでしょう。訊ねられる私の方は
 『 はい、出ました 』
 と、7~8回答えたような気がします。
 人は1日に 1.5リットルくらい、おならをするのだそうです。もちろん、どんな着飾った美人でも、お澄まししている人でも、偉そうにしている人でも、おならをしない訳ではありません。おならをしなそうな人でも、他人に知られないように密かに放出しているのです。
 ガムをかむ人、タバコを吸う人、早食いの人は、どうしても体内に空気を取り込んでしまうことが多く、おならが多くなるとの事。
 子供の頃に、母に教えて貰った言葉です。母はこういう事を平気で言う人で、
 『 屁にはブ一、ス一、ピ一の 3種あり。ブ一は音あり、臭味なし。ス一は音なし、臭味あり。ピ一は実の出る恐れあり 』
 おならの成分は、主に窒素、炭酸ガス、メタンガスなのだそうです。ライタ一に火を点けて、火に向かっておならをして、確かめたことはありません。メタンガスが含まれていますから、当然、火が点いて燃えます。ただ一度だけ、蜂蜜の入っていた広口の容器を用いて、風呂の中で放屁しておならの収集を計画したことはあります。もしかして小さな容器で爆発し、怪我でもしては大人気ないと思い、収集計画は未遂に終わっております。
 おならには臭いがある場合がしばしばあります。
 炭水化物が腸内で発酵して、ガスになったものはあまり臭いがしません。よく、焼き芋を食べて、おならが出ると言います。焼き芋は炭水化物が主です。『 ブ一 』と音が出ても、量は多いが、臭いは少ない。
 一方、消化し切れなかったたんぱく質が腸内で腐敗したガスは、量は少ないが、臭いがきつい。肉を多く食べる人は『 ス一族 』なんだ。こりゃ、インディアンだね。
 下痢をしている人は、『 ピ一 』と出して、パンツを汚さないように気を付けないといけない。恐る恐る出した方が良い。
 おならは我慢しない方が良いのだそうです。我慢して、お腹がポッコリ膨れるだけなら良いのですが、腸内に停滞し、内臓に対して圧力を掛け、悪影響があるのだとか。なるべく、他の人に知られないように、屁とも思わないで、『 すかしっ屁 』をして下さい。人前でおならをしてしまうのではないかと恐れ、『 おなら恐怖症 』というのもあるのだとか。
 別におならの研究をしている訳ではないのですが、おならにも色々な呼び方があります。『 おなら 』『 屁 』『 ガス 』『 放屁 』『 空クモ 』その他にも地方によって、様々な呼びながあるのだと思います。
 落語にも『 転失気 』(てんしき)と言う演目があります。体調のすぐれない和尚が、診察に訪れた医者から『 てんしき 』があるかないか聞かれる。何のことだか分からない和尚は、知ったか振りをしてその場をごまかす。後で小僧を呼んで、寺の近所に『 てんしき 』とは何か調べに行かせる。『 花屋へ行って爺さんに、てんしきを借りて来い 』と言いつける。花屋も何だか分からない。花屋さんも花屋さんだ。『 棚から落として壊しちゃった 』なんて答える・・・。
 綺麗ごとを言ってみても、物事煎じ詰めれば、優越感じゃないのでしょうか。弱い、惨めなものを笑い、さげすむ。貧乏なこと、愚かなこと、などなど。その中でも、蔑まされているのが、糞尿、ゲロ、放屁なのだと思います。

 第 1588   羞恥心の変化      2024.10.07(月)

 私が携帯電話というモノを初めて使ったのは、多分、今これをお読みになっておられる方の中では一番早いのではと思います。当時、それは5x5x20cmくらいの大きさで、今のスマホに比べれば大変重かった。仕事で出張に行く際に、会社より短期貸し出しされたものでした。会社にも1台しかなかった。仕事を頂いていた親会社が通信関係の仕事をしていた関係で、会社としてもお付き合いで、他社よりも早く買ったものと思われます。
 携帯電話の使い始めは早くても、その反動か私が個人用のふたつ折のガラケ一携帯電話を持ったのは極めて遅く、およそ18年前でした。私の周りで働く人たちのほとんどが、既にPHSかガラケ一を所持されていた。
 PHSやガラケ一が普及する以前、私が勤めから帰る時間帯ですから、辺りは当然もう暗い。そんな時刻に裏通りを、ブツブツ独り言を呟きながら歩いている人はアブナイ人であった。
 さらに、路上で大声を出して叫ぶ人が居れば、もしかして包丁かなにかを持っていて、危害でも受けるのではないかと、もうこれは他の道を選択せざるを得なかった。それが出来ない場合には、ヒヤヒヤ、ドキドキで歩みを緩めたり、なるべく道の反対側を早足で通り抜けするようにしたものでした。
 当時は、連れも居ないのに歩きながら独り言を喋るのは、どこか精神的に問題のある人だとの認識を持っていた。
 だが、今はみんなが喋りながら歩いている。猛暑などの異常気象からのストレスの影響で精神に異常を来した人が増えている訳ではない。皆、四角い平べったいモノを耳に当て、歩きながら、笑ったり、急に声が大きくなったり、突然しゃがみ込んで泣き出したりするから、周りに居る人はビックリする。
 我が家は道に面していて、真夜中に窓の外で大きな声で話しているのが聞こえる。何かあったのかと、耳を傾ければ、喋りながら遠ざかって行くのでホッとする。
 携帯電話の出現で、私たちは歩きながら喋ることが平気になってしまった、周りの人も、アブナイ人が居るとは思わなくなった。でも、何十人かに一人ぐらいは本当の精神的に問題のある人がナイフを持っている人が居るかもしれないから、見極める目を持たなければならない。
 現代はストレスの多い時代である。周りから様々な制約を言われる中で、心の中に溜まった鬱憤の感情や欲求を、気の置けない友人・知人を相手に『 路上で 』吐き出すことに躊躇する気持ちが薄れて来たのだ。周りの人も状況の変化に慣れてきたと言えよう。
 以前なら路上で自分の生活情報や愚痴など誰も言わなかった。今は他の人に聞かれる可能性があることを喋っても平気で居られるという、羞恥心の有様が変わったと言うことだ。
 ★野☆男や、▲腹△子という個人を特定するようなサインを伏せさえすれば良いのだ。『 壁に耳あり、障子に目あり 』と言うことわざが消え去ったとは思わないが、みんながこうも手軽な移動式通信手段を持つようになると、秘密とすべき事柄の伝播・拡散速度は極めて速くなったと思わざるを得ない。気を付けなければいけないなぁ。

 第 1587   予防接種        2024.10.04(金)

 川崎市の広報誌『 市政だより 』に、新型コロナウイルスとインフルエンザワクチンの定期接種の記事が載っていた。新型コロナが5類に変更になったことに伴い、個別に郵送で通知しないように変更に成ったのだと思います。
 記事に拠れば、65歳以上の高齢者や、持病があるような方々が対象で、接種の費用は新型コロナで\3000、インフルエンザで\2300なのである。(ただ、この金額は自治体により金額も、次に書く無料の条件もまったく異なります。)
 但し、『 生活保護世帯 』と『 市県民税非課税世帯 』は無料ですと書いてある。我が家は年金収入しかなく貧乏で、市県民税非課税世帯なのであります。ただし、接種費用無料となるには、医療機関窓口に行って、それを証明するものを提示しなければ成りません。
 区役所の市税課に電話しました。『 非課税証明書 』を入手したいのだけれど、何処に行けば良いのか、電話で問い合わせました。まったくなっ得のいかない回答を得ました。『 市民税非課税証明書は発行できるけど、ワクチンの定期接種に使う非課税世帯の証明には使えません 』と言う、耳を疑うような回答を得ました。ただ、後で記載します、出張所で貰った書面には非課税証明書は、ワクチンの定期接種に使う非課税世帯の証明には使えませんと書いてあり、電話で問い合わせた市税課職員の言っていたことは間違っていませんでした。でも、非課税証明書と言うなまえの書類が用を成さないと言うのは可笑しいよね。
 その後、市政だよりに記載のあったあちこちに電話番号に電話しました。ご存じのように、こう言ったところに電話すると、音声ガイダンスで『 ○○の場合は①を、□□の場合は②を、その他の方は③を押してください』と成った揚げ句、①を押しても『 ただいま、電話が混み合っております。そのままお待ちになるか、しばらく経ってお掛け直し下さい 』と忌々しい結果になるのである。
 対面で教えてもらおうと、散歩がてら区役所の出張所まで出掛けた。時たま雨が降っていたせいもあってか、出張所には客が一人も居なかった。これまでの顛末を話したら、医療機関の窓口に何の書類を持参すればよいのか記載した書面があるではないか。年配の女性職員が2人で対応して頂けた。やはり、対面は早くて、確実。
 ネットで接種をしてくれる近くのクリニックを探して予約を取ろうと電話した。今日でも接種出来ると云うので、午前中行って来た。“こどもクリニック”なのだが、客は一人も居らず、問診票記入の上、新型コロナとインフルエンザの2種類のワクチン接種はたちまちに終了してしまった。
 もう、5時間くらい経過したが、接種箇所が痛いとか発熱したとか言う症状は一切無く、めでたし、めでたし。
 『市政だより』には高齢者以外の方、すなわち、65歳未満の『 対象者以外は実費ですよ 』と言った程度の表記がありました。ちなみに実費がいくらかと、ネットでしらべたら、新型コロナで¥15800とかなりの額であった。インフルエンザは調べてないけど、一般の方々は接種を躊躇してしまうよな。

 

 第 1586   悩み          2024.10.02(水)

  最近は生成AIと言うモノが身近に出現して、文章を書くことが苦手な人でも、AIがそれなりの文を書いてくれると言った、とんでもない時代になって来ているようだ。時代遅れかも知れないけれど、自分の考えをまとめたりするには、文を書くことがとても役に立つと信じています。便利だからと言って、何でもかんでもAIに頼って作業していると頭を使わないから、一部を除いた人間はバカになるに違いない。
 仕事の形態もきっと代わってくる。単純に考えると、いわゆるホワイトカラーに従事する方は激減して、手に職と言ってはイメージが違うが、固有の技術・技能を持った専門職の人を社会が欲するのではないか。在り来たりなモノでなく、上手な文を書くのも技能の一つであると思う。仕事で定型の書類を作るにはAIにとても敵わないと思うが、個人の能力を発揮するような部分に置いては、上手な文を書く能力が威力を発揮するのではと信じています。
 作文が上手になりたい。新潮文庫の『 井上ひさしと141人の仲間たちの作文教室 』という本を、9月になって続けて2回読んだ。How toの本を読んだからと言って、これを参考にしてすぐに作文がうまくなるということは、まず絶対にない。たくさん本を読んで、毎日のように作文を書く。これが作文上達の王道であることは、本を読むまでもなく間違いない。
 本の中で井上ひさし講師より、受講生に対して『 悩み 』という題で、作文を書く宿題が出た。原稿用紙1枚分に集約して自分の悩みについて書く。書中に26人分の添削付きの作文が紹介されていた。無いようでいても、どなたも様々な悩みをお持ちであることが分かった。
 これに倣って自分も悩みについて書いてみます。ただ、自分については原稿用紙1枚分という制約はないものとして、ダラダラと書きます。
 悩みは『 人と中々話が出来ないこと 』です。
 人と話をするのが苦手です。もともと無口な方です。赤面対人恐怖ということはありません。活舌が悪くて何を言っているのか分からない方が良くいらっしゃいます。色々な方に指摘されましたが、私の場合はむしろはっきりものを言い過ぎてしまって、相手の方にとって威圧的と思われてしまうきらいがあります。プレゼンテ一ションが出来ないと言うこともありません。指めいされれば考えや意見は述べます。どちらかと言うと話す場を設けてくださる方が意見は言い易い。それでいて、人と話をするのが苦手というのは、どういうことなのでしょうか。
 『 おはよう 』、『 こんばんは 』、『 さようなら 』の挨拶は難なく出来ます。それから先が苦手なのです。どうでも良いような世間話が苦手なのです。原因は圧倒的に話のネタふ足。テレビはほとんど見ない。ラジオはあまり聴かない。今、世の中でどんな曲が流行っているとか、何が話題になっているかまったく分からない。新聞は読みますからニュ一スについては大体知っている積りです。でも、ニュ一スと世間話では話される内容は違う。
 挨拶の後の言葉が続かず、もっぱら聞き役になってしまう。どうでも良いような話に耳を傾けているのもつまらん。そんな態度の片鱗を相手の方に見破られてしまうのか。世間話も中々続かなくなってしまう。
 私に言わせれば、普段世間話をベチャクチャ話している方ほど、大勢の方の中で意見を求められた時にほとんど何も言わない。自分はむしろその逆だ。日常生活の場の中の会話では、圧倒的に世間話の方が多い。かくして、他の人がしゃべっている中で、黙って聞き役に回っている自分がいる。

 第 1585   中締め         2024.09.30(月)

 『 宴もたけなわではございますが、お時間も参りましたので、ここらで中締めをさせていただきます』  『それでは、三本締めを行ないます。皆様御起立をお願い致します。では、よぉー、チャッチャチャ、チャッチャチャ・・・・』
 なんいう文句が懇親会や職場の宴会の終了前の区切りであります。これから先、二次会へ行く方もあるでしょうし、ここで『 締め 』または『 〆 』を行なって完全終了としてはまずいというので、まあ、『 中締め 』なのでしょう。
 大相撲の白鵬の現役時代、優勝したインタビュ一のときに、まだ、土俵では優勝に関する色々な出し物が有るのに、観客と『 三本締め 』で締めてしまった。後で、相撲協会から大目玉を食らってしまった。元々外国人だから、『 締める 』という日本の風習・習慣を理解できた居なかったのでありましょう。
 別に宴会の中締めに付いて書こうという訳ではありません。僕の人生の中締めについて書こうと思っています。僕は75歳です。人生をマラソンに例えたら、もう、とっくに折り返し点は過ぎて『 トラック勝負 』になっているのではないかと勝手に思っております。
 中締め状態の僕の人生を振り返ってみて、私は性格が暗い。一人で居る方が好きな、つまらない人生だったと思っています。例えば、
*NHKの日曜日、昼の番組『 のど自慢 』にこれから出演して、大騒ぎしようとも思わないし、出る機会もないであろう。
*スポ一ツの観戦に行こうなんて気は少しも思わない。無料の入場券か何かを頂戴して、野球かサッカ一の試合を観戦し、その場では周囲に合わせて、応援の真似事はするかもしれない。でも、どこか覚めていて、自分を忘れて夢中で応援することもない。むしろ、応援に没頭できる方が羨ましい。
*静かにギタ一など弾いてみたい。ギタ一は持っているのだが、押入れの中にしまってある。もう今からではギタ一を習う気もなく、我が人生、このままギタ一を弾くこともなしに死んでいくのだ。
*社交ダンスもやらずに死んでいくのも残念だ。衣装は何と言うのだか知らないが、タキシ一ドみたいのを着て、くいと背筋を伸ばし、赤や青のドレスをきりりと着た御婦人とダンスを踊る事も一生無いであろう。
*一人で豪華客船に乗り、船で知り合った美人と船内のバ一で水割りを傾け、話が弾んだ所で船首に行き、女性が前方の海に向かって両手を広げ、僕が腰を支えるなんてことは、まず絶対にない。その後は船が氷山に突入しようが構わないのだが、その前段の状況ですら、僕のこれからの人生には起こらない。
*公園で老人が『 ゲ一トボ一ル 』というのもやっている。普通にやっている分には誰にも迷惑がかかりそうにも無い。運動神経ゼロの僕だって、ゲ一トボ一ルなら出来そうだ。静かにやっている分には一向に問題は無いが、決まってそのうち監督に成る人が現れ、隣町の老人会と試合をするとかになると、技術の向上を図ってうさぎ跳びをしたり、ランニングが始まる。代表選手の選抜とか精神鍛錬の話がが登場する。どうも、それは苦手だなあ。
*テレビのニュ一スか何か見ていると、スポ一ツ選手や、スタ一が空港の出口から出てくると、フアンが押しかけている。デジタルカメラや携帯のカメラで写真を撮ったり、手を伸ばしたりしてスタ一に触れようとしている。あれを『 追っかけ 』と言うのだろうな。どこでスタ一たちのスケジュ一ルの情報を得て空港まで来ているのか知らないけれど、この人たちは仕事をしているのであろうか。とてもじゃないけど僕は『 追っかけ 』にはなれない。どうすれば『 追っかけ 』に成るほど夢中になれるのか? そんな気持ちに成ったことは一度もない。彼らのスタ一やスポ一ツ選手のフアンとして夢中になれる人すらいない。これで一生を終える。
*歳が歳だから落ち着いた所で、『 義大夫 』とか『 小唄 』を習うと言う手もある。そんな手は有るだろうけど、やる気が起こらない。

 落語の『 寝床 』ということもある。歳取ってからの習い事は、自分だけの範囲でやっていれば、一向に適わないのだが、少しうまくなると、誰かに披露したくなるもので、はた迷惑にならないように注意しなければならない。
 人生、終末期に掛かって、中締めということしたとしても、自分自身で考えても暗い寂しい人生だなと自分でも思う。

 第 1584   誇り          2024.09.29(日)

 立憲民主党も自由民主党もここのところで党首が代わった。特に自民党は腐りきっていた。何か悪いことをする議員がいて発覚すると、いつも自民党の議員であったり、裏金で問題のあったのはほぼ全般に渡っていて、10月中に衆議院が解散して、総選挙と成りそうだが、石破が総裁になり、小泉さんが選挙対策委員長になったところで、今度の総選挙では自民党の議員数は減るに違いないと思うな。
 日本は誇らしい国ではなくなってしまったように思う。ところで、日本が世界に誇れるところって何だろね。
 『富士山』『桜』『工業技術、品質』 etc.
 富士山は世界文化遺産に登録されてから10年くらい経ったのでしょうか。遠くから見ていると何とも雄大な山で、いつ見ても心が和む。車で5合目近くまでしか行ったことはない。近くから見たのではイマイチじゃないのかなあ。歩いて登った事ないから知らないけれど、普段、街中で平気でゴミを捨てる道徳観のない輩がたくさんいるから、押して知るべしではないのか。それに高さだけなら、富士山より高い山は世界中にはいくらでもある。
 『鉄道』なんか誇れるんじゃないか。新幹線のスピ一ドもさることながら、各鉄道の定時運行は素晴らしい。海外旅行でも鉄道に乗ったことがないから、他の外国の様子は自分の実感としては分からない。だが、これほど素晴らしい定時運行状況はないに違いない。乗客の中に急病人か何か出て、駅で降ろすために3分停車しても、  『急病人を降ろすために、3分ほど遅れました。心よりお詫び致します』
 とか何とか言って車内放送で詫びている。何も病人が出てしまったのは鉄道会社の責任でもないし、心からお詫びしてもらわなくても良いと思うのに。
 定時運行のための努力たるものすごいね。目に見えるところで、東京駅で新幹線の乗車を待っている時、社内の清掃をしているおばさん達の手際の良さったら、呆れるほどだ。座席の背もたれに付けてある白いカバ一だって、そんなに汚れている訳でもないのに取り替えている。あのチ一ムワ一クの良さ、手際はよその国ではまね出来ないに違いない。
 運行に関して、時たま人身事故があって運休などする。警報機が鳴っているのに踏み切り内に進入したり、自殺志願者だったり、貧血で走ってくる電車に倒れ掛かったり、ホ一ムの黄色い線の外側を歩いて電車に接触して人身事故が起きる。故障など電車側の責任に起因するものは余り多くないのではないか。最近は、ホ一ムドアの普及が進んで来たから状況は大分改善されてきた。
 街中を歩く『夜の安全』も誇れると思う。時たま、真夜中に一人で歩いていて、殴られて金品を奪われるなんていう事件がある。普段、日常的に起きていたら、またかと言って、ニュ一スにもならないだろうに、ニュースになるくらいだから、そんなに頻繁ではない。色々事情はあると思うが、被害者の無用心さにも呆れてしまうな。まれに起こった被害者にとっては、運が悪かったとしか言いようがない。我が家の前を日付が変わってから大分時間が経っているのに、若いお姉さんが一人で歩いていたり、酒に酔ってフラフラ歩いているオヤジも事件に巻き込まれる確率はそれほど高くない。外国じゃ考えられないのじゃないか?。数少ない海外の経験で、東南アジアの国で夜、人ごみの中でさえ、ズボンのポケットから財布を抜き取ろうとしていた賊がいた。日本の夜が安全だからと言って、過信してはいけない。数多くの人が居る中で、みんながみんな、良い人とは限らない。

 第 1583   老いなのか、負け惜しみか   2024.09.27(金)

 世の中の出来事をなるべくよく理解しようと、新聞を読むように心掛けております。大分前から気が付いているのですが、新聞を読んでも、つまり結局、何が書いてあったのか分からないことが多くなった。確かに目は字面を追い掛けています。読めない字もまずありません。それなのに、内容をほとんど掴めていないことに気が付くのです。
 内容を掴めていないと気が付いた時は、大抵読み直します。加齢による記憶力の減退、集中力が衰えていることはまず第一に認めます。それにしても酷すぎる。何故なのでしょう。
 新聞でも社会面はまだ大丈夫です。問題は始めの方のペ一ジです。新聞の文字は1行に12~14文字くらいあります。条件、状況、背景などを何度も読点( 、)で繋いで7~8行のひとつの文にしている。言葉が難しい上に読点で繋いでいるものですから、一体どれが主語でどれが述語だか、意識して見極めないとさっぱり分からん。
 頭の老いのせいするのは酷な様な気がする。単に字面を追っているだけでは、文の意味を理解することは到底無理です。新聞の文はひとつの文が長過ぎるのが原因でしょう。文は短い方がよい。相手に容易に内容を伝えることが出来なければ、文が下手だと言われても仕方がない。読点を多用して文を長くするのは困ったことです。  もっと酷いのが法律です。これは到底素人向けではない。試しにちょっと書いてみると、
 『 前2条の規定によって国または公共団体がそん害を賠償する責に任ずる場合において、公務員の選任若しくは監督または造営物の設置若しくは管理に当たる者と公務員の俸給、給与その他に費用又は公の造営物の設置若しくは管理の費用を負担する者とが異なるときは、費用を負担する者もまた、そのそん害を賠償する責に任ずる 』
 例えばでこんな文章を書きました。法律関係を生業として読み慣れている人以外の方は、一度読んだくらいでは恐らく意味が全く分からんでしょう。どんなに頭の良い人が書いたとしても、こんな文は最低だと思う。法律だってもっと簡単に噛み砕いて書くべきだ。
 僕にとっては睡眠薬以外の何物でもない。文とお説教と結婚式の主賓の挨拶は短いほど良い。頭の老いを棚に上げて書いたけれど、賛同してくれる方はたくさん居ると思う。
 井上ひさしさんの作文教室にたくさんの参考になるようなことが書いてあった。
* 自分だけ書いて、それで文章が出来たと云うのは間違いである。受け手が受け取って、理解して、感想が生まれて文章が終わる。
*優れた文章と云うのはなるべく小さく千切ったものを、相手に提供していく。
*『 読み手 』のことを考えることが、実は『 誰にも分かるように書く 』ことなのです。
他にもたくさん注意事項が書いてあったけれど、主だったところは、主語と述語をはっきりとすることと、長い文章はダメなようだ。

 第 1582   人間の弱さ       2024.09.19(木)

 『カエルの面にしょうべん』と言う言葉があります。兵庫県知事もしぶといですね。四面楚歌と云う言葉が有りますが、四方八方から辞職要求があっても知事の座から降りようとしない。この知事さんは精神的に強いのでしょうかね?そうは思いません。ただ、駄々をこねているとしか思えません。

 新聞の社会面を見ていると、時々、殺人事件を起こして逮捕された被疑者の記事が出ています。ナイフや包丁で刺したり、棒やバットで殴り殺したとのことです。犯行は認めたのに、
 『殺すつもりはなかった』
   という供述をしている場合が非常に多い。ナイフや包丁で刺し、バットで殴っても人は死なないとでも思っているのだろうか。犯行は認めても、殺意を否認して少しでも刑を軽くしたいと思っているのでしょうか。
 死刑が確定した者の6割の人たちが、再審請求しているのだと言います。裁判で死刑が確定しても、再審請求中は原則、死刑は執行されないとの事。中には100%冤罪がないとは言いません。日本の裁判は三審制と言って、地方裁判所、高等裁判所、最高裁判所と、最高で三回裁判が行われる。三回の裁判をする過程で、言いたいことは申し立てて欲しい。新証拠も出て来ていないのに再審請求する。再審請求が6割とは異常だ。死刑の執行逃れとしか私には思えない。
 また、死刑囚の中には、自分の大便を顔に塗ったりして、心神喪失を装い、死刑執行を逃れようとする者もいるそうです。死刑は心神喪失状態の者には執行されないことをちゃんと知っているのです。身勝手に人を何人も殺しておきながら、皆、自分の死は恐ろしいのです。
 私の父は戦争で負傷した傷痍軍人です。そのせいも有ってか、私は子供の頃から戦記物を読んだり、戦闘機、軍艦などのプラモデルを作ったりするのが嫌で、避けて来ました。戦争に関する本や小説を読んだりし始めたのは、会社で役職定年になった55歳を過ぎてからです。
 その中にはインパ一ル作戦に関する物もありましたが、最も無謀な作戦が何故行われたのか知りました。
 作戦の計画では3週間の行軍です。兵士たちには3週間分の食料が与えられ、その後の補給の目途は全くありません。その作戦を指揮したのは牟田口司令官。ビルマからインドのインパ一ルまで最大470kmの行軍です。日本の戦況では、太平洋の島々での戦闘にいずれも破れ、インドのインパ一ルを陥落させ、起死回生を狙ったものです。
 物資の補給が出来ないなどの理由で、作戦を中止するよう提言する将校達を卑怯者と罵倒し、牟田口司令官は作戦を強行しました。3週間の行軍の予定が、3ヶ月掛かりました。大きな兵器は分解し、担いで兵士たちは生い茂るジャングルの中、兵士たち自らが白骨街道と呼ぶ道を進んで行きました。牟田口司令官は作戦開始から行軍には同行せず、後方のビルマに居ました。夜毎、宴会をしていたという話です。
 部隊と行動を共にしたのは作戦が遅々として進まぬ、ずっと後からです。4ヶ月目に大本営からこの無謀な作戦に対し中止命令が出ました。
 この作戦では行軍の往きよりも、帰りの方が戦死者は多く、戦死者3万人、傷病者4万人出ました。戦死者の大半は戦闘でなく、餓死やマラリアなどの病気で亡くなりました。怪我や動けなくなった戦友を放置しなければ、共倒れとなります。食料が有りません。兵士は死んだ戦友の人肉まで食べ、これがトラウマとなって苦しんだようです。大本営からのインパ一ル作戦中止命令で、牟田口司令官はいち早く帰還したとのこと。
 牟田口司令官は戦後1966年まで生き、77歳で亡くなりました。兵士を人とも思わず、虫けらのように扱い、作戦反対者を罵倒し、最も無謀と言われる作戦を強行した司令官です。残された資料や録音テ一プでは反省の弁や記述はなく、大本営の命令だと責任逃れをした。大本営もインパ一ル作戦を強行したのは、ビルマの現場の司令官だと、責任逃れをしています。
 栄達や栄誉を望んだ指導者は、人の命を何とも思わず、無謀な作戦を強行する。そのくせ、自分だけは生き永らえている。反省の弁もない。いつも死ぬのは下層の人ばかり。人間の性(さが)と言うのはこんなものなのでしょうか。牟田口司令官には責任を取って、せめて切腹でもして貰いたかった。
 自分はいつも思うのですが、『人間、潔さが無くなったらお終いだ』と思うのです。

 第 1581   バスツア一       2024.09.10(火)


 9/7(土)に読売旅行のバスツア一に行って来ました。行先を予め明かさない『ミステリ一ツア一』と言う事なのです。ツア一のパンフレットにお土産に巨峰2房が付くと書いてある。ミステリ一ツア一と言えど、行先は山梨方面にほぼ決まりである。山梨方面でも見どころはいくつかあって、その組み合わせがミステリ一と言うらしい。
 読売旅行のバスツア一に参加する人たちには、若い人はまず居ません。年配の父母に同行する、それなりの年齢の息子や娘がいるくらいで、参加者のほぼ大部分は年配者である。
自分たちで計画してプランを立て、鉄道の手配をしたり、車を運転してと言うことの出来なくなった年配者が、読売旅行のプランのほぼ対象者である。会社の立てたプランの中から、そこそこ、自分に合っていそうなものを選んで申し込めば、昼飯の手配を含めて、あちこち連れ回してくれる。何も考えることはない。ただ一つの心配はトイレで、次の休憩所まで自分の膀胱の容量を考慮して飲み食いすれば良いだけである。
 9/7の中央高速道路は事故渋滞により大変な混雑していた。渋滞は高速道に乗る前から中々進まず、天気も良ければ外が暑いのは仕方ない。バス車内はエアコンが効き、絶好の行楽日和です。初めから『ノロノロバスに乗ることが目的の旅行と考えれば、イライラすることもなく、何と言う事はありません。電光板に『渋滞30km』と表示されていますから、渋滞を楽しむには十分と言えそうです。
 何年か前に、静岡県の三保の松原を含めて、富士山周辺が世界遺産に登録されました。登録されるのと、されないのでは経済効果がえらく違うのでしよう。画像に示す、『山梨県立富士山世界遺産センタ一』なる立派な展示場が出来ていた。
 世界遺産に登録されることにより、街中も影響が出て来て、ケバケバしい色の建物は作れないらしい。コンビニのロ一ソンと言えば、店の外観、彩色は想像できると思いますが、たまたま見たロ一ソンのお店は、店の外観、壁の色がベ一ジュで、屋根が茶色であった。世界遺産の街では店のイメ一ジカラ一も変更を余儀なくされてしまうらしい。
 おさむ爺もすっかり歳を取ってしまって、バスの限られた場所にずっと閉じ込められていたせいか、疲れてしまったよ。次の日は一日中グッタリしていた。

 第 1580   カタカナ語       2024.08.28(水)

 先日、『 レイブル 』と言う言葉を聞いた。調べて見たら、late bloomer の略なのだと言う。ニ一トとは違って、就労意欲があるものの、仕事に就く事が出来ない若者の総称なのだとか。
 late bloom なら、何となく『 遅咲きの花 』と分かる。ジジイは bloomer となると、その昔、体育の時間に女子が着ていた『 提灯ブルマ 』を思い浮べてしまう。
 インバウンド           訪日外国人客
 オ一バ一ツ一リズム        観光客が多過ぎ
 キャッシュ オン デリバリ一   商品の代金引換渡し
     などなど多数。
 世の中にカタカナ言葉が多く出現している。ジジイは何のことだか分からなくて、困っている。必要そうなのは、調べている。別にもう付いて行こうなんとは思っていない。
 日本語でちゃんと表わすことが出来る言葉に、何故カタカナ語を使うんだ?!
外国語をカタカナにするだけでなく、短く省略するからなおさら分からなくなる。
 『 用の終わった人 』 は対象外な事は分かっているけど、それならそれで、用の終わった人に使わないで呉れよ。カタカナ語を使う人は、多分、自分で使える語彙の少ない、日本語に変換出来ない人が多いのではないか?。

 第 1579   かくれんぼ       2024.08.27(火)

 中学生の頃から、近視のメガネを掛けています。もちろん、今は老眼にもなっている。以前は遠近両用のメガネを掛けていました。新聞などを読むには、レンズの中の老眼用の限られた部分を通して見なければならず、鬱陶しくて成らなかった。
 元々近視の者はメガネを外せば、新聞や本などの近くのモノは見ることが出来るのです。
 どうせメガネを外すのだからと、今は近視用だけのメガネを掛けています。
 たった今、ここにおいた筈のメガネがない。何処に置いたのだっけと探すけどない。僕のメガネは茶目っ気が強く、よく“かくれんぼ”をして僕を困らせる。
 『まあ、いいや 勝手にしろ』と探すのを諦めた振りをして、相手にしないと、一人でかくれんぼしてもつまらないらしく、ひょんな所からメガネも諦めて出て来る。
 皆さんもこういった経験あるでしょう。いたずら好きのモノは無視すると出て来るのです。でもね、最近は“かくれんぼ”が流行っているらしく、色々なものが“かくれんぼ”してジジイは困っている。ジジイだって、遊んでばかり居られない。

 第 1578   老い          2024.08.23(金)

 後期高齢者となって、医療費の窓口負担が1割になったのは、すごく嬉しい。収入が少ないから、1割なのですから、ちょっと寂しくもある。貧乏だという事だ。
 子供の頃、『 鬼ごっこ 』か何かの遊びをする時に、小さな子が入っていると、その子は一番先に捕まっても、『 ミソっかす 』と言って、鬼の役を免除するル一ルが有った。大変ありがたいことなのだが、医療費窓口1割負担は何か、『ミソっかす』のような気がしないでもない。
 『年甲斐もない』とか云って、いい歳をして愚かしいことはしてはいけないと、用心深くなる。もはや、性などには、さも関心が無いかのような振りもする。
 自分の人生を四季に喩えると、『晩秋』かな。もうじき木枯らしが吹いて、寒い冬がやって来る。ここまで書いて四季に喩えてはダメだと気が付いた。非常に残酷なことに、老いにはもはや、春は来ない。『 まだまだ 』とか、『 身体は老けても、頭や心は老けていない 』とおっしゃる方は居るかもしれないけれど、それは錯覚だな。『 頭や心が老いていない 』と思うこと自体が老いの証。老いて初めて若さが分かる。
 僕がこの歳になって、今更、気が違って古典なんか学ぼうと思っているけど、これこそ『 老いに対する焦り 』だなと思う。

 第 1577   ファスナ一       2024.08.16(金)

 後期高齢者ともなれば、日常生活の中でズボンのファスナ一を『上げずに』徘徊することがあっても、特段おかしくはない。他人からの指摘、あるいは自分で気が付いた際に、多少気恥ずかしい程度で実害はない。
 反対に、ファスナ一を『下げずに』ようになると事態は深刻である。在宅中であれば、恥ずかしさも、身内の中で済み、着替えは容易であろう。外出中であったならば、おそらく着替えは用意していないだろうから、実害は大きい。
 斯様に、ズボンのファスナ一を『上げずに』と『下げずに』とでは、大変な違いがある。
 ここまで書いて、世の中には『吸水パンツ』、いわゆる『大人のオムツ』と言うものがあることに気が付いた。
 高齢者や病気の方でなくても、容易にトイレに行くことが制限される方が着用なさる話を聞いたことがある。例えば、箱根駅伝などで、先頭の走者に密着して実況放送する車に乗って解説者や実況アナウンサ一、その他の方は5時間以上トイレに行くことは出来ない。尿瓶やバケツと言う手もあるだろうが、大人のオムツを活用するという選択肢もあるのではないか。
 おさむ爺は過去に何度か入院してことがあっても、乳幼児以来70年以上もオムツなるものを着用したことがない。放尿あるいは脱糞後の感触はもうすっかり忘れてしまった。オムツよりもう少し恥ずかしかった、『導尿』と言うのは一度だけ経験がある。
 20歳の時、虫垂炎(盲腸)の手術を受けた。手術を受けた晩、寝る前にオシッコをする時に、尿瓶を持って来られた。看護婦さんが見ている前で、横になったまま放尿は出来ないものである。中々出なくて、しびれを切らした看護婦さんは導尿を決意し、おチンチンの先からチュ一ブを入れて否応なしに尿を吐き出させた。その時は年配の看護婦さんで良かった。僕は20歳である。若い看護婦さんだったら、もう恥ずかしくて居られない。その次の朝からもう自分で歩いてトイレに行った。
 大人のオムツがある以上、高齢者や病気療養中の方の需要が多いのであろう。私とて近未来にお世話になることがあるのだろう。もしそうなった場合でも、オシッコはともかく、大便の方は恥ずかしいな。なんて言っている内はオムツ着用の『初心者』で、生きていると、オシッコも大便も出て当たり前なのである。
 オムツを着用されている方は何も好きこのんで、オムツを着けている訳ではない。生きるために仕方なく着けているのである。取り替えて頂く際には、申し訳ない気持ち一杯で、処理して頂いているのである。

 第 1576   私の最期        2024.07.12(金)

 宗教にはほとんど興味がない。9年前に両親が続いて亡くなり、小さな仏壇を買った。毎朝、線香とお茶をあげている。家の宗教は日蓮宗だと知っている。お墓は宗派問わずの墓苑で、お寺さんとの付き合いはない。
 法事を執り行う場合は、墓苑の管理事務所に依頼すれば、提携している宗派のお坊さんを手配してくれる。
 かつて檀家であったお寺さんと決別して墓苑にしたのは、お寺さんから何かと高額な寄付の要求があり、高齢の父母は付き合いきれず、お寺さんと分かれました。僕も宗教法人は寄付に頼らないとやっていけないことは、理解しています。
 お寺さんと分かれて、丁度募集をしていた墓苑内のお墓を父母が買った。祖父母、両親と弟が今そのお墓に入っている。年に3回くらいは墓参りをしている。私の宗教とのお付き合いはそのくらいである。宗教に興味がなくても、世間一般との摩擦を少なくし、穏便に生きようとは思っている。もちろんお墓とは別に、初詣や、めい所旧跡、寺社参拝は宗派問わず何処でもOKです。
 本来、宗教とは病や貧困などの苦しみから身を救ったり、死後に浄土へ行くことを願うためのものだったのであろう。昔は頼るものがなく、人々は神仏にすがった。
 ○○薬師と云うお寺さんがある。今も病となってお参りする方はいらっしゃるでしょうが、お参りしたからと言って、病が治ると本当に思っている方は少ないと思う。病なら医院、病院に行く。お寺の住職ですら、心筋梗塞や脳梗塞になれば救急車で病院に運ばれ、治療を受ける。
 貧困ならば、生活保護である。行政が解決する問題で、そのために税金を払っている。お寺や神社が救済してくれる訳ではない。
 『縁結び』のお寺や神社が有る。お参りする方も当然居るが、結婚したければ結婚相談所、婚活パ一ティ一、合コン、あるいはマッチング・アプリと云ったところであろう。
 『安産の神様』も同じだ。難産となって母子とも生命の危険になった時、神様が強心剤を注射したり、帝王切開して助けてくれたなんて聞いた事がない。あくまで神仏は気休めである。お参りして気が済むのなら、『お参りはどうぞ』である。
 苦しみから逃れるため、つまりマイナス部分を排除して、明るく陽気さを求めて生きるために宗教とお付き合いしているのだと思うが、本心では効果を期待していない。今までの慣習を捨てる勇気がないだけなのでは? 地方の年配者や、僕より年配者以外の、日本人のほとんどが無宗教なのではないか。
 あったとしても、心の拠り所くらいの役目か。宗教を信じて安らぎを持てる方がいらっしゃるなら、私はあえて反対など決していたしません。
 それどころか、宗教が基での忌まわしい出来事は過去の歴史で数々有る。思い付くまでに挙げても、まず『十字軍』がある。中世、ヨ一ロッパのキリスト教徒の諸国が聖地エルサレムをイスラム教諸国から奪還することを目的とした遠征軍だ。意外に思うかも知れないが、呼び方も考え方も変遷してしまっているけれど、キリスト教もイスラム教も、もともとは同じ神なのです。だから、聖地はどちらもエルサレムにある。神の教えを人々に伝える預言者が違う。キリスト教はイエス・キリストであり、イスラム教はムハンマドなのです。同じイスラム教でもスンニ派とシ一ア派ではいがみ合う。
 浄土真宗の本願寺も織田信長と戦い、現在でも東本願寺と西本願寺では仲が悪い。そんな大昔でなくても、オウム真理教は地下鉄サリン事件と云う無差別テロを起こした。このように宗教にからんだ事件や戦いは他にもたくさんある。
 基本的に、人間は群れを成す。動物の世界では『仲間か敵か』の関係で成り立っている。ある宗教と、異なる宗教では互いに相手を排斥しようと争いを起こす。『人間の本能』だから、いつまで経っても争いの基になる。 昔はお坊さんや神主さんは、尊敬された。尊敬されるにはそれなりの効果や根拠を我々に示さなければならない。ただ、社寺と言う属性だけで、現代では尊敬されるわけがない。衣装は厳かであっても、中身は単なる普通の人なのである。酒も呑めば、風俗産業に行く生臭坊主も居る。古典落語の演目に『錦の袈裟』と云うのがある。ありがたいお坊さんの袈裟を借りて、与太郎のふんどしにしてしまうのだから、何とも風刺が利いていて楽しい。
 お寺さんも神社も『商売』なのである。信者や檀家からお布施や寄付を貰い、祈祷料をもらい、結婚式場になったり、お守り、破魔矢、御札、その他色々な物を売って生業としている。何処の宗教が無料で宗教活動を行うのだ? 寄付や入金があってこそで、無料なモノはご利益が無い。『ご利益が無いのは信仰心とお布施が足りないのです』と云うのが彼らの常套句です。
 僕がカミさんより早く逝ったとして、葬儀はカミさんや子供たちがやり易いようにやってくれればよい。そのまま山か草薮に遺棄してカラスや犬猫のエサにはしないと思う。第一衛生に良くないや。火葬だけの直葬で良いといつも言っている。骨は海に捨てようが、畑に撒こうが、それとも父母が建てた墓の片隅にのう骨してくれても良い。大体、葬式なんて死んでしまった本人には分からない。盛大な葬儀なんて遺された者の見栄に過ぎない。死んだ後のことまで、あれこれ指示するなんて図々しいにも程がある。
 死んだ後には僕はこの世に居ない。イスラム教徒でないから、来世も信じていない。お参りだって要らない。残った人にお任せである。
 産卵のために遡上するサケでも、アユでも、タコ、カマキリ、セミも産卵を終えて子孫を残す手続きが完了すると死んでいく。子供を自立させた後は、もう完全に『余りの人生』だと思っている。宮沢賢治じゃないけれど、1日に3度、茶碗に1杯ずつの飯と、雨露しのげる住まいがあれば良い。それ以上望むから欲が出る。
 美術工芸品も要らない。グリ一ン車にも、ファ一ストクラスにも乗りたくない。余りに上等なのは居心地が悪い。移動は電車とバスと2本の足で十分。いつ幕が下りたとしても思い残すことはない。(本当かなぁ)病院のベッドでいつまでもダラダラと生きて周りに迷惑を掛けたくない。出来れば突然の心筋梗塞か何かで、ポックリ逝きたい。突然の完結で良い。それも人生。僕はそれで良い。

 第 1575   ゴキブリ        2024.07.04(木)

 私の次男は小さい時から虫が嫌いだったようだ。幼稚園生の頃だったか、セミ取りに連れて行って、捕まえたセミを持たせたら、結んだ手の平の中でセミが羽をブルブル振るわせているのが余程怖かったのだと思う。
 大人になってもゴキブリだけでなく、小さな虫までも嫌なようです。次男の嫁さんが大丈夫なのかどうか知らない。都会出身でなく子供の頃、ザリガニ取りなどしていたような話だったから、多分大丈夫でしょう。家庭生活を営む上で、夫婦のどちらかが平気でないと、両方共がゴキブリを怖がっては困るな。
 次男の息子、つまり私の孫は今年5歳になった。住んでいる所が川崎市でも比較的緑の多い場所だから、セミやカブトムシ、カナブン、バッタ、コオロギなども居るに違いない。次男の息子だから、休日に網と虫かごを持って、虫取りに連れて行ってもらえないのではないか? 幼少期に虫取りなど経験しておくことは非常に大切なことだと信じています。
 さて、ゴキブリである。私の母などは『 アブラムシ 』とかつては呼んでいたようだ。『アブラムシ』はアリに運ばれて草花の茎に群がっている、別の系統の虫にその呼称を譲渡したようです。今もゴキブリのことをアブラムシと言っている方が居るのかは存じません。ほぼ呼称がゴキブリと統一されたように思います。
 私のかつての知人に『 クワガタムシ 』を飼育されている方が居た。たくさんのプラスチックの飼育箱で飼っているようでした。その方がこれまた大のゴキブリ恐怖症で、ゴキブリが部屋の中に出現すると逃げ回っていた。
 『 クワガタもゴキブリも似たような形をしているじゃないか 』と言うと、全然違うと口を尖らせて言うのであった。
 黒光りするその姿は惚れ惚れする上に、とてもすばしこい。まるで忍者のようである。見つけると、新聞紙を丸めた物か、スリッパの下面で叩こうとするのだが、動きが素早くて大抵は逃げられる。殺虫スプレーと新聞を丸めた筒で、大立ち回りをすることとなる。紛れ込んだと思われる場所にスプレー噴射するも、敵もさるもので、とんでもない別の所から出現するのである。
 ゴキブリは太古の昔から存続しているらしいが、この素早さ、脚力の賜物ではないか。ゴキブリが1匹出現すると、次の日から家の中のあちこちにゴキブリハウスや、ゴキブリ用毒入り肉団子が、ゴキブリが出現しそうな個所に配備されるのである。
 皆さんが忌み嫌うゴキブリでありますが、現実の話として、彼らが家の中に共存すると、何か非常なる都合の悪いことが起こるのでしょうかね?
 毒を持っていると言う話を聞いたこともない。生き血を吸われるわけでもない。テーブルの上の食品に張り付いていたら嫌だけれど、それほど目の敵にして、丸めた新聞の筒と殺虫スプレーを持って大立ち回りして即座に退治しなければいけない対象でもないような気もする。セミと同じほどのレベルの虫ではないのかなぁ?
 私が小学生くらいの時には、自分の周りにはハエがもっと多く居た。今は、便所コオロギと言っていたカマドウマの姿も、カナブン、バッタ、トンボも、何もかもいなくなってしまった。それはそうだ。私たちの周りには彼らが生息できる、雑木林も原っぱも水辺も、みんな無くなって住宅に成ってしまったからなぁ。
 雑木林も原っぱがなくても、生存できるゴキブリが生き残れるのか。彼らは環境順応性の高い生物なのだ。研究して学ぶべき事柄が多い生物なのかも知れない。ゴキブリから素晴らしい能力の遺伝子が抽出され、培養して人間に移しょくしたら、陸上100m短距離走で素晴らしい記録が出たんだとさ。なんちゃってね。

第 1574   夢なんか叶う方が少ない     2024.07.03(水)

 小学校の卒業文集の中に将来なりたい職業に、おさむ爺は『 文房具屋さん 』と書いたことをよく覚えている。将来成りたい職業に、プロ野球選手、新聞記者、パイロットなどと花形職業が並んでいる中で、『 文房具屋さん 』とは当時から何とも小市民的な職業を希望したものなのだろう。その当時は知らなかったから書かなかったけれど、知っていたなら、『 隠遁生活 』と書いていたかも知れない。
 木製の桶の製造販売をする家で育った。子供の頃、何かと『 桶屋 』、『 桶屋 』と言われ、当時は当たり前であった、家の手伝いもさせられた。サラリ一マンの家庭に憧れていましたが、イメ一ジした『 文房具屋さん 』も、たぶん小学生相手が主で、猫を相手にしながら、店番をするような静かな職業のイメ一ジを持っていたに違いない。プロ野球選手のような華々しく活躍をするような、夢は全く持ちませんでした。まったくの引っ込み思案な子供でした。
 かつては、JRの最寄り駅周辺に何軒か『 町の文房具屋さん 』規模のお店がありました。現在はゼロです。ちょっとした文房具を買うのに困ってしまって居ます。今は¥100shopか、本屋さんの店舗の片隅で申し訳程度の文具を置いている所で済ますしかありません。特別の文具は電車に乗って買いに行くしかありません。 ついでに言えば、最寄り駅周辺で本屋さんですら、たったの1軒しかないのです。おさむ爺は現住地に住んで40余年になります。最寄り駅から連なる数本の商店街の中には、小規模な町の本屋さん、おもちゃ屋さん、小間物屋さん、履き物屋さん、雑貨屋さんなど、家族経営のようなお店はほぼなくなってしまったようです。
 おさむ爺も猫を相手に店番するような『 文房具屋さん 』にはならなくて良かったような気がします。

   昨今、『 将来の姿を夢見て、努力すればきっと希望は叶う 』とか、もう古いですけど、SMAPの歌のように『 世界に一つだけの花 』なんて、子供や若い人を惑わすようなことが多く言われる。
 良かれと思って選び、せっかく入社しても数カ月で辞めてしまう。もちろん例外が有って、一般論で言っているのだけれど、余程劣悪な環境でない限り、今居る環境できっちりと仕事をこなせない人が、別の所に行って水を得たようにうまく行くなんて有り得ないと、ジジイは思うのだよ。
 『 ここは自分の居場所じゃない。自分の能力を生かせる場所が他にきっとある 』なんて言うような意味の言葉をよく聞くけれど、世間知らずの思い上がりで、考え方そのものがおこがましい。
 大リ一グ 大谷選手やイチロウさんに憧れるのは結構です。自分もそうなろうと夢見て努力したって、実現する可能性はゼロに近い。ある世界で際立って突き抜けた人たちは元々才能がある上で、色々な欲望を捨てて邁進し、血を吐くような努力をして今の結果を手にしているのであります。彼らは軽々しくその場に居る訳では決していない。思い付きで大谷選手やイチロウさんのようになりたいと夢を見ているのではない。
 将来就きたい職業の夢も、職業の種類によって努力をすれば、可能な職業は確かにたくさんあると思う。綿密な調査と努力によっては可能でありそうであれば、目標に向かって邁進すればよい。だが、夢は必ずしも誰もが叶うわけではないことを十分知っておくべきだ。
 夢が叶わないと分かった時点で、さて今後どう対処していくべきかを考え、学ぶことがとても大切だと思う。夢が叶わないと絶望するだけでなく、自分の生活設計を含めて、土俵際まで押し込まれた時の我慢強さや、踏み止まる底力を養成することが大切だなあ。
 ジジイは今、家に居てブラブラしている身分なのだ。『 誰からも評価されることのない身 』は行動した成果を評価されることもない。ちょっと寂しい気分なのです。

 第 1573   ズル         2024.06.29(土)

 50年間以上、吸っていたタバコを止めて、3年半くらいになる。全くと言って良いほど気に成らない。ごく稀には『 タバコって、どんな味だったかな 』と思うことがある、と言うのが未練がましい正直な本音であります。
 禁煙するとやはり体重が増えて来る。おさむ爺は一見すると痩せて見えるらしい。BMIでは、数値が25以上になると太り気味と言う。ジイはそこまでは行かないが、24台である。健康診断で腹囲を測定するが、男のメタボの目安の85cmは遥かに超えている。
 ズボンを穿く時、ファスナ一を上げる前に、まずフックかボタンを掛けなければ成らない。今の状態では息を吸い込んで、お腹を一旦凹ませなければ、フックもボタンも掛からない。普段穿いているズボンでは、もはやベルトは必要ない。ズボンのフックかボタンを掛けた状態で、お腹の上部の肉( 脂肪?) がオ一バ一ハング状態になっている。
 夜中に目が覚めてしまった時にテレビを点けると、テレビショッピングの番組をやっている。このところ、あまりテレビで見なくなってしまった、タレントさんを使って商品説明をしたり、商品ビデオを流して紹介している。 ずっと以前のことだが、寝転がってテレビでも見ながら、お腹の筋肉をピクピク動かす『 電動筋肉養成(脂肪削減)ギブス』のようなものが有ったことを思い出した。その後、効果が期待できずにその商品は無くなってしまったかどうかは知らない。
 弊ジイだって、少なくとも20代までは腹筋が8つに割れていた。苦しい腹筋運動をしばしばやっていたし、その頃はまだ代謝が良くて、いくら食べても太らなかった。腹筋運動は本当に苦しい。寝転んだまま『 電動筋肉養成(脂肪削減)ギブス』を使って、腹周辺脂肪除去と腹筋養成は頭良いけどズルい。
 こんな商品は多分アメリカの商品であろう。大統領候補の選挙の演説会の聴衆や、米国市民の映像をテレビで見ると、アメリカ人はデブが非常に多い。これでもかと言うほどデブばかりだ。高カロリ一のフライドチキンや、キャベツほどの大きさのハンバ一ガ一を食べたり、2~3リットルのコ一ラを平気で飲んでいて、とにかく食に関しては桁外れだ。
 カロリ一の高い食物を摂取する一方で、横になってソファ一に寝転んで、ポテトチップスでも摘まみながら、楽してお腹を凹ませようと考えるのだから、虫が良いのも良いところだ。ズルいよ。
 お腹に離して貼った2つの電極パットに電流を流し、電気の刺激で筋肉をピクピク動かして、お腹が本当に凹むのであろうか?
 かつて、私は腰痛持ちであった。今ではほとんど毎日、腹筋運動を含む体操をしている。体操のお陰で腰痛は大幅に改善された。腰痛は運動ふ足だから起こると言う信念を持っている。腹筋運動の副次効果で、お腹も凹むに違いないと思うのだが、期待しているほどには、腹は凹まない。
 腰痛持ちだったから、家で手軽に掛けられるように、我が家にはオムロンの家庭用の低周波治療器が2台ある。夕食を食べて風呂に入った後に、寝転んで本を読む習慣がある。この時間を無駄に過ごすことはない。『 時間は有効に使わなければいけない 』とかつてパスカルも言っていたような気がするが、確かではない。
 お腹を出して、低周波治療器のパッドを貼り付け電源を入れる。電気の刺激で確かにお腹の筋肉がピクピク動く。
『 もしかしたら、良いかもしれない 』
   筋肉はなるべく大きく動かす方が効果的であるに違いない。かと言って、レベルを強くし過ぎるとパッドを貼り付けた接触面の皮膚が痛い。低周波治療器には『たたく』と『もむ』という2つのモ一ド切替えスイッチが付いている。筋肉の方だって同じ刺激ばかりだと慣れるし、飽きが来る。10分くらいずつでモ一ド切替して、筋肉にも気分転換して、新鮮な気分を味わって頂くことにした。斯くして、約1時間、2日に渡って施術したのである。
 腹の脂肪は一朝一夕に蓄積したのではない。長い時間を掛けてこれだけ迄、成長を遂げたのである。まあ、2時間ほどでは顕著な効果は出まい。脂肪の事だけに、『 死亡診断書が必要だ 』なんて、ジジイギャグも出てきそうだから止めておく。本を読みながらの併行作業だから、時間の有効利用が出来てまことに結構。腹筋運動の苦しさも全くないが、実際に効果が有るのかは一抹の疑念も否定できない。『 継続は力なり 』 誰だって楽してズルしたい。

 第 1572   余生         2024.06.24(月)

 放送大学の科目履修生になり、『 枕草子の世界 』と言う講座を学んでいると、5/2に書いた。一年掛けての講座ではなく、半期の講座はまだ継続中で学び続けている。これから幾許もない余生に『 今更、そんなこと学んでどうするの? 』と言う気持ちが確かにある。
 一回の放送で印刷教材の中の一章ずつの講義がある。高齢受講者だから理解力にも欠ける。少なくとも印刷教材の講習範囲を二度は読んで講義に臨み、復習して読んでいる。既に少なくとも一冊分3回は読んでいる。
    おさむ爺の生涯でこんなにも入念に本を読んだのは、夏目漱石の『 こころ 』以外にない。『 こころ 』は生涯に合計して何度読んだか分からない。たぶん高校生だった時と思うが、連続4回読んでいる。一旦読み終わると、また始めから読むと言うことの繰り返しで、読む都度に新たな発見や感動があった。多分、若かったからそんなことをした、あるいはできたのだと思う。
 『 枕草子の世界 』と言う本を何度も読んだのは、興味があるからと言うことはもちろんだが、一度読んだだけでは何となく理解できず、仕方なく何度も読むと言う、年齢面の理由が有ったことは否めない。まあ、『 好きこそ上手 』、『 下手の横好き 』と言うことにしておこう。
 実際には次に学ぼうとしている準備は始めていて、『 方丈記と徒然草 』を学ぼうと思っている。早々、ネットで『 方丈記と徒然草 』と言う教材と、『 方丈記と住まいの文学 』という参考資料を入手して読み始めている。
 おさむ爺はこの6月に後期高齢者になった。死ぬまでの間、つまり余生にもう何をしても良いのです。定年退職などでリタイアした後、人によっては “そば打ち” をしたり、 “陶芸” 、 “NPO法人” を立ち上げて、ボランティア活動のようなものをしたり、お金のある方は“世界遺産ツア一”をしようが、大型客船で“世界一周”する方もいる。何やっても良いのです。おさむ爺は予算の都合もあって、たまたま『古典を学ぶこと』に興味を持ったに過ぎません。
 『 今、あなたは何が一番好きなのか? 』、『 何がしたいか? 』、『 何をしている時が一番楽しいか? 』・・・・・。 答えは何でも良いのです。ただ、他人に迷惑を掛けてはいけない。“そば打ち” だって、亭主が週に1度やってご覧なさい。打ち上がった蕎麦は捨てる訳にいかない。友人知人を集めて、『手打ちそばを食べる会』を開催しても良いが、そう度々は出来ない。するとご家族は家人が “そば打ち” をする都度、毎度出来た蕎麦を食べなければならなくなる。他の人に苦痛を与えてはいけないのです。落語の『 寝床 』あるいは『 茶の湯 』のように、周囲のものに災難が及ぶようではいけないのである。
 あなたが○○をやることで、あなた以外の誰をハッピ一に出来るか?あなたの好きなことは、あなた以外の誰のためになるのか⇒それは最終的に我国のためにどう生かされるのか? そこまで行ったら大したものだけれど、それほど大仰なものではない。
 私たちはもう好きなようにして良いのである。好きなことが言えるようになったのである。人が何と言おうと関係ない。人の目なんか気にしなくていい。欲しいものは欲しいと言った方が勝ち。でも、もし余裕があったら、自分の姿形にも少しは関心を持とうね。筋トレでもして、体力を付け姿勢を正しくしなくてはね。
 生きたいように生きようと言っても、うっかりするとすぐに易きに流されるのが人間。その点は十分注意をしなくてはいけない。どうしても、他人に厳しく、自分に甘くなりがちだからね。
 あまりに肩ひじ張らないで、『 晴読雨読、ときどき散歩 』なんかを motto にしたらどうでしょうかね。