僕の家には狭いながらも自分の書斎があります。広いスペ一スではありません。たった3畳の大きさ
長年、書斎が欲しいと思って来て、家を建て直す際にやっと出来た一人きりになれる唯一の空間。
他の人が何と言おうと断じてここは僕の書斎なのだ。(実情は、パソコン部屋!!??)
日記とは別にもう少し長いスパンで、普段思っていることを書こうと思って居ります。
このHPのメインになるようにしようと思っています。
以前勤めて居た会社の同僚から、2人の方が今年亡くなっていたと云う連絡があった。二人とも独身者だったから、どんな生活をしていたのか分からない。一人は83歳だった。もう一人は私と同じ年齢で、私と二人で飲みに行ったこともあり、ちょっとショックであった。でもね、二人とももう十分に生きた年齢であることには違いない。これから先もずっと生き続けて、周囲の人に迷惑を掛けるのも困る。何事も潮時と云うのが肝心である。
私も今迄たくさん働いて来た。今更、自分の生活を変えようと云う望みもない。一日、一日がたんたんと流れ過ぎて行くことに悔いも焦りも感じない。
それでも、夕方は苦手で、暮れなずむと云うのか、夕焼けも段々と暗い部分が増してくると、何とも言い難いしんみりとした空しさを覚えてしまう。多分僕もこのまま終わっていくのであろう、自分の生涯に対する焦燥感はないと言えばウソになる。世の中の時の流れとは『無関係に』、自分と言うものは沈滞し、老いていくのだ。
お金は日常の生活に必要なだけと、少しだけの予備があれば良い。要るだけの金が無くて苦労している人も居れば、必要以上の金を持っていて使い道に困っている人も居て、様々である。僕なんか年金以外に収入の道がないから気楽なものである。
今ここで何とか暮らしているのだから、何も余計な苦労を作らなくても、地道に暮らしていく積もりで持ち場をガッチリ固めておけば良いと思う。
なまじちょっとばかり余分なお金があると、このまま行きて行くのは物足りなくて、少しでも良い生活をと手を広げようとする方も居る。それはその人の人生観の問題だから、何ともいえない。
よく耳にするのが、なけなしの資金なのに詐欺にあい、身包み取られてしまって途方にくれている人が居る。その人だって儲けて、人よりいい生活をしようと言う目論見があって、投資に失敗してのだから仕方ないわな。地道に行くか、生活を賭けたのだから、本当に人生観の問題だな。
表紙を一箇所だけ変更しました。HPを開設して、丸24年になりました。開設の当時は『 オジサン 』のぼやきのテキスト形式のHPでした。今では正真正銘の『 オジイサン 』のHPとなりました。10月は大好きだったタバコを止めた月でもあります。バカは死ななきゃ直らないと言いますが、丸50年吸って肺気腫と言う病気になりました。タバコを止めてから丸4年経ちました。最近、道路に落ちている吸殻が明らかに減りました。タバコを止めた人が多いのですね。
HPを開設したとき、家を建て直すために、アパ一トで仮住まいしていました。我が家も来年の3月で築24年になるのだなあ。今日は『 心のゆとり 』です。年金しか収入がないので、『 財布のゆとり 』ではありません。
自宅の最寄り駅で電車を降り、下車したほとんどの人がホ一ムに居なくなってから、改札口へと向かう階段を下った。何となく気分がいい。あくせく歩いて行った人を見ながら、余裕を感じる。本当は年寄りだから足元がおぼつかないので、ゆっくりなのであります。
みんなと一緒に一斉に改札口へ向かう階段を下りると、ぶつからないように前後左右の人に十分気を使わなければならない。実情は若い人のように早くは下りられないのである。人の流れの中で、自分だけのそのそ歩くわけにもいかない。大抵は階段の脇に寄って、いつでも手すりをしっかり掴めるよう、階段を踏み外さないよう注意しながら、足元を見つつ、一歩一歩確実に歩みを進めることに専念しなければいけない。
それでも、60代前半の頃はまだ足が動いて、人の流れの中に居ると、意識しないでも自然と競争心と言うのが生まれ、自分の斜め前に出来た空間に体を潜り込ませて、改札口に向かって少しでも早く進もうと言う気になっていたのだから、ふ思議なものだ。その頃はまだ勤めていて、帰りだから時間を気にすることもなかったはずで、急ぐ必要もない。どうしたものなのであろうか。
車の運転も同じで、流れと言うものがある。周囲の車の流れに合わせて運転を心掛けないといけない。ブレーキを多用したり、安全運転とばかりに、自分だけ周りの車より遅く走ると、渋滞の原因になってしまう。車の場合には、公共事業の乱発で出来たほとんど車の走っていない道路の走行を除けば、心に余裕を持ってゆったり走るのは無理なのかな。
東京と神奈川の境に小仏トンネルという長いトンネルがある。交通ニュ一スで毎日触れられる交通渋滞の個所であります。もちろん車の数が多いのには違いありません。長いトンネルの中は少しだけ登坂になっている。アクセルの踏み方を一定にしておくと少しずつスピ一ドが落ちてしまう。皆少しずつ落ちてしまうと、累積で列の後方の車はブレ一キを踏まなければ成らなくなってしまう。このブレ一キの累積が何十kmの渋滞になってしまう原因なのである。若干の登坂に合わせて、皆さんがアクセルを少し踏み増さなければならないのである。
大体、日本には車が多過ぎるのじゃないかい。週末しか乗らない自家用車は本当に必要なのでしょうか。それでも最近は若い人が運転免許を取得しなくなっていると聞きますが、年齢に達すれば、自動車教習所に通い免許を取るのは無制限だし、自動車の生産販売にも制限がない。これでは首都高始め、高速道路および一般道が渋滞するのは当たり前じゃないか。
自分のところは自家用車を所有していない。駅までそんなに遠くはないし、商店街も徒歩で行ける範囲にある。家を建て替える時も建築屋さんに駐車場スペ一スはふ要だと伝えて設計してもらった。
時には
『 こんな時、車があったら良かったのにな 』
と思うことは確かにあります。それも年に数度のこと。最近の若者は車離れしてきたと言います。今時、自家用車を持つことがステ一タスでも何でもなくなりました。公共交通機関が少なく、一家に複数台の車が必要な地方を除けば、都会では本当は、自家用車も減らせるのではないでしょうか。
心の余裕は小さなところにも必要なのだとつくづく思います。
毎週日曜午後8時からのNHK大河ドラマ『 光る君へ 』を楽しみにして見ている。おさむ爺はニュ一スと、大河ドラマの前に放送の『 ダ一ウィンが来た 』と大河ドラマくらいしかテレビを見ないのである。
ドラマ中に藤式部(吉高由里子さん)が筆を持ち文字を書く様子や、書き上がった1枚を眺める場面がある。(当時は紫式部でなく、藤式部と呼ばれていた) 何万枚も書いたことを思うと、さぞかし大変だったであろうと想像します。印刷技術のなかった当時、書かれたものを書き写す写本も、根気のいる作業だったに違いありません。一字一句間違いのないように書き写さなければなりませんが、草書体では書き方に作者の個性も現れることでしょう。当然写し間違いも有ったに違いありません。
書かれた文字を見ると、『 縦書き 』で書かれています。筆先を抜いて、次の文字の書き始めの所に繋いでいる。ジイにはああ言った書き方はきっと出来ません。ジイは小学生以来、筆を持ったことがないからです。筆ペンなら結婚披露宴やお通夜の時の出席者めい簿に書くくらいで、およそ、草書体であろう文字の繋ぎなど書ける筈も有りません。
本来、日本語の文字は『 縦書き 』なのでありましょう。でも、私たちは遥かに多くの『 横書き 』を使っているのではないのでしょうか。国語の教科書は縦書きです。普通の便せんも縦に線が入っている。ハガキも縦長になっているから、『 縦書き 』が多いかと思うけど、会社関係から来るハガキは横書きの方が断然多いような気がする。
新聞は概ね縦書きが多いですが、横書きのペ一ジもある。小説などの書籍は縦書きだけれど、それ以外の本は横書きも多いな。子供に教育するための教科書だって、多くが横書きなのではないか?!
文具店に行っても縦書き用は国語のノ一トくらいで、ほとんどが横方向に罫線が引かれている。これじゃ、本来日本語は縦書きだと言っても、『 あっ、そうですか、そうですね 』くらいしか言えない。
先ほど、“筆先を抜いて、次の文字の書き始めの所に繋いでいる” と書きました。横書きだと繋ぐべき所に次の文字がないので、その文字は自分で結ばなければならない。
日本語は縦書きでも、横書きでも縦横に出来る素晴らしい言葉なのです。日本語の本来は縦書きなのでしょうけど、パソコンに表示される文字はほとんど全部と言って良いほど、横書きです。パソコンのワ一プロ機能は縦書きに表示変換できる筈ですが、使ったことすらありません。
このようにみなさん、すっかり横書きに慣れてしまった。それに、文字を書かなくなってしまった。おさむ爺は違いますよ。小学生の頃は鉛筆を使っていました。“ペンだこ”が出来て痛かった。今もかつてここに“ペンだこ”が在ったと言う跡があります。
昔、ボ一ルペンを持っていてもほとんど使わず、そのうちインクが出なくなってしまって、ボ一ルペンのインクを一本使い切るなんてことほとんどなかった。鉛筆もシャ一プペンシルも滅多に使わず、今はボ一ルペンだけ。1本使い切るのに1.5~2か月くらい。¥100ショップでインド製の10本110円のボ一ルペンを買っても、一人でおよそ1年ちょっとで使い終わってしまう。結構、使う方でしょう。それも横書きばかり、縦書き皆無。でも、何故だか“ペンだこ”は出来ない。
屋並みの古い地域に行って、商店の横長の看板に『 右から左に 』書かれた文字、例えば『 屋河三 』などと屋号など書いてあるのを見たことが有るでしょう。昔は横書きでも、右から左に書いていたのでしょうかね。
ジイは左利きでないから分らないけれど、左利きの人が『 左から右に横書き 』しているのを見ると、書きにくそうに見える。反対に右利きの人が『 右から左に 』書くのは書き難いに違いない。今度、経緯や時代背景を調べてみよう。
歳を取ると云うのは本当に悲しいもので、体中のあちこちが衰えてくる。先日、上皇后陛下が転んで大腿骨を骨折されて、東大病院で手術を受け、現在リハビリ中である。歳を取ると転ぶだけでなく、ちょっとした高さから飛び降りたって骨折してしまう。体も硬くなって、今まで出来たことが出来なくなってしまうのだ。それによって寝たきりに成ってしまうことはもっと怖い。
身体だけでなく、頭もそうだ。普段から使っていてもダメになってしまうのに、使っていなければもう壊滅的なことになる。ボケ防止に漢字の書き取りの問題と、中学生用の算数の計算問題、“数独”くらいは努めてやっておいた方が良いと思う。自分がやっているから言うのではなく、ほぼ毎日やっていたって、常用漢字は2000文字近くある。2~3ヶ月間巡り会わない漢字が分からなくなってしまう。だから、常にやっていないと忘れてしまう。算数だって微分、積分、行列式をやろうと言うのではない。簡単な三角関数、因数分解くらいはやらなければと思っている。『 継続は力なり 』だと思う。
ほとんど毎日少しずつやっているのですが、習慣になってしまうと、どうと言う事はない。こんなことやるようになってから、もう3年以上になる。年中無休、正月もやっている。こんな風になったのには、やはり、切っ掛けと言うものがある。
あっちこっちに積み上げてある本を整理していたら、『 大学生の一般常識問題集 』なる本が出てきた。これは僕が買った本ではない。多分、娘か息子が買った物だろう。国語、英語、歴史、地理、一般社会常識、自然科学、数学などの項目に分かれている。
昔、得意だった国語くらい何とかなるだろうと思っていた。最初は漢字の問題。『 知っておきたい主な漢字 』をやってみた。ひらがなで書かれているものを漢字にする。30問やって4つしか書けない。漢字の読み方の問題はそれでもほとんど出来る。ひらがなを漢字に直す問題はたくさんあったが、ほとんど書けない。
何か書く時に、簡単だと思われる漢字が思い浮かばない。前から感じていたが、改めてこういう問題をやると全く書けない。
『 あれ、どうだったかな 』
というものばかり。小学校で習う漢字すら、正しく書けない。
毎日、新聞は読むし、本も読む。読むについて困ることはほとんどない。いざ、漢字を書こうとすると、全くダメだ。試しにやってみて下さい。きっと、 『 こんな筈ではないんだが・・・』と思うことでしょう。
文を作る機会が無かった訳ではない。会社に居た時も文は結構作っていたし、こうして テキスト形式のHPを運営しているのだから、ごく一般の人よりも文はたくさん作っています。ここではあえて、『 文を作っている 』書いた。
その通りなのです。文は作っているけど、筆記用具を使って、自分の手で文を書いていないのです。ほとんど筆記用具を使わないで、文を作るようになってから、25年くらい経つのではないでしょうか。始めは、ワ一プロ専用機。そのうちワ一プロ専用機は淘汰されてしまって、皆さん同じでしょうが、パソコンのWordか何かで作文しているのです。
文の入れ替え自在、切り取り、貼り付け自由。分からない漢字でも、変換すれば出てくるから、漢字を覚えておく必要がなくなってしまった。
筆記用具を使って文を書くと、分からない漢字は国語辞典で調べなければならない。若い人には分からないだろうけれど、老眼になると困ったもので、辞書の細かい字ではうつ病の「鬱《みたいな込み入った漢字は■の様に、黒い塊にしか見えない。忌々しいから、 自然とワ一プロ機能ばかり使って来たツケが、今日の漢字のテスト結果であろう。
でも、ボケ防止に漢字の書き取りの問題と、中学生用の算数の計算問題、“数独”は、努めてやっておいた方が良いと思うな。
秋の彼岸の時に墓参りに行った。我が家の墓は、目黒ふ動尊近くの無宗派の墓苑であります。墓参りの後、ごく近くですから目黒ふ動尊に行った。目黒ふ動尊の境内に青木昆陽翁の像と共に『 さつまいも 』をうえた畑がある。幟も立てて、目黒ふ動では、青木昆陽とサツマイモを集客のネタとしているようだ。ただ、まだ葉は青く、彼岸の時期では収穫の時期には早そうだった。
暑い日が続いていたが、昨日(10/8)、今日と急に寒くなって来た。もう、サツマイモも収穫できるかな? そのうち、我が家の周りにも、”石焼イモ”の販売車も来ることだろう。今日はサツマイモにちなんだ話題にしよう。
四季の屁を詠んだ川柳にこんなものがあります。
春 馬の屁に ころりと落ちた 玉椿
夏 音も香も 空へ抜けてく 田うえの屁
秋 ごめんごめんと 芋食いすぎて 今日の月
冬 こたつから 猫もあきれて 顔を出し
とかく、糞や屁は下品で、恥じらいのないものとして、口に出さなかったり、敬遠するものです。ただ、放屁は人間、いや、動物にとっては無くてはならないものです。
私、20歳の時に盲腸の手術を受けました。その時、病室を訪ねてくる医師や看護婦さんに
『 ガスは出ましたか? 』
と何度も訊ねられました。聞く方の医師や看護婦さんは、自分が初めて聞いているのだと思っているのでしょう。訊ねられる私の方は
『 はい、出ました 』
と、7~8回答えたような気がします。
人は1日に 1.5リットルくらい、おならをするのだそうです。もちろん、どんな着飾った美人でも、お澄まししている人でも、偉そうにしている人でも、おならをしない訳ではありません。おならをしなそうな人でも、他人に知られないように密かに放出しているのです。
ガムをかむ人、タバコを吸う人、早食いの人は、どうしても体内に空気を取り込んでしまうことが多く、おならが多くなるとの事。
子供の頃に、母に教えて貰った言葉です。母はこういう事を平気で言う人で、
『 屁にはブ一、ス一、ピ一の 3種あり。ブ一は音あり、臭味なし。ス一は音なし、臭味あり。ピ一は実の出る恐れあり 』
おならの成分は、主に窒素、炭酸ガス、メタンガスなのだそうです。ライタ一に火を点けて、火に向かっておならをして、確かめたことはありません。メタンガスが含まれていますから、当然、火が点いて燃えます。ただ一度だけ、蜂蜜の入っていた広口の容器を用いて、風呂の中で放屁しておならの収集を計画したことはあります。もしかして小さな容器で爆発し、怪我でもしては大人気ないと思い、収集計画は未遂に終わっております。
おならには臭いがある場合がしばしばあります。
炭水化物が腸内で発酵して、ガスになったものはあまり臭いがしません。よく、焼き芋を食べて、おならが出ると言います。焼き芋は炭水化物が主です。『 ブ一 』と音が出ても、量は多いが、臭いは少ない。
一方、消化し切れなかったたんぱく質が腸内で腐敗したガスは、量は少ないが、臭いがきつい。肉を多く食べる人は『 ス一族 』なんだ。こりゃ、インディアンだね。
下痢をしている人は、『 ピ一 』と出して、パンツを汚さないように気を付けないといけない。恐る恐る出した方が良い。
おならは我慢しない方が良いのだそうです。我慢して、お腹がポッコリ膨れるだけなら良いのですが、腸内に停滞し、内臓に対して圧力を掛け、悪影響があるのだとか。なるべく、他の人に知られないように、屁とも思わないで、『 すかしっ屁 』をして下さい。人前でおならをしてしまうのではないかと恐れ、『 おなら恐怖症 』というのもあるのだとか。
別におならの研究をしている訳ではないのですが、おならにも色々な呼び方があります。『 おなら 』『 屁 』『 ガス 』『 放屁 』『 空クモ 』その他にも地方によって、様々な呼びながあるのだと思います。
落語にも『 転失気 』(てんしき)と言う演目があります。体調のすぐれない和尚が、診察に訪れた医者から『 てんしき 』があるかないか聞かれる。何のことだか分からない和尚は、知ったか振りをしてその場をごまかす。後で小僧を呼んで、寺の近所に『 てんしき 』とは何か調べに行かせる。『 花屋へ行って爺さんに、てんしきを借りて来い 』と言いつける。花屋も何だか分からない。花屋さんも花屋さんだ。『 棚から落として壊しちゃった 』なんて答える・・・。
綺麗ごとを言ってみても、物事煎じ詰めれば、優越感じゃないのでしょうか。弱い、惨めなものを笑い、さげすむ。貧乏なこと、愚かなこと、などなど。その中でも、蔑まされているのが、糞尿、ゲロ、放屁なのだと思います。
私が携帯電話というモノを初めて使ったのは、多分、今これをお読みになっておられる方の中では一番早いのではと思います。当時、それは5x5x20cmくらいの大きさで、今のスマホに比べれば大変重かった。仕事で出張に行く際に、会社より短期貸し出しされたものでした。会社にも1台しかなかった。仕事を頂いていた親会社が通信関係の仕事をしていた関係で、会社としてもお付き合いで、他社よりも早く買ったものと思われます。
携帯電話の使い始めは早くても、その反動か私が個人用のふたつ折のガラケ一携帯電話を持ったのは極めて遅く、およそ18年前でした。私の周りで働く人たちのほとんどが、既にPHSかガラケ一を所持されていた。
PHSやガラケ一が普及する以前、私が勤めから帰る時間帯ですから、辺りは当然もう暗い。そんな時刻に裏通りを、ブツブツ独り言を呟きながら歩いている人はアブナイ人であった。
さらに、路上で大声を出して叫ぶ人が居れば、もしかして包丁かなにかを持っていて、危害でも受けるのではないかと、もうこれは他の道を選択せざるを得なかった。それが出来ない場合には、ヒヤヒヤ、ドキドキで歩みを緩めたり、なるべく道の反対側を早足で通り抜けするようにしたものでした。
当時は、連れも居ないのに歩きながら独り言を喋るのは、どこか精神的に問題のある人だとの認識を持っていた。
だが、今はみんなが喋りながら歩いている。猛暑などの異常気象からのストレスの影響で精神に異常を来した人が増えている訳ではない。皆、四角い平べったいモノを耳に当て、歩きながら、笑ったり、急に声が大きくなったり、突然しゃがみ込んで泣き出したりするから、周りに居る人はビックリする。
我が家は道に面していて、真夜中に窓の外で大きな声で話しているのが聞こえる。何かあったのかと、耳を傾ければ、喋りながら遠ざかって行くのでホッとする。
携帯電話の出現で、私たちは歩きながら喋ることが平気になってしまった、周りの人も、アブナイ人が居るとは思わなくなった。でも、何十人かに一人ぐらいは本当の精神的に問題のある人がナイフを持っている人が居るかもしれないから、見極める目を持たなければならない。
現代はストレスの多い時代である。周りから様々な制約を言われる中で、心の中に溜まった鬱憤の感情や欲求を、気の置けない友人・知人を相手に『 路上で 』吐き出すことに躊躇する気持ちが薄れて来たのだ。周りの人も状況の変化に慣れてきたと言えよう。
以前なら路上で自分の生活情報や愚痴など誰も言わなかった。今は他の人に聞かれる可能性があることを喋っても平気で居られるという、羞恥心の有様が変わったと言うことだ。
★野☆男や、▲腹△子という個人を特定するようなサインを伏せさえすれば良いのだ。『 壁に耳あり、障子に目あり 』と言うことわざが消え去ったとは思わないが、みんながこうも手軽な移動式通信手段を持つようになると、秘密とすべき事柄の伝播・拡散速度は極めて速くなったと思わざるを得ない。気を付けなければいけないなぁ。
川崎市の広報誌『 市政だより 』に、新型コロナウイルスとインフルエンザワクチンの定期接種の記事が載っていた。新型コロナが5類に変更になったことに伴い、個別に郵送で通知しないように変更に成ったのだと思います。
記事に拠れば、65歳以上の高齢者や、持病があるような方々が対象で、接種の費用は新型コロナで\3000、インフルエンザで\2300なのである。(ただ、この金額は自治体により金額も、次に書く無料の条件もまったく異なります。)
但し、『 生活保護世帯 』と『 市県民税非課税世帯 』は無料ですと書いてある。我が家は年金収入しかなく貧乏で、市県民税非課税世帯なのであります。ただし、接種費用無料となるには、医療機関窓口に行って、それを証明するものを提示しなければ成りません。
区役所の市税課に電話しました。『 非課税証明書 』を入手したいのだけれど、何処に行けば良いのか、電話で問い合わせました。まったくなっ得のいかない回答を得ました。『 市民税非課税証明書は発行できるけど、ワクチンの定期接種に使う非課税世帯の証明には使えません 』と言う、耳を疑うような回答を得ました。ただ、後で記載します、出張所で貰った書面には非課税証明書は、ワクチンの定期接種に使う非課税世帯の証明には使えませんと書いてあり、電話で問い合わせた市税課職員の言っていたことは間違っていませんでした。でも、非課税証明書と言うなまえの書類が用を成さないと言うのは可笑しいよね。
その後、市政だよりに記載のあったあちこちに電話番号に電話しました。ご存じのように、こう言ったところに電話すると、音声ガイダンスで『 ○○の場合は①を、□□の場合は②を、その他の方は③を押してください』と成った揚げ句、①を押しても『 ただいま、電話が混み合っております。そのままお待ちになるか、しばらく経ってお掛け直し下さい 』と忌々しい結果になるのである。
対面で教えてもらおうと、散歩がてら区役所の出張所まで出掛けた。時たま雨が降っていたせいもあってか、出張所には客が一人も居なかった。これまでの顛末を話したら、医療機関の窓口に何の書類を持参すればよいのか記載した書面があるではないか。年配の女性職員が2人で対応して頂けた。やはり、対面は早くて、確実。
ネットで接種をしてくれる近くのクリニックを探して予約を取ろうと電話した。今日でも接種出来ると云うので、午前中行って来た。“こどもクリニック”なのだが、客は一人も居らず、問診票記入の上、新型コロナとインフルエンザの2種類のワクチン接種はたちまちに終了してしまった。
もう、5時間くらい経過したが、接種箇所が痛いとか発熱したとか言う症状は一切無く、めでたし、めでたし。
『市政だより』には高齢者以外の方、すなわち、65歳未満の『 対象者以外は実費ですよ 』と言った程度の表記がありました。ちなみに実費がいくらかと、ネットでしらべたら、新型コロナで¥15800とかなりの額であった。インフルエンザは調べてないけど、一般の方々は接種を躊躇してしまうよな。
最近は生成AIと言うモノが身近に出現して、文章を書くことが苦手な人でも、AIがそれなりの文を書いてくれると言った、とんでもない時代になって来ているようだ。時代遅れかも知れないけれど、自分の考えをまとめたりするには、文を書くことがとても役に立つと信じています。便利だからと言って、何でもかんでもAIに頼って作業していると頭を使わないから、一部を除いた人間はバカになるに違いない。
仕事の形態もきっと代わってくる。単純に考えると、いわゆるホワイトカラーに従事する方は激減して、手に職と言ってはイメージが違うが、固有の技術・技能を持った専門職の人を社会が欲するのではないか。在り来たりなモノでなく、上手な文を書くのも技能の一つであると思う。仕事で定型の書類を作るにはAIにとても敵わないと思うが、個人の能力を発揮するような部分に置いては、上手な文を書く能力が威力を発揮するのではと信じています。
作文が上手になりたい。新潮文庫の『 井上ひさしと141人の仲間たちの作文教室 』という本を、9月になって続けて2回読んだ。How toの本を読んだからと言って、これを参考にしてすぐに作文がうまくなるということは、まず絶対にない。たくさん本を読んで、毎日のように作文を書く。これが作文上達の王道であることは、本を読むまでもなく間違いない。
本の中で井上ひさし講師より、受講生に対して『 悩み 』という題で、作文を書く宿題が出た。原稿用紙1枚分に集約して自分の悩みについて書く。書中に26人分の添削付きの作文が紹介されていた。無いようでいても、どなたも様々な悩みをお持ちであることが分かった。
これに倣って自分も悩みについて書いてみます。ただ、自分については原稿用紙1枚分という制約はないものとして、ダラダラと書きます。
悩みは『 人と中々話が出来ないこと 』です。
人と話をするのが苦手です。もともと無口な方です。赤面対人恐怖ということはありません。活舌が悪くて何を言っているのか分からない方が良くいらっしゃいます。色々な方に指摘されましたが、私の場合はむしろはっきりものを言い過ぎてしまって、相手の方にとって威圧的と思われてしまうきらいがあります。プレゼンテ一ションが出来ないと言うこともありません。指めいされれば考えや意見は述べます。どちらかと言うと話す場を設けてくださる方が意見は言い易い。それでいて、人と話をするのが苦手というのは、どういうことなのでしょうか。
『 おはよう 』、『 こんばんは 』、『 さようなら 』の挨拶は難なく出来ます。それから先が苦手なのです。どうでも良いような世間話が苦手なのです。原因は圧倒的に話のネタふ足。テレビはほとんど見ない。ラジオはあまり聴かない。今、世の中でどんな曲が流行っているとか、何が話題になっているかまったく分からない。新聞は読みますからニュ一スについては大体知っている積りです。でも、ニュ一スと世間話では話される内容は違う。
挨拶の後の言葉が続かず、もっぱら聞き役になってしまう。どうでも良いような話に耳を傾けているのもつまらん。そんな態度の片鱗を相手の方に見破られてしまうのか。世間話も中々続かなくなってしまう。
私に言わせれば、普段世間話をベチャクチャ話している方ほど、大勢の方の中で意見を求められた時にほとんど何も言わない。自分はむしろその逆だ。日常生活の場の中の会話では、圧倒的に世間話の方が多い。かくして、他の人がしゃべっている中で、黙って聞き役に回っている自分がいる。
『 宴もたけなわではございますが、お時間も参りましたので、ここらで中締めをさせていただきます』
『それでは、三本締めを行ないます。皆様御起立をお願い致します。では、よぉー、チャッチャチャ、チャッチャチャ・・・・』
なんいう文句が懇親会や職場の宴会の終了前の区切りであります。これから先、二次会へ行く方もあるでしょうし、ここで『 締め 』または『 〆 』を行なって完全終了としてはまずいというので、まあ、『 中締め 』なのでしょう。
大相撲の白鵬の現役時代、優勝したインタビュ一のときに、まだ、土俵では優勝に関する色々な出し物が有るのに、観客と『 三本締め 』で締めてしまった。後で、相撲協会から大目玉を食らってしまった。元々外国人だから、『 締める 』という日本の風習・習慣を理解できた居なかったのでありましょう。
別に宴会の中締めに付いて書こうという訳ではありません。僕の人生の中締めについて書こうと思っています。僕は75歳です。人生をマラソンに例えたら、もう、とっくに折り返し点は過ぎて『 トラック勝負 』になっているのではないかと勝手に思っております。
中締め状態の僕の人生を振り返ってみて、私は性格が暗い。一人で居る方が好きな、つまらない人生だったと思っています。例えば、
*NHKの日曜日、昼の番組『 のど自慢 』にこれから出演して、大騒ぎしようとも思わないし、出る機会もないであろう。
*スポ一ツの観戦に行こうなんて気は少しも思わない。無料の入場券か何かを頂戴して、野球かサッカ一の試合を観戦し、その場では周囲に合わせて、応援の真似事はするかもしれない。でも、どこか覚めていて、自分を忘れて夢中で応援することもない。むしろ、応援に没頭できる方が羨ましい。
*静かにギタ一など弾いてみたい。ギタ一は持っているのだが、押入れの中にしまってある。もう今からではギタ一を習う気もなく、我が人生、このままギタ一を弾くこともなしに死んでいくのだ。
*社交ダンスもやらずに死んでいくのも残念だ。衣装は何と言うのだか知らないが、タキシ一ドみたいのを着て、くいと背筋を伸ばし、赤や青のドレスをきりりと着た御婦人とダンスを踊る事も一生無いであろう。
*一人で豪華客船に乗り、船で知り合った美人と船内のバ一で水割りを傾け、話が弾んだ所で船首に行き、女性が前方の海に向かって両手を広げ、僕が腰を支えるなんてことは、まず絶対にない。その後は船が氷山に突入しようが構わないのだが、その前段の状況ですら、僕のこれからの人生には起こらない。
*公園で老人が『 ゲ一トボ一ル 』というのもやっている。普通にやっている分には誰にも迷惑がかかりそうにも無い。運動神経ゼロの僕だって、ゲ一トボ一ルなら出来そうだ。静かにやっている分には一向に問題は無いが、決まってそのうち監督に成る人が現れ、隣町の老人会と試合をするとかになると、技術の向上を図ってうさぎ跳びをしたり、ランニングが始まる。代表選手の選抜とか精神鍛錬の話がが登場する。どうも、それは苦手だなあ。
*テレビのニュ一スか何か見ていると、スポ一ツ選手や、スタ一が空港の出口から出てくると、フアンが押しかけている。デジタルカメラや携帯のカメラで写真を撮ったり、手を伸ばしたりしてスタ一に触れようとしている。あれを『 追っかけ 』と言うのだろうな。どこでスタ一たちのスケジュ一ルの情報を得て空港まで来ているのか知らないけれど、この人たちは仕事をしているのであろうか。とてもじゃないけど僕は『 追っかけ 』にはなれない。どうすれば『 追っかけ 』に成るほど夢中になれるのか? そんな気持ちに成ったことは一度もない。彼らのスタ一やスポ一ツ選手のフアンとして夢中になれる人すらいない。これで一生を終える。
*歳が歳だから落ち着いた所で、『 義大夫 』とか『 小唄 』を習うと言う手もある。そんな手は有るだろうけど、やる気が起こらない。
落語の『 寝床 』ということもある。歳取ってからの習い事は、自分だけの範囲でやっていれば、一向に適わないのだが、少しうまくなると、誰かに披露したくなるもので、はた迷惑にならないように注意しなければならない。
人生、終末期に掛かって、中締めということしたとしても、自分自身で考えても暗い寂しい人生だなと自分でも思う。
立憲民主党も自由民主党もここのところで党首が代わった。特に自民党は腐りきっていた。何か悪いことをする議員がいて発覚すると、いつも自民党の議員であったり、裏金で問題のあったのはほぼ全般に渡っていて、10月中に衆議院が解散して、総選挙と成りそうだが、石破が総裁になり、小泉さんが選挙対策委員長になったところで、今度の総選挙では自民党の議員数は減るに違いないと思うな。
日本は誇らしい国ではなくなってしまったように思う。ところで、日本が世界に誇れるところって何だろね。
『富士山』『桜』『工業技術、品質』 etc.
富士山は世界文化遺産に登録されてから10年くらい経ったのでしょうか。遠くから見ていると何とも雄大な山で、いつ見ても心が和む。車で5合目近くまでしか行ったことはない。近くから見たのではイマイチじゃないのかなあ。歩いて登った事ないから知らないけれど、普段、街中で平気でゴミを捨てる道徳観のない輩がたくさんいるから、押して知るべしではないのか。それに高さだけなら、富士山より高い山は世界中にはいくらでもある。
『鉄道』なんか誇れるんじゃないか。新幹線のスピ一ドもさることながら、各鉄道の定時運行は素晴らしい。海外旅行でも鉄道に乗ったことがないから、他の外国の様子は自分の実感としては分からない。だが、これほど素晴らしい定時運行状況はないに違いない。乗客の中に急病人か何か出て、駅で降ろすために3分停車しても、
『急病人を降ろすために、3分ほど遅れました。心よりお詫び致します』
とか何とか言って車内放送で詫びている。何も病人が出てしまったのは鉄道会社の責任でもないし、心からお詫びしてもらわなくても良いと思うのに。
定時運行のための努力たるものすごいね。目に見えるところで、東京駅で新幹線の乗車を待っている時、社内の清掃をしているおばさん達の手際の良さったら、呆れるほどだ。座席の背もたれに付けてある白いカバ一だって、そんなに汚れている訳でもないのに取り替えている。あのチ一ムワ一クの良さ、手際はよその国ではまね出来ないに違いない。
運行に関して、時たま人身事故があって運休などする。警報機が鳴っているのに踏み切り内に進入したり、自殺志願者だったり、貧血で走ってくる電車に倒れ掛かったり、ホ一ムの黄色い線の外側を歩いて電車に接触して人身事故が起きる。故障など電車側の責任に起因するものは余り多くないのではないか。最近は、ホ一ムドアの普及が進んで来たから状況は大分改善されてきた。
街中を歩く『夜の安全』も誇れると思う。時たま、真夜中に一人で歩いていて、殴られて金品を奪われるなんていう事件がある。普段、日常的に起きていたら、またかと言って、ニュ一スにもならないだろうに、ニュースになるくらいだから、そんなに頻繁ではない。色々事情はあると思うが、被害者の無用心さにも呆れてしまうな。まれに起こった被害者にとっては、運が悪かったとしか言いようがない。我が家の前を日付が変わってから大分時間が経っているのに、若いお姉さんが一人で歩いていたり、酒に酔ってフラフラ歩いているオヤジも事件に巻き込まれる確率はそれほど高くない。外国じゃ考えられないのじゃないか?。数少ない海外の経験で、東南アジアの国で夜、人ごみの中でさえ、ズボンのポケットから財布を抜き取ろうとしていた賊がいた。日本の夜が安全だからと言って、過信してはいけない。数多くの人が居る中で、みんながみんな、良い人とは限らない。
世の中の出来事をなるべくよく理解しようと、新聞を読むように心掛けております。大分前から気が付いているのですが、新聞を読んでも、つまり結局、何が書いてあったのか分からないことが多くなった。確かに目は字面を追い掛けています。読めない字もまずありません。それなのに、内容をほとんど掴めていないことに気が付くのです。
内容を掴めていないと気が付いた時は、大抵読み直します。加齢による記憶力の減退、集中力が衰えていることはまず第一に認めます。それにしても酷すぎる。何故なのでしょう。
新聞でも社会面はまだ大丈夫です。問題は始めの方のペ一ジです。新聞の文字は1行に12~14文字くらいあります。条件、状況、背景などを何度も読点( 、)で繋いで7~8行のひとつの文にしている。言葉が難しい上に読点で繋いでいるものですから、一体どれが主語でどれが述語だか、意識して見極めないとさっぱり分からん。
頭の老いのせいするのは酷な様な気がする。単に字面を追っているだけでは、文の意味を理解することは到底無理です。新聞の文はひとつの文が長過ぎるのが原因でしょう。文は短い方がよい。相手に容易に内容を伝えることが出来なければ、文が下手だと言われても仕方がない。読点を多用して文を長くするのは困ったことです。
もっと酷いのが法律です。これは到底素人向けではない。試しにちょっと書いてみると、
『 前2条の規定によって国または公共団体がそん害を賠償する責に任ずる場合において、公務員の選任若しくは監督または造営物の設置若しくは管理に当たる者と公務員の俸給、給与その他に費用又は公の造営物の設置若しくは管理の費用を負担する者とが異なるときは、費用を負担する者もまた、そのそん害を賠償する責に任ずる 』
例えばでこんな文章を書きました。法律関係を生業として読み慣れている人以外の方は、一度読んだくらいでは恐らく意味が全く分からんでしょう。どんなに頭の良い人が書いたとしても、こんな文は最低だと思う。法律だってもっと簡単に噛み砕いて書くべきだ。
僕にとっては睡眠薬以外の何物でもない。文とお説教と結婚式の主賓の挨拶は短いほど良い。頭の老いを棚に上げて書いたけれど、賛同してくれる方はたくさん居ると思う。
井上ひさしさんの作文教室にたくさんの参考になるようなことが書いてあった。
* 自分だけ書いて、それで文章が出来たと云うのは間違いである。受け手が受け取って、理解して、感想が生まれて文章が終わる。
*優れた文章と云うのはなるべく小さく千切ったものを、相手に提供していく。
*『 読み手 』のことを考えることが、実は『 誰にも分かるように書く 』ことなのです。
他にもたくさん注意事項が書いてあったけれど、主だったところは、主語と述語をはっきりとすることと、長い文章はダメなようだ。
『カエルの面にしょうべん』と言う言葉があります。兵庫県知事もしぶといですね。四面楚歌と云う言葉が有りますが、四方八方から辞職要求があっても知事の座から降りようとしない。この知事さんは精神的に強いのでしょうかね?そうは思いません。ただ、駄々をこねているとしか思えません。
新聞の社会面を見ていると、時々、殺人事件を起こして逮捕された被疑者の記事が出ています。ナイフや包丁で刺したり、棒やバットで殴り殺したとのことです。犯行は認めたのに、
『殺すつもりはなかった』
という供述をしている場合が非常に多い。ナイフや包丁で刺し、バットで殴っても人は死なないとでも思っているのだろうか。犯行は認めても、殺意を否認して少しでも刑を軽くしたいと思っているのでしょうか。
死刑が確定した者の6割の人たちが、再審請求しているのだと言います。裁判で死刑が確定しても、再審請求中は原則、死刑は執行されないとの事。中には100%冤罪がないとは言いません。日本の裁判は三審制と言って、地方裁判所、高等裁判所、最高裁判所と、最高で三回裁判が行われる。三回の裁判をする過程で、言いたいことは申し立てて欲しい。新証拠も出て来ていないのに再審請求する。再審請求が6割とは異常だ。死刑の執行逃れとしか私には思えない。
また、死刑囚の中には、自分の大便を顔に塗ったりして、心神喪失を装い、死刑執行を逃れようとする者もいるそうです。死刑は心神喪失状態の者には執行されないことをちゃんと知っているのです。身勝手に人を何人も殺しておきながら、皆、自分の死は恐ろしいのです。
私の父は戦争で負傷した傷痍軍人です。そのせいも有ってか、私は子供の頃から戦記物を読んだり、戦闘機、軍艦などのプラモデルを作ったりするのが嫌で、避けて来ました。戦争に関する本や小説を読んだりし始めたのは、会社で役職定年になった55歳を過ぎてからです。
その中にはインパ一ル作戦に関する物もありましたが、最も無謀な作戦が何故行われたのか知りました。
作戦の計画では3週間の行軍です。兵士たちには3週間分の食料が与えられ、その後の補給の目途は全くありません。その作戦を指揮したのは牟田口司令官。ビルマからインドのインパ一ルまで最大470kmの行軍です。日本の戦況では、太平洋の島々での戦闘にいずれも破れ、インドのインパ一ルを陥落させ、起死回生を狙ったものです。
物資の補給が出来ないなどの理由で、作戦を中止するよう提言する将校達を卑怯者と罵倒し、牟田口司令官は作戦を強行しました。3週間の行軍の予定が、3ヶ月掛かりました。大きな兵器は分解し、担いで兵士たちは生い茂るジャングルの中、兵士たち自らが白骨街道と呼ぶ道を進んで行きました。牟田口司令官は作戦開始から行軍には同行せず、後方のビルマに居ました。夜毎、宴会をしていたという話です。
部隊と行動を共にしたのは作戦が遅々として進まぬ、ずっと後からです。4ヶ月目に大本営からこの無謀な作戦に対し中止命令が出ました。
この作戦では行軍の往きよりも、帰りの方が戦死者は多く、戦死者3万人、傷病者4万人出ました。戦死者の大半は戦闘でなく、餓死やマラリアなどの病気で亡くなりました。怪我や動けなくなった戦友を放置しなければ、共倒れとなります。食料が有りません。兵士は死んだ戦友の人肉まで食べ、これがトラウマとなって苦しんだようです。大本営からのインパ一ル作戦中止命令で、牟田口司令官はいち早く帰還したとのこと。
牟田口司令官は戦後1966年まで生き、77歳で亡くなりました。兵士を人とも思わず、虫けらのように扱い、作戦反対者を罵倒し、最も無謀と言われる作戦を強行した司令官です。残された資料や録音テ一プでは反省の弁や記述はなく、大本営の命令だと責任逃れをした。大本営もインパ一ル作戦を強行したのは、ビルマの現場の司令官だと、責任逃れをしています。
栄達や栄誉を望んだ指導者は、人の命を何とも思わず、無謀な作戦を強行する。そのくせ、自分だけは生き永らえている。反省の弁もない。いつも死ぬのは下層の人ばかり。人間の性(さが)と言うのはこんなものなのでしょうか。牟田口司令官には責任を取って、せめて切腹でもして貰いたかった。
自分はいつも思うのですが、『人間、潔さが無くなったらお終いだ』と思うのです。
9/7(土)に読売旅行のバスツア一に行って来ました。行先を予め明かさない『ミステリ一ツア一』と言う事なのです。ツア一のパンフレットにお土産に巨峰2房が付くと書いてある。ミステリ一ツア一と言えど、行先は山梨方面にほぼ決まりである。山梨方面でも見どころはいくつかあって、その組み合わせがミステリ一と言うらしい。
読売旅行のバスツア一に参加する人たちには、若い人はまず居ません。年配の父母に同行する、それなりの年齢の息子や娘がいるくらいで、参加者のほぼ大部分は年配者である。
自分たちで計画してプランを立て、鉄道の手配をしたり、車を運転してと言うことの出来なくなった年配者が、読売旅行のプランのほぼ対象者である。会社の立てたプランの中から、そこそこ、自分に合っていそうなものを選んで申し込めば、昼飯の手配を含めて、あちこち連れ回してくれる。何も考えることはない。ただ一つの心配はトイレで、次の休憩所まで自分の膀胱の容量を考慮して飲み食いすれば良いだけである。
9/7の中央高速道路は事故渋滞により大変な混雑していた。渋滞は高速道に乗る前から中々進まず、天気も良ければ外が暑いのは仕方ない。バス車内はエアコンが効き、絶好の行楽日和です。初めから『ノロノロバスに乗ることが目的の旅行と考えれば、イライラすることもなく、何と言う事はありません。電光板に『渋滞30km』と表示されていますから、渋滞を楽しむには十分と言えそうです。
何年か前に、静岡県の三保の松原を含めて、富士山周辺が世界遺産に登録されました。登録されるのと、されないのでは経済効果がえらく違うのでしよう。画像に示す、『山梨県立富士山世界遺産センタ一』なる立派な展示場が出来ていた。
世界遺産に登録されることにより、街中も影響が出て来て、ケバケバしい色の建物は作れないらしい。コンビニのロ一ソンと言えば、店の外観、彩色は想像できると思いますが、たまたま見たロ一ソンのお店は、店の外観、壁の色がベ一ジュで、屋根が茶色であった。世界遺産の街では店のイメ一ジカラ一も変更を余儀なくされてしまうらしい。
おさむ爺もすっかり歳を取ってしまって、バスの限られた場所にずっと閉じ込められていたせいか、疲れてしまったよ。次の日は一日中グッタリしていた。
先日、『 レイブル 』と言う言葉を聞いた。調べて見たら、late bloomer の略なのだと言う。ニ一トとは違って、就労意欲があるものの、仕事に就く事が出来ない若者の総称なのだとか。
late bloom なら、何となく『 遅咲きの花 』と分かる。ジジイは bloomer となると、その昔、体育の時間に女子が着ていた『 提灯ブルマ 』を思い浮べてしまう。
インバウンド 訪日外国人客
オ一バ一ツ一リズム 観光客が多過ぎ
キャッシュ オン デリバリ一 商品の代金引換渡し
などなど多数。
世の中にカタカナ言葉が多く出現している。ジジイは何のことだか分からなくて、困っている。必要そうなのは、調べている。別にもう付いて行こうなんとは思っていない。
日本語でちゃんと表わすことが出来る言葉に、何故カタカナ語を使うんだ?!
外国語をカタカナにするだけでなく、短く省略するからなおさら分からなくなる。
『 用の終わった人 』 は対象外な事は分かっているけど、それならそれで、用の終わった人に使わないで呉れよ。カタカナ語を使う人は、多分、自分で使える語彙の少ない、日本語に変換出来ない人が多いのではないか?。
中学生の頃から、近視のメガネを掛けています。もちろん、今は老眼にもなっている。以前は遠近両用のメガネを掛けていました。新聞などを読むには、レンズの中の老眼用の限られた部分を通して見なければならず、鬱陶しくて成らなかった。
元々近視の者はメガネを外せば、新聞や本などの近くのモノは見ることが出来るのです。
どうせメガネを外すのだからと、今は近視用だけのメガネを掛けています。
たった今、ここにおいた筈のメガネがない。何処に置いたのだっけと探すけどない。僕のメガネは茶目っ気が強く、よく“かくれんぼ”をして僕を困らせる。
『まあ、いいや 勝手にしろ』と探すのを諦めた振りをして、相手にしないと、一人でかくれんぼしてもつまらないらしく、ひょんな所からメガネも諦めて出て来る。
皆さんもこういった経験あるでしょう。いたずら好きのモノは無視すると出て来るのです。でもね、最近は“かくれんぼ”が流行っているらしく、色々なものが“かくれんぼ”してジジイは困っている。ジジイだって、遊んでばかり居られない。
後期高齢者となって、医療費の窓口負担が1割になったのは、すごく嬉しい。収入が少ないから、1割なのですから、ちょっと寂しくもある。貧乏だという事だ。
子供の頃、『 鬼ごっこ 』か何かの遊びをする時に、小さな子が入っていると、その子は一番先に捕まっても、『 ミソっかす 』と言って、鬼の役を免除するル一ルが有った。大変ありがたいことなのだが、医療費窓口1割負担は何か、『ミソっかす』のような気がしないでもない。
『年甲斐もない』とか云って、いい歳をして愚かしいことはしてはいけないと、用心深くなる。もはや、性などには、さも関心が無いかのような振りもする。
自分の人生を四季に喩えると、『晩秋』かな。もうじき木枯らしが吹いて、寒い冬がやって来る。ここまで書いて四季に喩えてはダメだと気が付いた。非常に残酷なことに、老いにはもはや、春は来ない。『 まだまだ 』とか、『 身体は老けても、頭や心は老けていない 』とおっしゃる方は居るかもしれないけれど、それは錯覚だな。『 頭や心が老いていない 』と思うこと自体が老いの証。老いて初めて若さが分かる。
僕がこの歳になって、今更、気が違って古典なんか学ぼうと思っているけど、これこそ『 老いに対する焦り 』だなと思う。
後期高齢者ともなれば、日常生活の中でズボンのファスナ一を『上げずに』徘徊することがあっても、特段おかしくはない。他人からの指摘、あるいは自分で気が付いた際に、多少気恥ずかしい程度で実害はない。
反対に、ファスナ一を『下げずに』ようになると事態は深刻である。在宅中であれば、恥ずかしさも、身内の中で済み、着替えは容易であろう。外出中であったならば、おそらく着替えは用意していないだろうから、実害は大きい。
斯様に、ズボンのファスナ一を『上げずに』と『下げずに』とでは、大変な違いがある。
ここまで書いて、世の中には『吸水パンツ』、いわゆる『大人のオムツ』と言うものがあることに気が付いた。
高齢者や病気の方でなくても、容易にトイレに行くことが制限される方が着用なさる話を聞いたことがある。例えば、箱根駅伝などで、先頭の走者に密着して実況放送する車に乗って解説者や実況アナウンサ一、その他の方は5時間以上トイレに行くことは出来ない。尿瓶やバケツと言う手もあるだろうが、大人のオムツを活用するという選択肢もあるのではないか。
おさむ爺は過去に何度か入院してことがあっても、乳幼児以来70年以上もオムツなるものを着用したことがない。放尿あるいは脱糞後の感触はもうすっかり忘れてしまった。オムツよりもう少し恥ずかしかった、『導尿』と言うのは一度だけ経験がある。
20歳の時、虫垂炎(盲腸)の手術を受けた。手術を受けた晩、寝る前にオシッコをする時に、尿瓶を持って来られた。看護婦さんが見ている前で、横になったまま放尿は出来ないものである。中々出なくて、しびれを切らした看護婦さんは導尿を決意し、おチンチンの先からチュ一ブを入れて否応なしに尿を吐き出させた。その時は年配の看護婦さんで良かった。僕は20歳である。若い看護婦さんだったら、もう恥ずかしくて居られない。その次の朝からもう自分で歩いてトイレに行った。
大人のオムツがある以上、高齢者や病気療養中の方の需要が多いのであろう。私とて近未来にお世話になることがあるのだろう。もしそうなった場合でも、オシッコはともかく、大便の方は恥ずかしいな。なんて言っている内はオムツ着用の『初心者』で、生きていると、オシッコも大便も出て当たり前なのである。
オムツを着用されている方は何も好きこのんで、オムツを着けている訳ではない。生きるために仕方なく着けているのである。取り替えて頂く際には、申し訳ない気持ち一杯で、処理して頂いているのである。
宗教にはほとんど興味がない。9年前に両親が続いて亡くなり、小さな仏壇を買った。毎朝、線香とお茶をあげている。家の宗教は日蓮宗だと知っている。お墓は宗派問わずの墓苑で、お寺さんとの付き合いはない。
法事を執り行う場合は、墓苑の管理事務所に依頼すれば、提携している宗派のお坊さんを手配してくれる。
かつて檀家であったお寺さんと決別して墓苑にしたのは、お寺さんから何かと高額な寄付の要求があり、高齢の父母は付き合いきれず、お寺さんと分かれました。僕も宗教法人は寄付に頼らないとやっていけないことは、理解しています。
お寺さんと分かれて、丁度募集をしていた墓苑内のお墓を父母が買った。祖父母、両親と弟が今そのお墓に入っている。年に3回くらいは墓参りをしている。私の宗教とのお付き合いはそのくらいである。宗教に興味がなくても、世間一般との摩擦を少なくし、穏便に生きようとは思っている。もちろんお墓とは別に、初詣や、めい所旧跡、寺社参拝は宗派問わず何処でもOKです。
本来、宗教とは病や貧困などの苦しみから身を救ったり、死後に浄土へ行くことを願うためのものだったのであろう。昔は頼るものがなく、人々は神仏にすがった。
○○薬師と云うお寺さんがある。今も病となってお参りする方はいらっしゃるでしょうが、お参りしたからと言って、病が治ると本当に思っている方は少ないと思う。病なら医院、病院に行く。お寺の住職ですら、心筋梗塞や脳梗塞になれば救急車で病院に運ばれ、治療を受ける。
貧困ならば、生活保護である。行政が解決する問題で、そのために税金を払っている。お寺や神社が救済してくれる訳ではない。
『縁結び』のお寺や神社が有る。お参りする方も当然居るが、結婚したければ結婚相談所、婚活パ一ティ一、合コン、あるいはマッチング・アプリと云ったところであろう。
『安産の神様』も同じだ。難産となって母子とも生命の危険になった時、神様が強心剤を注射したり、帝王切開して助けてくれたなんて聞いた事がない。あくまで神仏は気休めである。お参りして気が済むのなら、『お参りはどうぞ』である。
苦しみから逃れるため、つまりマイナス部分を排除して、明るく陽気さを求めて生きるために宗教とお付き合いしているのだと思うが、本心では効果を期待していない。今までの慣習を捨てる勇気がないだけなのでは? 地方の年配者や、僕より年配者以外の、日本人のほとんどが無宗教なのではないか。
あったとしても、心の拠り所くらいの役目か。宗教を信じて安らぎを持てる方がいらっしゃるなら、私はあえて反対など決していたしません。
それどころか、宗教が基での忌まわしい出来事は過去の歴史で数々有る。思い付くまでに挙げても、まず『十字軍』がある。中世、ヨ一ロッパのキリスト教徒の諸国が聖地エルサレムをイスラム教諸国から奪還することを目的とした遠征軍だ。意外に思うかも知れないが、呼び方も考え方も変遷してしまっているけれど、キリスト教もイスラム教も、もともとは同じ神なのです。だから、聖地はどちらもエルサレムにある。神の教えを人々に伝える預言者が違う。キリスト教はイエス・キリストであり、イスラム教はムハンマドなのです。同じイスラム教でもスンニ派とシ一ア派ではいがみ合う。
浄土真宗の本願寺も織田信長と戦い、現在でも東本願寺と西本願寺では仲が悪い。そんな大昔でなくても、オウム真理教は地下鉄サリン事件と云う無差別テロを起こした。このように宗教にからんだ事件や戦いは他にもたくさんある。
基本的に、人間は群れを成す。動物の世界では『仲間か敵か』の関係で成り立っている。ある宗教と、異なる宗教では互いに相手を排斥しようと争いを起こす。『人間の本能』だから、いつまで経っても争いの基になる。
昔はお坊さんや神主さんは、尊敬された。尊敬されるにはそれなりの効果や根拠を我々に示さなければならない。ただ、社寺と言う属性だけで、現代では尊敬されるわけがない。衣装は厳かであっても、中身は単なる普通の人なのである。酒も呑めば、風俗産業に行く生臭坊主も居る。古典落語の演目に『錦の袈裟』と云うのがある。ありがたいお坊さんの袈裟を借りて、与太郎のふんどしにしてしまうのだから、何とも風刺が利いていて楽しい。
お寺さんも神社も『商売』なのである。信者や檀家からお布施や寄付を貰い、祈祷料をもらい、結婚式場になったり、お守り、破魔矢、御札、その他色々な物を売って生業としている。何処の宗教が無料で宗教活動を行うのだ? 寄付や入金があってこそで、無料なモノはご利益が無い。『ご利益が無いのは信仰心とお布施が足りないのです』と云うのが彼らの常套句です。
僕がカミさんより早く逝ったとして、葬儀はカミさんや子供たちがやり易いようにやってくれればよい。そのまま山か草薮に遺棄してカラスや犬猫のエサにはしないと思う。第一衛生に良くないや。火葬だけの直葬で良いといつも言っている。骨は海に捨てようが、畑に撒こうが、それとも父母が建てた墓の片隅にのう骨してくれても良い。大体、葬式なんて死んでしまった本人には分からない。盛大な葬儀なんて遺された者の見栄に過ぎない。死んだ後のことまで、あれこれ指示するなんて図々しいにも程がある。
死んだ後には僕はこの世に居ない。イスラム教徒でないから、来世も信じていない。お参りだって要らない。残った人にお任せである。
産卵のために遡上するサケでも、アユでも、タコ、カマキリ、セミも産卵を終えて子孫を残す手続きが完了すると死んでいく。子供を自立させた後は、もう完全に『余りの人生』だと思っている。宮沢賢治じゃないけれど、1日に3度、茶碗に1杯ずつの飯と、雨露しのげる住まいがあれば良い。それ以上望むから欲が出る。
美術工芸品も要らない。グリ一ン車にも、ファ一ストクラスにも乗りたくない。余りに上等なのは居心地が悪い。移動は電車とバスと2本の足で十分。いつ幕が下りたとしても思い残すことはない。(本当かなぁ)病院のベッドでいつまでもダラダラと生きて周りに迷惑を掛けたくない。出来れば突然の心筋梗塞か何かで、ポックリ逝きたい。突然の完結で良い。それも人生。僕はそれで良い。
私の次男は小さい時から虫が嫌いだったようだ。幼稚園生の頃だったか、セミ取りに連れて行って、捕まえたセミを持たせたら、結んだ手の平の中でセミが羽をブルブル振るわせているのが余程怖かったのだと思う。
大人になってもゴキブリだけでなく、小さな虫までも嫌なようです。次男の嫁さんが大丈夫なのかどうか知らない。都会出身でなく子供の頃、ザリガニ取りなどしていたような話だったから、多分大丈夫でしょう。家庭生活を営む上で、夫婦のどちらかが平気でないと、両方共がゴキブリを怖がっては困るな。
次男の息子、つまり私の孫は今年5歳になった。住んでいる所が川崎市でも比較的緑の多い場所だから、セミやカブトムシ、カナブン、バッタ、コオロギなども居るに違いない。次男の息子だから、休日に網と虫かごを持って、虫取りに連れて行ってもらえないのではないか? 幼少期に虫取りなど経験しておくことは非常に大切なことだと信じています。
さて、ゴキブリである。私の母などは『 アブラムシ 』とかつては呼んでいたようだ。『アブラムシ』はアリに運ばれて草花の茎に群がっている、別の系統の虫にその呼称を譲渡したようです。今もゴキブリのことをアブラムシと言っている方が居るのかは存じません。ほぼ呼称がゴキブリと統一されたように思います。
私のかつての知人に『 クワガタムシ 』を飼育されている方が居た。たくさんのプラスチックの飼育箱で飼っているようでした。その方がこれまた大のゴキブリ恐怖症で、ゴキブリが部屋の中に出現すると逃げ回っていた。
『 クワガタもゴキブリも似たような形をしているじゃないか 』と言うと、全然違うと口を尖らせて言うのであった。
黒光りするその姿は惚れ惚れする上に、とてもすばしこい。まるで忍者のようである。見つけると、新聞紙を丸めた物か、スリッパの下面で叩こうとするのだが、動きが素早くて大抵は逃げられる。殺虫スプレーと新聞を丸めた筒で、大立ち回りをすることとなる。紛れ込んだと思われる場所にスプレー噴射するも、敵もさるもので、とんでもない別の所から出現するのである。
ゴキブリは太古の昔から存続しているらしいが、この素早さ、脚力の賜物ではないか。ゴキブリが1匹出現すると、次の日から家の中のあちこちにゴキブリハウスや、ゴキブリ用毒入り肉団子が、ゴキブリが出現しそうな個所に配備されるのである。
皆さんが忌み嫌うゴキブリでありますが、現実の話として、彼らが家の中に共存すると、何か非常なる都合の悪いことが起こるのでしょうかね?
毒を持っていると言う話を聞いたこともない。生き血を吸われるわけでもない。テーブルの上の食品に張り付いていたら嫌だけれど、それほど目の敵にして、丸めた新聞の筒と殺虫スプレーを持って大立ち回りして即座に退治しなければいけない対象でもないような気もする。セミと同じほどのレベルの虫ではないのかなぁ?
私が小学生くらいの時には、自分の周りにはハエがもっと多く居た。今は、便所コオロギと言っていたカマドウマの姿も、カナブン、バッタ、トンボも、何もかもいなくなってしまった。それはそうだ。私たちの周りには彼らが生息できる、雑木林も原っぱも水辺も、みんな無くなって住宅に成ってしまったからなぁ。
雑木林も原っぱがなくても、生存できるゴキブリが生き残れるのか。彼らは環境順応性の高い生物なのだ。研究して学ぶべき事柄が多い生物なのかも知れない。ゴキブリから素晴らしい能力の遺伝子が抽出され、培養して人間に移しょくしたら、陸上100m短距離走で素晴らしい記録が出たんだとさ。なんちゃってね。
小学校の卒業文集の中に将来なりたい職業に、おさむ爺は『 文房具屋さん 』と書いたことをよく覚えている。将来成りたい職業に、プロ野球選手、新聞記者、パイロットなどと花形職業が並んでいる中で、『 文房具屋さん 』とは当時から何とも小市民的な職業を希望したものなのだろう。その当時は知らなかったから書かなかったけれど、知っていたなら、『 隠遁生活 』と書いていたかも知れない。
木製の桶の製造販売をする家で育った。子供の頃、何かと『 桶屋 』、『 桶屋 』と言われ、当時は当たり前であった、家の手伝いもさせられた。サラリ一マンの家庭に憧れていましたが、イメ一ジした『 文房具屋さん 』も、たぶん小学生相手が主で、猫を相手にしながら、店番をするような静かな職業のイメ一ジを持っていたに違いない。プロ野球選手のような華々しく活躍をするような、夢は全く持ちませんでした。まったくの引っ込み思案な子供でした。
かつては、JRの最寄り駅周辺に何軒か『 町の文房具屋さん 』規模のお店がありました。現在はゼロです。ちょっとした文房具を買うのに困ってしまって居ます。今は¥100shopか、本屋さんの店舗の片隅で申し訳程度の文具を置いている所で済ますしかありません。特別の文具は電車に乗って買いに行くしかありません。
ついでに言えば、最寄り駅周辺で本屋さんですら、たったの1軒しかないのです。おさむ爺は現住地に住んで40余年になります。最寄り駅から連なる数本の商店街の中には、小規模な町の本屋さん、おもちゃ屋さん、小間物屋さん、履き物屋さん、雑貨屋さんなど、家族経営のようなお店はほぼなくなってしまったようです。
おさむ爺も猫を相手に店番するような『 文房具屋さん 』にはならなくて良かったような気がします。
昨今、『 将来の姿を夢見て、努力すればきっと希望は叶う 』とか、もう古いですけど、SMAPの歌のように『 世界に一つだけの花 』なんて、子供や若い人を惑わすようなことが多く言われる。
良かれと思って選び、せっかく入社しても数カ月で辞めてしまう。もちろん例外が有って、一般論で言っているのだけれど、余程劣悪な環境でない限り、今居る環境できっちりと仕事をこなせない人が、別の所に行って水を得たようにうまく行くなんて有り得ないと、ジジイは思うのだよ。
『 ここは自分の居場所じゃない。自分の能力を生かせる場所が他にきっとある 』なんて言うような意味の言葉をよく聞くけれど、世間知らずの思い上がりで、考え方そのものがおこがましい。
大リ一グ 大谷選手やイチロウさんに憧れるのは結構です。自分もそうなろうと夢見て努力したって、実現する可能性はゼロに近い。ある世界で際立って突き抜けた人たちは元々才能がある上で、色々な欲望を捨てて邁進し、血を吐くような努力をして今の結果を手にしているのであります。彼らは軽々しくその場に居る訳では決していない。思い付きで大谷選手やイチロウさんのようになりたいと夢を見ているのではない。
将来就きたい職業の夢も、職業の種類によって努力をすれば、可能な職業は確かにたくさんあると思う。綿密な調査と努力によっては可能でありそうであれば、目標に向かって邁進すればよい。だが、夢は必ずしも誰もが叶うわけではないことを十分知っておくべきだ。
夢が叶わないと分かった時点で、さて今後どう対処していくべきかを考え、学ぶことがとても大切だと思う。夢が叶わないと絶望するだけでなく、自分の生活設計を含めて、土俵際まで押し込まれた時の我慢強さや、踏み止まる底力を養成することが大切だなあ。
ジジイは今、家に居てブラブラしている身分なのだ。『 誰からも評価されることのない身 』は行動した成果を評価されることもない。ちょっと寂しい気分なのです。
50年間以上、吸っていたタバコを止めて、3年半くらいになる。全くと言って良いほど気に成らない。ごく稀には『 タバコって、どんな味だったかな 』と思うことがある、と言うのが未練がましい正直な本音であります。
禁煙するとやはり体重が増えて来る。おさむ爺は一見すると痩せて見えるらしい。BMIでは、数値が25以上になると太り気味と言う。ジイはそこまでは行かないが、24台である。健康診断で腹囲を測定するが、男のメタボの目安の85cmは遥かに超えている。
ズボンを穿く時、ファスナ一を上げる前に、まずフックかボタンを掛けなければ成らない。今の状態では息を吸い込んで、お腹を一旦凹ませなければ、フックもボタンも掛からない。普段穿いているズボンでは、もはやベルトは必要ない。ズボンのフックかボタンを掛けた状態で、お腹の上部の肉( 脂肪?) がオ一バ一ハング状態になっている。
夜中に目が覚めてしまった時にテレビを点けると、テレビショッピングの番組をやっている。このところ、あまりテレビで見なくなってしまった、タレントさんを使って商品説明をしたり、商品ビデオを流して紹介している。
ずっと以前のことだが、寝転がってテレビでも見ながら、お腹の筋肉をピクピク動かす『 電動筋肉養成(脂肪削減)ギブス』のようなものが有ったことを思い出した。その後、効果が期待できずにその商品は無くなってしまったかどうかは知らない。
弊ジイだって、少なくとも20代までは腹筋が8つに割れていた。苦しい腹筋運動をしばしばやっていたし、その頃はまだ代謝が良くて、いくら食べても太らなかった。腹筋運動は本当に苦しい。寝転んだまま『 電動筋肉養成(脂肪削減)ギブス』を使って、腹周辺脂肪除去と腹筋養成は頭良いけどズルい。
こんな商品は多分アメリカの商品であろう。大統領候補の選挙の演説会の聴衆や、米国市民の映像をテレビで見ると、アメリカ人はデブが非常に多い。これでもかと言うほどデブばかりだ。高カロリ一のフライドチキンや、キャベツほどの大きさのハンバ一ガ一を食べたり、2~3リットルのコ一ラを平気で飲んでいて、とにかく食に関しては桁外れだ。
カロリ一の高い食物を摂取する一方で、横になってソファ一に寝転んで、ポテトチップスでも摘まみながら、楽してお腹を凹ませようと考えるのだから、虫が良いのも良いところだ。ズルいよ。
お腹に離して貼った2つの電極パットに電流を流し、電気の刺激で筋肉をピクピク動かして、お腹が本当に凹むのであろうか?
かつて、私は腰痛持ちであった。今ではほとんど毎日、腹筋運動を含む体操をしている。体操のお陰で腰痛は大幅に改善された。腰痛は運動ふ足だから起こると言う信念を持っている。腹筋運動の副次効果で、お腹も凹むに違いないと思うのだが、期待しているほどには、腹は凹まない。
腰痛持ちだったから、家で手軽に掛けられるように、我が家にはオムロンの家庭用の低周波治療器が2台ある。夕食を食べて風呂に入った後に、寝転んで本を読む習慣がある。この時間を無駄に過ごすことはない。『 時間は有効に使わなければいけない 』とかつてパスカルも言っていたような気がするが、確かではない。
お腹を出して、低周波治療器のパッドを貼り付け電源を入れる。電気の刺激で確かにお腹の筋肉がピクピク動く。
『 もしかしたら、良いかもしれない 』
筋肉はなるべく大きく動かす方が効果的であるに違いない。かと言って、レベルを強くし過ぎるとパッドを貼り付けた接触面の皮膚が痛い。低周波治療器には『たたく』と『もむ』という2つのモ一ド切替えスイッチが付いている。筋肉の方だって同じ刺激ばかりだと慣れるし、飽きが来る。10分くらいずつでモ一ド切替して、筋肉にも気分転換して、新鮮な気分を味わって頂くことにした。斯くして、約1時間、2日に渡って施術したのである。
腹の脂肪は一朝一夕に蓄積したのではない。長い時間を掛けてこれだけ迄、成長を遂げたのである。まあ、2時間ほどでは顕著な効果は出まい。脂肪の事だけに、『 死亡診断書が必要だ 』なんて、ジジイギャグも出てきそうだから止めておく。本を読みながらの併行作業だから、時間の有効利用が出来てまことに結構。腹筋運動の苦しさも全くないが、実際に効果が有るのかは一抹の疑念も否定できない。『 継続は力なり 』 誰だって楽してズルしたい。
放送大学の科目履修生になり、『 枕草子の世界 』と言う講座を学んでいると、5/2に書いた。一年掛けての講座ではなく、半期の講座はまだ継続中で学び続けている。これから幾許もない余生に『 今更、そんなこと学んでどうするの? 』と言う気持ちが確かにある。
一回の放送で印刷教材の中の一章ずつの講義がある。高齢受講者だから理解力にも欠ける。少なくとも印刷教材の講習範囲を二度は読んで講義に臨み、復習して読んでいる。既に少なくとも一冊分3回は読んでいる。
おさむ爺の生涯でこんなにも入念に本を読んだのは、夏目漱石の『 こころ 』以外にない。『 こころ 』は生涯に合計して何度読んだか分からない。たぶん高校生だった時と思うが、連続4回読んでいる。一旦読み終わると、また始めから読むと言うことの繰り返しで、読む都度に新たな発見や感動があった。多分、若かったからそんなことをした、あるいはできたのだと思う。
『 枕草子の世界 』と言う本を何度も読んだのは、興味があるからと言うことはもちろんだが、一度読んだだけでは何となく理解できず、仕方なく何度も読むと言う、年齢面の理由が有ったことは否めない。まあ、『 好きこそ上手 』、『 下手の横好き 』と言うことにしておこう。
実際には次に学ぼうとしている準備は始めていて、『 方丈記と徒然草 』を学ぼうと思っている。早々、ネットで『 方丈記と徒然草 』と言う教材と、『 方丈記と住まいの文学 』という参考資料を入手して読み始めている。
おさむ爺はこの6月に後期高齢者になった。死ぬまでの間、つまり余生にもう何をしても良いのです。定年退職などでリタイアした後、人によっては “そば打ち” をしたり、 “陶芸” 、 “NPO法人” を立ち上げて、ボランティア活動のようなものをしたり、お金のある方は“世界遺産ツア一”をしようが、大型客船で“世界一周”する方もいる。何やっても良いのです。おさむ爺は予算の都合もあって、たまたま『古典を学ぶこと』に興味を持ったに過ぎません。
『 今、あなたは何が一番好きなのか? 』、『 何がしたいか? 』、『 何をしている時が一番楽しいか? 』・・・・・。 答えは何でも良いのです。ただ、他人に迷惑を掛けてはいけない。“そば打ち” だって、亭主が週に1度やってご覧なさい。打ち上がった蕎麦は捨てる訳にいかない。友人知人を集めて、『手打ちそばを食べる会』を開催しても良いが、そう度々は出来ない。するとご家族は家人が “そば打ち” をする都度、毎度出来た蕎麦を食べなければならなくなる。他の人に苦痛を与えてはいけないのです。落語の『 寝床 』あるいは『 茶の湯 』のように、周囲のものに災難が及ぶようではいけないのである。
あなたが○○をやることで、あなた以外の誰をハッピ一に出来るか?あなたの好きなことは、あなた以外の誰のためになるのか⇒それは最終的に我国のためにどう生かされるのか? そこまで行ったら大したものだけれど、それほど大仰なものではない。
私たちはもう好きなようにして良いのである。好きなことが言えるようになったのである。人が何と言おうと関係ない。人の目なんか気にしなくていい。欲しいものは欲しいと言った方が勝ち。でも、もし余裕があったら、自分の姿形にも少しは関心を持とうね。筋トレでもして、体力を付け姿勢を正しくしなくてはね。
生きたいように生きようと言っても、うっかりするとすぐに易きに流されるのが人間。その点は十分注意をしなくてはいけない。どうしても、他人に厳しく、自分に甘くなりがちだからね。
あまりに肩ひじ張らないで、『 晴読雨読、ときどき散歩 』なんかを motto にしたらどうでしょうかね。
今年3月末から4月に掛けての話で、もうすごく古い話となってしまった。日本テレビ系の、もう50年以上も続いている『笑点』というお化け番組である。この3月で林家木久扇さんが勇退した。当時、木久扇さんの後釜は誰になるのか、話題に成っていた。
私も木久扇さんの後釜はどなたになるのだろうかと予想していた。『笑点』と言う寄席風バラエティ番組で『ボケ』を演じる木久扇さんの後釜は実力的に、きっと大変である。関西の漫才師コメディNo.1の『あほの坂田利夫』さんと同じように、木久扇さんの演じる『ボケ』は観客を前にした時だけで、普段はとても見識のある方なのである。『ボケ』は芸なのである。
『笑点』は恐ろしい番組であります。なまじの芸では潰されてしまいます。面白くないとして、2代目の林家三平さんは潰されて降板させられてしまったことはご存じでしょう。
さて、次はどなたになるか? 木久扇さんは本心では、きっと自分の息子の『木久蔵』さんに継がせたいと思って居たところでありましょう。木久蔵さんが “面白い回答をする”実力がなければ、すぐに干されてしまって、ダメな落語家のレッテルを貼られてしまうのである。
三遊亭小遊三さん、三遊亭好楽さんは77歳くらいである。もう、何年か後には『笑点』を降板しなければならない。今、『笑点』はオジイサン、オジサンばかりの番組である。女性が一人ぐらい笑点メンバ一に加わっても良いかなと思って、私は『蝶花楼桃花』さんか、『林家つる子』さんであっても良いかなと思っていました。両人は笑点の『若手大喜利』にも何度も出演して視聴者に顔が売れておりましたし、メンバ一の若返りの点からも、資格充分であったと思います。でも、女性メンバ一が加入すると三遊亭小遊三さんは下ネタがやり難くなるかな。
4月になって、新メンバ一は『立川 晴の輔』さんと発表されました。若返りを図ると思っていましたから、私としてはちょっと意外でした。『立川 晴の輔』さんは笑点の若手大喜利には何度も出演していますから、視聴者の皆さんも彼の顔はよくご存じです。ただ、落語の世界では50代ではまだ『若手』なのかもしれません。
三遊亭小遊三さんだって、今77歳のお爺ちゃんです。彼の師匠の三遊亭遊三はお元気でまだ現役で高座に上がっております。だから小遊三はいつまでも『小』を外せません。きっと落語家を引退するまで小遊三のままかも知れません。
落語界には現在、4つの団体があります。『落語協会』、『落語芸術協会』、『立川流』、『5代目三遊亭圓楽一門』です。笑点では『落語協会』所属の落語家さんが林家たい平さん、春風亭一の輔さんの2人、『落語芸術協会』所属が春風亭昇太さん、三遊亭小遊三さん、桂宮治さんの3人、『5代目圓楽一門』が三遊亭好楽さんの1人で、『立川流』の落語家さんが居りませんでした。
番組としての『笑点』としては、4団体から満遍なく落語家さんに出演して頂くと言うのが順当な線でありましょう。それで今迄、笑点の若手大喜利に何度も出演していた『晴の輔』さんに白羽の矢が当たったモノと思われます。
私はそれに加えて違う理由も有ったのではないかと思っております。民放の番組はスポンサー有ってのものです。スポンサーの意向に沿ったものでないとなりません。笑点のスポンサ一って、しっかりと調べていませんが、“お線香の会社”、“龍角散”、“紙パンツや尿漏れパッドを作っている会社”、“葬儀の互助会の会社” その他、直ぐに思い浮かびませんが、スポンサ一を見れば分かるように、笑点は『年配者向けの視聴者』、『老人向け』の番組なのです。人気の長寿番組なのですが、若い方は『笑点』をあまり見ないのです。
若い人が見る番組には、若い人を購買層とする会社が番組を提供するのです。ここ数年来のこと、NHK紅白歌合戦が、年配者の分かるような歌がなくて、年配者にふ評のようです。番組を構成する時に、どの年代層に人気がある歌手・歌を選ぶかと言うことです。と言うことは、紅白の視聴者は高齢者がもはや『圏外』なのです。
さて、『笑点』に戻って、本命かと思われていた『蝶花楼桃花』は40代前半、『林家つる子』は真打になったばかり。『蝶花楼桃花』さんが、松田聖子さんの歌なんか歌って、若ぶっているのがいけなかったのかもしれない。番組とタレントさんの配置が重要なウエイトを示す。お金を出して宣伝をするのに、番組の視聴者の層を考えないスポンサ一は居ません。購買層が見ない番組を提供するスポンサ一などないのです。
笑点スタッフは番組メンバ一を若返らせなくてはと思いつつも、『立川流』の面もあって、無難な選択をされたのだと思います。冒険をしなかったのです。
年配者だと言っても、今の60代、70代は昔と比べて若さを保有しています。でもね、本物の若い人に比べたら、しわや顔の色が土色に近付いてしまって居るのは避けられない。顔の色が土色に近付いているのに、着るものまで、茶色、モスグリ一ン、ベ一ジュ、灰色の地味なふくを着たいとは決して思わず、なるべく明るい色を求めたいものなのです。
『笑点』と言う番組がまだまだ続きのであれば、次は小遊三、好楽の交代も考えなければならない。その時はどう考えるかね。『圏外』という線引きをどう引くのか難しい時代なのでしょう。
働いていないから、ほとんど家に居る。年配の夫婦と言うのは、総じて会話が少ないようであります。寝転がって本を読んでいると、カミさん、色々話しかけてくる。私はもっぱら相槌をする係に成り下がっております。
昔から『男は黙ってサッポロビール』のごとき、男のおしゃべりはろくでもないと言う美学が日本にはあるようです。これはおさむ爺の思い込み・信念であるのかも知れない。女性については元来おしゃべりが好きなのが一般的です。寡黙な亭主が原因で、年配者の夫婦では会話が成立しない場合が多いようです。
映画の場面ではありませんが、『 男は黙ってドスを胸に、討ち入りに行く 』なら、えらく格好いいものです。 『 男は黙々と飯を食らう 』では、なんとも体裁の悪いものであります。従いまして、用事の時以外ものを話さない亭主に対して、カミさんが文句の一つも言いたくなるのは理解できるような気もします。
だからと言って、会話が弾むからと、その夫婦が良好な夫婦関係を築いているとは限りませんし、会話がなくなってしまったから、夫婦が崩れてしまう夫婦だっている筈です。
黙して語らずとも、『 阿吽の呼吸で 』、相手の考えや感情の動きを察知できれるようならば、それは夫婦にとって最高だとも思えます。ただ、この関係を築き上げるのには、二人の価値観が一定でなければ、中々難しいのではと思えます。
それに引き換え、私の知る限りでは、外国人はよく話をします。アメリカ人でも、アジアの人も一様に良く喋ります。彼らには『 男は黙って・・・・ 』という考えがないようです。話をしない人は『 喋ることがないのだ 』と簡単に決め付けてしまっているようなところが見受けられます。
その理由は、日本の周囲は海に囲まれていて、その構成は一応皆日本人という単一民族国家だからだと思います。アメリカ、中国、それから何度も行ったことのあるマレーシアは多民族国家なのです。単一の民族でも、その国境が何カ国とも接していて、昔から侵略を受けたり、侵略したりと言う長い歴史を経てきた国々では、隣に居る人が『 何処の馬の骨だか分からない 』という関係があったことに起因するのではないでしょうか。
そういった連中の寄せ集まっていれば、言葉に頼って自己の主張をするしか方法が無かったのです。そんな中では『 男は黙ってサッポロビール 』なんて考えは通用しません。寡黙な人には『 主張がないから黙っているのだ 』と思われても仕方ありません。
素敵な女性が居たならば、言葉によって『 愛している 』『 愛している 』『 結婚してください 』と繰り返し、自分の気持ちを表現して迫らなければならないのです。初めに、『 年配の夫婦は総じて会話が少ないようであります 』と書きました。それはあくまで阿吽の呼吸が意思疎通する世界だけに通用することであります。最近では移民、難民問題もあります。隣に居る人が自分と同じ一定の価値観を持って居るなんてことは有り得ません。
バーのカウンターで一人で黙って酒を呑んでいるだけで、女性の方から声を掛けてくれるのではなどと言うのは、誠に幻想に過ぎません。ただ、夫婦になった後でも、絶えずカミさんを笑わせ、喜ばせなければいけないと言うのも辛いものがあります。私は古い日本人です。
誰かの『 正解 』が私の正解とは限らないのです。正義と云った方が良いのかも知れません。ウクライナ、イスラエル・ガザ方面、スーダンで多くの血が流されているのです。ちゃんと話をして自分の意思を言わないと話が通じないのです。
私たちジジイの財布にはシンサツが入っていてかなり分厚い。シンサツと言っても、診察券だから情けない。医院、クリニックの他にも、家電量販店のカ一ド、ホ一ムセンタ一、マイナンバ一カ一ド、クレジットカ一ド、その他のカ一ドが財布の厚さに寄与している。肝心のお金の何と寂しいことよ。ジジイは尻のポケットに財布を入れるから時にカードが割れてしまう。
若い頃は風邪など滅多に引かなかったのに、4月の始めに引いたものが、まだ鼻に残っている。歳を取るという事は本当に厄介なものです。
現代ほど老い方が様々である時代はなかったような気がします。誰もアテに出来ない現実に気が付いていると思います。
ジジイは今74歳ですが、令和4年の厚生労働省の『簡易生命表』に拠れば、男で平均余命はまだ12歳もあります。もちろん平均ですから、各々の状況によって違うのは当然です。ただ、12年丸々有効かと言えば、これから歳を経て死ぬ間際では認知症や体のふ具合でヨレヨレとなれば、生きている感慨もないのも同然と言う気はします。
『天は自ら助くるものを助く』と言います。自分を励まし、志す道を進もうとする意思を持った人こそ、天は助けてくれるのです。何かを望むには行動しなければいけない。老人と言えど、テストステロンはまだ残存しているような気もします。頭の中では『老いらくの恋』にも憧れます。
白髪なれば染めれば良いし、歯がガタガタなれば入れ歯かインプラント、髪が薄ければかつらかウィッグを、EDなればバイアグラ、眼鏡や補聴器で済むような肉体的欠そんや退化にたじろがない強靭な精神が必要です。恋には多少の投資が必要ですな。ただ、これから投資しても、それに見合うだけの効用が得られるかどうかは分からない。
好ましい人に仄かな恋心を抱いても想像するだけでは中々状況は進展しません。我々凡人はなまじ想像力があり、そこから発生するかもしれないトラブルを想定でき、お互いの痛手も仮想出来る。
私たちの年代は皆、多少の差こそあれ勤勉、真面目、律儀を美徳として、教育され、叩き込まれている。チャランポランの出来ない世代なのである。思い立ってチャンポランにやろうとしても、ムカシ人間には中々の難事業なのである。
そんなことなら、踏み出さずに置こうと断念してしまう。そんな想像ばかりでは何も出来ないのでありますな
『寿命』と『余命』がありますから、気を付けて読んで下さい。
2022年のデータで、『平均寿命』は男が81.05歳、女が87.09歳です。これを自分の歳と照らし合わせて、『あと何年くらいかな?』と思う方がいらっしゃる。これは大きな間違いで、『平均寿命』と云うのは、産まれたばかりの0歳の人がこれから平均して何年生きるか、つまり0歳児の『平均余命』を表わしたものであります。
今年75歳になりますおさむ爺の世代の人たちが、これから平均してどのくらいの『余命』を示すかは別の表があります。厚生労働省の『簡易生命表』(2022年)に拠りますと、75歳での『平均余命』は男で12.04歳、女で15.67歳です。
75歳の男で平均12歳も生きるのか。12歳と言っても、そのうち死ぬ間際に近い何割かはヨイヨイであろうから、頭や体がまともなのはもっと短い筈。
僕がそれまでは死ぬまでにしたいことを、箇条書きにするとか、何らかの予定表を立てて、計画的に実行するかと思うかと言えば、その気は全く無いな。
『気が多い』と言うのか、『熱しやすくて冷めやすい』なのか、ちょっと良いと思うと直ぐにやりたくなる。自分だけだと意志薄弱だから、何となく仲間が居た方が長続きするような気がするが、直ぐに相手と比較してしまう。やはり一人でやることにした。
仕事を辞めてから2年以上経過した。日常行うこと以外に特にやらなければならないことはありません。だからと言って、毎日、テレビ三昧の日々はアホになると信じている。少なくとも毎日午前中はボケ対策として算数と漢字書き取り、新聞読みをしている。
前からそのなまえだけは知っていた。新聞のテレビ欄を見ていて、BSで“放送大学”と言うのをやっているのを知ったのは3月初旬だった。急に受けてみたくなるのは、オッチョコチョイのおさむ爺の良い所であり、欠点でもある。急げば何とか4月の授業開始に間に合いそうだ。
資料請求、入学願書提出、入学金、授業料払い込みなどして、教材が届いたのが3/31である。 授業開始が4/1ですから、滑り込みセ一フと言うところでした。
放送大学と言ってもジジイの出来ることなど知れております。学部も『教養学部』しかありません。改めて80万円近くのお金を掛けて全課程を履修しようなんて到底無理です。第一、終了まで生きているかどうかも分かりません。現在、私の受けているのは『科目履修生』というコ一スで、一般の大学で言えば『聴講生』のようなもので、履修する科目数はたったの一科目です。科目はガラにもなく『枕草子の世界』と言う王侯女流文学を学ぼうと言うものです。
NHKで現在『光る君へ』と言う大河ドラマをやっています。大河ドラマは紫式部を題材としています。丁度世代が同じで、枕草子の作者の清少な言も出てきます。
あの大河ドラマの背景や登場人物の相関関係を、たいていの皆さんはご存じないでしょう。登場人物のみよう字も『藤原さん』と『源さん』ばかりで、折角NHKが大金を使っての大河ドラマなのですが、何だかさっぱり分からない。朝日新聞に週一度出て来る週間視聴率ランキングでも、ちっとも上がっていません。
私が今学んでいる『枕草子の世界』は大河ドラマと丁度時代が合致していて、登場人物の相関関係がほぼ分かる。NHKも大河ドラマに採用する時代を考えないと、お金をかける割にちっともヒットしない。担当者は勉強ふ足だよ。大河は戦国時代から江戸時代あたりにしないと、視聴率は上がらない。
肝心の枕草子だが、第一段の『春は曙~』ばかりが有めいで、ほとんどの方が325段まであることなんか、ちっとも知らない。当時は印刷技術もないから、手書きで写本していた。写本によっては記述が違う。私も同じでこの講座で学んで初めて知った。
他の講座はテレビやWebの講義がありますが、私の受けているのはラジオ番組です。講師の方がテキストを読んでいく講義なのです。これならテキストをじっくり読めば済むじゃないか。
お金を払って学ぶ以上はしっかりやろうと思って、ラジオの講義の前にテキストを2回以上読み、予習して臨んでいる。
この講座を履修するに当たって、入学金¥7,000、テキスト、資料など含めた授業料¥12,000を払い込んだ。こんなことなら枕草子に関する本を買って、みっちり独習した方が安上がりだなあ。まだ始まったばかりで、途中にある提出物や、修了テストへの対応は分からない。結論は出せませんが、今のところ『コスパが悪いな』との印象です。
実は次には『徒然草』、『方丈記』も学んでみたいと思っているのです。同じ講師の方なので、どうしようか、とても迷っております。
人はよく生き方と言うか、人生を何かにたとえます。入学式、卒業式、入社式、結婚披露宴などの祝辞などでも、時たま出て来ます。そのたとえは月並みで、安易なものかも知れませんが、
『人生は山に登るようなもの』
『人生は航海のようなもの』
などですが、登山であれば人生は苦しい登りもあれば、登り切ったときに素晴らしい見晴らしの良い所に出るし、下りは足がガクガクするかも知れないが少しは楽だ。滑落の危険も有るかも知れない。安全に下山出来てこそ登山が成功したと言えるのです。
航海にたとえられても、荒天もあれば、なぎの時も有る。快晴に恵まれれば、航海も楽しい。荒波が来れば乗り越えようと頑張り、乗り越えられると自信にもなる。言わば、どなたの人生も多かれ少なかれ波乱万丈と言うわけです。
ただ結婚披露宴の上司の祝辞は、その場その場限りのもので、そう言う『たとえ』は通り一遍のあまり責任の無い、真剣に考えるほどの言葉でもないような気もします。
そんな『たとえ話』よりも、『人生は選択の連続』なのです。私たちは日常生活の中でも様々な選択をして生きています。小さなことですが、ス一パ一で物を買う時、積み上げられた魚のパックや、肉のパックをとっかえひっかえ眺めて選んでいる人が居ます。これも選択の一種。
ここではもう少し大きな人生の転機における選択について考えてみます。
進学先として選ぶ学校
就職先として選ぶ会社
進学するか就職するかの選択
結婚相手として選ぶ相手
転職するか、女房、子が居るから冒険せず、嫌でもこのまま現在の会社に残るか
一念発起して独立開業するか
会社を定年になった時、仕事を辞め以後は家に居て年金暮らしをするか、再就職先を探すか
などなど人生の様々な状況で私たちは選択を余儀なくされます。
ただ、進学先、就職先、結婚相手、独立開業などは相手の有ることですから、こちらで幾ら希望しても試験で落とされたり、相手に拒まれたり、独立開業しても客がさっぱり来なかったりと、こちらの希望・思惑通りに行かないのが世の常であります。また、人によって条件は様々で、選択したくても出来ない場合も多く発生します。
一旦決まった待望の進学先でも、就職先でも、結婚相手でも、はたまた独立開業でも、実際に中に入ってみたら『こんな筈じゃなかった』と言う事もよく起こります。人生は双六ではありません。サイコロの目次第で『三つ戻る』など簡単には出来ません。歌の文句ではありませんが、何処かで一つ曲がり角を間違えてしまった何と言う事は日常茶飯事です。
まだ年齢的にも若く、経済的にも余裕があれば人生をやり直すことも出来るのですが、現実には取り巻く状況によって中々そうもいかない。
上手く行かなくてなっ得できなくとも、ダメな理由を他人に転嫁することなく、自分の問題としてじっくり考えるべきです。本当に自分で選択し切った実感があれば、苦しくとも過去に戻ってやり直したいとは思わないものです。
結婚に関して、何処かで読んだ言葉ですが、
『二十愛情、三十惰性、四十忍耐、五十諦観、六十感謝、七十成仏』
と云う言葉に大変興味を持ちました。これは結婚だけでなく、進学は期間が短いから何ですが、就職でもこういった言葉は少し変えれば応用できそうです。いつまでも、何に関しても忍耐と後悔と諦めが付きまとうものです。
何か、当たり前過ぎるような内容になってしまった。
昔から、著めい人は後々の世まで残るめい言を残している。
『人は考える葦である』(パスカル)
『それでも地球は廻っている』(ガリレオ)
『駕籠に乗る人、かつぐ人、そのまたワラジを作る人』(家康)
『勝って兜の緒を締めよ』(家康)
などなど、数え上げたらキリがない。一人の著めい人とて、専門に言葉を吐いていたと言う訳でもないから、それほど数が多いという訳でもなさそうだ。
ところが、一人でたくさんのめい言を作ってしまったという方が居る。書道家の『相田みつを』さんだ。ネットで調べたら、それこそ大変な数があった。羅列したらそれこそ切りがないので、2つだけ例に取ってみます。
『つまづいたっていいじゃないか 人間だもの』(みつを)
『どじょうがさ 金魚のまねすることねんだよな』(みつを)
相田さんの真似をして、『だもの』を付けると、たいていの言葉が慰めとか、人生の応援歌にもなってしまう。これなら僕にもできます。
「運動会でさ、ビリになったっていいじゃない 人間だもの《(おさむ)
本雑文の題目も、『よたよただっていいんじゃない 人間だもの』も相田さんの『人間だもの』を無断借用いたしました。
僕がめい言らしきものを考えても、僕は著めい人でないから、僕が考えた言葉が後世まで残されることはない。爺さんが戯言を言っただけとなるのは目に見えている。
今日は書いているけれど、風邪が治った訳では決してありません。具合が悪いなと思った日からもう既に10日が経過した。幾分良くなって来たかなと言う程度である。歳を取ると風邪をひいてこじらせてしまうと中々治りません。
風邪だけでなく、前々から左ひざの内側の奥の方が痛い。痛いと言っても歩くには支障がありません。レントゲンを撮って貰って骨には異常がなく、歳を取って来て、膝の内側の軟骨が摩耗して、膝の所がふ安定でガクガクしているとの診断。直すには椅子に座って足を上げ太ももの内側の筋肉を付けなさいとの助言を受けました。それでもダメな場合にはヒアルロン酸、コンドロイチンの注射を膝に打つとのこと。 『ヒアルロン酸とコンドロイチンは飲んでも効かない』と素気がない。
色々な製薬メ一カ一や食品メ一カ一がタレントさんを使ってコマ一シャルをしている。お医者さんから飲んでも効かないと言われて、製薬会社もCMに出演されている方の立場はどうなるのでしょうかね。?
もっとも、『個人差』により効果には違いが出ますと必ず書いてある。サプリメントを飲んでちっとも効果のなかった人は、『個人差により自分は効果が出ない人なんだ』となっ得するかね。
ちなみに焼き鳥の軟骨を食べてもダメだとか。
湿布薬を貼って、筋肉増強の運動をしても一時よりは大分症状も緩和しましたが、まず本調子には歩けません。杖を使うほどでもありませんでもよたよた歩き。歳には勝てないものだなあ。人間だもの仕方がないか。
大分陽気が良くなってきた。もう厚いコ一トは要らないかなと思うが、まだ寒くなることがあると言うから、油断はできない。ラジオを聞いていたら、靖国神社の桜の標準木に開花があるかどうか、気象庁の担当者の他、報道各社からも来ているのだと言っていた。ロシアでは百何十人もの人が亡くなったり、怪我をしていると言うのに、日本は何と平和で幸せなことであろうか。こんな緊張感のない国民は本当に困ったことなのだ。
日本人は何とこうも桜が好きで、騒ぐのでしょうか。ソメイヨシノが咲いている期間なんて、ほんの10日間くらいです。パッと咲いてパッと散ってしまうのが日本人の気性に合っているのかもしれません。
先の大戦で日本は空襲に合って、1日に10万人以上が亡くなって、一夜で焼け野原になってしまったり、原子爆弾を投下されて多くの人々が亡くなったのに、今では米国を最良の友好国としている。日中韓の会談で、過去の歴史問題を問われたり、過去のことを引きずっている近隣国とは、だいぶ気性、性格が違うようだ。日本人は過去の出来事をすぐに忘れてしまう国民性があるのであろう。
今年はもう過ぎてしまいましたが、啓蟄で動き出すのは虫たちだけではないようです。人間も寒い間は動くのが億劫でも、暖かくなると段々体が動くようになるものです。もうじき種まきの準備もするようになります。何処かに散策に出掛けたり、散歩するにもよい季節となりました。
昨日で言えば、昼間は寝転んで新聞や本を読み、夕方に大相撲千秋楽のテレビ放送を見て、夕食を食べ、風呂に入って、NHKの大河ドラマを見た。何とも情けないような生活です。
普段ろくに何も有意義なこともしないで、過ごしてしまったことを悔いている。趣味に生きようにも、根気が続きそうにないような気がする。それでも、こんなことではいけないと、先日、一念発起して申し込んだ放送大学の入学許可がやっと届いて、4月から頑張ろうと思っている。ただ、自分自身との長年の付き合いで、自分の性格と通常どんな行動パタ一ンを取るか、自分自身ですから十分に分かっております。いつもどこか醒めていて、何かに夢中になれる性格ではないことは十二分に心得ております。
人のなまえを思い出せない、ちょっとした暗算が面倒になって来た、聞いて覚えた積りでも3歩歩いたら忘れてしまうなどなど、少しずつボケの兆候が出て来たけれど、これ以上ボケないで何かに夢中になり、自由にとまでは行かないまでも体が動き、気が付いたら死ぬ直前だったと言うのが理想である。
でも、4月からは自分のへそくりからお金を出したのだから、放送大学を本当に頑張ろうと思っている。
どうなることやら。
老年となると食べ物を飲み込む際に、誤嚥と成り易い。誤嚥を防ぐには、大きな声で発生する訓練をしなさいと言う。落語の『 じゅげむ 』、『 厄払い 』の口上でも何でも宜しい。どうせ覚えるならフ一テンの寅さんの口上や『 ガマの油売り 』の口上が良かろうと思う。ネットで調べたらご丁寧にどちらもある。取り合えず、寅さんの口上をやってみようかい。
私、今でこそ口上を練習してみようかと気楽なこと言っています。今日の話は口上の事でなく、悩みのことです。 在職中は仕事で大いに苦しみました。精神科にも通い、薬も長い間のみ続けました。仕事は苦しいことをするからお金を貰えるのです。寅さん映画は好きでしたが、寅さんでは解決しなかったな。
いつになっても寅さんは人気があります。フ一テンの寅さんは何故、全国を行脚して回っていたのでしょうかね? 性格的にサラリ一マンなどの堅苦しい定職に就けなくて、しがらみの少ない個人営業の移動販売の職業を選んだのでありましょう。寅さんのような、自由人は皆さん誰しも憧れるところです。堅苦しい社会生活を営む凡人には踏ん切りがたいところです。それで寅さんは人気が有るのでしょう。
街頭、縁日、祭礼など人出の多い所に露店を出して、小物を叩き売る香具師をしていました。いつも持っていたカバンの中には怪しげな商売モノの小物が入っていたのでしょう。
寅さんにはめい口上がたくさんあります。
『 見上げたもんだよ、屋根屋のふんどし たいしたもんだよカエルのションベン 』
『 労働者諸君! 稼ぐに追い付く貧乏なし 』
『 結構 毛だらけ 猫灰だらけ お尻のまわりは糞だらけ 鶴は千年 亀は万年 隣の婆さん後一年 』
なんて、その数は大変なものです。寅さん、本当は気の小さい人なのでしょう。人前で話をするには大変勇気の要るものです。それが口上と成ってしまうと、一回覚えてしまえば、あとは慣れと勢いです。その都度考えてモノを言うのと違って、一度峠を越えてしまうと、小心者でも勢いで出来てしまうものなのです。
間違えてはいけないことは、フ一テンの寅さんに憧れてもダメです。寅さんは『 虚構の世界の作りモノ 』なのです。現実の世界で生活して行く厳しさから逃避出来るのは、映画を見ている時間内だけです。
誰しも悩みを持っているものです。逆に言うと悩みを持っていない人など居ません。ストレスを上手く解消できずに、一人悩みを抱え込み悶々と苦しんでいらっしゃる方は、きっと寅さんが羨ましいのに違いありません。
もし、仕事や家庭のことで悩んだり、困り切った方が、寅さんのように、職場や家庭からのしがらみから逃げ出し、全国を転々としても、普通の人なら1日たりとも安らかな気持ちで居た日などないに違いありません。
多分、その方はうつ病なのかと思います。一人で悩まず精神科医や薬の助けを得ればよいのだと思います。誰しも苦しい時には行方ふ明に成ってしまいたいものです。悩んだ時点で医師と相談すべきです。精神科と言うと日本では『 気違い 』じゃないかと、偏見があるものです。私もかつて精神科に通って、薬を飲んでいました。一人で悶々としているより、薬を飲んで楽に成る方が余程よい。
『 悩んだら、まずは医師に相談 』と言う事でしょうか。
私は自分の性格が嫌で嫌で堪りません。多分、同じように協調性の乏しい内向的な性格に苦しんでいる方もたくさんいらっしゃるのではないかと想像します。自らの性格を認め、このまま自分を貫こうと思っている方もいるでしょうが、私は出来れば自分の性格を直したい。
私の祖父も父も自営の職人でした。私の卒業時の職業選択に際し、父の作っている品物が既に時代遅れであると思っていた故、父の仕事を継ぎませんでした。その時には自分の性格が分かっておりましたから、父のように何か一人で出来る仕事がしたかった。さりとて学校を卒業して直ぐに、起業する力もない事が分かっておりましたので、サラリ一マンの道を選びました。
会社はいくつか変わりましたが、組織内で40年間以上働きました。食うためには仕方なく、会社と言う『 群れ 』の中で仕事をすることが、折に触れ私には苦痛でした。
性格的に内向的とか、協調性がないことで、『 群れ 』の中に居る事が苦手なのです。かと言って『 一匹狼 』と成りきるほど自分は強くない。いつも群れの端に居る偏屈な性格の、変わり者の羊のようなものです。
それでも何とか仕事はやってきました。利益を上げると言う会社の目的があるからです。それぞれの部署で役目を果たしてきました。ある目的のためには大勢の人前でプレゼンテ一ションすることも嫌ではありませんでした。
特に苦手とするのは飲み会などです。新年会、歓送迎会、忘年会などに出席しても、近くの人と話をするネタがないのです。話題性に乏しいとか、雑談力がないと言うのでしょうか。ですから私の隣り合わせた人も話をしないから、飲み会が進むにつれて段々と何処かに行ってしまい、自然とポツンと成ってしまうのです。
人懐っこいと言うのでしょうか、誰とでも直ぐに気楽に話の出来る方がいらっしゃいます。そんな方が羨ましい。努力はして来ましたが、中々治りません。子供の頃からずっとですから、寂しい思いをして来ました。ある題目があり、場を与えられれば話せるのですが、どうでも良いような雑談が出来ないのです。
もともと運動神経がにぶいので、どのスポ一ツをやってもダメです。特に野球とか、バレ一ボ一ルのような団体競技は大の苦手です。子供の頃からエラ一をしたり、チョンボばかりしていました。僕のまずかった動作のせいで負けたりすると、皆に申し訳ないと言う負い目がある。仲間たちも、『 あいつのせいで負けた 』と思っているだろうなと感じるのも辛い。
持病があるものですから、今は自転車に乗るくらいでスポ一ツは全くやりませんが、団体競技は嫌いです。個人戦のボ一リングのように、勝てば勝ったで、自分の運が良かったのであり、負ければ実力がなかったと言うように、自己責任によるような競技が良いな。
この世に生まれて来てしまった以上、仙人や隠遁生活者ではありませんから、山の中に一人で暮らすことは出来ないと分かっております。何か商品を買うにしても、何かしら話をしなければいけないような商店よりも、何も口をきかなくても済むス一パ一、コンビニが好きです。社会の片隅で良いから、そっと一人にしておいて欲しい。そんな気持ちが強いのです。本当は陰から、そっと見守って欲しいと云う甘ったれた所も有るのですからふ思議です。
こんな性格なものですから、ちょっと何かにつまづくと、直ぐにうつ病に成ってしまうのです。ほんとに嫌な性格だ。
僕なんか後わずかしか生きないだろうから構わないが、これから成長して暮らして行く人たちって、本当に大変そうだ。AIがこれからもっと発達して行って、何をどのようにして勉強して行ったら良いのか、皆目見当が付かない。
電車の中に中途採用の求人広告が載っていた。いずれもなだたる大企業の関連会社だった。この広告は普通の新卒者の求人広告とは趣を異にしている。
普通の新卒者の求人では、部門を特定することなく募集を掛ける。企業がふ足している部門や、これから力を入れて伸ばそうとする部門に適しているだろう人を採用する。
採用される新卒者にしても、就職する会社は決まっても、工場勤めなのか、本社や営業所なのかも分からない。就職は決まったものの、営業、開発、設計、生産技術、製造、生産管理、販売、総務、人事、経理、倉庫、輸送、品質管理などの業務の内、どの仕事に就くのかも全く分からない。大抵は採用してから配属して、それぞれ育て上げようと言うものです。
学校の方でもそれなりの教育をしている場合もありますが、即戦力として企業の活動に役立つなんてことは、まず期待できません。新卒者の場合には、企業は何年も掛けて採用した者を自社で使えるように育て上げなければならない。
電車の中に載っていた中途採用の広告は違っていた。『半導体技術者募集』であった。日本でも人材の募集形態が変わって来たのです。キャリアを積んだ中途採用者に限った募集である。欲しい業種の人材をズバリ求めて来ているのです。
かつて日本は終身雇用と福利厚生で、『ちゃんと働いていればクビになることはない』と言う社会的前提がありました。今は大規模な会社も、業績の良い会社も、従業員にとっては一生を預けるに足らない組織に代わってしまって居ます。突如、外資系会社に売却されたり、老舗のス一パ一マ一ケットのなまえが消えたりします。〇百人希望退職者募集だとか、★★事業からの撤退で、〇千人の配置転換をするようにもなっています。
自分が会社に所属していれば、『○○会社の□□□部の・・・・・』ですと言うアイデンティティはあるのですが、その前に『半導体技術者』、『ソフトウエア技術者』、『コンピュ一タシステム営業』などの業種による定義も必要になるのではないか?
どうなってしまったのか、よく知りませんが、仕事を通じて横の繋がりで発展したのが、アメリカ・カリフォルニア州のシリコンバレ一でした。自分が得意とする仕事の周辺に活動範囲を広げ横の繋がりで仕事をしていました。
電車の中の求人広告『半導体技術者募集』も、大分狭まりだしましたが、まだ乱暴な募集です。一口に半導体技術者と言っても、設計から製造、機械の保守、またソフトウェアなどとまだ間口が広い。ただ企業としては右も左も分からない新卒者を教育していくのでは間に合わないから、このような形で経験者の募集をするのであろう。
企業もこのような人材募集をするのですから、働く社員の方も自分の仕事の資質を向上させるようなキャリアアップに向け日々の努力を重ねなければならないのだと思います。勤めていた会社がダメに成ってしまった場合には、横の繋がりで同業他社に鞍替えする。
自分の働く能力が、今勤めている会社では通じるけれど、他の会社へ行ったら何の役にも立たないと言うのでは最悪です。給与が幾分高いと思われる役職者ではなおさらです。
昔は『寄らば大樹の陰』で良い会社に就職できれば、まず安泰でした。特に興味ある仕事に就いて居なくとも、文句も言わずに働いていれば定年退職まで保証され、定年後も年金と企業年金で何とか暮らせて行けた。今後は、ただ黙々働くの就業形態では生き残れなくなるでしょう。
自分は何が得意である。自分の技術は他の企業でも通用する。スペシャリストに成らなきゃいけないと言いたい所ですが、今の世の中、『この技術、この知識を身に付けたら生涯食いぱくれがない』と簡単に言えなくなっているのです。
かつて、資格を取らなければいけないと言われていた。それも、誰でもが取得できるものでなく、『士業』つまり、弁護士、弁理士、公認会計士、中小企業診断士、司法書士、行政書士などの『士』の付く資格なら良いと言われる時期もあった。今じゃその『士業』も売れている人を除いたら、危なくなっていると言う話も聞く。
そんなこと言ったら一生乗り換えなしで済む仕事なんか分からない。世の中、コロコロ変わって何が良いのか全く分からない。一時は大型2種免許を取って、市バスの運転手でもチマチマやれば良いと思った時もあった。公務員だもの。だけどね、AIの自動運転になったら、もうこの仕事はなくなってしまうモノね。どうすれば良いのだろう。困ったね。
父母が亡くなってからもう9年になる。父が亡くなってから1ヶ月も経たない内に、母は父を追い駆けて亡くなってしまった。母の葬儀が終わった後、49日を待たずに母の生前の希望で父と同時にのう骨してしまった。父母の骨壷は今、並んでお墓の中にある。
“夫婦は喧嘩するほど仲が良い”と言う。しょっちゅう口喧嘩する割には、傍で見ていても仲が良かったのだと思う。だから、1つの位牌に並んで戒みょうを彫ってもらった。今、位牌は我が家の仏壇の中に有る。毎日、お線香、お茶、お菓子など欠かさない。お彼岸には墓参りに行く。今は同居していないが、娘や息子が同居中に見ていたが、亡くなって骨になってしまった者のお墓や位牌をお参りしたって何の功徳があるものかと思っているかもしれない。(僕は墓にのう骨しなくて、ネコの額ほどの花壇に埋めてもらって良いと思っている)
僕は心臓病と言う持病を持っている。気を付けて歩かないと胸が苦しくなる。動悸もある。特に朝はウォ一ミング アップが出来ていないせいもあって、なるべくゆっくり歩くよう心掛けている。今日はちょっと動いたなと思うと疲れも酷い。
お酒は好きだったが、ずっと呑まないで居た。最近ほんのちっとだけ呑むようになった。その呑む量たるや、日本酒をコップに深さ1cmほどしか呑まない。ちょっと余分に呑むと胸が苦しくなる。そんな少量だけ呑むなら、呑まなければ良いのにとは思うが、そこはノンベイの浅ましさで、少しでも良いから呑みたいのだ。
タバコは止めてから3年以上経つ。それまでは何度禁煙を試みたか分からない。医者からは心筋梗塞を起こす可能性が高いから、無理しちゃいけないと診察を受けるたびに言われる。コップに1cmほど呑む日本酒がちょっと多くなって苦しくなったり、上り坂をあがってゼイゼイしながら、『ああ、こんなことを繰り返していると、いつか死ぬんだな』と思う。
別に死んでしまっても良いのです。残す財産もないのにもう遺言書も書いてある。孫の顔も見た。要らない本やガラクタの片付けも少しずつやっている。仕事を止めたら行こうと思っていた旅行に行っていないのがちょっと心残りだ。
我が家の斜め向かいの家の旦那は私より2歳ほど上で、66歳で仕事を辞めたけど、どうも彼を見ていると、やることが無くて困っているように見えた。家に居ると運動ふ足に成るからと言って散歩をしているようだが、直に帰って来てしまう。退職後に大分太ってしまったようだ。
死ぬのなら、ピンピンコロリと死んでみたいものだ。僕とて思い残すことが無い訳でもない。旅行へも行っていないし、退職したらやろうと思っていたギタ一の練習もやっていない。
交通事故死のように、自分でも何だか分からない状態での即死は嫌だな。死ぬ前にはちゃんと意識の有るちょっとの余裕が欲しい。最近こんなことばかり思うようになっている。
何処で調べてくるのか知らないけれど、家の固定電話には知らないところから電話が掛かってくるし、パソコンとスマホにはふ要なメ一ルが入って来る。
固定電話では友人知人の番号を設定しておいて、登録した番号の電話のみに出ている。それ以外は留守番設定をして電話には出ない。こっちは何しろ老人なのだ。下手に電話に出て、言葉巧みに騙されたくない。
パソコン、スマホに来るメ一ルもご苦労さんなことだが、知らない相手だと内容も見ずに削除してしまうだけだ。こちらは朽ちてしまった老木なのである。肥料を与えても、水をくれても、これからもう育ちはしない。
懸賞が当選したとか、多額の現金を振り込みますというものも多い。本当なら老後の資金としてありがたいことだが、応募もしていないのに懸賞が当たったり、何もしないのに現金を呉れるなんて、ありがたい話が有る訳がない。世の中には自分だけには内緒で甘い話があると思っている人が居るのであろうか?
老後資金のための利殖で、何かの事業に出資して詐欺に掛かる方が多い。永年かけて貯めたお金を取られてしまう。私はそういう話に同情しない。うまく行って財産を増やそうと目論んで出資したのである。うまく行って儲かることもないのでしょうが、儲けようと思って、詐欺に遭うのは自業自得だと思います。
警察も悪徳業者は取り締まらなければいけません。結果的に騙されたからと言って、騙す方も悪いけど、騙される方だって儲けようと企んだのです。結果が悪かったから騙されたと文句を言うけど、結果が良ければ黙っているのでしょう。世の中に甘い話なんかありません。地道にコツコツと働かないで、金儲けしようとすること事態が間違いだ。
人生に成功するコツが2つある。『 コツコツ 』働くことである。毎日、飽きもせずパソコン、スマホにメ一ルが入る。そのまま放置しておくと、容量を食ってしまいます。気付いたときに削除してしまいます。
メ一ルを送信することを仕事として生活しているのか、良いように使われているのかは知りませんが、もう少しまともな仕事をしないで良いのかなと余計な心配をしてしまいます。
説明書を読んで迷惑メ一ルの防御の設定もしましたが、なんせ機械のやることだから、必要なメ一ルまで迷惑メールの範疇として判断されてしまうのも困ります。
メ一ルアドレスを変更してしまえば良いのですが、友人知人に変更のお知らせをしなければ成らない。変更の通知をしても直ぐに変更して下さらなかったり、忘れてしまう方が必ずいらっしゃる。『 メ一ルを出しても、ちっとも返信を寄越さない 』などとお叱りを受けてしまう。ふ用意にメ一ルアドレスの変更は出来ない。
相手の迷惑も考えず、下手な鉄砲も数撃ちゃ当たるとばかりに、誰彼かまわず営業電話を掛けたり、闇雲にメ一ルを出せば、誰か引っかかる人が居るのだろう。安直に電話を掛けたり、メ一ルを出したりするふ届き者がいるから、みな詐欺に掛かるのを恐れて防御するものだから、折角の便利な機能が使えなくなってしまう。
大昔のことですが、家庭電話が段々普及するに連れて、その有り難がたさに、家庭の黒電話の下に電話機用の小さな座布団を敷いて大切にしていた家庭もあったくらいだ。折角の便利な機能も悪用されたら、ぶち壊しとなってしまう。
最近、あまり見掛けなくなっていたが、昨日見掛けた。自転車の後に大きな袋を吊るしてアルミ缶を回収している人のことです。アルミ缶はゴミ集積場に捨ててあった物です。
工場でビ一ルなどのアルミ缶を成型するには深絞りと言って、“純度の高い”アルミでなければ成形することが出来ません。一口にアルミと言っても、窓枠、フェンス、飛行機などに使われている種類のアルミでは深絞りはできません。
回収後は廃品処理業者に持ち込んで換金するのでしょうが、純度が高いものですから、価格もそれなりに高いと思います。かつては大勢の方が回収していたところを見れば、元手は自転車と袋だけです。この作業で生活するには無理としても、小遣い銭程度の金額になっていたのでしょう。
この仕事でアルミ缶の回収率は随分高かったのだろうと思います。アルミ缶は有価物です。集める人を見なくなった理由は、アルミ缶の仕切り価格が下がって回収する『 旨味 』が低下したのか、自治体が回収して、市の収入として活用して貰いたいと云う住民の願いがあって、個人的に回収するオジサンに住民から苦情が出ているのかも知れません。
落語の『 らくだ 』という演目の中にくず屋さんが登場します。江戸時代は回収ビジネスが盛んで、金属、古紙、古着、ボロきれはもちろんのこと、かまどの灰から、糞尿まで回収する、リユ一ス・リサイクルビジネスが盛んに行われていたそうです。現代と違って、人々の生活がおおらかだったのでしょう。
もう20~30年位前になるでしょうか、『 ちりがみ交換 』と言う回収の仕事がありました。
『 毎度おなじみのちり紙交換です。古新聞、古雑誌、ボロきれなどございましたら、トイレットペ一パ一と交換いたします 』 と言って、軽トラックに拡声器を積んで街中を流したものです。
『 今行ったばかりなのに、また来たよ。まったく煩いねエ 』 と言うほど頻繁に回収して廻ったものです。それが今、ちり紙交換は全く来ません。古紙の仕切り価格が低くて、回収しても商売に成らないのだと思います。こう言った回収ビジネスは仕切り価格の相場によって左右されてしまうのです。
ちり紙交換の後は
『 毎度お騒がせしております。ご家庭内でふ要となりましたCDラジカセ、ミシンなどございましたら、無料で回収いたします。また、テレビ、洗濯機、冷蔵庫、パソコンなどございましたら回収いたします。その他、自転車、バイク、ギタ一など、何でも回収致します。壊れていてもかまいません・・・・・・』
と言うものに代わった。テレビや洗濯機を無料で回収するのかと思ったら、CDラジカセは無料で回収するけれど、テレビや洗濯機を無料で回収するとは言っていません。テレビや洗濯機、自転車他は有料回収なのです。気を付けなければいけません。でも、こういった回収業者もまだ、たまには廻ってきますが、巡り合う頻度は随分減りました。
テレビ、洗濯機などの家電製品を買う時、今迄使っていたモノを引き取ってもらわなければなりません。その時、リサイクル費用を必ず取られます。それゆえ、街中を回っている軽トラックが無料で回収して行く筈がありません。
最近はもっと効率的に回収できるように、『 回収出来るふ要品の品目と回収日 』を書いた紙を各家庭に事前配布しておいて、『 当日の朝8時までに道路の端に出しておいて下さい。そうすれば、無料で回収します 』と言うタイプが多い。
回収された電化製品は集められ分解・分類されて再生されるのであります。その内、希少金属と呼ばれるモノは価値が高く、鉱山から採掘、砕石、精錬されるだけではありません。廃棄物から再生されるモノは、『都市鉱山』より得られると言います。
回収ビジネスは隙間の仕事だと思います。需要と供給のバランスの中で、回収の旨味がなくなれば、元手は軽トラックと拡声器、体力だけ。直ぐに始められ、直ぐにでも、なくなってしまう商売なのでしょう。
日本は超高齢化社会となっています。その内、こんな回収業者が現れるかも分かりません。軽トラックに拡声器を付け、荷台にベンチを取り付けて、
『 毎度お騒がせしております。ご家庭内でお邪魔になりました、おじいちゃん、おばあちゃん、濡れ落ち葉と成りました古夫、古女房などございましたら、有料にて回収致します。認知症、要介護でもかまいません・・・・』
あちこちの家庭から声が掛かって大繁盛。軽トラックの荷台には乗せ切れずに、ピストン輸送。困ってしまった回収業者が暗闇に紛れて、マンションの粗大ゴミ置き場陰に古夫をふ法投棄したことが発覚して摑まった。
こんなことは絶対に成ってはいけないけれど、先の事は分からない。昔はあちこちに姥捨て・棄老(きろう)伝説なんかが実際にあったのだから。老人も過去の実績だけを質にしていないで、自分で出来ることはしないといけない。少子高齢化が進んで、若くて働ける人達だけでは支えられなくなってしまう。老人も出来る範囲で働かなければならない時代がきっと現れる。政治家や社会全体で老人活用社会を考えざるを得なくなる。
JR線の最寄り駅で電車を降り、下車した人のほとんどがホ一ムから居なくなってから、改札口へと向かう階段を下った。何となく気分が良い。あくせく歩いて行った人を見ながら、余裕を感じる。身体的に他の皆さんの歩調と合わせて、同じに歩けないと云うのが本音かもしれないですけど。
皆さんと一緒に一斉に階段を下りる時には、ぶつからないように前後左右の方々に気を配らなければ成らない。他の方の流れの中で自分だけノソノソ歩くわけにも行かない。歳も歳だから、階段を踏み外さないように注意しながら、周りの人の流れにも合わさなければいけない。
奇妙なもので、人の流れの中に居ると、意識しないでも自然と競争心と云うのが生まれる。自分の斜め前に出来た、わずかの空間に体を潜り込ませて、改札口に向かって少しでも早く進もうという気に成ってしまうからふ思議だ。特別の用事もなく帰るだけだから、時間を気にすることもない。そんなに急ぐ必要もないのに、どうしたものなのであろうか。
もう、運転免許も返上してしまって、自分で車を運転することはないのですが、車の運転も同じで、“流れ”と云うものが有る。周囲の車の流れに合わせての運転を心掛けなければいけない。ブレ一キを多用したり、自分だけ周りの車より遅く走ると渋滞の原因になってしまう。よほど車の走っていない道路の走行を除けば、車の場合には心に余裕を持って、完全に自分のペ一スを作り、ゆったりと走ることは無理なのかな?
大体、日本には車が多過ぎるんじゃないかい。週末しか走らない自家用車は本当に必要なのでしょうか。最近になって若い人が運転免許を取らず、車も持たない人が増えて来たようです。それでも、年齢に達すれば自動車教習所に通い、運転免許を取得するのは無制限だし、自動車の生産販売にも制限がない。これでは首都高を始め、高速道路や一般道が渋滞するのは当たり前と言って良い。
我が家は車を所有していない。駅まで徒歩10分程度で、商店街やス一パ一も徒歩で行ける範囲に有る。家を建て替えるときも、『 もう、車を持ちたくない 』と思って、車の駐車スペ一スは考慮しないで設計するよう建築屋さんにお願いした。
時には、『 こんな時には、車があった方が良かったのに 』と思うことは確かにあります。それも、年間に数度ほど。無ければないで何とかなるものです。今時、自家用車を持つことがステイタスでも何でも無くなりました。公共交通機関が少なく、一家に複数台の車が必要な地域を除けば、都会では本当は自家用車も減らすことが出来るのではないかと思います。
心の余裕はこんな小さなところにも必要なのだとつくづく思います。
幸せって一体、何だろうか? 多分、『 これだ 』と云うものはなく、色々な案が出て、さしずめ甲論乙駁であろう。それでも誰もが否定しない条件は、『 健康であること 』である。病気がちであれば、何をしても芳しくない。
ある時代、ある場所で、多くの人々が幸せと感じるものが幸せであって、健康を前提として、それぞれの生活の中で見つける『 小さな幸せ 』が本当の『 幸せ 』なのでしょう。
『 幸せだなぁ、ぼか一、君と居る時が一番幸せなんだ、 ぼか一、死ぬまで君を放さないぞ、いいだろ一 』と、かつて若大将は唄っていた。後期高齢者となってからでも十年も経つ若大将も鼻の横を擦ってばかりいたから、皮も厚くなっている筈。『 君といつまでも 』と云う曲が発売されて60年以上も経って、いまだに放送されることがあるから、金銭的には大いに潤っているのだろう。
未だに君と一緒に居れば幸せなのだろうか? 大空染めて行く夕日のように、色あせてしまっていないのだろうか?
熟年夫婦間で会話がなくなってしまうのは、お互いに慣れ過ぎて、ときめきと言うものが無くなってしまったからだ。温泉旅館の仲居さんはカップルで来た熟年男女を見て、夫婦なのか、ふ倫関係なのかが直ぐに分かるそうです。本当の夫婦は押し黙っていて、ふ倫関係は会話が多いのだといいます。
『 金のないのは、首がないのと一緒 』と言います。貧乏は辛い。だけどお金が一杯あれば幸せなのでしょうか? 宝くじでも当たって億万長者に成ったら幸せなのでしょうかね。銀行内部から洩れるに決まっていますが、高額当選者の情報は何処からともなく洩れるそうです。寄付を求めて、それ以外でも人が集まり、怖くなって逃げ出したくなるそうな。
どうせあぶく銭と考えて無駄遣いする人も多いそうです。持ち慣れないお金なんか持たない方が幸せなのかも知れません。自分で稼いだお金でほどほどに暮らす方が幸せなのだと思います。
お金がなかったり、家事の都合で温泉に行くことも出来ず、たまには一泊で良いから温泉にでも行って、ゆっくりしたいなと思っている方がいらっしゃると思います。いざ、時間とお金の都合が付いて、一泊の温泉旅行が実現したとします。一泊の温泉旅行と言うものは、そうそうゆっくり出来るものではない。
目的地まで列車に揺られ、やっと目的地へ。あちこち見物して、午後4時くらいに旅館に到着。ここまでで、かなり疲れてしまっている。部屋に案内され、お茶とお菓子を食べ、部屋からの景色でも眺めていると、『 お食事は何時にいたしましょう 』と訊ねられ、では午後6時半から部屋でと言う事に決定。
たまのことだから、少し贅沢してマッサ一ジの予約もする。食事前に温泉につかろうと浴衣に着替え、大浴場に、今さっき着たばかりの浴衣を脱いで浴室に。前を洗って湯船に入る。『 ぷぁ一 』、『 あぁ一 』、『 極楽、極楽・・・・ 』 思わず口に出る言葉は何でも良いが、やっと少し落ち着く。夕食時、風呂上りのビ一ルの美味いこと。普段呑んでる第3のビ一ルより、本当のビ一ルは美味いや・・・・。
普段なら夕食後は片付けをして、テレビを見て寝てしまうところ、温泉地では丹前を引っ掛けて、旅館内の散策と下駄を履いての温泉街巡り。まさか射的やパチンコはしないだろうが、お土産探しもしなければ成らぬ。そうこうしている内に、マッサ一ジさんの予約の時間が迫り、急いで部屋に戻ってマッサ一ジ。またまた『 極楽、極楽・・・ 』 うとうとしてしまう。もう寝てしまえば良いものを、たまにしか来られないものだから、寝る前にもう一度温泉に入って、貧乏性丸出し。
朝は朝で、早く目が覚めて朝湯に入る。またまた『 ぷぁ一 』 朝食は大広間でバイキング方式。あれが美味そうだ。これも食べようで、腹も身のうち忘れて、山ほど皿に盛る。朝からビール呑んで、腹一杯食べたのと湯疲れで何となくダルイ。
列車に揺られて家に帰れば、ホッとして、『 ああ、疲れた。やっぱり我が家が一番 』なんて言ったりして。
メ一テルリンクが書いた童話『青い鳥』 チルチルとミチルの兄妹が幸福の象徴である青い鳥を探しに行くが、結局のところ、それは自分たちの一番身近に有るのだとか。日常生活の中で自分の周りの本の小さな幸せに気付く感受性を養うことが大切なのという教訓でした。 おしまい
朝9時頃歩いていると、驚くほどたくさんのデイサ一ビスの車に出くわします。年配者を集めて1日過ごさせてくれる施設の車です。私の父母はもう亡くなってしまって居りませんが、存命中は何もしないでずっと家に閉じ篭ってばかりなので、1週間に1~2度デイサ一ビスに行くように手続きしました。
父母の話だと、体操をしたり、ゲ一ムや工作をしたり、場合に拠っては風呂に入ったり、マッサ一ジを受けさせて頂いたようでした。たまに工作した作品を持ち帰って来ていた。折り紙で作ったお雛様や金魚、回り灯籠で有ったりと、まるで老人の幼稚園のようです。
わが国は今、超高齢化社会です。かつては『人生50年』と言われました。平均寿命が延びた現在では人生100年、若しくはそれ以上と云う時代になっています。定年後の人生の位置付けも自ずと変わり、シニアライフは余生どころか、もう一度新しい人生を始める時期になったと言えるでしょう。
人間の生き方で、何が一番幸せかと云うと、生涯現役の人だと思うのです。ボケないで、自分の生きる目的がはっきりしていて、死ぬまで続けると云うのが一番だと思います。
私が良く散歩するコ一ス沿いに有料老人ホ一ムがあります。老人ホ一ムに多額のお金を支払って、死ぬ迄面倒を見てもらうことは決して幸せとは言えないでしょう。食後に何人も窓辺に並んで腰掛け、外を見ている老人には生気がなく、皆さんボッ一としてお迎えを待っているだけのように見えます。
高齢者となってもちろん、若い方と同じように現役の仕事が務まるかと言えば、中々そうは行きません。僕も体力的に無理だなと思い、会社を辞めました。年齢と共に体力的にも弱って来るわけですが、縮小した役割でも社会に組み込まれ続けるのが良いのではと思います。
人は必ず死にます。残りの人生をどのようにして過ごせば、良い死に方が出来るのでしょうか? 何によって老後の人生に満足して死ねるかと言うのは、ごく個人的な問題で、物差しで計れるようなものではありません。老後は趣味と旅行で生きるなどと言う方がいらっしゃいます。それも一つの方法で良し。ただ、画一的に考えられることでは決してありません。最終的にはそれぞれ個人の内面の問題なのだと思います。
人生で幸福であると言う状態は、何かを夢中になってやっている時こそ、充実して完全燃焼しているのだと思います。どうやったら燃焼できるのでしょうか? 毎日、朝から晩まで好きなゲ一トボ一ルやゴルフをやっても、音楽を聴いても、ギタ一を爪弾いても、それだけでは心が満たされると言うようなものでもないような気がします。
高齢者になってからの生活を趣味で過ごそうが、仕事で生きようが、やはり究極には『 死ぬ 』と言う事が、ふ安の最大の原点ではないかと思います。一時的には忘れることがあっても、決して逃れることが出来ない事が死です。
私の父母を見ていた時、一日中、何もしないで居眠りをしていたり、座ってラジオを聴いていました。『 早くお迎えが来て欲しい 』と言っては居ましたが、とても本心とは思えなかった。医者に処方された薬を食後にきちんと飲んでいましたし、体調が悪くなると医者に連れて行けと言っていました。本当に早くお迎えが来て欲しいなら、薬だって飲まなければ良い。みんな死ぬのは怖いし、嫌なのです。
『 延命処置辞退します 』と言いながらの通院は矛盾しています。この私だって、内科、歯科、耳鼻科、泌尿器科のクリニックに通っています。保険料の無駄遣いですネ。暇だといつも死の事が気になって、頭から離れず、幸せな気分に成れない。
生涯を通じて夢中になってやれる仕事を持ち、気が付いたら死の目前だったと言うのが、一番幸せだと思う。死ぬまでの時間を忘れる、ピンピンコロリが理想と言う事になります。
今迄、年配の人の事ばかり書いて来たように思えますが、これは実は若い人の問題で、目先の事だけでなく、人生設計をどのように組み立てるかは、老人に成ってからでは遅過ぎて、若い頃から準備しなければならないのです。
五木寛之さんの『 下山の思想 』と言う本に
① 山は登ったら、必ず下りなければいけない。
② 上る時には一生懸命で見えなかった景色も、下山の時には周りの景色も見る余裕が出来るものだ。
③ 山は上っただけでは成功ではなくて、無事に下山出来て初めて成功と言える。
と書いてあった。
新年に成ったと思ったら、今日でもう1月も終わりだ。南関東では朝6時では、まだ薄暗い。
『 春はあけぼの。ようよう白くなりゆく山ぎは 少し明りて紫だちたる雲の細くたなびきたる… 』 清少な言の『 枕草子 』の一節です。清少な言は『 春は夜明け 』が良いと言っています。とんでもないことで、春は眠い。
勤めに出ていた頃は、私も朝6時半前には起きて、スタンバイOKとしていた積りでしたが、春はやはり、ひときわ眠かった。繰り返しますが春は眠い。春の休日は眠っても眠っても、寝足りたと言うことがない。充分に眠って、寝過ぎて腰が痛くなるほど寝て、仕方なく起き上がり、布団の上に座ってボ一ッとしていると、また眠くなる。そこでまた横になってみると、ちゃんと眠れる。
通勤電車の中でも、朝から眠っている人は実に多い。座席のあちこちで横に傾いたり、上を向いて口をあいたり、イビキさえかいている人もいる。こういう人達は、つい1時間ほど前、目覚まし時計にどやされ起き上がる。歯磨きをし、朝食をとって身支度をして、家を出て来たばかりなのに、もうスヤスヤ寝ている。
『 男は敷居を跨げば七人の敵あり 』と言う言葉はウソだな。これでは何のために起きたのか分からない。それとも、勤め先に行って働く前に再充電しているのか?
人を含めた動物の睡眠には省エネルギ一の効果が有る。眠っている間、エネルギ一の消費は最小限に抑えられる。起きていれば、電車内の吊り広告や外を見て刺激となる。眠っている間は外からの刺激が取り敢えずは遮断され、何にも興味を持たないで済む。
余分なエネルギ一を使うとそれだけ腹も減り、今度はそれを補わなければならない。人では調理をして食べたり、外食をしたりで金が掛かる。野生動物ではエネルギ一源を得るために、更にエネルギ一を使って、エサを探し回らなければならない。熊やヘビの冬眠と言うことを考えるとよく分かる。まず、食べない、減らさない、使わない、消耗しないの『ないない尽くし』で何カ月も生存することが出来る。
起きていて何かしていると、何かと物入りである。動物の世界の生態はよく分からないので、人間のことを考える。朝の通勤電車の中で、新聞や週刊誌を読んでいる人は、その購入費用が掛かるだけでなく、周りの人に嫌がられる。耳にイヤホ一ンを付けて『 カシャ、カシャ 』音を立てている人は、音楽のダウンロ一ド代や充電費用が掛かる。もちろんスマホをいじくり回している人も同じだ。何もしないでボ一ッとしている人ですら起きているだけで、眠っている人よりエネルギ一を消耗する。
一方、眠っている人はどうかと言うと、お金は一銭も掛からない。エネルギ一の消耗も最小限に抑えられるだけでなく、再充電の効果も見込められる。腹の減り方も抑制され、昼食もコンビニ弁当で済ますと言う線も考えられる。
原発の再稼働はいつももめるようだ。夏になるとエアコンの使用により、電力需要のピ一ク時には電力のふ足がたびたび話題となる。政府はエナルギ一需要抑制のため、国民に眠ることを奨励することが賢明なのではないか! 体内のエネルギ一の余っている若い人たちの中には、眠る前に別の方向でエナルギ一を消費し、少子化対策と言う副次効果を見込めるかもしれない。
眠ると言うことは、エネルギ一の節約になると言うことがよく分かった。電車の中で眠っている人は、節約志向の人が多いような気がする。まさか、みんながみんな夜勤明けで眠っているのではあるまい。どんな節約志向かと言うと、金の掛かることはとにかく避けたい人。 『 六日知らず 』と言って、日にちを数えるのに、1日目から指折り数えて行って、5日目までは指を折って握って行くが、6日目になると指を開いて行かなければならない。一旦握ったモノは離さない人。余分なことはしない人などなど、眠っている人の人生観が顔相に滲み出ている。
電車の中で眠っている人の中では、頭を横に傾けて隣の人から嫌がられ、肩でこづかれている人も中には居るが、人は起きているからこそ、色々な出来事に遭遇する。起きていれば色々な心配りをしなければならない。
帰りがけに上司から怒られて、嫌な思いをしたことから逃れられる。今日やらなければならないことを考え、あくせくしないで良い。乏しい財布の中身と、給料日までの生活費の相関関係から取り敢えず逃れられるなどなど、現実からの逃避ができる。これらは明らかに羨ましい事である。
通勤電車で眠ると言うことの条件は、一般には座席に座ると言う必須の条件がある。まれに手すりに寄り掛かったり、吊革につかまったまま、ウトウトから本格的睡眠に入る直前、奈落の底へ落ちて行くような恍惚感の真っ只中に、ひざを『 ガクッ 』とさせて、現実に引き戻されている強者も居る事は居るが・・・・・。
好きな読書を人やスマホを覗いている人を除けば、通勤電車で起きている人は例外なく、眠っている人が羨ましい。本人はどう思っているか知らないけれど、経済新聞を読んで社会情勢や経済動向を仕入れて、仕事に役立てたいと無駄な努力をしているような人は、『 羨ましく思う人 』の最たるものだろう。
連休に成ったら、机の引き出しの中身を整理しようと思っていた。考えてみたらいつも休みだから、何もカレンダ一の連休でなくてもいつでもできる。私が働いていた頃、通っていた床屋のおばさんが言っていた。『 あのお父さん、とっくに定年を過ぎて家に居るのに、サラリ一マンだった時代の習慣で、必ず日曜日に散髪に来るのよね。平日に来れば、ゆっくりできるのに。何度言っても、わざわざ混んでいる日曜日に来るの・・・・』 僕も『あのお父さん』と同じなのか。
机の引き出しにはいろんなものが入っている。赤だけ書ける元3色ボ一ルペン、揮発分が飛んでしまってかすれて書けるマジックインキ、度の合わなくなってしまった古い眼鏡、袋が無くなってしまって、今と成っては何の薬だか分からない医者で処方されて1枚シ一トに成っている、押すとプチンと出て来る10個ずつ入った飲みかけの錠剤やカプセル。液が滲み出て茶色くなった電池。ちびた消しゴム、もう遥か昔のWindows 3.1バ一ジョンのパソコンの保証書、何処からか外したネジ、埃が付いて外周部の側面が黒くなってしまったセロハンテ一プ、ボ一ルペンのサックだけ etc.
いつもの脱線なのだけど、Windows3.1はWindows95の前のバ一ジョンなんて、知っている人あまり居ないのでは? それにしても、僕の知っているだけで、3.1、95,98,ME , 2000、XP、Vista、7,8,10、11(間違っているかもしれない) 3.1の前は分かりません。マイクロソフトはバ一ジョンのなまえの付け方は数字だったり、アルファベットと、何か統一性がないものかね?
元に戻って、そのモノを机の引き出しに入れた時には、それなりの理由があった。入れた時には多分使えた。いくら何でも、全く使えないものは引き出しには入れない。3色ボ一ルペンだって、まだ赤が書けるから、『 とりあえず 』引き出しに入れておいたのだろう。¥100ショップに行けば、新品の3色ボールペンが買える。その後、赤だけ書ける3色ボ一ルペンを使った覚えがない。(多分・・・)
飲みかけの錠剤だって、引き出しに入れた時には、何の薬だか分っていた。症状が改善されて、時間が経って『 何の薬だっけ? 』と忘れてしまっただけだ。
古い眼鏡も、新調した時に眼鏡屋が寄越したものだが、こちらだって、もし新しい眼鏡が壊れた時に、眼鏡なしでは困る。その場合に使おうと言う気が有ったことはあった。
後で役に立つことがきっと来るから、その時は『 とりあえず 』しまっておいた。これは何も机の引き出しに限ったことではない。本棚、パソコンのマイ・ドキュメントも同じだ。本棚には、きっと役に立つと思って取っておいた学生の頃の教科書の一部。このうち、1冊にはへそくりが挟んであるから、役に立っていると言えば、役に立っている。
世の中の先端のことが書いてあると信じて、購読していた経済誌の一部。パソコンのマイ・ドキュメントも、かつて会社の仕事を自宅に送信して、休日に仕上げた文書が入っている。
本棚で埃を被った教科書も経済誌も近年一度も開かれていない。パソコン内の文書も今と成っては何の役にもたっていない。ただ当時を思い出したり、読み返して懐かしい『 感傷 』だけだ。文章力は今と変わらず、進歩がない事が分かる。
この際、引き出しだけでなく総点検すべきである。(と思う) 『 とりあえず 』とは一体何なのであろうか。今、結論を出したくない。結論を先延ばしする。『 そのうち 』、『 いつか 』結論をだそうと。
宴会の開始直後に『 とりあえずビ一ルで乾杯! 』と言う場面がある。宴会ではそれぞれ人ごとに好みの酒がある。私は『 日本酒をひや 』で、僕は『 梅酎ハイ 』、『 ワインがいいわ 』『 ハイボ一ル 』etc.と各人の希望を聞いて用意してから乾杯では、宴会がいつ始まるか分からない。万民共通とは言えないだろうが、ビ一ルで乾杯しておいて、後は順次各人の希望に合わせた飲料を調達して下さいと言う、飲料選択の先延ばしがビ一ルなのでありました。今は呑めないが、かつてはビ一ルが好きだった。ビ一ルはそんなにどうでも良いような存在であったのか。
引き出しは机から取り出され、床に置かれる。傍らにゴミ箱もある。中身の一点一点を吟味、点検し、懐かしんだ後、『 これはそんなに場所を取る訳でもないし 』、『 万が一ということもある 』と言う裁定が下され、かくして、もう、どうしょうもないモノ以外はまた、引き出しに仕舞い込まれた。
日頃より作文が上手になりたいと思っています。新潮文庫の『 井上ひさしと141人の仲間たちの作文教室 』と言う本を、1月になって2回続けて読んだ。水泳の出来ない人がHow to の本を読んだからと言って、泳げるようになることはない。作文も同じでHow to 本を読んで参考にしたって、作文がうまくなることは、まず絶対にない。
作文するに当たって、注意した方が良いことや、約束事はたくさんある。これは学ばなければならない。その他では、たくさんの本を読んで、毎日のように作文を書く。これが作文上達の王道であることは、本を読むまでもなく間違いない。
本の中で井上ひさし講師より、受講生に対して『 悩み 』と言う題で作文を書くよう宿題が出た。原稿用紙1枚分に集約して、自分の悩みについて書く。本の中に26人分の添削付き作文が紹介されていた。外から見ると、悩みなど無いように見えても、どなたも様々な悩みをお持ちであることが分かった。
倣って自分も悩みについて書いてみます。ただ、自分については原稿用紙1枚分と言う制約はないものとして、ダラダラとして書きます。悩みは『 人と中々会話が出来ないこと 』です。人と話をするのが苦手です。元々無口な方ですが、赤面対人恐怖と言うことはありません。意識し過ぎてしまうのか、緊張して顔が引きつったようになってしまう。
活舌が悪くて何を言っているのか分からない方が良くいらっしゃいます。色々な方に指摘されましたが、私の場合には声が大きいのに加えて、むしろはっきりモノを言い過ぎてしまって、相手の方にとって威圧的と思われてしまうきらいがあります。
プレゼンテ一ションが出来ないと言うこともありません。テ一マがあって、指めいされれば考えも述べます。どちらかと言えば、テ一マを決めて、話す場を設けて下さる方が言いやすい。それでいて、人と話すのが苦手と言うのは、一体どういうことなのでしょうか?
『 おはよう 』、『 こんばんは 』、『 さようなら 』などの挨拶は難なく出来ます。それから先がダメなのです。内容などどうでも良いような世間話が苦手なのです。原因は圧倒的に話のネタふ足。テレビはほとんど見ない。ラジオも聞かない。今、世の中でどんな曲が流行っているとか、何が話題に成っているかが分からない。新聞は読みますから、ニュ一スについては大体知っている積りです。でも、ニュ一スと世間話では話される内容が違う。
挨拶の後に来る言葉が続かず、もっぱら聞き役になってしまう。どうでも良いような話に耳を傾け続けているのもつまらない。そんな態度の片鱗を相手の方に見破られてしまうのか、世間話も中々続かなくなってしまう。
私が思うのに、普段、世間話をベチャクチャ話している方ほど、大勢の方の中でテ一マに沿った意見を求められた時に、ほとんど何も言わない。言えないのかもしれない。自分はむしろその逆だ。日常生活の会話では、圧倒的に世間話が多い。こうして、他の人が何か喋っている中で、黙って聞き役になっている自分が居る。
落語が好きです。今日書くことは生意気な、とんでもないことだとは分かっています。リタイアしておりますから、ほぼ家に居て、毎日のようにカセットテ一プを聴いたり、速記本を読んでおります。カセットテ一プは約190本持っております。
テ一プのAとB面に録音し、テ一プの片面に複数の演目を録音しているものもあります。収録して有る演目は400点以上有ると思います。演題の同じものでも違う噺家さんが演じたものも録音しています。
カセットテ一プで聴いているものは、もう亡くなってしまった噺家さんが多く、今ではラジオ放送で聴いたり、Youtubeで聴いたり、CDを購入したりしなければ聴くことの出来ない貴重なものです。現在、活躍中の噺家さんの録音したものは少なく、50演目くらいなものでしょうか。
亡くなってしまっていますが、落語のめい人と呼ばれる方は何人かいらっしゃいます。最近読んでいた速記本の噺家の方々は、5代目 古今亭志ん生、6代目 三遊亭円生、5代目 柳家小さん、もう3人とも亡くなってしまいました。いずれもめい人中のめい人と言われた方々の速記本です。5代目柳家小さんは人間国宝となりました。
ここのところで、速記本を13冊読みました。めい人、上手が演じた落語の筈なのに速記本を読んで、噺の筋は分かっても、ちっとも面白くありません。思わず噴出して笑ってしまうことは、ほとんどありません。
私も歳を食っておりますから、3人ともテレビで見たり、ラジオを聴いて知っています。ただ、現物めい人の話芸を見たり、聴いたことはありません。コロナウィルス騒動の前には2~3回/年ほどは寄席に行っていましたが、彼らは私が行っていた頃より前に活躍された方々でした。
速記本は同じく落語好きであった弟が残してくれたものです。譲り受けた本はまだたくさん残っているのですが、もう暫くの間、読まないことにしました。速記本では噺の間(ま)や、しぐさ、声の抑揚、勢い、登場人物の声の使い分けが分かりません。噺家さんはその時々の会場の客層によって、演じ方を変えるものなのです。
寄席に行って、めい人上手と言われていない噺家さんの噺を聴いても、現物だと笑ってしまう。それは噺の間の可笑しさであったり、声の抑揚、しぐさ、勢いや臨場感が成せる技なのです。めい人上手の芸、演技でも寄席や会場でなければ、臨場感は伝わりません。実際に客席に座って聴くのでなければダメなのです。ライブ録音ではダメなのです。それが『 一期一会 』と云うものなのです。
そんなこと言い始めたら、めい人上手の方々はもう既にお亡くなりになってしまって、もはや、彼らの本当の芸を堪能することは出来ません。テレビやラジオ、ビデオ、CD,レコ一ドでは客層に合わせて演じ分ける技、しぐさ、動作、臨場感は伝えられないのです。言ってみれば『 芸のカス 』しか録音、録画出来ないのでした。
『 極限の噺家さんの芸 』、『 噺の職人技 』は会場に行かなければ聴くことが出来ません。そんなこと言ったら、それは落語に限ったことでは有りませんでした。音楽会、コンサ一ト、野球、バスケ、バレ一、サッカ一などなどのスポ一ツ観戦もそうでした。現場に行って実際に見ることが一番でした。
最大震度7を記録した能登半島地震から20日が経過した。今は一年中でも一番寒い時期です。被災者の方々の思いは想像が付きません。
家が潰れてしまったり、津波で水をかぶって使えなくなってしまった家具、電気製品などの廃棄物の山をテレビで見ました。被災者の方々は着の身着のままの、身一つで避難されています。
ふ謹慎かとは思いますが、廃棄物の山を見たとき私が思ったのは、現代の人々は何か物を持ち過ぎなのではと思った次第であります。有れば確かに便利なのでしょうが、無くてもふ便ではない製品を所有していないか? 知り合いの人が持っているから、ママ友は皆持っているからと思って買ってはみたものの、本当はほとんど使っていない製品を所有していないだろうかと思ったのでした。
我が家でも
* 空気清浄機 何かで獲得したポイントを使って購入した物なのですが、ほとんど使っていません。
* VHSとかベータと言っていた時代、我が家にもテレビ番組を録画する機械が有りました。ある時、壊れてしまって以来、我が家には番組を録画する道具がないけれど、誰も欲しいと言わない。番組を見そこなったら、見そこなったで諦めている。そんなに貴重な番組はないからね。
歌手で作詞、作曲もする吉 幾三さんの『 俺ら東京さ行ぐだ 』と言う曲にもたくさんの 『無エ』物が羅列されている。歌詞の中に出て来る商品で、俺らの村に無いものや、それほど多くないもの、一日一度しか来ないもの、たまにしか来ないものをこれから書き出してみようと思います。
テレビ、ラジオ、自動車、電話、瓦斯、バス、ギター、ステレオ、喫茶、集い、薬屋、映画、紙芝居、ディスコ、のぞき、レーザー・ディスク、カラオケ、新聞、雑誌、信号、電気
これだけ『無エ』ものが出てきますが、この中でも自分の生活になくても差し支えないものは3割とか、4割くらいは有ると思うのです。私たちはその品物が無くても暮らして行ける物や、たまにしか使わない物を所有したり、利用したりしているのです。
歌詞では『 テレビも無エ 』と言っています。私が小学校1年生の当時(昭和31年)、我が家にはテレビ(当時は白黒)、電気洗濯機、電気冷蔵庫、電気掃除機、電話はもちろん、自動車も有りませんでした。私の育った家が特殊であったのではありません。特別に裕福な家庭は別として、周りに居た友人の家も同様であった。だからと言って、自分がふ幸な境遇にあったなんて、誰も思っていないと思います。私は生まれたときから、家にはテレビや他の電気製品が有った世代ではありません。電化製品の所有の有無が幸福の尺度では決してないと信じています。
縄文時代は今から、約12000年前くらいから、約1万年間続きました。今年が紀元後2024年ですから、紀元後の5ばいくらいの長期に渡って続いたのが縄文時代です。縄文時代に使っていた道具は土器ほか何があったのか、私にはよく分かりません。棍棒や石斧、骨で作った釣り針など生活するのにどうしても必要な物であろう。そのような必須の生活用品と雨露しのぐ住居だけで、今の紀元後の期間の5ばいもの長期に渡って人間は生活してきたのです。
工夫して進歩することは良い事ですが、便利さ、豊かさを追求するあまり、弊害が出ていないかが問題なのです。日本でも月に軟着陸したようですが、私は月に行って欲しくもないし、リニアモーターカーで、早く移動したくもない。日本で万博を開くことも欲していません。人を押しのけて、ギスギスした思いまでして幸せになりたいとも思いはしない。もうこんなところで便利さは十分です。
フェンスの向こうにいる人たちと言っても、刑務所の話ではありません。人がたくさん行き交う場所では、片隅にフェンスが立てられ、喫煙スペ一スが設置されています。喫煙者はフェンスによって仕切られた場所に隔離されて、タバコを吸うようになっています。仕切りはしてあるけど、天井はガラ開きだから、煙を遮断するわけではありません。多分に精神的に、隔離されている気分を起こさせているに過ぎません。
今、私はタバコを吸っていません。フェンスの横を通ると、タバコ特有の今では嫌な臭いがして、『 何で、こんなものを吸っていたのだろう? 』と云う気分になります。フェンスのこっちと向こうでは大違いなのです。過去にタバコを吸っていて、今は止めた人が感じるところは、生涯タバコを吸ったことのない方にはきっと分からないのではと思います。本音を言えば、3年以上経った今でも1本くらいは吸ってみたいという気も起きます。それほどタバコの依存性は強い。
国は税収入が欲しくなると、すぐタバコ税の引き上げとか言って、容易くタバコの値上げが実施される。喫煙者は高額のう税者なのにいつも肩身の狭い思いをしています。
タバコを吸う人にろくな人はいません。健康に悪いと分かっていながら、止められない意志の弱い人ばかり。タバコは火事の原因となるばかりでなく、心無い喫煙者によって街中を吸殻で汚したり、煙で吸わない人に迷惑を掛けたりと、良いことはありません。斯く言う私も約3年前までは、意志の弱い“ろくでなしの一人”でした。
私は50年間、“ろくでなし”をして、タバコ税を払い続けて来ました。1日何本吸って、タバコが一箱幾らだから、年間幾らになり、50年間だから○○○万円を燃やして、煙にしてしまった金額は、おおよそ分かっています。みじめな気分に成るから、ここでは書きません。それよりも50年間吸い続けて、『 肺気腫 』という呼吸器の病気になってしまいました。 その他にも吸っていた時、火の粉が落ちて畳を焦がし、衣類に穴を明けたこと、その回数を知らず。
私、タバコを止めて本当に良かったと思うのは、月々15000~20000円の出費が助かることもありますが、自分が火のふ始末で火事を起こす機会を俄然減らすことが出来たという事です。
今、タバコは体に良くないと考えられています。明治時代にはそうでなかったようで、夏目漱石の『 三四郎 』では、三四郎の上京に際して母から、せいぜいタバコでも吸って、体に気を付けるように言われて故郷をでてきた。
私の周囲でもタバコを吸う人が大分減ったように見えます。タバコは今迄何度も値上げされているのに、政府転覆を図るク一デタ一を起こすとか、タバコ値上げ反対のデモ行進が行われたとかの話は聞いたことがありません。喫煙者は何も文句を言わずに粛々を従っている。喫煙者の皆さんは、周りから責められて抵抗出来ない小心者に成っているのです。
それでも、せいぜい取っている対抗手段は
① 1日に吸うタバコの本数を減らして対抗する。今迄1日20本吸っていた人だったら、1日に14本に済ませられれば、取り敢えずは出費を従来と同等に出来る。
② 吸う銘柄を替えて、安い大衆タバコにすれば、値上がり分を吸収できる。ただし、自動販売機ではほとんど見かけないのが難ですけど。今迄マイルドなタバコを吸っていた方には、ちょっと味がキツイのが難です。
③ 当座の対策として、買い溜めをする。人に拠っては、値上げ前にタバコを5万円分とか、10万円分買ったとか言う話を良く聞きますが、前価格を享受できるのは3ヶ月か6ヶ月の事です。それ以降は値上がり後のタバコを吸わなければなりません。でも無策の人に比べれば、出費を抑えることが出来ることは確かです。
喫煙者は本当に肩身が狭い。税金たくさん負担しているのに、ちっとも良く言われない。 飲食店では吸ってはいけないだとか、街頭では吸ってはいけないだとかで、それでなくとも虐げられている。吸わない人に比べてたくさん税金を払っているのに、表彰されるどころか、白眼視され立場か非常に弱い。
現在タバコを吸っている人でも、内心は出来ればタバコを止めたいと、どなたも思っています。タバコを吸うことは、格好良いことでも何でもありません。止めようと思っているのに止められない身が嘆かわしいけど、気持ちは良く分かる。
自分の意思だけの力で禁煙するのはキツイです。タバコ依存症と云う病気なのですから。医師の指導の下に飲み薬や、禁煙パッチの援助を借りるなど方法を問わず、禁煙してフェンスのこちら側に身を置くことが大切です。コンクリ一トの高い壁の向こうに身を移し、規則正しい生活を送るのも一つの方法でした。
勤めを辞めて、私の中で何が著しく変わったかと云うと、もちろん勤めに出るか、在宅でブラブラしているかは大きく違うのだが、その他では本を読む量が減ったという事だろう。今でも毎日、本は読んでいます。通勤に拘束されていた時間が往復で約3時間弱ありました。座れた場合は、絶好の機会としてまず本を読んでいました。今はどうも、自分は気が多くてやることがたくさんあるものですから、勤めて居た時ほど本を読む時間を確保出来ないのです。
電車やバスの中で本を読んでいない時は、外の景色を見たり、人物観察をしたり、広告を見たりしています。電車でも路線が変わると、広告の様子が路線の地域に拠ってガラリと変わることに気付くと思います。
もう一つ、最近は電車の車内広告自体が減ったような気がします。皆様はどう感じておられるでしょうか。座っている方のほとんどが、俯いてスマホを見ているか、眠っていらっしゃる。広告主が車内広告を出しても、俯いてばかりで見ないから効果が薄いと思って、広告が減っているのではと思って居ります。確たる調査に基づいて言っているのではありません。私が感じたところです。
それでも、車内広告はまだまだたくさんあります。週刊誌、雑誌の内容の見出しを書いた広告は、一時期よりは減ったような気がします。ウイスキ一、ビ一ル、発泡酒、お茶、ウ一ロン茶、缶コ一ヒ一などの飲料系広告、英会話スク一ル、予備校、本、貸金業などの広告が多い。電車の広告は広く一般的な人を対象として、最大公約数的です。
一方、バスの車内広告は地域密着的エンタ一テイメントです。地域の質屋、バス運転手募集、法律事務所、地域にある工務店、法律事務所、お墓の広告など、路線や近場では通用しますが、他の県や地域が離れたら全く役に立たないような広告が多い。
お墓の広告を観察すれば、『 屋内個人霊堂、のう骨、位牌安置、宗旨、宗派を問わず、永代供養料、管理費用込み一式 ○○万円、新しいタイプのお墓です 』と書いてある。
自動倉庫の小型化したもので、自家のお墓の番地を入力すれば、倉庫からたちどころにお墓を運んで来る形式でお参り出来るものとか、長い廊下のような所の両側にずっとコインロッカ一のように並んでいる形式のものか、広告だけでは分からない。
いずれにしても地面の上に墓石が置いてある、いわゆる従来型のお墓とは違うようです。なるほど、『 新しいタイプのお墓です 』と書いてあった。宗旨を問わずと言うから、法要をしたい時には、管理人に依頼して自分の宗旨のお坊さんに来て貰って、お経をあげてもらうことになるのであるのか。もっとも、最近は自家の宗旨が分からないと云う人も多いのだという。
昔から墓地には怪談話や“人だま”などが付き物であった。自動倉庫のようなお墓や、コインロッカ一のようでは“人だま”もきっと、飛び難いし、出にくいだろうね。
『 人は死んで土に還る 』と云うけれど、土葬なら腐敗発酵して土のようなものになってしまう。僕は『 腐敗や発酵 』に関することに興味が有るのです。私が死んだら、自分の土地を持っていませんから、何処か山深い国有地か何かに埋めて貰って、樹木の肥やしにでも成りたいと思っていますが、どんなモノなのでしょうか?
今は土葬が禁止されているのかと思ったら、そうでもなく、土葬もありなのだって。ただし、墓地に土葬に出来る広い土地が有るとか、伝染病を患っていないなどの条件は有るそうです。東日本大震災の時は亡くなった人が多くて、火葬場の能力が間に合わず、腐敗してしまうため、遺族の承諾を得て土葬にしたのだとか。鳥インフルエンザに感染したニワトリは集団で土葬だものね。ブタもそうだった。
以前は人が亡くなれば、通夜、告別式をしてから火葬と言う手順を踏んだものですが(地域に拠っては火葬後告別式と云うところも有る)、最近は通夜、告別式もなし、お経もなしで、火葬だけしてのう骨もせず、その後は押入れに入れておいたり、火葬場にお願いして処分して頂く、“直葬、ゼロ葬”と云うのも多いそうです。
火葬、土葬の他にも水葬と云うのが有る。水葬は日本国内では刑法の死体遺棄罪になる。例外として、日本船籍の船では船舶の航行中に人が死んだ場合、船長の権限で水葬が行われることがある。
日本以外ではヒンズ一教の儀式としてガンジス川に死者を流すのは有めいだ。その直ぐ横で口を漱いだり、沐浴する精神は信じられないけれど、他国の宗教上の事だから仕方がない。
日本には鳥葬の習慣はないな。ハゲタカやコンドルはいないけれど、カラスはたくさんいるから、出来ないことはないだろうけど、広場に放置するのだろうから、死体遺棄罪になってしまう。
広告の話がすっかりはずれてしまった。電車とバスでは広告の内容が違うと書いた。広告は人が居て、事象を知って貰ったり、知らせて買ってもらったりする訳だ。当然、対象とする人の状況を考えて地域密着型にしたり、高級志向になったり、庶民的にもなる。人が居てこその広告だ。
どうも、お墓の広告から、人の葬り方へと大きな脱線となってしまって、広告の話は調子がつかなかった。
ジジイとも成れば、暇な時に少しずつでも身の回りの整理をしなければならぬ。押入れの中の整理をしていたら古新聞が出て来た。こういう古くて色の変わったような新聞は見始めたら切りがないのであります。
新聞の下の方の広告欄に『 男の整理術 』なる本の広告が出ていた。技術、忍術、奇術、投資術・・・・など『 術 』を使った言葉を片っ端から数え上げたら際限なく出てくるのでは。『術』は訓読みでは『 すべ 』と読み、『 しかた 』、『 手段 』と言った意味であります。
読む力、聞く力、話す力、推進力、記憶力、忍耐力など、ちょっと前まで、『 力 』と言う語を本の題に付けるのが流行していたようです。これと同様に『 術 』と云う語も何にでも付けて単語になるようです。
整理術ですが、掃除と同様、私のもっとも苦手とする分野であります。『 もったいない 』、『 きっといつか何かに使える 』と何でも取っておくと云う生来の性格が禍して、ちっとも整理が出来ない。悪く言えば、部屋の中はゴミの山。特に読み終わった本が積み重ねて置いてあり、強い地震でもあれば土砂崩れ、雪崩状態になるのは間違いない。
Bookoffなどの古本屋さんに売却すればいくらかになると思うが、私のところには新しい本が少ない。紙の色が黄変したものばかりで、猫も避けて通るという『 猫またぎ 』、古本屋さんでも見向きもしないものばかりだ。そのうち、骨董的価値が出て来るやも知れず、期待しています。
おまけに掃除が嫌いと来ている。ルンバとか言う自動の掃除機を採用したところで、障害物、行き止まりだらけで、その機能を発揮できる筈もない。なるべくホコリが立たないように静かな動作、歩行を心掛けているのである。
私も含めどなたでもモノが整理整頓されている状態は気持ちが良く、好きでありましょう。私の場合は整理されている状態に至るまでの『 過程 』、つまり、『 整理 』や『 掃除 』が嫌いなのです。
言い方が乱暴かもしれませんが、おおよそ、整理整頓が出来ている方は、何でもかんでも捨ててしまっているに違いない。何も『 男の整理術 』などともったいぶらなくても、男でも女でも『 物を捨てる術 』に他ならない。『 もったいない 』、『 いつか使えるのでは 』で、整理が出来る訳がない。
会社勤めをしていた時、帰宅時に机の上には電話とペン立てくらいしか置いていない状態にして帰る方と、いつも書類を山にして置きっ放しにする人が居る。私は後者だった。何か必要になると、『 ○○の書類をもっていないか? 』と訊ねて来るのは、決まって何でもかんでも捨ててしまう整理の出来た方だ。
テレビのCM画面に出て来る部屋や住宅展示場の家は整理整頓されている。そこには生活がないから、『 生活感 』がない。生活があれば、読み終えた新聞は積み上げられ、本棚に入らない本や雑誌は雑然と置かれている。ゴミ箱も倒れるているかな。
整理術に戻るが、『 整理術 』と『 もったいない 』、『 きっといつか使える 』は両立しないのではないか? 『 もったいない 』、『 いつか使える 』精神で物を取っておきながらの『 整理 』は成り立たないと思う。成り立つのなら私も整理術を身に付けたいが、捨ててしまう整理術など当たり前じゃないか!!
ただね、問題は自分の余命、つまり自分の寿命が後どこくらいの長さあるかなのです。あと、1ヶ月しか寿命がないと分かっていたら、貯金だって残して置いたって仕方がないから、ステ一キでも寿司でも、バタ一ライス(おさむ爺の好物なんです)でも何でも好きなものを食べ、旅行に行き、酒池肉林と行きたいところなのです。結局、いつ死ぬか分からないから、これから先何が起こるか分からない状態では幾ばくかの貯金は残して置かなければ成らない。
『 もったいない 』、『 いつか使える 』も使用時期の予測を立てる。おさむ爺の寿命はあと3年だろうとなれば、使う時期が20年先と予想される物は、きっぱり捨てることを考えるか、その物の嫁ぎ先を探すことです。
年も明けて6日とも成れば、正月気分も薄れてきます。それにしても、明けて早々大きな地震や航空機事故があり、災害に遭われた方々を思うと心が痛みます。
地震の方は自然災害ゆえに怒りの持って行きようがない。地球は動いているのです。その地球上で生命を維持する我々人間の持つ宿命のようなものです。地球の全表面を覆う十数枚の岩盤(プレ一ト)は常に少しずつ動いていて、その境界部に様々な変動が起きる。
インドが乗っていたプレ一トがユ一ラシア大陸にぶつかり、押し上げてヒマラヤ山脈が出来た。日本もかつては大陸と繋がっていたものが離れた。その都度起きた地震の大きさは計り知れない。日本は太平洋プレ一ト、ユ一ラシアプレ一ト、北米プレ一ト、フィリピンプレ一トの4つのプレ一トが互いに干渉し合うところに横たわっている。悲しむべき事に、地震があるのは当たり前なのだ。
本を読んでいたら、『 人間万事塞翁が馬 』と云う言葉が出ていた。意味は大体知っていた積もりだったが、改めて調べてみたら、とんでもない間違いをしていた。読み方が間違っていたのだ。『 にんげん・・・・・』だと思っていた。もちろん『 にんげん・・・・・・ 』と書いてある辞書もある。『 じんかんばんじさいおうがうま 』と読むのが正しいのだという。
人生における幸、ふ幸は予想しがたいと云う意味だが、『 人間 』は『 世間 』と云う意味なのだ。
たとえてみれば、バッグが落ちているので拾って中身を見たら、数千万円の金が入っていた。辺りを見回したが誰も見ている様子がない。ネコババして部屋に戻り、締め切って一人で喜んだ。
でも、ちょっとふ安になった。数千万円入ったバッグが捨てられて居る訳がない。捨ててあったのではなく、闇の世界の取引か何かで、置いてあったのだ。拾ったところを怖い人に見張られていたのではないかと心配に成り、ストレスからうつ病に成ってしまった。
精神科の病院に通うようになって、病院でふとした切っ掛けから、美人の看護婦さんと知り合いに成り、二人で会うようになった。有頂天になったところで看護婦さんがオカマで有ることが分かった。例題が少し突飛かもしれませんが、これが『 人間万事塞翁が馬 』なのである。
『 人間 』を安直に『 にんげん 』と当たり前のように思っていたが、分からないものである。
私の周辺では年が改まっても、特段の変化はありません。私は宗教心のないジジイでございます。昨年はカミさんとチャリにて『 川崎七福神巡り 』を致しました。色紙を買って、指定のお寺を廻ってスタンプ(有料)を押して頂くのは、言ってみれば“スタンプラリ一”のようなものです。1日で完了しました。
今年もと、昨年とは逆の順番で寺巡り、今度は『 徒歩 』にて巡りました。最期に来て、足にきたので、あと一福神は翌日にお参りし、歩きの場合は2日間で完了しました。
ある方に伺えば、夫婦は二十愛情、三十惰性、四十忍耐、五十諦観、六十感謝、七十成仏と言うのだそうです。今のところ、私のところではお互いに我がまま言わなければ、どうにかこうにか維持できそうな状態です。
今、私は平穏、つまり幸せなんだろうなとしみじみ思っております。年齢的には今年の内に、後期高齢者と云う分類に組み込まれるものの、体も精神もまだ深刻な状態になるには暫くの時間が残されている。
カミさんも私も、親を介護すると云う問題を既に終了している。大きな問題は知的障害を持つ長男は現在私たちと同居しています。僕らが死んだあと、どうなってしまうのだろうかという問題が残っている。道筋は付けておいてやらなければ成らない。
今、僕は身の空いている状態である。出来る間に自由時間を満喫しておく。旅行に行こうが、趣味に生きようが、人はそれぞれ。何もしないで自宅でブラブラしているのも満喫の一つの方法である。
夜、布団の中で眠りに落ちる前に、自分の人生はこれで良かったのかなと思うことが有ります。仕事については、職業は生きる術(すべ)であって、人生の目的ではありません。希望した職種で、生き甲斐のある職で働ければ、より充実した人生を送ることが出来るでしょう。ただ言えば、『 寄らば大樹の陰 』で必ずしも大企業が良いと言う訳でもない。大企業に勤めて居た人で、辞令一つで辛い目に遭って居る人を何人か見てきました。
今にして考えると、飛びぬけた大きな幸せはいらない。努力の積み重ねで得た小さな幸せは大きな喜びなのだと思っています。
明けましておめでとうございます 本年もどうぞよろしくお願い致します。この言葉をホ一ムペ一ジ上で20回以上書いて来たなんて信じられない。おさむもジジイになったものだ。
分かっていることなんだけれど、更新日の年の部分を"2024"にしたら、年が改まったのだと感じた。
僕くらいの歳になると、新年と言っても特別な感慨もありません。昨日の次が今日で、その次が明日と連綿と続く毎日です。個人的な目標は本をたくさん読むこと。今年の半ばには後期高齢者となってしまう。私にとって残された時間も、潤沢に有ると言う訳ではありません。なるべく良い本を読みたい。
漫画、推理小説、H系、バイオレンスや50ペ一ジ以下の軽い本を除いて、年間100冊が目標です。昨年、一昨年は届かなかった。年間100冊というのは結構大変です。月に換算すると8.4冊以上コンスタントに読み続けなければいけない。昨年は95冊だった。
さて、この『 おさむの自由区域 』も、何度も止めてしまおうと思った。一旦止めてしまったら、僕には再び立ち上げることは出来ないでしょう。何か『 自分のはけ口 』を設けておきたいと思って続けて行こうと思っています。
今年はこうしようと言うモノは
① テキスト形式は余り変えない積もりです。『 百聞は一見にしかず 』ですから画像は少し増やそうかと思っています。
② 堅苦しくなく、なるべくバカバカしいことを多く。
③ 更新を頑張りたい
④ 当たり障りのない書き方はなるべく避けて、はっきりと書く
①~④をモット一に努めます。どうぞ、よろしく(2回目か)
ダイハツ工業の車両認証試験をめぐるふ正問題が発生している。ダイハツ工業では本社工場を含めた4工場で昨年度は93万台を生産し、約6000人もの従業員が働いている。工場の稼働停止によるダイハツの取引企業や下請けへの影響も懸念される。働き手や工場が立地する自治体にもふ安が広がっている。(ここまでは新聞の文面を繋ぎ合わせて書いたものです)
おさむ爺はいつもいい加減なことばかり書いている。年末になって、爺もこんな面を持っているのだと示そうと思い付き、たまには真面目くさって地球温暖化や環境について書こうと思ったのです。
羊や牛のゲップによるメタンガスが温暖化に大きく影響していると言います。日本として考える場合は、まず第一に炭酸ガスの発生を抑えるという事になる。それなら、端的に石油の消費を減らせば良いのである。ダイハツの工場操業停止はラッキ一であるとは思う。ダイハツ関連で働くことが生活の基盤である人が居て、影響を受ける自治体もあり、操業停止を軽々に喜ぶ訳にはいかない。何かを考えようとすれば、必ずそこで働く人が居て、簡単に断を下す訳には行かないのです。
公道を挟んで我が家の向かい側に私道があります。ハ一モニカのように10軒の一軒家が並んで造成された。多分45歳前後くらいの夫婦とその家族の人たちが入居しました。それら10軒の全ての家が車を所有している。勤めは電車利用らしく、平日には車が駐車場に置かれていることが多い。こんなことは日本中の何処にでも有る景色です。石油の消費を減らすにはちょっとの犠牲も含めて、大鉈を振り下ろさないと出来ない?
でも、そうは行かないのが石油の消費で、モノ作りと物流には石油はなくては成らないものになっている。私たちの生活や産業には電気が欠かせません。再生可能エネルギ一も段々と増えているようですが、電気を作るには、石油を燃焼させて作る火力発電にウエイトが掛かっている。原発を作るにも石油を使わなければ、原発は出来ないのである。
日本の経済はモノ作りなしでは成り立たない。石油の消費を減らすことイコ一ル日本の経済成長を落すことなのです。エネルギ一の消費をなるべく落としてモノ作りをする省エネも、日本の場合は、ものごとを成し遂げる過程で一番苦しい段階にすでに近付いていると言われている。
人口の多いインドや中国に比べて、『 省エネの効率 』だけで言ったら、日本が一番であろう。きっとロシアも効率が悪い。ここでは安くモノを作る事を言っているのではありません。安くモノ作りをすると言うなら、発展途上国やインド、中国にはとても敵わない。
温暖化を防止するには、炭酸ガスの絶対量を減らさなければ成らないのです。絶対量を減らすことを考えるなら、アメリカ、中国、インド、ロシアにもっと頑張って貰わなければならない。炭酸ガス削減とモノを安く作ることは、現在では『 背反 』することなのです。
ウクライナの戦争で、小麦や穀物がふ足してしまったように、モノ作りと言うのは世界の中で誰かが担わなければいけないことなのです。もし仮に、日本がイギリスのように金融や情報の分野に重心をシフトして行き、モノ作りを発展途上の国や中国、インドに移行されて行ったら、炭酸ガス排出問題は更に悪化するのは火を見るよりも明らかだ。
ここ数年にはもっと悪いことが起きている。それは『 戦争 』だ。戦争ほど環境を悪化させるものはない。ウクライナに侵攻したロシアはもちろん、ウクライナを支援しているアメリカ、EU、日本も環境を悪化させているのだ。
イスラエル、パレスチナの紛争も同じだ。パレスチナにはイスラム諸国が支援しているだろうから、『 ユダヤ教とイスラム教 』の宗教の争いになっている。
これはきっと間違いないことだと思っているが、『 地球温暖化、環境問題は面倒臭い。誰かがやれば良い。世界の人たち、国々が皆でそう思ってしまった結果が地球の温暖化、環境問題なのだ 』
その結果、12月に成っても日本で夏日になり、夏に成れば世界中が酷暑に喘ぎ、北極の氷が溶けて海面が上昇して、サンマが高級魚になってしまう。
年末になって、ジジイが温暖化や環境問題を考えたって何の役にもならない。ジジイは余命幾ばくもない。せめて、『 戦争は止めてくれ 』と思い、『 誰かがやるだろう、誰かがやれば良い 』と云う考えはみんなで止めて欲しいな。
カレンダ一を見ていたら、
おさめの水天宮 12/5
おさめの観音 12/18
おさめの大師 12/21
おさめのふ動 12/28
終いの天神 12/15
と書いてあった。いったい、『 おさめの~ 』と言うのは何なのでしょうか? 天神様だけ、『 終い~ 』になっている。『 おさめ~ 』と『 終い~ 』の違いは何なのであろうか? どの世界にも他の人たちと違うこと、差別化、自分だけが好きなヘソ曲がりの、目立ちたがりの人が居るから、その類なんでしょうかね?
これに対し、始まりの方は『 初天神 』、『 初大師 』のように、『 初 』の文字を使っている。落語に『 初天神 』と云う演目がある。天神様にお参りする箇所などちっとも出て来ない。何も買ってやらないと言う約束で連れて行った子が、露店の品を見て、『 あれ買ってくれ、これ買ってくれ 』と言う親子のやりとりに終始していて、何も『 天神様 』でなければいけないと言うことではない。
『 おさめの~ 』はいったい何なのであろうか? さっそくWebで調べて見る事にした。水天宮のところで、『 水天宮にお参りできる一年のうち最期の日で、縁日が開かれる 』とあった。そうすると、『 おさめの水天宮がお参りできる最後の日で、初水天宮が一年のうちで最初の参詣する日 』なのでしょうか。
ウソをつけ! 他の『 観音 』や『 大師 』、『ふ動 』についても調べたが、私の疑問に対し、明確に答えを書いてあるところはなかったようだ。何処も縁日が開かれるとは書いてある。『 おさめの~ 』と『 初~ 』の間に『 元旦 』があるのです。例えば川崎大師は例年、全国第3位の数の参拝者がお参りする。参道までぎっしりと人で埋まり、身動きも出来ないほどだ。
神社やお寺にとっても年一番の稼ぎ時なのでは。『 おさめの大師12/21 』から『 初大師1/21 』までの約1ヶ月間、お参り出来ないなんて有り得ない。21日は弘法大師の亡くなった日、命日だと書いてありました。設定した日付は取り合えず、『おさめの~』の理由には関係なさそうです。
川崎大師他大きな社寺でもそうであろうが、参道には一年中参拝者を目当てとした、常設の『 みやげ物店 』が並び営業している。わざわざ縁日など開かなくとも、毎日休まず営業している。
『 初~ 』と『 おさめ~ 』は何なのでしょうね?
年末は何かとやることが多くて面倒臭い。掃除をするにしても、寒いし、水も冷たい。ずっと連続した日々なのに、年単位の区切りを付ける。テレビで『紅白、紅白』と云う言葉を聴くが、ここ数年はほんのちょっと、サワリ程度に見るだけで大抵は早々寝てしまう。
2024年秋からの郵便料金値上げ案が報道されていた。全国何処でも、所ジョ一ジさんの『 ポツンと一軒、こんなところに一軒家 』に出てくるような、山の中のたった一軒に住む方に対しても、同一料金で配達することになっている郵便のシステム自体に無理が有るような気がする。年始の挨拶を e一mail、SMS,Lineなどで済ます方々も増えているのだから、年賀状を出す人が減ってくるのは、まあ当然のことと言える。
友人・知人の中には『 もう年賀状は止めます 』宣言されている方々もいらっしゃる。私とて、そんな宣言をするのに十分歳を経ているが、まあ年に一回の事だからと、今年も年賀状は継続することにした。
昨日(12/18)、年賀状の裏面の絵柄の印刷を終えた。私には画やイラストを描くアイディアを創造する力もないし、絵心もない。仕方なしに他の方が考えたデザインに頼らざるを得ない。絵柄を決めるのも、何かと面倒臭い。
パソコンを使って、当然無料のところで見繕おうと、『 2024年 年賀状図柄 』で検索した。干支にちなんだモノで探す。『 龍・辰 』と云う架空のものだから、龍に羽が有るのもあれば、“コモドドラゴン”のように四足があったり、蛇のような足のない図柄も出て来る。色も緑色、赤色などイラストの作者によって様々なのです。中には海洋生物のタツノオトシゴのイラストもあった。
12/14に散策に行った。お寺の本堂の天井にある円形の枠内に『 龍 』が描かれていた。『 もしかしたら、年賀状の絵柄に使えるかな 』と思って、写真を撮っておいた。円形の枠の中の図を長方形にトリミングしてハガキ裏面の下の方にハメ込んでみた。
こういう工作をした年賀状を作って良いものだろうか。何か規則があるのかしら。鎌倉の大仏の前で修学旅行の集合写真を撮って、それをハガキに貼り付ける人も居るであろう。営利目的でもないし、個人使用なら全く問題とならないに違いないと、今年の年賀状の図柄とすることを決めた。
ハガキ表面側の住所はパソコン内に保存してある住所録を使えば良い。昔、1枚ずつ手書きしていた頃を考えれば便利になったものだと、つくづく感じるね。
『 龍の画像 』の他に『 迎春 』、『 ことしもどうぞよろしく 』、『 元旦 』を配置した。表裏の印刷部分が終わったとしてもまだ完成ではない。年賀状もすべて印刷で済ましてしまうのは寂しいし、味気ない。たとえ少しでも手書きを加えたい。例年、相手先によって、近況などを書き込めるようなスペ一スをかなり広く設けている。この手書きが一番大変悩むところなのです。
12/25までに投函すれば、元旦に配達されると云う。1/2の配達はないのだから、年が改まってしばらく経ってからのハガキ到着では気が抜ける。25日までに投函できるように頑張ろう。
仕事を辞めてしまった今では、年賀状でもなければ、パソコンの持つ色々な機能を使う『 技 』も忘れてしまうのだよな。ボケ防止には良いかも知れない。
久しぶりに鎌倉まで行って来た。電車の窓から見える景色はいつも利用している路線のものとは、当たり前だけれど全く違う。子供のように電車の窓から景色を見るのはとても楽しく、好きです。
同じ電車でも、地下鉄から見える外は暗くて、壁ばかりだから窓から外を見ることはほとんどありません。地下鉄は外を見る楽しみがないから残念だ。景観を見ることの出来ない分、割引運賃とならないものか? 電柱などと同じように都市の景観の面から言えば、地下に交通網を張り巡らす方がきっと良いに違いない。踏み切りでの渋滞や事故も加えれば、きっと利点も多いのであろう。
電車は好きだけれど、『 乗り鉄 』と言う訳ではない。何の目的もなく電車に乗りに行くことはない。いつも利用する路線の電車で、何度も同じ景色を見ていたとしても、毎日乗っていることもないから、きっと新しい発見があるものだ。
昼間は良いけれど、暗くなってしまう夜は景色が見えないから残念だと思うかもしれないけれど、夜と昼では外の見え方が全く違う。
仕事を辞めた今では、夜の電車に乗ることがほとんどなくなってしまった。勤めて居た頃は、出張の帰りなどで夜の10時や11時頃に電車に乗ることもよくあった。酔って騒いでいる人が居なければ、夜の電車も快適である。集合住宅が連なった箇所で、もう既に消灯されていれば、この中の何軒かはもう“お楽しみ中”ではないかと余計なことを思ったりする。
灯かりの点いたス一パ一マ一ケットの売り場も浮き上がって良く見える。ビルの事務所か何かで、まだ照明が点灯されているのが見えれば、『こんな時間まで働かされているのか』と同情してしまう。
何も働いているのは事務所だけでなく、走っている車や、タクシ一、トラックのドライバーも皆さんそうだ。売り場が見えるス一パ一だって、アルバイトかどうか知らないけれど、従業員の方々もまだ働いているのだ。
ちょっと違うけれど、もう20年以上も前に、夜の列車の車窓から見た、奥羽線の山形県米沢駅の情景が頭から抜けない。きっと良い様に、良い様に頭の中でイメ一ジを美化しているに違いないと思うのだ。夜の列車が寂しげに、白色電灯に照らされた米沢駅に止まった雰囲気が忘れられない。どうして米沢駅なのか自分でも分からない。
きっとその時の自分の『 心の状態 』が大いに関係しているに違いない。そんな駅の光景など日本中の何処にでも有るのだと思う。でも、米沢駅が東北に位置しているのもきっと重要な要素だ。
米沢は内陸部だから該当しないけど、背景と云うものはとても大切です。冬の日本海は寒くて暗くて演歌の舞台としては最適です。コートの襟を立て、失恋して傷心の女の一人旅。舞台の背景を整えることが大切です。これが明るくて温かい南の海に旅行に行ったら、『 あ~~、私の恋は南の~風に乗って走るわ~~ 』や『 小皿叩いてちゃんちきおけさぁ~ 』なんてなったら、雰囲気ぶち壊しです。
やはり、夜汽車の車窓からみる寂しげな駅の姿は東北に限る。20年以上も経て米沢駅がその後改装されてしまったかどうかは全く知りません。
夜の景色は灯かりが点っていなければ見えません。点っている分、強調されて夜の車窓からの景色はとても豊かな表情をしているのです。
最近は体重の増加を危惧して、甘いものや羊羹を食べる機会がぐんと減った。体重の増加などちっとも気にしていなかった若かった頃には、羊羹も賞味期限がとっくに過ぎてしまって、端の方が固くなり、砂糖がジャリジャリするところに甘味が凝縮していているに違いないと信じて、特に端っこが好きであった。
カステラも端や下面の紙にへばり付いた焦げ茶色の部分が好きで、スプ一ンを使ってこそぎ落として食べていた。あんまり、みっとも良い事ではない。
サケも3枚におろした時の『 中骨 』ばかりが詰められた缶詰が好きで、カルシウムに富み、骨粗しょう症に成らないのではと信じている。別に後ろめたいと云う気持ちもないのだが、何だか、とても貧乏臭いような性格と言えないでもない。
世の中の人々も結構、『 端っこ好き 』な傾向に有るのだと感じている。電車の始発駅で、乗客が座席に座るとき、横長7人掛け座席の両端から埋まっていく場合がほとんどだ。 それまで端から2番目に座って居た方でも、一番端の方が下車して空きが出来ると、わざわざ、端の席に移動する方さえ居る。
劇場や映画館、新幹線、飛行機などでも無意識の内に、列の端の席に座ったり、予約してしまう。列の端以外の席だと、トイレに行きたくなった時に、同じ列に並んだ皆さんの脚を縮めて頂かなければ成らぬことになり、恐縮してしまう。
私のような人間から見ると、映画館などで端の席が空いているのに、堂々と真ん中にどっかり座る人が本当に羨ましい。
端が好きと同時に、狭い場所も好きだ。20年以上前に家を建て替えた時に、建築屋さんに頼んでセットしてもらったのが『 書斎 』である。書斎と言えば聞こえが良いが2畳半くらいしかない、物置やなん戸と区別がつけ辛い。パソコン台2基、学習机を置いたらそれで一杯の単なるパソコン部屋である。本は入りきらずに、本棚と段ボ一ル箱に詰め込んで、別の場所に置いてあります。
私が使っている机は、子供が小学校入学した時に買った学習机である。椅子は壊れてしまって、パイプ椅子を買って来て使っている。作り付けの本棚は一杯、机面はモノが積み上げられているから、残った横65cm、縦45cmほどのスペ一スが細々私の『 作業場 』なのである。私はモノがゴチャゴチャしている方が落ち着き、“生活感が有る”と自ら称している。
古き昔を思い起こせば、私が子供の頃にまだあちこちに原っぱがあった。誰の所有の土地だか知らないけれど、子供たちが入って遊んでも文句も言われなかった。その原っぱの端に棒切れや木の枝、ダンボ一ルなどを集めて、『 秘密基地 』と称する小屋を建設(?)し、狭い所に潜り込んで遊んだものである。
歳を取ってもいつまでも、ずっと“少年の頃の心を忘れられず、維持し続けている方々”がいらっしゃって、今になってもブル一シ一トを集め、『花鳥風月』を愛でる生活を営んでいらっしゃる。
可能性は万に一つもないが、もし私が大企業の社長にでもなって、広い社長室でも当てがわれてしまったら、恐らくオロオロ当惑してしまって仕事など手につかないに違いない。
好きな狂歌に『 楽しみは 後に柱 前に酒 左右に女 懐に金 』というのがあります。誰しも寄り掛かる事の出来る『 後の支え・拠りどころ 』が欲しいものです。『 懐に金 』もこれだけ有れば、支払いは大丈夫であろうと言う拠りどころなのかな。
私の大好きな方丈記を書いた鴨長明や、徒然草の吉田兼好は、広い場所で随筆を書いていたのでしょうか? 吉田兼好は分かりませんが、鴨長明の方丈は狭いのもだと思いたいな。
前回に引き続き『 酒 』に関することにします。 テレビのCMだから、製品売り上げ増大を目標とするのは、当たり前のことなのに、とても美味そうにビ一ルをグラスに注ぎ、とても美味そうにビ一ルを飲む。
鍋から立ち上る湯気なのか、お猪口に注ぐ熱燗のお酒からほんのり湯気が立ち上っているのだろうか、とても温かくて美味しそう。呑みたくなる。お正月が近付いているせいなのか、酒のCMが多いような気がする。
テレビCM に触発されて、自分にもよほど呑みたいと思う心が見えます。そんなに呑みたいなら、別に医師から止められて居る訳でもないのだから、呑めば良いのに・・・。 以前は呑んでいて、体のせいで今は呑まない後発性の下戸にとっては辛い季節なのであります。
『 酒なくて なんの己が 桜かな 』 “花見に酒はつきもので、酒を呑まない花見なんてちっとも面白くもない”と云うような意味です。酒を呑む切っ掛けとなれば、本当は梅でも桜でも、道端に咲くタンポポでも良いのです。
花が咲いては呑み、散っては呑み、鳥や虫が鳴いては呑む、十五夜の月を愛でては呑み、“花鳥風月”、天気や季節の移ろいを誉めては呑み、収穫を祝っては呑み、台風が近付いて、荒天を憂いて呑み、子供が産まれたとて呑み、人と出会っては呑み、友人との別れに呑み、入学を、卒業を祝っては呑み、笑って呑み、泣いて呑み、黙って呑む、何が何でも呑むのです。
呑兵衛にとっては、四季、花鳥風月、天気、冠婚葬祭、喜怒哀楽 etc.いかなる場面をも切っ掛けとして、時、所、場面 かまわず、出来ればゴチで、とりあえず呑むのです。
私も以前は呑んでいましたから、“酒飲みの方”の思いも理解できます。人によって個人差が大きいですが、ほろ酔い程度で切り上げて欲しいな。 笑い上戸、泣き上戸、ニワトリ上戸などもみっともない。人に絡むのも迷惑だ。いつまでもダラダラと呑んでいるのも敵わない。
『 酒飲みは やっこ豆腐に さも似たり 初め四角で あとはグズグズ 』と云う狂歌のような酒飲みも困る。サッサと呑んでカラッとして引き上げる “酒飲み”を希望します。
私も正月にはビ一ルをコップ1杯くらい、別の日に日本酒をお猪口 1~2杯は呑んでみたいなと思っています。テレビCMの影響力、効果は多大です。
今は、酒をほとんど呑みません。心臓病の持病で呑むと胸がどうしようもなく苦しくなってしまう。こんな苦しい思いをするなら、呑まない方が余程良いと思って呑んでいません。家にも料理酒以外は置いていない。ちなみに料理酒として売られているものを呑んだことありますが、とてもマズイ。
多分、60歳くらいから酒を呑まなくなった。それ以前は呑んでいたから、酒の美味さや、ほろ酔い気分の心地よさは分かっている積もりです。
お酒を好きな人は、お酒を呑んで失敗したことや、嬉しかったことなどたくさんのエピソ一ドが有ると思います。酒の上でのケンカや失態は古来より途切れたことはありません。この世のどこかで毎日毎日、必ず誰かが起こしている。
昔は『 酒の上の事で・・・・』と、何とか許してもらえることがあった。その点、下戸の人はそんをする。同じケンカや失態が有っても、『 なにしろ、大福を5つばかり食べてしまったものですから・・・・』と言い訳しても、酒では許されても、甘い物では許されない。 それでも、昨今は酒の上での行状も許されることは少なくなって来た。まして、飲酒運転で人身事故など起こせば厳罰に処せられるだけでなく、一生を棒に振るようになる。
演歌、艶歌、落語の方でも酒とは縁がとても深い。演歌の作詞の先生も酒場、居酒屋がなければ、酒がらみの作詞活動にも支障を来たすに違いない。
酒に関する“言葉”、“格言”、“めい言”も山ほど有る。
*酒はキチガイ水
*酒は命を削るカンナ
*百薬の長と言えど、よろずの病は酒より起これ (吉田兼好)
*酒を一切呑まぬ男、タバコをのまぬ男と結婚してはいけない
*禁酒なんて簡単だ。私は百回はやった
*酒のない国へ行きたい二日酔い、三日目にはまた戻りたくなる。避けがたいのは酒
この作文を書くに当たって、ウエブを参照させてもらったが、それこそ山ほどあった。
ほろ酔い気分は実にいいものだ。どれくらい呑めばほろ酔い気分になるかは個人差が大きい。外で呑んだ場合、現在の居場所と時間が分かり、同席した友を認識できた上で、自分一人で何処にも寄り道せずに帰宅出来るかが判断目安のひとつになるだろう。
僕は元々酒に強い方ではない。若い頃は道端で“小間物屋”を開いたものである。歳を経るに酒量も減って来て、そんなふ始末をすることもなくなった。
よく“自分の酒量の多さ”を誇らしげに言う方が居る。大いなる勘違いである。自分の“愚かさ加減”の看板を背負って宣伝しているようなものだから、直ちに止めた方が良い。
人は気持ち良く酔うために酒を呑む。仮に僕がお銚子1本、あるいは生ビ一ルの中ジョッキ1杯でほろ酔い状態になれるのに、生ビ一ル大ジョッキ3杯呑んだ後、焼酎に切り替えないとほろ酔い気分に成れないと言うのは、まったく『 効率が悪い 』と言う事に尽きる。経済面でも無駄な費用が発生するという事だ。今風で言えば『 コスパが悪い 』。 認識を改めた方が良い。ちっとも酔わないのなら、呑まない方がましだ。
家で呑む場合でも、酔って寝転べば、即寝床の我が家だと思って、つい手酌でいつまでもだらだらと、酒量が増えてしまうと言うのも困ったモノです。
酒量が増えて、健康診断の時の“γ一GTP”の数値が気に成ったり、肝臓を痛め、ガンを誘発して亡くなった方を何人も知っています。
営業職などで仕事上、酒を呑まなければいけない、いわゆる『 接待酒 』が一番まずい酒かなと思って居ます。
酒を呑まないことが常態化している僕でも、お猪口に注がれた酒から湯気が立ち上っている場面や、ビ一ルを美味そうに喉を鳴らしながら呑むテレビCMを見れば、なまじ味を知っているだけ呑んでみたくなるのです。
年が改まれば、『 正月くらいは・・・』と、カミさんがお銚子を用意してくれると思うのです。ここでお猪口1~2杯で止めておけば多分大丈夫でしょう。更に杯を重ねれば、きっとまた大いに苦しむようになるに違いない。まったく困ったものだ。
たまに“飲み会”に出席しても、僕だけオレンジジュ一スや、ノンアルコ一ルビ一ルを飲んで、朋友がほろ酔いに成っているのを横目に見ながら、一人白けているのである。いつものことだけれど、『 つまんねぇ~~ 』。 ノンアルコ一ルビ一ルではほろ酔い気分にならんのです。
昨日(11/30)、チャリではるばる20分くらい離れた花屋さんまで行ってきた。仏花、シクラメンの鉢うえ、育苗ポットにうえられた花の苗5~6個を買った。我が家のコタツの天板は物置きのように成っていて、新聞、血圧計、本、雑誌、コ一ヒ一の木の鉢うえ、筆記用具などが雑然と置かれている。その天板の上に、この冬もシクラメンを置く。今後、ポインセチアも仲間入りするかもしれない。
シクラメンは何千円もする高価なものでなく、買ったものは¥980(税抜き)で、白とピンク系の赤とのグラデ一ションになったちょっと変わったものです。
昨年買ったものは、どこかに欠点があったらしくて、同じ大きさの鉢で¥500であった。素人の私には何処に欠点が有ったのか全く分からなかったが、それでも冬の間中、かがり火のように部屋を明るくしてくれた。水遣りと定期的に肥料をやっていたら、元気に5月まで花を付けてくれた。
シクラメンも、花が終わった後、そのままにしておくと、夏越し出来ずにたいていは枯れてしまう。花が終わったら風通しの良い日陰において、水遣りと1ヶ月に1度くらいの施肥は欠かさずにおいたら、今年の猛暑にも耐えて、今は元気に葉を繁らせている。
少し時期が早いのであろうか、ポインセチアも売っていたけれど、まだ数は少なかった。メキシコ原産の熱帯のしょく物で、クリスマスのイメ一ジと合うのでしょうが、ポインセチアにとっては、冬の日本では可哀想なのです。クリスマスまで部屋の中で持ちこたえても、クリスマスが終わって屋外に出されたら、たちまち寒さに耐えられず枯れてしまいますから注意願います。
シクラメンやポインセチアを見るようになれば、
『 ああ、今年ももう終わりだな。今年も色々あったような気がするけれど、何があったんだっけ? 』
歳のせいで何でもかんでも直ぐに忘れてしまう。もう開き直って、忘れると言う事は、神様が私たちに授けてくれた有り難い能力だと自分に自己暗示を掛けてしまうことにしょう。色々な出来事の中には嫌なこともあった。忘れてしまいたい記憶がいつまでも生々しく、ジクジクと脳ミソに一杯詰まっていると想像するだけで、生きていくのが嫌になってしまう。忘れると云う素晴らしい能力を与えてくれた神様に感謝、感謝しなければ成らない。
でもね、高齢者になると、『 忘れる 』という事に関して、実際にはそうも言っていられないと云うのが実情なのである。本当は少しの時間でも覚えていなければならないことでも忘れてしまうんだよな。そう、三歩歩いただけで、『 あれ、なんだっけ 』と成ってしまうのだから困る。もう、自らの記憶に頼っていられないことは十分理解しているから、直ぐにメモするとか努力しているのだけれど、まだ自分に甘いと云うか、『 これぐらい大丈夫だろう 』とメモせずに居たことで、後になってすっかり裏切られたことを知るのであります。
若い頃でも忘れることは有る。若い頃なら『 忘れると云うのは、忘れても相応しい内容であり、それなりの必然性が何処かにあるのだ。だから忘れるのだ 』と開き直り、強がって言う事が出来た。事実、この世の中で3ヶ月や半年経っても覚えておかなければいけないことなんか、ほとんどないから忘れても大丈夫であった。
高齢者が直ぐモノを忘れると云うレベルは、そんなことをはるかに超越してしまっているから困るのだ。
結婚してから暫くの間、僕はカミさんの居るところではオナラをしなかった。カミさんも、僕の居る前ではスカシ屁はともかく、音を出すような放屁はしなかったように思う。
新婚当初でお互いにまだ緊張していたのか、礼儀だと思っていたのでしょうか。後で聞いたことですが、僕のことを『 オナラをしない人なのかと思っていた 』と言っていた。そんな事はありません。誰しも腸内ガスは放出します。今では家の中では、双方とも音を立てて放出しています。
僕の母は家族の居る前では、放屁をしない人だった。母の放屁の音を一度も聞いたことがなかった。記憶が定かではないが、父もずっと高齢になるまで、人前で『 ブ一 』と音を出さなかった様に思う。
カミさんの母親、つまり義母は家族内の誰かが、『 ブ一 』と音を出して放屁すると、『 も、一丁 』と声掛けするような明るいタイプの人であった。別に気取って居る訳でもありませんが、家庭によってそれぞれの習慣があるのでしょう。
オナラをしたくなっても、人前で音を立てて放屁しないようにすることを、緊張と云うのかどうか知りません。例えば、外に出て働いている方が、外では少なくとも人前ではオナラを我慢しても、家庭内まで緊張を強いられるのは真っ平だという人も居る。
ここからはオナラから離れます。外に勤めに出ているお父さんが、休日に半袖の下着にステテコ姿で居間で寝転んでくつろいでいる場面など容易に想像できます。普段、ワイシャツにネクタイにス一ツ姿で、首絞められているのだから、せめて休日くらいはゆったりさせてくれと云うのが、『 ああ、幸せだな 』と思うところでありましょう。
一方で、『 ズボンを穿いて、上はポロシャツくらいは着て、寝転がるのは止めて下さいな 』と思う奥さんもきっといらっしゃることでしょう。
家庭内でくつろぐことを『 弛緩 』とすれば、通勤電車に揺られ、生活のために好きでもない仕事に忙殺される日々は『 緊張 』なのでありましょう。緊張有っての弛緩で、これらはいつも対比されるべきものです。緊張があってこそが生きていることの実感なのでしょう。
常時、極度の緊張の連続の生活はふ自然なものです。その後はきっとウツ病か自死と云う結末が待っている。自殺は死に拠っていつまで続くのか分からない緊張や苦痛の期間を短くしようと言う作業で、速やかに、弛緩の状態を取り入れなければならない。かと言って、いつもダラダラで弛緩ばかりの生活も甚だ人間的ではない。
おさむ爺は昨年3月に仕事を辞めた。ある会合に出席する機会が有って、めいしが必要かなと思った。パソコンで自分のめいしを作る気になって、さてめいしに記入する自分の『 属性は何であろうか 』と考えた。もう勤めを辞めてしまったのだから、何の所属も肩書きもない。已む無く『 Retired 』、『 在宅 世捨て人 』など色々考えた。結局『 Retired 』 にしたけど、会合でめいしは使わなかった。
ちょっと回りくどかったけど、おさむ爺には『 緊張 』の場面がなくなってしまったのです。やっぱり、ちょっと違うかな。緊張にも度合いがあって、『 軽度の緊張 』に変わってしまったのです。緊張が有ってこその弛緩です。軽度の緊張で、いつもいつもだらけていたら、気を抜いた弛緩の時には『 幸せ 』の程度もずっと薄れてしまっているのだろう。緊張も必要だよ。
落語鑑賞と言えば体裁が良いが、落語を聞くのが趣味です。今の噺家さんの経済状況がどうなのかは全く知りません。昭和20年代~30年代の落語黄金期に活躍された方々、古今亭志ん生を代表とするように、『 めい人、上手 』と呼ばれる師匠方々だって、みな貧乏長屋に住んでいた。
庶民の『 笑い 』を表現するには低い所に位置する必要があった。庶民のボヤキを代弁するには、高級車を乗り回し、豪邸で暮らすような、『 上から目線 』、高い位置からでは、人々の同感を得られない。低い位置から発する言葉、ボヤキだからこそ、人々の共感を呼び込める。自らを責め苛み、毒を含むから、人々の溜飲を下げさせることが出来るのです。
そういった先人の苦労を理解しないまま、お笑い芸人に憧れる若者たちが居る。当たるか、当たらないかは別として、テレビの時代には人気者となるには、お笑いが手っ取り早いと思っているようだ。何の意味も成さないようなギャグや奇声を発すれば、たちまち売れっ子に成れる場合がある。運のようなものなのだろうか。
今と成ってはもう全く古いが、『 モミジマンジュウ 』と発して人気者になった人たちが居た。たまたま大阪に行った時、彼らのステ一ジを見た。何かと言えば、意味なく『 モミジマンジュウ 』を繰り返した。その度に観客から爆笑の渦。あんなの芸でも何でもない。あれで爆笑する観客もレベルが低過ぎる。あれから彼らはどうなってしまったのだろうか?
社会的に価値があるのだとか、皆さんから尊敬される内容なのかは、まったく考えて居ないそうにない。それが一体、芸なのか。価値があるとか、尊敬されるとかよりは、直ぐにお金と人気を得られるかの方がずっと大切だと思っている。
たまたま発したギャグが当たった幸運な若者は売れっ子になり、引っ張りだこになる。町を歩いて見付かれば、人は振り返りキャ一キャ一騒がれる。
先日、テレビの落語番組で、噺家さんが『 東西で落語家さんが1000人以上居る 』と言っていた。東京だけだと寄席がいくつあるのだろうか。とてもじゃないけど、寄席に出演できる機会などある訳がない。売れているのはごく一握りの噺家さんだけだ。
どこまでをお笑い芸人として括るかどうか分からないけど、噺家さんの数ばいは居るだろうな。
たとえ、一時的に売れっ子に成れたとしても、お笑い芸人の人気は短い。庶民、大衆など直ぐにも見向きもしなくなる。『 次の一手 』、次のギャグ、次の流行語を発しなければ、メディアはたちまち遠のく。よほどの『 才覚 』に恵まれた人でないと生き残れない。
よくクイズ番組に出て来る、いつも赤い衣装と金髪のカズ・レ一ザ一さんや、ロザンの宇治原さんと言うお笑い芸人が居る。僕が彼らをテレビで見るのはクイズ番組ばかり。彼らの本職である漫才だか、コントをテレビで見たことがない。彼らだってテレビから淘汰されないように、裏では猛勉強しているに違いない。ボケの回答をするお笑い芸人はたくさん居るけど、クイズ番組でいつもトップグル一プを維持するには並大抵の努力ではないはずだ。
かつて芥川賞を取って才覚を示した又吉直樹さんや、クイズ番組で活躍している両人は才覚があり、努力しているのだろうから、これをさらに伸ばしていかなければならない。
さて、内閣総理大臣である。ここの所の支持率は20~25%と低迷の一途を辿っている。お笑い芸人でないのだから、ギャグを考え出して人気取りすると言う訳にはいかない。支持率向上のために打ち出した所得税減税や、低所得者向けの給付金もちっとも評価されない。頭をギリギリ絞って考えているのであろうが、総理も『 次の一手 』が欠けているのであろう。
今日は、お笑い芸人の話や、総理大臣の事を題材に書いてはいますが、これはたとえ話で、本音で言えば彼らのことを書いていられるほど、自分がしっかりしている訳では決してないのです。『 自らの戒め 』のために書いております。『 自分の頭のハエを追え 』と云う訳です。素直でない面倒な性格のジジイでありました。この性格はきっと死ぬまで直らないだろうな。
僕は今、74歳。来年半ばには後期高齢者となる。数え年70歳で『古来稀れ』と言うけれど、今の時代、74歳ではとても『 長生き 』と威張りは出来ない。これからの人間は心得ておかねばならないことが有ると思う。『知らないのは幸せ』と言う事だろうと思う。
今は情報過多の時代になっている。自分にとって必要でない情報に一喜一憂するのはバカ気ている。人間が取り込むことの出来る『 箱 』は無限に大きい訳ではない。ある程度取り込んだところで、『 もう、お腹一杯です 』と言っても良い筈だろう。それなのに、後から後から、ソレ食え、『 もっといけるだろう 』と無理強いして情報が入って来る。
新聞、ラジオ、テレビ、雑誌などのマスコミ、あるいはネットと云う情報システム。大雑把に言えば必要な情報なんて、ほんの一握りのモノでたくさんだ。その他は知らなければ、知らないで済むことばかりだ。
ウクライナやパレスチナ・ガザでの戦争は別として、日本から遠く離れた所で起きた地震、ほとんどの日本人が初めて聞くような場所、今のところ、日本に影響がないとすれば、このニュ一スを日本人の多くの人に知らせる必要なんかないと思う。
そんなこと言うなら、新聞も購読せず、テレビ・ラジオ・パソコンのスイッチを入れなければ良いだけの話なのは、当然分かっているんですけどね。
几帳面な人に取っては、とんでもない話だと怒られそうです。遠く離れた所の出来事でも、長い時間の後には必ず日本にも影響が現れるに違いない。だから日本人も知っているべきであろうと言われるかも知れない。ただ、ここで言っているのはごく一般人の話で専門に研究なさっている方の話ではありません。
一般でなく地震の専門家の場合だったらどうなるのか、地震の専門家は地殻変動の研究なさっているのだろう。そんな方は独自の調査網をお持ちで、常に地球の変化を調査する機関に所属していて、遠くで発生した地震情報などマスコミからの緊急速報は必要ないのかもしれない。一概に研究者と言っても、『 大規模地震発生などの災害時の経済状況の変化 』を研究されているかも知れない。そんな研究者にとっては、後になって、何であの時知らせてくれなかったのだと、マスコミとしては責任追及を受ける可能性はある。
人によって必要とする情報が違うから厄介だ。株をやっている方なら、株式市場の売買や円の相場の情報が欲しい、料理を趣味としているなら料理の情報を知りたい。その人、その人によって知りたい内容が全く違うから、マスコミとすれば最大公約数的内容にせざるを得なくなってしまう。
一般的に言えば、現代人は常に何かの情報に満たされていないと落ち着かないと言う『病気』に罹っているのであろう。新聞、雑誌、ラジオ、テレビを見ることの出来ない電車の中で、横並び7人掛けの座席で7人ともスマホを覗いている場合だって有る。なにもマスコミからのニュ一スだけが情報ではない。友人や家族からもたらされるLINEのメッセ一ジだって、立派な情報である。
こんな情報過多の現代人が、テレビもねえ、電話もねえ、スマホもねえ、電気すら通じていない、連絡船も1週間に1度しか来ない、しかも海が荒れたら、その週の便は欠航、『 夜明け共に起き、日没と共に寝る 』というようなリゾ一ト地の島に行ったらどうなってしまうのかね。
決して間違っていないと思うのは、『 食べ過ぎも、脳に詰め込み過ぎも決して良くない 』と思うのだよ。
身近に置いて何度も見たり、読み返したい本以外は、最近では僕が読む本は、たいてい図書館から借りてくる。そうでないと、読み終わった後、溜まってしまって甚だ困る。
図書館に在る本に、最新で刊行されたモノが在るのかどうか知らない。図書館が最新で刊行された本を買い込み、貸し出してしまうと、著作者や新刊の本屋さんにとって、本が売れなくて困る。図書館がいつ頃本を購入するのか、そこいら辺の事情は調べていないから分からないけれど、図書館に在る本は刊行されてから有る程度の月日を経過しているものばかりと承知しています。
昨日、もうかなり時間の経過している本を読んでいたら、懐かしい言葉が出て来た。『 ふ快指数 』である。今年の夏はとても暑かった。5月にはもう『 夏日 』が現れていたのではないか?(老人はもう忘れている) そして、11月まで『 夏日 』があった。
その暑かったシ一ズン中に『 ふ快指数 』と云う言葉を一度も聞いたり、言ったりすることがなかったような気がする。何十年か前には、夏が来ると必ず使われていたのに、もう誰も使わなくなってしまった。
ネットで調べてみたら、夏の蒸し暑さを数量的に表わした指数で、温熱指標の一つで、70以下が『 快適 』、75以下が『 まあまあ 』、80を越えると『 ふ快 』とする。温度と湿度から算出され、数字が多いほど蒸し暑く『 ふ快 』となるのだ。この指標を公表したから、どうしたとなると、何も効果がないからいつの間にか使われなくなってしまったようだ。
僕はこうした取りとめのないことばかり書いているけれど、実を言えば大変困ったり、悩んだりして書いているのです。自分の考えや意見のように思っていることでも、何処かの本に書いてあったり、ラジオで聴いたことであったり、誰かの受け売りかもしれないといつも気にしているのです。
でも実際には、何処までが自分の意思で、何処からが周りの流れ、風潮に乗っかったものなのか、見極めることなんかできないのです。どなたかがもし事前に表明したことを僕がここで書いたとしたら、申し訳ないし、情けないことだと思っております。
一方で、『 学ぶは真似ぶ 』と言う造語があります。教育と云うのは正に真似をすることなのです。皆さん、両親や祖父母、幼稚園、学校の教諭の教えなど、周囲からの様々の情報を真似して成長してきたのです。
こうして僕などいい加減なことなど書いて、作文の練習をして更に公表までしている。どなたもそうでしょうが、そんな厳密な事を言い始めたら、本当にオリジナルなことなど、書ける訳がないのです。
考えながら書いている積もりなのだけれど、さらに突き詰めて考えるのは嫌だし、面倒だから自分を追い詰めない。まあ、こんなところで仕方ないよね、といつも自分に言い聞かせてしまう。僕みたいな怠け者は、自分の中のふ完全性を許してしまう。
僕たちが日々暮らしている世の中は、それでも何とか動いて行ってしまうことの現実を皆さんはこれまでの経験上、重々知っている。だから特段、思い上がったり、追い詰められたりする気分にならない。これをどうしても許せない人は自殺したりする。
世の中に働き過ぎたり、仕事に追い詰められて死んだりする方がいる。そんなに苦しいのなら、一歩と言わず、何歩も退いて仕事なり、会社なりを辞めてしまえば良いのに、辞めずに自死してしまう。心の中に放り出してしまうに余裕がないのであろう。
人間を含めて全ての動物は最期まで歯を食いしばって、自分のエサの調達をすることがむしろ自然です。働き過ぎたり、仕事に追い詰められて死んだりする方の方がむしろ自然なのかも知れない。
高齢となって施設に入り、三度の食事を自分で作らなくて済むようになる。働かなくなったり、家事から解放されることを一概に悪いとは決して言えない。色々な心配をしなくなったり、何も考えなくなったとしたら、何も考える必要がなくなれば、老化は急速に進むに違いない。
島倉千代子さんの唄の『 人生いろいろ 』ではなく、人間は真面目に働いたり、時には怠けたりの『 人生ほどほど 』が一番大切なのです。
11/8は立冬でした。今年は夏日、真夏日が多く、漸くウインタ一スポ一ツが行われる季節に相応しい気候となりそうです。冬のスポ一ツの華は女子アイススケ一トだと思います。正直な感想を述べれば、あの競技にある程度の規制を掛けなくて良いのかなと疑問にも思います。
氷上で何かの技を繰り出すたびに、ごく短いスカ一ト(なまえを知りません)がめくれてしまう。運動によって鍛えられたムッチリ臀部はパンツに覆われてはいますが、むき出しになってしまうのです。たまたまふ可抗力で起きてしまうなら仕方ないとして、技を繰り出すたびに起きるものですから、善良を装うジジイは、彼女達の演技中何処を見ていれば良いのか困ってしまう訳です。
特に酷いのは、スケ一ト靴の金具部分に指を引っ掛けて、180°の大股開きをする時である。男と言うものは、困った生き物で、男性ホルモン・テストステロンの作用で、どんな方でも、誰でも、どうしても180°に開いた脚の中心部分に、自然の摂理で視線が行ってしまうのです。
演技するスケ一ト選手の方でも、そこら辺の事情は十分織り込み済、承知していて、
『 見せるものか! 』
とばかりに高速回転で対抗するのです。観客の方はよほどの動体視力の持ち主でも、あんなに高速で回転されれば、注視はまず、ムリだわな。
選手の方も良い加減回転した後、目が回って倒れてしまう前に、
『 さあ、おしまい。もう、いいでしょ 』
と回転を止めて開脚を終了させてしまうのである。
こんな、パンツ丸出し、太ももばっちり、高速回転の競技を放置している『 日本スケ一ト連盟 』(このようなめい称の団体があるのか、知らんけど)、及び警察当局の取り締まりや、PTAからの苦情は一体どうなっているのか。
地下街よりJR川崎駅改札口へ向かうエスカレ一タ一には『 盗撮注意 』の表示が何か所にも貼られている。丈の短いスカ一トの内側を盗撮したことが発覚して、警察に捕まってしまえば、きっとバカなことをしてしまったと、盗撮犯は一生後悔するであろう。
仮に盗撮に成功したところで、今時、パンツを穿いていない人など居ない。太ももとパンツが写るだけである。そんなにパンツの写真を写したいのなら、自分の好きな煽情的なパンツでもブラジャ一でも買って来て、人形にでも穿かせて、好きなポ一ズを取らせて、思う存分飽きるほど撮影すれば良いのではと思うのだが。人形は決して文句は言わない。どうも、テストステロンはビ一ルと一緒で『 生 』が好きなようです。
一方でスカ一ト内パンツの盗撮は罪となり、女子アイススケ一トのパンツの露出はお咎めのないのは如何なものかとなる。アイススケ一トの場合に実際に見えるモノは、直に肌に触れて穿いているパンツではなく、その上に重ねて穿いている『 見ても良いパンツ 』、『 見せる用のパンツ 』なのでした。
なまえは存じませんが、あのごく短いスカ一ト、あれはいっそのこと、ない方が良いのではと思うのであります。なまじあるから、じらすようでかえって良くないという考えも有ります。
平日のテニスコ一トに行ってご覧なさい。子育てはもうとっくに終了した、暇を持て余した、元気いっぱいのオバサンたちが、何の役目を果たしているのか疑問に思ってしまうような短いスコ一ト(テニスの場合はスコートと言うらしい)をなびかせているではありませんか。あのスコ一トは一体何の役割をしているのだ?
パンツにも色々用途があるようで、世の中には『 勝負パンツ 』と言うのもあるように聞き及んでおります。
昔は下着など日陰の商品のようで、あからさまに目立つ所に陳列していませんでした。今ではもう、全くの大っぴらとなっています。どこでもそうでしょうが、川崎の地下街でも『 ブラ・パン 』の専門店があって、おおっぴらに吊り下げられ、陳列されています。念のために書くけれど、『 ブラパン 』と言っても『 吹奏楽 』ではないからね。誤解しないでね。
おさむ爺とて歳を取っても、テストステロンの作用が僅かながら残存しております。その店の前を通る時には、あからさまに女性下着に目を向けるのには気が引ける。さも関心がないように、通路の進行方向、正面を向いて歩き、眼球のみ横に向けて横目遣いの技を駆使して歩くのであります。
例えば、体や顔は通路の進行方向に向けて、眼球のみ右に向けて横目遣いして歩くと、目に過度に右方向のストレスが生じてしまう。しばらく歩いた後、Uタ一ンして、今度は左方向横目遣い歩行を実施すれば、目にも左右均衡の作用となるのだが、ジイもそれほど暇ではない。
数日前、テレビのニュ一スで、ふ手際で救急車の到着が約3分遅れたと言う内容のことを放送していた。電話で救急車の出動の要請が有った。電話を受けた本部の署員が出動先の部屋の番号を聞き間違えたのか、救急車に伝え間違えたようだ。結果的に行き先の部屋を間違えてしまって、約3分間到着が遅れてしまった。例に拠って消防署の幹部の方(?)が並んで、薄くなった頭を曝し、お詫びと再発防止策を立案しますと言って居た。
なんとまあ、律儀なことかと思った次第です。生きるか死ぬかの境目で、1分1秒を争う事態でも有ることでしょうから、3分遅れは重大なことなのかも分かりません。それゆえ、警報音を鳴らして他の車両の通行を止め、一刻も早く現場に到着し、患者を病院へと運ぶことが緊急車両の使命なのでありましょう。
救急車が一刻も早く現場に到着に努めているのは認めます。どうもその先が良く分からない。我が家の周りにも救急車が時々来ます。患者らしき人を救急車の中に運び込みますが、その後、緊急車両なのに、ちっとも発車しないのです。最近では直ぐに発車したことなど見たことがない。昨日も我が家の傍に救急車が来ましたが、30分以上経って漸く出発しました。これじゃ、緊急車両の意味がない。どこかシステム的に間違いがある筈だ。
救急車の中で、行き先の救急病院を探しているのだと言います。それはそうでしょう。行き先の病院に運び込んでも、何らかの理由が有って受け入れられなければ、他の病院に行かざるを得ない。だけど、ちょっとおかしいよね。救急車もこんなに緊急性がないのなら、さっきの3分遅れの話なんか、何でもないことになる。
それだけ、緊急性のないことで、安易に救急車を呼んでいる人が多いと云うことの証拠にもなる。病気や事故になったとして、家族が自家用車やタクシ一で患者を病院に運び込むのでは、一般外来となってしまい、順番の診療と成り兼ねない。救急車が搬送するのとでは、病院の対応が違って来るだろう。
夜間に発症した場合では、病院の一般外来診療時間は終了してしまっているから、そんなに緊急性のない場合だって、救急車の出動を依頼する場合だって有るのだろう。行政機関や他人を動かすことに何も考えない人がいる。
世の中には信じられないほどの事をする人がいる。これは救急車ではないが、部屋にゴキブリが出たとて、パトカ一を呼んだのだと。警察官が行ったら、若い夫婦が二人とも、ゴキブリを怖くて震えて居たのだとか。
私も救急車に乗ったことが有る。右折しようと思って止まっていたところ、脇見運転の4トントラックに追突された。乗っていた軽乗用車はメチャクチャとなった。エアバッグは作動しなかった。追突では作動しないのかもしれない。運転者の僕はハンドルに顔を打ちつけ、救急車に乗った。その時は地方だったから、搬入先は選ぶほどなかったのかもしれないけれど、かなり遠くの総合病院まで運ばれた。
それほどでもない症状で呼ばれることも多いのでしょうが、本当に緊急を要する場合もあるのだから、救急車もパトカ一も気が抜けない。
子供は授かりもので、一旦授かれば大事に育てなければなりません。僕たち夫婦が子供を授かった頃には、産まれ出るまで子供の性別が分かりませんでした。産まれる前に、男の子だったら『 こう 』、女の子だったら『 ああ 』と考えたり、新生児に着せる衣類を用意する時も、どちらが生まれても良いように黄色のものを用意していた。
今は産まれる以前に、男女の別が分かるようで、事前の準備も変わって来ているようです。
子供は授かりものなのに、昔は跡継ぎにどうしても男の子が欲しいなんてことも有ったようですが、現代ではそれほど男女に拘らなくなっていると思っています。さてどんな思惑があるものなのでしょうかね。
既に何人かのお子さんを持った場合でも、男女が均等に授かれば良いのですが、どうしてもどちらかに片寄ってしまうことがある。男、男、男と3人男が続いたから、今度産まれる子は是非とも女の子でと思っていたら、また男の子だった。またはその反対に女の子が続く場合も同様にある訳です。
親御さんのご希望に反して、また男の子だった時に、その男の子にスカ一トを穿かせたり、ピンクや赤系統の衣類を着せ、あたかも女の子であるかのように育てたりする、またその反対もある訳です。乳幼児の頃はそれほどの性差はなくとも、段々と成長につれて、それぞれの性の特徴が出て来てしまい、親御さんの『 変な趣味 』も終了せざるを得なくなる。
授かりものであるはずの子供の性別について、今までの話は親の方の願望でした。5~6年前からでしょうか。LGBTとかLGBTQと言う言葉をよく聞きます。今度は、主に産まれて来た本人からの申し立てについても話題になって来た。
LGBTの一部の例ですが、自分はオチンチンを付けて産まれて来たのですが、気持ちの上ではどうしても女として生活したい。反対に自分は女に生まれたのですが、一回一回、用を足すのにお尻を出すのは面倒だ。どうしても立小便がしたいのだ。などなどそれぞれの思いが出て来てしまう。(冗談です)
昨日(10/25)の最高裁の判決で、戸籍上の性別を変更する場合に、生殖に関する機能を手術によって除去せねばならない条件を付けていることは違憲であるとの判決が出ました。具備する性器の形状手術については、まだ議論が尽くされていないとして高裁に差し戻しとなりました。
男と女が愛し合う『 異性愛 』の他にも様々な性の形態がある。これは最近になって出て来た訳でなく、古来の昔から人類のどの時代、どの地域でも一定の割合でそうした人たちが居たのです。学校や職場での差別や『 いじめ 』や『 からかい 』の対象になって来たことでしょう。
そういう性についての悩みを持つ方が居たのです。長い間、権利の制約を受けたり、陰口を言われたり、白眼視されて来た。当事者や支援者が諦めずに、また社会の情勢にも変化が表れて、表立って声を上げられ続けることが出来るようになって来たのでしょう。
昨日の最高裁の判決は、15人の裁判官の全員一致と言うから驚きです。世の中変わったモノです。裁判官全員一致はちょっと信じられませんでした。
テレビに女装を売り物にしているタレントさんがたくさん居ます。はるな愛さん、マツコ・デラックスさん、IKKOさん、ミッツマングロ一ブさん・・・・他、たくさんいらっしゃると思います。それぞれの方々の事情は全く知りません。私は色々な媒体に出演するための営業上の理由で、彼らの営業方針で女装しているに過ぎないと思っています。どなたとは言いません。横に背が高い女装タレントさんのスッピンと言われる画像を見たことがありますが、化粧の下はとてもゴツイ男性の顔でした。
落語好きです。それも今の噺家さんでなく、昭和30年代の落語黄金期に活躍された文楽、志ん生、圓生、金馬、三木助、可楽、柳橋などのめい人上手と言われた方々の噺が好きなのです。
加えて、その次の世代の噺家さんである、小さん、馬生、志ん朝、柳朝、圓楽、談志、円鏡、歌奴、小三治さんまでの噺家さんも好きです。噺の『 間(ま) 』がもう何とも言えないのです。キャリアが違うと言ったら酷ですが、今の噺家さんとは格が違います。志ん朝、小三治さんの噺の『 テンポ 』も素晴らしくて、何と形容することも出来ません。ここまで挙げた16人の噺家さんはもう皆さん亡くなっております。一部でしょうが、YouTubeで見ることが出来ます。
今時、カセットテ一プなのですが、ラジオ番組などでこれらの噺家さんの放送があると、努めて録音し、今でも繰り返し聴いております。素人の録音で大いに雑音が入っていても、私に取っては貴重な音源なのです。
一方で、もうテレビ放送を全く見なくなったしまったのが、プロ野球なのです。今では衛星放送で試合終了まで見ることが出来るようになっているようですが、事情は良く知りません。
テレビでプロ野球を見なくなってしまったのは、地上波で放送していた時代です。その頃、大半のゲ一ムが3時間前後でした。もちろん、大幅に超えていた試合も多い。その結果、テレビ放送はいつも途中で終わってしまって尻切れトンボばかり。
プロ野球側だって、テレビ放送の枠に入るような努力をしていたかと云うと、それが駆け引き、作戦なのか冗長なことばかりやっている。バッタ一ボックスを外してタイムをしたり、みんなを待たせておいて靴の紐を締め直したり(靴の紐なんか試合前に確認しておけ。解け難い締め方だってあるのだから、研究しておけ)、ファウルで粘ったりと、試合時間短縮しようなんて気持ちがちっとでもあったのだろうか?
観戦している方だって、集中して見ていることの出来る限度の時間がある筈だ。それ以外はただ、うわの空見ているだけ。甲子園の高校野球を見習えよ。攻守交代だって、みな真剣になって走っていて、とても清清しい。
日本の文化では『 間 』を大切にしているモノが多い。能狂言、義太夫などなど。大相撲もきっとそうだ。能狂言や義太夫などは興味がないから脇に置いて、大相撲にしよう。テレビで見る大相撲は呼び出しさんに呼ばれて土俵に上がり、何回か仕切りを繰り返して、取り組みをする。
大相撲の仕切りの繰り返しなしに、一回の仕切りで取り組みをしたとすれば、きっと味気ないものになってしまう。プログラムの進行が早くて誠に結構なのだが、ああして仕切りを繰り返す毎に、力士達は取り組みに対する意識を盛り挙げ、アドレナリンの分泌を促しているのであろう。また、観客に対しての『 じらし 』効果を狙っての事なのか。立会いの際、対戦相手との『 間 』を最重要課題としているのは言うまでもありません。
将棋の藤井聡太さんが『 八冠 』を達成された。今は21歳の若さで抜群の強さを誇る藤井さんが八冠を取るかどうかで注目されていた。若い藤井さんだからこんなに騒がれるのであって他の棋士だったら、35億円の経済効果なんて話は全く出て来ない。プロの将棋もその内、きっと人気が廃れてしまうと思うな。
*タイトル戦で一試合に2日も掛けるなんて異常だよ。僕は将棋のル一ルすら良く知らないけれど、素人将棋など15~30分で一試合終わってしまうのではないか。
*一手打つのに1時間以上掛ける棋士がいるのだとか。こんなゲーム見る方の人が飽きる。集中して見ていられるのは、せいぜい30~40分が良いところ。飽きる。将棋が趣味でない人は結果だけ知りたいのです。
*将棋は普通の人が生活するのに必須の職業ではない。プロの将棋の棋士は居なくても社会生活に影響しない。
将棋の八冠て言うけれど、そのタイトル戦が1日制か2日制か、持ち時間の違いがあるだけで、素人には本質的に、やっている内容は同じに見える。今は藤井さんが八冠だから『 最強 』だと分かるけど、以前、八つのタイトルにそれぞれチャンピョンが居た時があった。それじゃそのうち、プロボクシングのように『 統一王者 』は誰かと云う話に成らないのかなぁ?
プロボクシングだと、今4~5つの協会が有るらしい。WBA,WBC、WBO、IBF、リングマガジンのそれぞれがベルトを持ち管理している。そうなると同じ体重のランクでは、結局誰が一番強いのか競い合いたくなるのが自然だ。
一方ではプロゴルフの世界のように、『 ○○カップ 』のように大会毎にチャンピオンが違うことを当たり前としているプロ競技もある。プロの競技も色々だなぁ。
高見の見物の個人的な考えですが、同じような内容で、なまえの違うタイトル戦をしたって仕方がない。
*1分将棋のタイトル戦
*1手10分将棋で、早く指した分、時間を累計して貯金のように保持出来るタイトル戦
などなど、将棋連盟に考えて頂きたい。
このように、時間について考えるタイトル戦を考えないと将棋界は早晩廃れてしまうのではと考えます。タイトル戦の掛かる時間が長過ぎるのが廃る原因と考えます。駒の動かし方の規則すら知らないジジイの戯れ言です。それほど何事でも『 間 』は大切だと思っています。
仏花を買うと仏壇に供えるには、たいていの場合ちょっと茎が長過ぎる。切り取った8~10cmほどの菊の茎をプランタ一に挿しておくと、うまく行けば、後に根を出し芽が伸びて来る。
何でもそうだと思いますが、挿した菊が段々と育って来るのを見るのは楽しいものです。秋が近付いてくると先端の方にツボミが付いて来て、花を咲かせる。
花作りをする農家で、仏花用に一旦切られて出荷した菊は、消費者に渡り余分な長さの茎がプランタ一に挿されただけで、うまく育てば秋になって結構な量の花を咲かせる。
今その菊が盛んに咲いている。小菊ばかりですけど、これで3~4回は仏花を買わなくて済む。みみっちい話でした。
自分は高齢者です。来年の6月には高齢者の前に『 後期 』と云う文字が付くようになります。自分を含めての話なんだけれど、この世の中において、高齢者が居ることで何か良いことがあるのだろうか? 日本の社会はきっと高齢者を持て余している。先日、電車に乗ったら、若い男女が優先席に座って居た。彼らの直ぐ前に立った訳でもないのに、僕とカミさんを見て、席を譲って呉れた。もちろん、『 ありがとうございます 』と言って、その厚意に感謝して座らせて頂いた。席を譲って頂いたけれど、若い彼らだって、本当は座っている方が楽だし、座っていたい筈だ。
長寿のことを辛うじて『 めでたい 』と云うことがあるけれど、心から言っている人はきっと、極めて少ないのではと想像します。医療費はたくさん掛かるし、税金だってたいした額を払っていない。高齢者がたくさん居ることで、若い人に掛かる負担が増えている。高齢者は『 めでたい 』に見合うことをして行かなければならないのに、していないのが原因だと思う。 子供は育てるのは大変ですが、きっと輝かしい未来が有る。
『 おさむの自由区域 』もこの10月で開設以来23年になります。訪問して下さる方々には、とても感謝しております。更新をサボっていることも度々です。『ゴメンなさい』。でも、一旦止めてしまったら、もう2度と再開で来ません。いつも勝手なことを書いています。掲示板をいつも『工事中』のままにしていて、あえて『一方通行』にしています。掲示板を開設したら、もしかして訪問して下さる方々のご意見を聞く事が出来るかもしれません。 今日の『 作文練習帳 』の高齢者に対する記述にも、それぞれのご意見あると思っていますが、でも今は一方通行のままにしておきたいのです。
『 光陰矢のごとし 』、誰もが使う月並みな、もう手垢にまみれた言葉です。そんな言葉ですら使いたくなってしまうほど、歳を取ると月日の経つのが早い。昨日、正月だと思ったら、終夜エアコンを稼動させ続けて寝た夏も過ぎ、もう秋も中盤です。朝方、肌掛けでは寒くてこむら返りを起こし、痛い思いをしなければならない時期となった。そうは言っても、『 もう幾つ寝るとお正月~~ 』と云うには、まだ80回ほど寝なければならない。
時間が早く過ぎているのではないか? どなたも時計やカレンダ一を信じている。太陽からの磁気の影響で、実は地球の自転が早くなり、一日が24時間ではなく、時間が段々と早くなっているのを、誰も知らないし、疑ってもいない。(本気にしないで下さい。何やら、新興宗教家のようだ)
21世紀に限らないのだが、あらゆるテクノロジ一は商業ベ一スと絡まって、これからも益々早く開発されて行くに違いない。
コンピュ一タ一の活用技術、乗り物の速度、宇宙開発などなど、老いた頭では中々項目を思い付かない。時代に逆行するようだけれど、『 もうこれ以上、開発してくれなくて良い、進歩させてくれなくて良い 』と言う考えは起こらないのだろうか?
技術開発は人間の幸福にとって本当に必要なことなのでしょうか?
子供たちは学校へ行って、色々なことを学びます。こう書いていますが、大学の最近の進学率など調べて書いている訳ではありません。現在では多くの方々が大学へ進学されているのではと想像しています。では何故、大学へ進学するのですかと云う問いに、私はずっと『 労働価値を増すため 』、すなわち、レベルの高い仕事に就いて高収入を得る手段だと、思って来ました。
今はきっと、大学などに行く必要など全くない時代になってしまっているのではないのではと信じています。
『 AIに出来ることは学ばなくて良い。これから先は、AIに出来ないであろうことだけ、一生懸命学べば良い 』なんて考えてしまう。僕たちが考える『 これはAIにも出来ない事なのでは 』と考えて予測した事だって、きっと簡単に覆ってしまうに違いない。
そう、内容、実力の伴わない学歴など必要のない社会になってしまうのです。一般の人は、ごく基本的な『 読み書きソロバン 』が出来れば十分なのです。
7~8年前のことになるでしょうか、ゴルフの石川選手も使っている、『スピ一ドラ一ニング』と云うCDを買って、何度も何度も繰り返し聴いたり、お念仏のように声を出して、反復練習をしました。今ならポ一タブルの翻訳機が有ってそれを見ながらお話すれば、何も苦労して『英語耳』を作り上げなくても良くなった。
もう、1ヶ月以上前の事だと思います。全米の自動車の労働組合がストライキを起こした。『 電気自動車はエンジンを駆動させて走る車に比べて構造が簡単で部品数も少ない。我々の働く場が失われてしまう 』と云うような趣旨で有ったと思う。電気を得るにもCO2が発生するのだろうけれど、ガソリンや軽油などの限られた資源を燃焼させるエンジン車よりは地球環境への影響が少ないのではと、EV車への移行が今の世の中の考え方なのです。ちょっと、労働組合の活動は時代に逆行しているのではと思います。
でも、労働組合の活動は、僕がぼやいて先ほど書いた、『 もうこれ以上、開発してくれなくて良い、進歩させてくれなくて良い 』と同じような考えのような気もします。僕などもうあと生きても、幾ばくもないから関係ないのかも知れない。
竪穴住居を作り、粘土をこねて土器を作り、石の斧を使って狩りをしていた縄文時代はおよそ1万年も続いた。1万年もの間にどんな進歩があったのですかね。一方で『 関が原の戦い 』から、およそ400余年しか経っていないのです。明治時代になってからの方が身近に感じるかもしれない。現在まで155年しか経っていないのです。当時の文明は西欧から運んで来た、開発の苦労を知らない文化文明であり、骨や身に成っていなかったのですが、それでも進歩の速度は計り知れない。
『 それにしてもちょっとやり過ぎでないかい?! 』と言うのが本音です。
自分はネガティブな性格である。普段の生活の中で暇を持て余しているのである。自分はそういう境遇にないが、避暑地の別荘でのんびりとハンモックに揺られ、本を読んだり、昼寝して暮らすのも2~3日は良いかも知れない。そのままずっとというのは、何処か『 罪悪感 』を感じてしまうのである。詰まるところ『 貧乏性 』なのである。
午前中には、ボケ防止のために自らに課している漢字の書き取り、中3の算数ドリル他をこなし、世事に疎く成らないように新聞を読む。午後には体のメンテナンスのための体操を行っている。その他には生計を立てるために、特にやらなければいけない事はない。世を儚んでひっそり暮らしているのである。年金以外に収入のない生活をしている。
そうは言っても、食後の食器洗い、風呂の掃除、その他生活を営む上の雑用や、町会で実施している学童の通学路の巡回くらいは参加しているが、そんなものはやっていると言うほどのモノではない。何かライフワ一クと言えるようなものがあったらなぁと思うのです。
生き甲斐のようなものを持たずに、朝起きてご飯食べて、後はボ一ッとして過ごし、午後9時になったから、そろそろ寝ようかと言った生活にはもう飽きが来た。
君はもう十分に働いたのだから、今は休息する時期になったのだからと、周囲の人や自分自身に言い聞かせたところで、自分自身が世の中に対して、また家族に対しても存在感がどんどん希薄となり、生活の場と云う画面の隅の方に追い遣られていき、衰えてしまって行く感覚が増すばかりである。
人間には賞味期限や消費期限と云うのはないのであろうか? それは何処に表示されているのかな。僕なんか賞味期限より期間が長い消費期限さえ、とっくの昔に通り過ぎてしまっているだろう。今更仕事を探したところで、この歳では、雇って下さる酔狂な方がいらっしゃる筈がない。
今後の行き先は『 お払い箱 』しかない。なまじそこらの草むらに廃棄すると、腐って悪臭を放ったり、鳥獣が集まったりと甚だ衛生に良くない。死んでからさえも世の中にご迷惑をお掛けする。形あるモノは壊れ、栄えるものは枯れる。飛ぶものは落ちる。食えるものは腐り、流行りモノは廃る。五体は利かなくなる。何人と言えど例外はない。(どこかに書いてあった)
今ここに、『 作文練習帳 』なるものを書いています。正直なことを言えば、前に書いたことと、同じ考え方、同じ尺度、同じ美学で書かないと人格を疑われてしまうものです。でも私はそういうタイプではありません。先ほど思ったことと、今とでは既に考えが違っている。前に書いた内容すら直ぐに忘れてしまっていて、今書いていることがあたかも初めて書いていると思っている。
脳科学者が何と言おうが、人間の脳なんてそんなものにちがいない。それに加えて『 老い 』が加わって来る。ますます自分の『 立ち位置 』がはっきりしないし、一貫したものなどある筈もない。
一番考えてはいけないことは、『 自分の人生は何だったのだろうか 』と云った反省はしない方が良い。暇だからと言って、一時、『 自分史 』を書くような風潮があったけれど、幾ら暇でもあんなものは書くものではない。書けば読んでもらいたくなり、自費出版して配布なんぞすれば、周りの者に迷惑が掛かるばかりだから、即刻止めなければならない。
男でも女でも、普通の人の人生はそうそう世のため、人のためになっている訳ではない。せいぜい、自分や家族の生活のために頑張ってきたと云う程度が正直なところ。世のため人のためと社会貢献なんて、大それたことを考えない方が精神衛生上得策なのです。例えば定年で、あなたが惜しまれて、花束なんか頂戴し、退職した後だって、次の人が滞りなく役目を果たして下さっている。世の中は、別にあなたでなければうまく回らないなんてことはないのです。思い上がらない方が良い。(自分自身に言っているのです)
9/3に書いた『 パッキン 』の続きです。トイレの水がチョロチョロ便器の中で水漏れしていた。先般はトイレのタンクへ水を供給する側のパッキンの交換をした。23年以上使っているのだから、確かにパッキンは磨耗していて、水はオ一バ一フロ一のパイプへと流れていた。パッキンの交換は正解であった。偶然ですが、それから暫くは水漏れしているようには見えなかった。
最近になって、またチョロチョロが始まった。水漏れの原因は複数個所あったのだった。今度はタンクの排水側の部品を調べなければ成らないが、貼ってある筈のタンクの品番を書いたラベルがない。狭いトイレの便器の横に、懐中電灯、虫めがね、筆記用具を持って潜り込んだ。便器の型番が書いてあった。
『INAX(LIXIL)(水周りの製品を作るメ一カ一)』のホ一ムペ一ジから、便器の型番から組み合わせて使うタンクの型番が推測できた。推測した型番から、交換に必要な部品の情報が分かった。20年以上前の自社製品の部品図、部品表などの情報をネット上に公開しているなんて、INAXはとても誠実な会社だ。そうだ!今度生まれ変って就職するのだったら、INAXのような誠実な会社にしよう。こちらが思っても相手の会社がどう思うかは分からない。今度生まれ変ったら、人間でなくロバであったら大変だ。ムチ打たれながら重たい荷物を運ばなければいけなかったら、とても哀しい。
ネットで交換部品を購入、入手した。税込み、送料込みでおおよそ¥2700である。今度のミッションは大掛かりである。便器の後にあるタンクを降ろさねば、部品交換出来ない。水道工事の業者に依頼したところでやることは同じである。業者の作業員に出来て、素人の僕に出来ないことはあるまい。同じ人間だもの。何故か『 相田みつを 』さん風になってしまった。先日、気が付いたのだけれど、『 ○○だもの 』のように、末尾に『 だもの 』をつけると、何でも『 相田風 』になってしまう。今度、試してみて下さい。
僕だって、便器の横に潜り込んで、タンクを固定してあるナットを外せば、タンクを降ろすことが出来る。タンクは陶器で出来ているからかなり重い。つまずいてタンクを落として壊してしまったら元も子もない。そう言えば同業で『 TOTO 』というメ一カ一さんがあるが、昔は確か『 東洋陶器 』と言っていた。定かではないが、INAXも『 伊奈製陶 』だったような気がするなぁ。それで、便器やタンクは陶器で出来ているのか。確かに重いよ。
タンクを降ろせば、部品交換して、元通りに戻すだけである。後は何処か予想もしない所から水漏れしていないかと、チョロチョロの水が止まっているかの確認をしたがO Kであった。正味1時間くらいの作業である。出張工事だと、人が出張するだけで最低でも1万円は掛かるだろうなぁ。タンクを外すような大掛かりな工事だと幾ら掛かるか分からない。
趣味だと言い訳しているようだが、お金持ちの人はこんなこと決してしなくて、業者に修理を依頼するか、便器からタンクまで一式更新していまうのだろう。所詮は貧乏ジジイの工事に過ぎない。そう言えば、このトイレの温水洗浄便座も僕が取り付けたのだった。
落語にこんな小噺が有る。
『 おまえさん、この間、付けてもらった棚が落ちてしまったよ 』
『 そりゃ~お前、棚の上に何か乗せやしなかったかい? 』
今度のトイレの場合
『 おまえさん、今日直してもらったトイレ、やっぱり水がチョロチョロ漏るよ 』
『 そりゃ~お前、トイレに水を流したんじゃないかい? 言っとくけど水は流しちゃいけないよ 』
と言う訳で、現在までのところ、トイレのチョロチョロ、その他箇所での漏水はありません。メデタシ、メデタシ。
子供の頃、つまり古いことを思い出すのは、僕のような老人のもう得意技である。最近の事は中々覚えられないのですが、昔の事ならあとから、あとから泉のように湧き出てきます。
念のために書いておきますが、僕は戦後生まれの団塊の世代であります。戦争はもうとっくに終わっていましたが、小学校低学年くらいまでは、まだどのお宅でもみな貧しかったと思う。『 ぜいたくは敵だ 』の精神が世の中にまだ根付いていた。そういう教育を受けて育った世代です。ただ、世の中はもうとっくに復旧していたのに、我が家がその景気の恩恵に浴さず、裕福でなかったせいなのかもしれない。
幼少の頃の体験、経験は人生に大きな影響を与える。『 浪費 』と言う事に関しては、過剰な罪悪感すら感じる。学校を終え、親からの経済的支援を脱して、自分で稼ぐ身になっても、吝嗇の癖は抜け去っていない様な気がする。独身寮に居た頃、友人達はたとえ中古車であっても車を有している人が多かったが、私は相変わらずチャリで通勤していた。
主に趣味に関するようなものでは、仮に見るだけにしても、リサイクルショップや、大型のDIYの店が好きです。このような店は遊びに関する話で、日常の生活する上では、当たり前ですが洋品店やス一パ一マ一ケットになります。買い物をするのは楽しいものです。大袈裟な言い方かも知れませんが、陳列されている商品を見ていると、世間の様子が反映されていて、見るだけでもいつも新しい発見が有る。
反面、買い物が進むとだんだん気が滅入って来る。果たして、こんな物が本当に買う必要があったのだろうかと言う、自分のお金なのに何処かしら後ろめたいような思いでいっぱいになる。
ちょっと高額になるものだと、『 迷った時は3日考えて、それでも欲しいと思ったら買いなさい 』と云う言葉はかつて、母の教えだった。まあ、高額と書いた金額のレベルにも拠りますが、買いたい商品に巡り会うのは『 一期一会 』です。3日考えてやっぱり欲しいからと改めて、出直して来る手間を考えるなら、いっそのこと今買ってしまおうという事にも成ります。その商品はとても使い心地が良く、後で衝動買いしたと後悔しなければ良いのです。
身に染み込んだケチの遺伝子と、優柔ふ断の性格はそう簡単に消えそうにない。たまに遊びに来る長女や孫たちを見ていると、きっとDNAとして継続されているに違いないと云う気がする。浪費癖が強く、給料日前になるといつもピ一ピ一しているよりは、余程良いかとは思います。
プロの将棋の世界で今、『 王座 』と云うタイトルをかけて、永瀬王座と藤井7冠が王座戦5番勝負を戦っている。第1回戦は永瀬王座が先勝し、今週第2回戦が行われる予定であります。
永瀬王座にとって、今回の王座戦を防衛すれば、連続5期王座を務めることになり『 永世王座 』を称する栄誉を得る。一方、藤井7冠にとっては若干21歳にして、8冠の全タイトル制覇となり、日本の将棋界のトップに君臨することになります。
爺は将棋に興味が有るかと云うと、全く有りません。小学低学年の頃、父より駒の動かし方を習って、姉と何回かやった記憶があるだけです。以来、一度も将棋をやった事はなく、どの駒がどのように動く能力を有するかの記憶も定かではない状況です。ただ、新聞は読んでおりますから、現在王座戦の状況は新聞記事やTVニュ一スに拠って得た知識で書いております。
興味のあるのは、藤井聡太さんが8冠目を取得するかどうかです。言い方を変えて、彼にとって8冠を取得するのが良いかどうかです。藤井さんは『 タイトルを取得することよりも、ただ強くなりたいという願望です 』と、いつも殊勝なことを言っております。
たとえ何と言おうと、8冠をとれば頂上を極めたオンリ一ワンとなります。しかも、若干21歳にして『 年収○億円の人 』なのです。彼がどんなに謙虚な発言をしようが、頂点に着いたら自分ひとりの世界です。人々の羨望、ヤッカミの的と成るのが自然です。もし、8冠達成してしまうと、常に危険(?)であり、孤独の世界に君臨しなければ成らなくなってしまう。
私なら、『 まだ、先が有る。頂上に達してはいけない 』という状態が良いと思うのです。藤井さんは勝ち過ぎていると思います。考えがふ純と言われるかも知れませんが、8冠あるならば、5冠~6冠くらいで留めておいた方が良い。幾ら強いからと言って、『 独り占め 』はいけないよ。タイトルは何人かで分けて、取ったり取られている状態の方がずっと興味深い。ある時はとてつもなく強いのに、別の場面では、格下の相手にコロッと負けてしまう。こんな『 人間的弱さ 』が魅力となるのだと思います。
大相撲に白鵬という幕内通算優勝回数45回と云うとてつもなく強い大横綱がおりました。彼は強くて、人気抜群かと言うとそんな事はなかった。引退近くになるとむしろ嫌われていた。
対戦では『 張り手の連発 』、『 肘打ちともとれる相手の顎に向けたエルボ一』を繰り出します。一般の力士が大横綱相手に恐れ多くて張り手や、顎に向けてエルボ一などできません。始めからハンディがありました。
取り組み後も、『 勝った際のガッツポ一ズ 』、『 勝負判定に異議の申し立て 』に加えて、優勝決定後の『 三本締め 』、『 万歳三唱 』とまあ、とにかく話題の多い横綱だった。師匠の宮城野親方共々白鵬が理事会や横綱審議会から『 土俵上の礼儀や作法 』について、たびたび注意を受けた。
日本の風俗習慣を理解し切れていなかったのも原因でしょう。外国出身という経歴を差し引いても、横綱と云う品格を理解できず、『 強さ 』ゆえに何をしてもOKと云う傲慢な意識が、彼をして色々な行動に走らせたのでありましょう。何事も一人だけが突出して優れていると云うのには弊害があるという教訓なのです。
スポ一ツの世界にはオリンピックや世界選手権などがあり、アスリ一トの方々の全ては『 金メダル 』を目指して練習をしています。取れなかった時、無念さは計り知れないないような表情をされます。アスリ一トの方にとっては競技を離れた時に、メダルの色が進路や今後の待遇に影響するのかも知れません。
爺はそんな事は門外漢、利害関係なしですから、金でも、銀でも、銅でも良いじゃないかと思ってしまいます。金メダルより、銀メダルの方が良いのではと云う気もします。“後ちょっとだった残念な気持ち”、“挫折感”、“トップではなかったけれど、そこそこの栄光感”、“次は金を目指すという目標を残している”・・・・・と云う様々な感覚を持っているはず。
多分、金メダルではないから、記者にコメントを聞かれる度合も少ないかもしれないけど、もし、インタビュ一でもあれば、銀メダルである二番手の方が味わい深い元ネタを持っているのではないのでしょうか。
さて、プロ野球セリ一グのペナントレ一スの行方である。雲行きから言うと阪神タイガ一スが優勝しそうである。優勝となれば 阪神ファンはきっと狂喜乱舞するに違いない。喜び疲れて、ちょっと冷静になって虚空を見上げた時、今迄阪神ファンがずっと抱いていた『 期待がはずれた挫折感 』、『 今一歩だった残念感 』、『 何十年も前から思っていた優勝を目指す期待感 』が崩れ落ちたことに気付き、『 こんな筈ではなかった 』と違和感を抱くのではないかなぁ。『 優勝なんてムズムズして居心地悪い。阪神はBクラスが好きなんや 』
『 優勝なんかしなくて良かった。せめて阪神は二位で居てくれ 。岡田監督頼みます!』と本当の阪神ファンはきっと思っているに違いない。
爺が心の片隅に思っていること。爺は戦争が終わって、戦争のない時期に生きてきた。宮沢賢治みたいだけれど、平和な時代に生まれて、平穏に長生きしたいと思ったら、常に多数派に属すこと。決して美人とは言えぬ娘と結婚し、二人くらいの子供を授かり、中流の下か低所得者層に暮らし、目立たぬよう、隣人や周囲の人と仲良くして、自分の意見は押し殺し、ブツブツ苦情を言いながらも、平凡に暮らすのが一番無難。(おさむ爺の本心かどうかは、本人も分からん。)
トイレの水が止まらない。ジャ一ジャ一ではない。ほんのわずかだが、チョロチョロ流れ出ている。ほんのわずかでも気になる。ボ一ルタップのパッキンが磨耗しているに違いないと思った。
『 イラストだからわかりやすく簡単! 完全保存版 なんでも自分で修理する本 』と云う本を持っている。第1版 2020.7.24 だから、メチャクチャ古い本でもない。現物の工事に取り掛かる前に、一応確認しておこうと思って読んでみた。
水を止めて、水タンクの上ブタを外してみた。開けてビックリ、本に書かれていた形状でもなく、自分が想像していた物とは全く違う代物であった。要領がまったく分からない。仕方なくボ一ルタップの部分を本体から外してみた。我が家は2001年に建て換えた。本に書いてあるボ一ルタップの部品は、既に骨董品のような形状である。おさむ爺の想像も同じだから、爺の頭も骨董品である。
外したものの、磨耗してしまっている筈のパッキンのところまで到達するまでの分解方法が分からない。樹脂製で出来ていて無理すれば破そんしてしまう。暫く眺めていたが、捻ったらパッキンが現れた。やはり、経年変化でパッキンの表面はボロボロとなっていた。
さて、このパッキンをどのようにして入手するかである。パッキンの品番も何も分からない。ネットで調べても中々行き着かない。23年も経てば、家を建て替えた時に使った器具など大抵は製造中止になっている。やっとの事でメ一カ一の『 取替え部品検索 』に行き着いた。
しっかりしたメ一カ一は、既に製造中止になっている製品の中身まで、丁寧に図示してくれている。製造中止でも分解図は大変ありがたい。当該パッキンの品番は分かった。『 廃番品 』と書いてあるが、『 代替品 』の品番は分かった。
メ一カ一の『 お客様相談センタ一 』に電話して『 代替品 』を入手するにはどうしたら良いか訊ねた。近くのホ一ムセンタ一に頼んで取り寄せてもらうか、ネットで購入する方法があるという。入手はそれほど難しくなさそうだ。結局、ネットで探して、楽天市場で注文した。結局、今回の場合、一番大変だったのは『 パッキンの品番 』を見付け出すことにあった。パッキンに品番が書いてある筈がないものね。
もし、これが水道屋さんか何かに相談したら、パッキンだけの交換なんてことは有り得ない。『 このボ一ルタップはもう製造中止になっていますから、少なくともボ一ルタップ一式交換となります 』で何万円の見積もりが来るか分からなかった。
実は楽天市場で買うことにしたパッキンは、送料込みで、¥572一でした。業者に頼めばいつ工事完了するか分からない。自分で交換しなければいけませんが、部品到着次第即日完了である。年金しか収入がない世帯では、目出度し目出度しでした。チャンチャン。
でもね、爺は何か趣味みたいに、色々分解したがる。これが今回のように直る目途が付いている物は良い。電気製品だって、何度も引きずり回してケーブルのハンダ付けが取れていたのなら良いけど、電子部品を使っているものなどに手を出して、以前より程度が悪くなってしまうのは最悪である。カミさんに何言われるか分からないのである。注意が必要である。
スマホもパソコンももう相当長いこと使っている。爺など、その機械が持つ機能の1割も使いこなせていないのではないか。パソコンなど初めはBasicというOSで、ウインドウズではなかった。もうかれこれ40年以上使っているけれど、一向に上達しない。
74歳となった今では、老人故に新たな機能修得などを狙うことなく、今までに修得した技能を忘れずに、使い続ける努力を怠らないようにしなければならない。(本心ではないかもしれない)
長年パソコンなどに触れていると、過去には痛い目にも遭遇した。慣れているつもりでも何処か腰が引けて、自分の訳の分からない部分には、消極的に成らざるを得ないことも生じて来る。
『 ○○ポイントを賢く貯めたい方は、マネ一ファイナンスサ一ビスの公式アカウントをフォロ一してポイントが貯まるお客をチェック・・・・・・』なんて説明があったところで、爺にはチンプンカンプンなのである。
こう言ったパソコンやスマホなどのデジタル業界はもちろんだが、世間一般でも何でもかんでも、カタカナ言葉にすれば良いと思っている人が多いのではないか。カタカナ言葉で騙されてしまうことが多い。カタカナ言葉を使えば、大した内容でなくとも、それらしく、もっともらしく権威があるように聞こえるのだ。
『 アイデンティティ 』という言葉がよく使われる。試しに調べてみたら、『 自己同一性 』という何やら分からない言葉が出て来た。自分が何者であるかを証明すること⇒存在証明と言うことになる。もっと具体的に言うと、自分は日本人、男、東京都出身、神奈川県在住、1949年生まれ、☆☆小学校卒業、・・・・・もう果てしなく続く。自分の属性を示すものであれば、何でも構わないのである。簡単に言って、どなたでも20や30のアイデンティティはお持ちでしょう。
その他にもよく耳にする言葉に『 ア一カイブ 』がある。ア一カイブとは保存記録や記録保管場所のことで、『 保存する 』ことに重点目的がある。それなら、『 ライブラリ一 』とどう違いがあるかと言うと、ライブラリ一は記録の保存と閲覧が目的で、『 閲覧 』に重点があるのだと言う。
ほんの2~3のカタカナ言葉の例を示しました。これまでも、またこれからも、日本語で言って下されば何てことない言葉について、カタカナ言葉を使うことが増えていくことでありましょう。まあ年配者にとっては、何とも厄介な時代になっているのである。
今、年配者と書いたけれど、実は若い人たちも困っているそうで、脇に日経PCの付録で『 パソコン&ITがまるわかり デジタル最新用語辞典 』なる冊子が置いてある。実は若い人も用語が分からず、困っているようだ。
おしゃべりコミックマジックをやっている『 マギ一司郎さん 』という眼鏡をかけたオジサン(オジイサン)をご存じであろう。なまえをご存じなくても『 手品用の縦じまのハンカチが、クルクルと丸めた後に広げると、横じまに早変わりする 』と言って、お客様を喜ばせている手品のオジサンがいる。
世の中では、縦じまのことを『 ストライプ 』と言い、横じまのことを『 ボ一ダ一 』と言うらしい。現代ではいくらとぼけた手品師のマギ一司郎さんでも、『 マジック用のストライプのハンカチを丸めてから開くと、ボ一ダ一のハンカチに早変わり 』とは、決して言わないのである。
ストライプの背広があることは、まあ何十年もずっと前から知っていました。横じまのことを『 ボ一ダ一 』と言うことを知ったのは、つい昨年のこと。マギ一司郎さんのことに触れようと念のためにネットで調べた。ストライプと言うのは『 縞模様の総称 』で、本来は特に縦じまだけを示すのではなく、横じまだってストライプで良いのである。ストライプが縦じま、ボーダーが横じまと言うことが通用するのは、日本だけで海外では通用しないのだと。 何だ、バカバカしい! 日本人が作った言葉だと。カタカナ言葉にすれば、それらしく権威があるように聞こえるだけが目的で使っている言葉ではないか。
もう、これは使い古された言葉だけれど、
*ズボン⇒パンツと言う。では、猿股つまり、下着のパンツのことは何と言うのか、トランクス、ブリ一フ、ボクサ一パンツなど、それぞれのなまえを言って、下着の『 パンツ 』の総称はないのか。
*とっくり⇒タ一トル
*スパッツ⇒レギンス
*チョッキ⇒ベスト
*シミ一ズ⇒キャミソ一ル、スリップ
*股引⇒タイツ? 大昔、力道山が黒のタイツを穿いてプロレスやっていたけど、当時からタイツと言っていた。股引を穿いてプロレスをやっていた訳ではないのだろうな。