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おさむの書斎

 僕の家には狭いながらも自分の書斎があります。広いスペースではありません。たった3畳の大きさ
 長年、書斎が欲しいと思って来て、家を建て直す際にやっと出来た一人きりになれる唯一の空間。
 他の人が何と言おうと断じてここは僕の書斎なのだ。(実情は、パソコン部屋!!??)
 日記とは別にもう少し長いスパンで、普段思っていることを書こうと思って居ります。
 このHPのメインになるようにしようと思っています。

第 1072     桜新町               2017.11.16(木)

 神社にお参りに、桜新町まで行ってきた。ようは暇なのである。それがどうしたと言われれば、何も言えない。
 神社にお参りに行く時、拝殿前でお賽銭を入れ、鈴を鳴らす。その後、『二礼、二拍手、一礼』をするのが、一般的な神社のお参りの仕方である。『二礼、四拍手、一礼』をお参りの作法とする神社があると聞いた。
 かつて、『村の鎮守の神様』というHPを開設していた者としては、ぜひ参拝しておきたいとの気持ちになり、ただそれだけの理由で田園都市線の桜新町まで行ってきた。神社のなまえは『桜神宮』と言う。
 携帯を持って行けば、予め地図で所在地を調べておかなくとも大丈夫だと思っていた。駅の出口を出たら、地図アプリが全く作動しなかった。已む無く、人に訊ねればすぐに判った。元はもう少し敷地が広かったらしいが、恐らく経営上の都合で、敷地内を区分して『桜幼稚園』を作ったらしく、神社としては中小規模のものだった。
 ご祭神にはたくさんの神様が連吊で書いてある。左右の灯篭は普通、石製の物が多いが、木製で彫刻が施してあった。狛犬は見当たらなかった。拝殿に向かうと、なるほど『二礼、四拍手、一礼』と書いてある。この神社の作法に従ってお参りをさせて頂いた。世の中には、『うちの神社は、二礼、八拍手、一礼』がお参りの仕方だと言う所もあるという。へそ曲がりか、目立ちたがりか、うちは他とは違うと言う神様がいるのかしら。八百万の神と言うほどたくさんあるのだから、変わり者の神様がいても仕方がない。
 いつも、『しまった!』と思うのだが、作法に従い『二礼、二拍手、一礼』するうちに、どのタイミングで願い事をするのであろうか。作法に気を取られているうちに、最後の『一礼』になってしまって、願いをする機会を失してしまうのだ。『家内安全』『病気平癒』『学業成就』『入学祈願』『良縁祈願』などなど、『入学祈願』『良縁祈願』はともかく、例え少額の5円でもお賽銭を投入する以上は、たくさん願い事を叶えて欲しいのだ。神社にお参りする時は、願い事をする機会を逸しないよう気を付けねばならぬ。
 中には疑り深い人もいる。神社仏閣を御参りする時に、ご朱印帳を持ち歩く人が居る。朱印はその神様や仏様が、『確かに願い事を聞きましたよ』という印を押して貰うものである。神様も仏様も参拝者が大勢来るから、一々メモしておくのも大変である。参拝者から信用してもらえないのか自ら認めたようなものだ。たいてい、300円を要する。
 桜神宮のご神紋は桜の花だった。神社の神紋は巴紋が多いが、桜の花の神紋は初めて見ました。神木になるような大きな木は見当たらなかった。小さな神社なのでお参りはすぐに終了。
 折角、桜新町まで来たのだから、『長谷川町子記念館』に行った。小田急線の『祖師谷大蔵』の街がウルトラマンの街であるように、桜新町は『サザエさん』の街である。街中のあちこちにサザエさんのファミリーの像が建てられている。
 像だけでなく、サザエさんのクッキーや、ウィンドウにはサザエさんファミリーの人形などサザエさんにちなんだ物が溢れた街だ。こんなに国民に親しまれたマンガも珍しい。残念ながら、国民栄誉賞を受賞されたのは、長谷川町子さんが72歳で亡くなった翌年だった。
 スマホのアプリが使えず、メールも通話も出来ない。帰りに通信業者の店に立ち寄った。電波の受信が出来ない状態になっていた。時たまこういう状態が起こるそうである。電源を入れ直して再起動したら直った。スマホ初心者だから、また何処か訳も分からずボタンをタッチしてしまったかと思った。単なる機械のトラブルであった。土地勘のない場所で、地図アプリが使えず残念でした。

 

第 1071     仕組                2017.11.11(土)

 皇室で赤ちゃんが生まれてなまえが付けられると、その時点からその子は『様』と言う敬称を付けて呼ばれる。その子に何が出来るという能力に関係なく、様という敬称付きで呼ばれる。これは天皇でも皇太子でも同じで、彼らがその位置に居るについて、特別の能力や業績が有していることに由来していない。歴史上、紆余曲折があったようだが、彼らの遠い昔の祖先はとてつもなく喧嘩が強かったり、頭が良くて部族か何かの『長』となったのが始まりで、それを連綿と引き継いでいるのであろう。
 原始の時代から、食料を得るには複数の人間が集まって、協力をし合えば獲物を獲りやすい。自ずと、そこにはリーダー(長)と言うのが現れる。多分、経験豊富な長老とか、喧嘩の強い者がなるのだろう。リーダーは獲物の取り分も多い。ここでもう、格差が生じてしまう。リーダーを中心に縄張りと言うのも出来る。隣のグループとも争いにもなる。力と力の争いである。
 ここまでは他の動物たちも同じだ。ライオンにしろ、トドにしろ、1匹の強いオスが多数のメスを抱えハーレムを形成し、狩りの場所を巡って、縄張り争いを演じる。他から別のオスがボスの座を狙って来れば、戦いが起きる。群れ同士の争いも起こる。ただ、1匹のオスでは形成する縄張りも、メスの数も自ずと範囲が限られてしまう。人間と他の動物の違いは『家来、配下』という仕組を持っているかどうかだろう。
 隣り合わせの部族との争いに勝ち、段々大きくなると、一人ではとても領地を治め切れない。朊従する配下にその場所を分割して与え治めさせる。治める民からは、民が生きられる程度の物を残して、残りは奪い取って、次の戦に備えて武器を調達したり、裕福な生活をする。
 見せしめに、配下の者や民を殺すことは有っても、グループ内、皆殺しと言う事はない。家来や民、百姓が居なければ、戦争に勝てない。民、百姓は食物を作る道具、手段であると同時に、戦時には雑兵として、戦いの手段でもある。
 今川、北條、武田、上杉、織田、豊臣、徳川などなどの家々はこうした事の積み重ねで、体制を組み上げて、成り上がって来た。例え、当代がへなちょこの殿様で有っても、遠い祖先はめっぽう喧嘩の強い人や、頭の良い人が居て、築き上げて来たものなのだ。
 明治以降、形は違っても争いは続く。試験という制度を使って、優秀な人材を役人として登用したり、選挙と言う制度を用いたりする。『腕力重視』から『脳力・能力重視』と変わって来てはいるが、決して戦いは終了していない。それは、主に『競争』という考え重点となっていると思える。
 近年でも、同じ考え方か、近い考えの人達が政党を組み、他の考えの人たちの政党と選挙で競い合う。多数の支持を得た党が、自分達の都合の良いような仕組を作り、政策を実行していく。あまり、一部の利益を優先して偏った政策を行うと、次の選挙に勝てなくなってしまう。そこは、やはり民を生かさず、殺さずの按配の政策を実施し続けなければいけない。
 政治の世界だけでなく、民間も同じだ。電通と言う広告代理店がある。博報堂など同業他社に比べ売上は断トツ1位である。ここも競争である。『雑兵』であった高橋まつりさんも君主の競争のために働き過ぎて短い命を断ってしまった。
 社会は企業の競争のために人件費を圧縮する手段として、『自分たちの都合の良い時だけ雇用する制度』として非正規雇用の派遣社員や契約社員の制度を生み出した。
 本人の努力が足りなかったのだと言われれば、それまでなのだけれど、非正規雇用で低賃金で働く人たちの犠牲によって、所得格差拡大という社会問題を起こしている。先日、久しぶりに世田谷区を散策した。広い庭付きの大きな家、2~3台の車が入るようなシャッター付きのガレージを持つ家が並んでいた。門扉にはセコムのラベルが貼ってあった。
 世の中にはこれより、もっとずっと裕福な家があるだろう。一方、家の素材がダンボール、ブルーシートであり、隙間から夜空が見えるような、花鳥風月を友とする家に住む人が居るのも現実だ。
 これだけ世間で騒がれているのに、2017年には『いじめ』問題が増えているのだと言う。複数の人が寄ればグループが出来、自然発生的にリーダー格の人が出て来てしまう。異を唱えれば排除されてしまうのは、衆議院選前に見たばかりだ。
 複数の人が居て、グループが出来、リーダー格が出来てしまうのは、人間に限らず動物でも起きていて、本能に起因するものと思える。『皆、仲良く勉強しましょう。学校生活を送りましょう』と声高に言おうと、動物が生来持って生まれた本能ゆえ、少しは改善されても、いじめは根絶は出来ないと思う。いじめられたら逃げるしかないのか。
 働き過ぎたり、学校でいじめにあって自殺して報道されるのは極々一部である。日本では近年、年間3万人を切ったとは言え、1000人の内2人以上の方が、毎年自らの命を断っている。学校のいじめより、社会のいじめの方がよほど陰湿で、深刻だ。学校のいじめに耐えられないなら、社会でも行き延べられまい。
 日本は北方領土の返還を求めている。開発援助だけ求められて、中々進展の兆しが見えない。元々日本人が住んでいたから、『日本固有の領土』と主張している。他国と陸続きであるロシアは戦争により、国境は変わるものだと基本的に思って居るに違いない。日本固有の領土と言っても島国だ。陸続きの国々の国境は戦争により変わるもの、領土は戦争で勝ち取るものという基本の考え方を持つ人には、『固有の領土』という考え方が理解できないのではと推察する。それを言えば、パレスチナを始めとする、中東問題は起こらない。世界中に領界争いは幾らでもある。
 北方領土が帰らないのは、結論から言えば、日本に力が無いからだ。本文は下書きした上で書いているのではないから、何か思い付くたびに、長々色々なことを書いてきた。力が無ければ、主張は通らないし、生きられないのかなぁ。北朝鮮はそう思っているに違いない。

 

第 1070     弁護士               2017.11.10(金)

 東京都目黒区の生まれである。ネットで江戸(御府内)の範囲を調べたら、私の生まれた場所は東京生まれと言えど、江戸市中ではない。
 落語『目黒のサンマ』でも、殿様が遠乗りして、鷹狩りに行ったくらいだから、目黒には昔、野ウサギなんぞいた所なのであろう。従って、私は目黒生まれでも『江戸っ子』ではない。
 父は日本橋、母は芝の虎ノ門の生まれである。私の体には『江戸っ子の血』が継承されていると思える。『江戸っ子』と言うのは、威勢が良さそうだけど、あまり良い意味に使われない。おっちょこちょいで、直情的で、論理・理屈方面に関してはからっきしダメである。自分もこういう『側面』を多大に持ち、子供の頃からそんと後悔ばかりしている。
 他人を害したり、殺傷、騙してお金を巻き上げるなど悪いことをやっておきながら、刑罰の方は御免蒙むるなんて、下劣な根性の持ち主と、職業とは言え、その弁解を手助けし、あわよくば、刑罰を逃れようなんて企む人たちが居る。
 弁護士は社会的には栄誉ある職業であると思う。でも私自身、あまり波長が合わない。私がこれから犯罪を犯した場合、お世話になって『朝令暮改』でまた豹変するかも知れないが・・・・。弁護士になるには、他人が寝ている時間ですら猛勉強してやっと司法試験に合格する。頭が良くなくては成れない。
 弁護士になった暁には、社会的地位を得て、高収入が得られ、大きな家に住み、将来に渡り食いぱぐれない職業なのだろう。私は夜は寝たいし、犯罪者の弁護などしたくない。
 例えば、青酸殺人事件の筧 千佐子被告の裁判で、始め『黙秘します』と言ったのは、弁護士からの入れ知恵であろう。『忘れました』もそうかも知れない。この裁判で弁護側は、被告の認知症を理由で『公判が維持出来ない』という方針を採っている。弁護士も筧被告の犯行を認めた上で、それなら方向転換して、『認知症で公判が維持出来ない』として、刑罰を逃れる作戦であると思える。
 子供の頃、いたずらをしたらしたで、見つかって、怒鳴られたり、叩かれたりするのは当たり前のことだった。犯罪を起こし、捕まって『私はやっていません』と言うのは、自分はどうも、潔しとしない。たまに冤罪というのがあって困るけどね。やっていないなら、徹底して『私はやっていません』というべきだ。
 『やっている』のに『やっていません』と言うのは卑劣だ。その被告の手助けして少しでも刑罰を軽減しようとするような仕事には私は向かない。議論に長けた人が善人とは限らない。やり込められる方が悪人とも決まらない。(もちろん、私には司法試験に合格するような資質も実力も才能もない)
 時々、思い出したように、死刑が執行されたとの報道がある。すると、決まって弁護士の組合の方から、『死刑制度反対』のメッセージが出される。死刑判決を受けるような極悪人には極刑を受けて償ってもらわなければ、どうして被害者の無念が幾分でも晴らせるのか。
 サリンを撒いたオウム真理教でも、まだ誰も死刑執行が行われていない。今度の座間の『自殺願望』事件で9人もの人々を殺した白石容疑者も、裁判が行われれば、恐らく死刑判決だろう。犯罪が行われ捕まった報道に、国民は驚き、震撼し、恐れられる。国民の誰もが白石容疑者を憎む。だが、裁判を行ない、死刑が確定して、年月を経て死刑が執行されると、決まって弁護士会は『死刑制度反対』のメッセージを出すに違いない。直情的な私には訳が分からない。

第 1069     朝令暮改              2017.11.08(水)

 『朝令暮改』 朝に命令を出して、夕方それを変える事。法令が出ても、すぐにあとから改められて、あてにならないこと。(岩波 国語辞典による)
 自分の説が変わらないのは、成長、発達していない証拠である。
 青酸化合物殺人事件で、筧 千佐子被告が地裁の法廷で、『黙秘します』と宣言した直後に、検察官の質問には『毒を飲ませました』と証言し、2日後には『忘れました』と言うもようなのだ。
 実は昨日、シルバー・スマホ・デビュー致しました。
 以前から当HPを訪問して下さる方はご存知でしょうが、電車の中で座っていらっしゃる方が、軒並みスマホを覗き込んでいるのは、一種異常だとか、そんなに他の人と繋がっていないと心配なのか、あるいは営業の人以外、移動しながらの通信手段は要らない。『費用対効果』を考えたら、あんなにバカバカしい物はないなどと、散々申し上げてまいりました。
 昨日、カミさんのガラケーが壊れてしまいました。通信業者に持ち込んだところ、機種が古いためもはや、修理対象の機種に当てはまらず、新しい機種を購入して欲しいとの由。この際、カミさんは簡単なスマホに変更したいと希望した。
 私も一人で散歩に出て、心臓の持病を持つ関係でいつ具合が悪くなるか分からん。と言う事で、カミさんと同じシルバー・スマホ契約となった次第である。
 店で見積を出して頂いたら、機械購入費を月々24回の割賦で払う関係上、『費用対効果』の面で、スマホはとても太刀打ちできそうにはない。やはり皆さんが持って使っていらっしゃるのを見れば、僕も欲しい。また、歳を取って、スマホも使えないのかと思われたくないという気持ちもある。
 カミさんと同じ機種なのだが、やはりパソコンに慣れているせいなのか、僕の方が少し慣れが早い。こんなことなら、シルバー・スマホでなくとも良かったような気もする。
 ガラケーを止めてから1年以上経つ。それまで、ガラケーには紐を着けて、首に下げ、胸ポケットに入れていた。そんな関係で、以前のガラケーの紐を外してスマホに付け替えて、胸ポケットに入れた。散歩の際に見たら、おおよそ首から紐で吊るしている人など居ない。
 胸ポケットに入れ携帯しても、ちっともメールや通話が来ない。それはそうだ。『スマホ・デビュー』したことは娘や息子他、数人しかメールアドレスや電話番号を知らせていないからだ。連絡が来る筈ないのだ。今時分、スマホなど珍しくもない。皆さん忙しいのだ。でも、ちょっと寂しい気もする。
 今頃、開設の連絡をすれば、『まだ持っていなかったのか』と言われてしまうだろう。『携帯電話の番号が変わりました。メールアドレス変更しました』と連絡すれば、『オレオレ詐欺』と間違われてしまう。だから、あまりあちこち連絡しない。
 私は家に居る時、ほとんど3階に居る。カミさん、『ご飯だよ』の連絡は、玄関のインターホンの室内受話器に付いているブザーで知らせる。ブザー1回鳴らすと、『誰か来たから、降りて来て』であるし、ブザー2回鳴らすと『ご飯だよ』の合図である。まるで、昔の路面電車と同じだ。あれも、1回『チン』と鳴らせば、なに、『チン、チン』と2回鳴らせば、かに、の約束事が運転手と車掌の間で取り交わされた合図なのだ。
 3階に居たら、スマホに通話の受信の音がしている。何だろうと思って出たら、カミさんから、『ご飯だよ』の連絡であった。
 こうなれば、自分の説が変わらないのは、発達していないことの証拠と開き直るのだが、外信でなく、家内で使うようなのは『かけ放題』ではあるが、やはり、お金の無駄であるに違いない。決して大きな家ではないのだ。

 

第 1068     桂 三木男              2017.11.01(水)

 時々、会話の最中に、可笑しい場面でもないのに、自分が喋った後、『ワッ、ハハハ』、あるいは、『ハッ、ハハ』と言う方を見受ける。真剣な討論でもこれをやるり、繰り返す。初めてお話した時、この人、頭がおかしいのではとさえ、思った。聞いていて、ふ愉快な気分にさせられる。
 多分、自分の話に自信がないか、照れ隠しか、気弱なのかも知れない。以前勤めていた会社の工場長がそうだった。私の後輩にもこの癖の人が居た。会議中、これをやったものだから、『何が、可笑しいのだ!』と常務から叱責された。ふ快に感じるのは私だけではなかったのだ。それ以降、本人も気にして、注意しているようだった。
 『気合だ! 気合だ!』と言う、レスリング浜口京子さんの父である、アニマル浜口氏も言うが、あれはTV出演の際の演技で、普段は言わないようだ。
 私は落語が大好きです。寄席に行くには遠いけど、1年に3回ほど行きます。落語の速記本もたくさん読んだり、CD、カセットテープでも聞く。特に好きな噺家さんは決めない。皆さんそれぞれ、個性があってそれぞれが好きだ。
 もう大分まえのこと、ラジオで林家たい平さんが、若手二つ目の噺家さんを招いてのトーク番組があった。そこに三木男さんがゲストとして招かれたことがあった。その三木男さんが、『ハッ、ハハハ』の癖の持ち主だった。可笑しな場面ではないのに、自分が喋る後に、たびたびやらかす。話芸を生業とするのに、聞いている者をふ快にさせるのでは、噺家失格である。一度で嫌になってしまった。僕は落語界に”嫌いな噺家さん”を作りたくない。
 桂 三木男さんは、『昭和のめい人』と言われた、三代目桂 三木助を祖父に、四代目を叔父さんにもつ、サラブレッドである。これから、修行に修行を重ね、将来は五代目 桂 三木助を継ぐ家筋であった。
 彼が将来、噺家を自分の生業とすることを決心し、前座修行を始めた時から、周囲から将来は『桂三木助』の大めい跡を継ぐと見なされ、言い続けられて来た筈。彼のオジイサンは『昭和のめい人』と呼ばれた人で、宿命とは言え、前座、二つ目の三木男には、将来の『三木助』のなまえは重すぎた。彼の『ハッ、ハハハ』の癖は、自信のなさ。照れ隠しの表明に違いないと思っていた。
 お節介は承知で、林家たい平さんのホームページから、『たい平さんから、三木男さんに注意してやって下さい』とのメールを入れた。たい平さんから、『三木男君に注意をします』との、結構長いメールの返事があったと記憶している。
 余計な事とは思ったが、三木男さんが、オジイサンやオジさんの後を継いで、めいじん、上手となって貰いたくのことだ。まさか、高座ではやらないだろうが、話芸を生業とする人は、普段から注意しなければいけないことだ。
 その後、寄席、テレビ、ラジオでも、三木男さんの話芸に接する機会はなかった。
 落語協会の秋の真打昇進の発表があった。この度、三木男さんが、真打昇進すると共に、目出度く、『三木男改め、桂 三木助』を襲めいする事となった。恵まれた家系とはいえ、大変素晴らしいことである。高座では絶対ないだろうが、これからは、トーク番組に出演機会も出て来るだろう。其の時、『ハッ、ハハハ』の癖は無くなったか、非常に楽しみである。
 真打となり、桂 三木助を襲めいしたからと言って、祖父の三代目三木助の話芸には足元にも及ばない。これから精進して修行を重ね、めい人、上手と呼ばれる大看板になって下さることを切に望みます。
 ついでに書きますが、日本TVの人気番組『笑点』を私あまり好きでありません。あの『大喜利』は落語でも何でもありません。噺家さんの余芸、TV向けの『お遊び番組』に過ぎません。どうも人気ばかりが先行しているような気がする。
 5代目古今亭 志ん生、6代目三遊亭 円生、8代目桂 文楽、3代目三遊亭 金馬、3代目桂 三木助、5代目柳家 小さんなどの、皆さん亡くなってしまった。彼らの噺は、CDでしか聞くことが出来ない。でも、時間をおいてまた聞けば、いつも新鮮な感じをもたらしてくれる。

第 1067     認知症予備軍            2017.10.30(月)

 いつも同じような事を書いているような気がする。パソコンのワープロ機能を使うから、筆記用具を使って、紙に文字を書くという機会が激減した。いざ書く段となると、小学校で習うような漢字すら中々書けない。認知症予備軍である。遠慮して予備軍としたが、もう、本家、本流、家元の正真正銘の認知症かも知れない。
 自動車を所有していない。車を歩道に乗り上げ、歩行者を撥ねた上、コンビニに突っ込むことはない。同病者ながら、80歳を越えて車の運転など止めろよ。『自分だけは大丈夫』と思い上がって居る人ばかりだ。これだけ高齢者の事故例があるのに、『学習能力がない』。頑固で、認知症だから、学習能力がないのか。
 先日、認知症をテーマにしたTV番組でやっていた、キュービック(角砂糖のような形)を斜めから見た図を、簡単に正しく書けるかと言う、認知症を判定する問題が有った。角砂糖描画方面だけは、問題なさそうだ。一方で、『一線は決して越えていないが、家の前の道を通る女性のうち8割は恋人である』という色ボケの症状は顕在化している。
 それでも、認知症の進行を少しでも遅らせようと、日常的に算数の問題をやったり、英語の復習をしたりと、なるべく紙に向かって字を書くように努力している。紙には向かわないが、下手でも、こうして文章を作ろうとしているのも、予防になっているかも知れない。これでも、同じ言い回しを使わないようにしたり、文の順を変更した方が分かり易いのではと、ない頭を絞って、心遣いしている積もりなのだ。
 最近、とみに感じるのが本を読んでいて、登場人物のなまえを覚えられないことだ。『松平左七郎乗羨』 一人ならまだ良い。これに何左衛門、何とか右衛門と出てきたらもうダメだ。それに加えて同一人物でも、幼い時のなまえがあったり、なまえを改めることが有ったら、完全にお手上げ、ギブアップである。
 外国の本を全く読めなくなった。なまえが覚えられない。同じく子供の頃のなまえが有り、通称、あだなまで混じっては、とても立ち向かえない。
 最近はメモ用紙を傍らに置き、登場人物のなまえと特徴をメモしながら読んでいる。面倒くさいが、これはとても効果的で、内容が良く理解できる。とても、新鮮である。
 我が家に全43巻の文学全集がある。BOOKOFFでバラバラに売っていた物を、少しずつ買い集めた物だ。ただし、残念ながら、11番、16番の2巻だけまだ欠けていて、今も探し続けている。いずれも¥100~200で買ったものだ。
 何とか全集というような本棚に飾りのように並べてあるような本は、きっと前の所有者は読んでいる筈がないと予想していた。案の定、全く読んだ形跡のない本ばかりだった。僕も前所有者の轍は踏みたくない。毎日が日曜日だから、端から読み始めることにした。
 今、第3巻目の夏目漱石の『我輩は猫である』に掛かっている。この作品は、中学生の時から始めて、何度読んだか分からない。幸い認知症予備軍だから、大雑把のことは覚えていても、細かい所は既にすっかり忘れている。初めて読んで、初々しいとまで行かずとも、とても新鮮である。
 メモを片手にだから、内容もよく理解できる。現代の作品と違って、巻末の注釈をひっくり返しながら、じっくりであるから、読む速度は遅い。
 漫画家でエッセイ作家の”東海林さだお”さんのエッセイ集は、何冊も読んだがとても面白い。その東海林さんにに劣らぬような、ユーモアな表現が出て来る。『こころ』などと全く違って、漱石の初期の作品はこんなにも滑稽なところがあることを、まざまざ知った。今までこんな感じを持ったことがない。
 認知症、其の予備軍でもない方にも、『傍らメモ帳』の読書をぜひ勧めたいな。

第 1066     年賀状の準備            2017.10.29(日)

 商店街を歩いていると、『喪中ハガキ、年賀状印刷承ります』の幟をよく見掛ける季節となって来ました。10/26 付けの『日記』をまだお読み下さっていない方は、まず先に読んで頂かないと前後の経緯が分からず、辻褄が合わなくなってしまいます。まず、そちらをお読み下さい。
 昨年までは、12/28、29頃、慌ててイラスト集か何かを使って、誠に簡略に年賀状を作成して来ました。
 I am ゴロゴロ every day.
 となったしまった今年はちゃんと考えて、年賀状を作成せねばならないとの『志』を持って居ります。
 折角、パソコン教室で教わっているのですから、Word⇒ 挿入 ⇒ 図⇒ オートシェイブの基本図形を使って、丸、四角、三角、星、他多数の図形を重ね合わせたり、引っ張ったり、縮めたり、色付け、グラデーションなど、色々と工夫して年賀状を作成したいと内心思っております。
 まず、どなたも年賀状の図柄には、干支の動物を使う場合が非常に多い。来年の干支は『戌』、つまり『犬』であります。
 猫の場合、ペルシャ猫のように、一風変わった毛並みの物がありますが、一般には、毛並み、色つや、大きさこそ違いますが、西表ヤマネコでも、ご近所のタマも、野良猫の黒でも、見た目では余り外観は違いません。
 ところが、犬の場合、セントバーナード、シェパード、秋田犬、土佐犬などの大型犬から、柴犬、スピッツなどの中型犬、チン君のような小型犬まで、大きさ、形状、外観は千差万別です。しかもシェパードなど鼻の尖った物から、先祖の犬が、まるで顔から壁にでも激突し、その伝統を引き継ぎ、鼻が押しつぶされたようなブル君と、顔付きまでそれぞれの個性を持っております。これをオートシェイブの丸、四角、三角などの、基本図形の組み合わせで表現するのは甚だ難しい。
 どうしても、イラスト図画集を手本に、描画するしかないという結論に達する訳であります。人間の顔でも同じであります。顔を構成する部品はどなたも同様で、『一つ目小僧』のようなことはありません。『福笑い』のように、まず顔のベース、目、口、鼻、眉毛などの構成部材のそれぞれの配置に拠って、イケメンとなったり、原 節子さんや山本富士子さんのような、絶世の美女となったり、醜男、醜女となったり致します。
 お互い顔の部品同士で相談しながら、譲り合って配置すれば良いものを、勝手気ままに、肩肘張り、縄張りを主張するものですから、皆さんそれぞれ違った顔になってしまうのです。もっとも、全ての人が美男、美女となってしまうと、芸能プロダクションのスカウトの方が困惑してしまいますが。
 3歳くらいまでは男女児とも、とても可愛い。それが、歳を経るうちに、環境とか、自身の努力次第で段々変わって来てしまう。他人を脅かして金を巻き上げような職業の方は、平時でも人を威圧するような厳しい顔になり、温厚な性格のまま過ごされた方は温厚な顔のまま、老年の顔となるものです。
 我が家の小さな仏壇の上に父母の遺影が並べて置いてあります。父はずっと温厚な性格で、職業は職人でしたが、総白髪の顔に温厚さが滲み、手前味噌で恐縮すが、元大学教授だと言っても通用するのではと思っています。一方母は気が強く、子供だった私が見ても間違いなく父母の間は、『かかあ天下』でした。母は外面は良いのですが、家の中では、自分で言い出した事は曲げず、言い分が通るまでは、何度も自分の主張を繰り返すような人でした。写真はその人のごく一瞬を捕らえるものですが、それでも、それとなく顔に出てしまう。
 先ほど原 節子さんを美人の例として挙げました。おなまえは聞いたことがありますが、実は原 節子さんが亡くなった時に、若い頃の写真を見ただけです。原 節子さんの若い頃の姿は、僕よりもずっと年配の方しか分からない。
 美人の方は、顔の中の素材配置の『黄金率』が高いのでしょう。美貌や体型を維持するため、弛まぬ努力を惜しまなかったに違いありません。私たちの年代で言えば、
 『♪ あなたーを待つの、テニスコート・・・♪♪』
 の天地真理さんだ。とても可愛らしくて、まるで人形のようだった。今はどうなっているのでしょうか。時たまテレビで『昭和歌謡』とか『思い出のメロディ』の類の番組がある。そこには天地真理さんは出て来ない。だが、一度だけ見たことがある。自分のことは棚上げですが、その時はすでに、すっかり横に背が高くなってしまって、往時の可愛らしさは微塵も見受けられなかった。歳を取れば、どなたにも必ず老醜と言うものは出て来る。でもそれを少しでも緩和する弛まぬ努力、節制と言うものが必須なのであります。
 僕の場合、円形脱毛症という自己免疫疾患で、一時は眉毛という顔の構成部材が一本も無くなってしまった。鏡を見ても、顔の構成部材が一つでも無くなると、自分でも一種、異様、ぶきみであります。
 ただ、『人間は顔ではありません』。そう、中身です。ここで、ご注意願いたいのが、人間『は』のところで、決して『の』と間違えてはなりません。『人間の顔ではありません』となってしまいますから、くれぐれもご注意方お願いします。
 話が年賀状の絵柄からすっかり逸れてしまった。オートシェイブの丸、三角、四角などの基本図形を変形させたり、組み合わせたり、色付けで『犬』の図柄にするのは本当に難しい。ただ、頭の上に付ける耳の描き方で大分、犬らしくなる。
 手話で、両方の手の平を前面に向け、頭の両側面上方に付けると『犬』を意味すると聞いたことがある。逆に手の平を後ろに向けて、頭の両側面に当てると『鹿』なのだそうだ。(鹿は間違っているかも知れない。その時はゴメン) このような工夫をすれば、犬らしくなるから、活用したい。
 とにかく、パソコンのWard画面の、顔の輪郭の中に、顔の構成部材を配置するのだが、それが『黄金率』に配置できれば美犬になるし、上手く配列出来なければ、キツネ、タヌキ、ネコになってしまう。本当に難しいものだ。
 これを読んで下さっている方も、『まだ、充分時間があるから』と思っていないで、少しずつ 年賀状の準備をして下さることを望みます。

 

第 1065     夢                 2017.10.25(水)

 題は夢である。ここでは夢と言っても、現在のところは実現していないが、将来は実現させたい願いのことではない。
 もはや老人である。40代50代の頃は自分は永久に死なんか来ないんじゃないかっていう過信がありました。現実にはいろいろ体にガタが来ているなと分かって来た。むちゃなことしなくなった。無理にむちゃをやろうとするんだけど、やっぱりどこかで自制心が働いて、ある程度で止める。ただ、無難にやってる自分にイライラしてむちゃをやりたいなと思う。まだ“若さ”もくすぶっていることも事実だ。
 ここでは、眠っている間に色々なものを見聞きする方の夢のことを言います。
 どういう訳か、同じような夢をよく見ます。もう40年も前のこと、勤めていた工場が閉鎖となり、いわゆるリストラとなった。子供が産まれたばかりで、カミさんは動けず、知らない、慣れない地に引越し、転職した。28歳だった。
 学校を卒業する時には『溶接屋』になりたいとの希望があった。溶接なら何でも良いと言うわけでなく、高品位、高強度な鋼材を使った大型の構造物を作る仕事に就きたかった。就職してからも勉強し、色々な資格も取った。だが、転職の時にその希望は消滅した。
 世の中に数値制御の工作機械が出始めてまだ間もない時期であった。その時期には数値制御の工作機械を動かすデータを作るのに、自動でプログラムを作成する機械は、まだ世にほとんど普及していなかった。電卓片手に計算し、コーディングシートに手書きして、情報交換テープというものを作り、工作機械を動かすと言う、今にして思えば、地道で、何とも気の長い仕事をしていた。
 転職して、その地道で、気の長い仕事に就いた。その言語を『G言語』と言った。そのG言語を作る仕事をおおよそ、15年間やった。今でもG言語は覚えている。今はもう既にプログラムの自動化は進み、G言語を知っていても何の役にも立たない。
 長時間労働して、決して楽ではなかった。どうしてその頃のことが、夢にたびたび出て来るのだろうか。夢の中でG言語を扱っているのだ。
 後に品質に関する部署も長く担当したが、そちらの方が精神的にずっと辛かった。
 自分で起こしたふぐあいではないのに、得意先に出向いて、修理したり、引き取りを行った。何とも辛いのが、得意先に叱られることだ。ふぐあい発生時に叱られ、再発防止策を持って行って、また叱られた。定期的に得意先で品質会議があり、そこでも時にネチネチとやられ、時に怒鳴られた。
 勤め先の工場は川崎だった。昼食近くに時間に『これから来い』と言われた。行き先は岩手県の一関だった。夕方、言われたこともあった。静岡県の掛川だ。今夜は帰れないかと思ったが、それにも対応した。品質部門担当など長いことやるものではない。精神的に参ってしまった。長いこと精神科のご厄介になり、安定剤を朊用し続けた。
 自分にとっては、品質部門の方がよほど辛かったのに、品質部門の時の夢は見たことがないと思う。人は一晩の内に何度も夢を見るらしい。夢は見ても大抵忘れてしまう。目覚め近くの夢は、目覚めても覚えていることがある。たびたびG言語の夢を見るのは自分の人生にとって、大変印象深いことであったのだろう。
 今となってはもう無理なのだが、家に居てぐうたらしている自分に、イライラしてむちゃをやりたいなと思う事がある。お金も情熱もないから、起業は出来ない。せめて、自分だけで出来ることを探している。自分にはもはや大した将来はないのだろうけど、眠ってみる方の夢でなく、『実現させたい願いの方の夢』なのかな。

第 1064     もう便利さはこれ以上いらない?   2017.10.23(月)

 今のスマホとは全く違う物が考えられていて、遠からず、今のスマホは陳腐化するらしい。
 電車に乗ると、皆、スマホを覗いていている。一種、異常ではないかとさえ思ってしまう。『止めて下さい』と言われているのに、歩きスマホや自転車に乗ってまでスマホを操作しているバカが絶えない。車を運転中に見て事故を起こし、一生を棒にする人もいる。もはやスマホは携帯の電話の域を越え、便利な道具である。こんなに多くの人が移動中に連絡し合う必要があるとは思えない。
 デート中であろうとお見受けする若い男女ですら、ベンチに座ってそれぞれにスマホを覗いている光景を見る。昼間から場所柄を考えて欲しいとは思うが、ベンチで男の膝の上に女が乗って、チュッチュしている方が、よほど健全かと思う。
 子供たちとの会話や接触の時間、大人でもコミュニケーションの時間が削られている。
 便利な機械であることは知っている。僕は1年以上前にガラケーの携帯電話を止めた。時には持っていた方が良いかなと思う時はある。通信だけで、『費用対効果』を考えたら、これだけ費用効率の悪い、無駄な物はない。家族でそれぞれスマホを持った時、家計に占める通信費の割合は高く、家計を圧迫している筈。
 コンビニやスーパーの食料品売り場は24H 営業をしている。僕は、夜は寝ることにしている。これらの店舗が夜通し営業して、採算が取れるほどお客さんが来ているのか実態は知らない。採算が取れるからやっているのだろうけど。
 警察、消防、病院や24H稼動の工場に勤める人は別として、そうでない人達までが夜更かしして、生活のパターンが崩れてしまったのは嘆かわしい。亡くなった三遊亭円歌の落語の『山のアナアナ』ではないが、『あなた、もう寝ましょうよ』などの用事の人はともかく、そうでない人は夜はさっさと寝るものだ。
 ドライバーの人手が足りないのと、配達先で在宅しておらず、再配達と言う非効率のため、宅配業界で時間指定の廃止や、変更の検討をしているそうだ。冷凍の物まで運べる。他社と差別化するために設けたサービスだが、自らの首を絞めてしまったようだ。余りに消費者の便利さを追求し過ぎてしまったようだ。見直して当然だ。よほど遠い所や、離島でなければ、今日15時までに出した物が、明日の午前中に着くなんてちょっと便利過ぎる。
 子供の頃、時々、郵便局まで小包を持って行くように言われた。小包を郵便局まで頼みに行くのが嫌だった。郵便局の職員から、紐の掛け方が悪いとか、何やら文句を言われるからだ。それでも、そんなものだと思えば、生活出来て来た。今はドローンで運ぶ事まで検討しているようだが、そんなに便利にしなくても良いよ。
 ずっと前に読んだ森 鴎外の『高瀬舟』を、最近また読んだ。高瀬舟は罪を犯して遠島にする罪人を港まで運ぶ小さな船です。罪を犯した喜助と、役人の同心の話です。短い小説ですから、30分もあれば読み終わる。読んだことのない人には、お勧めします。その中の文を引用します。
 『人は身に病があると、この病がなかったらと思う。その日その日の食がないと、食って行かれたらと思う。万一の時に備える蓄えがないと、少しでも蓄えがあったらと思う。蓄えがあっても、その蓄えがもっと多かったらと思う。かくのごとくに先から先へと考えてみれば、人はどこまで往って踏み止まることができるものやら分からない。』

 

第 1063     優先順              2017.10.20(金)

 『馬に念仏』『猫に小判』という言葉があります。むろん、馬と猫は私のこと。  月探査機『かぐや』の観測データから、月に50kmの長さにも及ぶ地下空洞が存在する可能性があるとJAXAが発表した。
 ハワイの山の上に世界でも高い性能を持つ望遠鏡がある。宇宙の創生や成り立ちを知らべて居るようだ。
 先日、ノーベル賞の受賞発表があった。日本も何年か続けて受賞したことがある。国民の生活に直結する研究ならともかく、特に物理学賞の受賞内容によっては、僕はあまり快く思っていない。素粒子ニュートリノの研究をして、実生活に何の役に立つのか。受賞の時TVニュースで見たが、山の中に巨大な穴を掘り、スーパーカミオカンデという非常に高価そうな設備を使う研究だ。
 スウェーデン、ノルウェー、デンマークなどの北欧諸国は、社会保障制度が充実していると、世界中で知られている。調べてもせず印象論で申し訳ないが、これら北欧諸国がノーベル賞を受賞したという記憶がない。国がこれらの研究にお金を出さなければ、確たる成果は挙がらないのだ。
 恐らく、国のお金の使い方に対する『考え方』が日本とは違うのであろう。
 研究への支出を全否定する訳では決してない。『必要』という定義は分からないけれど、必要なものはやって頂かなければならない。ただし、予算にも『優先順位』と言うものがあると思うのだ。
 日本維新の会の松井代表が主張する国会議員の報酬削減も結構だ。多過ぎるとか、無駄と思われる費用はこれからも削減して欲しい。ただ、月の空洞を発見して、ハワイの山に望遠鏡を設置し維持し続けて、たくさんの費用を掛けて、ニュートリノの研究をして、他にもたくさんあると思うが、本当に国民の生活の役に立っているのか。予算には優先順位の配分と言うのがあると思うのだ。先に保育園の建設や、保育士、介護士の充実を図って欲しい。
 子や孫の代に借金の負担を残さない財政再建や、社会保障制度に、先にお金を使うべきではないのか。
 日本は『みえっぱり』だと思う。
 宇宙の成り立ちは、お金のある大国で研究して頂ければ良い。先日、トランプ大統領がユネスコからの脱退を表明した時、日本がユネスコに対し、アメリカに次いで第二の供出金を出していることを知った。日本は第二次世界大戦の敗戦国だから仕方ないのか知れないが、国連では日本の発言力は如何ほどのものなのか。安全保障理事会ではロシア、中国に拒否権を使われたら手も足も出ない。

   小学校の社会科で、一次産業、二次産業、三次産業と言うのを習った。今は余りこの言葉を聞かない。
 一次産業には、農業、林業、漁業、など自然の恩恵を利用したものです。貧困時には食べる事に精一杯で、一次産業が中心となります。僕が産まれた約70年前には、働く人の内、従事者が40%くらい居ましたが、今は従事者は3~4%しかいません。
 二次産業は、製造業、建設業、その他の工業が相当します。原材料を加工して製品を作ります。二次産業の従事者は一時増えましたが、今は70年前と大きな変化はありません。
 三次産業は、一次、二次でもない産業で、小売業、運送、飲食、宿泊、教育、医療などの産業となります。二次産業でたくさん物を作れるようになると、皆、物以外の事、生活の充実などにお金を使うようになります。70年前35%くらいの従事者の構成でしたが、今や70%くらいの構成比になっています。働く人の10人に7人の割合の人が三次産業に従事しています。
 日本の食料自給率はエネルギー換算39%くらいです。後は輸入に頼っています。日本の人口は減り続けていますが、他にすることがないのか、世界の人口は増え続け、20年後には100億に迫る勢いです。
 20年後には、温暖化の影響も併せ、世界は食糧危機に陥ると言われています。食料の奪い合いになるかも知れません。
 産業の従事者の構成比で70%の三次産業では、富を生み出すことはあっても、物や製品は生み出しません。日本の産業構造の根幹にも、手を入れて置かねばならないと思います。お金は有っても、食べ物は手に入らないかも知れない。
 昨日、ネットのニュースサイトで、国立大学の大学院生の文系女子学生で就職先が見付からないという記事があった。庶民感覚は別として、今は好況で就職難などはあまり考えられない。大学院卒の人に、企業はそれなりの給与を払わなければならない。性差別をする気はまったくありませんが、国立の大学院卒の文系女子学生を、もったいなくて採用する民間企業はないだろうなと思う。これはたった一例だけれど、日本はどこか、おかしいな。

第 1062    ジャガイモ             2017.10.18(水)

 毎日、家でゴロゴロしている。それでも、僕に出来る家事はなるべく手伝おうと思っている。毎食後の洗い物と風呂掃除、鉢うえ水遣りは担当として定着している。
 昼食時、台所を見たら、ガスコンロの上に置かれたフライパンに、ひき肉とタマネギが炒めてあった。隣にジャガイモが蒸し上がり、冷ましてある。夕食の準備である。ジャガイモは茹でると形が崩れてしまうので、我が家では蒸している。今夜のおかずは自家製のコロッケらしい。
 ジャガイモの皮は僕が剥く旨、カミさんに伝えた。このジャガイモはカミさんの友人から頂いた物だ。田舎から送って来たそうで、出荷出来ないような小さな物ばかり。おおよそ、50個以上は鍋の中で蒸してあったと思う。
 スーパーや八百屋で買うジャガイモは大きいものばかりだ。ジャガイモの栽培経験がない人には分からないが、実際に栽培すると1~5cmほどの出荷出来ないような、小さな物もたくさん出来てしまう。勿体ないから、小さい物も食べる。だが、小さい物をたくさん皮をむくのは面倒くさい。
 ジャガイモは土の中で、タネ芋の上の方に子供の芋が出来る。芋に日光が当たらないように、栽培中は十分な土寄せが欠かせない。土寄せが上手くできてないと、収穫したジャガイモは緑色になってしまう。
 ジャガイモの芽は有毒物質を含むと言うのは誰もが知っている。ジャガイモの表面が緑色になってしまった物も同様に、ソラニンという有毒物質を含み、食べると嘔吐や頭痛を引き起こす原因となる。
 小さなジャガイモの皮を剥くのも面倒だが、皮を剥いても表面が緑色になっているのも多かった。竹串の先で緑色に変色している部分を削ぎ落とさなければならない。
 買ったジャガイモでは緑色に変色していることは、まずないと思う。だが買った物でも、日光に当たる所で保存すると、緑色に変わってしまう。ジャガイモは風通しの良い冷暗所に保存することだ。また、風通しの悪いダンボール箱の中などに長期保存すると、腐ってしまうことがあるから注意が必要だ。
 我が家の前では、かつての畑の大家さんの家を建設中だ。もう大分涼しくなったが、夏の暑い盛りにも、日向で作業している姿がよく見えた。そんな姿を間近で見ていると、具合が悪いわけでもないのに、家の中でゴロゴロしている自分が、何となく後ろめたくなってしまう。それに、何もやらずにいると、認知症になる恐れがある。認知症のゴロゴロでは目が当てられない。僕に出来る家事はなるべく手伝おうと思っている。

第 1061    ふ正と報道             2017.10.16(月)

 ふ正の『ふ』の字を知らない訳ではありません。漢字で『ふ』と書いてWEB上にアップすると、文字化けして『上』の字になってしまう。分かっているから、ひらがなで書いた。他にも何種類かの文字が、文字化けしてしまう。同じ意味の違う書き方を探すのが、何とも面倒だ。
 日産自動車の無資格者による最終出荷検査問題、神戸製鋼のデータ改ざん問題と、このところ大企業のふ正問題が続いた。ちょっとドキッとする。
 中小企業だけれども品質管理部門を担当していて、私もふ正をして製品出荷した。大企業は組織ぐるみらしいが、私の場合は寂しいことに、中小企業で組織ぐるみと言えるほどの組織がない。単独決断で、単独行動でのふ正行為だ。
 その後、何年も経過しているが、得意先から指摘があったり、クレームがあった訳ではない。結果論かも知れないが、別に差し障りは無かった。実際の性能が劣っていたことは決してない。得意先から、無駄と思える検査要求があった。その検査をするには膨大な時間と手間が掛かる。出荷日までにその検査をする時間的余裕もなかった。
 仕方なく、数台だけ検査して、後の台数については、検査をせずにデータを捏造した。製品にデータを添付して紊品した。恐らく得意先では、全数検査を要求し、させておきながら、自分では検査データの数値の確認すらしていないと思う。得意先は性能に無関係な、役にも立たない過剰な検査を要求したのだと、今でも思っている。
 製品の機能に関わる重要部分については、全数検査は必須である。その他の部分は、抜き取り検査で十分な場合が多い。得意先に取っては、注文先の手間、工数負担などの費用負担など眼中に無い。抜き取り検査でなく、意味の無い全数検査を要求することがある。
 抜き取り検査で十分な部分では、営業は得意先に説明して、全数検査を回避すべきだ。それでも、要求するなら検査費用を得意先に要求すべきだ。何でも得意先の言いなりになれば、担当者は遅くまで残業をせねば成らず、そんな費用が中小企業では大きな負担になる。
 かつて私の勤めていた会社は清算となってしまった。紊品してからもう長い年月が経っている。ないと思うが、万が一データの捏造が発覚して、製品が使えなくなっても、もはや責任の取りようが無い。
 無意味と思われるような部分でも、私がデータ捏造した事実には変わりがない。いつまでも私の頭の片隅に記憶が残っている。日産自動車や神戸製鋼は組織ぐるみで、社会的に信用を落した。本末転倒だが、私にとっては、大企業の組織ぐるみは羨ましい。組織だと個人の罪悪感が薄まるかも知れないからだ。私は単独のふ正だから、身に詰まされる。
 開き直って言っている事とは、分かっている。日産自動車でも、神戸製鋼でもふ正が有ったことは報道で分かった。ただ、そのふ正の実態が重大なものか、どんな影響を及ぼすのかなど、正確に把握していないで、マスコミは騒ぎ過ぎではないのかなぁ。ふ正の内容をよく把握しないで、ただ騒ぐのは良くない。
 データ捏造、改ざん、あるいは、ふ正検査は確かに良くない。企業は反省すべきだ。ただ、マスコミが鬼の首でも取ったように騒ぐのは的外れだと思う。日本の工業製品の世界に誇る品質は検査で保たれているのでは断じてないからだ。
 闇雲に物を作って、最終段階の検査で良否判定しているような管理では、ふ良品が山になってしまい、企業は採算が取れなくなってしまう。それを防止するため、どの企業も『作り込み品質』と言って各工程での自主検査や、作業を確認をしながら、次工程に送り、良品の製品を作り上げている。最終検査は『念のため』程度の役割しか演じていない。
 かつて、中国では高速列車事故が起こった時、事故の原因究明もせず、すぐに乗客の遺体を乗せたまま、列車ごと土中に埋めてしまった。そんな自国の事故の処理方法を棚に上げて、中国にまで、日本の新幹線が今にも壊れるようなことを言われてしまう。もっと実態を把握して報道して貰いたいな。

 

第 1060    自分でやってみる         2017.10.14(土)

 我が家の1階のトイレの戸は引き戸である。数年前から動きが悪かった。思い切って、外して調べて見る事にした。外す前は多分、戸車の軸に糸くずでも絡まってでも居るのかと想像していた。最悪、ホームセンターにでも行って、戸車を買って来て交換すれば良いと軽く考えていた。引き戸を外して見たら、私が考えていた物とは全く違った。
 2箇所ある車の内、一方は大分削れている。戸車のセットは扉の製造時に埋め込んでいて、容易に取り外せそうにない。
 『さて、困った。どうしたものか』
 しばらく、その構造を観察した。よく見ると扉の側面に樹脂製のポッチがはめ込んである。そのポッチは戸当たりとばかり思っていた。ポッチを外すと、中に3cmほどの深い穴が掘ってある。
 『この穴はどうしてこんなに深いのだろう』
 穴の中は暗くて見えない。懐中電灯で照らせば、中にネジの頭に切られているような、十文字が見えた。ドライバーで回せば、戸車の車輪が出入りするような仕組になっている事が分かった。
 斯くして、トイレの引き戸はスムーズに動くようになった。今まで持ち上げ気味に力を入れて、開閉していた習慣が身に付いてしまっていた。今度は余りに簡単に動くので、今までの感覚で開けようとすると、手を挟みそうになる。げに習慣というものは恐ろしい物だ。
 先日、息子夫婦が来て夕飯を一緒に食べた時、古いアルバムを見せた。生意気にも、僕らは広い庭付きの一軒家の借家で結婚生活を始めた。自作で黄色く塗った縁台に座った写真が出てきた。背後に赤い郵便受けも映っている。これも僕の作だ。テレビのアンテナも自分一人で屋根に登り立てた。とても懐かしい。若かった。ときたま、ヘビのお客様が来て、ビックリした。
 長女が産まれて、お座り出来るようになった時、木製の椅子を作った。この椅子に座って、長女はご飯を食べていた。今でも我が家にその椅子が在って、普段はポットを載せている。高い所に置いてある物を下ろす時の踏み台にもなる。たまに孫が来れば、親子二代でこの椅子に座る。塗料は少し剥げたが、至って頑丈である。
 階段の所に点いている灯りも、上法投棄されていた粗大ゴミのシャンデリアから、割れていない傘を2個外して来て、修理して付けた。これが元はシャンデリアの一部であると思う人は居ないであろう。このHPに載っているウクレレもお中元か何かで頂いた素麺の木箱で出来ている。
 風呂場の混合水栓が壊れた時も、ネットで水栓を買って自分で取り付けた。折れてしまったベッドの足も作ったし、今僕が座っている椅子の背中の部分も壊れて、作り直した。家の中を見回せば、僕が作ったり、直した物はたくさんある。
 自分で作ったり、修理をしたりするのが趣味のようだ。父が職人だった影響が強いと思う。5歳の時にはトンカチ、小刀など数点の入った『道具箱』を父にあてがって貰っていた。併せて就いた職業が製造業だったのも、趣味の技を助長した。
 今は無くなってしまったが、近くにはプロの人が買いに来る金物屋があった。店員さんとも顔馴染みになり、色々教えて貰った。ホームセンターに行くのは、もちろん大好きだ。自然と道具が増える。職人だった父が廃業した時も、道具をたくさん貰った。
 ただ残念なのが、狭い我が家には作業する場所がないことと、溶接機を置けないことだ。一般家庭に溶接機はそぐわないから仕方がない。有れば、金属工作が出来き、作業の幅が広がるのだが。
 何か作ったり、修理をして使うことは決してケチくさいとは思っていない。活用できる物は直して使う。とても素晴らしい趣味だと自賛している。家庭菜園も頭を使うが、今は畑がない。工作も菜園に劣らずボケ防止にはもってこいだ。自分でやってみることは大切なことと思っている。

第 1059    側面               2017.10.10(火)

 先週土曜日夜、ブラタモリというNHKのTV番組で黒四ダムを取り上げていた。黒四ダムは60年前、関西電力の手で作られた。それまで電力ふそく、停電などで苦しんでいた関西地方には黒四ダム建設により、多大な恩恵をもたらした。
 その一方で、工事に伴い殉職した方は171人に登る。こうした方々の犠牲により、黒四ダムは建設された。電力供給という『正の側面』がある一方で、たとえ労災保険という補償があるものの、一家の働き手を失ってしまったという『負の側面』も避けて通れなかった。恩恵の裏には殉職者のご遺族の苦労、事情が有ったに違いない。
 電通と言う日本一の広告代理店がある。2位の博報堂の4倊の売上高を持つ、断トツ1位の広告代理店である。従業員の平均年収は1200万円を越えるという。一般家庭の平均年収の約3倊である。誰もが就職を望む、筆頭の憧れの会社であった。
 その一方で、高橋まつりさんと言う、東大卒の女子新入社員の過労自殺があった。普通のことやっていて、電通は日本一の広告代理店であり続け、高額の年収が得られる訳が無い。まつりさんも自ら選んで電通に就職希望して、就職が決まった折には喜んだ筈です。電通は法律を犯した会社だけれど、日本一の広告代理店であるべく、まつりさんも自分なりに努力した。彼女はし過ぎちゃった。何が何でも一方的に全て、会社が悪かった訳でもないと思うな。
 このように輝かしい業績と言う正の側面の裏には、必ず負の側面があるものだと思います。
 今日、衆議院選挙の公示があった。各党それぞれの公約がある。安保法制、憲法改正、教育の無償化、社会福祉、原発問題などなど、それぞれに『正と負の側面』あることを良く吟味して、必ず投票しなければならない。単に人気で投票するようなことが有ってはならない。
 かつて、ヨーロッパで爆発物、車の暴走、銃乱射などのテロがあった。私たちはテロを憎み、卑劣な行為だと思います。こんなことを言うと怒られるかも知れませんが、テロリストが狂人でなければ、テロリストにはテロリストとしての論理、言い分があるだという事は忘れてはなりません。ただ、論理、言い分があるからと言って、手段を選ばない、卑劣な手段を取るとか、何をやっても構わないとは決して思いません。
 今回の衆院選挙の公約に年金や老人福祉問題があまり論点になっていないような気がします。今までは年金や老人福祉、医療は問題にして来ましたが、さすがにここまで少子高齢化が進むと、政治としても少子化対策は避けて通れない。
 この問題は、有権者の責任も大きい。投票者の年代別構成で、高齢者の投票率が子育て世代の人の投票率より高いのです。子育て世代の人達がサボって投票に行かなかったのです。党や政治家、議員さんも、自分たちに投票してくれる人達に篤くする政策を取るのは当然です。だが、これだけ少子高齢化が進むと、手を打たざるを得ないと言う所でしょうか。
 先の無い、投資しても、社会にとって益の少ない高齢者を優遇するよりも、待機幼児の削減、保育園、幼稚園の無償化、高校の実質無償化を目指すのは当然の成り行きです。子育て世代も『自分が一票を投じなくても影響が無い』と言うのが、積もり積もって、こんな結果になってしまったのです。
 原発問題も『即原発ゼロ』と言うのは無責任だと思います。それは万一原発事故か起こったら、恐ろしい、怖い、原発はなくしたいと僕も思います。現代の世の中は電気なしでは全く機能しません。原発を無くして、代替エネルギはどうやって得れば良いのか。電気代が高くなれば、家計にも響く。企業は海外展開して、産業は空洞化する。就職先も少なくなる。などなど色々な側面から考える必要があります。
 国の安全保障も、ただお祈りすれば平和が保てると言うわけでもありますまい。同じように色々な側面から考えるべきと思うのだな。
 くれぐれも色々な側面から考えて、投票したいと思うし、これを読む人も、良く考えて投票して貰いたい。
 最後に一つ苦情を言っておきたい。公約や政策を見比べている。緑色をシンボルカラーにしているオバサンは、政策を述べる時に、端はしに、やたらと英単語が出て来る。教養がお有りと見えて滲み出て、つい、英単語になってしまうのでしょうが、日本語で言って欲しいな。

第 1058    菜飯               2017.10.06(金)

 昨夜、夕飯に久しぶりに菜飯(なめし)を食べた。菜にも色々有ると思うが、昨日は大根の葉である。大根の葉を細かく刻んで塩でもみ、かつお節を乗せ、醤油をちょっと垂らして、暖かいご飯に乗せて食べる。高級料理では決してないが、庶民の食べ物として、とても美味しい。大好きだ。
 今年、5月まで畑を借りて家庭菜園をやっていた。丁度今の季節は、9月にタネ蒔きした大根の間引きをする時期だ。1箇所に5粒くらいタネを蒔き、その中で一番育ちの良さそうな苗を選び、後は間引いてしまう。その間引いてしまった物は、刻んで菜飯にする。その美味いの何のと言ったら、筆舌に尽くし難い。
 『あんたは、大根だけは上手いな』
 と畑の大家さんに何度も言われた。畑の大家さんも以前は大根を椊えていた。大家さんの奥さんに言わせれば、
 『おとうさんのは、鉛筆のような大根しか出来なかった』
 と言っている。『大根だけ』と言うのは甚だ心外だが、下手に言い返して、大家さんの自尊心を傷付けてしまうのもいけない。笑って聞き流していた。大根だけでなく冬野菜の白菜だって、売っている物と同様か、それ以上の物を作っていた。
 大家さん、元土建屋さんの社長で、自尊心が強く、負けず嫌いで、僕が作った大根、白菜には勝てないと思って、以前はやっていたのに、栽培しなくなってしまった。もちろん、大家さんにも得意な作物の種目があって、それには僕も敵わないと思っている。
 昨年は借りていた3.6m X 9mの畑の1/4の面積で、大根を52本作った。当然、これだけあると我が家だけで食べられる訳も無く、大家さん始め、近所、知人に配った。大根外交である。タネの価格など高が知れている。これで、喜ばれて、外交が出来れば御の字だ。
 大きさは売っている物に負けないくらい、大きな立派な大根が出来た。スーパーや八百屋で売っている大根は、首元で葉が切り落とされている。配った大根は葉付きだから、とても喜ばれる。やはりコツは、タネの良い物と、土つくりだ。
 菜飯は美味しい。ただ、それは久しぶりに食べるからだ。毎日、毎日、食卓に大根の葉が出て来ると、食傷気味となる。大根を自作していると、やはり飽きが来る。贅沢なものだ。
 僕が借りて家庭菜園をやっていた場所では、今、大家さんが自宅の新築工事をしていて、畑の跡形も無い。ただ、大家さんが耕して居た畑の4割くらいは、まだ畑として残っていて、大家さんが畑として、作物を作っている。
 新築工事で、我が家から畑はごく一部しか見えない。大家さんは高齢のせいも有るだろうが、畑には雑草がたくさんはびこっている。やはり、僕と言うライバルが居なくなってしまい、競争心や情熱が薄れてしまったようだ。僕がやっていた当時、大家さんはそれとなく、僕のやり方や、出来具合を良く見ていた。
 競争のない所では、気力が薄れるのかな。菜飯も、おでんの厚切りの大根も、風呂吹き大根もふんだんに食べていた頃が懐かしくもある。

 

第 1057    希望               2017.09.30(土)

 岸 洋子さんが『希望』という曲を歌っていた、この歌を知っている方は、もはや相当古い方だ。
 ♪ 希望と言う吊のあなたを訪ねて
   希望の党へと、また汽車を乗り換える
   (中略)
   私の旅は終わりのない旅 ♪

 毎日、国内の政治情勢は猫の目が変わるように変化し、有権者としては目が離せない。民進党は確か安保法制に反対していた筈。それが、舌の根も乾かぬうちに、希望の党へと鞍替えを申請する。先般行われた、民進党の代表選挙に立候補した枝野 幸男氏は幾らなんでも、汽車の乗り換えは難しいだろうな。
 『お願いだからやめて!』
 と、安保関連法案採決の時に、まるで暴漢に襲われたかのように叫んでいた 辻元 清美議員もダメだろうな。あれだけインパクトの強い、印象深い行動では、小池さんのふるいに引っかかるであろう。
 『平和を祈るだけでは、何も解決しない』  という、『希望の党』の方針に収まる筈がない。万一、収まったとしたら、辻元前議員の人格も、『希望の党』の考えも全く信頼できない。
 民進党が希望の党への合流(希望の党は合流とは認めていない)も厚顔無比。節操がないと言われても仕方がない。
 終戦を境に、学校の先生の教えることが、180度転換したという話はよく耳にします。今回の衆議院解散後の騒動も、それに匹敵するほどではないか。
細野 剛志氏だってそうだ。一歩先じて徒党を組んだからと言って、もう既に、創始者の側の顔をしている。希望の党への申請者に対し、高位からの発言と思えるようなことを言う。お前だって『五十歩百歩、人気に群がるハエと同じ』ではないか。
 『希望の党』はまだ何も実績がない事を、忘れてはいけない。かつて、民主党政権だった頃、宇宙人と呼ばれた首相も居たし、訳の分からない首相や、ドジョウの首相も居た。人材ふそくで政権、政策が混沌としたことを誰もが覚えている。定見のないところに、ただ人気だけで貴重な一票を投じるほど、有権者は愚かとでも思っているのか。何をどう考えるのか、自民党とはどう違うのか、政策は何なのか、きちんと示して欲しい。
 単に『2030年で原発ゼロ』と言うのではなく、温暖化や電力費用高騰による産業の空洞化への危惧を見据えて、どの代替エネルギーを推進、確保するのか、問題点は何なのかと言う所まで掘り下げた、指針を示して欲しい。小泉元首相と話し合うという段階ではダメだろうな。
 共産党もすぐ、『原発ゼロ』と言うだけだ。具体的にどの代替発電方式なら、電気代はどのくらいの家計負担になるのか、その場合の問題点は何かなど、具体的な指針は全く示していない。環境問題から、電気自動車(EV車)も増える。私たちの生活はもはや、電気なしでは成り立たない。
 今まで、何も考えず、政権与党のやることにただ反対していれば良かった。仮に政権交代になった時、自分達の政策を起こして行くには、ただスローガンを唱えれば良いと言うわけにはいかない。『定見』を持たない人達に何が出来るのであろうか。それだけの覚悟、自信があるのか。
 『今回の解散は加計や森友問題隠し』だと言う人が居る。長い時間こだわっていないで、もっともっと大きな視点で、基本的な議論をして貰いたいのだ。北朝鮮問題、温暖化、国の財政問題、食料自給率、景気対策などなど問題は山積なのだ。
 私が住む地域が選挙区で、かつて、民主党が政権奪取した時、衆議院議員となった方が居る。その時の1回の当選だけで、今回も立候補する。その間、今まで、彼は何をして生計を立てていたのであろうか。
 『この、ハゲ!』
 と言った、豊田議員も懲りることなく、立候補するらしい。節操もなく、なりふり構わず国会議員に成りたがるのは、議員になるだけで、よほど、旨味のある商売なのだろうか。疑ってしまう。

第 1056   心意気がないのか          2017.09.26(火)

 我が家は11軒ほどある横丁の、入口の公道に面した角にある。よく玄関先の階段に腰掛けてタバコを吸う。いつも知らん顔をして通り過ぎるのに、集積場にゴミを出しに来た、奥の方の家の奥さんが、声を掛けて行った。
 『比例、お願いしますね』
 創価学会加入の人だ。学会挙げての活動で、公明党には絶大な組織票を集める力がある。昨日、あべ総理が臨時国会冒頭での解散をする旨、表明した。もう、選挙戦はすでに走り出し、横丁のおばさんにまで波及している。
 28日の衆議院解散について、
 『大義がない』
 『森友問題、加計問題隠しだ』
 と言われている。確かにそういう問題はあるかも知れない。だが、僕には犬の遠吠えとしか聞こえない。政権与党が自党有利の時期を選んで、党利党略で選挙の時期を選ぶのは、当然の成り行きだ。政権交代の出来る、二大政党制が良いと思う。相手の体制が整っていない時期に選挙を行うという党利党略は、古よりの慣わしだ。
 念のため書いておくが、私は必ずしも自民党支持者ではない。野党が余りにだらしが無いから、与党にこうしたことをやられてしまうのだ。あべ首相を攻める前に、野党はまず、自党の体制の整備に努め、日頃から国民に目指す所、考えを示すべきだ。
 僕は働いていないから余り実感はないが、知人の中小企業経営者と話していたら、
 『今、業績の良くない会社は、何時の時でも、利益の上がらない、ろくな会社じゃない』
 と言っていた。新聞でも、日本経済は堅調だと言っている。企業が利益を従業員に還元せず、内部留保しているから、消費が上がらないらしい。アベノミクスはそれなりに成果を挙げている。
 民進党はもう、解党した方が良いな。解散総選挙は野党にとって、チャンスなのに、全くその気力が見えない。解散という時期が見えて来た段階で、党の公約を決めるなんて怠慢だ。赤面しないで、『政権交代』と言う言葉を発することが出来るのか。
 『アメリカ ファースト』
 と言ったトランプ氏に倣って、『ファースト』が大流行だ。『何でもファースト』と付ければ有権者がなびくと思ったら、大間違いだ。若狭 勝氏、細野豪志氏が
 『考えが一致する部分が多い』
 と言っていた。その『考え』が何であるか、国民に示しているのか。僕にはさっぱり分からん。『希望』という新党を結成したが、何故、小池都知事が代表就任するのか。小池百合子氏には都知事に専念して欲しい。本来なら若狭氏や細野氏が代表をやるべきである。小池氏が代表と言う事は、彼らが代表では力上足で、選挙に戦えないという結論になったに違いない。
 小池都知事だって、豊洲移転問題で『豊洲の無害化』『食の安全』なんて大騒ぎをしていた。結局は『大山鳴動して、ねずみ一匹』。無害化を達成出来ずに、都民に詫びていた。『豊洲と築地の活用』と言ったきり、中身が見えない。都知事の報酬を減額するとか、始めの内は大変な人気だった。騒ぎを起こすだけで、まだ彼女は成果を挙げていない。
 党代表の就任発表してしまったから仕方ないが、都政に集中して貰いたかった。都民ファーストの会だって、新人議員ばかりの素人集団。余計なことを言わないように、ふりんはしないようにと、新人都議の面倒を見るだけで精一杯だろうに。
 内閣府副大臣で自民党を離脱した福田氏、『日本のこころ』代表だった中山 恭子氏、民進党に離党届を出した松原氏、『恥ずかしくないのか』、『みっともない』。自分が『小池氏の人気の虎の衣』を借りて、自分の当選の事しか考えていないようにしか見えない。
 特に『日本のこころ』の中山恭子氏、何かの選挙の時にしか、テレビに登場しない。いつもあべ首相、自民党を批判しているところしか映らない。大層な、大げさな党の呼び方を付けて、一体、彼女が今まで何を主張して来たのか。
 皆さん、新党結成、加入に当たって、決まって
 『考え方が一致して・・・・』
 と言っている。一体どんな考え方をしているのか、誰も『何も考え方』を言わない。単に当選を目指して、小池人気に群がるハエのようにしか見えない。これでは『何も考えて居ない所が、一致している』のかなぁ。見苦しい限りだ。僕は都民でも、政治家でもないから、『床屋政談』で、好き勝手なことが言える。

 

第 1055   小屋                2017.09.22(金)

 NHKテレビ、木曜夜8:15から放送の、『所さん!大変ですよ』という番組をよく見ます。昨夜のテーマは『小屋』に関するものだった。自分の家があるのに、敷地内に小屋を作って居場所を作ったり、土地を買って小屋を建てて一人で過ごす人が居るそうだ。
 夫婦喧嘩をしている訳ではないが、定年退職後、家でずっと配偶者と顔を付き合わせて居ることが何となく気まずいとか、会社で人間関係で悩んでいた人が、自分の小屋を作って一人だけで居る時間を持ちたがって、小屋を作り、そこで暮らす。
 どなたも人間関係のしがらみと言うか、自分の居場所が欲しくての行動らしい。二人以上の人間が居れば、それぞれ考えが違う。夫婦の場合でも、結婚する前後はいつも一緒に居たいと思っていても、何十年か一緒に暮らし、子育てなどの事業が終了し、まして定年後など家に居る時間が増えると、それぞれ一人で居る時間を大切にしたいと思う人達が居て当たり前だ。
 夫婦だけでなく、仕事上でうまく行かなかったり、こう携帯電話などの移動通信手段が行き渡ると、常に連絡し合ったりする。人間関係の煩わしさから逃れて、世俗から離れて一人で暮らしたいと思う人が出て来るのは、当然と言ってよいような気がする。
 私、今、携帯電話を持っていません。時には用事があって、携帯が欲しいと思うことがあります。でも、携帯電話を持っていない方が、ずっと気楽で良いと思うことが多い。大した用事もないのに、いつも携帯電話で繋がっていることの方がずっと煩わしい。
 方丈記の鴨長明、徒然草の吉田兼好も庵を組んで、一人暮らしをしています。だが、彼らは決して世俗から離れて、山奥で暮らして居た訳ではありません。自分が出向こうとすれば、いつでも人々の住む所に行くことが出来る場所で生活していた。
 小屋を作って一人で暮らしている人も、決して世俗から離れて居る訳ではありません。生活費の概略内訳を何人かが、見せていました。ガソリン代や健康保険費用など、計上しておりましたから、『ちょっと離れた所に、自分の居場所を持ちたい』という願望に過ぎません。子供の頃、原っぱの片隅に、有り合わせの材料で秘密基地を作ったり、もっと本格的になれば、大きな木の上に小屋を作ったりするのと変わりありません。
 誰しも人と交わる煩わしさから逃れて、一人になりたいことが有って当然です。条件が揃って居る人が、小屋を作り、一人で暮らす。紹介された例で、自然の中で一人で暮らしていたら、考えに賛同した彼女が出来て幸せ一杯なんて、訳の分からない人も出て来ていた。一人になりたくて小屋に住んでいたのではないのかよ。
 私、仕事を辞める前にちょっと心配したことと一致する。家に居るようになって、一日中、カミさんと顔を突き合わせていて、大丈夫かなと思っていた。特に喧嘩している訳では決してありません。勤めていれば、週5日の昼間は居ません。ずっと家に居るのは、土日だけ。それが、毎日家に居るようになって、ゴロゴロ寝転がって新聞でも読んで居られたら、僕だけでなく、カミさんだって面と向かって言わないけれど、鬱陶しくて、気まずいに違いない。
 我が家には、小屋を建てるスペースはありません。別の所に土地を購入して、小屋を建てる意欲も、気力も、お金もありません。次男が結婚する前に、昨年、家を出たので、3階の部屋が空いています。仕切りをしなければ、丁度パソコン部屋と隣接しています。そこで、昼間は家の中では大抵、パソコン部屋に居ます。夫婦と言えど、適当に距離を置いて、一人で居られることが、熟年夫婦には必要なことだと切に思います。

第 1054   家の中に一人で居る         2017.09.19(火)

 家の中に一人で居る。カミさんは小学校の学校給食の手伝いのパートに出掛けてしまった。パートの仕事は突然入って来る。給食の職員に用事があったり、怪我をして仕事が出来ない時、お手伝いの仕事の助っ人である。昨夜連絡が入って今朝、出勤して行った。
 障害を持つ長男もいつもの作業所に出掛け、我が家には僕一人だけ取り残されてしまう。
 最近、気が滅入っている。仕事を辞めて6ヶ月になる。『45年間働き続けて居たのだから、しばらくのんびり暮らしなさい』と、かつての上司に言われた。僕自身も、これからは仕事に出ないで済むことが嬉しかった。6ヶ月そうして来たが、もういい加減飽きた。家に居て、昼間からゴロゴロ寝転がり、テレビを見て、『飯、風呂、寝る』なんてことは、断じてない。朝も早く起きる。
 『人には誰しも、どんな人にも役割がある。それぞれの役割を果たすことに、生きる価値がある』 自分は何の役割を果たしているのだろうか。働いていた時はほとんどやって来なかった、食後の食器の洗い物、風呂の掃除、草花の鉢への水遣り、時々、小学生の帰宅時間に合わせて町内の防犯パトロール、そんなところか。
 自分自身では、HPの更新、本を読む、英会話のCDを聴く、英語の復習、月に2回パソコン教室に行くこと、月に一度、前の職場にISO14001に関する指導と言うか勉強に行っているくらいか。
 体力が落ちてしまうといけないので、散歩、簡単な筋トレ、体幹トレーニングは日課にしている。いつでも、スタンバイOKの状態にしている積もりなのだ。カミさんと電車に乗って何処かに出掛けると、持病の心筋症のせいか、帰ってくると酷く疲れた自分を見付ける。体力が明らかに落ちているのだ。やはり、毎日通勤していた、実務とは厳しさが違うのだ。とても、世間見をしながらの散歩や、筋トレでは補えないのだ。
 僕には、自分自身で『社会で役割を演じる用意がある』と内心では思っている。なのに、実際には家でブラブラしている。『俺はまだまだ、こんなもんじゃないという』自負があるに違いない。68歳の高齢者を雇って呉れる所はないであろう。それが、気の滅入る原因であろう。
 ただ、ボランティアはやる心境にならない。働く以上は幾ばくでも報酬を得たい。多分、最低賃金と言うのがあって、雇う方も雇うとなれば、最低賃金法が関係し、68歳を雇う気になれないのだと思う。
 でも、気晴らしでやることを探さねばとなると、考え方を変えて、ボランティアも考えなければいけないのかも知れない。
 

第 1053   時期                2017.09.16(土)

 朝起きて、玄関先に出て驚いた。我が家にはアサガオの鉢が2つある。どちらもたくさん花を付けているのだ。普段はそれぞれ一鉢に2~3個しか咲いていないのに、今朝に限っては一方に14、もう一つの鉢に11個の花が咲いている。
 7月の初めの咲き始めた頃に比べれば、もはや、最盛期を過ぎ、肥料切れもあってか、花も大分小さくなっている。葉も黄色く変色してしまった所もある。花を咲かせ、タネを作ろうとするのは、子孫を残そうとする本能である。こちらは素人だから自家製のタネを取っても、来年うまく花が咲かない。来年はプロが作ったタネをまた買って、タネを蒔けば良いと思って、花が咲き終わると摘んでしまっていた。咲き終わった花を摘んでしまうのは、長い期間花を咲き続かす鉄則なのだ。
 日もだんだん短くなってきた。早く日が暮れるように成って来たのを、アサガオも察知しているのである。アサガオにとっては、子孫を残すためのタネがまだ出来ていない。必死でつぼみを作り、花を咲かせているのだと思う。なにやら、申し訳ない気がする。アサガオも健気だな。
 散歩がてら、世間見で商店街を歩くと、かなり以前から、10月末のハロウィン用のカボチャに関する商品をたくさん見掛ける。まだ、一月半もあるのにと思う。ハロウィンに関する商品を扱う商店では、他店に遅れてはならじと、競ってカボチャ関連のオモチャを早々展示する。
 カボチャどころか、もう来年のカレンダーを店先に吊るして、販売している店が幾つもある。本屋に行けば、来年の手帳を店の一番、目の付き易い平場にたくさん置いて売り出している。消費者を煽っているのか、急かされてもう手帳を買う人が居るからこそのことであろう。僕は毎年、本屋で手帳を購入する。クリスマス後に行くと、既に手帳のコーナーは店の片隅に移動されている上、思っているような品物は、売り切れてしまっていてもうない。
 いつも感心するのは、変わり身の早さだ。12月25日まではクリスマス商戦ばかりで、あちこちに赤色のサンタの衣装や、装飾が見え、電飾やツリーが飾られている。クリスマスが終わるやいなや、一夜の内にクリスマス関連の装飾は全て取り払われ、26日には『謹賀新年』の看板と共に、年末年始商戦モードに一変することだ。
 『暑さ寒さも彼岸まで』と言う。天気の良い日には、まだ日差しが強く、30℃を越える真夏日もある。ハロウィンに関する物はともかく、来年のカレンダーや手帳は早過ぎないかなぁ。『先んずれば、人を制す』と言う事なのか。
 ちなみに、自分の場合も子供の頃から、気が早いタイプであると思っている。小学生の頃から夏休みの宿題は、7月中に終えていた。大人になっても、ずっとその性分は変わらない。同僚や部下の人が中々その仕事に手をつけないのを見て、紊期前なのにイライラすることも多かった。
 だが、実際には『慌てる乞食は貰いが少ない』のことわざの如く、上要だと思って捨ててしまった物が、後になって、周囲の状況が変化してしまい、また必要になり困ってしまった事の何と多いことか。『覆水盆に返らず』である。
 お彼岸にはまた墓参りに行くが、もう本格的な秋も近い。落葉の季節はまだ先だが、散歩する桜並木の片隅には、僕のように気の早い、桜の黄色い落ち葉をたくさん見掛ける。ちなみに、晩秋に落ちる桜の葉はもっと赤味掛かっている。
 気が付いている人も多いと思う。温暖化の影響で、並木道で年を越えても落葉しない銀杏を多く見掛ける。台風が強大化したり、大雨が降るのも地球温暖化が原因だが、並木の銀杏の落葉が遅れるのも温暖化が原因のようだ。
 これは個人の問題でもあり、温暖化とは無縁のようだが、日本人の晩婚化も、少子化に大いに関連する。非正規雇用で給料が低く結婚できなかったり、保育施設が完備していなかったりする社会の問題も影響するようだけれど、適切な範囲の時期に結婚しないと、少子化は避けられない。やはり、時期は関係するのだ。セクハラで、書き過ぎかな。

第 1052   外食                2017.09.10(日)

 昨夜、カミさんと二人だけで外食した。結婚して42年になるが、新婚旅行以来、二人だけで外で夕食を取るのは初めてではないかな。2階の大きなガラス窓際の席だった。Tシャツに半ズボンという格好だから、残念ながら、光度を落とした間接照明の、白いテーブルクロスで、ワイングラスを傾けながらと言う訳では断じてない。
 僕の性分としたら、白いテーブルクロスのレストランは、何かお尻の方がくすぐったくなりダメだ。敷居が高いというか、場違い、分上相応と言うものである。まして、ボーイさんに
 『ワインはいかがいたしましょう?』と問われて、
 『ワインリストを見せて下さい』
 など、うろたえて言える筈もない。ワインの銘柄一つ知らない。これはワインなのかどうか知らないが、『赤玉ホートワイン』という、スーパーの酒売り場で売っている、500円くらいの物しか知らない。
 念のために書いておきます。定年過ぎてから、昼飯は二人だけで、外食したことは、何度もあります。子供は3人授かりました。家族で外食して夕食を、と言うのも何度かあります。何年間かは一つ屋根の下で、大人ばかりが7人で暮らしたこともありました。
 同居していた両親が他界し、3人の子供の内、2人は結婚して外に出ました。今は、障害を持つ長男と、僕ら夫婦の3人家族。近未来、僕ら夫婦に何かあった場合、長男は何処かの福祉施設にでも入ることになるでしょう。その時に備えての練習のため、昨日は施設の短期入所に出しました。
 自宅で夫婦二人だけの夕食と言うのも寂しい。外食にしました。僕が注文したのは『サバの炭火焼き定食』、カミさんは『鳥のから揚げと野菜を混ぜて餡かけにした物』をたのみました。メニューを見ると、350ml缶のノンアルコールビールが有ります。これを1つ注文して、グラス2つを頼み、分けて呑んだ。ノンアルコールビールの瓶入りは良く見掛けます。飲食店で缶入りそのままが出て来たのは初めての経験です。
 中年以降の男女が二人で食事をしたり、旅行したりする時、店や旅館の人は、この二人が夫婦であるか、それとも仕事や単なる知り合い、ふりん関係であるかは、すぐに判るそうです。永年連れ添った夫婦は圧倒的に会話が少ないのだそうです。僕らもそうであったかも知れません。僕も、外の風景を見ながら、言い古された言葉ですが、走馬灯のように色々なことを思い出していました。
 初めての子は水子と成ってしまった。リストラに遭い、転職、引越し、中古住宅を買い、建て替え、2回の住宅ローンの支払い、単身赴任、両親兄弟の他界、子供の結婚、孫が産まれたり、色々なことが有った。一番良かったなと思うのが、3人の子供の非行で悩むことが無かった事かな。
 政府は2%のインフレ状態を目指し、経済の活性化を図っております。だが中々デフレ状態を脱却出来ずにいます。アベノミクスの効果も有ってか、多くの企業は今、好調の状態にあります。この好調な状況下で、人件費に回してと言っていますが、企業は中々人件費に回さず、内部留保しております。
 今、企業の価格戦略は二極化していると言います。消費者は節約志向にあり、何処で買っても同じ商品は1円でも安い方が良い。スーパーなど小売業界では、消費者の節約志向に対応して、値下げが広がっています。
 一方、居酒屋、外食産業は、天候上順による野菜など、食材の仕入れ値が上がり、酒の安売り規制や、アルバイトを確保するための人件費のUPで値上がり傾向にある。
 昨夜行った食堂は、良く見かけるチェーン店で、店の方では和風レストランと思っているかどうか知りません。例えば『サバの炭火焼き定食』が、税抜き¥786と下一桁まで表示されている。何となく、価格がシビアに設定してあると、客に印象付ける効果を狙ってのことか。
 昨夜のように、夫婦二人、外で夕食を取るのも、最後になってしまうかも知れない。まだまだ、僕らの人生には色々なことがあるだろう。何とか乗り越えなければ成らないのだ。今夜は、末っ子夫婦が夕食に来る。やはり、たまには食卓は賑やかな方が良いな。

 

第 1051   レッドライン            2017.09.08(金

 民進党の若手ホープで、一時は幹事長に内定との新聞報道されていた、山尾 志桜里氏が、週刊文春のふりん報道を受け、民進党に離党届を出したとの報道があった。
 国会内で記者の取材を受け、山尾 志桜里氏は自身の政策ブレーンである弁護士さんとの『男女関係はない』と否定した。
 日本人はどうしてこうも『男女関係』に関する話題が好きなのであろうか。話題になるから、こうして週刊誌も取り上げる。読者の興味がなければ、週刊誌も記事として取り上げない。
 日本人は自分が実行出来ないから、やっかみで半分で、知めい人の『男女関係』が話題となる。商店街の八百屋のオヤジに愛人が居たとて、週刊誌のネタにはならない。芸能人や政治家の行動がその餌食となる。
*政治家には必ず政策グレーンが必要である。どうしても法律関連のアドバイザーが必要だ。
*いつも打ち合わせを、3人以上でするとは限るまい。打ち合わせ場所がホテルと言う事もあるだろう。
*実際に、『男女の関係』だったとしても、ふりんとなって何故悪い? 家族には関係有るけど、個人の問題である。大人の責任を意識して行った事であろう。
*大人の責任だから、返って始末が悪いという事もあるだろうけど。
*誰かを好きになってしまうのは仕方がない。他人がどうこう言う性質のものではない。
*配偶者が居て、ふりんとなれば、配偶者に対する断固たる裏切り行為である。配偶者との関連を、大人として、謝罪する、償う、精算などしなければならない。これは大人の責任である。責任は取らなければならない。精算の仕方はそれぞれ異なる。
*たとえ、『男女の関係』だからと言って、仕事上(今回の場合政治活動)差し障りがあったのか。選挙で選ばれた人は政治活動をきちんと実行していれば、良いじゃないか。個人的問題だ。
*芸能人の営業政策上、またはその人の清純派のイメージを悪くするとか、クリーンな政党や会社のイメージを搊なうと言うなら、芸能人を辞めるとか、政党や会社を辞めればよい。山尾 志桜里氏の場合には、民進党を離党する。山尾 志桜里氏を倫理的に清潔な人だと思って、一票を投じた有権者には、もし、事実なら心から謝罪をするべきかな。
*ふりんをしたような人を忌避するような倫理感を持つ有権者は、二度とそのような候補者に投票しなければ良い。
 大雑把に言えば、僕の考えはこのようなものだ。自分自身で考えても、『自分の考えに経時変化がある』と思っている。これは僕だけでなく、世の中の考え方もどんどん変わっている。
 一夫多妻の国もあるし、二号さんを持つことが容認されていた時代もある。長年の夫婦生活の中で、どちらかが、配偶者以外の人を好きに成ってってしまった事があると言うのは、ごく自然なことなのではないのかな。頭の中で好きになったことがないということ事態、稀なのでは。
 この駄文を読んで下さる方は、男女とも青少年の時期を思い浮かべて下されば良い。日ごと、お相手(オカズ)を替え、頭にイメージを浮かべて自慰をなさっていた筈。こういう時期や経験を経ずに成人となると、うまく結婚生活が営めないと、大昔読んだ、奈良林ドクターの本に書いてあった。
 ただ、僕を含め、大多数の人は、ふりん願望は有っても、大人の責任を取れないから、実行に移さないのではないのかなぁ。
 山尾 志桜里氏の『男女関係』の事実は、個人の話だからどうでも良い。日本人の皆が願望は持つものの、実行できないから、また自分が主人公になれないから、他人のふりんが週刊誌のネタになるのだ。
 以前、『一線を越えていない』なんというバカな表現もあった。『一線』って何なのだ。挿入しなければ、射精しなければ、愛撫だけはOKなのかなんていうのも、くだらない話だ。
 レッドラインも変わってきた。北朝鮮が『核実験を実施したら』、『グアム周辺にミサイルを着弾させたら』など言われてきた。戦争回避に向け、レッドラインも少しずつ変化しているような気がする。最近では、北朝鮮の核保有容認論も出てきた。レッドラインと言う言葉も、段々聞こえて来なく成ってきた。
 原稿を作っている段階では正しく表示されても、WEB上で『文字化け』してしまう文字が、経験上いくつか判っている。そういう文字は違う表現に代えたり、ひらがなにしている。しばしば忘れて、文字化けのまま表示されてしまうことは、たびたび起こっている。何とか成らないものか。こちらも書きにくい。それなりに想像して読んで下さい。文字化けは実に面倒なのだ。

第 1050   ひねくれ者              2017.09.01(金)

 まだ通勤のために職場に急ぐ人たちがたくさん乗車する時間帯に、私とカミさんはのん気に電車に乗って映画を見に行った。見た映画は最近盛んにCMをやっている『関が原』だ。映画を見て、これで見ている人が理解できるのか、疑問を持った。
 秀吉が亡くなってほぼ、2年後に関が原の戦いは起こった。映画を見ただけでは、背景がちっとも分からないだろう。本か何かで歴史的背景が分かっていないと、理解できないのではないか。ちょっと残念。
 この所、映画を良く見る。8/30に『なぜ生きる』*蓮如上人と吉崎炎上ー という、浄土真宗を起こした 親鸞の後の人で、親鸞の教えを広める蓮如上人の話だった。上映前に頂いたパンフレットに
『とても感動した』
『何回もこの映画を見たい』
『知人にも勧めたい』
 など、感想が書かれていた。どうも、安易に感動する人たちだ。まるで、新聞広告に出て来るサプリメントを飲んでいる人々の体験談、コマーシャルメッセージのようだ。
 ちょっと違うだろうと思う。蓮如上人が貧しい民衆を集めて講話をされている場面が、何回も出てきた。いずれもお寺の本堂のような場所だった。蓮如上人は『何をやったから』民衆を引き付けて来たのか。民衆をなっとくさせ、引き付けるどんなことを言ったのか、ちっとも映画では実感が分からない。言葉だけで実行がないからだ。
 蓮如上人は寺の本堂などで、綺麗ごとの講話をして来た人ではないと私は思っている。野に出て、食うや食わずで、野宿をしながら、全国を回り、『踊り念仏』を広めて来た方だと思っている。そんな場面が映画にはちっとも出てこない。ただひたすらに念仏を唱えなさいと、野に出て、民衆に説いて回っている場面もない。蓮如上人は綺麗ごとでなく、もっともっと泥臭く生きて、布教活動をし、貧しい民衆を引き付けて来た方だったと理解している。
 信長から、秀吉、家康くらいまでの歴史小説や、関連する本はたくさんある。蓮如上人関連の本も読んだことがある。1時間半くらいの映画では、とてもとても表しきれないのだ。安直に映画を見ただけでは理解できない。やはり、じっくり本を読まなければ無理だな。

 帰りの電車内のCM掲示で、秋吉台、秋吉鍾乳洞の写真があり、『3億5000万年掛けて作られた芸術作品』と書かれていた。最近やたら、何でもかんでも『芸術』と言う言葉が使われる。
 『芸術って何だろう?』
 『秋吉の鍾乳洞も芸術なのだろうか』
 ちなみに、岩波 国語辞典で調べたら、『文芸、絵画、彫刻、音楽、演劇など、独特の表現様式によって、美を創作・表現する活動。またその作品』
 と書いてあった。
 秋吉台に行ったことがあるだろうか。台地のような所に石灰岩の塊がゴロゴロ転がっている。何故、こんな所に石灰岩が密集してあるのだろうか。これらの石灰岩はサンゴである。そこは元は海の中だった。3億5000万年前、地殻変動が起こり、隆起して秋吉台が出来、サンゴが石灰岩となった。雨水によって石灰岩が侵食して、何億年と言う長い年月を経て、地下に鍾乳洞が出来た。
 8/24に落語家の『林家たい平』の落語会へ行って来た。ここでも『芸術鑑賞会』と書いた幟が出ていた。真打となるような方の噺は、長い年月修行してきた演芸であり、話芸であることは認めます。何百人もの聴衆を前にして、扇子と手ぬぐいだけを小道具に、聴衆を引き付けるのには並大抵の苦労や努力では出来ません。
 『寄席に落語を聴きに行く』
 なんて言うのは、ウソであると私は思っている。落語好きの私は、年に数回、寄席に行く。演者が入れ替わり、立ち代り出て来る寄席では、一人当たりの持ち時間は、せいぜい15分である。前座さんは前座噺と言って、入門して習う噺をする。それこそ落語らしい。真打の方が話す落語は15分では時間が足りない。よって、寄席に行って、本格的な噺を期待するのは無理がある。
   今回はホール落語会である。たい平さんは持ち時間40分の内、25分は笑点やら、小学校に噺に行った時のエピソード他の、どうでも良い噺をして誤魔化したと思っている。これは漫談である。落語らしい噺をしたのは、最後の15分だけだけだった。折角持ち時間40分あるのに、本格的な落語を聴けなかった。落語好きな僕には、全くの手抜きとしか思えない。これが芸術なのかい。
 僕たちが子供の頃、家を建てる大工さんが、カンナで木材を削っていました。まるで向こう側が透けて見えるように、薄く削ったカンナ屑に感心していました。職人技というものなのでしょう。大変熟練を要します。皆さんはこれを芸術と呼びますか。
 今の大工さんはもうすっかり様変わりしてしまいました。工場で予め加工して来た物をプラモデルのように組み立てるだけ。効率を考えれば、職人技なんか無くなってしまった。
 秋吉台、秋吉鍾乳洞は自然が起こした偶然の自然の造形美であります。先日の林家たい平氏の落語会は手抜きの演芸会であった。皆、何でもかんでも、安易に『芸術』と言いすぎるのではないかなぁ。

 

第 1049   つまらぬ人生             2017.08.26(月)

 TVのCMを見ていた。確か保険のCMだったと思う。『人生、夢だらけ』というキャッチコピーに妙に触発されてしまった。この歳になって、CMの綺麗ごとの言葉に影響されることもないのだが、自分の人生を考える、何か切っ掛けになっているのか。
 学校に行き、就職して仕事をし、結婚、子育て、家を買い、定年になり、現在、年金暮らしの、無職の老後を送っている。警察に捕まって、留置された経験なし。履歴書に書くいわゆる賞罰なしというやつだ。
 これだけまあ、無難に過ごしてくれば、人生として十分ではないかとおっしゃる方はもちろんいらっしゃる。
 僕が生きてきた証と言うのは、何であったのだろう。現役時代はずっと製造業に従事してきた。製造業でも営業、経理、総務などの背広を着て仕事する部門の経験はなく、ずっと物作りに直結した仕事ばかりだった。
 僕が携わって来たもので、世の中に形に成って残っている物は、地下鉄仙石駅前の共同構の立体交差工事の設計がある。この設計は仕様書に基づき、自分一人でやった。随分大きな物だったが、工事完了後は地中に埋められて見ることが出来ない。
 見ることの出来る物では、成田空港国際線の電光掲示板くらい。今度、海外旅行にでも行く機会が有ったら、第2ターミナルにある、幅24mの掲示板の外観部分の筐体製作に、僕が関わったと思って見て下さい。もちろん、チームでやったことで、僕も製作に加わったというだけに過ぎません。
 その他では、僕が製作に関わった製品は、一般の人が目にすることはほとんどありません。そう、仕事の面で僕が主体として、作った物は全くないと言っても過言ではない。
 タレントさんに『爆笑問題』という漫才コンビの人たちがいます。太田 光さんと、田中 裕二さんです。ボケ役の太田さんは普段ふざけて、惚けたことばかり言っていますが、独自の考え、才能、見識を持っていらっしゃる。一方、田中 裕二さんはごくありふれた、平均的日本人のように見えます。彼が意識して演じているなら別として、僕の考えでは、正に何処にでも居る平均的日本人タイプであると思っている。僕も面白くも、可笑しくもない、ごくごく有り触れた考え方の人間なのです。
 古希と言う言葉がある。先日、手帳の後ろの方の『長寿の祝い』と言う欄を見ていたら、満年齢で祝うのは60歳の『還暦』のみ。それ以外の長寿の祝い事、古希、喜寿、傘寿、米寿、卒寿、白寿、百賀は皆、数え年で祝うものであることを知った。
 今、僕は68歳。来年の誕生日には、『この歳まで生きる人は、古来稀れ』の古希なのだ。
 世に何らかの業績や作品を残していらっしゃる方はたくさん居る。僕が産まれてこれまで一体何をして、何を残して死んで行くのだろう。仕事の上で残した業績は、これと言って何もない。考え方もごく平均的な日本人。賞罰なし。  恐らく、大部分の方は僕と同じように、当たり前の、平凡な人生を過ごして、生涯を終えているのであろう。むしろ、個人の業績や作品を残したり、歴史になまえを刻む人の方がずっと稀なのである。
 ただ。そんな自分の人生が何か『つまらないもの』という気がしてならない。
 今、料理酒などの特殊なアルコールを除いて、体の都合で、日常、全く酒を呑まなくなった。もう3年くらい経つ。タバコが体に良くないことは知っている。酒も呑まず、タバコも吸わずの人生で長生きして何になる。つまらぬ人生である。
 多くの人がそうだからと言って、何も疑問も持たずに、日々暮らして行くのは、自分としては嫌だ。『平凡に暮らすのが一番』と思う反面、『何かしなければ』という思いも湧き出てくる。今更考えても無駄なことが頭に浮かんで来るのは、多分、暇すぎる日々が続くせいだと思うのだが。

第 1048   のんびり暮らす            2017.08.26(土)

 ある時、青年が、事業に成功した方に、人生の成功の極意を訊ねたと言う。成功した方が答えて曰く、
 『成功の極意は二つ有る。コツコツ』
 であると言ったそうな。
 米国の宝くじの抽選で、病院職員のオバサンが829億円を射止めたとの記事が、新聞に出ていた。記者会見では『これからはのんびり暮らすわ』と笑顔を見せたという。32年間勤めた病院に電話をし、退職を申し出た。一括受け取りを希望したため、賞金額は減額された。それでもオバサンが手にする金額は、税引き後で約367億円に上るという。
 さて、オバサン、のんびり暮らせるのかなぁ。記者会見したから、全米どころか、世界中に知れ渡ってしまった。まず、寄付を求める人々が殺到するに違いない。いままで全く付き合いのなかった親戚と称する人たちが集まり始め、金を無心する。金を求めるあらゆる人が集まり始める。
 病院でコツコツ働いて得た金ではない。周囲の人たちは、やっかみ半分で白眼視し、今まで友達だった人の中には、逆に彼女から離れていく人も出て来る。泥棒に入られることも、命を狙われる心配もしなければならない。
 ガードマン会社に依頼して、周囲を警護して貰わねばならない。信頼すべきガードマンも人間である。いつ強盗に変身しないとも限らない。いつも猜疑心を持って、暮らさなくならねば良いのだが。
 オバサン、果たしてこれで、のんびり暮らせますかどうかな。日本の宝くじでも、高額賞金獲得者の情報は機密になっている筈が、何処からか必ず情報は漏れてしまうそうだ。
 とは言え、『コツコツだけが人生か』と思っていらっしゃる、『働かずに大穴狙い』を座右の銘としている方はたくさん居る。
 私、無職になって知ったのだが、平日の朝なのに、駅近くのパチンコ屋の開店前のドアの前に行列が出来ている。もちろん、土日に働いて、平日が休日の人が居るのは、承知している。なおかつ、並んでいる人は、既に仕事をリタイアしたような高齢者ではない、若い人たちがたくさん居るのには驚くばかりだ。
 取り立てて言うほどではないが、私はどちらかと言えば、現役で働いていた頃から、コツコツタイプの人間で有ると思っている。宝くじはほんの数回買ったことがあるだけ。競馬、競輪などの公営ギャンブルはやったことがない。パチンコも40年くらいやっていない。制度を考えるとバカバカしくてやる気がしない。
 日本の宝くじは、売上総額の52%が賞金に還元されない。例えば、販売総額100億円規模の宝くじがあったとする。販売予定の全てを一人で100億円で買い占めたとする。当たり籤はすべて自分のものだが、48億円にしか戻ってこない。52億円は寺銭として持っていかれてしまう。
 公営ギャンブルは、25%の金額が天引きだ。総合すれば儲かる訳ないのだ。競馬で大穴を当て、儲かったという話を時たま聞く。それ以上の額を注ぎ込んでいる話は、ほとんど聞いた事がない。どの馬の組み合わせが勝つか、研究に研究を重ね、推測するのが楽しみだと言う方がいらっしゃる。それなら、それで結構です。でも、私には負け惜しみ、犬の遠吠えとしか思えない。
 パチンコで大勝したと言う話も聞く。パチンコ店が経営を維持していくのには、必ず経費が掛かり、利益も確保したい。玉を出し渋れば、客は遠ざかってしまう。ふんだんに出せば、店は倒産してしまう。つまり『客は生かさず、殺さず』しかも、利益は上げなければという丁度良い按配のところで扱われていることが明白だ。まるで、封建時代、年貢を取り立てられる農民のようだから、やる気が起こらない。
 米国の宝くじ当選のオバサンが、のんびり暮らせることが出来ることを望むが、そんなにお金を得て、どうするのであろう。お金は使うものである。僕だって、強いて上げれば、デジタル一眼レフは欲しいし、軽快な自転車も有ったら良いなと思う。でも、一方では終活もしなければならない。物は増やしたくない。要らない物は捨てたり、娘や息子にやってしまっている。
 取り立てて、本当に無くて困る物も特にない。贅沢しなければ、お金は普通に暮らせるだけ有れば良い。米国の宝くじのオバサンはそのうち、籤に当たったことを後悔するのではないかな。何もやらずに居ることは、ある面で言えば、退屈で苦痛だ。籤に当たらず、病院で働き続けた方が彼女にとって、余計な心配もせず、幸せな生活を送れるかもしれない。何か、イソップ物語風になってしまった。

 

第 1047   中国の影響           2017.08.24(木)

 今日の朝刊に中国で秋に行われる、共産党大会の指導部7人の人事が掲載されていた。本来なら、党大会で発表されるべきものが、何処からかもう事前に漏れてしまっている。それによれば、習近平に近い人が3人含まれて居て、習体制が一層強まるとの予想であるとのこと。
 今、新車の販売台数は中国が一番であるという記事も載っていた。中国の人口は14億人にはまだ届いていないが、14億人に近い。人口が多いと言う事は大変な力となる。それに一党独裁の国だから、『右を向け』と言われれば、国民は右を向かなければならない。
 また、中国の大気環境の悪さに鑑み、中国で販売するエコカーの比率を段々増やしていく記事もあった。年度のエコカー販売比率を満たせない企業には、ペナルティーを課すとのこと。
 中国の指すエコカーとは、電気自動車EV車と、家庭用電源で充電出来るプラグインハイブリッド車PHV車を示す。残念ながら、トヨタの最も得意とする分野である、プリウスなどのHV車は含まれていない。
 かつて、トヨタは『世界のトヨタ』と呼ばれ、世界の販売数第一を誇る車の生産会社であった。先に発表のあった販売台数の統計では、ルノーと提携した日産のグループが1位であり、トヨタは3位に落ちていた。
 日産はずっと以前から、電気自動車EV車に取り組んで来た会社として知られている。一方、トヨタはHV車を、世の中に一層増やすべき車として取り組んで来た。事実、日本国内の販売台数でもプリウスはずっと一位を占めてきていた。
 ここで、中国が自国で販売するエコカーの比率を、年度毎に段々と増やして行く発表をするとなれば、中国の人口が多いことと、習体制が一層強固になることを考えれば、日産自動車にとっては大いなる追い風となる。トヨタにとっては大変な向かい風だ。
 蛇足だが、多摩川土手のサイクリングロードを、自転車で走っていて、背に風を受ければスイスイ進み、向かい風だとペダルをこいでも遅々として進まない。トヨタにとっては生産体制を整えるまで大変な苦境となることは間違いあるまい。
 何もデータもなく、根拠のない私見である。テレビを見ていて、トヨタ自動車のCMは余り見ない。日産自動車の宣伝は良く見かける。テレビに高い広告宣伝費を投入しなくても、車がたくさん売れるのならば、広告宣伝する必要はない。今まで、トヨタはそうして来たのではないか。これからはトヨタのCMが増えるかも。全くの私見である。
 サウジアラビアという国がある。王族の国家である。王族は何万人も居るのだと言う。サウジの国民は公務員などに就いていて、いわゆる汚れ仕事、労働仕事は他国からの移民の人にやらせてきた。原油輸出の他に、さしたる産業があると思い付かない。(私の頭の中だけです)
 物の価格は需要と供給で決まる。環境を考えて、世の中、アメリカのシェールガス、シェールオイルが出て来て、原油を使う需要が減ってきたら、サウジの国も段々とジリ貧になって来るのではないのかなあ。天然資源だけに頼る国も先細りか。まるで方丈記のようだ。

  

第 1046   妄想           2017.08.23(水)

 今日は暑くなりそうだ。天気予報でも最高気温が35℃になるだろうと言っている。東京で雨の続いた日の記録が、22日で途切れたそうだ。私は川崎に住んでいる。東京は多摩川を挟んだ向かい側だから、さして変わりはない。
 ただ、東京の雨が降り続いたと言っても、実際に降り続いていたのは、山間部に近い奥多摩の方であったのだろう。特別区の23区では、曇りだったのだと思う。天候に恵まれず野菜が高騰している。晴れて暑くなることも仕方がない。
 いつも、3階のバルコニーに出てタバコを吸っている。バルコニーに置いてあるサンダルは熱くて履けない。道を挟んで向かい側では、かつて借用していた畑の部分に、畑の大家さんが今、家を建設中だ。ガテン系の大工さんが仕事をしているのが見える。本当に暑そうだが大変な仕事だ。
 メタボの脂肪で膨らんだ腹を解消しようとして、腹筋運動などの筋トレ、体幹トレーニング、散歩に加えて、7月終わりから、多摩川土手のサイクリングロードを走行することを始めた。自転車では一回約15km、1時間半走る。もう、通算すれば100kmは走っている。箱根駅伝の片道は100kmちょっとだから、もう通算すれば結構な距離になる。
 自転車は実用車だし、下駄を履き、心臓に負担が掛からないようにして走っているから、そんなに早くは走れない。街中ではそれほどでもない風が、多摩川土手では風をもろに受ける。向かい風はキツイ。
 今日は暑くて走れそうにない。無理して走れば
、  『炎天下、多摩川土手を走行中の老人、熱中症で死』
 なんて、新聞記事でも出て、この暑い中、わざわざ自転車なんか走らせて、バカだねと言われるのが関の山だ。今日は止めておこう。
 三日坊主と言う言葉がある。メタボを解消しようと、腹筋運動を始めたのは昨年の9月中旬だ。男は外でいつ女性の前で、裸にならないとも限らない。男はたいがい女性のオッパイが好きだ、同じように、女性は男の筋肉美を期待する。ボヨンボヨンの腹を見たのでは、100年の恋も醒めると言うもの。動機はふじゅんだが、くっきりと割れた、引き締まった腹筋復元が目標であった。
 あと1ヶ月ほどで、腹筋運動も1年になる。夏場は扇風機を『強』にして向け、腹筋運動を続けた。腹筋そのものは確かに鍛えられたと思う。腹筋に力を入れ、指で押せば確かに固い。だた、見かけ上まずいのは、腹筋に覆いかぶさる脂肪の層の厚さだ。これが、ほとんど解消出来ていない。内部は固くても、外部はまだブヨブヨのままだ。少しは改善したけど
 若い頃はいくら食べても太らなかった。それは、代謝が活発だからだ。同じ量の食物を食べても、歳を取ると代謝が鈊くなり、少しずつ脂肪として蓄積されてしまう。永年に渡って蓄積された脂肪は、ちょっとやそっとのことではなくならない。
 本当は、ランニングでもすれば良いのだが、心筋症と言う持病を持つ私にはそれが出来ない。せめて、多摩川土手を無理しないようなペースで、自転車のペダルをこぐくらいしか手がない。まだ、暫く時間が必要である。幸いにして今のところ、女性の前で裸になり、引き締まった筋肉美を披瀝するチャンスは皆無である。妙齢の女性の皆さん、暫くお待ち下さい。いい歳をして、妄想だけは続く。

第 1045  生き生きと年を取りたい            2017.08.21(月)

 初めてギックリ腰になったのは28歳の時だ。パレットに載せた何百kgかある鉄板を、パレットごと人力でずらそうとした。余りの痛さに眩暈を起こし、立って居られないほどであった。それ以来、50歳くらいになるまで、ほとんど毎年と言って良いほどギックリ腰になった。癖になったのであろう。
 酷い時には、手すりを掴んで一歩も動けず、上半身を少しでも動かすと激痛が走った。駅の階段を手すりに摑まりながら登り、何とか家まで帰ったこともある。家の中でも、ハイハイしながら、トイレに行き、寝返りも出来なかった。
 整形外科、整体、マッサージなどなど色々な医療機関に通った。もう、ギックリ腰の大ベテランである。ギックリ腰は運動ふそくを要因として起こる。必ずしも重たい物を持たなくとも起きる。
 その後は、背筋と腹筋を鍛えて、ここ10数年はギックリ腰とは遠ざかっていた。もちろん、今でも長い時間同じ姿勢を取っていて、腰が痛くなることは日常茶飯事である。でも、それはサロンパスでも貼って、一晩寝れば直ってしまう。
 会社に勤めて居た時、安全衛生委員会の座長を勤めていた。朝礼で、従業員の皆さんの前で、物を持ち上げる時は、こういう持ち方をしなさいという指導的立場でもあった。
 8月5日、大き目の椊木鉢を持ち上げようとして、軽くギクッと来た。かつて、物の持ち上げ方の指導的立場にあった者が、10数年ギックリ腰と縁がなくて、忘れてしまい、いけない持ち方をしてしまったのだ。月遅れのお盆に孫が来たが、抱き上げるのにも違和感があった。ギクッと来てから2週間以上も経つが、まだ本調子とはいかない。歳を取ったので回復も遅々として進まないのであろう。
 とかく年を重ねることは暗く惨めなものである。高齢者とも成れば、必ず体のどこかに何らかの障害や違和感を持つ人がほとんどだ。高齢者は弱者と見られがちである。
 でも、本当はとんでもないことで、年を重ねた世代だからこそ、自分らしさが発揮できると考えなければいけないのではないか。自由に何の束縛もなく、小さなことに捕らわれない。失敗も気にしない自由さである。
 生きる意義をよく理解し、自らの人生を誇らしく率直に、正直に生きていける年代であるという事を忘れてはいけない。年を重ねることは希望に満ちた冒険が出来ると思うべきだ。(それほどでもないか。?)
 ただ、そうは言っても、『自立と蓄え』は必要だ。単にお金の話ではない。自立には『精神、経済、生活』があろう。蓄えには、『健康、友人、趣味、知識、知恵、少々のお金』が必要となると思う。
 メンテナンスと言う言葉がある。『maintenance』は修理と言う意味に勘違いされている方がたくさん居る。メンテナンスは『現状を維持する』と言う意味だ。歳を取れば、体は固くなるし、思ったように動けない。頭の方でも、物はすぐ忘れる、中々覚えられないのは、年配者のどなたにも有ることです。
 現状を維持するために、走るのは無理でも、ウォーキングを欠かさないとか、軽い筋トレをする。たっぷり有る時間を利用して、新聞をよく読む、読書、英会話を勉強してみる、趣味のことをするなどが必要なのだと思います。
 若い人はメンテナンスのために、『意識して』特別なことをしないでも済むかもしれません。年配者は『意識して』モチベーションを上げる努力をしなければいけないのです。若い人には柔軟な頭と、体力がある。残念ながら、年配者にはそれらが欠ける。だが、若い人に比べれば、十分な時間的余裕がある。
 ゴロゴロ寝転がって、新聞を読み、テレビを見て、飯を食うて、寝るだけの生活では、太るだけで、生き生きとした生活とは言えないのではないか。
 日の差す縁側でお茶を飲みながら、庭を見たり、お喋りをしていたのは昔の話。年配者にはモタモタ無益な時間を過ごしている暇はないのだ。自分の好きなことをやれ。

 

第 1044  人間の性(さが)               2017.08.16(水)

 新聞の社会面を見ていると、時々、殺人事件を起こして逮捕された被疑者の記事が出ています。ナイフや包丁で刺したり、棒やバットで殴り殺したとのことです。犯行は認めたのに、
 『殺すつもりはなかった』
 という供述をしている場合が非常に多い。ナイフや包丁で刺し、バットで殴っても人は死なないとでも思っているのだろうか。犯行は認めても、殺意を否認して少しでも刑を軽くしたいと思っているのでしょうか。
 死刑が確定した者の6割の人たちが、再審請求しているなのだと言います。裁判で死刑が確定しても、再審請求中は原則、死刑は執行されないとの事。中には100%冤罪がないとは言わない。日本の裁判は三審制と言って、地方裁判所、高等裁判所、最高裁判所と、最高で三回裁判が行われる。三回の裁判をする過程で、言いたいことは申し立てて欲しい。新証拠も出て来ていないのに再審請求する。再審請求が6割とは異常だ。死刑の執行逃れとしか私には思えない。
 また、死刑囚の中には、自分の大便を顔に塗ったりして、心神喪失を装い、死刑執行を逃れようとする者もいるそうです。死刑は心神喪失状態の者には執行されないことをちゃんと知っているのです。身勝手に人を何人も殺しておきながら、皆、自分の死は恐ろしいのです。
 昨日は終戦記念日だったせいか、『NHKスペシャル』で『戦慄のインパール』という番組を放送していました。
 私の父は戦争で負傷した傷痍軍人です。そのせいも有ってか、私は子供の頃から戦記物を読んだり、戦闘機、軍艦などのプラモデルを作ったりするのが嫌で、避けて来ました。戦争に関する本や小説を読んだりし始めたのは、会社で役職定年になった55歳を過ぎてからです。
 その中にはインパール作戦に関する物もありましたが、昨日改めてNHKスペシャルを見て、最も無謀な作戦が何故行われたのか知りました。
 作戦の計画では3週間の行軍です。兵士たちには3週間分の食料が与えられ、その後の補給の目途は全くありません。その作戦を指揮したのは牟田口司令官。ビルマからインドのインパールまで最大470kmの行軍です。日本の戦況では、太平洋の島々での戦闘にいずれも破れ、インドのインパールを陥落させ、起死回生を狙ったものです。
 物資の補給が出来ないなどの理由で、作戦を中止するよう提言する将校達を卑怯者と罵倒し、牟田口司令官は作戦を強行しました。3週間の行軍の予定が、3ヶ月掛かりました。大きな兵器は分解し、担いで兵士たちは生い茂るジャングルの中、兵士たち自らが白骨街道と呼ぶ道を進んで行きました。牟田口司令官は作戦開始から行軍には同行せず、後方のビルマに居ました。部隊と行動を共にしたのは作戦が遅々として進まぬ、ずっと後からです。4ヶ月目に大本営からこの無謀な作戦に対し中止命令が出ました。
 この作戦では行軍の往きよりも、帰りの方が戦死者は多く、戦死者3万人、傷病者4万人出ました。戦死者の大半は戦闘でなく、餓死やマラリアなどの病気で亡くなりました。怪我や動けなくなった戦友を放置しなければ、共倒れとなります。食料が有りません。兵士は死んだ戦友の人肉まで食べ、これがトラウマとなって苦しんだようです。大本営からのインパール作戦中止命令で、牟田口司令官はいち早く帰還したとのこと。
 牟田口司令官は戦後1966年まで生き、77歳で亡くなりました。兵士を人とも思わず、虫けらのように扱い、作戦反対者を罵倒し、最も無謀と言われる作戦を強行した司令官です。残された資料や録音テープでは反省の弁や記述はなく、大本営の命令だと責任逃れをした。大本営もインパール作戦を強行したのは、ビルマの現場の司令官だと、責任逃れをしています。
 昨日、書斎で『指導者』と言うのを書きました。栄達や栄誉を望んだ指導者は、人の命を何とも思わず、無謀な作戦を強行する。そのくせ、自分だけは生き永らえている。反省の弁もない。いつも死ぬのは下層の人ばかり。人間の性(さが)と言うのはこんなものなのでしょうか。牟田口司令官には責任を取って、せめて切腹でもして貰いたかった。
 自分はいつも思うのですが、『人間、潔さが無くなったらお終いだ』と思うのです。

 

第 1043  指導者                    2017.08.15(火)

 今日は終戦記念日である。太平洋戦争で、日本人は、軍人、民間人合わせて310~330万人もの方々が亡くなった。もう、二度と戦争はやってはいけない。
 ところが、戦争、内戦、テロを合わせれば、第二次世界大戦後、争いの無かった年は一年もないのだと言う。世界中のどこかで戦闘が行われている。争いで亡くなるのは、上層部の指導者でない。いつも下層の兵士や、民間人など、一番弱い立場の人達ばかりが犠牲になる。
 日本でも、地下鉄サリン事件という化学兵器を使って行われたテロがあった。麻原彰晃という狂気の指導者の下、テロが行われた。多数の方が亡くなり、20年以上経った今でも、後遺症に苦しんでいる方も多い。関係者は全て捕まったのに、どうして死刑の執行が行われないのか。もしかしたら、麻原彰晃には死刑が執行されない可能性があるともいう。廃人には死刑が執行されないからだ。もし、死刑の執行されたら、『よく決断した』と内閣支持率上がるかも。
 同じく狂気の指導者と思うのが、北朝鮮の金 正恩委員長だ。
*彼は、国の指導者として、国民から選挙で選ばれ、支持されて指導者になっている訳でもなんでもない。彼は何か功績が有ったから指導者の座に居るのでもない。そういう面では、金 正日も同じ。世襲により権力の座にいて、権力を奮っている。
*金 正恩の側近は何故、彼を暗殺しないのか。恐怖政治で、怖くて出来ないのだろうか。このまま突き進めば、あるいは戦争に成りかねない。正に狂気の指導者だ。戦争になれば、一時は相手に打撃を与えることはあっても、国力の点で米国には敵わないだろう。
*もう大分前の話だが、北朝鮮で餓死者が何万人も出たという、報道があった。経済制裁がある上、ミサイル、核と軍事優先で金が使われている筈なのに、どうなっているのだろう。都市部の状況は時たまTVに画像が出る。あの人たちはエリートの階層なのだろう。地方や農村部の状況は分からない。きっと想像を絶する生活をしているのではないか。彼には国民の幸せを守る気がないと思える。
 フィリピンで行われたASEAN関連の外相会議前に、北朝鮮の李 外相と日本の河野 外相が会話をし、李 外相から『対話をしたい』との申し出があった旨、報道されていた。対話が実現し、戦争を回避し、良い方向に進むことを望みます。
 イスラム国のモスルが陥落した。イスラム国の一部の幹部たちは極秘で、禁止されている飲酒をし、陥落するずっと以前にモスルを脱出していた。いつも指導者たちは賢く立ち回り、バカを見て死んで行くのは兵士と民間人ばかり。
 皆、口では誰しも平和を願うと言う。でも、世界中に、戦争がなければ困る人たちもたくさん居るのだ。武器を作っている人、軍需産業の人たちだ。世界中のどこかに戦闘が無ければ、軍需産業は成り立たない。
 多分これから先、いくら経っても、戦争、戦闘、テロはなくなることはないであろう。これだけ騒いでも『いじめ』はなくならない。弱い者、強い者の差は必ず出来てしまう。競争社会もなくならない。ただ、競争が悪いとは言い切れない。競争がなければ、発展は進まない。働いても働かなくても同じなら、だらけて働かないのは社会主義国の例を見れば明確だ。オリンピックですら競争だし、強い者に栄誉が与えられる。競争は格差を生むが、必要であることも確かなのだ。
 争うのは人間に限らず、生物の本能なのであろう。だが、そこを曲げて、知恵ある人間は、知恵を出し合い、争いのない世界を作って行かなければならない。指導者の責任は重いし、責任を負って、平和を実現する指導者が出て来ることを切に望みます。

             

第 1042  プリキュア                  2017.08.09(水)

 この項を読んでいらっしゃる方はプリキュア(Precure)という言葉をご存知であろうか。私もごく最近、孫の女児(3歳8ヶ月)関連で知った。
 次男のお嫁さんの実家はオモチャ屋さんである。5月の初旬、結婚披露宴の際、嫁さんのお母さんが、孫の席に来て、
 『何が好きなの?』と訊ねたそうだ。
 『ドレスが好きなの』と孫は答えたそうな。
 次男の住むアパートに包みが届き、しばらく放置されていたようだが、2週間ほど前に我が家に持ってきた。ドレス、カチューシャ(頭のところに着ける馬蹄形の飾り)、魔法の棒のような物と、そのほか別のオモチャであった。
 カミさん、孫に電話したら、それ以来、
 『プリキヤのドレス、プリキヤのドレス』
 と言うようになった。どうやら、孫は知っているようだ。ほとんど毎日のように電話して来て、プリキヤのドレスと言うようになった。月遅れの盆に我が家に来ることになっていて、ドレスを着ることをとても楽しみにしているらしい。
 『プリキヤ』と聞いて、初めは何のことだか、ジイジもバアバも知らなかった。どうして、3歳の孫が『ブリキ屋』なんか知っているのだろう。『ブリキ屋』とドレスの関連が分からない。『ブリキ屋』は昔、良く街中で見かけたけれど、建築用の板金屋さんである。ブリキは鉄が錆びないように、鉄の表面に錫を付けたものだ。ブリキ屋と言えど、実際にはトタンつまり、亜鉛鉄板を扱っており、ブリキは茶箱の内面に貼っているくらいしか、身近では見かけない。
 3歳児が言うから『プリキヤ』であって、本当はプリキュアであった。テレビ朝日系列で放送されている、女児向けのアニメシリーズのことであった。どうも既に14年ほど続いている番組らしい。対象となるような女児が居なかったものだから、全く知らなかった。ちょっと前までは、アンパンマンばかりだったが、プリキュアに興味が移行したようだ。成長してもらわなければ困るが、ジイジもバアバも付いて行けそうにない。
 昨日、カミさんと有楽町まで行った。行ったついでに駅前のビックカメラに、一眼レフカメラを見に立ち寄った。ビックカメラには、Precureのコーナーがあった。概略、幾らくらいの物を頂戴したのか、祖父母としてはこれからのお付き合いの都合上、見ておこうとしたところ、なんと頂戴した物は合計で3万円くらいの価格の物と知り、ビックリンコ。世の中、知らない世界があるものだ。
 7ヶ月の2番目の孫は、今はまだ寝転んだままだ。そのうち、あれが欲しい、これが欲しいと言い出すだろうし、年金暮らしのジイジとバアバには、一品5000円や6000円のオモチャはきつくなりそうだ。

第 1041  政策                     2017.08.05(土)

 民進党 細野豪志氏の離党表明を今朝の新聞で知った。民進党の支持率は今、6%なのだと言う。それでも支持する人が100人の内、6人も居ると言うのだから驚きだ。
 民進党の目指す政策は、何なのかがはっきり判らない。
 『自分達はこういう事をやりたいのだ、こういう社会を作りたいのだ』
 と言うのが、具体的に判らないから支持しようにも出来ない。加計問題での蓮舫氏の追求の鋭さは、さすが党首だと思う力強さがあった。ただ、森友学園でも、加計問題でも政権に対する批判、追及に過ぎない。批判だけで、自分達がこうしたいというカラーが全く見えない。
 かつて、民主党が政権を奪還した時、宇宙人の首相、菅 直人首相も訳の判らない人だった。ドジョウの首相は少しまともかなと思ったが、民主党には人材が居ないのだ。宇宙人の首相のハンドルさばきで、外交、内政共、国は迷走した。首相を辞めてからも海外で余計な発言を繰り返した。今の民進党は、民主党が政権獲得した時の反省をしっかりしていないのが、原因と思う。
 9/1に党首選挙があるようだが、枝野氏、前原氏のどちらが党首になろうとも、しっかりした根幹や政策を持たない限り、民進党は低迷脱却は期待できない。
 民進党は保守党である。その党が、どうして共産党と共闘できるのか。何か言えば、支持母体の連合に反対されて、すぐに考えを引っ込める。
 あべ首相は近頃、さかんに『ていねいに』という言葉を使う。あべ政権のおごりに対する批判も目立つ。自民党にふまんを持つ人がここのところ増えているのは、支持率でも判る。では、自民党以外に投票したくても、投票に値する党がないのだ。ふまんでも仕方なく自民党に投票する人も多いのではないか。
 多くの国民は拮抗する二大政党制を望むであろう。政権政党に緊張感が生じるからだ。あべ政権のおごりの半分以上の責任は、野党のていたらくにあると思っている。
 共産党の『原発即時撤廃』は結構です。じゃ、撤廃するについての、『代替エネルギーはどうするの ?』のところが知りたいのよ。火力発電で賄えるというのでは、国民は承知しない。北九州や秋田の豪雨は、温室効果ガスによる地球温暖化に原因があると言って良い。原発事故で死ななくても、豪雨で亡くなったり、家を失ったりしている方はたくさん居る。
 日本だけ火力発電をなくしても、地球レベルでは大した効果はないかも知れない。だからと言って、どんどん火力発電して、CO2を大量に出して構わないという事では決してない。
 『現在、こういう問題がある。こういう策を取れば、こうなる。これを実行するにはこれだけの財源が必要だ。実行に際し、発生しそうな問題点はこうです』という具体的な策を国民は知りたいのだ。
 例えば、原発を再稼動させれば、標準家庭の年間の電気代はいくら下がる。原発稼動の際、発生する、核のゴミはこのように処理する。安全面の配慮はこうなっている。このまま火力発電を続ければ、電気代を上げざるを得ず、安い電気を求め、企業は海外進出して、産業の空洞化の恐れがある。などなど。
 日本にたくさんある火山の地熱を使って、地熱発電に移行したい。それには地熱発電施設を日本中に何基作らなければならない。その場合、国の予算は幾ら掛かるが、各家庭の年間電気代は幾らとなる予想だ。その時の問題点は、設備の設置場所が国立公園内になりそうだ。温泉が枯渇するのではという温泉業者の懸念の反対が起こるのではないか。こういう具体的なことを知りたい。
 保育園増設問題あり、日本の財政赤字解消などなど、問題点は山積している。こういう問題点を各党が提起して、政策論争してもらいたいのだ。『言った、言わない』の議論をして、国は良くなるのか。国が良くなり、国民が幸せになる議論をして貰いたいのだ。加計問題にも、自衛隊日報問題にも飽き飽きした。ふもうの論議に、時間と金を費やしているのはもったいない。

第 1040  ガリバー             2017.08.03(木)

 小学生の頃、遊んだり、住んでいた土地を大人になって訪れると、自分がガリバーにでもなったような身体感覚のズレを感じる。角にあった酒屋が駐車場になっていたり、ガソリンスタンドがコンビニに変わってしまうなんと言う事は、ことさら珍しいことでもない。
 そういう見かけの変化に由来することではないと思う。今より遥かに低い視線、小さな歩幅で感じていた空間を捉えていた基準が、その後の身体的成長で感覚的ズレを起こし、大げさに言えば、その街の地図や縮尺をすっかり変えてしまっている。
 あの店が消えた、こんな物が出来たと驚くよりも先に、視覚はまず、かつて歩いたり、走り回って見知っていた道幅が実に狭く、他家の物なのに平気で乗り越えたり、飛び降りていた塀が、今は余りに低いことに驚く。
 遠かった家から学校までの距離が、こんなにも近く感じられるのだ。かつての街の感覚的な広さを失うことと、大人になることのは同じなのだと、曖昧にしてその場をやり過ごして居るのだろう。
 子供の頃、遠いなと思った目的地までの距離が、大人になったら、さほどでもなく踏破したのは、まだ壮年までのこと。今また、生まれ育った地が懐かしくて再訪すれば、子供の頃、駆け上がっていた登り坂に、途中で息継ぎのために立ち止らなければならなくなってしまった。広さと言う身体感覚のズレだけでなく、身体能力も衰えてしまった。
 ガリバーという題でなく、浦島太郎の方が良かったかもしれない。