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おさむの書斎

 僕の家には狭いながらも自分の書斎があります。広いスペースではありません。たった3畳の大きさ
 長年、書斎が欲しいと思って来て、家を建て直す際にやっと出来た一人きりになれる唯一の空間。
 他の人が何と言おうと断じてここは僕の書斎なのだ。(実情は、パソコン部屋!!??)
 日記とは別にもう少し長いスパンで、普段思っていることを書こうと思って居ります。
 このHPのメインになるようにしようと思っています。

第 1175        持てる幸せ、持てない幸せ    2018.10.17(水)

 住宅展示場の建物の部屋やテレビCMに出てくるような部屋を見ると、余計な物がなく良く整理されている。余り他の人の家にあがった経験がないので、他の家の実情は分からない。少なくとも我が家では段ボール箱が部屋の隅に積み重ねられていたり、捨てるモノの種類によって分別のために部屋にゴミ箱が複数あったり、スーパーのレジ袋がサイズ別に分けて置かれていたり、読み終わった新聞が積んであったりとずっと雑然としている。
 お掃除ロボットと言えば、『ルンバ』しか思い付かない貧困な頭をしているが、およそ我が家においてはそれらが活躍する場がないのである。部屋の中で備品が整理して有ればこそ『お掃除ロボット』も活躍出来る。あれこれ積み上げられていれば、ロボット君も動き回れないのである。従って、我が家にはお掃除ロボットはふ要である。
 僕の好みとすれば、ごろ寝をするのに雑然としていた方が落ち着く。余りに整理されて居たら『生活感がない』と憎まれ口でも言わざるを得ない。そう言えば住宅展示場もテレビCMの部屋も人が住んでいないから、体裁良く整理されているのだ。
 落語に出て来るような貧乏長屋で、何もないような場合には、今回の題に係わらず『持てないふ幸』であるのかも知れない。
 どなたもそうだと思うが、孫は可愛い。ジイジもバアバも孫に色々なモノを買ってやる。孫はそれで遊ぶ。飽きれば、放り出して別のおもちゃで遊ぶ。時代が違うのに、自分たちが小さかった頃と比べるのはおかしいことだが、僕たちの頃は社会全体が貧乏で当然そんなにおもちゃがなかった。ないならないなりに、子どもたちは自分で遊ぶ物を作ったり、考えて、工夫して遊んだ。自分自身で考える余地があった。
 自分で作らなければ成らない状況が当たり前だった。雨が降って外で遊べない日には、小学校に入る前の僕は、人や馬の形にハサミで紙を切って、馬に乗せたり、戦わせたりして一人で遊んだ。そんな物でも想像を張り巡らせて遊ぶとめちゃくちゃ楽しかった。第一、今の小さな子供は危なくて外で遊べない。おもちゃが豊富にある現代の子供と、考えながら工夫する子供と、本当はどちらが幸福であるか分からない。
 お金がなくてモノが買えない貧乏はふ幸だけれど、お金が有ってふ要品を処分してシンプルライフの生活をするのもこれまた大変だ。書店に行くと『整理術』に関する本がたくさん売られている。
 整理術のハウツー本は有っても、『とっとく術』のハウツー本は売っていない。人は元来何でも取っておいて、しまっておく習性が有るからだ。それが証拠に、どなたも引き出しを開ければ分かる。
 医者で処方された2列に配置されてプチッと押せば出て来る錠剤、『はて、これは何の薬だったかな?』、もう家にはその電化製品はなくなってしまった器具の取扱い説明書、2色の内片方が書けなく成ってしまったボールペンなどなど様々な物が出て来るに違いない。
 この段階に至っても、『これは何かの役に立つに違いない』と言う取捨選択の判断の下、『取り敢えず、とっとこう』と元の位置に戻される幸せなモノはたくさん有るのである。従って、判定会議に掛けても品物は中々減らないのである。捨てると決めても、市にはゴミの収集に関する様々な約束事があって、中々直ぐには捨てられない。
 私は老人である。いつ死ぬとも限らない。死んだ後、品物の整理をしていて
『お爺ちゃんも好きだったのね』
 と息子の嫁さんにでも言われることの無いよう、その手の本、雑誌、CDの類は全て処分してしまったのは云うまでもないことである。
 貧乏人には持てない高価な装飾品を、お金持ちが財産として持つことは可能である。買う方は満足して、それでも良い。ただ相続など後になって換金しようとしても、利殖としての効果が期待出来ない場合が多々あるものだ。お金をたくさん持っていたからと言って必ずしも幸せとは成らない。
 物を所有したり、捨てたりすることは、中々難しいことなのだ。だからと言って躊躇してばかりいると便利さを享受出来ない。ただ言えるのは、家の中の整理が行き届いている方の押し入れや、蔵の中から将来、古文書や古びた実は高価な壺が発見されると言うことは決してないであろう。

第 1174        楽がいい            2018.10.13(土)

 先日、安室奈美恵さんが引退した。テレビを見ていたら、涙ぐんで居るファンの人が何人も映し出されていた。『自分の人生は安室さんに依るところがとても大きかった』などと涙ぐんで言う方も居て、『ほんとかいな?』と思う。
 『あんたの人生そんなモノなのか』と言いたいところだけど、各人の嗜好は尊重しなければならぬ。人それぞれだし、ファンの気持ちともなれば、自分には分からないモノである。
 およそ38年前に私が現在住んでいる場所に引っ越してきて、お向かいは土建屋さんだった。毎朝6時半くらいになると、社長の怒鳴り声が聞こえた。社長は体格の良い方でいつも怖い顔をして近寄りがたい人だった。7時になると何台ものトラックが続けて今日の工事現場に向かって出掛けて行った。初めはとんでもない所に引っ越してきたものだと思った。
 十数年前に土建屋さんを廃業された後は、社長さんはガラッと変わって優しい顔に成った。十年以上畑を貸して頂いた。今は入院されている。先日奥さんと話をしていたら、社長は若い頃(15年くらい前)、ある女性歌手のコンサートと言うと、仕事を息子に任せて北海道から九州まで追っかけて出掛けてしまっていたものだという話を聞いた。仕事を止めた後でも大きな体で、お金をたくさん持っているだろうに、いつも作業着に長靴を履いていた姿からはとても信じられないような事だった。
 僕には歌手や女優さんのファンになったり、憧れてレコードやCDを買ったなどということもない。いつも僕の中に冷めた部分があって、むしろ他の人がファンとしてどなたかに夢中に成れること自体を羨ましく思っていた。僕のこれまでの人生の中で、女性歌手や女優さんに夢中になった事は一度もない。自分自身が素直でないのかもしれない。
 自分のことは中々分からないものである。日頃、回転数が少ないから、キャパを超えた回転数に上昇し、エンジンが焦げる臭い、直ぐさまエンジンを切って冷却すべしなんて場面には成らないのだ。
 トロイから急激に回転数を上げろと言われてもとても無理なのです。自分には出来ないだろうと思うようなことには、初めから無理しない主義なので、トロイまんまで結構、周囲をイラツかせてしまうのだろう。 そんな私は自らの回転数アップに耐えきれず、ブレーカーが落ちてしまうような経験はしたことがないと思っている。この歳に成って今更性格なんぞ変えられようにない。
 『日記』や『書斎』で口先だけで(キーボードを打つから指先だけで)、別人を演じたり、架空の人物を作ったり出来るのだろうけど、小説家のように自由に人物を表すことが出来ない。どうしてもボロが端々に出てしまう。 自分が思う本当の僕は、内向的で臆病なのだ。僕を知る人は即座に、『どこが!?』とおっしゃるかも知れない。弁護すれば、他の人の人が見る自分は、マイノリティな性格を隠すための虚勢を張っているに過ぎない。
 時たま、テレビでRIZAPのCMを見ることがある。男性でも女性でもお腹がブヨブヨ膨らんでいるのは大変見苦しい。すかさずbefore―afterの画像を見せつけられる。体脂肪を減らし、八つに割れた腹筋を見せられる。あんなにハッキリ体型が変わった後は、自信も出て性格も積極的になるのではと想像もする。
 でも、腹筋が割れなくても良い。楽でストレスがない方を重要視する。正面だけでなく脇腹にも脂肪が溜まっても、サイズの大きなズボンを買えば良い。そうして食欲を満たし、自分を甘やかしている方が楽で良いのだ。それはきっと早期治療が遅れ、手遅れとなる。結果はどうでも自己責任だから仕方がない。『あの時、ああしておけば良かった』と悔やんでも始まらない。その時にはこの『書斎』の方針を苦渋なモノへと変えざるを得ない。人間、いつもダメージ・深手を負わないと性格なんか変えられない。楽が好きなのだ。

 

第 1173        マイカー            2018.10.11(木)

 これから書くことはマイカーを持っていない私のやっかみでもある。
 我が家ではマイカーを所有していない。およそ移動手段と言うべきエンジン、モーターなどの動力付き乗り物は持っていない。我が家の交通手段としては、電車・バスなどの公共交通機関と、足を動力源とする『踏んだらバイク』のチャリと徒歩だけである。
 もちろん、私とてオーナードライバーだった時期はある。でも長い人生で車を持っていて本当に良かったと言うのはただの一度しかない。ひどい土砂降りの深夜に、産気付いたカミさんを病院に連れて行った時だけだ。夜、8時とも成れば人通りも途絶えてしまう、当時神奈川県の郡部に住んでいたから、タクシーなど電話して呼んでも中々来ない場所だった。
 マイカーが有れば便利だと言う程度のことならしばしばある。そんな時にはタクシー、レンタカー、今ならシエアカーでも利用すれば十分である。
 ただ、私の言っているのは公共交通機関が網羅されている都市部に限られる。地方では成り立たない。場合によっては大人一人に対して一台ずつ車を持たなければ生活が成り立たないと言う現実は、単身赴任していた時に身に染みて知った。雪深い地方では夜間に歩いていたら疲れて凍死してしまう恐れすらある。ここでは公共交通機関が充実した都市部限定の話としよう。
 変則の勤務時間設定や夜遅くまで働く人も、除外して考えなければならないだろう。ここでは自家用車のみの話であり、当然トラックなどの商用車も対象外である。
 マイカーはとにかく金食い虫である。車の購入費用の他に、自動車取得税、重量税、自動車税、軽自動車税などの税金の他、定期点検、車検費用など諸々の費用が掛かる。その他、自宅に駐車スペースがなければ、月極駐車場代が掛かり、万一の時に備えて保険にも入らなければ、うかうか運転も出来ないのである。
 イラン原油の買い控えがあり、OPECが原油を増産しない方針のため、この節はガソリンの高止まりである。散歩でスタンドの前を通ったら、レギュラーガソリンで¥158であった。15km/㍑の燃費の小型車でも1km走るためには燃料代が¥10以上掛かる。
 車通勤していて毎日利用している人ならまだしも、平日には駐車場に停め、土日祝日にしか乗らないような方は最悪である。月々車に掛かる費用を計算してみると良い。コストパフォーマンスつまり費用対効果を考えたら、車を持つ事の大変さに身に詰まされることだろう。
 スマホ、ガラケーなどの携帯電話も費用対効果は悪いと思う。支払う料金ほど通話やメールにお金を掛けているとはとても思えない。話題のSNSだが、SNSから離れようとしている方が増えているのだという.他人と四六時中繋がっている拘束感、人との交際する煩わしさから抜け出したい人たちだ。当然の話である。
 国が携帯電話料金を値下げするよう働き掛けているようだが、何故か車に掛ける税金を下げるような動きはない。税金は取れるところから取れば良いのだと言う方針だからだろう。
 日本にも『3C』つまり、カー、カラーテレビ、クーラーを持つことがステータスである時代があった。若者がこぞって自分の車を持つ事を望み、横に彼女を乗せてドライブすることにみな憧れていた。バブルの頃は女性にアッシー君として使われた悲しい青年も居た。
 最近の若者はさして車の所有を望んでいない方が多い。費用対効果から、マイカーの有用性を感じていないのだと思う。車離れなのだ。利に聡い若者はマイカーに費用が掛かり過ぎていることが分かっているのである。
 車は温室効果ガスの発生源であることも追加しておこう。
 いつもならここらで終わるのだが、今までのことは余りに一方的である。今日はタクシーにまつわる悲哀も述べておきたい。
 タクシーに使われている車は、トヨタと日産車が多い。クラウンかセドリックである。トヨタで言えば、クラウンでもタクシー仕様車で『comfortable(心地よい)形容詞』のめい詞形の『COMFORT』と言っても、中は如何にもタクシーという感じだ。何処が心地よいのか分からん。個人タクシーの場合には会社組織の車と違って、燃費を考えてハイブリッド車のプリウスもあれば、中には高級車の仕様の場合も有りまちまちだ。
 タクシーを待っている時には、様々な思惑が交錯する。普段のタクシー乗り場には客もなく、運転手同士が降りて世間話をしている場合すらある。夕方から急に雨等という時には、タクシー待ちの列は長くなる。急に雨でも降れば、『需要と供給』の優位性が突如逆転するのであった。
 走ってタクシー乗り場に駆けつけ、長い列を目にした時の落胆、無念は筆舌に尽くしがたい。絶望に打ちのめされ、仕方なく行列の最後尾につく。こんな時に限って、待てど暮らせど車は来ない。行列の長さは中々減らず、自分の番にはほど遠い。今乗り込む人だって散々待った末なのに、行列に並ぶ人たちは嫉妬と羨望の入り混じった目で眺めるのであった。みんな大人だから平静を装って居るけれど、この時ほど心の中では感情の炎を燃やす場面は滅多にない。
 しばらく待って一台が来た。一人が乗り込む。自分だって一人で乗るくせに、一台に一人では効率が悪い。3人か4人ずつ乗らないと行列の長さは減らないと、無理難題なことを誰しもが思うのである。
 つい先ほどまで一人で乗り込んでいる列の前の人たちを恨んでいたくせに、いざ自分が乗り込みシートに腰を下ろせば急に安息の場を得て、一人で乗ったことについて、行列に並ぶ皆から恨まれていることすらすっかり忘れてしまうのであった。
 自分の前に並ぶ二人のサラリーマン風の人が親しそうに話をしている。列は進み、今度来るのに二人組が乗って、その次が自分だとなると、急速に安堵の念が広がる。二台が続けて来た。後ろのタクシーが自分のものだ。
 前の車が止まり、二人組みのうち一人が乗り込む。後ろのタクシーにはもう一人が乗ってしまった。オレの車の筈なのに『ブウ』と音を立てて行ってしまった。二人は知り合いであり、二人で一緒に乗る筈だったのに、行き先は別々だったのだ。この時の落胆、絶望感はどう表現して良いか分からない。その後、また暫くは車が来なかった事は書くまでもない。
 こんな時にはマイカー所有も捨てがたい。寒い時期ならなおさらだ。人の願望なんてその場その場でいい加減なものである。

第 1172        やはりちょっと違うな      2018.10.07(日)

 およそブログなんて云うものはいい加減なものなのだと思う。web上で本みょう使っている人はもちろん居るだろうが、ハンドルネームと云う架空のなまえで書いている人も多いのだと思う。普段の自分が居て、成りたいと希望する人物像になって書くことだって可能である。私はジジイだが、若い女性を騙って書くことだってOKなのである。
 ここでは『おさむ』というハンドルネームを使ってはいるが、HPを訪問して下さる方は大抵僕本人と面識ある方が多いのではと想像しています。僕自身、願望も含め勝手なことばかり書いている。反論されると心が揺らぐので訪問される方よりの通信手段である掲示板もいつまでも『工事中』として敢えて開示していない。  第1171 で『ストレス』と云う題で書いてweb上にupしたが、どうも自分としては自分と余りに乖離していると思っている。
1.マイペース人間は合っている
2.頭の中が空っぽでボッーとしていることが多いのも正しいと思う。
3.今の仕事は、62歳までの現役で働いていた当時に比べたら、得意先の人に怒られることも、のう期に追われることもなく、天と地と違いで大変楽だ。
4.自分もキャリアを踏んできたから、他の人だったらとても嫌と思うことでも、差ほど苦労を感じないで乗り越えられる技を得ていることも確かだと思う。

 だが、ストレスを余り感じていないかと言ったら、やはりそれは間違いであろう。現役時代に感じていた、胃がキリキリ痛んだり、酒も呑んでいないのにトイレで胃液を吐いたり、いつも眉間に皺を寄せて難しい顔をしたりするほどのストレスは無くなったと云うところが正解なのだと思っている。
 『ストレス』と云う小文をアップしたものの、どうも自分とは懸け離れ過ぎているなと思いちょっと書いてみた。
 ただ、全くストレスのない生活なんか有り得ない。ストレスが有るからこそ改善や進歩があるのだ。ストレスが無くなればたちまち認知症、色ボケ老人と化す。適当なストレスが有ってこそ、人は生きられるのだと思う次第であります。

 

第 1171       ストレス             2018.10.05(金)

 物体に外力が作用すると、物体内部には元の形状を保とうとする抵抗力が生じ、破断に至らない限り外力と釣り合っている。この抵抗力を応力(ストレス)と称する。外力に耐えられなくなれば破断する。
 こんな難しい事を言わなくとも、木の枝を曲げようとすると、戻ろうとする力を感じる。更に力を加えていけば枝は折れる。日常経験して当たり前なことに、学問ではことさら難しい理屈を付ける。簡単なことに難しい理屈を付けなければ成らないのが学問なのである。そうでもしなければ、安っぽく権威が備わらないと思っている。ただ日常経験する枝を曲げる程度のことなら良いのだが、橋や建物などの構造物を作るには、勘という訳にもいかず、やはり強度計算が欠かせない。
 ストレスは病気の元になるらしい。人間にも強度のストレスを与えれば、曲げた木の枝のように折れてしまう。ストレスを溜めないためには、一日のうち、ほんの数分でも良いから何も考えずボーとした時間を持つことが必要だという。禅の世界では無念無想の瞑想の世界に入る訓練をする。座禅を組む時、女性の肢体でも思い浮かべてしまうと、それは妄想であり教官の僧に平板で叩かれることとなる。
 私、頭空っぽでボッーとしていることが多い。意識して空っぽにしようとしなくても、気付くと空っぽでボッーとしている。今はこうでも、現役で働いて居た頃は眉間にしわを寄せていつもピリピリしていたような気がする。今の自分ではNHKのチコちゃんに『ボッーと生きてるんじゃないよ』と叱られそうだ。
 今、自分があまりストレスを感じて居ない分だけ、周囲にいる他の人が私の分のストレスを受けているのではないか。大体、ストレスを感じていないと思われる自分は他人から好かれていないに違いない。私は典型的なマイペース人間である。自分の好きなことを自分のペースでやっている。
 確かに今も勤めはしている。通勤時は電車が混んでいるが仕方ない。仕事は現役時代と比べたら、得意先担当者に怒られる訳でも、のうきに追われることも少ない、緊迫感のない “お茶の子さいさい、甘茶でかっぽれ”なのである。
 もし、今の仕事を他の人が代われば、その人は大いに緊張してストレスを感じるかも知れない。それは私の経験と長年積み重ねた年期というものだろう。
 『ストレスを感じていない自分て、何と素晴らしい』のだと思っていたら、とんでもない思い違いをしていることに薄々気付いている。
 しかし、他の人のことばかりを思って、自分を押し込んで封じ込めてしまうと、心の病気になってしまう。一方、自分ばかりを前面に押し出せば嫌われ、鼻つまみ者になってしまう。そこは絶妙なバランス感覚が必要なのだ。 最近の自分はマイペース人間ゆえ、思いやりの心が乏しい。たまには他の人のことも考えるべきである。自己チュウだけではいけないのだ。ただ、現役時代に仕事一本槍、仕事人間(自称)だったことを思えば、今は自分の嗜好を満たすモノに打ち込んでも良いのではと思っている。
 『たで食う虫も好き好き』で、趣味、嗜好はどなたも個人個人違う。他人の嗜好を羨ましがることはない。羨ましいなら自分もやれば良いのだ。趣味のことをやって気晴らしになり、活力が生まれるなら大いにやるべきだ。自分のためにやるのであって、他人の目を気にする必要は全くない。
 他人が自分のことをどう思うかの思惑を気にしなく成って来たところをみると、マイペースだし、自己チュウと言えると思うのだ。自分がやっていることに、価値を見出せないようなら全く意味がない。自分の趣味は他人のためにあるのではなく、自分のためにやるのである。それでストレス解消となれば、万々歳。

 

第 1170       十月               2018.10.03(水)

 十月は何となく嫌いだ。一月に新しい年が始まって、『ようし、今年はやるぞ』と思ったものの、三歩しか歩いていないのに、もう今年の目標を立てたことすらすっかり忘れてしまっている。やがて二月になり、三月になって、つまり結局何もやらずに月日ばかり重ねて、とうとう十月になってしまったのである。
 十月になれば残り三ヶ月、もう先が見えて来てしまった。私の身が人生の黄昏時であることと重ね合せて気が重い。十二月半ばともなれば、ジタバタもせず、ほぼ諦めも付いて、新しい手帳でも買って来年の抱負など書いてみることに成るのが通例のことである。
 職場では早々忘年会の日程を決め、会場の予約もした。社員各位には早めの『忘年会開催のお知らせ』を出し、『出欠の調査は後日致します』と書きつつ、各自に日程確保の依頼をしたのであった。
 十月が気を重くする理由はいくらでもある。
1.段々寒くなってくる。
2.衣類をたくさん着けなければならない。夏場のTシャツ、短パンはえらく楽であった。
3.朝起きるのが辛くなる。起きる前の『あと5分』というのは至福の時である。
4.一日が短くなる。一日の物理的長さは変わらないのだけれど、朝は暗いし、夕方は5時にもなれば暗くなってしまう。日の出とともに起き、暗くなったら寝てしまう縄文人のDNAを引き継いで居るものだから、暗くなれば『もう今日も終わりだ』という気になってしまうのだ。ならば夏至の頃はさぞかし精力的に活動出来そうなものなのに、その頃はその頃で暑くて何もやる気が起こらない。木陰で昼寝でもという誘惑に負けてしまうのである。人間生来、誰しも楽な方向へ傾く行動規範が備わっているようだ。
5.悪いことばかりでもない。寒い日にコートを着れば胴長短足が目立たないと言う利点もある。襟でも立てれば、他の人が何と言おうと、自分だけは何となくニヒルな感じにも成るのである。だが、誰も何も言ってくれない。ジジイなんか眼中にないのである。

 十月と言えばまだ寒くはないのに、これから寒さに向かうと考えただけで、『冬期ウツ状態予備軍』が目覚めてしまうのだ。京都大学 本庶 佑 特別教授の助けを借りて、冬期ウツ状態予備軍の働きを抑えるオプジーボの親戚筋の新薬でも開発して頂かざるを得まい。どうも、年寄りは愚痴が多い。『グッチ書蔵の自由区域』となまえを改めようかい。
 しかし、よく考えなくとも古稀なのである。未だ満員電車に揺られて通勤している身ではあるが、いつまでも仕事にしがみ付いていないで、後進に道を譲るべき歳であるのも確かなのである。
 年初に『今年はやるぞ』と思うこと自体が誤っているのかもしれぬ。『仕事頑張らない宣言』、『道楽やるぞ宣言』をすべきだったのだ。
 ノーベル医学生理学賞の本庶教授の記者会見を見ていると、爺ちゃんになっても頑張っている姿勢が有り有りとして見える。のっけから『教科書など信用するな』の強硬発言だから、爺ちゃん頑固なのだろうな。

第 1169       健康診断             2018.09.30(日)

 毎月1度通っているクリニックへ行って、8月に受けた健康診断の結果を聞いてきた。この歳になったら、体のどこかに異常があるのは当たり前である。前からずっと肥大型心筋症と言われているから、これはもう承知している。
 血液検査に NT-proGNP という項目があって、心筋梗塞に成り易いかどうかを示すと言う。基準値125以下のところ10ばい以上の数値であった。毎度のことだから、それほど気にもしていない。これに伴い、当然心電図の波形も良くない。
 こんなことで、毎回通常の健康診断より、ずっと多くの項目の検査を受けている。この歳になって、他の血液検査の項目は全て基準値内に収まっている。どうだ凄いでしょう。まるで青年のようだ。強いて言えば糖尿に関する値だけが基準値内だが、上限ぎりぎりだ。
 体重はBMIという指数で標準体重の真ん中になっているのに、医師は毎度体重を落せと言う。落せばNT-proGNPも、糖尿に関する値も下がると言う。毎日、風呂上りに食べるアイスクリリームも止めなければならんのか。習慣になっているからとても寂しい。
 『酒も煙草も 女もやらず 百まで生きた 馬鹿がいる』という都々逸がある。酒を呑むと胸が苦しくなってしまう。もう4~5年は全く呑んでいない。だから肝臓障害の指標となるγーGTPが低いのは当たり前だ。百まで生きてバカと言われたくないから、タバコをパカスカ吸ってせっせと税金を払っている。
 血液検査は青年レベルでも、考えれば自分でも老いたなと思う。
1.洗面所の電灯スイッチの消し忘れが多い。いつもカミさんに文句言われている。
2.『社会の窓』のファスナーの上げ忘れがよくある。用足し後ではなく、ズボンをはき替えた時によく忘れる。
3.本を読んでいて登場人物のなまえと関係が分からなくなってしまう。これでは困るので、本を読む時には必ずメモ用紙を脇に置いて、なまえと関係をメモしておくから、以前より理解度が上がったような利点もある。
4.以前はこんなことなかったけど、電話で人と話をする時には要点を必ずメモする。とにかく新しく記憶することは悉く忘れるから、それ相応の対策を施さねばならぬ。
5.念のため言うが、アテント薄型パンツのお世話にはまだなっていない。

 どうも男は60歳を過ぎると本気で老化を気にする傾向にある。男はとかく騒ぎ立てる。本当に老け込んでいった時には、いたずらに騒がないことだ。見苦しく騒ぐのはいつも男だけだ。
 小学校の時、『廊下は静かに歩きましょう』と散々言われた。毎年欠かさず健康診断を受けて、せめて自分だけは見苦しくなく老いて行こう。
 『老化は静かに歩みましょう』というところだな。皆さんも健康診断は必ずして下さいね。

第 1168       最後               2018.09.29(土)

 私も既に69歳だから、外出中、家の中、あるいは寝ている最中など、いつ死んだとしてもおかしくない。小説、ドラマなどに、happy end と言うのがあるが、人生においても健やかに死ねる happy end で終わりたいものである。
 だが、神はそんなことは許してくれまい。happy end があれば、unhappy end すなわち bad end も大ありだ。 出来れば、死ぬ間際まで意識がハッキリしていて、『ああ、これで死ぬんだなぁ』と思いながら、だんだんと意識が遠のいて fade out して行けば最高と思う。理想はそうだが、病死で死ぬ場合、死の間際まで意識がハッキリしているなど普通はないことである。
 9.11で貿易センタービルに航空機が激突した際、男性が真っ逆さまに落ちていく画像が有った。残酷だからもうその画像は映し出されないだろうが、彼は落下しながら、『これで死ぬんだなぁ』とは思ってはいないだろう。既に気絶していたに違いない。
 よく年取ってから一人住まいか何かで、他の人に知られることなく亡くなってしまう方がいる。『孤独死』と世間では言っているようだ。たとえ事故か何かで複数の方が同時に亡っても、人が死ぬのはそれぞれ別々だ。家族に見守られて死のうが、亡くなるのは本人だけだから、皆、孤独死なのである。見守られようが、人知れず死のうが大した差はない。死んじまっちゃお終いなのだ。
 happyだbadと書いたけれど、歩道を歩いていたら突如車が暴走して歩道に乗り上げて来て、巻き添えで亡くなってしまうような事がある。運悪く突然の事故で最後を遂げてしまうような死を除いて、まだまだ努力次第で、人生happyで終わるように仕向ける余地はあるのだと思っている。
 死ぬ段となり、自分の人生を振り返って、自分の人生が充実して居たとなっとくできるならhappyだし、まだやることが有って、無念だったらbadなのだと思う。実はこの歳に成っても『まだ、伸び代はある』と思っています。
 この歳に成って今更そんなことやって何に成ると言われるかも知れない。僕自身の目標だから具体的には書かないけれど、自分に課したものをやり続けている。人生観なのだろう。
 かつて日本赤軍が日航機ハイジャック事件を起こした時、時の福田赳夫首相が『人の命は地球よりも重い』と言って、身代金を払った。
 僕は違うと思うな。怒られてしまうかも知れないが、一所懸命生きようとしてこそ尊厳のある生き方で、心臓が動いて生きて居さえすれば尊厳のある生き方ではないと思うのだよ。地球より重い尊厳ある死を迎えたいなら、尊厳ある生き方をしなければいけない。もはや、回復の見込みがなく、意識も回復せず、心臓が動いているだけなら、延命処置は止めた方が良い。無駄である。尊厳ある生き方をしてこそ、命は重いのである。
 例えば、高齢の父が意識もなく、入院していて、『先生、何とか助けて下さい』と、子なら医師に頼むだろう。時を経ても事態が変わらず、毎月の入院費用が50万も掛かったら、そりゃ2~3ヶ月も入院されたら、普通のサラリーマンだったら付き添いや介護疲れも出てくるし、『オヤジ、もうそろそろ逝ってくれ』と誰しも心の中で思うものだ。それが自然と云うものだ。これは医療費の無駄というもの。
 そんなことにならないよう、体が動き、頭がしっかりしている間は歳を取っても『自分の伸び代』を信じて努力をして行きたい。それが生き様と言うもの。自分で物事の判断できなくなり、意識が無くなってしまったら、生きている価値はないと思っている。そんなことになったら、僕をどこぞに放置でも、遺棄でもして貰って構わない。

第 1167       貧乏性              2018.09.26(水)

 ペットとして飼っているザリガニが1匹と成ってしまった。これでは卵をふ化させて大きく育てるあげるブリーダーとしての目論見は成すことが出来ない。9/22に県立の森林公園に行って3匹調達してきた。
 森林公園では動しょく物の採集は禁止である。ただ、増えすぎてしまって、外来種であるザリガニだけは捕っても良いことになっている。森林公園に行くと親子連れがザリガニ釣りをしている。釣っても家で飼えない人たち用に、出入り口にバケツが置いてあり、そこにザリガニを放して帰るようになっている。僕はそのバケツにザリガニを調達に行くのだ。
 本来なら棒の先にスルメを付けたたこ糸を結び付けて、僕もザリガニ釣りをしたい。だが、だしにする小さい子が居ないのだ。
 いい大人がザリガニごときを何故欲しがるのか。欲しがる理由を世間に向けて説明出来るようでは、まだ十分な『お変人』ではない。他人によく分かる理由で行動しているようでは、善良な一般市民になってしまう。
 子供の頃から、何故か水生動物が好きだった。だからと言って、立派な水槽で熱帯魚など飼う気にはとてもならない。タダで調達できる自然界に生きる生物でなければならないのだ。
自分の子供が小さな頃、多摩川ですくって来た1.5cmほどの小さな魚を25cm以上のフナまで育て上げたことがある。大きな水槽を買っても置き場がなく、飼いきれなくなって多摩川に戻した。恐らく、貧乏性が染み付いていて、お金を出して買わなければ手に入らない熱帯魚などは飼えないのであろう。
 小学校に入る前の事だったと思うが、小さな石を集めて居たこともある。今ならミニカーの収集に相当するのであろう。僕は戦後生まれだが、戦争が終わってまだ10年ほどの頃だから、日本中がまだ貧しかった。その頃でもおもちゃはあったと思う。でも、子供ながらに家の状況が何となく分かっていて、買ってと言い出せなかったのであろう。
 集めた石をきれいに洗って、飽きずに眺めていたものだ。母に
 『そんな物、集めて何にするの?』
 と咎められたような記憶がある。僕と母の間に、脳のある部分に共通性がないから、他人には僕が何故石を集めるのが理解できないのだ。水を入れた瓶に小石を入れておくといつか宝石に変わると本気で信じていた。
 子供の頃の体験がこんなジジイになっても深層心理の部分に残って居るのではと思う。もちろん、今なら蛍光灯、ポンプなどの付帯装置の付いた大きな水槽と、中に入れる魚くらいは買えるだろう。
 だが、蛍光灯付きの立派な水槽は趣味・嗜好の問題である。よく粗大ゴミ置き場に捨てられている。水槽の末路である。そんな物買って、何の生活に役立つのかと直ぐに考えてしまう。今ザリガニを飼っている容器は確か¥600もしない、透明の蓋付きの衣装ケースだ。もちろん、昔使っていたポンプは付けている。ザリガニを飼うのを止めたら洗えば本来の衣装ケースになる。
 子供の頃、うえ付いてしまった感覚はいつまで経っても残っているものだと深く感じるものである。

第 1166       電車の中の風景          2018.09.21(金)

      

 連れがなく、一人で電車に乗って座れた時は大抵、本を読むことにしている。家に居る時よりもどうした訳か本に集中できる。本を読まない時には、さりげなく周囲の人物観察、暇つぶしに電車内の風景を見るのである。窓から外を見るわけでもないのに、風景と云うのもおかしいか。あくまでさりげなくすることが肝心である。真剣に人物観察して、下手に言い掛かりを付けられては敵わない。
 電車に乗って座っている人の中で眠って居る人は実に多い。人は産まれる前、お母さんの胎内にいた時に聞いたお母さんの心臓の鼓動音と、電車の走行音が酷似しているとのこと。年を経ても人は胎児の頃の記憶を覚えていて、電車に乗って座ると安心して眠ることが出来るのだとテレビ番組で言っていた。
 電車の中で眠って居る人はまた、眠りながら節約モードになっている。『節約タイプ』の人と呼ばれている。こういうかたがたは、家に居ても水道の蛇口から水がポタポタ落ちたり、家の中で人の居ない場所に電灯がついていることがとても気になるのだ。
 万事金の掛かることは避けたい。人生余計なことはしない。そういう人生観を顔に漂わせながら眠っているのだ。私ももちろん眠ることがある。眠ると自然と口の締まりが疎かになってしまう。よだれでも流しはしないかが、とても気になるのだ。もちろん、流した経験が有るから言っている。よだれでも粘性高い場合で、口から垂れ下がり、電車の動きに合わせて振り子のようにユラユラと漂っているのは何としても避けたい。年を経て、たとえ老人となった今でもこれは恥ずかしい。
 上を向いて大口を開けて寝ている方も時に見受ける。うら若き女性でも堂々と開けて寝ている方を時々見受けることがあるから、注意されたい。自分が立っている場合、その大口に向けて鼻クソでも投げ込みたいと言う衝動を感じるのは私だけではあるまい。
 隣に座った方が眠って、寄りかかって来るのも困る。若い女性の場合には許すが、おのこの場合は遠慮したい。ちょっと体を動かせば元に戻るが、また寄ってくる。一々対応するのも面倒なので、余程のことでなければ、私の場合は許容してしまう。
 スカートを履いた女性の方は大抵腿をきっちり合わせて座っている。スカートが短くて、思わず股が空いた時に、向かい側の人にパンツでも見られたら恥ずかしいと思っての事だろう。別に何も履いていない訳でなし、それほど気にするほどの事もないと思うのだが。
 男の場合、女性のように腿をピッタリ合わせて座ることはほとんどない。女性はあの格好は苦痛ではないのか。 『脂肪の付いたお腹を凹ます』関連の本を読んで知ったことがある。年を経ると体中の筋肉量が衰え、代謝が減ってしまう。お腹を凹ますには、単に腹筋運動するだけでは効果が薄い。全身の筋肉を鍛えて、脂肪の付きにくい体にしなければ成らぬと書いてあった。
 一例として椅子に深めに腰掛け、背もたれに背中を付けず、姿勢を正して、腿をピッタリ合わせて座ることをやってみるように書いてある。スカートの女性がいつもやっている腿をピッタリ合わせて座ることである。実際にやってみた。ごく短時間ならどうと言うことない。気を抜くと直ぐに段々開いてしまう。ずっと意識し続けなければならない。これが実に辛い。女性は慣れていて平気なのだろうか。男の場合、股の真ん中に女性にはない突起物が有るからではない。筋肉量が落ちているからだ。
 近年ではスマホを覗いておられる方が非常に多い。別に迷惑を掛けている訳ではないので一向に差し支えないが、一人忘我の域に入り込んでるような方も居て、ちょっとぶ気味である。
 一列7人掛けの座席に座った方が皆さんスマホを覗いて居る場面に出くわすこともあるが、何か新興宗教に入信したのではないかとさえ思ってしまう。
 歳を取って体の機能が落ちてきている。どうか、他の人のご迷惑にならないよう、くれぐれも注意している次第である。

第 1165      若者よ                 2018.09.20(木)

 仙台宮城野市で派出所の警官殺害事件が起きた。容疑者は被害にあった警官とは別の警官に拳銃で射殺されてしまったので、犯行に至った原因は分からない。被害にあった警官の拳銃はホルダーに入ったままだと言うから、拳銃を奪って別の犯行に使おうとした様子ではない。
 あくまでも私の想像だが、新聞に載っていた証明用写真を見れば、体育会系の鍛えた体のようではなく、どちらかと言えばヤサ男に見える。年齢が21歳だと言うから、浪人でもしていなければ大学3~4年生なのであろう。 就職にでも悩んでいたのであろうか。とにかく何らかの理由があってのことだ。個人的な悩みを晴らすために、無関係な他人を害することはもっての他である。
 ひところ、『自分探しの旅に出る』『本当の自分を探して』などと言っていた時分があったが、今はどうなってしまったのだろうか。若者の悩みは普遍のモノだから、誰でも一度は通る道である。旅に出たって自分探しなんか出来るわけない。幾ら悩もうが、素敵な女性と知り合って、舞い上がってしまえば、『自分探し』なんかで悩んでいたことすら忘れてしまう。
 就職に付いても自分にあった仕事なんか、芸術や特殊な職人関係などごく一握りの人にしか当てはまらないのでは。その他大勢の凡夫にとって、天職と自分で言える職業にあり付けるなどと言うのは、夢の又、夢なのである。
 『自分に合った仕事』なんか、そこらに転がっていない。有る訳ないのである。社会に必要だから仕事が存在するし、存続出来る。言い換えれば、仕事には社会のニーズが必要なのである。ニーズがなければ、自然消滅する。社会のニーズは変わらないものではなく、時代によって社会のニーズは変わる。大企業と言えどニーズに応えられなければ、没落の道を辿る。『技術の東芝』だって社会のニーズに対応出来なく、『社会的体裁』を保とうとして、ふ正経理問題を起こしてしまった。
 仕事は自分のためにあるのでなく、社会のニーズで仕事があると言う事を肝に銘じておかなければならない。ベンチャービジネス、起業なんてことがある。社会にはみんなが見落としていた『隙間』とか、『穴』がある。ベンチャービジネスは、社会に空いている隙間や穴を埋めるだけで、一時の流行としては有り得るだろうけれど大抵は長続きしない。
 松下電器、ホンダ、ソニー、カシオ計算機、日清食品、ダイエーなどなど、創業者の地道な研究と努力で大きくなった会社は確かにある。だが、数えるほどでしかない。大塚家具のように社会のニーズに適応出来なくなってしまった会社も多いのである。僕が就職する時、『寄らば大樹の陰』なんて言葉も有ったけど、今と成ってはもう死語である。大企業とて明日をも知れぬのである。
 世の中から比べれば、自分個人なんてほんのケシ粒(アンパンの上に乗せてあるツブツブ)に過ぎない。世の中が変わると言うよりも、生きるためには自分が変わるしか仕方あるまい。時代の変化に対応出来るよう、体を鍛えると共に勉学に努めることだ。
 若者が『自分探し』をしようが、『本当の自分を探そう』が、それはそれで、時期のモノだから良いと思う。ただ、天職に就ける人はごく一握りの才能と努力をした人で、凡夫はどこかに就職をして、自分を変えて働くしかないな。それが嫌なら、山にでも篭り、仙人にでもなって霞でも食っているしかない。
 今まで書いたことは、69歳のジジイが思ったことだ。そんな筈がないと思うなら、『若者よ大いに悩め』。ただ、自分で悩むのは自由だか、他人を傷付けたり、殺めたりする事は止めてくれ。

第 1164      なごや城天守               2018.09.14(金)

 新聞を読んでいて興味深い記事を見付けた。なごや城の天守を木造復活する計画に関する話だ。建物5階までは内部にエレベータが設置されている。史実に忠実な復元を掲げる。なごや市長は、新たな木造天守(最上部7階)部分にはエレベータを設置しない方針を表明した。内部に設置すれば梁や柱を切断しなければならず、外部に設置すれば外観をそこなうと云う理由だ。
 これに対し、複数の障害者団体が『障害者差別だ』と主張し、エレベータ設置を要求している。車椅子の代表者が市役所前でハンガーストライキをするなど抗議活動が続いている。
 市長はエレベータの代わりにドローンや移動補助ロボットなど『新技術』を使った複数の案を話し合いの過程で示したが、『ドローンで運ぶなんて、私たちを荷物だと思っているのか』と反発した。
 この記事を書いた記者が述べていたが、『将来、遠足で訪れた車椅子の子供が1人だけ一緒に上がれなかったらどんな気持ちになるのか』と問うていた。
 話のあらましはざっとこんなところである。難しい問題である。私の思ったことは
① 学校、役所、駅などの公共施設並びに私的なビルでも中で働く人、居住者のためのバリアフリー化を進めるのは当然である。だからと言って何でもかんでもと云うのには頭を傾げてしまう。成されていないからと言って即、『障害者差別』と言って騒いで良いのか。自ずと限界があると思う。
② エレベータに乗って天守まで登って何とする。大抵は外に出て欄干の内側から市内の家並み、ビル、周辺の山々、あるいは海を眺めるだけであろう。それ以外に思い当たらない。内部はエレベータ設置のため、梁や柱は切断され、城が建造された当時の状態とは全く違う筈。天守閣などその勇姿は外側から眺めるものだ。
③ 高い所から市内あるいは周辺部の眺望を眺めるには、なごやならもっと適した、天守よりも更に高い、エレベータ設備の完備した安全なビルなどたくさんあるでしょう。レストランなど最上階近くにある場合が多い。何故そこを活用しない。目的が何処にあるかだ。天守に拘る必要もないだろう。
④ 天守を史実に忠実に木造で再現するというコンセプトも評価しなければならない。なごや城がいつ建造されたのかふ勉強で知りません。当時の建築方式や技術を勉強したい、お城に興味を持たれていて研究されている方もたくさんいらっしゃる。そういう方達への配慮はどうなるのか?
⑤ 新聞記事を書いた記者が『遠足に行って1人だけ・・・・・云々』と書いている。こういう話になると、決まって『子供』をネタに持ち出す。子供と書けば良いと思っている、その考えが嫌だ。子供を持ち出すととかく感情論になり兼ねない。
⑥ 世の中100人居れば、100人の事情がある。『みんな違って当たり前だという認識で互いに認め合う』何故、みんな一緒の同一行動でなければならないのか。 障害を持つ子が居て、困っていたら助ける。目のふ自由な方が白杖を持って歩いていたら、脇に避けて、進路を空ける。その他たくさんあると思うが、これが基本だと思う。生まれながらに大金持ちの家に生まれた子と、明日の食べ物に苦労する家の子が居るのも客観的事実としての差がある。すべてに平等、同じようになんてありえない。
⑦ 人は高い所に登りたがる。富士山やエベレストにも登りたいが、大抵は自分の能力を勘案して諦める。人工のモノにはバリアフリーを求めるが、自然のモノには何も言わない。片手落ちではないのかな。僕だって観光地や行楽地に旅行したい。心臓に持病があるから、長い坂道が予想される所には行けない。どうしても制約がある。酒の美味さも知っている。だが、ここ4~5年、残念だけど酒は呑んでいない。呑み会で友人が酒を呑んでいて騒いでいるのも、横目で見て我慢している。

 LGBTの人もそうだ。同姓婚を認めるとか、遺産相続問題など様々な問題を持っている。世の中、色々な人たちが居て、助け合い、認め合って共存しなければならないのは間違いないと思う。
 ちょっと気になったのが、車椅子の代表者が市役所前でハンストをしたことだ。駄々っ子が売り場の前で、床に寝転んでバタバタしているように思えてならない。あくまで話し合いでやって欲しい。
 かつて、こんなことがあった。まさかこうはならないと思うが、
 自分達が世の中で弱者であると思い込む。そのコンプレックスの共有が、内部の孤立化、一元化、同質化を導き、外敵作りで結束する。これで外敵に対する攻撃性を高めたのが、オウム真理教である。
 全米ライフル協会という400万人という組織も、政治家や政党に巨額な献金をする。米国では銃による乱射事件で、年間何万人もの方が亡くなっているのにも関わらず、米国の銃規制は一向に進まない。
 人は集まると大きな力をなす。自分とは考えが違う人たちの存在を常に意識することが肝要だ。排除すると云うのでなく共生を考える。当たり前すぎるかな。

第 1163      老人の日                 2018.09.10(月)

 先日、カミさんが長女の家を訪れた。長女も1歳8ヶ月の下の子を連れて用事を済ませて帰宅したところだった。長女が
 『あっ、ハガキ買って来るのを忘れた』
 と言ったとさ。幼稚園年中の4歳の孫が老人の日に合わせて、ジイジとバアバ宛にハガキに何事か書いてお手紙を出すらしい。もちろん、宛先は長女が書いて、裏面は4歳の孫が書く。一旦幼稚園に持って行き、先生に見せるのだと言う。以前は確か『敬老の日』だったと思うが、カレンダーを見たら呼称が替わって『老人の日』となったようだ。
 我が家に孫たちが来た時、孫の前では自分のことを『ジイジ』と言うし、孫も僕のことを『ジイジ』と呼ぶ。カミさんも同じように『バアバ』と言うし、言われている。
 老人の日にハガキを頂けると言う話を聞いた時、自分がその『ハガキの宛先』であるという認識がなく、気が付くまでほんの数秒を要した。
 15歳~64歳の生産年齢人口はとっくの昔に過ぎていて、65歳以上が高齢者であることはもちろん知っているし、孫の前では『ジイジ』と言い、呼ばれることは十分心得ている積もりだ。ただ、『老人』とちょっと言葉が変わると、まごついてしまった。もうアラセブンなのだから、十分老人の資格を有している。歳相応の心構えが必要なのだ。
 自分では普段から意識していないものだから、戸惑ってしまった。『老人の日』が近付き、孫からのお手紙を楽しみに待ちたい。
後でカレンダーを見直したら、9/15 が『老人の日・老人週間』で、9/17が『敬老の日』と書いてあった。何じゃ、こりゃ!?

第 1162      秋の七草                 2018.09.07(金)

 9月に成ってもまだ暑い日が続いています。それでも猛暑と言われた頃に比べれば大分涼しくなった。夜になって虫がコロコロと鳴いているのを聞くと、何故か物悲しくなってしまう。理由がよく分からないが、何かにトラウマがあるのかも知れない。小さい頃からコロコロと鳴く虫の音はあまり好きではなかった。
 職場の玄関脇のしょく栽の枝を下ろしていて、ふと建物脇の雑木林を見て、木に覆い被さるように獰猛に繁茂している葛の中に、小さな花が咲いているのを見付けた。房状に咲く赤紫色の可愛らしい葛の花だ。葛は『秋の七草』の一つである。山上憶良が秋の七草の起源だと言う。まだ暑さは残っていますが、着実に秋になっているようです。
 小学校で習っているはずなのに、春の七草は覚えているが、秋の七草は何故か覚えられない。それでもいくつかは知っている。萩、尾花(ススキ)、葛、なでしこ、女郎花、桔梗、あと一つが出て来ない。調べたらフジバカマだった。園芸店に行くと『なでしこ』など、春にも咲いているのに。
 この葛だが、どんなしょくぶつなのかはあまり皆さんに知られていないようだ。大人の方なら葛を一度も見たことがない方は、まず居ない筈だ。ただ、これが葛というしょく物であることをご存じないだけだろう。現物となまえが一致しない。まして葛の花などまるで意識の外なのではないか。
 鉄道線路脇、高架の高速道路の桁下、空き地、崖などに、葛は一種獰猛とも言えるほど繁茂しています。葉の大きさは5~10cmほどのもの。葉は3枚一組のようにして生えている。こう言われれば大人の方なら、『ああ、あれか』と思い当たることでしょう。
 こんな獰猛に繁茂する始末が悪いしょく物が、どうして万葉集で山上憶良に『秋の七草』として詠まれたことでしょう。この葛も花だけは、ちいさくて赤紫色の可愛らしい花だ。花に関してだけは和歌に詠まれてもなっ得します。
 葛の根からは『くず粉』というデンプン質が取れます。和菓子屋さんに行くと、『葛桜』と言って、餡子を無色の半透明の物で包んだ物があります。あの外側のブルブルした物がくず粉から作られています。なお、川崎大師近くの土産物店で売っている『久寿餅』は小麦粉で作られていて別物です。ひらがなではなまえが似ていますが、お間違いなく。
 子供の頃、冬に風邪などひいて寝込んだとき、母が『くず湯』だと言って、どろりとした熱い飲み物を作ってくれた。とても嬉しかった。あれは我が家では片栗粉で作った物だった。『あんかけ蕎麦』『堅焼き蕎麦』の上にのっているどろりとした『とろみ』のようなものだな。

第 1161      警告                   2018.09.04(火)

 大型で猛烈な台風21号が徳島県に上陸、その後日本海を北上すると天気予報で言っている。7月に豪雨があったばかりの人たちにとっては、弱り目に祟り目だ。
 関東では6月下旬に梅雨が明け、連日暑い日が続いた。『真夏日』『猛暑日』『熱帯夜』『熱中症』などの言葉を聞かない日が無かったのでは思うほど、暑い日が続いた。放送でも連日、『クーラーを使え』『熱中症対策をしろ』という言葉を繰り返していた。
 ちょっと驚いたのは、クーラーの壊れた病室で扇風機だけ置いた病室で患者が相継いで亡くなった。『殺人罪を視野に捜査する』と言う事を聞いたことだ。クーラーなど一般家庭にも浸透して来たのは、ほんの数十年前からだろう。それまでは、よしず、すだれ、団扇、扇子、打ち水、風鈴、行水、スイカ、大金持ちなら軽井沢、那須に避暑の世界で、良くて扇風機だ。それがクーラーが故障して扇風機の病室では殺人罪を問われるとなると、世の中変わったものだ。
 我が家でもこの夏は、冷蔵庫、エアコンが相継いで壊れ、需要が多くて中々設置して貰えなかった。やはり、この夏は猛暑であったのだろう。今年限りであって欲しいが、そうは行かないだろう。地球温暖化が言われるようになって久しい。
 海水温が上がって、湿った空気が流れ込むと豪雨になる。雨が降ると、平年の1ヶ月分の雨が一度に降るなんてことはざらにある。併せて台風も次から次へと連日発生した。台風21号のように大型で猛烈な台風が発生する度数もきっと増えることになるだろう。
 産業が発達して、地球が何億年も掛けて作り上げた化石燃料を、ここ200~300年で何も制限を掛けることなく一気に使い切ってしまうような事態に対するツケなのであろう。人間の脳は暑さに弱い。地球環境が大幅に変わって、人間滅亡の日も近い。猛暑、大雨、大型で猛烈な台風は人類に対する警告なのかも知れない。

第 1160      金利                   2018.09.01(土)

 28歳から風呂がない6畳と2畳の部屋と、ごく小さい台所とトイレしかない社宅に、産まれたばかりの長女とカミさんの3人で住んでいた。工場閉鎖というリストラに遭い、転職したばかりで給料も低かった。何とか内風呂のある所に移りたかった。
 30歳で無理をして中古住宅を買った。預金実績もない銀行から、住宅ローンを借りた。金利は今では想像も出来ないくらいの 8.76%だった。その後、何年もズボン1本も買えなかった。ずっと独身の時に買った衣類を着ていた。多分、カミさんも同様であろう。その頃はまだ言われていなかったが、毎月、今で言う過労死レベル時間の残業をして必死で働いた。
 初めの内は、毎月ローンの返済をしても、利息の方に充当されるだけで元金は中々減らなかった。金利の高い、低いは返済に大きく影響することをまざまざと知らされた。
 政治のことも、経済のことも良く分からない。
 今、トルコがアメリカと気まずい関係になっている。ロシアが虎視眈々と狙っている。トルコの為替レートが下がっている。これに連動して南米のアルゼンチンのペソのレートが大幅に下落した。トルコの影響が遠く離れた南米のアルゼンチンまで影響してしまうのだ。どういう関係なのか、まだ勉強ふ足で分からない。
 昨日の新聞にアルゼンチンの金利が60%だと書いてあった。国に力があり財政状態も良ければ、金利は低く出来る。国債と云うなまえの借金をする時、例えばの話で60%の金利と云うのは、1年満期の10万円の国債発行で、1年後に16万円返還しなければならないと言うことになる。普通の国家財政運営ではとても返却出来ない。もしかしたら、紙くずになってしまうかも知れない国債なんか誰も買わない。とても頑張って返せる金利ではない。IMFなど別な機関の援助を受けなければやっていけない。
 日本でも大昔、ロシアと戦うことに成ろうと言う時に、国債を発行した。日本のような小国がロシアと戦って勝てる筈がない。どの国も国債を引き受けてくれる国なんかなかった。ただ一つ、今までロシアに散々苛められて来たユダヤ人が『ロシアと戦うなら』と言って、国債を引き受けて呉れた。そのお陰で日本は武具を調達し、日露戦争に勝てた。
 杉原千畝という外交官が、ユダヤ人にビザを発給して難民を逃がしたという話ばかり有めいだ。日露戦争前に国債をユダヤ人に買ってもらった恩義を感じていたことのようだ。
 民放ラジオを聴いていると、それこそのべつくまなしに、『過払い金返還請求の弁護士事務所』のCMが聞こえて来る。『借金は返しましょう。払い過ぎたお金は返して貰いましょう』というものだ。それだけ消費者金融から、ろくに金利も確認しないで借りて、後で苦労している人が多いかと言う事だ。
 真面目にコツコツ働くよりも、うまく立ち回って土地や株、お金を動かす方が手っ取り早くお金を稼げるという風潮が、世の中全体に蔓延しているという事かもしれない。
   今も教えているのかどうか分からないけれど、小学生の頃、1次産業は農林水産業、2次産業は製造業、3次産業はサービス業、その他の産業と習った。僕の子供の頃は、1次産業が一番多かった。僕は現役時代、ずっと製造業だった。今は圧倒的に3次産業に従事している方が多い。昔、習った、資源の少ない日本は、原料を輸入し、加工して製品にして輸出する『加工貿易』の国だと社会科の授業で習った。今はこの言葉をちっとも聞かない。金利差で利ざやを稼ぐのではなく、物づくりの実業の日本でありたいなと思うのだが。

第 1159      スポーツ                 2018.08.29(水)

 運動が苦手で、小学校の体育の授業が嫌いだった。逆上がりですら、大人になってから初めて出来た。長女が小学生の頃、逆上がりの練習がしたいと言って、鉄棒の有る公園まで一緒に付いて来てくれと言われた。長女も中々出来なかった。あれこれ言うと
 『それなら、お父さん出来るの?』と言われた。高い鉄棒にぶら下り、やってみた。腹筋と腕の力を使って試みたら生まれて初めて出来た。普通、逆上がりは足の力を使って蹴上がるものだ。僕のやったのは、地面を蹴ることなしに、腹筋と腕の力で鉄棒の上に上がったのであり、形は逆上がりのようだが、逆上がりとはちょっと違う。長女の前で面目が保てた
 運動会も足が遅いし、組み体操では体重が軽いからいつも高いところに登る役目をやらされて怖かった。運動会の日には雨が降って中止になることばかり祈っていた。中学になって運動能力でクラス分けして授業を受けることになり、運動能力測定が行われた。100m走、1500m走、懸垂、ソフトボール投げ、反復横跳び、その他いくつかの種目があって、やってみたら自分の運動能力はそんなに劣っていないことが分かった。クラスの半ばより上である自分の結果に驚いた。小学校の時、ダメだったのは、単にコツが分からなかっただけと思うことにした。
 ただ走る、ただ泳ぐ、ただ投げるではそこそこのことは出来るが、ここに一つボールが加わった途端ダメになる。運動神経が悪いのだ。学生時代は本の一時だけサイクリング同好会に入っただけで、スポーツ系の部活は皆無と言ってよい。いつも文科系の部活ばかりやっていた。
 スポーツ系の運動部で活躍している生徒を見ると、いつも『あんなに出来たら良いな』と憧れていた。『スポーツマンシップ』と言って、爽やかで、公平で、清らかな青少年を思い浮かべるが、自分はスポーツには全く関心の無い風を装ってきた。でも、そんな競技が出来たらといつも憧れている。
 恐らくどなたでも始めから上手く出来るのではないと思う。初めはドジで、間抜けなことばかりなのだとは思うが、特別なドジや間抜けを皆さんの前で演じることを極端に恐れていたに違いない。中島 敦の『山月記』の主題の『自尊心と羞恥心』のようなものか。
 そのスポーツ界でここ1~2年で相継いでふ祥事が露見した。スポーツ界の汚点である。 カヌーのライバル選手への薬物混入、大相撲の暴力、日大アメフト部の悪質タックル、レスリングのパワハラ、ボクシング会長の反社会的勢力との交際、バスケットボール選手の買春、そして昨日、女子体操パワハラ問題のニュースが出た。
 『スポーツマンシップ』と云う言葉も返上しなければならない事態に成りかねない。相手を蹴落とそうとしたり、欲望、権力を傘に相手を脅そう、従属させよう、権力を行使させようとするものばかりである。
 決して、爽やかな、公平な、清らかなものではない。スポーツ界の血液ドロドロ状態が露呈した。社会の縮図そのものだ。人間の成せる業ゆえ、人間の醜い部分はたとえスポーツ界と言えども例外ではなかった。

第 1158      走り幅跳び                2018.08.28(火)

 寝転んで、アジア大会 陸上の走り幅跳びの競技のテレビ放送を見ていた。自分が運動音痴だから、今まであまり興味がなかった。同じ選手が何回か跳んで一番距離を出した成績を採用して優劣、順位を決めるらしい。
 そう言えば、走り高跳びも設定した目標高さを何回か跳べたように思う。100m走などは予選、準決勝、決勝と何回も走るが、それぞれのレースで勝ち進まなければ、振るい落とされてしまう。一戦一戦気が抜けず、毎回一発勝負のようだ。仮に準決勝で世界新記録を出しても、記録としては登録されるだろうが、単に決勝戦に進出できるだけだ。決勝戦での優勝者が平凡な成績で勝っても、たとえ自分が準決勝で世界新記録を出していても、決勝戦で敗れてしまえば一番にはなれない。勝負と、出した記録は別物なのである。
 どの競技の選手においても、一発勝負に掛ける意気込みは並大抵なものではない、ゲロが出るほどのプレッシャーを背負っているに違いないと思う。練習に練習を重ね、ただ一回の勝負に賭ける辛さはある。その点、走り幅跳びのように、何回も跳んでその中から一番の記録を採取するなんて何と甘いことか。
 この歳になると、今まで生きていた中で、一発勝負で失敗して来た過去を思い出す。いつも失敗ばかりして来た。普段の練習では出来るのに本番では失敗してしまう。もう一回やらせて貰えればきっとうまく行くのにという経験をたくさんしてきた。繰り返すが、走り幅跳びの何と甘い競技なのか呆れてしまう。
 どなたも同じだが、普段の練習で出来ていた事でも、衆目の中の本番では緊張してなかなか普段通りには出来ないものだ。それでも何回も試すことが出来るなら、大抵出来てしまう。走り幅跳びは人生に即していないし、興味も半減してしまうな。同じ陸上競技でも、100m走の方が人気があるのは、緊張の有るなしの違いなのかな。

第 1157      悲しいこと                2018.08.26(日)

 もちろん地域によって違いがありますが、川崎市立の小中学校では今日が夏休み最後の日で、明日から学校が始まるらしい。らしいと云うのは我が家には該当する学齢の子が居ないから、確とは分からないのである。次男が小学生だった頃、夏休み中に少しずつやっておくべき宿題をやっておらず、泣き泣き追い込みを掛けていた事を思い出す。
 新聞に拠れば8月下旬から、9月の始めに掛けての期間に小中学生の自殺者が多いのだと云う。単に宿題をやっていないだけの問題でも無さそうだけれど、宿題をやっていなくて学校に行き辛くて、自殺してしまうのだとしたら、ここまで育てた親御さんにとってはとても辛く悲しいことである。。世界中の子供たちの6人に1人が家庭の事情で学校に行けないと云う中で、夏休みの終了前後の期間に、自らの命を断ってしまうなんて本当に悲しい。
 子供に自己管理と言ったって始まらないけど、大人になっても、嫌になったら直ぐ仕事を止めてしまうとか、中年以降の引きこもりが多いことを見ても、子供の頃の習慣を引きずって居るのかも知れない。耐えるとか、我慢することも考えなければいけない。
 学校に行き辛いは、いじめの問題もあるのかも知れない。自分の小学生時代と比較して、云々しても仕方がないから書かないけれど、少なくても今の子供の方が『ヤワ』だと思う。大人に成ってからの方が、いじめと云うか、厳しさはずっと酷い事は間違いないと思う。
 市役所と私の勤めている工業団地の共催で『夏休み ものづくり工場見学ツアー』を実施した。『群盲 象を撫でる』の喩えで、数少ない小学生を見て論じるのは適切でないのは分かっているけれど、参加した小学生を見た限りでは、自分達の小学生の頃の方がしっかりしていたような気がする。
 新刊書の本屋も、bookoffのような古本屋にもよく行く。コミック誌に割いている場所が多いのに驚かされる。大人や中高生が立ち読みしているのを見て、とても悲しく思う。幼児が見る絵本と、何処が変わりがあるのか。文字で書かれた情景を頭の中で描いて想像する力を養って行く事が大切なのに、自己形成期に絵本のごとき物を読んで何とするのか。
 テレビの画像やコミック誌の図ばかりを見ていたら可視の図の部分だけでは、物を考えたり、想像力を育成することなんかできっこない。僕はちっともやる気が起こらないから敬遠しているが、Lineのごく短文の交換だけも嘆かわしいと思っている。
 社会全体のスピードがアップしている時代に、僕の勝手な嗜好でHPに下手な雑文を書いてアップしている。これまでに原稿用紙5000枚は越えていると思うけど、これは本当に僕の勝手な嗜好なのである。下手な雑文でもお付き合いで読んで下さる方がいる。僕の文字ばかりのHPを読んで下さっても、読解力が上がる訳でも、人間形成に役立つ筈もない。 僕の単なる趣味の『文字書き』も、アクセスカウンターの数字が僅かずつでも上がって行くのを見て、『また何か書いて更新しなくちゃ』という励みになっているのは確かだ。有り難い事です。69歳になって、今更、文章が上手くなりたいとか、文筆家を目指すなんて気は全くない。まして、この歳に成って人間形成に役立つなんて有り得ないことだ。HPに訪問下さって本当に有り難いと思っています。
 脇に大分逸れてしまった。小中高の子供達には、夏休みにコミック誌でなく、たくさん本を読んで貰いたかった。そして読書習慣を付けて欲しかった。自分には3人の子が居るが、見ていても、どの子も読書習慣を持っているとは言えない。何とか自立しているようだが、本を読んでいたら自分の見る世界が一層広がっていたに違いない。小中高生には特に読書を勧めたい。簡単に命を断つようなことを考えない人に育って貰いたい。

第 1156      判官贔屓                 2018.08.22(水)

 100回目の甲子園夏の大会が終わった。大阪桐蔭が秋田県立金足農業高校を下して、史上初の2回目の春夏Vを達成した。試合は大阪桐蔭が圧倒的な点差を付けて優勝したが、大阪桐蔭の強さは誰もが知るところであります。
 決勝戦が始まる前から、大いなる盛り上がった。普段、スポーツ番組にあまり興味を示さない私ですら、テレビ放送を半分くらい見た。新聞始めテレビなどの報道量は僕の感じでは、金足農業の方が多かったような気がする。
 野球をやっている少年たちは、誰しも一度は甲子園に出場してみたい。高校に進学を考える場合も、どの高校でも良いというわけではない。甲子園出場常連の高校でなければ、可能性は低い。めい門校に野球留学するのである。地域で有力な中学生には、逆にめい門校から勧誘もある。大阪桐蔭始めめい門校には野球に優れた高校生たちが全国から集まっているのである。一方、地方の県立農業高校に野球留学しようなんて思う中学生など居ないのである。選手の層や資質の面で言えば、両者には初めから大きな差があった。
   金足農業の戦い方を見ると、ヒットで塁に出ると、決まってバントで走者を得点圏に進めることを徹底していた。相手に隙があれば2ランスクイズを決めるなど、誠に地道な戦法である。
 ただ、大阪桐蔭が容易に全国の頂点に上り詰めたと言っているのでは決して居ない。大阪桐蔭の選手たちも毎日、毎日ユニホームを真っ黒にして弛まぬ練習を積み重ねて来た結果で成し遂げた偉業に相違ない。
 日本人独特の意識なのでしょう。判官贔屓と言うのでしょう。圧倒的な強さで勝ち抜くより、ふ利な状態からひっくり返す、弱き者が強き者を倒すことを爽快と考える傾向がある。かつて、大相撲の小兵 舞の海が2ばいもの体重がある小錦の腰側面に張り付き、見事投げ飛ばした取り組みを見て、喝采を送ったことを覚えていると思う。
 今回の金足農業高校もそうなのであろう。県立高校では野球部に配分される予算も少ないに違いない。甲子園めい門校とはお金の面でも、選手の層でも大きなハンディキャップがあるであろう事を周りの皆さんがよくご存じであった。
 めい門校同士の決勝戦であったら、これほどの盛り上がりになったと思えないな。
 『金足農業? 何だいそれ 農業高校が甲子園に出場するなんて珍しいね』
 大方の皆さんの始めの印象はこんなものであろう。それがアレヨアレヨという間に勝ち進んでしまった。大会屈指の投手と言われた、吉田輝星投手は地方予選から決勝戦までずっと一人で投げ続けた。『疲れて、負けてしまった』でも、誰も非難する人なんて居ないと思うな。
 高校野球ファンは両校の戦力の状況をよく知っている。公立高校の金足農業にはお金や選手層の面でパンディキャップを負っている。もしこれで大阪桐蔭が決勝戦で敗れたら、周囲から何を言われるかわからない。大阪桐蔭には見ている人たちの判官贔屓、勝って当たり前というプレッシャーが有ったと思う。でも、試合には両チームとも9人ずつしか出場できない。条件は同じだと言えばそうだ。両校とも最後まで良く戦ったと思う

第 1155      人生ってふしぎなものですねぇ       2018.08.21(火)

 旅は行く前が楽しい。楽しみの半分は旅に出る前の計画時にある。これから行く旅の内容を素晴らしいものと空想するからである。ガイドブックにあるめい所旧跡を自分の目で見たい。お花畑や紅葉の素晴らしさを見てみたい。あの郷土料理を堪能したい。それらを想像し計画するから楽しいのである。
 楽しみにして実際に行ってみたら、当地は土砂降りで、喜びが半減してしまったと言う事はよくあることだ。めい所旧跡は見物したい人たちがたくさん押しかけていて、何処を見るのにも行列でうんざり。お花畑は時期がずれていて、花の最盛期ははもう過ぎていた。ガイドブックや宣伝チラシとは大違いでガッカリ。疲れ切って、我が家に戻り、お茶でも飲んでホッとして、
 『ああ、疲れた。我が家が一番』
 なんてことは、誰しも何度も経験して居ることであります。
 『旅は行く前が楽しい』と言うのは、『人生の定理、摂理』であります。空想する時は良いことばかりを思って、初めから悪いことはあまり考えない。
 憧れの電通に見事就職して、働き過ぎで自殺してしまった高橋まつりさんもその例だ。東大に行って、憧れていた電通に就職が決まった。決まった時には喜んだであろう。就職する前は頭の中で色々なことを描いていたに違いない。実際に入社して見たら、就職前に思い描いてきた理想の会社とは大違いで、過酷な仕事の連続だった。幾らやっても仕事の山。外から見るのと実際の中身は大違い。
 美しい彼女と結婚することに憧れる若い男性だって、『彼女と結婚できれば、こんな美女と好きな時にタダで出来る』なんて想像する。実際に結婚したら、付き合っていた頃は猫を被っていて、分からなかった彼女の性格の悪さが露呈したり、とんでもない浪費家だった、家事が嫌いだった等のことが分かり絶望する。美女でもそうでない女性も体の構成にはあまり変わりはない。
 イケメンの高学歴、高身長、高収入の男性との結婚に憧れる女性も同じ事。やはり相手の性格が自分と合うかが一番だと気が付いたときにはもう遅い。旅と同じで、結婚前の恋愛時代が一番楽しいのである。
 もう何度も聞き慣れているかも知れないが、フランスの劇作家の言葉である。
 『人間は判断力の欠如によって結婚し、忍耐力の欠如によって離婚し、記憶力の欠如によって再婚する。』
 斯くて、前回の旅先での混雑や、嫌だった出来ごと、ちょうど見頃の時期がズレていた経験も時間が経てば、忘れてしまう。全く性格が合わず離婚した苦い経験を忘れて、人はまた旅の計画をし、別の相手を探して再婚する。中々懲りることを知らない。
 向こうから若いカップルが手を繋いで、幸せそうにゆっくり歩いてくる。女性の方はお腹が大きい。男の方を見て、
 『何だ、コイツが孕ませたのか』
 とつい思ってしまう。夫婦って云うのもつくづく面白いものだと思う。
 仮に1回/週に『愛の儀式』を行なったとして、年に52回、10年で520回、20年だったら1000回以上も、同じ相手に、同じような事をやっている事になる。よくも飽きないものだ。人間以外の動物のメスは発情期以外交尾をさせない。人間に限ってはいつも発情期と言うことになる。経時変化でそのうち、単なる同居人と化し、老老介護へと下って行き、朽ち果てる。
 会社の更生行事か何かの、家族ぐるみのイベントがあって、部長や課長も家族同伴で出席する。部長や課長のカミさんを見て、
 『部長(又は課長)はいつもこの女とやっているのか』
 と思うと、何だかとても嬉しくなるし、悲しくも、寂しく、切なくもなるのだ。
 歌の文句ではないですが、お互い様で、『人生って、本当にふしぎなものですねぇ』

第 1154      大きくなったら何になりたいの?      2018.08.16(木)

 月遅れのお盆の時期です。8/13~8/16まで、長女が4歳と1歳7ヶ月の子供を連れて我が家に泊まっていった。我が家は大人ばかりの3人家族。普段静かな中で、孫達はかん高い声で叫びながら家中を駈けずり廻っている。30~40年前は僕ら夫婦も同じようなことを経験している筈なのに、今となってはもうすっかり忘れてしまって、ジイジもバアバも戸惑いの連続でした。ジイジとバアバにとっては3~4日のことだが、長女にとっては毎日のこと。子育って本当に大変な労働だ。
 ジイジは予め孫に見せるための手品の練習などしておりました。後は送り迎えと、孫と一緒にカレンダーの裏の白い部分にお絵描き程度でしたが、バアバは二人の孫に相当振り回され、疲れたようで、帰ると直ぐに昼寝をしていた。
 幼稚園の年中の上の孫には、時にやり込められる程でした。子供とお話をする時の定番の質問に
 『○○ちゃん、大きくなったら何になりたいの?』
 と云う質問があります。僕も孫にしようかなと思いましたが、止めてしまった。たかが4歳くらいの孫に対する質問で、将来どれほど影響があるとも思えません。
 以前、小学校の卒業文集が出て来て読んだ時、クラスの友達の将来成りたい希望の職業が書いてありました。医者、看護婦さん、新聞記者、野球選手、おかあさん、主婦、教師、大工さん、それこそ千差万別です。ちなみに僕のなりたい職業は『町の文房具屋さん』と、当時から何と小市民的なもので呆れます。
 果たして孫が大人になる2030~2040年頃にはこんな仕事があるのでしょうか。今ある職業の内、大半の職業がAIに取って代わって無くなってしまうと言います。
 今、AIは囲碁、将棋、ホテルのフロント業務、車の自動運転システムなどある部門に『特化』されたものに使われている段階です。人間は教えて練習さえすれば、色々な作業が出来ます。歩く、走る、車の運転、料理、人にモノを教える、本を読んで理解する、パソコンを操作する、計算する、言葉を話す、機械を操作するなどなど様々の事が出来る『汎用』の生き物です。
 今、特定の仕事しか出来ないAIも、我が孫が大人になる2030~2040年頃には、特定な作業だけでなく、きっと『汎用』の作業が出来るようになっているに違いありません。鉄腕アトムのような人型ロボットかな。機械ですから、労働時間も待遇も考慮する必要もない。生産性も格段に上がるでしょう。将来はきっと、AIの機械を持って使いこなす人と、持たない人との冨の格差が大きく広がることに違いありません。日本でも職を奪われたの人たちの暴動が起きるかも。
 今までずっと労働を美化する考え方があった。相模原の障害者施設『やまゆり園』の殺傷事件、杉田水脈衆議院議員の『生産性』もその例だろう。『社会の役に立つ人なのか』あるいはもっと極論すれば、『働かざる者、食うべからず』の考え方は、AIによって根底から覆ることに成るかも知れない。何故なら、AIによって大半の人が『働きたくとも職が無い』状態に成るかも知れないからだ。職のない人ばかりになれば、価値観は変わる。貧しかった頃は労働が生き甲斐のようだったが、人間は労働しなくても良くなるのかな。
 『ガリバー旅行記』にも同じような国があった。『小人国』、『大人国』、『賢人の国』、『馬の国』の4つの国があったようだが、『賢人の国』ではみなが数学の問題の回答を考えていたり、家はみな幾何学的な三角や四角、丸の形をしていた。
 残る仕事は創作的な仕事、スポーツ、芸術関連の仕事だけと、悲観的な話がよく新聞に出ております。大雑把に言えば、人の左脳は読み書き、思考など理性担当。右脳は直感、ひらめきなど感性担当。仕事や勉強で使うのは左脳で、スポーツや芸術で使うのは右脳だが、右脳を鍛えることで脳の情報処理力は上がるそう。今度、孫が来たときに試してみよう。
 単純労働の方のみならず、多くの人たちはきっと職を失うことでしょう。数年前、同じようなこんな話しをよく耳にしたものです。北アフリカや中東からヨーロッパを目指した難民が、数百万人ともなるとヨーロッパの国々でも吸収しきれず、職の無い若者たちはISの宣伝文句に釣られて、ISの戦闘員になったとか。
 AIの発達と形こそ違え、多くの人々が職に就けなければ政情はふ安定になる。政治家や社会のリーダーたる方々は、将来を見据えて今から対策を考えておいて頂きたい。孫達の生きる世界は今までよりはるかに厳しい世界になるに違いない。

第 1153      みんな一斉               2018.08.10(金)

 この『書斎』のコーナーを訪問して下さっている皆さんは、1年にお盆が3回あるのをご存じでしょうか。多くの方は7/15 が『新暦のお盆』、8/15を『旧暦のお盆』だと思っていらっしゃる。それは誤りで、8/15 は『月遅れのお盆』で、『旧暦のお盆』は8/25 なのである。大き目のカレンダーには書いてあるので、確認してみて下さい。
 ゴールデンウィーク、月遅れのお盆、年末年始の休暇の際には、毎度のことですが、日本では民族の大移動が起こります。
 8月の初旬から交通情報で各地の高速道路の渋滞予測 何十kmの予測が放送され始める。毎度毎度のことで、この鉄道の混雑、車の渋滞は何とかならないものだろうか。学習能力がないと言われても仕方がない。
 『そんなこと言われても、会社の休日カレンダーで休みの日が決まっているのだから仕方がない』
 と、おっしゃられたら、それはごもっともです。
   混雑することが分かっているのに、その時期になると一斉行動するのは貧乏臭いと思うな。多分、僕には帰省する故郷がないからこんな事を云うのだろう。ただ1回単身赴任していた頃、年末年始に移動した経験はある。その時は向きが逆で、地方から神奈川へ、帰りは神奈川から地方だったから、鉄道もそれほど混んでいなかった。特に自家用車での帰省は、家族で公共交通機関を利用するより、車の方が安いという思惑がミエミエだ。
 この人々が一斉に行動を起こすという慣習を当たり前の事とせず、考え直す気がないものかね。GW、お盆休み、年末年始の休暇終盤の駅、高速道路の休憩所の様子がテレビで映し出される。子供は元気だが、お爺ちゃん、お婆さんは久しぶりに会えた孫との別れに涙ぐみ、お父さん、お母さんは疲れ切って物悲しい。ふざけたことにこれを放送するテレビのニュースの文言も全く同じである。
 『お盆休みを故郷や行楽地で過ごした方々が・・・・・・・』
 なのだ。
 もっとも、平日の空いた、乗り物の待ち時間がほとんどない遊園地に行っても何か物足りないように、恒例行事には混雑がないと帰省した気分に成らないのかも知れぬ。日本人は本質的に混雑や何かに並ぶのが好きなのかも知れない。

第 1152      弱い意志                   2018.08.08(水)

 駅の長い階段を上るのは、けったるい。老人となって体の筋肉量が落ちているせいだ。中年以上になると、腹部に脂肪が溜まりポッコリ膨らむ方が多い。やれ、好きなズボンが穿けない、風呂に入る時に見る、鏡に映った我が身は醜いと悩みのタネだ。
 若い頃はいくらたくさん食べても太らなかった。20歳の時に比べれば、体重は14kgも増えた。目立って腰回りや腹部に集中して脂肪が付いたように思う。自覚して食べる量も減らしているのに、体重はちっとも減らない。
 中年以降、僕と同じような経験をしている方は多いと思う。代謝量が減っているのが原因だ。食事によって得る過剰な栄養分が腹部を中心に脂肪として蓄積されてしまうのだ。
 腹部の脂肪を減らすには、代謝を高めるしか方法がない。食物から得たエネルギーは筋肉を動かすことによって消費される。若い頃に比べ、中年以降は筋肉量が減り、運動量が減っているのだ。
 およそ書店に行っても、テレビ番組でも『ポッコリお腹を解消する方法』に関することが非常に多い。それだけ自分の体を気遣って居る人が多いと言うことだ。もちろん、食べる量を減らす食餌療法はあるのだか、ろくに食べなければ動くことも出来ない。
 『ポッコリお腹』をへこますには、つまるところ筋肉量を増やして代謝を上げることと、運動量を増やすしかない。ダイエット関連の本など読めば、どれも『1日たった5分のトレーニング』などと、いとも簡単に出来るかのような表現ばかりで、本の購買を誘うことだが実際には中々辛い。
 運動量を増やすために、エスカレーターを使わず、階段は歩いて登るようも書いてある。駅の階段を下から見上げれば、さながらアルプスのごとしで、ついエスカレーターの列に並んでしまう。
 皆さんの中にはスポーツジムを利用している方もいらっしゃると思う。第一生命の『第31回サラリーマン川柳コンクール』の入選作品の中にこんなのがあった。
 『スポーツジム 車で行って チャリをこぐ』
 的を得た面白い作品だと思う。
 家ではほぼ毎日、腕立て伏せ20回とスクワット20回を日課としている。腕立て伏せもスクワットも勢いを付け、反動を付けて急いでやってはならない。ゆっくりゆっくりやらねば効果はない。腕立て伏せなど反動を付けて20回やるよりも、ゆっくり呼吸を考えながら10回やる方が余程キツイ。筋トレはゆっくりやらねば効果は薄いのだ。
 日課としているトレーニングは、5分も掛かっていないと思う。それでも心の中では『今日1日くらいサボっても良いだろう』と、何だかんだと理由を付けて回避しようとする。たった5分くらいの事である。継続すれはそれなりに腕が太くなったり効果があるのだが、それでも億劫でサボリたい。思えば自分の生活の中に、今やろうと思えば簡単に出来ることで、普段、出来るのにしていない事が多すぎる。
 今度こそ続けようと心に誓っているけれど、初めから離婚するつもりで結婚する人は居ないのと同じで、始めは誰しも続けることが出来ると思って行動を起こすのである。結婚生活と同じように強い意志と、たゆまぬ努力が欠かせない。

第 1151      思わぬ出費                  2018.08.07(火)

 今年は6月末より真夏日、あるいは猛暑日が続き今年の暑さは、老体には本当にキツイ。暑さだけでなく、思っても居なかった家電製品の故障による買い換えの出費もキツイ。予め想定しておかなかったのは、こちらにも落ち度がある。およそ電化製品に限らず物にはそれなりの寿命がある。寿命が来れば、人であれば死に、機械であれば故障し、止まってしまう。
 電化製品の故障は人間で言えば病気かも知れないが、家電量販店に行けば、
 『設置して何年ですか?』
 『10年』
 『そりゃー、もう寿命ですね。今の機械は省エネ設計になっているから、買い換えた方がお得ですよ』
 と、簡単に言われ、年数を経た家電製品など修理して使うなどと言うことはなくなってしまったようだ。
 我が家では7月に冷蔵庫、8月にエアコンが壊れてしまった。寒い季節ならいざ知らず、この猛暑では冷蔵庫も、エアコンもなしでは居られない。壊れて直ぐ家電量販店に行った。猛暑の影響もあって、需要が多く、需要と供給の関係で家電量販店もえらく強気だ。冷蔵庫は行った次の日になんとか設置してもらえたが、エアコンは設置工事が10日も先になってしまう。
 これまで使っていた冷蔵庫は壊れるまでの期間が10年未満だった。吸気口にホコリが詰まっていて機械自体内に熱がこもってしまい、冷却できなかったのであろう。使う上でのふ注意でこちらにも負い目があった。
 エアコンの方のメーカー表示はパナソニックでなく、ナショナルである。設置後17年も経ていたから、大往生と言うことかも知れない。家を建てた時エアコンを設置したものだから、恐らく一斉に寿命が来る。我が家にはナショナル表示のエアコンがまだあって、今後幾ばくも経たぬうちに動かなくなるに違いない。またの出費を考えると頭が痛い。
 冷蔵庫なりエアコンなどの家電製品は設置してからの年数を普段どなたも意識していないのではないかと思う。大抵は壊れてから、慌てて買い換え、購入に向けて動き出す。
 誰でもそうだと思うが、ほとんどの方は自分の年齢を知っている。中には100歳以上まで生きる方もいらっしゃる。僕自身のみの考えで言えば、自分の意思で考えたり、動いたり出来なくなってしまったら、その後生き続けて居たいとは思わない。
 僕の寿命が尽きて思わぬ出費と成らないで済むよう、『火葬のみ』で、葬式はしなくて良いと家人に告げてある。尊厳のある生涯を送って来たならともかく、いい加減な生活を送ってきたのだから、葬式など行なって頂くのはこちらから御免被りたい。なるべく出費の掛からない方法で、人知れず静かにFade outしたいものである。後始末でも迷惑掛けないようガラクタは整理して、出来ることは自分で予め始末をしておきたい。

第 1150      西郷どん                   2018.08.02(木)

 西日本豪雨災害の時、公共放送のNHKが災害報道を止め、大河ドラマの『西郷どん』を放送したことを、タレントのカンニング 竹山氏が批判した記事が新聞に載っていた。7/9朝の情報番組で竹山氏が訴えたと云う。『甚大な被害が起こっているのに、他人事みたいになちゃっている』。被災地で人々が苦しんでいるのに、娯楽放送を流すのは、国民の災害に関する一体感を削ぎ、宜しくないと云う趣旨だ。
1.公序良俗に反しない限り竹山氏が何でも発言できることは、非常に良い事である。思ったことを発言出来ない国もあるなかで、日本は素晴らしい。ここで竹山氏に言いたいのは『自分が正義の味方振るな』と言う事だ。
2.仮に災害報道を続ければ、『何故、西郷どんを放送しないのだ』と放送局に苦情が殺到する。いつも言っているように、何か施策を行えば、必ず反対意見を言う人が居るという事だ。今回、NHKが『西郷どん』を放送したことに対して、竹山氏が反対したと云うことになる。
3.NHKはもう既に豪雨や避難に関する情報を充分発信している。視聴者は何度も同じ画像を見せられている。NHKの災害報道もネタ切れなのだ。『災害に遭い可哀想だ』と感情に訴えられるだけで、遠隔地にいる被災地以外の人たちにとって、何も出来ないと云うのが現実だ。誤解しては困るのは、常に決められたプログラムで放送しろと言っている訳ではない。必要な報道はしなければならない。
4.災害復旧には主に行政の力に頼らざるを得ない。私たちの出来ることは、『ちゃんと税金を払うことだ』。加えて、災害復旧義援募金に支援金を出すとか、近くに居る方がボランティア活動に出ることくらいしかない。
5.許されるなら、ニュースや災害情報などだけを常時報道する専用チャンネルを設置すること。

 正直な自分考えを言えば、カンニング竹山氏の発言を僕は歓迎しない。視聴者の感情に訴えるだけで、無意識の内に、彼が正義の味方振っているとしか僕には思えない。被災者救出とか、災害復旧には具体的な行動が有って初めて効果がある。百の美辞麗句を並べても、一の行動には敵わない。

 第 1149        余生             2018.08.02(木)

 暑い。猛暑日が続く。頭がパーになる。こう書くと暑くない時はまともに聞こえるけど、一年中パーだ。私の馬鹿は元々で、暑さのせいにするのはお門違いというものだ。
 69歳に成った今でもお陰様で、週3回働かせて貰っている。何ともありがたいことだ。とても運が良い。仕事に関わる時間は、通勤時間も含めたらおおよそ10時間になる。満員電車に揺られ、揺られて正直言って、草臥れることも多い。仕事をする以上幾ばくかのお金を頂戴できるし、いくらかでも家計の足しにもなる。ただ、お金のことだけでなく、仕事に出ると家に居ては決して得ることのない知識も増えてとても刺激になる。
 ここ2~3ヶ月でVR(バーチャルリアリティー・仮想空間での体験)と言うのを知った。VR用のゴーグルとスマホを用いれば体験できる。ゴーグルだって¥1000ちょっとで買える。(もっと安いものだってある。)
 世の中、辛いことはたくさんあるけれど、用が無くて生きていくことも辛い。カミさんがせっせと働いている傍で、自分ばかり懐手をして見ているわけにもいかない。天気でも良ければ外にでも出て気が紛れるが、雨でも降ればすることが無くて誠に困る。
 若いうちに、歳を取ってからも通用する一芸(技能・技術)の取得をもっと真剣に考えておくべきだった。あわよくば小遣い銭稼ぎでも成れば最高だ。現役時代に、何十年間かただ一所懸命働いて給料を家に入れていれば良いと言うものでもない。
 何十年間働いて得た技術は勤めていた会社でのみ通用すると言った、ローカルエリアでのみの通用する潰しの効かない技術であったら最悪だ。手にする知識・技術は社会で通用するもので無ければならない。 今、社会では65歳定年で、その後は再雇用なんて所も多いが、昔と違って65歳だって元気だ。働けば働ける身を以て、何もせずに居るのは決して楽なことではない。
 『定年まで働いて、それなら一体、いつまで働けば良いのだ』
 と立腹する方はそれで良い。こう言う方はきっと有り余る時間を過ごす何か術をお持ちだからだ。こうした方は心配が無い。
 その他大勢の方は、有り余る時間を持て余して、図書館に行って新聞を読んだり、居眠りしたり、買う物もないのに冷房の効いたショッピングセンターを彷徨したり、1杯のコーヒーで喫茶店に長時間居座っておしゃべりしたりと、まあ迷惑千万だな。
 昨今、『人生100年』とか言って、寿命も延びた。行政も生涯学習講座など開催しているが、焼け石に水である。2025年には団塊の世代の人は全員75歳以上の後期高齢者になるというのだから、若い時分から自分でも余生をどうやって過ごすか考えておくのことが必須だな。

第 1148      自分の考えを持つ               2018.07.28(土)

 結婚してからずっとだから、40年以上読売新聞を購読して来た。昨年12月に6ヶ月の更新する際、新聞販売店の営業の女性にカミさんが
 『洗剤を下さい』と言ったら
 『今、持って居ないから、後で持って来ます』と言ったきり持って来なかった。新聞販売店の『あとで・・・』の期間は凄く長く、未だに持って来ない。後に集金の係の人に言ったが無視された。契約だけ取って詐欺的なことをする読売新聞販売店だ。それだけ管理が行き届かないのであろう。
 この7月から朝日新聞に替えた。僕の中では、南京大虐殺30万人報道とか、韓国の女性を強制的に従軍慰安婦にしたとか、日本の大新聞の誤った報道で、中国や韓国から、『日本を批難する、政治上の格好なネタ』にされている。中国でも韓国でも政治的に都合が悪くなると、国民の反日感情を煽り、自国民の視線を逸らす道具に使われてきた。森友、加計問題でも朝日新聞が声高に取り上げていることも知っている。
 ほぼ1ヶ月朝日新聞を購読してみた。読売と朝日では大分『社の考え』が違うことが分かる。読売と朝日に限らず、それぞれ資本を出している所の影響がそれぞれある。すべて公正なんてことはありえない。オーナーの利害関係が必ず記事に反映する。それを考えながら、新聞も読まなければならない。
 翁長沖縄県知事が、な護市辺野古移転の承認を撤回するという。現在の普天間飛行場は周辺に民家や色々な施設が密集していて、世界で最も危険と言われている。普天間飛行場も初めから民家や施設が密集している所に作られた訳ではない。大きなお寺の周りに門前町が出来るように、後から人々が集まって来て密集してしまったのだ。
 人それぞれ色々な考えがある。『米軍基地をなくせ』『琉球国として日本から独立したい』『米軍は出て行け』などなど。琉球国が独立して米軍や自衛隊が出て行ったら、間違いなく『琉球国の独立を承認します。安全は私たちが守りますから基地を作らせて』と言って中国が出て来るのは間違いない。ウクライナのクリミアのような話に似ている。
 様々な考えが有ると思うが、そうなったらどうなるのか、自分の考えを持たなければならない。
 自民党の杉田水脈氏がLGBTは生産性がないと言ったそうだ。なるほど、子供が産まれないから、LGBT間では子孫は残せない。客観的事実である。性的少数者に対する差別発言だと、騒いでいる人たちがいる。世の中にはLGBTの人たちに対して、白眼視する人が多く居ることも確かだと思う。もちろん何らかの原因で子供に恵まれない夫婦も多く居る。杉田発言に対し、LGBTの人たちは、何らかの原因で子供に恵まれない夫婦たちまで巻き込むべきではないと思うな。
 元々、負い目を持っているから、直ぐに差別と受け止める被害者意識が強いのではないのか。世の中には色々な人が皆、一緒に住んでいるのだから、色々な考えはあるよ。
 杉田氏の発言力は議員さんだから大きく問題になる。口には出さないけれど、心の中ではそう思っている人たちはたくさん居る。口に出せば差別だけれど、そう思っても口に出さない人は差別ではないのか。人の心の中までは分からない。
 オウム真理教関連で7月になって13人の死刑が執行された。
 『真実の解明が十分でない中で、死刑執行は早過ぎた』
 『死刑と云う残酷な刑が残っているのは甚だ遺憾だ。日本は死刑を廃止すべきだ』
 『平成に起こった大事件は平成の内に処置してしまおうと処刑を急いだ』
 ・・・・・・・・・・・・・・・等々。
 西日本大水害でダムの放水を一気に行ったのは人災だ。
 斯くの如く、誰かが何らかの発言をすれば、また何らかの行動を起こせば、必ず反対する人が居る。満場一致なんてことはまずありえない。何か反論出来るだけ、抗議出来るだけ幸せなのではないか。何か言ったら拘束されてしまうなんてことは、日本ではまずない。色々な考え方がある中で、よく考えて自分の考え方を持つという事が大切だとつくづく思っている。
 ただ、この猛暑の中で集中力が落ちたせいか、間違いなく新聞の読み方が雑になったと自覚している。

第 1147      反面教師                   2018.07.14(土)

 高校生の頃の一時期、国語の教師に成りたいと思ったことが有る。昔から読書好きだと言うこともあったが、切っ掛けと成った教師が居た。その方は本業はオペラ歌手と言っていたが、副業かアルバイト教師で、私たちはその教師から漢文を習った。
 もちろん授業中は、生徒に漢文を読ませたり、普通に授業をされていた。ただ漢詩の意味や評価などについては、自分のやり方を貫いた。
 『どうせ君達に、この漢詩を読んでどう感じるかなどと問うても、何も答えられないだろう。これから私がこの漢詩の意味や情景をゆっくり言うから、そのまま口述筆記しなさい』
 と言われた。生徒だって漢詩を読めば、たとえ間違っているかも知れないが、誰しも何らか感じるだろうし、思いもするだろう。生徒達の考えは完全に無視された。生徒達は先生の言葉をそのまま筆記させられ、暗記した。期末試験も先生の言った漢詩の情景、意味や評価を記載するような問題ばかりが出た。前の晩、暗記してきたことをそのまま答案用紙に記せば良かった。自分の考えを答案用紙に記せば、赤点と成ったに違いない。
 それは漢詩に対する正しい理解、認識かも知れないが、
 『こんな漢文の授業なんかあるものか』
 と心の中で思っていた。国語の教師に成りたいと思った切っ掛けの一つになったに違いない。
 こんな50年以上も前のことを思い出したのも、先日死刑執行となったオウム真理教麻原彰晃と無縁ではないと思う。『自分の考え』を持ってはいけないのである。『教祖の考えに少しずつでも近付こう』と言うのが修行なのだと信じきっていた。教祖の考えに逆らえば、粛清と言うなの元に殺されてしまう。
 オウム真理教だけでなく、連合赤軍もそうである。金 正恩、毛沢東、スターリンもそうだと思う。沢山の方々が虐殺されている。指導者の考えに従わなければいけないのだ。色々言われているが、今、日本に住んでいる人々は過去の歴史から考えても、大変幸せな状態にあると言っても過言ではない。
 新聞などで読む中国の状態は、言論の自由も認められず、随分窮屈だなと思うけど、見方に拠ればあながちそうでもない。あの国は広すぎて、人口がたくさん居過ぎて、強力な軍隊を持ち、強い指導者でなければ統治出来ない。
 人の考えの中に、自由から逃走し、むしろ『強力な指導者を歓迎する』考え方があるのだ。政治に関心を持つ少数派の青年達の活動すら日本では見受けられない。政治的無関心が社会を覆い、強力な指導者待望論があるのだ。森友、加計問題であれほど騒がれても、自民党総裁選挙はあべ総裁3選が今のところ優勢だ。
 出馬有力視されている石破氏、岸田氏、野田氏の3氏に、グローバル社会の中であべ首相ほどの行動力があるとはとても思えない。岸田氏は未だ総裁選出馬表明すらしていないし、野田聖子氏の主張する『女性活躍社会』は結構だ。では、外交はどうするのと言った面では甚だ心もとない。
大切なことは、『自分がどう感じるか』『自分の考えはこうだ』とそれぞれの人が持つことだ。
 政治的無関心が社会を覆う中で、余程のことがなくそこそこ、生活出来れば社会の変革など求めない。強い指導者がうまく運営して呉れれば、自分達は『自分の考え』を持つ必要がない。『何も考えずに済む』と言うのが今の日本ではないのかな。頭の中で考えて、ちょっと悲しいけど、これが現実だ。僕も国語の教師には成れなかった。(成らなかった?)

 

第 1146      自然のままに                 2018.07.10(火)

 文芸春秋刊 日本文学館の全集を古本で揃えて、本棚に並べて置くだけでなく、実際に読もうと思っている。太宰 治の『斜陽』『人間失格』『走れメロス』他短編を読み終わった。今、谷崎潤一郎の『瘋癲老人日記』を読み始めている。
 『瘋癲老人日記』は漢字とカタカナで書かれている。もちろん、カタカナが読めないわけではないのだが、ひらがなに比べたら慣れていない加減だろうか、とても読み辛い。ゆっくり読まざるを得ないせいか、読んでいてかえって良く頭に入る。
 日記の主人とは裕福さの点で、私とは天と地ほどの差があるが、老人の『いやらしさ』の点では私と共通する事が大ありで、自分自身でもちょっと嫌だなという気もする。もちろん、谷崎も老人の時期に書いているのだが、老人の心理を良く掴んでいて感心した。やはり、一流の作家とも成るとその観察力、感性は素晴らしいものがある。
 あっちの機能が失われても、意識だけが残り、枯れない性が果たして幸せなのであろうか。老人と言うと、直ぐに『盆栽いじり』とか、『縁側でお茶でも』と言うイメージを持たれがちだ。『老人イコール枯れている』という固定のイメージを持ってはいけないのだ。もちろん若い頃に比べたら格段の差はあるが、煩悩だけ残っている。
 世の年配者を見ると、『わたしゃ、そんなものもう卒業しましたよ』という顔をしたり、おっしゃったりする方が大部分だ。ずっと以前からの世の中の固定観念がそうさせたのだろう。僕はそんなことをおっしゃる方を断じて『自分に正直ではないのでは!』と言い切りたい。
 今も続いているのかどうか知らないが、一時は漢流ドラマに夢中になっていた女性が大勢居た。自分と俳優さんを関連付けて、頭の中で願望を含めた空想で像を描いていた筈だ。カミさんに聞いた話だが、歌手の氷川きよしのコンサートには、杖をついた80歳以上のばあさんが、飛行機に乗ってまで会場に足を運び、入口で配布される蛍光で光る棒を振って、みんなで『きよし!』と叫ぶのだと。
 幾つに成っても自分の姿、形はさておき、美男、美女、イケメン、イイ女に憧れる気持ちは失せないのではないか。生きていれば2025年には、我ら『団塊の世代』は全員75歳以上の後期高齢者と成る。今の老人は昔の同年齢の老人とは大違いだ。今年、僕は69歳だ。数え年で祝う『古稀』なのだ。数え年70歳まで生きる人は昔から、ほとんど居なかったと言う意味だ。6月に小学校のクラス会に参加したが、皆さんとても元気だった。
 男に機能が備われば、老人同士、妊娠の心配のない性というのも大ありだ。
 『おじいちゃん(又はおばあちゃん)、もう歳なんだから』
 と決め付けて周囲の人が、配偶者ありの方は別として、有資格者の恋愛を止めてはいけないと思うな。配偶者ありの方は婚外で面倒なことになるといけないから、『きよし!』と叫ぶ程度に収める事を希望しますけど。ドリフターズの加藤 茶さんも、仲本工事さんも歳が大きく離れた嫁さんと結婚している。

第 1145      リハーサル                  2018.07.07(土)

 小学校の頃、運動会の最終仕上げの練習に『予行演習』というのが有った。予め本番同様の練習をするのだ。リハーサルである。普通、人生にはリハーサルはあまりない。結婚式場の係の人が新郎新婦に予め儀式の手順を教えてくれる。中には『何度もやっているから分かっているわ』というツワモノも居ると思うが、大抵は一生に一度だ。あれは式がスムーズに執り行われるように手順を教えてくれるに過ぎない。
 人生の節目、節目の重大時にリハーサルできれば、先が予測できる。先が分かればそれなりに心の準備や実地訓練もできて、現在の自分とは違った人生を歩んでいた可能性が大きい。
 ただ、リハーサルできたとしても、『本番で失敗』と言うことは大いにあり得る。いざ本番と言うと、過度の緊張により平常心を失い、失敗してしまうのだ。事前に幾ら練習をして万全の準備をしても、練習と本番は心理状態や緊張度が違う。
 リハーサルはもちろん必要だけれど、本当はなっとくできる内容を得られるまで、『何度もやり直し』できれば、もっと良いと言うことになる。
 結果が分かるまで時間が掛かるという事象もあるから、時間や日数を遡って『やり直し』ができなければ、満足できる良い結果にならない。明日の新聞を、今見る事ができれば、結果の分かった競馬の馬券はいつも『当たり』で、大金持ちに成るに違いない。
 大切なことは『自分だけ』が『やり直し』たり、『将来を見通し』できる能力を持っていると言うことだ。皆が今、明日の新聞を見ることができれば、皆が当たり馬券を買うから、旨味は無くなってしまう。
 有り得ないことを考えてしまったが、『自分だけ』と言うのは虫が良すぎる。誰もが人生は1回限りなのである。

第 1144      現代日本文学館                2018.07.04(水)

 昨日(7/3)は何となく嬉しくてウキウキしていた。アマゾンの古本屋に購入申し込みしていた2冊の本が届いたからだ。この本は50年ほど前に刊行された文芸春秋社版の現代日本文学館 全43巻の内の2巻なのだ。
 この文学全集には思い出がある。当時僕は高校生であった。病気で勤めを辞めていた姉が買っていた。全集は一括発行ではなく、月に1~2巻ずつ発売と言う形態を取っていた。全部揃うには何年か掛かっていた筈だ。本好きだった父、姉それと僕が代わる代わる読んでいた。当時1巻 500~700円くらいだったと思う。硬いボール紙のケースに入っていた。全部揃えれたら、当時で総額2万円は越えていたろう。今なら1巻1500~2000円、全巻で10万円弱ではと想像します。
 今は活字離れで文学全集など売れないから、出版社も全集など発刊しない。姉が結婚した時、全集を持って行ってしまった。姉が買った物だから仕方がない。学生だった僕には欲しくても買えない本だった。
 何十年も経ってから、川崎駅近くの bookoff で5冊ほど並んで置かれているのを見付けた。全巻揃っていないので価値も薄く、1巻 100~200円で買えた。5冊全部買った。僕は貧乏育ちだったから、基本的にケチくさい。bookoff には毎週のように何度も何度も通って、1年間くらい掛けて41冊まで買い集めた。
 最後の2冊が見付からず、ずっと買えなかった。他の古本屋も何軒も探したが、50年も前の揃ってもいない文学全集の丁度探している部分が置いてある筈がない。
 bookoff も営業方針を変え、easy reading の本ばかりを陳列するようになったようだ。以前は見掛けた他の文学全集の一部も、殆ど陳列棚から取り除かれてしまった。世の中の活字離れが営業方針に反映していると思う。文学全集を店に置いても、購入する客などいないのだ。店は売れ筋の本を置いて回転を早くしなければ成らない。
 後2冊なら全部を揃えたい。アマゾンの古本屋で探すことにした。現代日本文学館でも、作家に拠るのか、外側カバーの痛み具合なのか、価格は1冊 数十円から3000円くらいと大いに違う。何年間か掛けて古本屋を巡って探した最後の2冊は、30分ほどで呆気なく探しだした。200円とは行かないが、交通費や手間を掛けてあちこち探すよりはずっと安いであろう。本当は古本屋をあちこち巡って歩くのは、とても楽しいのだけれど。
 多分、総額8000円未満で全部揃ったと思う。インターネット通販の力はすごい。
 僕は本のコレクターではない積もりだ。古本だから当然外観は多少痛んでいる。文学全集を買うような人は、本を揃えるだけで、中身をちっとも読んでいないに違いないとの予想がズバリ当たって、夏目漱石、芥川龍之介、太宰治、谷崎潤一郎、他超有めいの作家の本以外、中身が読まれた形跡がの殆どないモノばかりだ。
 通勤の時、持ち歩くには厚くて、重くてちょっと難儀だが、50年前刊行の古本でも僕にとっては、とても嬉しい全集なのだ。生きていればの話しだが、全部読むつもりでいる。本棚に並べて置かれて、読まれる事がなければ本が泣く。

第 1143      桂 歌丸 さん                 2018.07.03(火)

 噺家の桂 歌丸さんが亡くなった。1966年放送開始から『笑点』の大喜利回答者、その後司会者として、大変な人気者であった。今日(7/3)の朝日新聞朝刊の地上波のテレビ番組欄に出ていた『桂 歌丸』『歌丸』『歌丸師匠』と表記の違いは色々だが、なんと15箇所もなまえが載っていた。それだけ歌丸氏関連の番組を組んでいるという事になる。人気ばかりが先行した、騒ぎ過ぎだと思う。
 テレビの人気番組の力は誠に甚大である。『笑点』の力は本当に凄い。『笑点』は僕もよく見る。ただ、人気の大喜利は落語でも何でもない。ただの観客や視聴者受けを狙った演芸番組に過ぎない。落語と勘違いしないで欲しい。
 僕は落語が大好きである。落語の速記本、落語全集、古くはカセットテープ、CD、落語雑誌などなどたくさん持っている。好きで『笑点』はよく見るし、番組は人気を盛り上げ続けたが、ある意味では『笑点』が落語をダメにしたと言えなくもない。
 寄席に行くと、『落語を聞きに寄席に来て下さい』と噺家さんが良く言う。寄席で本格的な落語なんかやっていない。寄席には多数の芸人さんが出て、一人当たりの持ち時間が10~15分くらいしかない。時間が短すぎるのだ。落語を聞くなら『二人会』『三人会』などのホール落語会に行くしかない。
 笑点メンバーの林家たい平さんが出演すると云うのでホールでのある落語会に行った。その時のたい平さんの持ち時間は45分間だった。彼が出て来るだけで大変な喝采である。45分有れば、相当の噺が出来る。彼は30分間、笑点に関することや、24時間マラソンの逸話など漫談のようなものでお茶を濁し、残りの15分で古典落語の一部を演じて高座を降りた。完全な手抜きである。笑点の人気が落語をダメにした例である。人気に溺れているとしか思えなかった。
 歌丸氏もそれに気が付いてか、後半生は心機一転、『笑点の歌丸』から、落語中興の祖と言われる三遊亭 圓朝作の怪談、人情話の掘り起こしをした。最近では『圓朝物の歌丸』と言われる様に、古典落語に身を投じたようだ。僕は落語好きと言ったが、本当は実物でも放送でも、歌丸氏の古典落語を聞いた事がない。
 歌丸氏が手掛けていた三遊亭圓朝作の怪談、人情話の掘り起こしをして『真景累ヶ淵(しんけいかさねがふち)』、『牡丹灯篭』、『小間物屋政談』などの大物を生涯の仕事として演じておられると聞き、頭が下がります。だが、それらの演目は国立演芸場や、個別の落語会へ行かないと聞けない。寄席のように気が向いたから、『ちょっと出掛けてみるか』と言う訳にはいかないのだ。国立演芸場は何ヶ月か前から予約して、全席指定である。それに値段もいい。歌丸氏の落語を聞いたことがない理由はここにある。落語は元々庶民の中から出た芸能である。歌丸氏は何か勘違いしていると思うのだ。僕にとっては敷居がとても高い。
 子供だった頃、ラジオでよく落語のラジオ番組を聴いた。昭和のめい人と言われた『五代目 古今亭志ん生』『六代目 三遊亭圓生』『八代目 桂 文楽』『八代目 林家正蔵』『三代目 桂 三木助』『三代目 三遊亭金馬』『五代目 柳家小さん』『五代目 古今亭今輔』などなど早々たる先人がいる。みんなテレビかラジオ番組で聴いた。持っていたテープレコーダーに録音して、何度も何度も繰り返し聞いた。カッセットテープなどない時代だ。残念ながら今は落語のラジオ放送がほとんどない。めい人上手の噺家さんの噺を見たり、聴いたり出来たのは本当に幸せだった。もちろん、現代の落語好きの若者たちもCDで聴く事は出来るのだが、桂 文楽の『炒った豆を食べる仕草』までは恐らくもう見ることは出来ない。
 その後の世代でも『三代目 古今亭志ん朝』『十代目 金原亭馬生』、人間国宝の『十代目 柳家小三治』『立川談志』など挙げたら切りのないほどめい人上手が居た。昭和と言う時代にこれだけの実力者が居た。今、周囲を見回しても何処にも見当たらない。桂 歌丸師匠が幾ら逆立ちしようがとても及ばないと思っている。
 桂 歌丸さんの古典落語を聴いても居ないのに多くは言えない。何も歌丸さんに文句を言っている訳でも、けなして居る訳でも何でもない。ただ、人気がある方が亡くなったからと言って、ハエがたかるように15箇所も番組を編成するテレビ局を批判しているのだ。W杯サッカーに対する報道も同じだ。軽薄としか思えない。どうか、ラジオで落語放送をやって下さい。もちろん音源は録画か録音になるのだけど、時間を割いて桂 歌丸氏の古典落語の放送をして欲しい。

第 1142      犬が吠える                  2018.07.03(火)

 塀の中に小型犬がいてちょっと顔を出している。人が通るたびにキャンキャンと体一杯使って、吠えてうるさい。こちらはうるさいなと思うけど、犬には犬の事情があって吠えるのだから、そのことについて、とやかく言うことは出来ない。僕は犬語を知らない。だから犬には僕の意向が伝わらない。犬は僕がうるさいと感じていることを知らないのだ。
 同じ日本語を話すのに、ちょっとのことで、自分の権利だといつもギャースカ言う方がいる。町内の学区の下校時にパトロールしている時、町会のブロックの役員の方に聞いてみたら、あちこちでトラブルを起こしているローカルの有めい人との事。自分の主張が通らないと、町会費を払ってもメリットがないと言って、町会も脱会してしまった。区役所にも苦情を言いに行っている。行政も言われれば動かない訳にいかず、実情調査には来るが職員も困っているようだ。近所に住む姉妹同士でも仲が悪いようだ。自分の主張をどうしても通したいらしい。
 落語に『小言 幸兵衛』と云う演目がある。大家である幸兵衛は毎日、小言を言って長屋を廻わらないとオマンマがよく喉を通らず、お通じも悪い。毎日小言を言って廻られたのでは、店子もたまったものではない。多くの人が近所に住むには、お互い許容限度と言うものがある。トラブルメイクが趣味なのかしら。要は暇なのである。もうちょっと高尚な趣味を見付けられないものか。
 行政が待機児童を減らそうと保育園を作ろうと計画しても、子供の声がうるさいと言って、保育園の建設もまま成らないようだ。かつて保育園の園庭に面した隣に2年間ほど住んだことがある。フェンスを通して園児ともよくお話をした。子供の視点はすごい。賑やかと言ってもせいぜい夕方までだ。人によっては幼児の甲高い声がうるさく感じられるのだろう。
 世の中、万事許容限界が低くなっている方が増えているようだ。体は大人でも、頭は幼児性を多分に残しているのだろう。

第 1141      家の作りやうは、夏をむねとすべし       2018.07.01(日)

 6/29の朝、出勤前に窓から外を見たら、まさに真夏の朝の感じがした。後になって関東甲信越で梅雨が明けたことを知った。日差しや風、雲の流れる様子で、季節の移りを感じるものだ。学生の頃、隠岐の島に貧乏旅行に行って、小さな島(知夫里)からはしけに乗って、大きな連絡船に向かう時、青い空に浮かぶ雲を見て、『もう、夏も終わりだ』と感じた。都会だとそうでもないが、地方に行くと四季の移り変わりがはっきりと分かる。
 若い頃(独身の時)は夏が好きだった。遊んでばかりいるからだ。僕はやらなかったけれど、勤めていた工場の入口で友達が来るのを待っていて、来たら会社を休んで、そのまま海に行ってしまうなんていう若者が多かった。
 その頃、土日休みが月に一度くらいあった。金曜日の夜、独身寮で友達と話していて、急遽それから『長瀞』に行くことになった。日頃から防災に対する備えではないけれど、大体何時でも出掛けられるよう、水着、飯盒、寝袋、キャンプの道具など、準備してあった。途中でスーパーに寄り、ウイスキー、米、食料を調達し、電車に乗ってそのまま、長瀞まで行ってしまった。
 夜中の、四阿(あずまや)で、ウイスキーを1本半呑み、そのまま寝てしまった。ご案内のように、秩父の夏はとても暑い。暑くて目が醒め、その場で荒川の水を汲み、飯盒でご飯を炊いて食べた。余りの暑さに『海に行こう!』急遽変更した。 八高線、相模線と乗り継いで、茅ヶ崎海水浴場に行った。昼間、雇われてもいないのに、努めて『海の家』の手伝いをし、オーナーに頼んで夜、泊まらせて貰う了承を取った。肉屋に行って1kgの肉を買い、野菜も仕入れて、夜の海の家で焼肉を食べて、寝た。いつもこんなことばかりしていたから、夏は大好きだった。
 さすがに、老年となればこうは行かない。この暑さに家を出る気も起こらない。増して今年は6月中に梅雨明けしてしまったのだから、夏が長い。早く秋が来ないかなぁ。冬であれば、春の訪れを待望しと、人と云うのは誠に勝手なものである。
 『家の作りやうは、夏をむねとすべし。冬は、いかなる所にも住まる。暑き比(ころ)、わろき住居(すまい)は堪えがたき事なり。』
 は、もちろん徒然草の一節です。僕が育った家は建て付けが悪く、冬になると隙間風で冷たかった。掘りごたつと火鉢1つしかなかった。夏には、隙間風は助かる。近所にもクーラーのある家なんかなかった。皆が貧乏だったのだ。
 現代の家は機密性が高い。まして、我が家は日当たり抜群、冬には暖房費が助かる。『駅には徒歩10分、東南の角地、日当たり抜群、病院、小中校近い。』ふ動産屋の広告にはもってこいの家なのである。夏には、ゴーヤ、琉球アサガオでグリーンカーテンを作っても、見た目は涼しげだが、焼け石に水と云うところであろう。
 吉田兼好翁にとって、我が家は『悪ろき住居は堪えがたき事なり』なのである。
 エアコンもおよそ17年経過で作業効率も甚だ悪い。年金とささやかなるパート収入で暮らす我が家では、食事時と夜通しの稼動に抑えている。
 カミさん曰く 『お米買うから、荷物持ちに一緒に行ってよ』
 『はいよ』
 二人で、我が家の斜め前のドラッグストアに出掛けた。中で会った、近所の翁曰く、
 『こんにちは、おや、二人お揃いで、涼みに来たのですか?・・・・・、いや、俺もそうなんだ』だと。
 まったく、夏の暑さには堪えかねる。