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おさむの書斎

 僕の家には狭いながらも自分の書斎があります。広いスペースではありません。たった3畳の大きさ
 長年、書斎が欲しいと思って来て、家を建て直す際にやっと出来た一人きりになれる唯一の空間。
 他の人が何と言おうと断じてここは僕の書斎なのだ。(実情は、パソコン部屋!!??)
 日記とは別にもう少し長いスパンで、普段思っていることを書こうと思って居ります。
 このHPのメインになるようにしようと思っています。

第 1132      四面楚歌            2018.05.22(火)

 日大アメフト監督のニュースを見て、司馬遼太郎の『項羽と劉邦』の項羽を思い浮かべてしまった。楚漢戦争期を舞台に鬼神の如き武勇で戦った楚の項羽である。圧倒的優勢であったが、人心を得ず敗死した。最後に、自分を包囲する軍勢の中から、自分の出身地である楚の歌が聞こえて来て、兵士からも見限られたことを知る。
 自分のチームの選手が犯した悪質反則により、相手チーム選手に怪我をさせてしまった。内田監督は何故、試合後直ぐに謝罪に行かなかったのだろう? 行っていれば、テレビのワイドショーにまで広がってしまうほど大騒ぎにならずに済んだと思う。判断の悪さのため、今はまさに内田監督は四面楚歌である。
 人間、潔さが大切だ。直ぐに謝罪に行かないために、マスコミはもちろん、ネットまで炎上してしまった。社会の反応を探っていたに違いない。日大の常務理事であり、監督という権力者は逃げ切れると、初期の判断をしたものと思われる。政治の世界でも同じような判断の甘さがあるのは何処も同じだ。
 私も長いこと会社で品質担当を行った。顧客からクレームが来たら、即対応する。これが鉄則だ。何だかんだゴチャゴチャ言い訳をして対応が遅れると、顧客は硬化して騒ぎは広がってしまう。即座に適切な処置を取るのが肝要だ。
 無防備の相手側選手に後からタックルしろと、具体的に指示はまさかしていないと思うが、ラフプレーを含んだ『けしかけ』はしたであろう。監督やコーチが選手に対し、ルールの範囲内であれこれ指示するのは当然だ。具体的行動するのは指示を受け取る選手であるから、指示する側とされる側に乖離があるのは普通のことである。
 街中に防犯カメラがあり、ドライブレコーダーが犯罪の犯人検挙に役立っているのは誰しも知るところである。内田監督はマスコミやインターネットの力を過小評価して、自らの首を絞めてしまった。繰り返すが人間潔さが大切だ。常務理事辞任は『別の話だ』と言ったのも世間を逆撫でした。それほど保身を望むのか。
 今日は題材選定を誤ったようだ。日大アメフト事件は世間で大きく取り上げられ、多くの人が色々のことを言っていて、僕が同じことを書いても受け売りで意味が無い。反省
 もし、司馬遼太郎氏の『項羽と劉邦』をまだ読んだ事のない方は是非お読み下さることをお勧め致します。

 

第 1131      いいね!        2018.05.16(水)

 別に統計に基づいて書いている訳でもないけれど、中学校、高校で制ふくが決まっている学校が多いのではないかと思う。もし決まった制ふくがなく私ふくの場合、多感な年頃の子供たちが毎日同じ格好で登校すると言う訳にはいかないだろう。
 それでなくとも、『自分らしさ』やセンスを誇示して友達から褒められたいと願う年頃だと思うのです。もし制ふくが決まっていれば、今日は何を着て行こうか考えることもない。皆、同じふくなら、要らぬ配慮もなく経済的にも安上がりに違いない。
 制ふくがない時、『自分らしさ』を示そうとして、自分が良いと思って着てみても、他の人が認めてくれて初めて有効である。
 もし、ロビンソンクルーソーのように無人島に居たなら、着衣には全く感心を払わないに違いない。いくら着飾ったとしても自己満足に過ぎない。
 僕はSNSをやらないことにしている。煩わしいからだ。それでもメールでお知らせがたびたび来るから、たまには facebook を覗いて見る事がある。facebook では、友達になったり、『いいね!』と反応を示す制度がある。折角メッセージをアップしても、『いいね!』の評価がなければとても悲しいことである。
 僕のようにMy HPを持って、つれづれに何か書いてアップするのも、露出狂と言うか、自己顕示欲過剰なのか、他の人とは違う自分らしさをアピールしようとしているのに違いない。
 ただ悲しいかな、人とは違う”自分”を求める行為は、自分だけでは叶えられないことなのです。ただ思い付いた事を書くなら、他人に見せない日記でも書いていれば良いのです。ボディビルダーのように、自分の姿を鏡に映してナルシズムの世界に浸って居るようなものです。
 人が『いいね!』と評価して下さって初めて、有効となるのです。私のHPでは評価を受ける手段の掲示板すら休止している一方通行なのです。思ったことの垂れ流し。人里離れた山奥に篭っている隠遁者と同じようなものです。
 隠遁者がなまじ人と交わって、『いいね!』や『そだねー』など言われたら、きっと考えが変わってしまう。自分の勝手に書くには、『いいね!』や『そだねー』など言われない方が良い。斯様に私は自分勝手な個人主義なのでしょうね。

第 1130      自分の世界             2018.05.15(火)

 5/14 米大使館がエルサレムに移転した。これによりユダヤ教を信じるイスラエル国民は歓喜し、イスラム教徒のパレスチナ人は抗議デモを起こし、一部が暴徒化した。エルサレムはユダヤ教、キリスト教、イスラム教の聖地であるからだ。一方に味方する超大国の大使館が聖地に置かれるのは、他方の者にとっては許せない。
 この3つの宗教は元々、ヤハウェという同一の神を持つ、言わば親戚関係にある。近いからこそいざこざが起こる。かつて同じイスラム教徒でも争いが起きた。イラン・イラク戦争のように、シーア派のイランと、イラクのフセインはスンニ派だったから戦争となった。もっとも、民族は違った。イランはペルシャ人であり、イラクはアラブ系の民族である。世界史を見ても宗教の違いが戦争に結び付くことは非常に多い。
 信じる人たちに取っては自らの生命を賭してまで、自分の信じる宗教を守るべきものなのだ。私たち日本人の宗教観から言えば、大きな差がある。
 なまじ近い宗教だから、諍いが起きる。あまりに考えが懸け離れているから、かえって仏教徒とは争いに成り難い。話がかみ合わないのだ。外国人から
 『お前の信じる宗教は何か?』
 と訊ねられたら、取り敢えず『仏教徒』だと答えておく。何も宗教を信じていないとは、外国人に答えにくい。宗教を持たない人は奇異に思われるようだ。僕から見れば、何故そんなに宗教にのめり込むことが出来るのかが大きな疑問だ。
 本当は仏教徒とも言えぬ、葬式以外では必要のない『葬式仏教』なのだ。家の宗教は一応日蓮宗である。私が育った家には神棚と仏壇があった。
 神社や寺院に行くのは大好きです。一応初詣にも行きます。宗派など全く意識しない。物見遊山、行楽に近い。今まで10円以上の賽銭を投じたことはない。小銭を持っていない時は、カミさんが賽銭を投げたと同時に願い事をお願いしてしまう。
 雷、台風、日照り、干ばつ、地震、日食などの自然現象を神の怒りに触れたとして恐れた。棒を持って戦争していた時代ならともかく、現代においてどうして神を崇めることが出来ようか。ただ念仏を唱えれば、死後極楽へ行けるとも思えない。それでも世界には、命を賭してまで宗教を大切にする人たちがたくさんいる。
 僕の宗教観は希薄だ。神を信じないから無神論、いずれの寺院の檀家に属していないからと言って、自分は無宗教だと言うのは単なる思い込みのような気がしないでもない。よほど困ったり、絶望のどん底に落ちてしまった時などには、思わず『神様、助けて下さい』と、神にすがりたい気持ちにもなる。『ご都合主義宗教』なのだ。
 今はさほどでもないが、現役で働いていた頃、仕事が二進も三進もいかず、大いにストレスを感じ、ウツ状態にもなった。何かにすがるとか、心の拠り所になるなら宗教を考えてみたらとも思った。
 『高い教育を受けた人達ばかりなのに何故?』
 と思うのがオウム真理教関連で、死刑や無期懲役の判決を受けた幹部の人達だ。入信の切っ掛けは、彼らもある時期に何かにすがりたいほどの困難を背負ったのであろう。
 本当に安らぎの心を持てる、楽になれるなら入信してみたらとも思うのだ。でも、自分には入れない。心の何処かに妙に覚めた部分があって、没頭できないのだ。入ってみたらと思うのに、宗教を信じることが出来なくて苦しむ。何故没頭できないかと言えば、恐らく自意識過剰なのだろう。簡単に心の拠り所を見出される人の方が、信じることが出来るだけ、よほど幸せと言える。
 僕は精神的にそれほど強くない。すぐにクヨクヨする。この広い世界の中で、自分一人がポツネンと取り残されたと気付いた時の心許なさには耐えられそうにない。

第 1129      幸福感              2018.05.13(日)

 雨露しのげて、取りあえず食べるに困らないくらいの収入か蓄えがあって、それに加えて多少の趣味や付き合いが出来るくらいの余裕があれば良いなと云うのが、大方の幸福感の目安ではないでしょうか。これで十分な筈です。
 ところが、人間の欲望には限りがない。隣人の外観の物質的豊かさや力と比較して、自らのふ幸と無力さに四六時中苛まれる。大昔、『田園調布に家が建つ』という言葉をギャグとして言っていた漫才が居ました。僕なんかが行っても場違いですから、田園調布には行ったこともありません。田園調布辺りから、瀬田にかけての環八道路には外車のディーラーが並んでいます。外車を買う人が居なければ、外車ディラーも建ちません。
 この辺りの環八の外側には、いかにもお金持ちそうな大きな家々が建ち並んでいます。どちらも門のところに『セコム』『アルソック』などの警備会社のラベルが貼り付けてあります。そんな高級住宅地に住んでおられる方でも、比較の話ですから、お隣の方が庭が広い、家が立派、お嬢さんはめい門の丸丸学園に通っているなどの種々の情報は、心穏やかとならない原因と成っていることでありましょう。
 かつて、ある会社のオーナー夫人と話をさせて頂く機会がありました。その折、『私ほどふ幸な女は居ない』とおっしゃって居た。立派な家があり、衣食足りていないとも思えない。お宅には高級車があり、何度も海外旅行にも行き、お子さんも立派に育てられている、後継者となりそうな息子さんも居る方の言葉とも思えない。自分が幸福であるかどうかは、物質の問題ではなく、心の問題ですから他人の僕には分からない部分がきっと何かがあるのでしょう。
 もう大分前に、ブータン国の皇太子夫妻が来日した際、ブータンの国民の幸福度が話題になりました。幸福度をGDPならぬ、GHPで表し、国民のほとんどが『自分は幸福と考えている』とのことでした。村に電気が引かれ、初めて灯った電灯の光に子供が眩しそうにしている映像を見た記憶があります。毎日水汲みが大変でも、やっと電気が通じたような状態でも、大自然に囲まれて生活をすることを喜びと思えば、幸福であるに違い有りません。
 僕も老年となって、『自分の生涯はどうだったのだろうか』と色々な方向からたびたび考えるようになりました。『幸福とは何ぞや』、つまり幸福の定義などないのです。『人生いかに往くべきか』と同じで、100万人居たら、100万通りの幸福感があり、人生観があることになります。万民共通の幸福感、人生観などないのです。だから、そんなことは考えても無駄だと思う方が居たら、それはとても悲しいことだと、僕は考えます。生きている間に 1/100万の自分なりの答えを見付けるべきと思います。
 何を以って幸福と考えるかによって、個々の人々の幸福感は変わるのです。

第 1128      情報過多             2018.05.12(土)

     

 昨年11月にスマホを持った。ずっと以前、ガラケーを持っていたが、通信大手のauに嫌な扱いを受けて、停滞電話を持つことを止めてしまった。ガラケーの機種の電池を取り寄せて下さいと依頼した。そんな物はネットで手に入るから、自分でネットショピングの店から取り寄せて交換しろと言われた。額は少ないかも知れないが、こちらはauの言いなりの費用を毎月払ってきた、長期の顧客だ。ガラケー使用の顧客など一人くらい居なくなったって、スマホの新規契約者はたくさんいるから関係ない、そんな面倒なことやっていられるかと云う態度だった。それでいて途中解約の違約金だけはしっかり取られた。
 それ以来、KDDI創始者の稲盛和夫氏も嫌になってしまった。著書を読めば、成果を挙げるため、部下にとんでもない長時間労働を強要して業績を伸ばした。それを本にして自慢げに出版している。今で言えば He was a black man.だ。坊主憎けりゃ袈裟まで憎いという事か。
 営業職でもやっているのでなければ、携帯電話などなくても、僕のような老人では少しはふ便でも何とかなるものだ。
 昨今、街中から公衆電話が大分減った。持病持ちだから、もしもの事があるといけないと思い、老人用簡単スマホを持つことにした。スマホは単に通話やメールの移動通信機器でないことを、まざまざと知らされた。まさに小さなパソコンのようなモノである。
 避けようと思えば避けられるのだが、毎日流れてくる情報の流れで私は、人間の危うさを感じざるを得ない。人間ふ信に陥り兼ねない。殆ど内容のない友人からの呼び掛けに答えるだけで、大変な精神的負担になっているのだろう。
 今、高校生ではほぼ全員、小学低学年でもスマホを持ち始めていると言うから驚きだ。僕など、通話やメールはするけど、twitter、facebook、LineなどのSNSは『自分には必要なし』と決めている。子供たちは友達との関連で、SNSと繋がざるを得ないのではないか。彼らの精神的負担が心配である。
 流れ来る情報がいつも正しいとは限らない。人は相手を信用するだけでは生きていけない。信用しなければ生きていけない。的確に取捨選択出来るモノなのだろうか。とても心配である。
 スマホを持って強く感じたのは、とにかく暇な人が多いと言うことだ。自分だけが暇なら良いのだが、相手を知ってようが、知るまいが、他人を巻き込もうとする。性善説だけの通信ならまだ良いが、悪意を持って見えない相手を陥れようとする人がいるから困る。
 昨日も、電車の中で七人掛けのシートに座っている人の全てが、スマホを覗いていた。見ればその内、4人はゲームをやっていた。遠くの人は何を見ているのか分からん。
 かつて、評論家の大宅壮一氏が『一億総白痴化』と言って流行語となった。『テレビというメディアは非常に低俗なものであり、テレビばかり見ていると人間の想像力や思考力を低下させてしまう』との内容だ。 今は間違いなくその時の状態よりはるかに深刻だ。『歩きながらのスマホは止めよう』とこれだけ言われているのに、通勤の混雑時の駅で、平気でスマホを覗き周囲の人に迷惑を掛けている。
 初めは『情報過多』で、情報の中にはウソの情報やフロバガンダ (特定の思想、意識、世論、行動などに誘導する意図を持った行為)や、詐欺の関することまである。その内容の取捨選択について、特に子供たちも気を付けなければいけない。自分の考えを持ってしっかり行動しなければいけないと書こうと思った。実際のレベルはどうもずっと低そうだ。

第 1127     口ずさみ               2018.05.10(木)

 どういうわけか分からないけど、頭の中に無意識の内に湧いてくるメロディーがあります。老人だから当然今風のモノではありません。古い流行歌です。音楽が得意でない私が知っているのですから、間違いなくめい曲と言われるものです。
 知らず知らずの中に口ずさんでいます。カラオケなどめったに行ったことありませんが、カラオケでも歌ったことはない。それでも、僕のとても好きな歌です。狩人が歌った『あずさ2号』と、太田裕美さんが歌った『木綿のハンカチーフ』です。
   普通に詩を読んだり、聞いたりすれば良く理解できるのに、謡い、義太夫、浪曲など変に節など付けるから内容が良く分からなくなってしまうと、僕は思う。またその節が良いのだと言う人も居るから、世の中よく分からない。歌もメロディーなしで、詩だけの方が良い場合もある。
 『あずさ2号』と『木綿のハンカチーフ』は、特に歌詞が好きです。2曲とも失恋の歌です。全くの私見ですが、特に『あずさ2号』はメロディーなしで歌詞だけ読んでいる方がジーンと来てしまう。
 〝明日私は旅に出ます
  あなたの知らない人と二人で
  いつかあなたと行くはずだった
  まだ春浅い信濃路へ
  行く先々で思い出すのは
     あなたのことだとわかっています
  そのさびしさがきっと私を
  変えてくれると思いたいのです
  ・・・・・・・・・・・・・・〝
 作曲者や歌手の方には大変申し訳ありませんが、僕には詩だけで十分です。『あなたの知らない人と二人で』と云うところが堪らない。

 『木綿のハンカチーフ』では
 〝恋人よ 僕は旅立つ
  東へと向かう 列車で
  はなやいだ街で 君への贈りもの
  探す 探すつもりだ

  いいえ あなた 私は
  欲しいものは ないのよ
  ただ都会の絵の具に
  染まらないで 帰って
  染まらないで 帰って
  ・・・・・・・・・・・・・・〝
 2曲とも失恋の曲です。作詞家と云う職の方はどうしてこんなにステキな詩を書けるのでしょう。
 今となってはこんなジジイでも、若い頃は有ったし、人並みに女性に憧れた。ただ、中学から男子校だったし、工学部だったから女性に対する免疫力がなく、甚だ稚拙だったことは否めない。それでも今、思い出せば赤面して、恥ずかしいことはある。
 渋谷の生命保険会社に勤めていた女性が、勤務時間を終えて帰って来る時、間違いなく歩道橋を渡って来ることは予想された。私もその歩道橋を反対方向から渡って、本屋に行くことを想定にした。あたかも偶然会ったかを装いたかった。終業時間が過ぎてもう来るだろう頃、歩道橋の上を動物園の熊のように、行ったり来たりしていたことを思い出す。『偶然を作ろう』としていたのだ。住んでいたアパートの都合で、僕の方から連絡できなかった。今のように携帯電話があれば、何という事もなかった。結局、彼女とは5年間以上付き合ったが、結婚しなかった。
 ただ、僕には『あずさ2号』や『木綿のハンカチーフ』のようなステキなものでは決してなかった。断じて言えるのは、スマホの通話やメールでは安直過ぎて、本当に味気ない。恋愛は手紙に限る。ずっと経ってから、電話が掛かってきてお目に掛かった。双方ともそれぞれ結婚していた。『幸せそうね』と言われた。僕は結婚前に全て捨ててしまったが、僕が出した全ての手紙をまだ持っていると言っていた。女性は怖いのかも。ただそれっきりだ。
 今だって、ジジイのくせに、素敵な女性をみれば憧れるし、胸がときめく。ただ妻子ある身であることは確かだし、家庭をダメにしてまでということは決してない。世の女性の方もジジイには見向きもしないだろう。歌は虚構の世界のものだ。

第 1126     憲法記念日              2018.05.05(土)

 今日は”こどもの日”である。もう過ぎてしまったが、5/3 が憲法記念日である。本来ならば5/3に書くのが適切だが、いつもボーとして、どこか遅れているのが僕の特徴を良く表している。日本国憲法の3大要素は云うまでも無く、”国民主権”"基本的人権の尊重””平和主義”である。
 皆が自由になって、国民一人ひとりが尊重されるような建前になっている。独裁国家では考えられないことだ。こうして僕がHPでいい加減なことを書いても、指から出任せにキーボードを叩いても、削除されることもなく、密かに連行されることもない。『おさむの書斎』が言論に値するかどうかは別として、"言論の自由”がある。反論されると窮するので未だ掲示板は閉鎖のままだ。
 ただ一方で、政治的無関心が社会を覆い、強力な指導者を待望する風潮は捨てきれない。圧力に対する怯えや諦めだけでなく、独裁とまでは言わないが、強力な指導者を望む土壌があることも確かだ。何故なら言い付けさえ守っていれば、何も考えずに済むからだ。
 一般的に言えば、自由は命令に従う必要が無くなった代わりに、何事も at own risk で自分が決めなければ成らなくなったことを肝に銘じておかなければならない。
 ただ自由だからと言って、何をやっても良いと言うわけでは決してない。皆が勝手なことを言い、好きに行動していたら社会生活は成り立たない。自ずと制約はある。社会が円滑に動くようになるには単に法律を守るだけではなく、人間関係でも”他人を思いやる心”が大切なのであると言えば聞こえが良い。
 現実には人の腹を探り、人の思惑がいつも気になる。意識過剰と言っても良いかもしれない。自分の主張を控え、その場の空気を読み、多数の人々の考えに従う雰囲気が強い。自分の主張ばかり通そうとすればはじき出されてしまう。
 5/4、あべ首相と習近平主席が初めて電話会談した。朝鮮半島の非核化、朝鮮戦争の終結は別として、建前しか言わない。あべ首相、習主席の両めいとも南北朝鮮の統一など、心の中ではちっとも望んでいない。表面は取り繕っているけれど、統一されたら困るのだ。
 今の時代、まともに、真面目に、真剣に生きようとすればするほど、誰でもウツ病になってしまう。ウツ病は決して珍しいことでも何でもなく、むしろウツである方が普通で、ウツでない人はチャランポランと思った方が良いとさえ、僕は心の中で思ってしまう。
 別の言い方をすれば、ウツ病の人は真面目で信頼できる人と言っても過言ではない。銀行が住宅ローンの貸し出しを審査する時、『あなたはウツ病ですか』と質問することが、相手の信用度を評価する上で最も適切な方法である。僕は自分では間違いなく真面目な人間であると言い切れる。バカと言った方が的確な表現なのかも知れぬ。それが証拠に今まで2回の住宅ローンを借り、2回とも完済している。
 もう老年ゆえ、先行きはもはや3通りの選択肢しかないような気がする。もうどうでも良いような余生しか残っていない。
1.死んでしまうこと
2.認知症となってボケ老人と成ってしまうこと。『まだ、昼ご飯を食べさせてもらっていない』と言うようなボケではなく、どうせ認知症になるなら、女性のお尻を手当たり次第触ってばかりいる”色ボケ”を希望する。
3.宗教に頼って、心の安寧を求める。ただ煩悩が多過ぎて、よほど修行を積まなければならない。坊さんは信用していないし、修行も辛かったら嫌だな。
 斯様に自由を得て、維持し続けることは難題な事なのである。むしろ独裁で言われたことをやっている方が、自分で何も考えることもなく楽かもしれない。
 ”自由であることは、孤独なことであり、寂しいことなのだ”
 パソコン部屋のある3階の窓を開け放っておくと、5kmほど離れた等々力競技場でJリーグサッカーを応援する観客のうなり声が風に乗って聞こえてくる。サッカーでもプロ野球にしろ、多くのサポーターがイベントに熱を上げている。僕にはバカ騒ぎに見える。ああして贔屓チームを応援して騒ぐのは、心の中の空しい部分を一時的にでも覆い隠そうとしているに違いない。普段の生活の中で応援と同じ事をやっていたらアホだ。競技を観戦するという非日常の中で、空虚感を紛らわしているに過ぎない。要は皆、空しいのです。寂しいのです。紛らわせる人は幸せだ。
 スマホのLINEで見ず知らずの方からメッセージがたびたび来ます。いつも女性めいです。実際に女性なのか、女性めいを騙って、実は男の人なのかどうか知りません。関わりたくないので返事もせず即削除してしまいます。作為があってのことでなければ、ここにも寂しい方が居ました。
 座間であった、自殺願望関連で9人がアパートで殺された事件も、実際には自殺願望でなく、寂しかったからSNSに発信し、返事に応じてしまった結果です。
 自由であることは、何事も自分で考え、決めなければ成らない。自分の行動に自分で責任を負わなければならない。孤独なのです。寂しいことなのです。
 GWに憲法のことも考えず、自由にアホヅラして、相手の迷惑も考えず、送った相手がジジイであることも知らずに手当たり次第にLINEを送ってくる人よ。『自由は寂しいこと』なんですよ。
 ここのところ短い文しか書かなかった。心に少しは余裕があるのかな?

第 1125     5月病                2018.05.01(火)

 5月になった。若葉の季節である。何となく清清しい気持ちになる。今日がメーデーであることを、ラジオ放送を聴いて知った。それほど自分にとって、メーデーは遠いものと成ってしまった。”自分に取って”と書いたが、労働組合加入率から見ても、世間一般でも同様であろう。
 46年前、鉄鋼関連の会社に入社し、工場に配属と成った。労働組合に加入の意思を問われた記憶に乏しいが、まあ自動的に組合員になった。青年部役員、選挙管理委員長もやったことがあるけれど、入社して程なく『こんな会社すぐに潰れるだろう』と思った。10時と3時の休憩時間は5分間の筈なのに、食堂にあった売店周辺でで若い人が20分~30分はたむろする。終業時間の30分前には仕事を止め、洗面器を取り出して顔を洗ったり、帰りの支度を始め、着替えて、10分前にはタイムレコーダーの前に長蛇の列が出来た。勤勉でない会社が生き残れる筈がない。
 案の定、入社6年で、私の勤務していた工場は閉鎖と成り、私は会社を希望退職で去った。同期入社の人たちは退職したり、本社、別の工場へとバラバラとなってしまった。結局、会社は吸収合併されてしまった。会社を去った私も大変だったが、残った同期の人たちも大変な思いをしたことだろう。
 ”Make America great again”と演説して当選したトランプ大統領を支持した”錆び付いた工場地帯”に働く労働組合に加入の方々もどうなることやら。いくらトランプ氏が叫ぼうとも、強権を発動しようとも世の中の自然の流れには逆らえないだろう。
 ギリシャ、イタリア、スペイン、ポルトガルなど財政破綻の国々は勤勉でないように思う。新転地を求めてイギリス人が渡った北米では勤勉に働いて繁栄したが、スペイン人、ポルトガル人が渡った中南米はさっぱりだ。私が居た会社は特異な例かも知れないが、労働組合が有ったって、しっかり働かなければ会社は成り立ちっこない。
 
 GWは暑い日が続きます。5月の初めの今日も30℃近くになりそうだ。ここパソコン部屋は3階にあり、太陽に近いせいかとても暑い。頭が”錆び付いて”しまっている。今、我が家の前は宅地の造成をしている。炎天下で働いている人には申し訳ない気がする。
 5月病は社会に出て働き出したばかりの人を対象とした言葉であろう。頭に描いて来た像と、実際に働き始めて現実を知った時、余りの差異に嘆き苦しむ病なのであろう。
 社会に復帰したジイジでも、違う意味で憂鬱になる。特に、毎年のように5月くらいに辛い時を迎える。『40何年間働き続けて来たんだから、ここらでのんびり過ごせば良いじゃないか』と、実際にはあくせく働いてもいないのに、怠惰な自分の姿を潔しとしない。
 『もっと、自分を高めなければいけない』と思って、本を読んだり、学生時代に習ったことを息子が残していった参考書を使って、ずっと復習し続けている。そうした一方で『そんなこと勉強して、今更何になるの? 何の役に立つの?歳を考えなよ、歳を』ともう一つの心が足を引っ張る。最後には『自分なんか、もう、生きていたって何の役にも立たない』となってしまう。
 若い人ならともかく、ジイジが今更勉強したって、何の役にも立たないのです。それでも、昔、習ったことを思い出せば懐かしいし、学ぶ楽しみも出て来る。そう、自己満足と分かっているのに、思わず机の前に座ってしまう。要は暇なのだ。5月に限らぬ『年中病《なのだな。

第 1124     物怖じ                2018.04.24(火)

 私の住むJR南武線 武蔵新城駅周辺の地域は気の置けない庶民的な街だ。暑さ、寒さが凌げれば良いと言うくらいで、ふく装など全く頓着しないタイプですから、ちょっとした買い物などに出る時も大抵はサンダル履きで家を出る。
 南武線の隣の駅、溝の口はちょっと感じが違う。駅近くのツインタワーのビルには、テナントの店が入っていて、サンダル履きでは行き難い。商品に表示されている価格も新城周辺に比べたら高い。ここは私の来る場ではない。長く留まって居たくない。一刻も早く立ち去りたいと言う気分に成ってしまう。
 ビルの上層階にレストラン街があって、蕎麦屋さんのウィンドウを覗いたら、お盆に載せ、香の物が付いたタヌキうどんが¥1400だった。新城駅周辺の蕎麦屋ではせいぜい¥700と言うところだろう。最近行っていないから分からないが、立ち食い蕎麦屋ではまあ、300円台だ。
 たかがタヌキうどん、されどタヌキうどんである。ビルのレストラン街の蕎麦屋ではテナント料負担も大きいだろうし、麺にも出汁にもこだわりがあるに違いない。立ち食い蕎麦屋と比較されるのは恐らく心外であろう。
 私は大よそ50年前の溝の口や二子玉川の街を知っている。今の街の様子からは想像出来ないほど鄙びた所だった。私にとって溝の口ですら繁栄した街だが、それでも都心の繁華街やビジネス街とは比較にならぬほどレベルが違う。
 先日放送されたNHKの『探検バクモン』と言う番組で、銀座の高級商業施設『GINZA SIX』を紹介していた。店内では a cup of coffee で ¥20,000と言う価格のものがあった。確か更に上の¥60,000と言うのも有ったと思う。¥20,000と言えば、1日6時間働く私のパート収入の3日分で、1杯のコーヒーが飲める。消費税を問われたら give up である。
 自分の時間を売り、労働の対価として得たお金で¥20,000のコーヒーは勿体なくて飲めないと言うのが本音である。庶民感覚で言えばやはり異常だ。広い世間にはこういう懸け離れた世界もあると言う話だけである。アラブの王侯貴族や、世界の富裕層にとっては、これは誠にけち臭い話だ。
 『価格は消費者が決める』と言う言葉がある。1杯 ¥20,000でも、これを飲む人が居るからこそ成り立つ価格なのである。高いと思って誰も利用しなければ直ちに廃業である。上には上があるものだ。根が貧乏性だから、こういう世界には場違いであり、臆して近付きたくない。腰が引けてしまうのだ。気の置ける世界に身を置くのは肩が張る。心ここにあらずの、背伸びした生活は息苦しい。
 自分は賑やかな都会に住むことを好まぬ。12年前単身赴任で自然に溢れた地方に住む良さを体感した。僕にはこれ以上の便利さや贅沢は要らないなとつくづく思う。僕につまらぬ自尊心が有るから、恥をかきたくないと思って、逃げているのかな。

   

第 1123     言い訳                2018.04.19(木)

 『書斎』に書こうと思っていて、途中まで書いて放置していることが2つ溜まっている。これでも何かと用事が有ったり、それより意欲が中々湧いてこない。内面から湧き上がって来るものがないと中々書けない。
 私が書く原動力は湧き上がってくるふ平ふ満や疑問から成り立っているようだ。プラスとマイナスに分ければ、マイナスのエネルギーが私を揺り動かす。プラスは良いのかと思えばそうでもなく、じきにふ安材料となってしまう。どうも強迫神経症なのかプラスの状態は必ず落ちるという考えになってしまう。良い事は続かないのだ。自分でふ安感を持つ材料を探し出してしまうのだ。全く嫌な性格だ。老化現象なのかも知れぬ。
 今まで何となく幸せだったから、これからも幸せだと信じれば良いものを、自分の幸せを自分で減らしているみたいだ。
 先般、森友学園との交渉に携わっていたと見られる近畿財務局の職員が自殺した事があった。真相は分かりません。皆さんそれぞれ色々な、考えをお持ちのことと思います。何か問題が起こると、大抵は大物の人物は難を逃れて、下の者が自殺したりする。同情的な考えを持つ方が多いのではと思います。僕の考えは違うな。
 彼の略歴は知りません。財務省は元の大蔵省ですよね。私の勝手な思いでは、知識が古くて現状と合っていないかもしれない。超難関の国家公務員上級試験合格者のトップクラスの人しか大蔵省に入れなかった。
 財務省に入ったからには、彼は学校に居たときからずっと競争に勝ち抜いてきた筈だ。国とか企業や組織、責任や地位、出世と言った息詰まることしか頭にない。今までいつも勝ち組ばかりだったから”挫折を知らない“のだ。きっと苦しかったのだろうが、死んでしまったらお終いなのだ。どうしょうもないと思ったら何故、逃げないのだ。自分は死ねば済むだろうけど、残された家族はどうなるのだ。僕は情けない人だなと思う。
 こんなこと決して自慢にはならないが、僕が今まで勤めた所は、3箇所ともダメになってしまうか、ダメになる結末がもう決まっている。
 これは現在その仕事に従事なさっている方には大変失礼だが、ゴメンナサイ。初めて失職した時、子供が産まれたばかりだった。“トイレ掃除でも何でもやる!”積もりだった。間違いなくトイレ掃除に従事されている方の給与は、財務省上級職員の給与より低い。彼にはプライドが許さないのだろう。挫折を知らないから、他に生きる術が思い付かず、家族に対する思いやりもなく死を選んでしまった。
 苦しいことがあって、その都度逃げていたら、一生逃げ続けなければいけない。だから普段は苦しくても逃げないようにしなければと、僕は自分を励まし続けてきた。ただ、死を考えるほど本当に厳しかったら、誰に慰留されようと、何の責任を問われようと、三十六計逃ぐるにしかずである。何と言われようが、人の噂も75日である。
 死んでしまってはお終いである。生きて居ればこそ、いつかきっとチャンスが有る筈だ。これが自死を選択した彼に対する私の思いだ。情けない奴だ。
 ずるいと言われるかも知れないが、私は頭の中で一つのものに全てを賭けていない。リスクの分散と言った方が良いかもしれない。軸足を複数持った方が良いと思っている。ただ、常にリスクと機会を考えることは救いになるが、多分喜びも分散されることだろう。
 熱い思いに沸くと、きっとリバウンドがあり、平静な心を持てず落ち着かない。私がこうしてブログを書き続けるのは、書くことによりバランスを取ろうとしているのだと思う。中々書けないのはバランスが悪いのであろう。そんな時にはあえて何もせず、有るがままに任せることにしよう。『もう老人なのだから』と言い訳も考えよう。

           

第 1122     印籠                 2018.04.15(日)

 普段あまりテレビを見ない。見ないから新聞のテレビ番組欄も殆ど見ない。先日、何気なくテレビ番組欄を見ていたら、『水戸黄門』をやっていることを知った。それでも、昔は暇でよく見ていた。女優の由美かおるさんの入浴シーンを楽しみに見たものだ。黄門様を演じる俳優さんが代わっても番組が連綿と続くのは、日本人はよほど勧善懲悪が好きな国民なのであろう。
 設定は毎回違うが、筋の基本はいつも同じだった。視聴者もよく同じ物ばかりで、見ていて飽きないものだ。悪代官の所に同じく悪徳商人が重たい菓子折りを持って来る。
 『越後屋、そちも悪よのう』
 と悪代官が言う。三越百貨店の前身は越後屋というなまえである。自社のイメージがそこなわれるからと言って、越後屋は使わないで暮れと、三越がよくクレームを付けなかったものだ。
 番組の後半には必ず立ち回りがあった。いい加減立ち回りが有った後、黄門様が
 『もうそろそろ、いいでしょう』
 と言うと、助さんか、格さんか知らないけれど、
 『静まれ、静まれ、ここにおわする方をどなたと心得る! 先の副将軍水戸光圀候におわせられるぞ』
 と言いながら、葵の御紋の印籠を掲げると、一同の者は皆、『ははっ』と言ってひれ伏してしまう。葵の御紋の印籠は絶大な威力を発揮する。印籠は権威の象徴である。
 『なにい!葵の御紋だと、それがどうした。かまうこたない。野郎ども、やっちまえ!』
 助さん、格さんがいくら剣術の達人であっても、多勢に無勢である。一人と相対している間に、後から狙われたり、足への攻撃、飛び道具でも有れば、黄門一行と言えども一たまりもない。まして、黄門一行はお忍びの漫遊である。抹殺してしまって埋めてしまえば分かるまいと思う人たちが居たと言う番組の設定はないのだろうか。
 漫遊も海外旅行と言う設定も面白い。近場な所で隣国の朝鮮や中国に漫遊して、勧善懲悪を行おうと葵の御紋の印籠を提示しても、
 『何、それ?』
 と言われてしまうだけだ。日本国内のみ通用という”ガラパゴス印籠”と言わざるを得ない。
 今、日本を取り巻く状況は緊張が増している。ここに来て南北対話や米朝会談など行われることに成っているが、結果次第ではミサイルが飛んでくるかどうか分からない。尖閣列島周辺の日本領海に中国の艦船の侵入は日常茶飯事であり、緊張は続く。日本人の誰一人として、戦争を望む人は居ないだろう。誰もが平和を希望する。
 印籠に”憲法9条”と書いた紙片を貼り付けて相手側に提示したら、ミサイル発射や、領海侵入が収束するのだろうか。
 『何だ、それ?』
 で終わってしまうのではないかな? やはり、ガラパゴス印籠だった。

第 1121     うぬぼれ               2018.04.14(土)

 4/2から勤めを再開して丁度2週間経過した。例え額が少なくとも勤めをすれば、当然”面倒臭いな”"嫌だな”と言う事はあるがそれは仕方がない。この春から新入社員として社会に出た若者達も、少しは職場に慣れただろうか。5月の連休後くらいに起きる『五月病』と云うのが昔は有ったが、今もあるのだろうか。
 修練を重ね、達観した仙人と違い、人は霞を食べて生きて行く訳にはいかない。いつの時代も変わらず仕事は苦役である。仕事は自分が生活して行くため、あるいは家族を食わせたり、子供を養育して一本立ちさせるための糧を得るためにやる。
 自分の好きなこと、趣味と仕事が一緒だなんて云う人は居るとは思うが、それこそほんのごく一部の一握りほどの幸せな人しか居ない。自分の好きなことを見付けて、それを仕事にしてしまうなんて、余程幸運にでも恵まれない限り有り得ない。
 自分の好きなことを仕事に出来た人は、その道の才能を持った達人である。そんな才能を持った人や、3歳から始めたとか、他の人の何ばいもの努力をして辿り着いて得た”成功談”を聞いたり、雑誌で読んだりして『我も』と思うのは早計である。
 才能のない大抵の凡人は、早晩壁にぶち当たる。気が付いて辺りを見回した時には、就職先もなく、派遣社員などの非正規労働しか働き口が無くなってしまうのである。中小企業を除けば、新卒者しか正社員への道が閉ざされている場合が多い。
 他人を騙したり、陥しいれたりすることが無ければ、殆どどんな仕事でも、社会に役立ち、人々のためになると云う誇りを持つべきだ。
 野球でもゴルフでも成功している、プロのトップアスリート達が居る。好きな競技で人様からお金を貰えるのは幸せなのだが、一般の人に取っては野球、ゴルフは普通は自前で用具を揃え、自分でお金を払ってやるものだ。
 お金を払う側から対岸のお金を貰う側に移るには、深くて、流れの速い川を渡り切る泳力が有って初めて出来ることなのである。
 私たちは『やればできる』と云う言葉を時として使う。親が子供に向かって『☆☆ちゃんだって、やれば出来るのよ』とか『俺だって、やれば出来る』と云う。子供の場合の励ましは、せいぜい鉄棒の”逆上がり”程度のことで、出来ることが多いだろうが、『俺だって、やれば出来る』と云う大人の方で成就したことを見ることは少ない。
 気まぐれに『★★文学賞くらい、俺だってやれば取れる』なんて言う方が居るけど、受賞したと云う話は聞いたことが無い。聞く方だって『また、大法螺が始まった』くらいにしか思っていない。少なくとも小説や作品を書かなければ受賞できる筈がないのに、作品すら書かないのだから、受賞できる筈もない。
 誠に『れば』と云うのは都合の良い言い回しである。『れば』も度重なれば相手になる方も段々離れて、減ってしまう。するとその先は大体決まって『世間の人(会社の上司など様々)は俺を見る目がない』『俺はまだまだこんなものじゃない』などと変化して行くことが定説のようだ。
 実は見る目がないのは当の自分だけで、世間の人は良くその人を見ていて、的確な評価をしている。世間ではこれを自惚れと云う。仕事は地道にやらねばならんのだ。

 

第 1120   神社巡り                     2018.04.10(火)

 僕くらいの歳になったら、定年もとっくに過ぎて、犯罪に関することでもない限り、自分の思ったように行動すれば良いのだと思う。全く知りませんせんでしたが、4/9は『大仏の日』だと、ラジオで言っていた。あらゆるものに『☆☆の日』というものがありますから、『大仏の日』があっても特段驚かない。奈良東大寺の大仏に目を入れた記念日なのだという。
 先日、以前勤務していた会社のOB、OG会があって参加してきた。中に退職後、年間で75日間も、全国の神社仏閣巡りをしていらっしゃる方がいらした。75日はすごい。一週間に1.5日は旅をしていなければならない勘定になる。これでは行った先の写真の整理など中々出来ないだろう。その彼には彼の人生があり、自分の思ったように行動すれば良い。周りでとやかく言うことではありません。
 それを聞いて僕なら、こうすると言う考えはある。僕は元『村の鎮守の神様』というHPの管理人をしていた。神社仏閣と言わず、神社と寺院を分けた方が良いと思う。別に参拝する数が多ければ御利益が増すと言うことは決してない。そんなに参拝していたら、頭の中でこんがらがって、何が何だか分からなくなってしまうことだろう。
 神社を例に取って言うと、もっとじっくり見るべきと思う。神社には御祭神、鳥居、手水舎、燈籠、眷属、狛犬、神紋、ご神木、鈴、拝殿の造り、本殿の造り、建物に施された彫刻、神仏習合の跡、分社、境内舎などなど様々な観察事項がある。
 世の中には鉄道好きな方が居て、鉄道に乗ることが好きな方、鉄道写真を撮るのが好きな方、時刻表を読むのが好きな方、全国の全線制覇を目指す方、などなど様々あるように、神社にも見所はたくさんある。ただ単に参拝する、数をこなすだけでなく、何かに『特化』して観察する方が余程面白いと思うのです。
 道路のマンホールの図柄の写真を収集される方が居るように、僕は以前『神社の神紋』を中心に興味があり、写真撮影していました。鳥居にもたくさんの種類があり、鳥居に特化するのも面白い。
 神仏習合の跡つまり神社に、普通ならお寺にある吊り鐘が有ったり、反対にお寺の入口に鳥居がある。習合の跡は地方に行けば良く見られる。こんなのはゆっくり見て歩くと、とても面白いと思うのです。
 神社に見るべきものの例を挙げました。これは、同じように寺院にも当てはまります。
 ただ数をこなすだけでなく、じっくり見ることが大切です。複数の人と同行するとそれぞれ人によって興味のある部分が違って、思うに任せぬ所であります。何と言っても一人が気楽だ。
 実は神社仏閣を見て回る友のことを、例に取りましたが私の真意は別にあり、ただ行楽地に行って、めい所旧跡を見る場合に、その時代背景や見学すべきことを予めよく調べて、他の見学者に流されることなく、じっくり見ることが大変興味深いことであることが言いたかった。人はそれぞれ皆さん興味のあるところが違いますから、自由にして良いのですが。旅行好きの友をやっかんで書いてみました。

第 1119   エンジン                     2018.04.08(日)

 僕自身の体のエンジンは旧式だ。ポンコツで休み休み動かして来たけれど、たびたびエンスト寸前となる。何とか持ちこたえて来た。もうスクラップ間近である。スピードはもう出ない。
 世の進歩は著しい。道具はどんどん進化している。道具の持つ機能も多様化している。頭が付いて行けなくて、その持つ機能のほんの一部しか使えない。その機能を使えば便利なのだけれど若い人にとってだって、それらの機能を使えば使うほど、人間は退化していくことを知っていなければならない。
 例えば旅行に行きたいと思った時、プランを練る。旅行の楽しみの半分はプランを練る時にある。書店で今も時刻表を売っているのかどうか知らない。例えば山形の山寺に行こうとして東京駅発何時の列車に乗って、途中の乗換駅に何時に着いて、次の列車が何時発だから、乗換えの待ち時間がどれだけで、その待ち時間には何しようなど、考えることが旅行の楽しみである。
 パソコンでもスマホでも、ルート検索、時刻表検索など使えば、一番安いルート、最短時間のルート、到着時間など、たちどころに何種類の候補ルートが出て来る。便利なのだけれど、旅行のプラン練ると云う楽しみが無くなってしまった。そこではちっとも頭を使わない。楽しみが半減すると共に、頭も退化してしまうに違いない。
 たまたま例題として、時刻表やルートについて挙げたけれど、世の中には探せば、便利な機能によって人の能力を退化させてしまうことたくさんあるような気がする。車ばかり使うから、足腰が衰えてしまったと云うのも一例である。
 旅先で道が分からない時、花に水を遣っているオバサンに、
 『☆☆に行くにはどう行ったら良いのでしょうか』
 と聞けば、そこにはコミュニケーションが発生し、地元の人たちの純朴さ、親切心を知る事となる。場合によっては、今、☆☆では改装が行われていて、行っても見られないから、方針を変更せざるを得ないと云う、地元でしか分からない情報が得られることもあるだろう。アナログ的な方がずっと良い場合だってきっと有る筈だ。現地に行ってスマホのルート検索で目的地に最短で行くよりも、ずっと良いかも知れない。
 これから代わって、反対のことを書こう。私たちは長い年月に渡り教育を受けてきた。僕の場合、学校を卒業して46年になる。日常の生活や、仕事に使う事項で、教育されたことは今でも役立っている。日本史や世界史の年号はすべて忘れた。化学記号もごく一部を除いてこれまた忘れた。微分も積分も、物理の法則も忘れた。英語や古文の文法も覚えていない。
 興味を持っている事に関すること以外は、普段の生活で使わないから忘れてしまうのだ。数学が好きで因数分解は得意だったけれど、使う機会が無ければ忘れてしまう。今、それで困るかと言ったら、全く困らない。
 では、何故そんな役にも立たない教育をするんだとなると言うと、若いうちに脳を使って、考える訓練をするのだという事になるのだろう。今なら、分からない事が有ったら、パソコンを使ってネットで調べれば良いと、分かってさえいれば事足りる。
 一般的に言えば、苦労して身に染みて覚えたことは中々忘れない。然るにパソコンで安直に理解したことは直ぐに忘れてしまうという筈だ。
 今、ハイブリッド車、プラグインハイブリッド、電気自動車、水素自動車など様々有るけれど、僕のような基本の旧式エンジンも捨てた物ではないような気もするのだが。

第 1118   四季の移り変わり                 2018.04.04(水)

 リタイアしている間に、『循環型社会を作ろう』というテーマでパワーポイントの30余枚のスライドを作りました。リデュース、リユース、リサイクルの3Rとか、『生ゴミを堆肥化しょう』などと言ったもので、特に目新しいものではありません。Wordでお絵描きの手法を利用してスライドを作ったに過ぎません。
 町内の学区のパトロールで巡回をしている時、ほとんど花びらを落とし、青葉が出始めている桜を見て思いました。一年も、季節と言い換えた方が良いかも知れませんが、『循環』しているのだなと、当たり前のことを妙に感心してしまいました。そう、当たり前の中に新しい発見だと思うなんて、“変なジイサン”なのです。
 四季は多少の違いがあるものの、毎年同じことの繰り返し、循環なのです。寒くて嫌な冬の季節でも、時が経てば段々温かくなり、花が咲き、若葉が芽生える。梅雨があり、暑くてかなわん夏が来る。我慢していればやがて風が涼しくなって、紅葉があり、厳しい冬となる。
 ニュートンがリンゴの落ちるのを見て、万有引力の法則を見付けたように、葉桜を見て季節循環の法則に気付く。四季があることの幸せ、そんな循環に気付く自分は結構、偉大なのだと、一人悦に入る次第であります。
 赤道近くに位置する Malaysia にかつて5回行きました。行くといつもとても蒸し暑い。かの国の国旗には月と星が描かれていて、太陽はない。彼らも暑いのはかなわないのでしょう。年中暑いのですが、それでも雨期と乾期がある。いつも暑くても彼らなりの季節感はあるのだと思います。
 もう68回も四季の循環を経験しているわけです。私たちの気持ちや思いに関係なく、時を経れば季節が移り変わって行く。当たり前過ぎて返って、僕にとっては何か新鮮な気持ちになりました。春になると、斯様な変なジイサン“が現れるから良い子の皆さんは注意しましょう。

第 1117   職場復帰                     2018.04.03(火)

 昨日(4/2)、ほぼ一年振りに通勤電車に乗った。見れば真新しいスーツ姿の新入社員らしき若者を多く見かけた。こうした人たちが早く職場に馴染んで活躍して下さることを望みます。我が家の近くに富士通の独身寮があります。例年のことですが、新入社員と思しき人たちが、初出勤とあって群れて駅に向かって歩いて行きました。
 ひねたジイサンも昨日、職場復帰いたしました。こちらはポロシャツに薄手のジャンベー、ズック靴と、およそ職場に向かうとは言いがたい、至っていい加減ないでたちです。昨年3月まで使っていた馴染みの机です。電話、FAX、ネット、コピー機など事務用具、通信手段はまだ全く設置出来ていません。工場見学、視察の人向けに説明するためのプロジェクターやスクリーンの設置と、テスト投影など雑用を行いました。
 職場には一年ぶりと言う訳ではなく、1回/月くらいISO14001の会議やら教育で通っていましたから、さほど違和感はありません。僕の勤める工業団地は中小企業の集まりです。従業員は最大でも130人くらい、最小で12人ほどでしょうか。
 ISOの会議で議長をやっていて強く感じるのが、『企業としての教育をどの会社もしていないな』と言う事です。ここでは教育と言っても、学校教育、学歴のことではなく、企業としての教育です。それから、これから書くことを決して僕の自慢話と受け取らないで下さい。それと僕が働いていた工業団地はみな中小企業であり、大企業とは事情が違うのかも知れません。
 僕が30~40代だったまだ働き盛りだった頃、企業には従業員をきっちりトレーニングをして、人材を育て上げ、活用していく風潮があった。私の勤めていた会社は特にその意識が強く、内部、外部研修に多く出して頂いた。もちろん研修後は報告書の提出が求められ、未提出だと以後の研修に派遣させてもらえなかった。
 僕が品質担当をしていた頃である。外注業者7~8社が召集される、お得意さんが開催する品質会議が時々あった。お得意さんでは部長、課長、主任、担当が出席する。外注である同業他社は社長や部長クラスと担当者が出席して、各企業の品質体制や対策、成績など発表する会議に、主任だった私がいつも一人で出席するよう言われた。出来る限りの準備をして行き、他社に負けないよう頑張った。発言量も決して劣っていなかったと思う。
 結果、後になって同業者の社長やお得意さんから、会社の上司宛に『オタクの☆☆は口の利き方を知らない』『得意先を得意先とも思っていない』と、やっかみなのか文句の電話があったようだ。電話があったことを上司から後から聞かされる。『好きにやって良いんだ。よほど困った事態になったら、社長を連れて謝りに行くから』と慰められた。品質会議に限らず、こんなことばかりやらされた。
 研修だけでなく、機会を使って一人で行かされるから、自然と経験を積み、度胸も付き、鍛えられる。当時は嫌だったし、苦しかった。今にして思えば、これが従業員の教育の一部だったのだ。
 現在、実情は分からないが、いつ実務に役立つか分からないような、研修、教育に企業は従業員を派遣していないのではと思う。研修、教育に出したとしても、すぐに実務に役立つような即効の教育にしか出さない。それだけ、企業を取り巻く環境が厳しくなって、余裕がないに違いない。
 昔のような従業員をきっちりトレーニングして人材を活用していくシステムは機能ふ全に陥っていると思う。ただ今も一部の人向けでは行われている筈だ。全体を見れば、企業の都合の良い時だけ人を使いたいと言う非正規労働や、AIを活用しようという流れに取って代わろうとしていることを見ると、あながち僕の見方も間違ってはいないような気がする。
 これは、多くの人がモノのように打ち捨てられようとしている事に違いない。電車の中で隣に立つ人や、座っている人がスマホを見ている。まるで新興宗教かなにかに取り付かれでもしたかのよにスマホを見つめていて恐ろしい。何やっているのがと覗くと、ゲームをやっている。この春、社会に出た新入社員よ、ゲームで最高得点を更新して、それが何の役に立つ!?。玉は磨かなければ光らない。もっと、本を読め。自分の勉強をしろ。僕のように『あの時、ああしておけば良かった』と後で気付いてももはや遅いのだ。

第 1116   一人花見                     2018.04.01(日)

 丁度、今頃の季節のことを詠んだのであろう中国の詩人 孟浩然の詩に『春暁』と云うのがある。
 春眠暁を覚えず
 処処啼鳥を聞く
 夜来風雨の声
 花落つること知る多少
 である。春は今しばらく寝床に留まっていたい。あちこちで鳥の鳴き声が聞こえる。夜に風雨が強かった。さぞかし花が落ちてしまったことであろう。   桜の花びらがハラハラ散るのを見ると、もう少し長く留まって欲しいとよく思う。在原業平も花びらが落ちることを嘆いているが、前に書いたのでここでは省略。
 清少な言はまた違ったことを言っている。
 『春はあけぼの。やうやう白くなりゆく山際 ・・・・・・・』
 春は眠くてたまらんと孟浩然が云っているのに対し、清少な言は春は夜明けが良いと反対のことを云っている。僕は鳥のから揚げなど、揚げ物は春に限らず好きだ。
 体力保持のため、1日に5000歩歩くことを目標としている。月末に集計している。雨の日は歩かない。平均5000歩だから、雨の日の分をどこかで取り戻さなければならない。3/30時点で、8000歩ほど足りない。
 3/31 カミさんと長男は出掛けてしまって、家の中で一人残されてしまった。JR線で4駅分離れた所まで歩いて行く事にした。一人花見である。用水路両側にうえられた桜の花は見事だが、すでに満開の時期は過ぎて、花びらが舞っている。用水路には『花いかだ』が見える。
 花見は云わばピクニックである。休日に食べ物、飲み物を持ち寄って、敷き物の上で飲み食い歓談する。安い行楽である。歩いてくる途中で、コンビニに立ち寄り、おにぎりとサンドイッチを調達し、桜の下に腰掛けて食べた。一人花見はちょっと寂しい。
 往きはJR線沿いに、平地ばかりを歩いてきた。何か今日は調子が良い。歩いていても胸の辺りが苦しくならない。帰りは近道をと思い、山越えの道を行く事にした。切通しのある長い長い上り坂が2箇所ある。1本目を登る途中で、電車で帰れば良かったと後悔するがもう遅い。
 2本目の長い上り坂はさすがに堪えた。胸が痛くなり、途中で何度も止まった。普段、よく老人が道端で休んでいる光景をよく目にする。まさにあれだ。日向側を歩いて来たのも良くなかった。道路の反対側の日陰側を歩けば良かった。家に辿り着く前にはもうへとへとになってしまった。こんな筈じゃなかった。
 スマホの歩数計の表示は21,000歩を越え、距離は16km弱だった。これで3月の目標は十分達成出来た。リタイアして毎日家にばかり居て、体力がすっかり落ちてしまったことに愕然とする。現役の頃、毎日10000歩以上働いていて、全く平気だった。やはり、日頃の鍛錬は欠かせない。
 こうして見ると、昔の人は健脚だったことが分かる。東海道53次、日本橋から京都三条大橋まで500km弱を普通の人で16日くらいで歩いたと云う。平均すれば1日30km以上歩かなければならないことになる。四国遍路も1400kmを40日くらいで歩くと云う。機会があればと思っていたが、今日の有様ではとても無理だ。
 『自分だって、若ければ』とつい、歳のせいにしてしまう。いたずらに歳を取ってしまった。古稀だからまあ、こんなものだろう。

 

第 1115   おなら                      2018.03.28(水)

 栃木の特別支援校で『おならはきゅうけいじかんにトイレでします』と書かされ、その紙を教室内に掲示されたと云う報道があった。学校では生理現象を制限するのは問題で、懲罰的な内容も含め行き過ぎを認めたようだ。
 第1112回で『うんこ』の話を書いた。うんこだけを書くのは片手落ちである。今回はおならについて書くことにする。おならなんて、誰もがする。人は1日に0.5~1.5リットルものおならを、5回~20回くらいに分けて放屁するのだと云います。そうテレビに出て来る、おならとは無縁のような可愛らしい女性も実はおならをしているのです。
 おならは食事したりする時に、食物と一緒に飲み込んだ空気や、腸内にて醗酵が起こってメタンガスや硫化水素がガスとしてお尻から出るものです。赤ちゃんにミルクを飲ませた後、体を立てて背中をトントンと叩くと『ゲー』が出ます。そう、ミルクを飲みながら一緒に空気も飲み込んでしまうのです。『ゲー』を出させず寝かせると、後になって『ゲボッ』とミルクごと吐き出してしまうので、ミルクを飲ませた後は、赤ちゃんに『ゲー』を出させるのは必須のようです。
 云ってみれば、おならとゲップは親戚関係のようなものであります。おならは肛門から出る。食べた物が腸内で微生物の作用により醗酵する関係で、空気の成分である窒素、酸素の他にメタンガスや、硫化水素他のガスが含まれます。
 私はかねてより、おならにメタンが含まれていることを知っておりました。メタンが入っている限り、必ず燃えると思い、過去に以下に記すような実験をしたのであります。
 まず、おならの収集から始めます。おならは手で掴もうと思っても中々掴めません。手頃な大きさの樹脂製のビンを探します。ガラス製は禁物です。後で説明しますが、この樹脂であることは大切です。私は蜂蜜の空きびんを使いました。樹脂製ビンの口にジョウゴを差し、風呂場に持ち込んでおきます。
 風呂に入った時、その器具全体を湯に沈め、中には湯を満たし、逆さまにして、放屁の兆しを待ちます。湯船の中でおならが出ると、ブクブクと上昇する訳で、その気泡をラッパ状のジョウゴで受け止め、逆さまのビンの中に溜めるのです。もはや放屁の兆しがなくなれば、湯の中でビンに蓋をして、お風呂を出ます。
 収集作業と着火実験はくれぐれも隠密裏に行うことが肝要です。カミさんにでも見付かったら、用途詰問の上
、  『いい年をして何をバカなことしているの!』
 と叱責はされるのは免れません。出来れば着火実験はカミさんの留守の時を狙って実施するのが無難です。メタンですから、青っぽい炎を出して燃えます。
 今は売っていないと思いますが、私が子供の頃、駄菓子屋で2B弾という棒状の爆竹のようなものを売っておりました。原っぱで悪ガキどもが、その2B弾に火を付け、ガラス製のビンに投げ込んだら爆発してビンの破片が飛び、危うく怪我をするところでした。従ってメタンガス収集の際には必ず樹脂製の容器を用いることが肝要です。
 良い子の皆さんは、おならの収集および着火実験を決して真似しないようにお願いします。そうは言ってもきっと真似をする人が居る。加えてくれぐれもご注意申し上げますが、風呂の中でのおならの収集作業は下痢気味の時には、採取しないように。実の出る恐れがあります。
 CO2ばかりが温室効果ガスの元凶として悪者になって話題になって居ります。おならの成分でありますメタンもまた温室効果ガスであります。その効果は実はCO2よりも強い。温室効果ガスと云うのは放出されると、まるでビニールハウスのように、ガスが地球を覆い、太陽で温められた地球の熱が外に逃げなくなって気温、水温とも上がり生態系に悪影響を及ぼします。
 京都議定書で有めいな、COP3の時は、先進国のみ温室効果ガスを削減が義務付けられました。それでは間に合わず、2015年のCOP21では、日本は2013年度比、2030年までに26%減が目標となった。ちなみにCOPはConference of Partiesの略である。『おさむの書斎』勉強になるでしょう。
 日本では2018年度から5年間で総額100億円を掛けて、CO2に水と水素を加えて燃料としてのアルコールと、樹脂を取り出す実証実験を開始することになっています。これがうまく行けば、循環型社会の一つになるだけでなく、CO2削減にも大きく寄与する筈です。僕は微生物を使った醗酵とか腐敗、それと温暖化にはとても興味が有り、詳しいのだ。
 斯様におならの成分であるメタンは、地球温暖化の原因となる。蓄糞性の高い便秘症の方は、便の大腸における滞留時間が長く、醗酵してメタンガスを生じ易い。地球温暖化防止のため、コーラックでもふく用して早目に便秘を解消して頂きたい。それが人類の滅亡を救う一助となるのだ。コーラックという固有めい詞の便秘薬を記したが、僕は大正製薬関係者には親戚はいない。念のため申し添えておきます。

第 1114   主人                       2018.03.25(日)

 世の奥さんは自分の配偶者の事について、誰か他の人に言う時に
 『うちの主人たら、家のことなんか何もやらないんですよ。ゴロゴロ寝てばかりで、鬱陶しいったらありゃしない』
 なんておっしゃる。
 カミさんが、買い物なんかに出掛けた時に、知り合いの方や、友達に僕のことをどんな呼称で云っているのか知らない。世の奥様方は自分の連れ合いを『主人』と呼んでいるのではないかと想像します。
 実は僕は『主人』と云う呼称をあまり好まない。確かに世帯主ではある。主人の『主』と云う字が有る以上『従』という文字を連想してしまう。『主従』と云う意味を国語辞典で調べて見たら、
① 主であるものと、従であるもの
② 主君と家来
③ 主人と従者
 などの意味があるようだ。僕はカミさんのことを家来とも従者とも思っていない。僕がこうして居られるのも、カミさんが銃後を守って呉れたからこそ、一所懸命働くことが出来たと思っている。
 同じく『主人』を辞書で調べれば、『妻が夫をさして云う語』との意味もあるようだから、満更間違いでもないようだが、何となく嫌だ。
 イメージで、商家なら良いのかも知れないが、僕は元しがないサラリーマンだ。
 さすれば、買い物に出て知り合いの奥さんに会って立ち話をする時、何と呼ぶ。『うちの人』、『配偶者』、『旦那』、『連れ合い』、『亭主』、『宿六』、『夫』、『パートナー』、『ダーリン』、『ハニー』、『ろくでなし』、『ごく潰し』、『甲斐性なし』・・・・・・・・どれもあまり呼ばれて好むような呼称は見当たらない。
 見当たらないから、立ち話に僕の話題を登場させずにおいてくれ。
 ちなみに、僕は配偶者のことを、面と向かっては『君』と呼び、こうしてHP上では『カミさん』としている。
 ずっと以前に、若い人と話をしている時に、
『うちのサイが・・・・・』
 と言ったら、動物のサイを飼っているのと間違えられてしまったことがある。本当のことである。『最近の若い人は』と云うように、ふ特定多数の人たちを一括りにするようなことは慎まなければいけないが、動物園じゃあるまいに、サイを飼える訳ないだろう。

第 1113   朝に道を聞かば                  2018.03.21(水)

 『ちょっと伺いますが、最寄りの駅に行くのには、どう行ったら良いのでしょうか?』
 『それなら、ここを真っ直ぐに行って、広い道に出たら右に曲がって、郵便局の角を今度は左に曲がって道なりに行けば駅ですよ』
 『どうも、ありがとうございます』
 なんて会話も段々少なくなってきた。携帯電話の地図検索を使えば、図入りの矢印で教えてくれる。
 そうじゃなくって、ここでは論語である。少し前も『温故知新』を書いたばかりだ。最近、論語に凝っているのか。『朝に道を聞かば、夕べに死すとも可なり』と云う有めいな言葉があります。
 この言葉の本当の意味は分かりません。上っ面では、一所懸命勉強することは大切です。ここまでは良い。でも死んでしまっては全てが終わりです。元も子もない。『生きてこそ浮かぶ瀬もあり』なのです。正しくは、『身を捨ててこそ、浮かぶ瀬もあれ』が正解で、空也上人の言葉です。アレンジしました。
 国家による強制力があって、多くの人々が国を信じ、戦争で命を落とした時代は別として、企業を信じ多くの人たちが企業戦士として働いた時代も有った。私も懸命に働き、残業時間の多い人が偉いような時代に身を置いていた。ずっと時が経て、過労により自死した電通の高橋まつりさんも、そのなごりの一人である。
 今は働き方が問われている時代である。それすら考える心の余裕がなかったのかも知れないが、少なくとも選択の余地は有ったのではと、今、リタイアして毎日が日曜日と化した身になって、違う生き方も有ったことに気付く。
 そんな時代でも、猛烈に働くことを良しとする価値観に、距離を置いて生きてきた人々も必ず居た筈である。
 大勢に流されることなく、大勢が信じる常識を逆手に取って、したたかに、奔放に生きて来られた方も居たと思います。大勢の中に身を任せ、常識的に生きることの方がむしろ安直なのです。
 有り余る時間に色々考えました。
*この世にお金の嫌いな方が居るでしょうか
*異性を好まぬ人が居るでしょうか
*嘘をつかずに生きられる人が居るでしょうか
*野望を持たぬ人が居るでしょうか
 人間として、同じような欲望を持ちつつ、大勢の価値観と距離を置いた人生を送る方がむしろ大変です。そこには『したたかさ』を要求される。『道』と簡単に言えるほど、人の生き様は単純なものでは決してない。道は人に聞くのではなく、自分で考えるモノだと、今になって思うのだ。論語のこの言葉は、私には理解しかねる。時代を経れば『道』も変わるのだ。

第 1112   人生は失敗の積み重ね               2018.03.20(火)

 私は人生論を云々するほどの人間では決してない。ブログに何か書くについてモットーとすることは、政治、宗教について深く触れないということです。触れてもごくチョコッとにしておくのが無難である。当たり障りのない、失敗についてちょっと書いてみたい。
 失敗のない人生なんか有り得ない。誰もが失敗をする。失敗を重ねてこそ、人としての幅が出来る。自分が経験してこそ、人の痛み、心の苦しみが分かる人間に成長して行くものだと思っている。どうも始めから偉そうなことを書いてしまった。
 あべ総理夫人の昭恵さんだって、森友学園の小学校設立に少しでもシャシャリ出たことを後悔していると思う。でもここではこういう話は避けた方が良いと心得ている。誰にも共通して、当たり障りのない話題は『ウンコ』についてであろう。
 誰も普通は毎日排便する。多くの人の中には、貯蓄性の高い、物持ちのよい人も居て、1週間に一度しか出ないと言う方もいらっしゃる。新聞広告を見ていると『スルスルー』などと表現している便秘薬の広告を見る。案外便秘で苦労なさっている方が多いのではと推察する。
 ここでは失敗についてである。貯糞性の高い方は当人にとっては大問題だが、失敗に繋がるのは反対の突発性放出型、つまり緊急の下痢だ。これとて、自宅に居たり、勤務先の建物の中など身近にトイレのある場所に居る場合には失敗を回避出来る場合が多い。問題は外出先に身をおく場合だ。
 何か腹の調子がおかしいなと云う感じがする。近くにトイレがないか、キョロキョロ見渡すが見当たらない。その内お腹が痛くなって来て、便意を催す。段々酷くなってくる。立っていても脚が内股気味になってそわそわする。肛門に力を入れて堪える。どうも肛門を支配する括約筋と云うのは力を入れ続ける持久力に乏しいらしい。額に冷や汗が出て来る。間歇的に何度も何度も肛門を締めるが、いつまでも堪えることは出来ない。耐え切れずあえなく糞死、爆発と言うふ幸な事態に至る。あの爆発は一旦始まると行き着く所まで行かずに、途中で止めることが出来ない。パンツはおろか、ズボンをツツーと伝わり靴下を経て、靴の中まで侵入と云う結果になる。近くに人が居れば臭いにも配慮せねばならぬ。その後の処置については条件によって多岐に渡るから省略する。
 実況中継をしたが、幸いズボンの中に糞死と云う経験は今のところまだない。これから先、全くないと云う保障はない。ズボンとパンツを下げ、便座に腰を下ろした途端、爆発という、未遂事故経験はその数を知らず。
 『そんな、お下品なこと私に関係ありませんわ』と顔をしかめるようなお澄ましした淑女、レディーにおいても条件は同様であります。
 高校生だった頃、授業中、突然立ち上がり、先生に断りも入れる余裕もなくトイレに駆け込んでいた人が居た。多分、腸の弱い方なのだろう。それが度々あった。初めは失笑していたクラスメートも、度重なると失笑する人はなくなり、彼の境遇に同情するようにもなった。そう、大便に限らず排泄に関するふ幸と云うものは、誰しも日常生活のすぐ隣にあるものなのです。『他人のふ幸は蜜の味』ではあるが、この問題に関しては『明日は我が身』のことなのだ。
 世の中には牛乳に弱い方がたくさんいらっしゃる。牛乳を飲むと直ぐに下痢をする。以前は僕もそうだった。牛乳を飲むには慣れが必要だと思っている。始めは噛みながらゆっくり少しずつ飲む。段々量を多くしていく。今では冷たい牛乳をゴクゴク飲んでも大丈夫だ。だが、念のため外出の予定のある時には飲まない。
 コーヒーもそうだ。飲みすぎると危険である。だから1杯しか飲まない。ラーメンは大好きである。日本蕎麦やうどんではならないが、中華麺ではときたま起きる。焼きソバの麺でも起きる時がある。僕も学習機能を持ち合わせている。外出先ではこれらのモノを避けるか、いつも持っている消化タイプの胃腸薬をすかさずふく用して危険を回避する努力をする。自分の体の傾向を知っておくのが大切だ。

   子供の頃の私はとても引っ込み思案で、いつも人の陰に隠れているようなおとなしい子だった。どういう訳か、こんな事では社会に出てから困ると、子供の頃に気が付いた。それで学生の頃、奇術部に所属した。学生の舞台奇術であるから、レベルは大したことはない。
 スポットライトを浴び、多くの人が注目する中で演じるのである。気弱な少年が大勢の人前で揚らない訳がない。大試合になればなるほど燃える、往年の長嶋選手の心は持ち合わせていない。演じている際には、手が震え、足がガクガクしているのが自分でも分かる。いつも舞台で失敗ばかりで、上手く行った記憶がない。幾ら練習を重ねて、これで大丈夫というほど練習しても、いざスポットライトを浴びた途端に、日頃の練習の成果は消し飛んでしまう。
 最大の失態は先輩が演者で、僕が助手だった演目である。舞台上に大きな木箱があり、中を客に見せ、僕が中に入る。蓋をして先輩が箱の上に乗り、四角の枠の付いた大きな布を広げて、先輩と箱全体を覆う。一瞬の内に、中の僕と入れ替わるという内容だ。書くまでもなく箱の天井の一部が開くようになっている。僕が箱を抜け出し上に登る。先輩と入れ替わる際に、上に登った僕の片足が天井の穴に落ちてしまったのだ。倒れこそしなかったが、僕は体勢を崩し大きくよろめいた。お客さんだって、箱の天井に仕掛けがあることぐらい薄々分かっている。見事、その穴に落ちてしまった。大勢の人が注目する中でのことだ。今になってこそ笑い話だが、社会人になってからは奇術は二度とやりたくないし、やっていない。
 例題にウンコと奇術のことを書いた。社会に出てもそれこそ数知れず失敗の連続だった。この小文を読んで下さっている方だって、多くの失敗を重ね、曲がり角を間違えて来た筈である。もし、自分にはそんな失敗はないと云う方がいらしたら、それは貧しい人生と言った方が良いかも知れない。人間は失敗と云う経験を積み重ね成長するものだ。自ら失敗してこそ、他人の痛みや心の苦しみが分かると信じている。

第 1111   引きこもり老人                  2018.03.19(月)

 カミさん、映画『北の桜守』を観たいらしい。3階のパソコン部屋に来て、パソコンで109シネマズ二子玉川の上映スケジュールを調べていた。僕にも『一緒に行くか?』と訊ねて来た。僕は『行かない』と答える。早々、AM9:40上映開始のモノを観るべく一人で出掛けて行った。
 今まで何回も『パソコンをやってみないか』と誘っていたが、カミさん、生返事でやろうとして居なかった。どう言う訳か、ここ2ヶ月ほど毎日、新聞記事を手本にWordでキーボード打ち込みの練習をしている。パソコンに目覚めたのか。
 カミさんが元気なのに対して僕の方は、元気がない。昨日も朝、郵便受けに新聞を取りに行った他は、全く屋外に出ていない。我が家では何処かに出掛けようと云う話でも、完全に婦唱夫随なのである。カミさんが計画し、夫である私がノコノコ付いて行く。歩くことでもカミさんが先を歩き、私が後から付いて行くと云うパターンなのである。
 自分でも『引きこもり老人』ではないかと思っている。一つだけネットのアンケートサイトを何年も続けている。その中に、自分の性格を問われる設問が有る。『休日には自宅で過ごすことが多い?』の問いに対する答えはいつでも『YES』である。
 『歳を取ると筋肉量が落ちる』と云うことを、かつてラジオか雑誌を通じて知った。そういえば、夏場に半袖になった時、かつてはぴんと張っていた腕が、筋肉量が減ってシワシワ、タプタプになっている老人を良く見た。私はそうなりたくないと思った。
 2016年9月以来ずっと、週5~6回のペースで40分程度の自己流筋トレを続けてきた。動機は腹部のポックリを解消するためのメタボ対策だった。腹筋運動だけでないから、その他の筋肉も付く。ただ、プロテインを摂取するとか、糖質を減らすなどの食餌対策を全くしない。普通の食事をしている。
 長い時間続けた割には、スポーツジムなどに通った方に比べれば、筋トレの効果は薄い筈だ。何もボディビルをやっている積もりは全くない。お腹の膨らみはまだあるが、大分改善の兆しがある。腕にはシワシワ、タプタプは一切ない。効果が分かるのは自転車に乗った時だ。自転車でちょっとした段差を降りる時、お腹の脂肪と、胸の筋肉が落差の際にトンと落ちるのを実感する。
 毎日目標5000歩としていた散歩も、1年半以上続けていた自己流筋トレも、自分の中で何のかんのと理由を付けて、ここのところずっとサボッて居るのだ。何となくやる気が出ない。引きこもり老人と化してしまった。こんなことではいけないと思いつつ、気力が出ない。刺激が足りないのだと思う次第である。

第 1110   発達障害                     2018.03.15(木)

 気のせいか最近、発達障害という言葉を耳にする。自己診断で判定すると自分は発達障害である。ネットで見たチェックシートに基づき、こんな行動を取る、こんな傾向の人という項目に当てはめると良く合致する。特に医師に診断して貰ったわけではない。小学生の時受けたツベルクリン検査の陽性、擬陽性、陰性と分けた判定のように、少なくとも陰性ではない。
 もうリタイアしてしまった身であるから、発達障害の判定を受けたからと言って、今更困ることもない。  普通に学校を終え、就職をし、結婚して、子が授かり、元気な孫まで居る。44年以上働いてリタイアした。取り敢えずは何とか成っていると自分では思っている。
 現役時代、勤務時間だけで言えば、working too much で、役目柄お得意先担当に大いに苛められた。自分でもおかしいなと意識するほど精神的に追い詰められ、精神科の病院で受診した。医師と一対一で面談し、チェックリストで程度を判定して頂いた。自分では軽いウツと思っていたが、かなり重篤なウツと言われた。もっとも、一般的に病気の方が話をされる時、自分の病気を重た目に言う傾向があるようだから、アテにはならない。
 ウツにしろ、発達障害でもチェックシートの項目にYes かNo かの二者択一で答えたとすれば、誰しも各項目について何らかの思い当たる節があり、二者択一で答え続ければ、誰でもウツにも発達障害にもなってしまう。
 偏った意識かも知れないが、精神科の病院や開業医は表通りからちょっと奥まった所に設けられていると思っている。精神に関する病院には何か社会の偏見があるのかもしれない。僕が通院していた頃、会社の同僚や周囲の方に精神科に通院していることを隠したことはない。このことを話すと、決まって
『○○さんはウツなんかじゃない』
 と言われて信じてもらえなかった。これでも、当時は内面で苦しんでいたんだ。
 とっくの昔に通院は止めた。今でも落ち込んだり、くよくよ悩むことはある。それどころか、自ら悩む種を穿り出して、苦しんでいるのではと思うことすらある。そんな時、通院当時に処方されて残っていた薬を飲むと随分楽になる。
 発達障害や精神的な病は誰しも持っている。悩んだり落ち込んだりする。そんな時、精神科の受診を活用すべきだ。いらぬ偏見は意味がない。先生と話をすると気持ちはだいぶ楽になる。自分の状態を把握することも大変参考になる。

第 1109   悲しいこと                    2018.03.09(金)

 温故知新 古きを温め新きを知るである。
 『世界のなぜは世界史に学べ』というSB新書の本を①②刊とも読んだ。とても参考になった。
 北朝鮮が対話を望んでいるようだ。過去に対話をしていて、その裏で核開発をし続けたと云う裏切り行為があり、苦い経験があるから米国は警戒している。
 皆、過去の経験や教訓を重視している。
 過去のことを知って自らの糧とする事は大切である。ただ凡夫が過去を振り返って、酒の席か何かで同輩あるいは年下の者に云うのは悲しいことが多い。
*自分は有めい人とconnection がある。
*普通の人では出来ないことをしていた。
*異性にもてた。
*誰もが行けないような場所に行っていた
*高級車に乗って、贅沢三昧していた。
*自分には高い能力があり、高額を稼いでいた。
 などなど、ろくな話ではない。
 現在、充実したハイレベルの生活を維持して居る人は、にわか成金でもない限り、自分からそれをいう事はない。大抵の場合、本人がそれを口にしなくとも、周りの人はそれを知っている。本人は初めて云うと思っているかも知れないが、実際にはその話を聞かされるのは3度目だ何て事があり、とんだ恥曝しである。
 自分でわざわざ云って、周りの人が
 『ほほー、それはすごいですなぁー』
 なんてことになると、それは口では褒められていても、本当は褒められていない場合もあるから、真に受けて話し続けると、とんでもないマヌケになる。
 周りが話題をこちらに振って来た場合に、求められれば話せば良い事であって、自ら披瀝すべきことではない。
 自慢話をする方は気持ち良くても、大体の場合、自慢話を聞かされることが好きな方はいない。相手を持ち上げて、自慢話を引き出すのは、落語に出て来る幇間、太鼓持ちの領域の話である。
 自慢話でなく、求められて後学の為、専門知識を教えてくれる、コツを手ほどきしてくれるのなら大歓迎だが、とかく自慢話と手ほどきは境目が曖昧と成りやすいから注意が必要だ。
 失った過去の栄光にしがみ付く人が、自分を誇示するために話をするのだったらとても悲しいことなのだ。
 斯く云う私もHP上の『日記』や『書斎』で、その場の思い付きで書きたいことを書いている。この前言っている事と矛盾しているのではと云うのは日常茶飯事であろう。さぞ、訪問者にふ愉快な思いをさせているのではと思います。思ったこと、書いたことと自慢話ではその境目は本当に微妙な所にあります。注意しているのですが、ご迷惑掛けていたに違いない。
 自分が持つモノが何もなくなった時に、本当の自分がわかると思うのです。悲しいことです。

第 1108   無為徒食                     2018.03.07(水)

 何となく元気が無い。毎日これと言って何かをやったと云う達成感なしに終わってしまう。こんなことではいけないと云う嫌悪感に捕らわれているらしい。45年以上働いて来た。60歳定年を過ぎて、丸6年以上働いて来た。だから、毎日ブラブラしていても、誰にも咎められることがない。
 今、働き方が問われている時代である。私の働いて来た時代は残業もたくさんしている人を良しとする風潮が有った。まだ自動化されておらず、デスクワークで図面を見ながら、電卓片手に計算ばかりしている労働集約型の仕事に就いていた。
 仕事は次から次へとあり、幾ら頑張って仕事をしても途切れることなく続いた。今思えば過労死したら労災認定受けられるであろう残業時間をずっとやってきた。
 今になってそんな働き方のツケが出ているのだと思っている。仕事ばかりやって来て、フリータイムに行う趣味らしきものを何も持っていないのだ。
 唯一10年間以上、狭い畑を耕して家庭菜園をやってきた。土に触れることは大変気晴らしになり気分転換できた。単にナス、キュウリ、トマトの苗を買って来てうえるだけでなく、土作りに励んだ。落ち葉を集め腐葉土作りは無論のこと、台所から出る生ゴミを堆肥化して土と混ぜる。すると何処からとも無くミミズが集まって来て、益々土が良くなる。農業経験など全く無く、始めた当初はダメだったけれど、土質改良をするようになった後、最後の方になったら、農家の方の作物に遜色のないどころか、それ以上の作物が出来るようにもなった。
 それは当然なのだ。こちらは猫額の畑の土作りをしているのだ。こちらは採算を考える必要が無い。農家の方と違い、採算度外視の手間を掛けているから、良いものが出来て当たり前なのだ。
 こうして丹精込めて土作りをした畑には、今、住宅が建てられ畑はなくなってしまった。幸運にも畑を貸して頂いて10年以上家庭菜園が出来たことはとても有意義だった。最高の趣味だったと思っている。今、夢中になってやることが無い。
 HPも僕にとってはとても大切だ。だが日柄一日出来ることではない。パソコンも長い時間やっていると目がショボショボして来る。読書も同じだ。日課にしている散歩に出ると世の中霞んで見える。
 かくして、ろくに何もやらずに一日が終わってしまう。ボランティアはやりたい気分に成れない。プロ意識が強いのか、貧乏性なのか分からない。DIYで何か作るのは大好きなのだが、自分はもう終活に入った身である。何か作れば、僕が死んだ後、残された人が処分に困る。何か良い方法があったら教えて下さい

第 1107   悪法もまた法なり                 2018.03.03(土)

 古代ギリシャおいて、ソクラテスが裁判に掛けられ、死刑になる時に云った言葉だと云われています。悪法であっても、法である以上は従わなければいけないという意味なのでしょう。
 精神障害、知的障害をお持ちの方に対して、ふ妊手術を認めた旧優生保護法という法律が、1996年まで半世紀以上に渡って日本にも存在したことは知りませんでした。いい歳をして知らないことばかりだという事を恥じます。ソクラテの云った『無知の知』という言葉を思い出しました。確か中学1年の時読んだ『ソクラテスの弁明』と云う本で知った。
 TVで引っ張りだこの池上 彰さんが、この出所に触れずに『無知の知』と云う言葉を彼の本やTVで使っています。知らない人は池上さんが言い出した言葉と誤解してしまいます。ソクラテスが云った言葉です。念のため。
 ちょっと前ですが、強制ふ妊手術を受けた女性の『子供を産み、育てるという幸せ』の権利を奪われたという訴訟がありました。人権を無視した悪法であると思います。ただ、ふ妊手術を受けたのはもはや60代の方だったですが、実際に訴え出たのは被害の本人ではありません。近親者の方が代理で訴えたことで、本人の意思がどれだけ反映しているのかちょっと気になります。
 『本音と建前』と云う言葉があります。”建前”では人権を無視した大悪法だと思います。こんなことは二度と繰り返してはならない。当時は合法と云えど、国は賠償して欲しい。
 中国が人口抑制のために『一人っ子政策』を実施していた頃、中央政府の指示に従うため、地方の政府が二人目以降の子を宿した妊婦さんに強制堕胎を実行したと云う話を耳にしたことがあります。これも酷い話と思います。二人目以降が産まれてしまうと、政策が徹底されていないとして、地方政府役人の成績が落ちます。事実上の一党独裁政権下でこそ為し得たことでありましょう。
 私は知的障害の子を持つせいで、障害を持たれた方たちに接する機会が、一般の方より多いと思います。兄弟で障害を持たれた方もたくさん居ます。障害は遺伝する可能性がある。僕ら夫婦に取っても、今はまだ良い。僕らが死んだ後、この子がうまく生きて行けるのだろうかとても心配です。
 ”本音”と云うか現実の方を云うと、今度の訴訟の本人の方が、どの程度の障害をお持ちか分かりません。実際に子育て出来たのでしょうかと云う事も気になります。縁談があったことは新聞記事に書いてあった。縁談があったからと言って、成就するかどうか分かりません。結婚され、万一、遺伝で障害のお子さんを出産された場合、程度により差があると思いますが、大変ご苦労されることと想像いたします。障害を持つ子を育てるのは、健常児よりもずっと大変です。『子供を産み、育てる幸せ』と云うことが、果たして本当に幸せなのかどうか、神様にしか分かりません。
 一方で近年、妊娠した胎児が染色体異常の子であるか否かの検査を受診される方が増えている。検査結果で異常が見付かった場合、出産を見送る方が増えているというのも現実です。異常を持った子の出産を回避したいというご両親の思いもよく理解出来ます。
 イスラム教やキリスト教のカソリックでは避妊や堕胎を、宗教上の理由で認めないとも聞きます。また倫理上問題だという事もあるようですが、現実はとても厳しい。
 『本音と建前』の問題があり、とても判断が難しい所です。強制ふ妊手術を受けた当時は、法に基づいて行われた手術です。本人の同意を受けずに執行されたのは大変遺憾ですが、悪法でも合法です。人権を無視した事であることは確かです。どんな判決が出るのか注目したい。
 

第 1106   自分史                      2018.03.01(木)

 『自分は寝る時、バタンキューだ』と云う方が驚くほど、以前は寝付きが良かった。昼間の運動量が多かったせいであろう。4~5年前から寝付きが悪くなった。加えて決まって夜中の3時頃、目が覚めた。医師に訴えて睡眠薬を処方して頂き、錠剤を半分に割り、毎夜半分ずつずっとふく用していた。
 医師によれば、処方されていた睡眠薬は何系だか忘れたが、一種の麻薬のようなもので依存性があり、なるべく処方しないような通知が来ているのだと云う。代わって『覚醒を抑える薬』を処方された。睡眠薬と覚醒を抑える薬でどう差異があるのか、訳が分からん。
 処方されたものの、眠りに関して薬に頼る生活はいけないと思い、ふく用を止めようと、ここ2日ほど飲まずに寝た。なるほど、薬を飲まずには1時間以上は寝付けない。そして夜中に目が覚める。前から夜中にトイレに行くタイプではない。目が覚めると念のためにトイレには行っておく。朝になってまだ眠っていたい。そんな訳で寝ふ足気味です。
 寝付くまで、色々考えてしまう。自分の辿って来た人生に付いて書いてみたいと思うようになった。
 題の『自分史』が始まるまでが非常に長い。

   人間は一人では生きて行けない。社会的な生き物だ。僕は決して社交的なタイプではない。『反社会的』と云うと、怖い人の団体のことを云うようだから、反社会的ではありません。人と接するのが苦手である。
 自分は我がままである。自分の思ったようにしていたい。他人に自分の思いを強要することは嫌だ。一人で居るのがどちらかと言えば好きだ。
 さて、自分史を考えた時に、
 ”成長して学校を終え、あまり考えずに当然のように就職した。結婚して、子供が出来、子を育て、教育を受けさせ、子供は自分で探して来た人と結婚した。現在、孫が2人いる。その間に定年退職して、今は働いていない。社会生活を営むため税金は払っている。税負担のためせっせとタバコも吸っている。”
 これが、私の自分史である。何でもない人生だ。生物として種族存続の責務を果たし、これ以上何が必要であろうか。後は死ぬだけである。自分史を書こうと思ったのも、死期が近付いていることを薄々感じてのことなのか。  今にして思えば、一人で出来る仕事に就きたかったと云う単純な考えもある。渓流釣り用の『和竿』作りの職人か、作家に成れたらと思う。作家は文章の良し悪しではない。『感性の問題』である。文章は感性を表現する手段に過ぎないのだ。私にはその『才』はない。
 かつて、上司と共に出張した際、上司の友人の仕事場である『競馬の鞭』を作る工房に連れて行って頂いたことがある。作業場で一人で仕事をしているようだった。しばらく話をした後、私に鞭の”握り”部分に皮を巻き付けるようにおっしゃった。私は丁寧にしっかりと巻き付けた積もりである。私からその鞭を受け取って、上司の友人である職人さんは一目見て、『フン』と云ったきり、脇に置いてしまって、話題を変えてしまった。私には筋が無い様であった。職人の道はとても厳しいのだ。
 方丈記の鴨 長明は世を儚なんで庵に住んだ。彼も人と交わることを好んで居なかった。隠遁生活と言えど、社会から隔絶した生活を送っていたのでは決してない。ちゃんと社会とは結び付いている。徒然草の吉田兼好もそうである。好きではないけれど、社会から離れては暮らせないのだ。
 16年ほど前から毎年、小学校のクラス会をやっている。幹事さんは当時は目立たなかった女性2人で幹事の交代なしでやって下さっている。始めに幹事さんが少し報告事項を云うだけだ。あと出席者が起立して皆の前で近況報告などすることなど全く無い。隣り合った人と雑談したり、席を移動してまた話したりと気楽である。最後に記念撮影して終わり。昔を懐かしんで少しは社会と繋がっていたい気持ちがあるのだ。都合が付けば出席しようと思っている。
 かつて勤めていた会社のOB会がある。3ヶ月に一度、年に4回開催される。幹事さんに拠れば、開催通知の連絡をすると、『開催頻度が多過ぎる』と文句を云う人が居るらしい。困った人だ。出席することが嫌なら、欠席すれば良い。決して強制している訳ではない。中には皆勤に近い方も居て、楽しみにしていらっしゃる方も居る。僕は年に1~2回ほどしか出席していない。以前勤めていた会社のOB、OGとの接触はそれで十分と思うからだ。
 人と接するのが嫌だと云いながら、繋がりの最たる物である、スマホを持っている。家に居る時は『ふ携帯電話』だけれど。電車の中や、街角で見掛ける、スマホから目を離さないようなことは決してしない。昨年11月に契約して4ヶ月間に通話は5~6回しかしていない。持病があるから、出先で何か有った時、連絡する手段を持っておかねばと思ってのことです。費用対効果を考えれば、全く高い買い物なのだ。
 自分が生きたことにより、社会にどう貢献出来たか全く分からない。今は意固地のジイサンなだけである。

 

第 1105   運                        2018.02.25(日)

 平昌の冬季五輪のスピードスケート マススタートで高木 菜那選手が金メダルを取った。最終コナーからゴールまでは鳥肌が立った。走力、瞬発力、持久力、判断力そのほか何があるのか素人には分からないが、彼女には実力と共に『運』も味方したに違いない。最終コーナーでオランダ選手が外側に広がって、内側に走路が開かれなければ、結果も違っていただろう。何はともあれ、おめでとう、ありがとうと言いたい。
 カミさんが『ざんねんないきもの事典』(高橋書店)と云う本を買ってきた。面白いので一気に読んでしまった。色々な動物の残念な進化の様子が分かって楽しかった。他の生物によって絶滅させられたり、環境の変化に追随できず消えてなくなってしまうのが分かって、興味深かった。
 地球が誕生したのは46億年前である。地球は太陽と云う恒星から1億5000万kmという丁度良い距離にあり、水にも恵まれた。これは『全くの偶然』である。
 単細胞生物が生まれたのは、40億年前、以後進化は連綿と続いて来た。
 かつて、地球上の王者として巨大恐竜が君臨したのは、2億5000万年前以降のことだ。地球の年齢から見れば、ごく最近のことなのである。
 ある日、直径10kmほどの隕石がユカタン半島に落ちた。そのエネルギーは広島原爆の10億個分のエネルギーを持っていたと云う。舞い上がったホコリが地球全体を覆い、夜のように暗くなってしまった。食べ物はなくなり、寒さに凍え、恐竜は一匹残らず絶滅してしまった。急激な環境の変化に追随出来なかったのだ。偶然起こった出来事に、恐らく短期間の内に絶滅したのであろう。恐竜にとっては『運』が悪かった。
 先日、ネアンデルタール人が描いたのであろう、洞窟の壁画が見付かったと云う新聞記事があった。旧人ネアンデルタール人は40万年前~3万年前に欧州を中心に生息したと云われる。現生人類とは全く違った進化を遂げて来たネアンデルタール人は絶滅した。どのようにしてネアンデルタール人は絶滅してしまったのであろうか。
 現生人類は4万5000年前~4万年前にアフリカで誕生したという。旅をして地球全体に広がった。ネアンデルタール人と現生人類は生存期間が重なる部分がある。恐らく異種の交接も行われたことだろう。
 今まで地球上に現れた生物の99.9%以上が絶滅しているのだと云う。人間もその例外では決してあるまい。
 ときたま、『温暖化により、北極と南極の氷が溶けて、水位が上がって多くの土地が水没してしまう』と云う話が出る。確かに温暖化によって低地の国々においては、水没してしまう地域も出て来るであろう。ただ、北極も南極の氷もー50℃くらいあるから、ちょっとやそっとのことで、氷が無くなってしまうなんてことはないであろう。
 人間は他の生物に比べ、脳が大きく、頭が良い。ただ、人の脳は甚だ暑さに弱い。何らかの原因で地球の環境変化で気温が上昇すれば、たちまち人間は絶滅するに違いない。これもまた運である。
 現生人類に限ったことではないが、生まれた時から、『争奪戦』を繰り広げている。現代でも、石油を始めとする資源、食料、お金もそうかも知れない。皆、何だかんだ言いながら争奪戦をしている。
 急激な温度変化でなくとも、じわじわ温暖化が進めば、生態系は必ず崩れ、今まで耕作出来ていた作物も栽培出来なくなり、魚介類も獲れなくなってしまう。食料を求めての『争奪戦が激化』するに違いない。『運』ではなく争奪戦で絶滅するかもしれない。それほど環境の影響は、地球上に住む生物にとって大切なものである。
 今では小惑星が地球に激突することは事前に分かることだろう。分かったところで、対処は出来まい。これもまた『運』なのである。地球にとって現生人類は恐竜の様に、ある年代に繁栄した歴史として残るだけなのだ。その歴史をどんな高等生物が認識するのか分からない。韓国人、中国人かな?
 私たちが住む天の川銀河も、数十億年後には、秒速120kmの速度で近づいている、『アンドロメダ銀河』と激突する(すり抜ける)らしい。また、太陽は次第に膨張し、赤色巨星となり80億年後には地球は呑みこまれてしまうと云う。人間なんて、何てちっちゃな存在なんだ。もちろん、生きていないから何が有っても良いけど。

第 1104   後でやろう                    2018.02.20(火)

 今や定年退職後の時間は長い。昨今は『寿命100年』と言われるようにもなっている。私、この正月で古稀となった。昔は70歳まで生きるのは、古来稀れで珍しいということだ。ただ、七五三、始め、還暦、古稀、喜寿・・・・は皆、数え年にて祝う事なのです。実際にはまだ満69歳にも成っていない。
 私の年代になるともう段々少なくなって来たが、11月になると年賀状欠礼の、いわゆる喪中ハガキが来る。見ればどの父上、母上も九十数歳で亡くなられている。私が子供だった頃から見れば、大変な御長命である。私に限れば、持病が有るからいつ死んでもおかしくない。座って静かにいても、胸の辺りがソワソワしていろことを感じる。自分にとっては、残された時間は短いに違いない。
 昨年3月末に仕事を辞めたが、実際にはまだ前の職場と繋がっていて、作業手順書や仕様書作りを依頼される。依頼されれば、2~3日で作ってメールで送る。もちろん私には時間が有り余るほどあるから出来るのだが、一般的には直ぐにやらない方が多いらしく、お世辞で言われるのか分からないが、『もう出来たの』と相手の方に言われる。
 ずっと心掛けて居る事は『すぐにやる』ことだ。当然いくつも抱えると、同時に出来ないことがある。そういう時はメモ書きして、優先順位を付けてやらざるを得ない。メモ書きもそこらにあるメモ用紙に書かないで、必ず手帳やノートに書く。メモ用紙だと直ぐに紛失して、分からなくなってしまうからだ。
 性分なのだろうか。小学生の頃から夏休みの宿題は、その日にならないと出来ないもの以外は、概ね7月中に終わっていた。ただ、前の職場から依頼される事項は、時間が経つに連れ、周囲の状況が変わって来ることも有って、やり直し、無駄骨となることも多い。それはそれで仕方がない。『慌てる乞食はもらいが少ない』と言う事か。反対に『先んずれば人を制す』、『善は急げ』と云う言葉に期待したい。
 世事にはやり始めたら、その仕事の半分以上が終わったと、考えて良いと言う場合が多い。人はとかく取り掛かるまでの時間が長いのだ。大概のことはやる気になって始めさえすれば、直ぐに終わってしまうことが多い。
 業者に物を依頼する時に『2週間掛かります』『1ヶ月掛かります』なんて言われる経験がよく有ります。その仕事が繁盛して、順番待ちで私の依頼事項に取り掛かれないと云うのなら仕方がない。そうでなければ、ちょっとした依頼事項で、先方の作業が2週間、1ヶ月掛かるなんて、余程のことでない限り有り得ない。あまり早く作業を終えると費用請求の場合、低く抑えなければならないからと勘ぐってしまう。
 『ものを頼む場合は忙しい人に頼め』という。忙しい人は計画を立て、手際よく作業をこなして行く。だから早く処理出来る。仕事が少ない人は、やり始めること自体が遅い。全く正しい言葉だと思う。
 自分は直ぐ物事を処理出来る有能な人だとは決して思わない。自分には残された時間がないのだ。日常でも、毎食後の食器の洗い物と、風呂の掃除は私の担当である。洗い物しながら、次は何をやって、その次は何をすると考えながらこなして行く。その他の雑用もある。その時、『これは、後からやろう』などと考えたら、後回しになってしまう。そのうち、やった方が良いが、やらなくても困らない事項は、結局やらずに終わってしまう。
 一方で、やらなくても済むことは、やる必要がないと言う考えにも否定はしない。  22歳で生家を出て独身寮に入った。若い頃はとかく朝遅くまで寝ていたい。やらなくても済むことをやらずにいたら、習慣となってしまった。以来、『朝、顔を洗わない』ことが習慣となってしまった。今でも気が向いて、朝、顔を洗うのは年に1~2度だ。その代わり、夜、風呂では入念に洗う。これを誰かに云うと、『猫だって顔を洗う』と言われる。風邪でも引いて風呂に入らないと、3~4日全く洗わないことになり、『段々顔色が黒くなってきた』とからかわれる。
 何かやろうとする時は『後でやろう』などと思わず、直ぐにやることを心掛けると、作業はスムースに出来る。

第 1103   なまえ                      2018.02.19(月)

 『おさむの自由区域』の管理人の『おさむ』はもちろんほんみょうではありません。ネット上で用いるハンドルネームであります。ほんみょうは僕達の年代に限れば、到って有り触れたものです。ある年生まれの男の子に付けられた一番多いなまえであり、僕の年代ではとてもポピュラーなモノです。
 余りに有り触れているので、子供の頃、父に由来を聞いた所、『どうせ、お前なんか偉くなりっこない。偉そうに難しいなまえを付けて、人様にコレ何と読むのですか? と訊ねられたら困るだろう』との返事でした。なるほど、私のなまえは読み間違えられたことが一度もない。まだ閉じていませんが、私相応のなまえでした。そう言えば、3人の兄弟とも簡単な字で、姉だけが違う読み方される恐れが多い漢字でした。弟のなまえも読み間違えることはまずない。でも、あまりにポピュラー過ぎて好きでは有りません。
 カミさんのなまえは、カタカナ2文字。有り触れたなまえでは有りません。子供の頃からまるで昔のお婆さんのなまえです。
 平昌の冬季オリンピックで2日連続で日本人が金メダルを取りました。また、将棋の世界でも藤井聡太さんが、朝日杯に優勝し、中学生プロ6段になり話題を集めています。水泳の池江 璃花子選手も大活躍しています。今年これから産まれる赤ちゃんには、男の子なら『結弦』『聡太』、女の子なら『奈緒』『璃花子』とあやかって、なづけるご両親も居るのではないでしょうか。『なは体をあらわす』と言いますから、素敵ななまえを付けてあげて欲しいと思います。
 話は全く変わります。オリンピックの話が出て来たところで、『オリンピックは国威を反映する』なんていう事があります。今回は冬のオリンピックで、その国の位置に影響するのは当然の事として、考慮されなければいけません。話に拠れば中国では才能の有りそうな子を各地から選抜して集め、小さい頃から英才教育をしていると聞いて来ました。
 何故か中国のメダル獲得数が少ないのが、とても気になります。冬の五輪でも位置的にハンディキャップがあるとも思えません。一体どうしたことなのでしょうか。そう言えば、AIIBも『一帯一路』も最近新聞で見掛けません。あまり芳しくないのでしょうか。
 GDP世界2位、経済成長率も中国共産党が関わることです。他の民主国家ならその数値について、何度もチェックが掛かります。一党独裁国が表す数値は何とでもなる。経済成長一辺倒で過剰投資して来たツケが現れて来て、実情はあまり良くないのかも知れません。

 

第 1102   病んだ国                     2018.02.16(金)

 米国フロリダの高校で銃の乱射事件があり、またしても多くに犠牲者が出た。ホテルの32階から広場に向けて無差別の乱射事件があったことは、誰もがまだ記憶していることだろう。
 アメリカは初めイギリスからの移民で始まっている。白人、アングロサクソン、宗教はプロテスタンとの人々が大西洋を渡って来た。銃を持って先住民族を駆逐して開拓し、戦争でメキシコからも土地を奪い、国土を広げて今の領土が出来上がっている。
 メイフラワー号に乗ってやってきた移民は、確かに銃で『自分の身は自分』で守りながら、アメリカを開拓しなければならなかったならなかったのである。その伝統を今も引き継いでいると云うが、果たして今も自分の身は自分で守らなければならないほど、アメリカというのは統治されていない国なのであろうか。面積が小さい日本では想像が出来ない。国土の大きい国は、統治するために大きな軍事力を持たなければならないのは事実だ。
 犯罪歴がなければ、スーパーマーケットで、一般の人が簡単に買えるのだと云うこと事態、私には異常に思える。多くの人々の中には性格が異常の人や、過激な考えの方が必ず居る。銃規制しなければ、これからも米国では銃乱射事件は必ず何度も繰り返し、決してなくならない。
 かつて、Malaysia クアラルンプールもショッピングモールの宝石店の入口に、銃を持ったガードマンが2人警備していたことを思えば、あるいは日本の方が世界の実情と懸け離れているのかも知れない。
 日本にも推定数万丁の闇の銃器があると云う。反社会的領域の人たちの抗争で使われるくらいで、乱射事件は今のところ起きていない。明治時代になって、侍はそれまで所持していた刀を放棄したことになっている。今、所持していれば銃砲刀剣類ふ法所持で捕まってしまう。
 アメリカは軍需産業が盛んだ。軍需産業が政治に献金するものだから、政治家も中々銃規制に踏み込むことが出来ない。軍需産業が盛んだから、アメリカはどこかで必ず戦争をしたり、自分は自ら動かなくとも、世界中の紛争地域の一方に武器援助をする。戦争がなければ軍事産業は成り立っていかないからだ。
 軍事産業から支援を貰う以上、政治家は何処かで緊張を起こし、徹底的に打ちのめす。壊しておいて戦後はその復興援助として、資金援助としてお金を動かし、金融機関が潤うような構図になっている。タラレバだが、北朝鮮が核、ミサイル問題を起こさなければ、日本はF35戦闘機や地上配備型P3Cのような設備を、高いお金を払って配備しなくて良い。
 今、朝鮮半島が微妙な状況になっている。きっと戦争を起こすに違いないと思っている。アメリカは動いていないと倒れてしなう自転車のような国なのだ。

第 1101   本番                           2018.02.15(土)

 平昌冬季オリンピック真っ盛りです。開催前から、どうしてマスコミの人たちは『金メダル、金メダル』とああも騒いで選手達にプレッシャーを掛けるのでしょうか。騒げば騒ぐほど選手達には重圧が掛かり、これでは返って足を引っ張るようなものとしか思えません。
 今のところ、『金メダル』でなくとも、それなりの成績を収めているようなので、良かったなと思っています。世界一でなくとも十分です。自分で一所懸命やって、なっとくできれば良いのです。マスコミの大騒ぎは異常です。本番で力を出せることは大変難しい。
 私は子供の頃から、とっても引っ込み思案でした。いつも誰かの影に隠れているような子でした。自分でもこれではいけないと思い、中学3年頃、学校内に有った『奇術同好会』に入会しました。文化系の部活のようなものです。クローズアップマジック(トランプや小品マジック)から舞台奇術まで広い範囲で活動していました。
 舞台奇術の方は、普段から、何度も何度も同じことの繰り返しで練習しました。先輩の指導の下、自分でもこれだけ出来れば良いかなと自信も持てるほどでした。ところが、いざ舞台に立ち、スポットライトを浴びると、手は震え、足はガクガクして来ます。観客はスポットライトを当てられた自分に注目しています。
 東京厚生年金会館、朝日生命ホール、三越劇場、世田谷区民会館他、随分色々な会場に出た経験があります。事前に幾ら練習をしていても、いざ本番でスポットライトを浴びた途端、普段の練習の成果はまったく出ず、いつもドジばかり踏んでいました。
 舞台奇術ばかりではありません。結婚式の挨拶始め、実技試験など今までで色々な経験して来ました。たくさん練習をして来て自分でもなっとくできるほどになっているのに、いざ本番になると、いつも『こんな筈じゃない』と言う結果になってしまった事ばかり。
 『大試合になれば成るほど燃える長嶋さん』が羨ましかった。もちろん、長嶋さんは猛練習に、猛練習を重ねて来たことは分かっています。長嶋さんが幾ら練習を重ねたとて、雰囲気に飲み込まれない精神的な強さがあったからこそ成果を挙げられたのだと思います。
 幾ら練習をしてしても、本番に弱ければ何にもなりません。稽古場ではとても強いのに、本場所ではあまり成績をあげられない様なお相撲さんも居ると言われています。
 どうか、マスコミの方々は、試合前に選手を煽らないで下さい。試合後、好成績を挙げたら、絶賛して挙げて下さい。

第 1100   判断基準                         2018.02.09(金)

 特に調べた訳ではない。前からずっと疑問に思っていたことがある。東日本大震災に伴う津波で、人が亡くなったことはもちろん、多くの施設が破そんされた。だが、原発被害による影響ばかりで、その他の影響はあまり表立って報道されない。それだけ原発被害の影響が大きかったと云うことか。
 私が疑問に思っていたことは、化学物質のことだ。化学工業や冶金で用いられるシアン化カリウム(青酸カリ)やPCB、六価クロムなどの化学物質による被害は無かったのであろうか。報道されないから津波被害は受けなかったのか。無ければ良いのだが。
 青酸カリはあまりに知られている。化学工業で使われている。PCBは古いトランスやコンデンサーに使われていて、トラックで移動することすら、行政機関に届けが必要で、毎年現況届けを必要とする。クロムだって危険物質である。それらが、津波の被害を全く受けなかったと云うのは考え難い。メッキ屋、化学工場、あるいは古いトランスも無かったとは決して言えない。皆、瓦礫になってしまったので、なし崩しになってしまったのかも知れない。危険は承知だが、どうにも手が出せなくて頬被りしているのかも知れない。僕が担当でも何も出来ないだろう。
   先日、衆院選挙の一票の格差の問題で判決が出た。今度は『違憲状態だ』という。『違憲状態にあるとは言えない』だったり、『違憲状態だ』だったりと、裁判官の判断は気分で判決を出しているとしか思えない。裁判は憲法や法律に基づいて、これこれこうだからOKだとか、ダメと判断されるべきだ。一票の格差を全くナシとすることは恐らく出来ない。判断基準がないからこんな猫の目判決になる。
 『一票の格差は2ばいまではOKだ』と関係する人たちが討議して決めておけば、それぞれの機関が2ばいにならないよう事前に調整する。判断基準が決まっていれば、裁判すらする必要がない。無いから繰り返し裁判官の思惑で判決が出る。あの裁判官なら恐らくこういう判決が出るだろうと、予想されてしまうようでは裁判官も終わりである。
 同じ事が原発の再稼動にも言える。『稼動差し止めの仮処分』『原子力規制委員会の基準は妥当である』の繰り返しである。
 昨年12月に四国電力の伊方原発稼動差し止めの仮処分が広島高裁から出た。熊本県の阿蘇山が過去最大級の壊滅的噴火を起こしたら、その火砕流は四国の伊方原発まで及ぶ可能性があり、原子力規制委員会の新規制基準はふ合理であるとした。阿蘇山の壊滅的噴火は10000年前レベルだという。縄文時代である。棒の先に石をくくりつけ獲物を追っていた時代だ。もちろん、定型的水田で稲作が行われた弥生時代は、おおよそ8000年後のことだ。
 阿蘇山が壊滅的噴火を起こしたら、九州、四国、中国地方の人々の生活すら危ぶまれる。どれだけ死者が出るか検討もつかない。元々この裁判官は原発反対派の方で有るに違いない。原子力規制委員会の判断が『基準である』として、水戸黄門の印籠のようにすれば、『差し止めだ』『再稼動だ』とすることはない。判断基準がこれだと云う権威がないから、裁判官は自らの気分か、思考、心情か知れないけれど言いたいことを言う。だから、僕自身はこの手の裁判が嫌いだ。専門性が高く判断できなければ、『この案件は裁判にはそぐわない』と棄却すべきだ。
 阿蘇山が壊滅的噴火をしたら、始めに書いた化学物質もいくら基準が有ってもダメなんだろうな。

第 1099   人間性疑っちゃう                   2018.02.09(金)

 家に居る時は殆どいつも作業着を着ている。畳の上でいつ寝っ転がっても、気にしないためだ。外に出掛ける時は上着だけは替える。自分は一向に構わないのだが、カミさんが世間体を気にするからだ。おおよそ、ファッションなどには興味がない。汚れていなくて、暑さ、寒さに対応できれば良いと言うくらいな気持ちしかない。
 昨日、東京中央区の泰明小学校の標準着で4点セットで8万円と云う話を聞いた。ワイシャツやブラウスは洗い替えに最低でも3~4枚は必要だから、とても8万円では収まらない。子供はすぐに大きくなってしまう。小学1年生と6年生では体の大きさは丸で違う。体に合わせていたら、何回か買い直さなければならない。銀座に即してアルマーニというデザイナーの物にするなのだとか。和田校長の人間性を疑ってしまう。
 国会の委員会で質問にも出たくらいだから、世間相場の標準着に比べても高いと云う感覚なのだろう。答弁に立ったのが麻生財務大臣だったから、惚けたような発言で可笑しかった。文部科学大臣が答弁すべきだったのでは。
 我が家の前を小学生が学校に向かって、通学しているのをいつも見ている。帽子こそ統一した色の物を着用しているが、ふくそうはそれぞれまちまちだ。私用着では返ってお金が掛かるから、標準着を決めて欲しいと云う、父兄の要望もあるのかも知れない。それならそれでも良いと思う。ただ、学校の配慮が足りなくて、販売店を決めているため、競争がないのが原因と思うが標準着は相当高い。
 知人のご子息が県立高校に入学する時の標準着はゆうめいなデザイナーの物でなくとも、聞いて驚くほどの高さだった。僕は背広や上着を買う時は、たいてい『紳士ふくの青山』で吊るしを買う。僕の頭の中にある『標準』が青山であるから、僕のレベルが低いのかも知れない。
 ゆうめいな泰明小学校のことだから、越境入学も多く、親御さんの所得レベルも高いのかも知れない。ただ、公立小学校である以上、学区内から入学する裕福でない家庭のお子さんも、仮に今はなくとも必ず出て来る筈だ。標準着は強制でなく任意ですよと云うのは言い逃れにも何にもならない。標準着を着られる子供と、そうでない子供の間には、必ず心の中で食い違いが起こるに違いない。いじめの引き金に成りかねない。公立小学校の校長にそれほどの配慮もないのか。校長の頭の回路を疑ってしまう。
 格差社会と盛んに叫ばれ、世の中に安価に食べられる『こども食堂』がたくさん出来ている現実を知らないのか。親が働きに出ていて、一緒にご飯を食べられない子供がたくさんいる現実を知っていたら、高価な標準着を採用するなど決して思わないに違いない。
 教頭、校長昇進試験も、学業成績だけでなく、人間性を測る面を重視して貰いたいな。教育委員会、しっかりしてよ。

第 1098   脂肪の燃焼                      2018.02.05(月)

 『豚ひき 300』
 肉屋さんでこう云えば、豚ひき肉を量り売りしてくれる。食品スーパーでも白いトレイに載せ、ラップを掛けられたひき肉が売っている。300gのひき肉がおおよそこのくらいの分量、容積であるかがイメージ出来る。よく200g、400gのステーキとか云うが、いつにも食べたことがないので、イメージとして湧かない。僕にはひき肉が相応している。
 雨が降るとか用事でもなければ、はとんど毎日と云って良いほど散歩している。ウォーキングと云う方が体裁が良いかな。ただウォーキングしていても張り合いがない。歩数を調べて記録している。目標は1日平均5000歩だ。所要時間はおおよそ45分、距離にして4kmくらいである。平均5000歩と云えど、雨の日や用事があれば歩けないから、貯金ならぬ『貯歩』をしておかざるを得ない。
 若い頃は『痩せ過ぎ』の体型だった。幾らたくさん食べても太らなかった。代謝が良かったのである。運動量も多かった。現在の私は、健康診断でも採用している『体重を身長の二乗で割る方式』でジャスト標準体重である。ただ、ある箇所に集中して脂肪らしき物が付いていて、体重に寄与している部分が大きい。メタボ予備軍なのである。そう、お腹と、両脇の背中側に醜くも厚い脂肪が付いている。
 男性俳優が役目柄、上半身裸になることがある。PanasonicのCMに出ている西島秀俊さん、NHK大河ドラマで石田三成役を演じた山本耕史さん、西郷どんの主演の鈴木亮平さんなどの体を見ると、いずれもくっきりとした腹筋と、大胸筋が目立つ。きっと日頃スポーツジムに通って、弛まぬ鍛錬をしているに違いない。
 それと比べて、何と醜き我が腹かな。始めに豚ひき肉300gの大体のイメージを感じて頂いた。ひき肉と脂肪では比重が違うが、大よその目安になるであろう。我が腹部周辺には寄せ集めれば800g~1kgの脂肪があるのではないか。このまま放置せず何とかしなければならぬ。
 これでも1年半前に比べれば大分減ったと思う。新聞の下段に健康雑誌の広告が出る。世に出回っている数多くの健康雑誌に『20キロ、10キロ、5キロ』体重が減ったと書いてある。あれはウソであると思っている。特異な例として、確かに有るのかも知れないが、絶食などの特別なことをしなければ、体重は中々減らない。少なめにしろ食べなければ、動けないし、生活も出来ない。
 スマホについている歩数計で毎日の歩数を記録している。アプリがどれだけ信頼性があるのか分からない。付属の機能に、歩くことによる『消費カロリー』と『脂肪燃焼量』と云う機能がある。1月分を試しに集計してみた。1月1ヶ月で消費カロリー3890.3kcal、脂肪燃焼量 554.5gであった。
 歩数が多ければ、消費カロリーや脂肪燃焼量が増えると云うのでもなさそうだ。だらだら歩いてもカロリーや脂肪は燃えないらしい。心掛けて早足の積もりで歩けば消費カロリーも増えるし、脂肪も燃えるらしい。歩数を稼ごうとその場足踏みしても、歩数計は上がらなかった。
 1ヶ月間断食すれば、我が腹の醜くも厚い脂肪は解消される。生きていくのに必須の基礎代謝もあるから、それこそガリガリになってしまうことであろう。そんなことは出来ないから、少なめにしつつも食事を摂って行けば、腹の脂肪の燃焼量も遅々としたものとならざるを得ない。
 脂肪が付く時は知らないうちに付いてしまい、気が付いて落そうとするには大変な労力を使わなければいけない。今日もウォーキングに出掛けるが、継続には並々ならぬ気力が必要だ。誰しも楽したいのです。

第 1097   恵方巻                        2018.02.04(日)

 昨日(2/3)は節分だった。何やら節分は恵方巻を食べる日になってしまったようだ。午後から散歩に出た。あちこちで恵方巻を売っている。コンビニは大体どの店にも幟や入り口に表示を出していた。食品スーパー、パック入りの安い寿司を販売する店、回転寿司店では店外にテーブルを出して、恵方巻を販売していた。
 パック入りの安い寿司を販売する千代田寿司には恵方巻を求めて行列が出来ていた。トンカツ販売店ではトンカツ入り恵方巻さえ出ていた。
 日本人は『乗せ易い民族』『乗り易い民族』に違いない。かつて評論家の大宅壮一氏が『一億総白痴化』と言っていたが、何か流行でもあると、流れに乗り遅れないように直ぐに飛び乗る、飛び移る資質があるに違いないようだ。
 恵方巻は誰が言い出し、販売し始めたのか知らないけれど、登録商標にはしていなかったらしい。単なる『太巻き寿司』であり、南南東を向いてかぶり付く。そこにバリエーションを加えて、具材を変化させたり、豪華にしてみたり、極太の巻き寿司にと、おおよそ海苔巻きとは縁の薄いトンカツまで具材にしてしまう日本人の能力、発想には呆れ返ってしまう。
 これから、言い訳を書かなければならない。2/2の我が家の夕食はカレーライスであった。残りのカレーを昨日の昼食にも食べた。何やら食べ過ぎて、夕方になっても胃がもたれる。夕飯は何か軽い物でもとカミさんに言った。かくして我が家の昨日の夕飯には恵方巻と残り物を食べた。結果的に我が家も『乗り易いタイプ』であった。
 誰かによって、商業ベースで画策された物には、恵方巻の他にも、『バレンタインデーのチョコレート』と『ハロウィーン』もある。アメリカにバレンタインデーがある。全く様相が違う。女性の方からチョコレートを添えて、愛の告白をするなんてことは元祖とは違う。菓子メーカーの人がチョコレートの販売量拡大を狙って作り上げたもので、『乗り易い民族』がまんまと乗っかってしまった。結婚する前に、当時付き合っていたカミさんに貰ったことがあるから、40数年前にはもうこんな習慣は存在していたことになる。
 ハロウィーンも何だか知らないけれど、いい大人が渋谷のスクランブル交差点に大集合して毎年大騒ぎになる。ハロウィーンがどういう行事なのか良く知らない。アメリカでは子供達が家々を廻り、『お菓子をくれないと、いたずらしちゃうぞ』と言って、お菓子やリンゴをもらい歩く行事であることぐらいの事しか知らない。確か仮装もあった筈だ。私の住む川崎市では市役所通りを一時通行止めにしてパレードを行う。自治体までが加担して煽る。
 かつて、男子留学生がパーティーのために仮装して、パーティーが行われる家を間違えて、訪れてしまった。家の主人から『 Freeze!(動くな!)』と言われたのを、『 PLease (どうぞ)』と間違えてしまって、歩みを進めて射殺されてしまった悲しい事件があった。アメリカは銃社会なのだ。仮装した何だか分からない異様なヤツが、『止まれ』と云うのに家に入って来ようとしたら、撃たれても仕方ないかも。Freezeでなく、Stopと言ってくれたら事故は起こらなかったかも知れない。
 イギリスから移民してアメリカを開拓して来たWASPと言われる人たちは、『自分達の身は自分で守る』という意識が強い。結局銃で撃たれてしまった。家の主人は無罪となった。日本のように公的健康保険制度がちっとも根付かない背景も良く理解できる。『後から来た貧しい移民のための制度に税金は払いたくない』 私たちにとって、メチャクチャに見えるトランプ政権もいまだ37%という支持率があることも良く分かる。猫も杓子も、ただ海外留学すれば良いと言うものではない。その国の歴史や風俗習慣を学んだ上で、『自分達の風俗、習慣とは違うのだ』と認識した上で行かないと、これからも事故は起こる可能性がある。
 余談だが、最近はパソコン画面がFreeze(固まって動かなくなってしまう)事がない。随分進歩したものだ。

第 1096   結論の出ない問題                   2018.02.02(金)

 『人間 いかに生きるべきか』『人間はどう生きるべきか』『幸福とは何だ』などの問題は、皆が生きている限り悩み、それぞれ思い悩むが、誰もがなっとくできる結論の出ない問題だ。
 先日、知的障害か精神疾患か分からないけれど、若い頃、優生保護法で強制的に子供が出来ないような手術を受けさせられ、縁談も有ったが子供が出来ないことを理由に破談になってしまった女性に関する訴訟があった。確か、本人が起こした訴訟ではなく、義姉が訴訟を起こしたと記憶している。
 これだけの記事を読めば『何と人権を無視したことがやられていたんだ』と誰しもが思うことであろう。果たして、本人にとって、断種手術を受けずにそのまま縁談が成立して、子供を持ったとして、幸せな生活を送れたかどうかは、誰にも分からない。障害は遺伝的要素が高い。生まれたお子さんが健常でない可能性は高いのだ。
 僕ら夫婦の第2子は知的障害である。僕の知っている限りで、僕の父母、祖父母、親戚、あるいはカミさんの妹、弟、父母、親戚に知的障害の人は見当たらなかったし、そんな話を聞いたこともない。
 もう亡くなってしまったが、私が住む横丁に、じいさん、ばあさんが住んでいた。二人とも普通かどちらかと言えば、理屈っぽいがごく普通の方だった。子供(大人です)は4人居る。第1子と第4子は知的障害で通年の支援施設に入所している。第2子は働いてはいる。仕事に貴賎がないことは分かっている。どちらかと言えば皆が進んでなりたくないような仕事に就いている。結婚はして子供がいたが、離婚した。第3子は一時は働いていたが、通常の業務が出来るような方ではない。今は仕事をしていない。親は健常でも何処かに要素を持っていたのであろう。
 障害の子を持つ関係で、授産所、作業所他、支援施設に行く機会は普通の方より多い。色々な子供達(大抵は大人だが)を見ている。息子の所に来る年賀状を見ても36歳になっても、まだ『ウルトラ隊員』だと思っている子や、小学1年生レベルの判読に苦労するような、ひらがなのばかりの年賀状を呉れる子が居る。もっと悪ければ年賀状など来ない。
 だが、親御さんを見ても一見して『この人ちょっとおかしいかな』と思える方は一人も見なかった。親が健常でも障害を持つ子が生まれる可能性かある。まして本人が障害を持っていたら可能性は更に高い。
 妊婦の血液で胎児の染色体の病気を調べる出生前検査が広まっている。宗教上あるいは倫理的に問題が有るとの考えもある。障害を持つ子の親の負担は重いし、障害を持って生まれて来た子も苦労が多いと思う。
 親の持つ悩みは恐らくただ一つであろう。『自分達が苦労するのはかまわない。だだ、自分達が死んでしまった後、この子はどうなってしまうんだろう?うまくやって行けるだろうか』であろう。世の中で騙されてお金を巻き上げられたり、障害者施設での殺人や傷害事件がある度に心悩ます。
 優生保護法により強制断種手術が行われたことは、人権上許されることではない。だが、手術なしに、知的、または精神障害を持つ方が結婚して、障害を持つ子供を持ったとしたら、これまたご苦労は絶えないはず。苦労しても幸せだと言う人はいる。誰も答えの出せない、結論の出ない問題なのだ。

第 1095   匂い                         2018.01.28(日)

 足腰の機能維持のために、雨が降らなければ散歩を日課としている。何事も事を成すに当たっては、目標を立てねば成らぬ。目標が達成されるか否かは、数値化しないと、目標が達成出来たかどうか判断出来ない。斯うして一日平均5000歩を目標として記録を取っているが、結果はデコボコであり、中々目標達成とはいかない。
 街中を歩いていると実に様々な匂いがする。今は冬だから花の匂いは漂って来ない。どうも、人工的な匂いばかりだ。サウナや銭湯の横を通れば、排水に流した湯の匂いなのだろうが、独特の匂いがする。コインランドリーの前を通っても、コインランドリーの匂いがある。カレー専門店はもちろんカレーの匂い。ちょっと苦手なのはラーメン店の排気口から出て来る、中華麺を茹でる臭い。ラーメンを食べるのは大好きだが、排気口から店外に放出される臭いは好きではない。日本蕎麦屋さんから出る臭いとは違うと思う。
 今、『におい』と云う字を使い分けたことに、お気付きでしょうか。国語辞典で『におい』を調べると『匂い』と『臭い』と云う字が出て来る。好ましい香りには『匂い』を使い、嫌なにおいには『臭い』を使っているようだ。すなわち、花の香りを表現する場合には『匂い』を用いて、下水の臭い、悪臭など都合によって使い分けているようです。こういう例は他にもあります。微生物の働きで作られるアルコール、味噌、醤油、なっ豆など、人に取って有益なものは『醗酵』と云い、ふえきな物は『腐敗』と云って、どちらも微生物の種類は違いますが、微生物の作用なのに使い分けている。ただ、自然界では腐敗はなくてはならないものなのです。
 さて、匂いに戻って、先ほど私がいつもの散歩コースで漂ってくる匂いの例を書きました。私達の周りにはそれこそ匂いだらけです。
 僕だけかも知れませんが、最近あまり『匂い』を嗅ぐことの無くなったもの
*うなぎ屋さんがうなぎを焼く匂い。うなぎの価格がぐんと上がったものだから、もはや庶民の食べ物ではなくなってしまったからかな。
*お茶屋さんの店先で焙煎しているほうじ茶の匂い。
*コーヒー販売店の店先から漂うコーヒー焙煎の匂い。
 最近『臭い』を嗅ぐことの無くなったもの
*ボットン便所でバキュームカーが収集して行った後の臭い。
*子供の頃、農家の方が畑に人糞の肥やしを施した臭い。

 その他でも私たちの周りには様々な匂い・臭いがあります。
*本屋さんに行くと、インクなのか紙の匂いだか分かりませんが独特の匂いがしますよね。
*ケーキ屋さんに行くと甘ったるい匂いがする。
*隣近所で夕飯の支度をしているのか、焼き魚やカレーの匂いがする。『ああ、この家では夕飯のおかずは焼き魚だな』と分かってしまう。
*雨の降り始めのホコリ臭いにおい。
*まだ子供の頃、夜外に出ると、姉がよく『夜の匂いがする』と云っていた。僕にはどれを夜の匂いと云っていたのか分からないけれど、確かに夜になると何処となく匂いがあるのは分かる。
*父は自家で職人をしていた。来客があると決まって『ああ、木のいい匂いがする』と云っていた。鼻を木に近づければ確かに匂いはする。だが、普段から生活しているから、鼻が慣れてしまって特別感じることはなかった。
*前夜、餃子を食べたニンニクの臭いや、二日酔いの酒臭い臭いも歓迎しない。私自身、腋臭だ。制汗剤のお陰で他の方にご迷惑掛ける度合いも幾分緩和したかも知れない。自分自身では老年になって、若い頃より臭わなくなったような気がする。自分では分からないが加齢臭でも迷惑掛けているかも知れない。

 今までで、最高に強烈だった臭いは、会社内を整理整頓して出た廃棄物を、市の廃棄物処理センターにトラックで運んで行った時だ。深さ15mくらいのコンクリート製の穴に投棄するよう指示された。その穴から発生する強烈な臭いは耐えられないものだった。わずか10分くらいの作業だったが、作業ふくに染み付いた臭いは3日ほど消えなかった。仕事とは言え、廃棄物処理センターで働く方は大変なご苦労だ。犬は人間の嗅覚の1000ばいもあるという。犬を現場に連れて行ったら憤死したかも知れない。
 斯様に私たちは匂い(臭い)に囲まれて生活している。でも段々人間の嗅覚は退化していくかも知れない。自然界では、嗅覚は生死を左右するかも知れぬ能力なのである。そんな能力は人間に必要ないとなれば、段々と衰えていくかも知れない。

 

第 1094   鎖国                         2018.01.27(土)

 TPPからの離脱を宣言していた米 トランプ大統領が、場合によってはTPPに復活も有り得るようなことを言い出した。トランプ氏は反グローバリストだ。世界中がグローバル化するの事が『是』という風潮があったが、どうもそうでもないような気がする。交易が盛んになるのは良いと思うが、移民が入ってくるのは歓迎しない。盛んに移民を受入れてきたドイツも風向きが変わって来ている。
 江戸時代、ある一部地域を除いて、日本は鎖国をして海外の国々と交流して来なかった。鎖国は反グローバル化の最たるものだ。現在、移民についても、世界で最高レベルの防御をしている。日本は少子化となり、労働力がふそくし海外から労働力を求めるべきだと云う方がいる。私は移民に対して、現在日本が行っている最高レベルの防御を継続すべきと思っています。
 私たちは歴史を学ばなければいけない。先例を見習わなければいけない。EUに移民が押し寄せた。世の中は都合の良い時ばかりではない。労働力がふそくし、海外からの労働力を求めて、移民の制限を緩めれば間違いなく移民が入って来る。
 日本では非正規雇用の労働者が4割を占めるといって問題に成っている。都合の良い時には労働力として使い、都合の悪い時には要らないよと云う仕組だ。日本に移民の人が増えて、景気が悪くなった時、故国に帰って下さいよとはいかない。仕事を失った移民が増えたらどうなるか。EU内で仕事を失った若者たちはISに流れ、ベルギーやフランスの各地でテロを起こしたのは、極々近年のことである。治安も悪くなるだろう。
 日本は宗教に関してとてもいい加減だ。初詣には神社も行けば、寺院にも行く。我が家は一応日蓮宗だが、浄土真宗、曹洞宗他ののお寺にも関係なくお参りに行く。誰も咎める人はいない。葬式仏教と云って、葬式の時だけ仏教が必要になる。もちろん、宗教に関係なく葬儀は出来る。
 もし、イスラム教徒が入って来たならどうなる。信仰の度合いが全く違う。彼らは信仰を捨てない。仕事時間中にも礼拝の時間を設けなければならない。1日5回の礼拝を行ない、豚肉を決して食べない、断食しなければいけない時期があるなど風俗習慣が全く異なる。宗教により避妊をしないから、移民2世はすぐに産まれて増える。
 移民の制限を緩めれば、イスラム教徒だけではない。間違いなく大挙して来るのは中国人である。自分は民族主義者の積もりではないのだが、他国の人が大挙して移民として日本に入って来るのは、どうも歓迎する気持ちになれない。

                        

第 1093   薄れる記憶                      2018.01.22(月)

 作家 林 房雄作の『青年』という小説を読んでいる。勤王、佐幕、攘夷と云う言葉が出て来る。誠に恥ずかしい限りなのだが、大よそ私は幕末期の歴史に弱い。
 NHK大河ドラマでも『八重の桜』、そして今放送中の『西郷どん』も時代背景は幕末期の話である。このあたりの時 代背景が分かっていないと、本当は理解できないのだ。
 前に最後の将軍 徳川慶喜の本も読んだことはある。その時もいい加減に辞書を引いて理解した積もりでいた。いい加減に調べていたから、年月が経って忘れてしまって、また辞書を引き直した。
 もう、頭が固くなってしまっている。何かを覚えるには、色々関連付けながら覚えないと記憶に残らない。『佐幕』の『佐』と云う字は『助ける』と云う意味があると辞書に書いてあった。勤王に対して、幕末時代、幕府の政策に賛成して同調したので『佐幕』なのである。新撰組は幕府側だから、佐幕なのであろう。子供の頃、風呂敷を被って鞍馬天狗の真似をしてチャンバラごっこをした。鞍馬天狗は新撰組と戦っていたから、勤王側だとおもう。
 『攘夷』の『攘』と云う字は『排除する』と云う意味だと知った。『夷人』つまり小説では、イギリス人、フランス人、オランダ人、アメリカ人を排除するということだった。自国製品の消費を拡大するための、市場獲得を求めて開港を迫る夷人を排除すると云う事である。
 これまですれば、私の錆付いた頭でも多分記憶に残ることであろう。今まで何となく避けてきた幕末期を舞台としてきた小説も読めると思う。
 『排除する』という言葉で直ぐに思い出すのは、小池百合子東京都知事である。踏み絵とか排除で一時大変話題となった小池さんも、あまりニュースに出て来なくなってしまった。衆院選前の民進党からの移行に際して、希望の党の意向に同調出来ない民進党議員を排除したのも、『攘反希』であったのではと茶化すのは僕の悪い癖だ。
 それにしても、小池さんの発言にやたらと英語が出て来るのには閉口する。今度は遥か昔に習った英単語の復習をしなくちゃならぬ。負け惜しみで云うけど、みんなが分かる平易な表現で発言をするのが、本当にものの分かった政治家なのだ。小池さんは教養のある人だとは思いますが、都民や国民のことを『忖度』して発言して貰いたいな。

第 1092   起業家                2018.01.19(金)

 もう50年以上も前に、コメディアンのうえ木 等さんの『ドント節』と言う歌があった。歌詞の始めの方は今でも覚えている。『♪♪サラリーマンは気楽な稼業ときたもんだ。二日酔いでも寝ぼけていても、タイムレコーダ ガチャンと押せば どうにか格好がつくもんさ・・・・♪』とても流行した歌です。作詞家は青島幸男さんだから多分、サラリーマンを経験したことがない人が作り、歌った曲なのだろう。
 サラリーマンを40年以上経験した僕には、サラリーマンはとても気楽な稼業とは思えない。まして現代の日本は労働者の4割が非正規労働と言うからなお更だ。皆、生活は苦しい。
 誰しもが一時は『社長に成りたい、起業してみたい』と思うものです。裕福な生活をしたい、高級車に乗りたい、広い庭付きの大きな家に住みたいなどと妄想をするものです。自分の資質を考え、事業がうまく行かなかった時のこと、良いアイディア商品が思い浮かばない、資金がない、度胸がないなどの理由で、大抵の人は諦めてサラリーマンを続けるのではないのでしょうか。
 起業してうまく行かなかった時、従業員に給料が払えない、銀行から返済を求められて、今住んでいる家も取られたり、債権者から逃げ回ることなど考えると、とても丸裸になってしまう勇気はありません。
 人によっては、『人の下で働けない』なんて、他人の指示のもとに働くことが出来ない性分の方がいらっしゃる。こういう方が起業するのかも知れません。でも、中々成功する方は居ないのではないかな。
 最近でも、成人式の晴れ着で話題となった『はれのひ』の篠崎洋一郎社長、旅行斡旋業者の『てるみくらぶ』の山田千賀子社長も、そんな性格の方だったのではと勝手に想像しています。始めから詐欺の積もりだったのでしょうか。あるいは真面目に、純粋に事業を始めようと思ったのかは分かりません。いずれでも資金繰りが苦しくなるまでは、二人とも裕福な生活をしたようです。ただ、二人ともあまりに短絡的に果実を求め過ぎたような気がします。
 今、世界でも有めいな企業でも、始めはバラックの、掘っ立て小屋のような所から始めています。
 パナソニックの 松下 幸之助氏
 ホンダの 本田 宗一郎氏
 日清食品の 安藤 百福氏
 SONYの 井深 大 氏、盛田 昭夫 氏
 カシオ計算機 の 樫尾四兄弟
 など、思い付くままに書きましたが、創業当時はとても小さな規模から始めている。もちろん、『幸運』にも恵まれたこともあるでしょう。弛まぬ努力の結果、少しずつ、少しずつ会社を大きくして来たに違いありません。『事業に成功するコツは二つあります。コツ、コツです』という言葉を聞いた事があります。
 『はれのひ』も『てるみくらぶ』もコツ、コツをしないで、始めから事業を広げ過ぎてしまったために、雲隠れして逃げ回ったり、逮捕されるようになってしまった。自分だけ逃げ回るのは自業自得です。結果として、人に大きな迷惑をかけてしまった。
 始めから他人を騙したり、泣かせたりする気が全くなくても、性善説で考えたとしても、起業家にとって事業成功へのショートカットは禁物のようだ。
Tell me the way to change this situation. とてるみくらぶの山田社長が云っても、もはや遅い。

 

第 1091   回顧                 2018.01.17(水)

 朝、目覚めるちょっと前に、夢を見るようだ。これは表現が悪い。人は誰でも寝ている間に、何度も夢を見るらしい。それは寝ている間に忘れてしまい、目覚める間際に見た夢は覚えていることがある。もう仕事を離れて大分経つのに、まだ現役で働いていた頃に関係する事柄が多い。
 起きている時でも、ボーとしている時、いつの間にか回顧的になっている自分に気が付く。人は過去のことを思い出すらしい。
 『温故知新』と言って、歴史を学んでこれからの指針とすることは大切である。
 政権を担う方の失政や、支持率低下と成った時、民衆のふまんの矛先をかわす為に、直ぐに『歴史問題』を取り上げて民衆を煽る国がある。『抗日』を『目先を逸らすための手段』として繰り返し言われるのは敵わない。一体、何度謝ったら許して貰えるのか。今、80歳の人ですら、その歴史問題が起こった頃は、まだ生まれていなかったり、ほんの子供だ。それより若い人にとってはまるで実感が湧かない。
 年齢を重ねて、段々体が動かなくなったり、明日への希望を奪われると、人は昔のことを振り返って愚痴を言ってしまう。過去に立ち返る事が出来ないのは分かっている。本人は愚痴の積もりは少しもないのだが、思い出というものは、多かれ少なかれ愚痴の要素を帯びるもののようだ。
 終活で本の整理をしていた時に出て来た『ニュートン』と言う雑誌を繰り返し読んでいる。内容は宇宙の創生、恒星、惑星、銀河の成り立ちなどだ。光速は毎秒30万kmである。光は1秒間に地球を7回り半する早さだ。月に向かって光を放つと1秒ちょっとで着く。日向ぼっこをしていて、今浴びている光は 8.3分前に太陽を出発したものだ。
 なまえだけ知っていたブラックホールも少しだけ輪郭が分かって来た。太陽系から最も近い恒星まで何光年なんて知ると、昔の出来事にくよくよしているのがバカらしくなる。いや、バカらしくするために読み返しているのかも知れない。

第 1090   難しいな               2018.01.12(金)

 本、雑誌、新聞などの文章を読み、内容を理解するには頭の中にその情景を描く想像力が必要だ。本などを読んでも、集中力に欠けると確かに目は字面を追っては居るものの、内容が全く理解出来ていないという事がよくある。
 昨日、新聞に『送還免除撤廃 一時差し止め』と言う見出しがあった。何とも紛らわしいことだ。記事の冒頭だけ書くと、『米カリフォルニア州の連邦地方裁判所は、幼少時に米国にふほう入国した若者に在留資格を与え、強制送還を免除するする措置について、トランプ米政権が決定した撤廃方針を一時的に差し止める判断を示した。』
 分解して考えれば、
 『送還』⇒祖国に帰らなければいけない。
 『送還免除』⇒祖国に帰らなくてもよい。
 『送還免除撤廃』⇒祖国に帰らなければいけない。
 『送還免除撤廃 一時差し止め』⇒祖国に帰らなくてもよい。
 ということになる。何ともややこしいことだ。でも、私たちはトランプ政権発足当時からの、ふほう入国者に対する『送還免除撤廃』と言って来た予備知識を持っている。だから、それほど苦もなく、裁判所が出した『送還免除撤廃 一時差し止め』と言う判決を理解出来る。前から政権が言って来た内容に対する予備知識がない場合、中々理解できないだろう。

 日本でもよく紛らわしい表現がある。『原発再稼動に対し、★★地裁が一時差し止めとした仮処分を、無効とする☆☆高裁の判決が出た』という表現はよく聞いたり、見たりする。
 『原発再稼動』⇒原発稼動できる。
 『★★地裁が一時差し止めとした仮処分』⇒原発稼動できない。
 『仮処分を、無効とする☆☆高裁の判決』⇒原発稼動できる。
 面倒臭いね。

 『富士山は噴火しないと言えないこともない。』
 『富士山は噴火しない』⇒噴火しない。
 『富士山は噴火しないと言えない』⇒噴火する。
 『富士山は噴火しないと言えないこともない。』⇒噴火しない。
 初めに頭の中で想像しないと、理解できないと言った。本当に紛らわしい。富士山は活火山であることは皆知っている。『富士山は噴火しないと言えないこともない』というのは、誰でもこの文章は誤りだと分かる。一言、文章の頭に『この1ヶ月間の間では』と期間を入れれば、この文章の内容も必ずしも誤りだとは言えなくなる。
 原発や富士山など身近でよく使われる事柄ならば、ある程度、経験と知識で対応できる。小説などを読む時には、場面を想像しながら読み進む。『否定の否定』の表現など使われると、僕の既に固まってしまった頭では、中々対応出来なくなってしまう。
 日本語は否定の言葉が、文章の後の方に出て来ることが多い。最後にどんでん返しされてしまう感じがする。8年間ほど習ったけれど、ちっともものにならなかった英語では、notやneverが前の方に出て来るから、直ぐに否定だと分かり易い。
 『なるべく、分かり易く表現してくれよ』と、つい思ってしまう機会が近頃とみに多くなった。頭が固くなっている証拠なのかな。

 

第 1089   呵責                 2018.01.11(木)

 カヌー競技で五輪を目指す鈴木選手が、ライバルの小松選手の飲料に禁止薬物を混入させたという報道があった。
 誰もが、ライバル選手の飲み物に禁止薬物を混入させるのは、悪いこと、潔くないこと、卑劣なことと分かっている。
 誰もが、心の中に『たら・れば』の気持ちを持っている。『小松選手が居なければ・・・』『小松選手が脱落したら・・・』
 誰の心の中にも住んでいる悪魔が背中を押してしまった。禁止薬物を用意しなければいけないことを考えたら、今回は『とっさに魔が差した』とは言えず、計画的犯行だ。
 悪いことをしたら、その罪は償わなければならない。
 犯行をした鈴木選手は、事件が露見したことで、選手生命が絶たれることであろう。もし、露見せずにいたなら、彼は一生薬物混入のことを、背負って生きなければならない。やってしまったと言う事実は決して消すことは出来ない。今ではむしろ、露見して良かったと思っているのではないか。
 露見しようが、しまいが、心の中に一生罪悪感と呵責を持って生き続けることになる。露見しない方がずっと彼にとっては重荷になることだろう。
 彼がどのような仕事をしているのか、知らない。職場でも居辛くなるのではないか。
 『ねえ、ちよっと、ちょっと、あの人、見てよ。カヌーの鈴木選手よ』
 なんて、陰口を言われることだろう。恐らく針のむしろを経験すると思う。
 禁止薬物を用意したのだから、実行するまで時間があった筈だ。もう遅いが、考える余地はあったと思う。
 カヌーに限らず、人は誰もがいけないこと、悪いことをしてしまう可能性がある。『人間なんて弱いものだ』と言う事を『前提』に、生きなければいけないとつくづく感じさせる事件だった。

 

第 1088   授業見学                 2018.01.10(水)

 昨日(1/9)に区内の小学校に授業の見学に行った。今の小学校はふ審者が入って来るのを防止するため、予め入場申請が要るらしい。
 生ゴミを減らすことに興味を持たれた先生が、『環境を考え行動する会』に相談して、『ダンボールコンポスト』を授業に取り組んで、1ヶ月ほど前から実施して来たようだ。環境の会が掲示物やプロジェクターで説明すると言うので、便乗して小学校の授業見学させて貰った。
 私も以前、ダンボールコンポストによる生ゴミ削減を実践していた。ダンボール箱に基材を入れておき、そこに生ゴミを入れてかき混ぜると、好気性バクテリアの作用で生ゴミは分解して無くなってしまう。ただ、永くやっているとダンボールが水分を吸って、グズグズになってしまう。
 我が家では、屋外で雨の当たらない条件の、ダンボールを置くスペースが無い。直ぐにダンボールがダメになってしまう。そこでプラ容器を用いても出来る、『ミミズコンポスト』に転向してしまった。どちらにしても昨年5月まで、我が家は生ゴミを堆肥化して、生ゴミを市の清掃局に殆ど出していなかった。作った堆肥は家庭菜園の土作りに活用した。
 10:45からの授業に備え、8時半に入校し準備をした。今の小学校は中々設備が整っている。冷暖房はあるし、車椅子の児童が居るからエレベーターもある。授業に使う視聴覚設備も整っている。私が通った60年前の小学校の設備と比較すること自体ナンセンスである。
 ダンボールコンポストの経験があり、特に戸惑うことも無く、会の方の手伝いが出来たと思う。準備万端整った所で授業が始まった。
 いつの時代もそうだろうが、先生や講師の話を聞かず、そっぽを向いている児童が居る。自分だけそっぽを向いているだけならまだ良いが、話を聞いている児童にちょっかいを出す。私の頃だったら叩かれたり、立たされたり、廊下に立たされた。私の担任の先生は当時でもちょっと酷かった。叩くのは日常茶飯事で、時には黒板消しが飛んできた。
 今そんな、叩いたり、物が飛んでくるような事をしたら、父兄からクレームが出て、直ぐに問題になってしまうのだろう。そっぽを向き、ちょっかいを出している児童がいても、先生は何事もないように授業を進める。見学している僕が注意をしたり、叩きたくなる。
 そっぽを向き、友達にちょっかい出す、授業に集中出来ない児童は、放っておかれてしまうのだろう。所定の時間が過ぎれば、所定の教育が終了したとして卒業してしまうのだ。誰もが同じような教育を受ける必要が有るとは、僕は思っていない。日常の会話が出来て、買い物や働いて、お金の遣り取りが出来れば何とか生きていける。
 体罰はいけないと思うが、実際にはこんな小さな事から格差の『素』が始まってくるのかなと、ちょっと悲しい思いがした。叱ってはいけないと言うのではなく、社会で生きるための最低の規律は、児童の頃から身に付けさせた方が良いと思うのだが。

第 1087   母                    2018.01.05(金)

 『旅に病むで夢は枯野をかけめぐる』
 言うまでもなく、松尾芭蕉の辞世の句と言われている句である。芭蕉は晩年、諸国を旅して、その紀行と俳諧を『奥の細道』に残した。私も二度ほど行った山形県 立石寺、通称『山寺』で詠んだのが、『閑さや岩にしみ入る蝉の声』である。
 先ほど『芭蕉の晩年』と書いた。芭蕉を描いた図を見ると、現代の感覚で言えば、70歳以上のお爺さんのように見える。山寺で『閑さや・・・・・』を詠んだ時、彼はまだ45歳なのである。今では壮年、働き盛りの頃なのだ。
 芭蕉は多くの門人に囲まれて布団の上で、元禄七年(1694)50歳で亡くなった。門人達はそれぞれの思いを胸に秘め、もう回復する見込みのない師を囲み、芭蕉の死への旅立ちを見送った。
 まだ良く理解できない幼児の頃を除いて、大人に成ってから8人の近親者を失った。知らせがあって直ぐに駆けつけたが、その内7人はもう既に亡くなった後の対面であった。
父母が1ヶ月も経たない内に亡くなって、もう5年になる。母が亡くなる時を思い出した。
 朝早く病院から電話があり、すぐに歩いて10分ほどの病院に駆けつけた。母はずっと目を閉じたままだった。ベッド脇の緑色のモニターには、母の脈の波形が映し出されていた。母は依然目を閉じたままである。1時間ほどずっと母の顔とモニターを見比べていた。
 ベッドの横で私の小さい頃からの事を思い浮かべていた。母はとても気の強い人だった。自分の思い通りにいかないと、何度でも同じ事を主張する人だった。当然、カカア天下である。祖父とは何度ももめていた。着物を着替えて実家に帰ると言っていた場面も思い出す。子供の頃のことで経緯は分からない。数多く祖父の愚痴、悪口や繰言を母から聞かされた。その頃には、祖父と母の双方の言い分を聞かなければ、判断できないと思うように成っていた。奇しくも、祖父も母も多くの兄弟の末っ子だったことも関係するかも知れない。
 就職して家を出る22歳まで一緒に暮らした。母にとって、私は家の手伝いも良くするし、反抗もしない自慢の息子だった筈だ。私はふまんも多々あったが、言い出せなかった。
 社会に出れば、今まで見も知らなかった人たちと接しなければならない。上司、先輩との関係、下の人ともうまく纏めて仕事をせねば成らぬ。結婚して子供も産まれる。お得意さんからも酷いことを言われ、お金を得る辛さや我慢することを知らされる。他人の中で飯を食い、揉まれれば僕も鍛えられた。
 父母が年老いて、同居するようになった。母は同居するようになっても、思いを通そうとした。自分の中に描いていた『自慢の息子の像』と、現実の息子との格差が大きく離れているのをまざまざと知った筈だ。
 父母が我が家に引っ越して来る時に、姉が手伝いに来た。私に『すまないねぇ。父母と同居することを考えただけで鳥肌が立ってしまう』と耳打ちしてきた。
 ベッドの脇に座っていて、言い古された言葉だが、走馬灯のように子供の頃からのことが、頭の中を巡った。
 母とモニターの様子を見ていたら、次第に心電図の波形の高さが低くなり、波の間隔が広がり始めて、母は静かに亡くなって行った。医師にはどうして患者の生命が、もはやあと幾ばくも無いことを知り、家族に連絡できるのだろうか。
 母が生きた時代には戦争もあって、大変な苦労もしたことだろう。だが、自分の我を通そうとし、我がままを言えたのはある程度、幸せだったと思いたい。
 昨夜、芥川龍之介作の『枯野抄』を読んだ。死を迎える芭蕉を囲む門人達の心の中を推し量って、つい母のことを思い出してしまった。

第 1086   いじめ                  2018.01.03(水)

 自分の子供が学校でいじめに遭ったり、その結果、登校しないようになったとしたら、親御さんはきっと胸を痛めることでしょう。また、自分の子供がいじめをする側になってしまうのも決して望まぬところであります。実際に社会に出て、大人の世界では、子供のいじめどころかもっと酷い。所得格差は益々拡大し、お金を払う側と、頂く側との間ではずっと厳しいものがある。
 昨日、何となく聞いていたラジオで、『福島のお米』に関する放送があった。福島第一原発の事故以来、福島のお米は、人の食用、家畜の飼料用に関わらず、『全量全袋検査』をしているそうです。
 検査場にトラックで運ばれ、パレットに乗せられたお米の袋を検査装置に通ずるコンベアに人手で乗せ、検査を終えたものをコンベアから下ろして、またパレットに積み上げるのも人手でやるそうです。お米は重い。年間60億円費用が掛かっているという。
 全量全袋検査でおよそ5年前、国の基準値を越えるの2袋が検出された。それ以後の全量全袋検査で基準値を超えたものは一つもない。こんなにお金と労力を掛けているのに、消費者から嫌われ、これだけの負担を強いられていながら、他の地域のお米より価格が低くなってしまう。
 ラジオのリスナーからの、投稿では
 『福島産のお米と、他の地域産のお米が2つ並んでいたら、迷わず他の地域のお米を選ぶ』
 『子供には福島産の農産物を、出来れば食べさせたくない』
 とのことだった。
 これは積極的でなくとも、明らかに『いじめ』なのではないか。現在国内に流通している農産物、海産物に国の放射線量の基準を超えたような物はない。消極的でも福島産を忌み嫌う人が『被災地の復興』とか『絆』なんて、綺麗事を以後言って貰いたくない。復興を願うなら、積極的に福島産の農産物、海産物を買うことが、一番の応援になるのではないか。
 ちなみに、我が家ではカミさんの義弟の田舎から頂戴した福島産のお米を、ありがたく頂戴して食している。
 『放射能』と聞いただけで、アレルギー反応を起こしているのではないか。良く晴れた日に干した布団で寝るのは、至福の喜びである。自然の恵みのこの太陽の暖かい日差しは、核融合反応でできたものだ。私たちは常に自然界の放射線を浴びて生きている。だが、放射線もたくさん被爆すれば危険である。線量を考慮せず、ただ『放射線』と聞くだけで忌避反応を起こすのは、おかしいと言うものだ。
 人の心には相反する二つの思いがある。津波や原発事故に遭われた方々の放送を見て、日本人なら被災者のふこうに同情しない人はいないだろう。ところが、被災者の方々がそのふこうを、大変なご苦労して、何とかふこうを切り抜ける切っ掛けをつかみ始めると、何となく物足りないような心情になる。少し大げさに言えば、もう一度その人たちを同じふこうにおとしめたいとすら思うのではないか。そう思えて仕方がない。
 誰もいじめのない、穏やかなで平穏な生活を望む。最近では野菜などの農産物に産地が記載されていることが多い。食品スーパーで手に取り上げた野菜が福島産と分かって、そっと元の位置に戻すような、『何気ない所作』が差別となっていることに気付かなければいけない。
 福島産の農産物、海産物を買おう。それが地域の振興を促し、復興が進む。

 

第 1085   明けましておめでとう           2018.01.02(火)

 明けましておめでとうございます。本年もなにとぞよろしくお願い致します。
 元旦、2日と雲ひとつないような好天に恵まれました。これでは日本海側はさぞかし雪が多いのではと思います。まあ、静かな良い正月です。

 大晦日にパソコンを購入した。家電量販店のパソコン売り場に行ったら、ノートパソコンばかりで、今時は、あまりディスクトップは少ないのかなぁ。『歳末セール』に買うのが良いのか、『お年玉セール』に買うのが安いのか分からない。まあ、買ってしまったのだから仕方がない。
 富士通のノートパソコンを買った。陳列されている製品を見たって、どれが良いのか分からない。メーカーは何処が良いかなと思ったけれど、レノボ、デル、HP、ONKYO、東芝、NECなど様々。今、どのメーカーが一番信頼がおけるかなんてないな。『富士通だから良い』『NECだから安心だ』なんて事はちっともない。採算が悪ければ何処でも、いつパソコン事業から撤退してしまうか分からない。平成は本当に先行きふ透明な時代だ。
 パソコン買って、電源入れればすぐ使えると思ったら、中々面倒だ。メーカーに登録、マイクロソフトのアカウント設定、Officeの設定、ATOK、セキュリティの設定と色々なことをしなければならぬ。中々出来なかった。
 画面の指示に従って、入力したのに先に進まぬ。『次に』という部分が画面に一度に表示できないで、下の方にあることを気付くまで大分時間を要してしまった。ほんのちょっとした所で躓いてしまう。つくづく年取ったなと思う。出張セットアップは¥17,000も掛かる。お歳を召されてからパソコンでもと思う方は大変だろうな。
 今この文を入力しているパソコンは、中古品をネットで¥19000ほどで、買ったものだ。新品を買うと、こう煩わしいことをしなければいけないのか。まあ、いつも使っている部分は使えるようになったから良しとすることにします。
 本来ならばここで、今年の抱負など載せなければいけないところです。昨年来、『勇気を出そう』『自然のままに正直に』など散々書いて来ました。それにて代替する事にして、初心表明はナシにします。
 どうぞ、よろしくお願いします。