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おさむの書斎

 僕の家には狭いながらも自分の書斎があります。広いスペースではありません。たった3畳の大きさ
 長年、書斎が欲しいと思って来て、家を建て直す際にやっと出来た一人きりになれる唯一の空間。
 他の人が何と言おうと断じてここは僕の書斎なのだ。(実情は、パソコン部屋!!??)
 日記とは別にもう少し長いスパンで、普段思っていることを書こうと思って居ります。
 このHPのメインになるようにしようと思っています。

第 1015   運                        2018.02.25(日)

 平昌の冬季五輪のスピードスケート マススタートで高木 菜那選手が金メダルを取った。最終コナーからゴールまでは鳥肌が立った。走力、瞬発力、持久力、判断力そのほか何があるのか素人には分からないが、彼女には実力と共に『運』も味方したに違いない。最終コーナーでオランダ選手が外側に広がって、内側に走路が開かれなければ、結果も違っていただろう。何はともあれ、おめでとう、ありがとうと言いたい。
 カミさんが『ざんねんないきもの事典』(高橋書店)と云う本を買ってきた。面白いので一気に読んでしまった。色々な動物の残念な進化の様子が分かって楽しかった。他の生物によって絶滅させられたり、環境の変化に追随できず消えてなくなってしまうのが分かって、興味深かった。
 地球が誕生したのは46億年前である。地球は太陽と云う恒星から1億5000万kmという丁度良い距離にあり、水にも恵まれた。これは『全くの偶然』である。
 単細胞生物が生まれたのは、40億年前、以後進化は連綿と続いて来た。
 かつて、地球上の王者として巨大恐竜が君臨したのは、2億5000万年前以降のことだ。地球の年齢から見れば、ごく最近のことなのである。
 ある日、直径10kmほどの隕石がユカタン半島に落ちた。そのエネルギーは広島原爆の10億個分のエネルギーを持っていたと云う。舞い上がったホコリが地球全体を覆い、夜のように暗くなってしまった。食べ物はなくなり、寒さに凍え、恐竜は一匹残らず絶滅してしまった。急激な環境の変化に追随出来なかったのだ。偶然起こった出来事に、恐らく短期間の内に絶滅したのであろう。恐竜にとっては『運』が悪かった。
 先日、ネアンデルタ*ル人が描いたのであろう、洞窟の壁画が見付かったと云う新聞記事があった。旧人ネアンデルタール人は40万年前~3万年前に欧州を中心に生息したと云われる。現生人類とは全く違った進化を遂げて来たネアンデルタール人は絶滅した。どのようにしてネアンデルタール人は絶滅してしまったのであろうか。
 現生人類は4万5000年前~4万年前にアフリカで誕生したという。旅をして地球全体に広がった。ネアンデルタール人と現生人類は生存期間が重なる部分がある。恐らく異種の交接も行われたことだろう。
 今まで地球上に現れた生物の99.9%以上が絶滅しているのだと云う。人間もその例外では決してあるまい。
 ときたま、『温暖化により、北極と南極の氷が溶けて、水位が上がって多くの土地が水没してしまう』と云う話が出る。確かに温暖化によって低地の国々においては、水没してしまう地域も出て来るであろう。ただ、北極も南極の氷もー50℃くらいあるから、ちょっとやそっとのことで、氷が無くなってしまうなんてことはないであろう。
 人間は他の生物に比べ、脳が大きく、頭が良い。ただ、人の脳は甚だ暑さに弱い。何らかの原因で地球の環境変化で気温が上昇すれば、たちまち人間は絶滅するに違いない。これも運である。
 現生人類に限ったことではないが、生まれた時から、『争奪戦』を繰り広げている。現代でも、石油を始めとする資源、食料、お金もそうかも知れない。皆、何だかんだ言いながら争奪戦をしている。
 急激な温度変化でなくとも、じわじわ温暖化が進めば、生態系は必ず崩れ、今まで耕作出来ていた作物も栽培出来なくなり、魚介類も獲れなくなってしまう。食料を求めての『争奪戦が激化』するに違いない。『運』ではなく争奪戦で絶滅するかもしれない。それほど環境の影響は、地球上に住む生物にとって大切なものである。
 今では小惑星が地球に激突することは事前に分かることだろう。分かったところで、対処は出来まい。これもまた『運』なのである。地球にとって現生人類は恐竜の様に、ある年代に繁栄した歴史として残るだけなのだ。その歴史をどんな高等生物が認識するのか分からない。韓国人、中国人かな?
 私たちが住む銀河も、数十億年後には、秒速120kmの速度で近づいている、隣の『アンドロメダ銀河』と激突する(すり抜ける)らしい。また、太陽は次第に膨張し、赤色巨星となり80億年後には地球は呑みこまれてしまうと云う。人間なんて、何てちっちゃな存在なんだ。もちろん、生きていないから何が有っても良いけど。

第 1014   後でやろう                    2018.02.20(火)

 今や定年退職後の時間は長い。昨今は『寿命100年』と言われるようにもなっている。私、この正月で古稀となった。昔は70歳まで生きるのは、古来稀れで珍しいということだ。ただ、七五三、始め、還暦、古稀、喜寿・・・・は皆、数え年にて祝う事なのです。実際にはまだ満69歳にも成っていない。
 私の年代になるともう段々少なくなって来たが、11月になると年賀状欠礼の、いわゆる喪中ハガキが来る。見ればどの父上、母上も九十数歳で亡くなられている。私が子供だった頃から見れば、大変な御長命である。私に限れば、持病が有るからいつ死んでもおかしくない。座って静かにいても、胸の辺りがソワソワしていろことを感じる。自分にとっては、残された時間は短いに違いない。
 昨年3月末に仕事を辞めたが、実際にはまだ前の職場と繋がっていて、作業手順書や仕様書作りを依頼される。依頼されれば、2~3日で作ってメールで送る。もちろん私には時間が有り余るほどあるから出来るのだが、一般的には直ぐにやらない方が多いらしく、お世辞で言われるのか分からないが、『もう出来たの』と相手の方に言われる。
 ずっと心掛けて居る事は『すぐにやる』ことだ。当然いくつも抱えると、同時に出来ないことがある。そういう時はメモ書きして、優先順位を付けてやらざるを得ない。メモ書きもそこらにあるメモ用紙に書かないで、必ず手帳やノートに書く。メモ用紙だと直ぐに紛失して、分からなくなってしまうからだ。
 性分なのだろうか。小学生の頃から夏休みの宿題は、その日にならないと出来ないもの以外は、概ね7月中に終わっていた。ただ、前の職場から依頼される事項は、時間が経つに連れ、周囲の状況が変わって来ることも有って、やり直し、無駄骨となることも多い。それはそれで仕方がない。『慌てる乞食はもらいが少ない』と言う事か。反対に『先んずれば人を制す』、『善は急げ』と云う言葉に期待したい。
 世事にはやり始めたら、その仕事の半分以上が終わったと、考えて良いと言う場合が多い。人はとかく取り掛かるまでの時間が長いのだ。大概のことはやる気になって始めさえすれば、直ぐに終わってしまうことが多い。
 業者に物を依頼する時に『2週間掛かります』『1ヶ月掛かります』なんて言われる経験がよく有ります。その仕事が繁盛して、順番待ちで私の依頼事項に取り掛かれないと云うのなら仕方がない。そうでなければ、ちょっとした依頼事項で、先方の作業が2週間、1ヶ月掛かるなんて、余程のことでない限り有り得ない。あまり早く作業を終えると費用請求の場合、低く抑えなければならないからと勘ぐってしまう。
 『ものを頼む場合は忙しい人に頼め』という。忙しい人は計画を立て、手際よく作業をこなして行く。だから早く処理出来る。仕事が少ない人は、やり始めること自体が遅い。全く正しい言葉だと思う。
 自分は直ぐ物事を処理出来る有能な人だとは決して思わない。自分には残された時間がないのだ。日常でも、毎食後の食器の洗い物と、風呂の掃除は私の担当である。洗い物しながら、次は何をやって、その次は何をすると考えながらこなして行く。その他の雑用もある。その時、『これは、後からやろう』などと考えたら、後回しになってしまう。そのうち、やった方が良いが、やらなくても困らない事項は、結局やらずに終わってしまう。
 一方で、やらなくても済むことは、やる必要がないと言う考えにも否定はしない。  22歳で生家を出て独身寮に入った。若い頃はとかく朝遅くまで寝ていたい。やらなくても済むことをやらずにいたら、習慣となってしまった。以来、『朝、顔を洗わない』ことが習慣となってしまった。今でも気が向いて、朝、顔を洗うのは年に1~2度だ。その代わり、夜、風呂では入念に洗う。これを誰かに云うと、『猫だって顔を洗う』と言われる。風邪でも引いて風呂に入らないと、3~4日全く洗わないことになり、『段々顔色が黒くなってきた』とからかわれる。
 何かやろうとする時は『後でやろう』などと思わず、直ぐにやることを心掛けると、作業はスムースに出来る。

第 1013   なまえ                      2018.02.19(月)

 『おさむの自由区域』の管理人の『おさむ』はもちろんほんみょうではありません。ネット上で用いるハンドルネームであります。ほんみょうは僕達の年代に限れば、到って有り触れたものです。ある年生まれの男の子に付けられた一番多いなまえであり、僕の年代ではとてもポピュラーなモノです。
 余りに有り触れているので、子供の頃、父に由来を聞いた所、『どうせ、お前なんか偉くなりっこない。偉そうに難しいなまえを付けて、人様にコレ何と読むのですか? と訊ねられたら困るだろう』との返事でした。なるほど、私のなまえは読み間違えられたことが一度もない。まだ閉じていませんが、私相応のなまえでした。そう言えば、3人の兄弟とも簡単な字で、姉だけが違う読み方される恐れが多い漢字でした。弟のなまえも読み間違えることはまずない。でも、あまりにポピュラー過ぎて好きでは有りません。
 カミさんのなまえは、カタカナ2文字。有り触れたなまえでは有りません。子供の頃からまるで昔のお婆さんのなまえです。
 平昌の冬季オリンピックで2日連続で日本人が金メダルを取りました。また、将棋の世界でも藤井聡太さんが、朝日杯に優勝し、中学生プロ6段になり話題を集めています。水泳の池江 璃花子選手も大活躍しています。今年これから産まれる赤ちゃんには、男の子なら『結弦』『聡太』、女の子なら『奈緒』『璃花子』とあやかって、なづけるご両親も居るのではないでしょうか。『なは体をあらわす』と言いますから、素敵ななまえを付けてあげて欲しいと思います。
 話は全く変わります。オリンピックの話が出て来たところで、『オリンピックは国威を反映する』なんていう事があります。今回は冬のオリンピックで、その国の位置に影響するのは当然の事として、考慮されなければいけません。話に拠れば中国では才能の有りそうな子を各地から選抜して集め、小さい頃から英才教育をしていると聞いて来ました。
 何故か中国のメダル獲得数が少ないのが、とても気になります。冬の五輪でも位置的にハンディキャップがあるとも思えません。一体どうしたことなのでしょうか。そう言えば、AIIBも『一帯一路』も最近新聞で見掛けません。あまり芳しくないのでしょうか。
 GDP世界2位、経済成長率も中国共産党が関わることです。他の民主国家ならその数値について、何度もチェックが掛かります。一党独裁国が表す数値は何とでもなる。経済成長一辺倒で過剰投資して来たツケが現れて来て、実情はあまり良くないのかも知れません。

 

第 1012   病んだ国                     2018.02.16(金)

 米国フロリダの高校で銃の乱射事件があり、またしても多くに犠牲者が出た。ホテルの32階から広場に向けて無差別の乱射事件があったことは、誰もがまだ記憶していることだろう。
 アメリカは初めイギリスからの移民で始まっている。白人、アングロサクソン、宗教はプロテスタンとの人々が大西洋を渡って来た。銃を持って先住民族を駆逐して開拓し、戦争でメキシコからも土地を奪い、国土を広げて今の領土が出来上がっている。
 メイフラワー号に乗ってやってきた移民は、確かに銃で『自分の身は自分』で守りながら、アメリカを開拓しなければならなかったならなかったのである。その伝統を今も引き継いでいると云うが、果たして今も自分の身は自分で守らなければならないほど、アメリカというのは統治されていない国なのであろうか。面積が小さい日本では想像が出来ない。国土の大きい国は、統治するために大きな軍事力を持たなければならないのは事実だ。
 犯罪歴がなければ、スーパーマーケットで、一般の人が簡単に買えるのだと云うこと事態、私には異常に思える。多くの人々の中には性格が異常の人や、過激な考えの方が必ず居る。銃規制しなければ、これからも米国では銃乱射事件は必ず何度も繰り返し、決してなくならない。
 かつて、Malayshia クアラルンプールもショッピングモールの宝石店の入口に、銃を持ったガードマンが2人警備していたことを思えば、あるいは日本の方が世界の実情と懸け離れているのかも知れない。
 日本にも推定数万丁の闇の銃器があると云う。反社会的領域の人たちの抗争で使われるくらいで、乱射事件は今のところ起きていない。明治時代になって、侍はそれまで所持していた刀を放棄したことになっている。今、所持していれば銃砲刀剣類上法所持で捕まってしまう。
 アメリカは軍需産業が盛んだ。軍需産業が政治に献金するものだから、政治家も中々銃規制に踏み込むことが出来ない。軍需産業が盛んだから、アメリカはどこかで必ず戦争をしたり、自分は自ら動かなくとも、世界中の紛争地域の一方に武器援助をする。戦争がなければ軍事産業は成り立っていかないからだ。
 軍事産業から支援を貰う以上、政治家は何処かで緊張を起こし、徹底的に打ちのめす。壊しておいて戦後はその復興援助として、資金援助としてお金を動かし、金融機関が潤うような構図になっている。タラレバだが、北朝鮮が核、ミサイル問題を起こさなければ、日本はF35戦闘機や地上配備型P3Cのような設備を、高いお金を払って配備しなくて良い。
 今、朝鮮半島が微妙な状況になっている。きっと戦争を起こすに違いないと思っている。アメリカは動いていないと倒れてしなう自転車のような国なのだ。

第 1101   本番                           2018.02.15(土)

 平昌冬季オリンピック真っ盛りです。開催前から、どうしてマスコミの人たちは『金メダル、金メダル』とああも騒いで選手達にプレッシャーを掛けるのでしょうか。騒げば騒ぐほど選手達には重圧が掛かり、これでは返って足を引っ張るようなものとしか思えません。
 今のところ、『金メダル』でなくとも、それなりの成績を収めているようなので、良かったなと思っています。世界一でなくとも十分です。自分で一所懸命やって、紊得できれば良いのです。マスコミの大騒ぎは異常です。本番で力を出せることは大変難しい。
 私は子供の頃から、とっても引っ込み思案でした。いつも誰かの影に隠れているような子でした。自分でもこれではいけないと思い、中学3年頃、学校内に有った『奇術同好会』に入会しました。文化系の部活のようなものです。クローズアップマジック(トランプや小品マジック)から舞台奇術まで広い範囲で活動していました。
 舞台奇術の方は、普段から、何度も何度も同じことの繰り返しで練習しました。先輩の指導の下、自分でもこれだけ出来れば良いかなと自信も持てるほどでした。ところが、いざ舞台に立ち、スポットライトを浴びると、手は震え、足はガクガクして来ます。観客はスポットライトを当てられた自分に注目しています。
 東京厚生年金会館、朝日生命ホール、三越劇場、世田谷区民会館他、随分色々な会場に出た経験があります。事前に幾ら練習をしていても、いざ本番でスポットライトを浴びた途端、普段の練習の成果はまったく出ず、いつもドジばかり踏んでいました。
 舞台奇術ばかりではありません。結婚式の挨拶始め、実技試験など今までで色々な経験して来ました。たくさん練習をして来て自分でも紊得できるほどになっているのに、いざ本番になると、いつも『こんな筈じゃない』と言う結果になってしまった事ばかり。
 『大試合になれば成るほど燃える長嶋さん』が羨ましかった。もちろん、長嶋さんは猛練習に、猛練習を重ねて来たことは分かっています。長嶋さんが幾ら練習を重ねたとて、雰囲気に飲み込まれない精神的な強さがあったからこそ成果を挙げられたのだと思います。
 幾ら練習をしてしても、本番に弱ければ何にもなりません。稽古場ではとても強いのに、本場所ではあまり成績をあげられない様なお相撲さんも居ると言われています。
 どうか、マスコミの方々は、試合前に選手を煽らないで下さい。試合後、好成績を挙げたら、絶賛して挙げて下さい。

第 1100   判断基準                         2018.02.09(金)

 特に調べた訳ではない。前からずっと疑問に思っていたことがある。東日本大震災に伴う津波で、人が亡くなったことはもちろん、多くの施設が破搊された。だが、原発被害による影響ばかりで、その他の影響はあまり表立って報道されない。それだけ原発被害の影響が大きかったと云うことか。
 私が疑問に思っていたことは、化学物質のことだ。化学工業や冶金で用いられるシアン化カリウム(青酸カリ)やPCB、六価クロムなどの化学物質による被害は無かったのであろうか。報道されないから津波被害は受けなかったのか。無ければ良いのだが。
 青酸カリはあまりに知られている。化学工業で使われている。PCBは古いトランスやコンデンサーに使われていて、トラックで移動することすら、行政機関に届けが必要で、毎年現況届けを必要とする。クロムだって危険物質である。それらが、津波の被害を全く受けなかったと云うのは考え難い。メッキ屋、化学工場、あるいは古いトランスも無かったとは決して言えない。皆、瓦礫になってしまったので、なし崩しになってしまったのかも知れない。危険は承知だが、どうにも手が出せなくて頬被りしているのかも知れない。僕が担当でも何も出来ないだろう。
   先日、衆院選挙の一票の格差の問題で判決が出た。今度は『違憲状態だ』という。『違憲状態にあるとは言えない』だったり、『違憲状態だ』だったりと、裁判官の判断は気分で判決を出しているとしか思えない。裁判は憲法や法律に基づいて、これこれこうだからOKだとか、ダメと判断されるべきだ。一票の格差を全くナシとすることは恐らく出来ない。判断基準がないからこんな猫の目判決になる。
 『一票の格差は2倊まではOKだ』と関係する人たちが討議して決めておけば、それぞれの機関が2倊にならないよう事前に調整する。判断基準が決まっていれば、裁判すらする必要がない。無いから繰り返し裁判官の思惑で判決が出る。あの裁判官なら恐らくこういう判決が出るだろうと、予想されてしまうようでは裁判官も終わりである。
 同じ事が原発の再稼動にも言える。『稼動差し止めの仮処分』『原子力規制委員会の基準は妥当である』の繰り返しである。
 昨年12月に四国電力の伊方原発稼動差し止めの仮処分が広島高裁から出た。熊本県の阿蘇山が過去最大級の壊滅的噴火を起こしたら、その火砕流は四国の伊方原発まで及ぶ可能性があり、原子力規制委員会の新規制基準は上合理であるとした。阿蘇山の壊滅的噴火は10000年前レベルだという。縄文時代である。棒の先に石をくくりつけ獲物を追っていた時代だ。もちろん、定型的水田で稲作が行われた弥生時代は、おおよそ8000年後のことだ。
 阿蘇山が壊滅的噴火を起こしたら、九州、四国、中国地方の人々の生活すら危ぶまれる。どれだけ死者が出るか検討もつかない。元々この裁判官は原発反対派の方で有るに違いない。原子力規制委員会の判断が『基準である』として、水戸黄門の印籠のようにすれば、『差し止めだ』『再稼動だ』とすることはない。判断基準がこれだと云う権威がないから、裁判官は自らの気分か、思考、心情か知れないけれど言いたいことを言う。だから、僕自身はこの手の裁判が嫌いだ。専門性が高く判断できなければ、『この案件は裁判にはそぐわない』と棄却すべきだ。
 阿蘇山が壊滅的噴火をしたら、始めに書いた化学物質もいくら基準が有ってもダメなんだろうな。

第 1099   人間性疑っちゃう                   2018.02.09(金)

 家に居る時は殆どいつも作業着を着ている。畳の上でいつ寝っ転がっても、気にしないためだ。外に出掛ける時は上着だけは替える。自分は一向に構わないのだが、カミさんが世間体を気にするからだ。おおよそ、ファッションなどには興味がない。汚れていなくて、暑さ、寒さに対応できれば良いと言うくらいな気持ちしかない。
 昨日、東京中央区の泰明小学校の標準着で4点セットで8万円と云う話を聞いた。ワイシャツやブラウスは洗い替えに最低でも3~4枚は必要だから、とても8万円では収まらない。子供はすぐに大きくなってしまう。小学1年生と6年生では体の大きさは丸で違う。体に合わせていたら、何回か買い直さなければならない。銀座に即してアルマーニというデザイナーの物にするなのだとか。和田校長の人間性を疑ってしまう。
 国会の委員会で質問にも出たくらいだから、世間相場の標準着に比べても高いと云う感覚なのだろう。答弁に立ったのが麻生財務大臣だったから、惚けたような発言で可笑しかった。文部科学大臣が答弁すべきだったのでは。
 我が家の前を小学生が学校に向かって、通学しているのをいつも見ている。帽子こそ統一した色の物を着用しているが、ふくそうはそれぞれまちまちだ。私用着では返ってお金が掛かるから、標準着を決めて欲しいと云う、父兄の要望もあるのかも知れない。それならそれでも良いと思う。ただ、学校の配慮が足りなくて、販売店を決めているため、競争がないのが原因と思うが標準着は相当高い。
 知人のご子息が県立高校に入学する時の標準着はゆうめいなデザイナーの物でなくとも、聞いて驚くほどの高さだった。僕は背広や上着を買う時は、たいてい『紳士ふくの青山』で吊るしを買う。僕の頭の中にある『標準』が青山であるから、僕のレベルが低いのかも知れない。
 ゆうめいな泰明小学校のことだから、越境入学も多く、親御さんの所得レベルも高いのかも知れない。ただ、公立小学校である以上、学区内から入学する裕福でない家庭のお子さんも、仮に今はなくとも必ず出て来る筈だ。標準着は強制でなく任意ですよと云うのは言い逃れにも何にもならない。標準着を着られる子供と、そうでない子供の間には、必ず心の中で食い違いが起こるに違いない。いじめの引き金に成りかねない。公立小学校の校長にそれほどの配慮もないのか。校長の頭の回路を疑ってしまう。
 格差社会と盛んに叫ばれ、世の中に安価に食べられる『こども食堂』がたくさん出来ている現実を知らないのか。親が働きに出ていて、一緒にご飯を食べられない子供がたくさんいる現実を知っていたら、高価な標準着を採用するなど決して思わないに違いない。
 教頭、校長昇進試験も、学業成績だけでなく、人間性を測る面を重視して貰いたいな。教育委員会、しっかりしてよ。

第 1098   脂肪の燃焼                      2018.02.05(月)

 『豚ひき 300』
 肉屋さんでこう云えば、豚ひき肉を量り売りしてくれる。食品スーパーでも白いトレイに載せ、ラップを掛けられたひき肉が売っている。300gのひき肉がおおよそこのくらいの分量、容積であるかがイメージ出来る。よく200g、400gのステーキとか云うが、いつにも食べたことがないので、イメージとして湧かない。僕にはひき肉が相応している。
 雨が降るとか用事でもなければ、はとんど毎日と云って良いほど散歩している。ウォーキングと云う方が体裁が良いかな。ただウォーキングしていても張り合いがない。歩数を調べて記録している。目標は1日平均5000歩だ。所要時間はおおよそ45分、距離にして4kmくらいである。平均5000歩と云えど、雨の日や用事があれば歩けないから、貯金ならぬ『貯歩』をしておかざるを得ない。
 若い頃は『痩せ過ぎ』の体型だった。幾らたくさん食べても太らなかった。代謝が良かったのである。運動量も多かった。現在の私は、健康診断でも採用している『体重を身長の二乗で割る方式』でジャスト標準体重である。ただ、ある箇所に集中して脂肪らしき物が付いていて、体重に寄与している部分が大きい。メタボ予備軍なのである。そう、お腹と、両脇の背中側に醜くも厚い脂肪が付いている。
 男性俳優が役目柄、上半身裸になることがある。PanasonicのCMに出ている西島秀俊さん、NHK大河ドラマで石田三成役を演じた山本耕史さん、西郷どんの主演の鈴木亮平さんなどの体を見ると、いずれもくっきりとした腹筋と、大胸筋が目立つ。きっと日頃スポーツジムに通って、弛まぬ鍛錬をしているに違いない。
 それと比べて、何と醜き我が腹かな。始めに豚ひき肉300gの大体のイメージを感じて頂いた。ひき肉と脂肪では比重が違うが、大よその目安になるであろう。我が腹部周辺には寄せ集めれば800g~1kgの脂肪があるのではないか。このまま放置せず何とかしなければならぬ。
 これでも1年半前に比べれば大分減ったと思う。新聞の下段に健康雑誌の広告が出る。世に出回っている数多くの健康雑誌に『20キロ、10キロ、5キロ』体重が減ったと書いてある。あれはウソであると思っている。特異な例として、確かに有るのかも知れないが、絶食などの特別なことをしなければ、体重は中々減らない。少なめにしろ食べなければ、動けないし、生活も出来ない。
 スマホについている歩数計で毎日の歩数を記録している。アプリがどれだけ信頼性があるのか分からない。付属の機能に、歩くことによる『消費カロリー』と『脂肪燃焼量』と云う機能がある。1月分を試しに集計してみた。1月1ヶ月で消費カロリー3890.3kcal、脂肪燃焼量 554.5gであった。
 歩数が多ければ、消費カロリーや脂肪燃焼量が増えると云うのでもなさそうだ。だらだら歩いてもカロリーや脂肪は燃えないらしい。心掛けて早足の積もりで歩けば消費カロリーも増えるし、脂肪も燃えるらしい。歩数を稼ごうとその場足踏みしても、歩数計は上がらなかった。
 1ヶ月間断食すれば、我が腹の醜くも厚い脂肪は解消される。生きていくのに必須の基礎代謝もあるから、それこそガリガリになってしまうことであろう。そんなことは出来ないから、少なめにしつつも食事を摂って行けば、腹の脂肪の燃焼量も遅々としたものとならざるを得ない。
 脂肪が付く時は知らないうちに付いてしまい、気が付いて落そうとするには大変な労力を使わなければいけない。今日もウォーキングに出掛けるが、継続には並々ならぬ気力が必要だ。誰しも楽したいのです。

第 1097   恵方巻                        2018.02.04(日)

 昨日(2/3)は節分だった。何やら節分は恵方巻を食べる日になってしまったようだ。午後から散歩に出た。あちこちで恵方巻を売っている。コンビニは大体どの店にも幟や入り口に表示を出していた。食品スーパー、パック入りの安い寿司を販売する店、回転寿司店では店外にテーブルを出して、恵方巻を販売していた。
 パック入りの安い寿司を販売する千代田寿司には恵方巻を求めて行列が出来ていた。トンカツ販売店ではトンカツ入り恵方巻さえ出ていた。
 日本人は『乗せ易い民族』『乗り易い民族』に違いない。かつて評論家の大宅壮一氏が『一億総白痴化』と言っていたが、何か流行でもあると、流れに乗り遅れないように直ぐに飛び乗る、飛び移る資質があるに違いないようだ。
 恵方巻は誰が言い出し、販売し始めたのか知らないけれど、登録商標にはしていなかったらしい。単なる『太巻き寿司』であり、南南東を向いてかぶり付く。そこにバリエーションを加えて、具材を変化させたり、豪華にしてみたり、極太の巻き寿司にと、おおよそ海苔巻きとは縁の薄いトンカツまで具材にしてしまう日本人の能力、発想には呆れ返ってしまう。
 これから、言い訳を書かなければならない。2/2の我が家の夕食はカレーライスであった。残りのカレーを昨日の昼食にも食べた。何やら食べ過ぎて、夕方になっても胃がもたれる。夕飯は何か軽い物でもとカミさんに言った。かくして我が家の昨日の夕飯には恵方巻と残り物を食べた。結果的に我が家も『乗り易いタイプ』であった。
 誰かによって、商業ベースで画策された物には、恵方巻の他にも、『バレンタインデーのチョコレート』と『ハロウィーン』もある。アメリカにバレンタインデーがある。全く様相が違う。女性の方からチョコレートを添えて、愛の告白をするなんてことは元祖とは違う。菓子メーカーの人がチョコレートの販売量拡大を狙って作り上げたもので、『乗り易い民族』がまんまと乗っかってしまった。結婚する前に、当時付き合っていたカミさんに貰ったことがあるから、40数年前にはもうこんな習慣は存在していたことになる。
 ハロウィーンも何だか知らないけれど、いい大人が渋谷のスクランブル交差点に大集合して毎年大騒ぎになる。ハロウィーンがどういう行事なのか良く知らない。アメリカでは子供達が家々を廻り、『お菓子をくれないと、いたずらしちゃうぞ』と言って、お菓子やリンゴをもらい歩く行事であることぐらいの事しか知らない。確か仮装もあった筈だ。私の住む川崎市では市役所通りを一時通行止めにしてパレードを行う。自治体までが加担して煽る。
 かつて、男子留学生がパーティーのために仮装して、パーティーが行われる家を間違えて、訪れてしまった。家の主人から『 Freeze!(動くな!)』と言われたのを、『 PLease (どうぞ)』と間違えてしまって、歩みを進めて射殺されてしまった悲しい事件があった。アメリカは銃社会なのだ。仮装した何だか分からない異様なヤツが、『止まれ』と云うのに家に入って来ようとしたら、撃たれても仕方ないかも。Freezeでなく、Stopと言ってくれたら事故は起こらなかったかも知れない。
 イギリスから移民してアメリカを開拓して来たWASPと言われる人たちは、『自分達の身は自分で守る』という意識が強い。結局銃で撃たれてしまった。家の主人は無罪となった。日本のように公的健康保険制度がちっとも根付かない背景も良く理解できる。『後から来た貧しい移民のための制度に税金は払いたくない』 私たちにとって、メチャクチャに見えるトランプ政権もいまだ37%という支持率があることも良く分かる。猫も杓子も、ただ海外留学すれば良いと言うものではない。その国の歴史や風俗習慣を学んだ上で、『自分達の風俗、習慣とは違うのだ』と認識した上で行かないと、これからも事故は起こる可能性がある。
 余談だが、最近はパソコン画面がFreeze(固まって動かなくなってしまう)事がない。随分進歩したものだ。

第 1096   結論の出ない問題                   2018.02.02(金)

 『人間 いかに生きるべきか』『人間はどう生きるべきか』『幸福とは何だ』などの問題は、皆が生きている限り悩み、それぞれ思い悩むが、誰もが紊得できる結論の出ない問題だ。
 先日、知的障害か精神疾患か分からないけれど、若い頃、優生保護法で強制的に子供が出来ないような手術を受けさせられ、縁談も有ったが子供が出来ないことを理由に破談になってしまった女性に関する訴訟があった。確か、本人が起こした訴訟ではなく、義姉が訴訟を起こしたと記憶している。
 これだけの記事を読めば『何と人権を無視したことがやられていたんだ』と誰しもが思うことであろう。果たして、本人にとって、断種手術を受けずにそのまま縁談が成立して、子供を持ったとして、幸せな生活を送れたかどうかは、誰にも分からない。障害は遺伝的要素が高い。生まれたお子さんが健常でない可能性は高いのだ。
 僕ら夫婦の第2子は知的障害である。僕の知っている限りで、僕の父母、祖父母、親戚、あるいはカミさんの妹、弟、父母、親戚に知的障害の人は見当たらなかったし、そんな話を聞いたこともない。
 もう亡くなってしまったが、私が住む横丁に、じいさん、ばあさんが住んでいた。二人とも普通かどちらかと言えば、理屈っぽいがごく普通の方だった。子供(大人です)は4人居る。第1子と第4子は知的障害で通年の支援施設に入所している。第2子は働いてはいる。仕事に貴賎がないことは分かっている。どちらかと言えば皆が進んでなりたくないような仕事に就いている。結婚はして子供がいたが、離婚した。第3子は一時は働いていたが、通常の業務が出来るような方ではない。今は仕事をしていない。親は健常でも何処かに要素を持っていたのであろう。
 障害の子を持つ関係で、授産所、作業所他、支援施設に行く機会は普通の方より多い。色々な子供達(大抵は大人だが)を見ている。息子の所に来る年賀状を見ても36歳になっても、まだ『ウルトラ隊員』だと思っている子や、小学1年生レベルの判読に苦労するような、ひらがなのばかりの年賀状を呉れる子が居る。もっと悪ければ年賀状など来ない。
 だが、親御さんを見ても一見して『この人ちょっとおかしいかな』と思える方は一人も見なかった。親が健常でも障害を持つ子が生まれる可能性かある。まして本人が障害を持っていたら可能性は更に高い。
 妊婦の血液で胎児の染色体の病気を調べる出生前検査が広まっている。宗教上あるいは倫理的に問題が有るとの考えもある。障害を持つ子の親の負担は重いし、障害を持って生まれて来た子も苦労が多いと思う。
 親の持つ悩みは恐らくただ一つであろう。『自分達が苦労するのはかまわない。だだ、自分達が死んでしまった後、この子はどうなってしまうんだろう?うまくやって行けるだろうか』であろう。世の中で騙されてお金を巻き上げられたり、障害者施設での殺人や傷害事件がある度に心悩ます。
 優生保護法により強制断種手術が行われたことは、人権上許されることではない。だが、手術なしに、知的、または精神障害を持つ方が結婚して、障害を持つ子供を持ったとしたら、これまたご苦労は絶えないはず。苦労しても幸せだと言う人はいる。誰も答えの出せない、結論の出ない問題なのだ。

第 1095   匂い                         2018.01.28(日)

 足腰の機能維持のために、雨が降らなければ散歩を日課としている。何事も事を成すに当たっては、目標を立てねば成らぬ。目標が達成されるか否かは、数値化しないと、目標が達成出来たかどうか判断出来ない。斯うして一日平均5000歩を目標として記録を取っているが、結果はデコボコであり、中々目標達成とはいかない。
 街中を歩いていると実に様々な匂いがする。今は冬だから花の匂いは漂って来ない。どうも、人工的な匂いばかりだ。サウナや銭湯の横を通れば、排水に流した湯の匂いなのだろうが、独特の匂いがする。コインランドリーの前を通っても、コインランドリーの匂いがある。カレー専門店はもちろんカレーの匂い。ちょっと苦手なのはラーメン店の排気口から出て来る、中華麺を茹でる臭い。ラーメンを食べるのは大好きだが、排気口から店外に放出される臭いは好きではない。日本蕎麦屋さんから出る臭いとは違うと思う。
 今、『におい』と云う字を使い分けたことに、お気付きでしょうか。国語辞典で『におい』を調べると『匂い』と『臭い』と云う字が出て来る。好ましい香りには『匂い』を使い、嫌なにおいには『臭い』を使っているようだ。すなわち、花の香りを表現する場合には『匂い』を用いて、下水の臭い、悪臭など都合によって使い分けているようです。こういう例は他にもあります。微生物の働きで作られるアルコール、味噌、醤油、紊豆など、人に取って有益なものは『醗酵』と云い、ふえきな物は『腐敗』と云って、どちらも微生物の種類は違いますが、微生物の作用なのに使い分けている。ただ、自然界では腐敗はなくてはならないものなのです。
 さて、匂いに戻って、先ほど私がいつもの散歩コースで漂ってくる匂いの例を書きました。私達の周りにはそれこそ匂いだらけです。
 僕だけかも知れませんが、最近あまり『匂い』を嗅ぐことの無くなったもの
*うなぎ屋さんがうなぎを焼く匂い。うなぎの価格がぐんと上がったものだから、もはや庶民の食べ物ではなくなってしまったからかな。
*お茶屋さんの店先で焙煎しているほうじ茶の匂い。
*コーヒー販売店の店先から漂うコーヒー焙煎の匂い。
 最近『臭い』を嗅ぐことの無くなったもの
*ボットン便所でバキュームカーが収集して行った後の臭い。
*子供の頃、農家の方が畑に人糞の肥やしを施した臭い。

 その他でも私たちの周りには様々な匂い・臭いがあります。
*本屋さんに行くと、インクなのか紙の匂いだか分かりませんが独特の匂いがしますよね。
*ケーキ屋さんに行くと甘ったるい匂いがする。
*隣近所で夕飯の支度をしているのか、焼き魚やカレーの匂いがする。『ああ、この家では夕飯のおかずは焼き魚だな』と分かってしまう。
*雨の降り始めのホコリ臭いにおい。
*まだ子供の頃、夜外に出ると、姉がよく『夜の匂いがする』と云っていた。僕にはどれを夜の匂いと云っていたのか分からないけれど、確かに夜になると何処となく匂いがあるのは分かる。
*父は自家で職人をしていた。来客があると決まって『ああ、木のいい匂いがする』と云っていた。鼻を木に近づければ確かに匂いはする。だが、普段から生活しているから、鼻が慣れてしまって特別感じることはなかった。
*前夜、餃子を食べたニンニクの臭いや、二日酔いの酒臭い臭いも歓迎しない。私自身、腋臭だ。制汗剤のお陰で他の方にご迷惑掛ける度合いも幾分緩和したかも知れない。自分自身では老年になって、若い頃より臭わなくなったような気がする。自分では分からないが加齢臭でも迷惑掛けているかも知れない。

 今までで、最高に強烈だった臭いは、会社内を整理整頓して出た廃棄物を、市の廃棄物処理センターにトラックで運んで行った時だ。深さ15mくらいのコンクリート製の穴に投棄するよう指示された。その穴から発生する強烈な臭いは耐えられないものだった。わずか10分くらいの作業だったが、作業朊に染み付いた臭いは3日ほど消えなかった。仕事とは言え、廃棄物処理センターで働く方は大変なご苦労だ。犬は人間の嗅覚の1000倊もあるという。犬を現場に連れて行ったら憤死したかも知れない。
 斯様に私たちは匂い(臭い)に囲まれて生活している。でも段々人間の嗅覚は退化していくかも知れない。自然界では、嗅覚は生死を左右するかも知れぬ能力なのである。そんな能力は人間に必要ないとなれば、段々と衰えていくかも知れない。

 

第 1094   鎖国                         2018.01.27(土)

 TPPからの離脱を宣言していた米 トランプ大統領が、場合によってはTPPに復活も有り得るようなことを言い出した。トランプ氏は反グローバリストだ。世界中がグローバル化するの事が『是』という風潮があったが、どうもそうでもないような気がする。交易が盛んになるのは良いと思うが、移民が入ってくるのは歓迎しない。盛んに移民を受入れてきたドイツも風向きが変わって来ている。
 江戸時代、ある一部地域を除いて、日本は鎖国をして海外の国々と交流して来なかった。鎖国は反グローバル化の最たるものだ。現在、移民についても、世界で最高レベルの防御をしている。日本は少子化となり、労働力がふそくし海外から労働力を求めるべきだと云う方がいる。私は移民に対して、現在日本が行っている最高レベルの防御を継続すべきと思っています。
 私たちは歴史を学ばなければいけない。先例を見習わなければいけない。EUに移民が押し寄せた。世の中は都合の良い時ばかりではない。労働力がふそくし、海外からの労働力を求めて、移民の制限を緩めれば間違いなく移民が入って来る。
 日本では非正規雇用の労働者が4割を占めるといって問題に成っている。都合の良い時には労働力として使い、都合の悪い時には要らないよと云う仕組だ。日本に移民の人が増えて、景気が悪くなった時、故国に帰って下さいよとはいかない。仕事を失った移民が増えたらどうなるか。EU内で仕事を失った若者たちはISに流れ、ベルギーやフランスの各地でテロを起こしたのは、極々近年のことである。治安も悪くなるだろう。
 日本は宗教に関してとてもいい加減だ。初詣には神社も行けば、寺院にも行く。我が家は一応日蓮宗だが、浄土真宗、曹洞宗他ののお寺にも関係なくお参りに行く。誰も咎める人はいない。葬式仏教と云って、葬式の時だけ仏教が必要になる。もちろん、宗教に関係なく葬儀は出来る。
 もし、イスラム教徒が入って来たならどうなる。信仰の度合いが全く違う。彼らは信仰を捨てない。仕事時間中にも礼拝の時間を設けなければならない。1日5回の礼拝を行ない、豚肉を決して食べない、断食しなければいけない時期があるなど風俗習慣が全く異なる。宗教により避妊をしないから、移民2世はすぐに産まれて増える。
 移民の制限を緩めれば、イスラム教徒だけではない。間違いなく大挙して来るのは中国人である。自分は民族主義者の積もりではないのだが、他国の人が大挙して移民として日本に入って来るのは、どうも歓迎する気持ちになれない。

                        

第 1093   薄れる記憶                      2018.01.22(月)

 作家 林 房雄作の『青年』という小説を読んでいる。勤王、佐幕、攘夷と云う言葉が出て来る。誠に恥ずかしい限りなのだが、大よそ私は幕末期の歴史に弱い。
 NHK大河ドラマでも『八重の桜』、そして今放送中の『西郷どん』も時代背景は幕末期の話である。このあたりの時 代背景が分かっていないと、本当は理解できないのだ。
 前に最後の将軍 徳川慶喜の本も読んだことはある。その時もいい加減に辞書を引いて理解した積もりでいた。いい加減に調べていたから、年月が経って忘れてしまって、また辞書を引き直した。
 もう、頭が固くなってしまっている。何かを覚えるには、色々関連付けながら覚えないと記憶に残らない。『佐幕』の『佐』と云う字は『助ける』と云う意味があると辞書に書いてあった。勤王に対して、幕末時代、幕府の政策に賛成して同調したので『佐幕』なのである。新撰組は幕府側だから、佐幕なのであろう。子供の頃、風呂敷を被って鞍馬天狗の真似をしてチャンバラごっこをした。鞍馬天狗は新撰組と戦っていたから、勤王側だとおもう。
 『攘夷』の『攘』と云う字は『排除する』と云う意味だと知った。『夷人』つまり小説では、イギリス人、フランス人、オランダ人、アメリカ人を排除するということだった。自国製品の消費を拡大するための、市場獲得を求めて開港を迫る夷人を排除すると云う事である。
 これまですれば、私の錆付いた頭でも多分記憶に残ることであろう。今まで何となく避けてきた幕末期を舞台としてきた小説も読めると思う。
 『排除する』という言葉で直ぐに思い出すのは、小池百合子東京都知事である。踏み絵とか排除で一時大変話題となった小池さんも、あまりニュースに出て来なくなってしまった。衆院選前の民進党からの移行に際して、希望の党の意向に同調出来ない民進党議員を排除したのも、『攘反希』であったのではと茶化すのは僕の悪い癖だ。
 それにしても、小池さんの発言にやたらと英語が出て来るのには閉口する。今度は遥か昔に習った英単語の復習をしなくちゃならぬ。負け惜しみで云うけど、みんなが分かる平易な表現で発言をするのが、本当にものの分かった政治家なのだ。小池さんは教養のある人だとは思いますが、都民や国民のことを『忖度』して発言して貰いたいな。

第 1092   起業家                2018.01.19(金)

 もう50年以上も前に、コメディアンの椊木 等さんの『ドント節』と言う歌があった。歌詞の始めの方は今でも覚えている。『♪♪サラリーマンは気楽な稼業ときたもんだ。二日酔いでも寝ぼけていても、タイムレコーダ ガチャンと押せば どうにか格好がつくもんさ・・・・♪』とても流行した歌です。作詞家は青島幸男さんだから多分、サラリーマンを経験したことがない人が作り、歌った曲なのだろう。
 サラリーマンを40年以上経験した僕には、サラリーマンはとても気楽な稼業とは思えない。まして現代の日本は労働者の4割が非正規労働と言うからなお更だ。皆、生活は苦しい。
 誰しもが一時は『社長に成りたい、起業してみたい』と思うものです。裕福な生活をしたい、高級車に乗りたい、広い庭付きの大きな家に住みたいなどと妄想をするものです。自分の資質を考え、事業がうまく行かなかった時のこと、良いアイディア商品が思い浮かばない、資金がない、度胸がないなどの理由で、大抵の人は諦めてサラリーマンを続けるのではないのでしょうか。
 起業してうまく行かなかった時、従業員に給料が払えない、銀行から返済を求められて、今住んでいる家も取られたり、債権者から逃げ回ることなど考えると、とても丸裸になってしまう勇気はありません。
 人によっては、『人の下で働けない』なんて、他人の指示のもとに働くことが出来ない性分の方がいらっしゃる。こういう方が起業するのかも知れません。でも、中々成功する方は居ないのではないかな。
 最近でも、成人式の晴れ着で話題となった『はれのひ』の篠崎洋一郎社長、旅行斡旋業者の『てるみくらぶ』の山田千賀子社長も、そんな性格の方だったのではと勝手に想像しています。始めから詐欺の積もりだったのでしょうか。あるいは真面目に、純粋に事業を始めようと思ったのかは分かりません。いずれでも資金繰りが苦しくなるまでは、二人とも裕福な生活をしたようです。ただ、二人ともあまりに短絡的に果実を求め過ぎたような気がします。
 今、世界でも有吊な企業でも、始めはバラックの、掘っ立て小屋のような所から始めています。
 パナソニックの 松下 幸之助氏
 ホンダの 本田 宗一郎氏
 日清食品の 安藤 百福氏
 SONYの 井深 大 氏、盛田 昭夫 氏
 カシオ計算機 の 樫尾四兄弟
 など、思い付くままに書きましたが、創業当時はとても小さな規模から始めている。もちろん、『幸運』にも恵まれたこともあるでしょう。弛まぬ努力の結果、少しずつ、少しずつ会社を大きくして来たに違いありません。『事業に成功するコツは二つあります。コツ、コツです』という言葉を聞いた事があります。
 『はれのひ』も『てるみくらぶ』もコツ、コツをしないで、始めから事業を広げ過ぎてしまったために、雲隠れして逃げ回ったり、逮捕されるようになってしまった。自分だけ逃げ回るのは自業自得です。結果として、人に大きな迷惑をかけてしまった。
 始めから他人を騙したり、泣かせたりする気が全くなくても、性善説で考えたとしても、起業家にとって事業成功へのショートカットは禁物のようだ。
Tell me the way to change this situation. とてるみくらぶの山田社長が云っても、もはや遅い。

 

第 1091   回顧                 2018.01.17(水)

 朝、目覚めるちょっと前に、夢を見るようだ。これは表現が悪い。人は誰でも寝ている間に、何度も夢を見るらしい。それは寝ている間に忘れてしまい、目覚める間際に見た夢は覚えていることがある。もう仕事を離れて大分経つのに、まだ現役で働いていた頃に関係する事柄が多い。
 起きている時でも、ボーとしている時、いつの間にか回顧的になっている自分に気が付く。人は過去のことを思い出すらしい。
 『温故知新』と言って、歴史を学んでこれからの指針とすることは大切である。
 政権を担う方の失政や、支持率低下と成った時、民衆のふまんの矛先をかわす為に、直ぐに『歴史問題』を取り上げて民衆を煽る国がある。『抗日』を『目先を逸らすための手段』として繰り返し言われるのは敵わない。一体、何度謝ったら許して貰えるのか。今、80歳の人ですら、その歴史問題が起こった頃は、まだ生まれていなかったり、ほんの子供だ。それより若い人にとってはまるで実感が湧かない。
 年齢を重ねて、段々体が動かなくなったり、明日への希望を奪われると、人は昔のことを振り返って愚痴を言ってしまう。過去に立ち返る事が出来ないのは分かっている。本人は愚痴の積もりは少しもないのだが、思い出というものは、多かれ少なかれ愚痴の要素を帯びるもののようだ。
 終活で本の整理をしていた時に出て来た『ニュートン』と言う雑誌を繰り返し読んでいる。内容は宇宙の創生、恒星、惑星、銀河の成り立ちなどだ。光速は毎秒30万kmである。光は1秒間に地球を7回り半する早さだ。月に向かって光を放つと1秒ちょっとで着く。日向ぼっこをしていて、今浴びている光は 8.3分前に太陽を出発したものだ。
 なまえだけ知っていたブラックホールも少しだけ輪郭が分かって来た。太陽系から最も近い恒星まで何光年なんて知ると、昔の出来事にくよくよしているのがバカらしくなる。いや、バカらしくするために読み返しているのかも知れない。

第 1090   難しいな               2018.01.12(金)

 本、雑誌、新聞などの文章を読み、内容を理解するには頭の中にその情景を描く想像力が必要だ。本などを読んでも、集中力に欠けると確かに目は字面を追っては居るものの、内容が全く理解出来ていないという事がよくある。
 昨日、新聞に『送還免除撤廃 一時差し止め』と言う見出しがあった。何とも紛らわしいことだ。記事の冒頭だけ書くと、『米カリフォルニア州の連邦地方裁判所は、幼少時に米国にふほう入国した若者に在留資格を与え、強制送還を免除するする措置について、トランプ米政権が決定した撤廃方針を一時的に差し止める判断を示した。』
 分解して考えれば、
 『送還』⇒祖国に帰らなければいけない。
 『送還免除』⇒祖国に帰らなくてもよい。
 『送還免除撤廃』⇒祖国に帰らなければいけない。
 『送還免除撤廃 一時差し止め』⇒祖国に帰らなくてもよい。
 ということになる。何ともややこしいことだ。でも、私たちはトランプ政権発足当時からの、ふほう入国者に対する『送還免除撤廃』と言って来た予備知識を持っている。だから、それほど苦もなく、裁判所が出した『送還免除撤廃 一時差し止め』と言う判決を理解出来る。前から政権が言って来た内容に対する予備知識がない場合、中々理解できないだろう。

 日本でもよく紛らわしい表現がある。『原発再稼動に対し、★★地裁が一時差し止めとした仮処分を、無効とする☆☆高裁の判決が出た』という表現はよく聞いたり、見たりする。
 『原発再稼動』⇒原発稼動できる。
 『★★地裁が一時差し止めとした仮処分』⇒原発稼動できない。
 『仮処分を、無効とする☆☆高裁の判決』⇒原発稼動できる。
 面倒臭いね。

 『富士山は噴火しないと言えないこともない。』
 『富士山は噴火しない』⇒噴火しない。
 『富士山は噴火しないと言えない』⇒噴火する。
 『富士山は噴火しないと言えないこともない。』⇒噴火しない。
 初めに頭の中で想像しないと、理解できないと言った。本当に紛らわしい。富士山は活火山であることは皆知っている。『富士山は噴火しないと言えないこともない』というのは、誰でもこの文章は誤りだと分かる。一言、文章の頭に『この1ヶ月間の間では』と期間を入れれば、この文章の内容も必ずしも誤りだとは言えなくなる。
 原発や富士山など身近でよく使われる事柄ならば、ある程度、経験と知識で対応できる。小説などを読む時には、場面を想像しながら読み進む。『否定の否定』の表現など使われると、僕の既に固まってしまった頭では、中々対応出来なくなってしまう。
 日本語は否定の言葉が、文章の後の方に出て来ることが多い。最後にどんでん返しされてしまう感じがする。8年間ほど習ったけれど、ちっともものにならなかった英語では、notやneverが前の方に出て来るから、直ぐに否定だと分かり易い。
 『なるべく、分かり易く表現してくれよ』と、つい思ってしまう機会が近頃とみに多くなった。頭が固くなっている証拠なのかな。

 

第 1089   呵責                 2018.01.11(木)

 カヌー競技で五輪を目指す鈴木選手が、ライバルの小松選手の飲料に禁止薬物を混入させたという報道があった。
 誰もが、ライバル選手の飲み物に禁止薬物を混入させるのは、悪いこと、潔くないこと、卑劣なことと分かっている。
 誰もが、心の中に『たら・れば』の気持ちを持っている。『小松選手が居なければ・・・』『小松選手が脱落したら・・・』
 誰の心の中にも住んでいる悪魔が背中を押してしまった。禁止薬物を用意しなければいけないことを考えたら、今回は『とっさに魔が差した』とは言えず、計画的犯行だ。
 悪いことをしたら、その罪は償わなければならない。
 犯行をした鈴木選手は、事件が露見したことで、選手生命が絶たれることであろう。もし、露見せずにいたなら、彼は一生薬物混入のことを、背負って生きなければならない。やってしまったと言う事実は決して消すことは出来ない。今ではむしろ、露見して良かったと思っているのではないか。
 露見しようが、しまいが、心の中に一生罪悪感と呵責を持って生き続けることになる。露見しない方がずっと彼にとっては重荷になることだろう。
 彼がどのような仕事をしているのか、知らない。職場でも居辛くなるのではないか。
 『ねえ、ちよっと、ちょっと、あの人、見てよ。カヌーの鈴木選手よ』
 なんて、陰口を言われることだろう。恐らく針のむしろを経験すると思う。
 禁止薬物を用意したのだから、実行するまで時間があった筈だ。もう遅いが、考える余地はあったと思う。
 カヌーに限らず、人は誰もがいけないこと、悪いことをしてしまう可能性がある。『人間なんて弱いものだ』と言う事を『前提』に、生きなければいけないとつくづく感じさせる事件だった。

 

第 1088   授業見学                 2018.01.10(水)

 昨日(1/9)に区内の小学校に授業の見学に行った。今の小学校は上審者が入って来るのを防止するため、予め入場申請が要るらしい。
 生ゴミを減らすことに興味を持たれた先生が、『環境を考え行動する会』に相談して、『ダンボールコンポスト』を授業に取り組んで、1ヶ月ほど前から実施して来たようだ。環境の会が掲示物やプロジェクターで説明すると言うので、便乗して小学校の授業見学させて貰った。
 私も以前、ダンボールコンポストによる生ゴミ削減を実践していた。ダンボール箱に基材を入れておき、そこに生ゴミを入れてかき混ぜると、好気性バクテリアの作用で生ゴミは分解して無くなってしまう。ただ、永くやっているとダンボールが水分を吸って、グズグズになってしまう。
 我が家では、屋外で雨の当たらない条件の、ダンボールを置くスペースが無い。直ぐにダンボールがダメになってしまう。そこでプラ容器を用いても出来る、『ミミズコンポスト』に転向してしまった。どちらにしても昨年5月まで、我が家は生ゴミを堆肥化して、生ゴミを市の清掃局に殆ど出していなかった。作った堆肥は家庭菜園の土作りに活用した。
 10:45からの授業に備え、8時半に入校し準備をした。今の小学校は中々設備が整っている。冷暖房はあるし、車椅子の児童が居るからエレベーターもある。授業に使う視聴覚設備も整っている。私が通った60年前の小学校の設備と比較すること自体ナンセンスである。
 ダンボールコンポストの経験があり、特に戸惑うことも無く、会の方の手伝いが出来たと思う。準備万端整った所で授業が始まった。
 いつの時代もそうだろうが、先生や講師の話を聞かず、そっぽを向いている児童が居る。自分だけそっぽを向いているだけならまだ良いが、話を聞いている児童にちょっかいを出す。私の頃だったら叩かれたり、立たされたり、廊下に立たされた。私の担任の先生は当時でもちょっと酷かった。叩くのは日常茶飯事で、時には黒板消しが飛んできた。
 今そんな、叩いたり、物が飛んでくるような事をしたら、父兄からクレームが出て、直ぐに問題になってしまうのだろう。そっぽを向き、ちょっかいを出している児童がいても、先生は何事もないように授業を進める。見学している僕が注意をしたり、叩きたくなる。
 そっぽを向き、友達にちょっかい出す、授業に集中出来ない児童は、放っておかれてしまうのだろう。所定の時間が過ぎれば、所定の教育が終了したとして卒業してしまうのだ。誰もが同じような教育を受ける必要が有るとは、僕は思っていない。日常の会話が出来て、買い物や働いて、お金の遣り取りが出来れば何とか生きていける。
 体罰はいけないと思うが、実際にはこんな小さな事から格差の『素』が始まってくるのかなと、ちょっと悲しい思いがした。叱ってはいけないと言うのではなく、社会で生きるための最低の規律は、児童の頃から身に付けさせた方が良いと思うのだが。

第 1087   母                    2018.01.05(金)

 『旅に病むで夢は枯野をかけめぐる』
 言うまでもなく、松尾芭蕉の辞世の句と言われている句である。芭蕉は晩年、諸国を旅して、その紀行と俳諧を『奥の細道』に残した。私も二度ほど行った山形県 立石寺、通称『山寺』で詠んだのが、『閑さや岩にしみ入る蝉の声』である。
 先ほど『芭蕉の晩年』と書いた。芭蕉を描いた図を見ると、現代の感覚で言えば、70歳以上のお爺さんのように見える。山寺で『閑さや・・・・・』を詠んだ時、彼はまだ45歳なのである。今では壮年、働き盛りの頃なのだ。
 芭蕉は多くの門人に囲まれて布団の上で、元禄七年(1694)50歳で亡くなった。門人達はそれぞれの思いを胸に秘め、もう回復する見込みのない師を囲み、芭蕉の死への旅立ちを見送った。
 まだ良く理解できない幼児の頃を除いて、大人に成ってから8人の近親者を失った。知らせがあって直ぐに駆けつけたが、その内7人はもう既に亡くなった後の対面であった。
父母が1ヶ月も経たない内に亡くなって、もう5年になる。母が亡くなる時を思い出した。
 朝早く病院から電話があり、すぐに歩いて10分ほどの病院に駆けつけた。母はずっと目を閉じたままだった。ベッド脇の緑色のモニターには、母の脈の波形が映し出されていた。母は依然目を閉じたままである。1時間ほどずっと母の顔とモニターを見比べていた。
 ベッドの横で私の小さい頃からの事を思い浮かべていた。母はとても気の強い人だった。自分の思い通りにいかないと、何度でも同じ事を主張する人だった。当然、カカア天下である。祖父とは何度ももめていた。着物を着替えて実家に帰ると言っていた場面も思い出す。子供の頃のことで経緯は分からない。数多く祖父の愚痴、悪口や繰言を母から聞かされた。その頃には、祖父と母の双方の言い分を聞かなければ、判断できないと思うように成っていた。奇しくも、祖父も母も多くの兄弟の末っ子だったことも関係するかも知れない。
 就職して家を出る22歳まで一緒に暮らした。母にとって、私は家の手伝いも良くするし、反抗もしない自慢の息子だった筈だ。私はふまんも多々あったが、言い出せなかった。
 社会に出れば、今まで見も知らなかった人たちと接しなければならない。上司、先輩との関係、下の人ともうまく纏めて仕事をせねば成らぬ。結婚して子供も産まれる。お得意さんからも酷いことを言われ、お金を得る辛さや我慢することを知らされる。他人の中で飯を食い、揉まれれば僕も鍛えられた。
 父母が年老いて、同居するようになった。母は同居するようになっても、思いを通そうとした。自分の中に描いていた『自慢の息子の像』と、現実の息子との格差が大きく離れているのをまざまざと知った筈だ。
 父母が我が家に引っ越して来る時に、姉が手伝いに来た。私に『すまないねぇ。父母と同居することを考えただけで鳥肌が立ってしまう』と耳打ちしてきた。
 ベッドの脇に座っていて、言い古された言葉だが、走馬灯のように子供の頃からのことが、頭の中を巡った。
 母とモニターの様子を見ていたら、次第に心電図の波形の高さが低くなり、波の間隔が広がり始めて、母は静かに亡くなって行った。医師にはどうして患者の生命が、もはやあと幾ばくも無いことを知り、家族に連絡できるのだろうか。
 母が生きた時代には戦争もあって、大変な苦労もしたことだろう。だが、自分の我を通そうとし、我がままを言えたのはある程度、幸せだったと思いたい。
 昨夜、芥川龍之介作の『枯野抄』を読んだ。死を迎える芭蕉を囲む門人達の心の中を推し量って、つい母のことを思い出してしまった。

第 1086   いじめ                  2018.01.03(水)

 自分の子供が学校でいじめに遭ったり、その結果、登校しないようになったとしたら、親御さんはきっと胸を痛めることでしょう。また、自分の子供がいじめをする側になってしまうのも決して望まぬところであります。実際に社会に出て、大人の世界では、子供のいじめどころかもっと酷い。所得格差は益々拡大し、お金を払う側と、頂く側との間ではずっと厳しいものがある。
 昨日、何となく聞いていたラジオで、『福島のお米』に関する放送があった。福島第一原発の事故以来、福島のお米は、人の食用、家畜の飼料用に関わらず、『全量全袋検査』をしているそうです。
 検査場にトラックで運ばれ、パレットに乗せられたお米の袋を検査装置に通ずるコンベアに人手で乗せ、検査を終えたものをコンベアから下ろして、またパレットに積み上げるのも人手でやるそうです。お米は重い。年間60億円費用が掛かっているという。
 全量全袋検査でおよそ5年前、国の基準値を越えるの2袋が検出された。それ以後の全量全袋検査で基準値を超えたものは一つもない。こんなにお金と労力を掛けているのに、消費者から嫌われ、これだけの負担を強いられていながら、他の地域のお米より価格が低くなってしまう。
 ラジオのリスナーからの、投稿では
 『福島産のお米と、他の地域産のお米が2つ並んでいたら、迷わず他の地域のお米を選ぶ』
 『子供には福島産の農産物を、出来れば食べさせたくない』
 とのことだった。
 これは積極的でなくとも、明らかに『いじめ』なのではないか。現在国内に流通している農産物、海産物に国の放射線量の基準を超えたような物はない。消極的でも福島産を忌み嫌う人が『被災地の復興』とか『絆』なんて、綺麗事を以後言って貰いたくない。復興を願うなら、積極的に福島産の農産物、海産物を買うことが、一番の応援になるのではないか。
 ちなみに、我が家ではカミさんの義弟の田舎から頂戴した福島産のお米を、ありがたく頂戴して食している。
 『放射能』と聞いただけで、アレルギー反応を起こしているのではないか。良く晴れた日に干した布団で寝るのは、至福の喜びである。自然の恵みのこの太陽の暖かい日差しは、核融合反応でできたものだ。私たちは常に自然界の放射線を浴びて生きている。だが、放射線もたくさん被爆すれば危険である。線量を考慮せず、ただ『放射線』と聞くだけで忌避反応を起こすのは、おかしいと言うものだ。
 人の心には相反する二つの思いがある。津波や原発事故に遭われた方々の放送を見て、日本人なら被災者のふこうに同情しない人はいないだろう。ところが、被災者の方々がそのふこうを、大変なご苦労して、何とかふこうを切り抜ける切っ掛けをつかみ始めると、何となく物足りないような心情になる。少し大げさに言えば、もう一度その人たちを同じふこうにおとしめたいとすら思うのではないか。そう思えて仕方がない。
 誰もいじめのない、穏やかなで平穏な生活を望む。最近では野菜などの農産物に産地が記載されていることが多い。食品スーパーで手に取り上げた野菜が福島産と分かって、そっと元の位置に戻すような、『何気ない所作』が差別となっていることに気付かなければいけない。
 福島産の農産物、海産物を買おう。それが地域の振興を促し、復興が進む。

 

第 1085   明けましておめでとう           2018.01.02(火)

 明けましておめでとうございます。本年もなにとぞよろしくお願い致します。
 元旦、2日と雲ひとつないような好天に恵まれました。これでは日本海側はさぞかし雪が多いのではと思います。まあ、静かな良い正月です。

 大晦日にパソコンを購入した。家電量販店のパソコン売り場に行ったら、ノートパソコンばかりで、今時は、あまりディスクトップは少ないのかなぁ。『歳末セール』に買うのが良いのか、『お年玉セール』に買うのが安いのか分からない。まあ、買ってしまったのだから仕方がない。
 富士通のノートパソコンを買った。陳列されている製品を見たって、どれが良いのか分からない。メーカーは何処が良いかなと思ったけれど、レノボ、デル、HP、ONKYO、東芝、NECなど様々。今、どのメーカーが一番信頼がおけるかなんてないな。『富士通だから良い』『NECだから安心だ』なんて事はちっともない。採算が悪ければ何処でも、いつパソコン事業から撤退してしまうか分からない。平成は本当に先行き上透明な時代だ。
 パソコン買って、電源入れればすぐ使えると思ったら、中々面倒だ。メーカーに登録、マイクロソフトのアカウント設定、Officeの設定、ATOK、セキュリティの設定と色々なことをしなければならぬ。中々出来なかった。
 画面の指示に従って、入力したのに先に進まぬ。『次に』という部分が画面に一度に表示できないで、下の方にあることを気付くまで大分時間を要してしまった。ほんのちょっとした所で躓いてしまう。つくづく年取ったなと思う。出張セットアップは¥17,000も掛かる。お歳を召されてからパソコンでもと思う方は大変だろうな。
 今この文を入力しているパソコンは、中古品をネットで¥19000ほどで、買ったものだ。新品を買うと、こう煩わしいことをしなければいけないのか。まあ、いつも使っている部分は使えるようになったから良しとすることにします。
 本来ならばここで、今年の抱負など載せなければいけないところです。昨年来、『勇気を出そう』『自然のままに正直に』など散々書いて来ました。それにて代替する事にして、初心表明はナシにします。
 どうぞ、よろしくお願いします。

        

第 1084        魔法使いのお婆さん       2017.12.30(土)

 医院の受付に診察券と保険証を出し、なまえを呼ばれるまで、待合室にあるラックに積み重ねた児童向けの絵本を見ていた。かつての出会いを思い出した。
 場所はクアランプールの空港であったことは間違いない。仕事でマレーシアには何度か行った。金 正男氏が暗殺された現在の空港だか、前の空港だったか忘れてしまった。空港に早く着いて、帰りの便を待っていた。小用を済ませトイレから出て来た時、僕が子供の頃、見ていた絵本の魔法使いのお婆さんにそっくり、瓜二つの方が通路を歩いていたのだ。
 こんな事があるものかと目を疑ってしまった。人の容姿をとやかく言うのは、決して良いことではない。もう彼女とは二度と巡り会う機会はないと思って、敢えて書いてみる。
 幾分腰が曲がっていて背は低い。顔はシワだらけで、とても大きな鉤鼻、ほりが深くて、目が大きく痩せた方だった。僕には顔から彼女の出身地を見分ける能力はない。少なくとも、東アジア、東南アジア、アラブ系、アフリカ系の方ではない。欧州か米国人、あるいはペルシャ系の方かも知れない。絵本に出て来た魔法使いのお婆さんにあまりに似ていた。世界はこれほど広く、多種多様なのか。ただただびっくりするばかりだった。
 これからは仮の話です。もしも自分が彼女であったら、どうであろうかと思わず考えてしまった。
 私が西洋の方に潜在的に劣等感を持っているのかも知れない。若い頃の女性は、とにかくほりの深い美人が多い。だが、歳を取ると決まってブクブク太るか、痩せて皺くちゃになってしまう。
 西洋やイランにもきっと絵本はあることだろう。本人平然としていたが、きっと自分の容姿が絵本の魔法使いのお婆さんに似ている事を意識している筈だ。彼女、内心では常にこの顔について病んでいる。無論、自分では気にもしていないような顔をして、すましている。むしろ、自分が顔について気にしている心の内を、他人に知られることをとても嫌う。
 彼女にもお孫さんが居ると思う。『バアバ、これ読んで』と可愛い孫が絵本を持ってきた時、絵本の中に自分と酷似した魔法使いが出て来たり、孫から『この魔法使いのお婆さん、バアバにそっくりだね』と言われるのが、何より恐れるのではないか。子供は残酷だ。無邪気に思ったままを言ってしまう。
 普段は平静を装いながら、絶えず人の顔の観察を続ける。一人でも自分と同じような容貌の人を見付けて『自分一人ではないのだ』と安堵したい。
 全くの仮定の話でした。実際には彼女はそんなことちっとも思っていないかも知れない。日本人の僕だからこそ、思ってしまうのかも知れない。絶えず周りの人が、自分をどう思っているか気になってしまう。『そんなバカなこと考えたって仕方がない』と自分に言い聞かせればするほど、いつの間にか、また頭の中に浮かんでくる。果てることなく続く
 『そのことは考えない事にしている』と言う方が時々いらっしゃる。そんな事が本当に出来るなら、とても羨ましい。口とは裏腹に、そういう事を言う方ほど、思い悩んでいるのではないか、そうに違いないと思いたい。
 怒れば叫び、悲しい時には泣く。気持ちはいつも幼児のようで居たい。飾らず、繕わず、自然のまま正直に生きて行く人間が一番だ。初めは子供と書こうかと思ったが、幼児にした。近頃では小学生でも自殺することがある。子供と書けなかった。
 周囲の人たちとの摩擦を避けることを慣わしとする生活。自分を曝け出すことの出来ない、病的とも思える弱い性格なのである。自分では気付いている。平静、『裸になれ!』『勇気を出せ!』と心の中で叫んでいる一方で、いざその場面になると萎んでしまう自分が居る。

第 1083        今年読んだ本の中から     2017.12.28(木)

 今年も残りもう僅かだ。今日あたり仕事おさめで、明日から年末年始休業となる会社も多いのではと思う。年末年始の休業期間中に国内外に1泊以上の旅行される方が、4人に1人以上いらっしゃると言うから驚きだ。日本も裕福になったものです。Every day 休みの我が身には、普段と変わらず、全く関係のないことです。
 今年4月から休業となった。仕事を辞める前は、勤めを辞めたらさぞかし好きな本を読めると期待した。年末となって結果を見ると『ブー』であった。毎日休みなのに、働いていた昨年の7割くらいの数しか本を読んでいない。いかに通勤時間を使って読んでいたかが分かる。
 文筆業、これを目指す人、編集者の方々の読書量は大変なもので、年間500~1000冊読む方がざらに居ると言うから驚きだ。私などこれらの方の1/10程度の冊数で、『読書好き』と言うのを、返上せねばならない。
 今年読んだ本の中で一番印象に残っているのは、やはり森鴎外の『高瀬舟』であろう。前にも読んでいて3度目くらいになると思う。初めては多分学生時分で、読んだ後の感じ方が全く違った。今年10月に『書斎』で書いた。もう一度書いてみます。
 『高瀬舟』は罪を犯して遠島にする罪人を港まで運ぶ小さな船です。極貧で病気の弟の自殺を助けようとして、誤って弟を殺してしまった。罪を犯した喜助と、同行する役人の同心の話です。
 『人は身に病があると、この病がなかったらと思う。その日その日の食がないと、食って行かれたらと思う。万一の時に備える蓄えがないと、少しでも蓄えがあったらと思う。蓄えがあっても、その蓄えがもっと多かったらと思う。かくのごとくに先から先へと考えてみれば、人はどこまで往って踏み止まることができるものやら分からない。』
 どう思って読むか、今でも悩みます。『人間の欲望は際限がない』ということでしょうか。一つの欲望が達成してしまうとその状態に慣れて、更に上の欲が出て来る。言わば『ないものねだり』です。これは決して悪いことではありません。文明が進化する原動力、あるいは豊かになる、向上する、努力する気力に成ります。
 例えばパソコンで言っても、個人で所有できるようになって、僕が初めて手に触れたのは恐らく40年ほど前のこと。1か月分の給料ではとてもとても買えなかった。記憶媒体はカセットテープであった。それが8インチフロッピーディスクとなり、5インチ、3.5インチと小さくなり、USBメモリー、CD、DVDと今は記憶媒体が、どれだけあるか老人の僕には分からない。もう大分前に買った外付けHDでさえ、2TBで1000万画素/JPEGで、孫の写真を撮っても約50万枚保存できるという。最新の性能の製品では、どれだけ能力があるのか知らない。
 こうした人の欲望が、製品の性能を押し上げて来た。だが、これにより人々の間の格差が拡大してしまった。性能向上に追従できる冨と能力の持ち主は、この性能UPを駆使して益々富み、取り残された者は置いてきぼりとなって貧しくなって行く現実がある。先に書いた『ないものねだり』はないと困るが、全体として考えて果たして良いことなのか分からない。電通の女性社員 高橋まつりさんなど、おそらくこの競争の犠牲者なのだろう。
 我が家は年金で暮らしている。差し詰め取り残された者である。『ないものねだり』と言う言葉は聞いた事がある。こじ付けの造語の『あるものねだり』は聞いた事がない。『ないものねだり』する能力に欠ければ、『あるもの』を大事に有効に使ったり、物質面でなく精神面での充実を図っていくしか方法がない。
 最近、孫に買ってあげる幼児書以外、書店で新刊本など買っていない。BOOKOFFで¥100~200の物しか買わず、もっぱら所蔵している本を読み返すだけ。最近、流行作家の吊前すら知らない。文筆家や編集者を目指す訳ではないから、1年に500冊の本を読む必要がない。数の多さを誇るのではなく、1冊読んだらじっくり考える方が良いのではと、負け惜しみで思っている。

第 1082       人               2017.12.25(月)

 上野動物園のパンダの子、シャンシャンの公開で大フィーバーが起きている。まだオッパイも飲んでいるようだが、木登りはするし、笹も自分で食べる。とても愛くるしい。TVで動物の生態の番組をよく見ます。アフリカの草食動物は生まれて1時間も経たない内に立ち上がり歩き始める。
 それに比べて、産まれて11ヶ月になる私の孫はハイハイして動き回って、『アーアー』言うだけ。まだ摑まり立ちさえしそうにない。自分で哺乳瓶を持ってミルクを飲む。離乳食をスプーンに乗せて口の前に持って行けば、口を明けて食べる。自分でスプーンを使って食べるのはまだまだ先のことだ。
 人間の子は、他の動物たちに比べれば、随分発育が遅い。ただ、5~6年も経てば他の動物に比べて、抜きん出て脳が発達しているのではないか。
 もちろん、歩く、走る、木に登るなどの基本的な運動能力で勝る動物はたくさん居る。視覚、聴覚、嗅覚などの五感においても優れた能力を持つ動物は多い。道具を使わず一対一で対峙したなら、人間などとても及ばぬ動物は多数居る。よく言われるのが
1.人間は2足歩行により、手が使えるようになった。
2.火を使える。
3.道具を使う。
 一時的に2足歩行できる動物もたくさんいる。恐竜の図を見ると、尾と後足を使って立ち上がっている。前足はいかにも小さい。あんなに体が大きくても、使わないから発達しないのであろう。巨大恐竜でも脳の大きさは、猫の脳と同じくらいの大きさらしい。道具を使う動物もいるが、種類は限られている。
 声や音を発して仲間同士で挨拶したり、天敵の接近など危険を知らせるなどのコミュニケーションを取り合う動物も知られています。
 人が作った分類方法では、人は 真核生物 動物界 背索動物門 哺乳網 サル目 ヒト科 ヒト目という。人とチンパンジーのDNA遺伝情報は99%一致するのだとのこと。これだけ聞くと凄く近く感じる。人とバナナでは50%、人と犬では80%DNA情報が一致するというから、DNAはあまり指標に成らぬ気にもなる。
 人の起源は類人猿の祖先と別れた、600~700万年前なのだとか。想像できないくらいの遥か昔のこと。その内の大部分の期間は、他の動物とさして変わらぬ生活をしていたのではないか。人が他の動物から抜きん出し始めたのは、せいぜい1~2万年前のことではないかと想像します。
 小学生の頃、世界四大文明と言うのを習った。メソポタミア、インダス、エジプト、黄河文明だったと思う。特に目覚しく発達したのは、せいぜい5000年くらいではないのでしょう。
 人は口と耳だけで伝達するだけでなく、伝達内容を絵や記号で伝えるようになった。文字と言う媒体を使って伝えるようになったのが、抜きん出た最大の要因だったように思います。
 本棚を整理していたら、『ニュートン』という古い雑誌が出て来た。ちょっと読んだら、太陽は膨張し続け、80億年後には地球は呑み込まれてしまうそうな。そのずっと前に、暑くて地球上には生物は居なくなるに違いない。出て来た本を読んでしまうものだから、『終活』は遅々として進まない。
 太陽の膨張を待たずとも、今、人間は自ら作った道具で滅亡してしまう危機に直面している。一握りの愚かな指導者の判断次第で、全面核戦争も起こり兼ねない。脈々と続いて来た人間の存続の歴史も終わってしまい兼ねない。嘆かわしいことだ。

  

第 1081       つまらないから         2017.12.23(土)

 落語が好きです。先日川崎で無料の落語会があるというので行って来ました。会場への到着時間が遅かったせいで、最後部の席しか空いていないような状況でした。
 演じたのは前座さんと、二つ目さんの二人の噺家さんが、三席の落語を演じました。三席とも聞き馴染んだ演目です。古典落語の演目数はどのくらいあるか知りません。数え上げれば500くらいはあるのではと推測します。
 しかし、実際に演じられるのはせいぜい百種未満の演目を多数の噺家さんが、とっかえひっかえ高座に上げるため、聞く方の者にとっては同じ噺ばかり、方々の会場で聞かされる羽目となります。何度も聞かされていますから、筋書きは分かっています。それでも古典落語を何度聞いても飽きないのは、演じ手の噺の間(ま)の取り方、仕草、噺をどう解釈しているか、アドリブの違いなどが可笑しいのです。師匠から習ったまま演じるなら録音で十分です。
 『落語を聞きに寄席に行く』というのは、落語好きの者にとっては期待はずれの結果となってしまうことが多い。寄席では多数の噺家、漫才、講談、太神楽、奇術などの芸人さんが多数出演します。一人当たり15分くらいの持ち時間では、短い噺しか聞くことが出来ません。
 めったに聞く事の出来ない噺を聞くなら『二人会』『三人会』というような、¥3000~¥4000を払って有料の落語会へ行くか、ラジオ局が保存していた、今は亡きめいじん、上手と言われた噺家さんの録音放送や市販されているCDで聞くしかありません。
 同じ古典落語でも噺家さんによって、演じ方が違います。『演者による違いを楽しむ』と言うのは上手な噺家さんに付いて言えること。前座さんや二つ目さんに『違い』を求めるのは酷と言う物です。
 夏場の暑い時は別として、普段昼寝をする習慣のない私が、川崎の無料の落語会の三席の落語の内、二席の噺の途中でふかくにも居眠りをしてしまった。前夜、夜更かしをして寝上足だったとか、体調面の理由が有ったとは思えません。『つまらないから』だと思います。
 TV番組の『笑点』は大層な人気のようです。あの大喜利は単なる『お笑い』の座興に過ぎません。別の機会で、笑点メンバーの一人が出演する落語会に行った時のこと。彼の持ち時間は45分あった。大作の古典落語を演じる時間があるのに、彼は半分以上の時間を笑点のエピソードやら、小噺、漫談のような物で費やし、後半の時間で聞き慣れた噺をしたに過ぎなかった。がっかりした。明らかに手抜きの高座である。
 このままでは、古典落語は衰退し、下り坂の末路を加速しながら転げ落ちるに違いないでしょう。落語協会、落語芸術協会、五代目圓楽一門会、立川流の噺家さんも大いに考えるべきものと思います。

 話変わって、我が『おさむの自由区域』にも同じことが言えます。17年ほど前にHPを開設した当時には、ブロガーの絶対数が、まだ少なかったせいもあり、物珍しさも手伝って、1日に30件以上の訪問者があった時もありました。今では1日に2~3人の訪問者があれば良い方ではないでしょうか。アクセスして下さっている方は、多分友人、知人がお情けで訪問して下さっているのだと思います。理由は簡単明瞭、『つまらないから』です。もう少し言えば、
1.若い女性ならともかく、ジイさんのブログを読んでも面白くも可笑しくもない。
2.Google、Yahooなどの検索サイトに登録して有りますが、検索の順位が低い。
3.管理者(私)の熱意が低く、なかなか更新しない。
4.テキストばかりのHPなので読むのが面倒で、時代の風潮に合わない。
5.管理者が、作文を自身の認知症防止目的と考えている。
6.内容が代わり映えせず、同じようなことばかり書いている。
7.管理者が本音を書いていない。個性を全面に出そうとしていない。
 などなど、理由はまだまだたくさん有ると思います。紀 貫之ではあるまいし、女性を装って書くわけにいきません。もうじき古稀で、ジイさんはジイさんなのですから。写真を増やす程度は出来ますが、テキスト形式のHPというスタイルも変更したくないな。
 私自身は『理由 7』の影響が強いと思っています。自分で考える自身のプロフィールは、スポーツや運動が苦手、酒は全く呑めずタバコは大好き、工学部に行ったけれど、実は一番好きだった科目は国語、読書は大好き、テーマが有れば話は出来るが、雑談力は皆無、話題のネタを持っていない。一人で居ることが好きで、団体行動は苦手、引っ込み思案で臆病。こだわりはとても強い。
 更に本当は女性が大好きで、助平であります。話題としては柄にもなく国際政治に関することが好きなのです。知識や情報の入手が新聞や読んだ本からなので、私がこれをブログに書けば、新聞や本の『受け売り』になってしまう恐れが大きい。他の人が言ったり、書いたりしたことを、さも自分の意見であるが如く書きたくない。
 言い訳するようだけど、助平でない男など恐らく居ない。世間体や社会的位置など考えて、たいていの男は、欲望を理性で押え付けて、電車の中で触りたくとも女性のお尻は撫でません。
 最近、『脳内彼氏』という女性向きの言葉を知った。実に的確な素晴らしい造語だと思う。されば、男も、『脳内彼女』を持たない男など、この世に居ないに違いない。例え新婚ホヤホヤでも、今では消息も知らない、昔付き合っていた彼女が必ず脳内に居るし、たまには淫らな妄想もすることもあろう。
 自分も噺家さんと同様、自分の持ち味や個性を表すことを、もっと良く考えなければいけないとつくづく思っている。だがどうすれば良いのか分からない。

第 1080       甘食              2017.12.21(木)

 『甘食』なる食べ物を召し上がったことがあるでしょうか? 『甘食って何だ?』と若い人の中にはその存在すらご存じない方も多いのではと思う。僕自身も55年以上前の、小学生の時に食べた記憶しかありません。昔はよくパン屋さんの店先にありました。最近はとんと見かけません。
 直径10cmくらいで、山型に膨らんだ、外観の色は、パンの外側のような焼けた茶色をしています。割ると中は淡い黄色の、焼き菓子のような物です。
 息子のお嫁さんの実家より、伸し餅、オレンジ、おせんべい等と共に贈られて来ました。
 『ああ、まだ甘食は売っていたんだ』
 と言うような思いです。とても懐かしく頂きました。中にあんこやクリームの類の物は入っていない、ごくごく素朴な食べ物です。先ほど書きましたように、子供の頃食べた以来のことです。
 世の中贅沢になって、中にあんこやクリームが入っていないので、段々皆さん食べなくなってしまったのではないのでしょうか。昔はパン屋さんが自家で作って、販売していたのでしょう。あまり売れないのでパン屋さんも自然と作らなくなってしまったものと推測致します。
 中に何も入っていないのは、メロンパンも同じです。ただ、メロンパンは表面に甘い砂糖のツブツブのような物が塗られている。甘食はそのような装飾は全くなしの純朴派です。3個入りのビニール袋に書いてある原材料を見れば、小麦粉、砂糖、牛乳、鶏卵、椊物性油脂(大豆)、膨張材と到ってシンプルです。
 ビニール袋には他にもラベルが貼ってあります。『第27回 全国菓子大博覧会 功労賞受賞 吊物 栄養菓子 手作り 牛乳ごね 自然の美味しさ 焼き菓子 創業100年 銚子 合吊会社山口製菓舗 』などと書いてある。ちなみに賞味期限は2週間ほどある日付が記されていた。随分、長持ちするんだ。『大博覧会』と言うのが時代掛がかっていて良いし、今時、殆ど株式会社が大多数と言う中で、合吊会社と言うのも珍しい。
 10年位前、丁度私が定年の2~3年前に、定年後は今までずっと勤めてきた製造業以外の仕事をしてみたいと思っていた。国家試験の『行政書士』の試験でも受けようと、2年間真剣に勉強した。2回試験を受けたけど2回ともダメだった。2回とも『一般常識』は合格点まで達していたが、『法令』がダメだった。学校を終えて40年近く経っているので、頭が固く、ボケてしまっているのだ。『試験慣れ』していないのも原因だと思った。その時期に覚えた知識によれば、『合吊会社の社員は債権者に対して無限責任を負う。多くは親子、兄弟などの親族関係にある人々により設立される小規模の経営に適した会社形態である』という事だった。
 合吊会社山口製菓舗も恐らく親子兄弟か何かで経営されている、ごく小さい会社だと思われます。全国規模では他にもまだ甘食を作っておられるメーカーもあると思います。ただ甘食に輝かしい先行きが有るとはとても思えません。時々TVでやっている『思い出のメロディー』のような物ではないでしょうか。
 残念ながら、懐かしいという感傷と企業経営は別な次元のことですから。

  

第 1079       手書き             2017.12.17(日)

 いつも同じようなことを書いて大変恐縮ですが、ものを書く時に何でもパソコンを使うから、小学校で習うような簡単な漢字ですら書けない現実を思い知らされます。
 それでいて読む方に関しては、日常使うような漢字に限れば、読めなくて困るようなことは殆ど有りません。近々で思い浮かべれば、読めもせず、意味の分からなかったのは『忖度』という言葉くらいなものです。もちろん、今では読み方も意味も分かります。
 私が書く手書きの文字はどちらかと言うと右肩下がりの、丸っこい字を書きます。決して上手とは言えません。根が正直なせいか(本人が言うのだから間違い有りません)、他の人が読んだときに、読み間違えられたり、何て書いてあるのか分からないと言われた経験は皆無です。自分で言うのも何ですが、子供の頃から素直な文字を書いてきたようです。
 日記、覚え書き、そう学校の授業で、自分のために書くことはもちろん有るでしょう。社会に出れば、企画書、報告書、日報、そうそう手紙など他人に読んで頂く機会が増えます。
 先ほど、私が書いた物が読み間違えられたことがないと書いたばかりです。そんな私が何故パソコンばかり使うのでしょう。消しゴムが要らない、『切り取り⇒貼り付け』、『コピー⇒貼り付け』、保存など、修正したり、繰り返す言葉用に自由に機能を駆使出来るからだと思います。
 12月の丁度今頃は年賀状を書く時期です。年が明けて頂戴する賀状は、殆どが印刷された物です。良くて印刷されたもののスキ間に手書きで小文は書かれたものです。デジタル時代に少しでもアナログが含まれると何かちょっとホッとした気分になるというものです。
 それでも、最近努めてやっていることが『手書き』です。行動順や考えを纏めたりする時に、ノートに手書きするようにしています。今までは考えながらキーボードを叩き、プリントアウトしてノートに両面テープで貼り付けていました。だから僕のノートは貼り紙が一杯付いています。
 例えばWordで明朝体にすれば、誰がやってもほぼ同じような文字が書けてしまう。相手に読み間違えられてしまうことも、まず有りません。文の中身は別として、そこには個性も何も有りません。筆圧の強さ、力強さ、小さい字も何もないのです。
 時代に逆行するようですが、手書きによってあえて自分を表現するのも一興かなと思っております。土曜日の昼間、すっとパソコンに向かいっ放しで目がショボショボしている影響も有ると思います。精神衛生上とても効果があるような気がします。

第 1078       丹羽文雄            2017.12.13(水)

 丹羽文雄という作家のなまえだけは前から知っていた。BOOKOFFで買い集めた文学全集の中に丹羽文雄という作家の作品がある。一冊になっているから、なの知れた作家なのであろう。
 私の中では夏目漱石、森鴎外、芥川龍之介、川端康成、谷崎潤一郎、太宰治、その他、一流の作品を読むのが、どうしても先になってしまう。全集を持つ以上、いずれは全て読破しようと少しずつ読んでいる。
 今、全集の中の丹羽文雄の一冊に取り掛かっている。丹羽文雄の作品は初めて読む。氏の略歴は知らない。時代背景は戦後のことで、とても読みやすい。どうも、艶っぽい場面がたびたび出て来るが、性描写はない。
 若い頃は性の表現、描写が延々と続く大衆小説も読んだことがある。アダルトビデオも何本も視た。今となっては、その方面の大衆小説にも、アダルトビデオにも全く縁がない。バカバカしいからだ。自分が主人公になるならまだしも、他人の性行為を読んだり、視たりしたって仕方がない。これは、年齢を重ねて衰えたからという事ではないと思う。読んだり、視たりすることが、時間の無駄と思うからだ。
 丹羽作品には艶っぽい場面があるが、さらっとして終わってしまうから助かる。
 生きる上で、性は欠かせないものだが、小説を読む醍醐味は、登場人物が場面毎でどう考え、どう葛藤し、どう行動するかを見ることにある。これが読者を引き付けるのだ。
 予め、どうしよう、どうありたいと、頭の中で描いておけることは多い。だが、相手の勢いに負けたり、周囲の状況で一番成りたくない結末に到ってしまう事も多い。考えて来たことを胸の奥に押し込んでしまい、思っていた事など一言も言えず、心の中では地団駄踏んでいるくせに、表面では何でもないような顔をしてしまうこともある。私たちの生活の中にはこんなことなど、たびたび起こる。
 どうして、あの時強く言えなかったのか、どうして強引に行動に移せなかったのかと、後悔ばかりなのである。心の中で何かひとつ、現状から抜け出したいと誰もが願う。それが何なのか、具体的に何を指すのか自分でも判然としない。このままの現状に馴染むまま、日常生活の繰り返しの中で、自分が埋没してしまいがちになる。  何かひとつ、がむしゃらに、熱中出来るものを見つけて更に進みたい。そんな風に思うのも、一歩一歩、死に近付いている年齢と無関係では有るまい。
 まだ満69歳にも成っていないが、年が改まれば、私も数え年で祝う『古稀』となる。もう目の前の、半月後のことだ。

 

第 1077       悲しくてやりきれない      2017.12.06(水)

 もうちょっと経ってしまったが、12/2に ザ・フォーク・クルセダーズの はしだのりひこ さんが亡くなった。はしださんはシンガーソングライターだったが、『悲しくてやりきれない』は彼が作詞作曲した訳ではない。作詞サトウハチロウさん、作曲加藤和彦さんの曲だ。特に僕の心に今でも染み付いていて、歌詞もよく覚えている。
 僕が19歳だった時と思う。やることなすこと、うまく行かないで、打ちひしがれ、落ち込んでいた。多摩川台公園から川を見ながら、何時間も一人でベンチに腰掛けていた。一日だけでなく、数度、多摩川台公園で川を眺めていた。何度も何度も『悲しくてやりきれない』を口ずさんだ思いは今も忘れない。悔しくて寂しくて、飽きもせず歌っていた。まあ、どなたにも青春のある時期には、そんな経験が有るでしょうけど。親身に話せる友達が居なかったからかも知れない。
 僕は両親、特に母にとっては、ぐれもせず、何でも良く言う事をきく、良く家の手伝いもする自慢の息子だったと思う。子供の頃、姉や弟はもっと自己主張していた。大人になって、姉と話をして時にもそう言っていた。親の言う事に言い返せず、嫌なことにも我慢していた。ただ単におとなしい子だった。多分、自己主張できず、鬱屈していたのだろうと思う。
 元々、僕はちょっと(かなりかな)社会性、協調性に欠ける。最もダメなところは雑談力がないと言う事だ。人と接する時に雑談は大変役に立つ。今でも飲み会などで隣同士で話をあまりしないものだから、宴が進んで、皆があちこち席を立つようになると、いつしか自分の周りに誰も居なくなって、一人になってしまっている自分を見つける。酒を呑めないという理由も有るけど飲み会、宴会は嫌いだ。
 横丁にオバサンが居て、通り掛った見知らぬ人にもすぐ声を掛けて、その後は自然と顔見知りになってしまう人が居る。これは大変な能力である。僕のポケットには世間話の題材になるような、素材の在庫量が少ないのだ。何を話してよいか分からない。取り立てて話すことがないのだ。
 ただ、雑談力がないけど、あるテーマが有って、それに付いてなら大いに話せる。普段、雑談で近くの人と盛んにしゃべっている人が、いざ会議か何かになると、肝心の必要な所では全く発言しない人が居る。僕自身は潔くないと思っている。そんなに話す事があるのなら、会議で発言しろよと思う。そんな人に限って、会合が終わって解散してから、なんだかんだ言う。
 僕が社会性、協調性はない分、カミさんが補って呉れていて、近所付き合いも出来て、何とか生活している。カミさんに感謝しなければいけない。
 僕は子供の頃から青春時代に掛けて、グループサウンズやフォーク、ギターなどに夢中になったこともなく、人の陰に隠れていたような詰まらない子だった。もちろん女性の友達も居なかった。戦争などで自由にならない青春を終えた方には、贅沢な話で本当に申し訳ないと思う。人の評価は他人がするものだが、1日1日を有意義に過ごさなかった、つまらない青春時代を過ごしたと、後悔している。

第 1076       やってみて良かったこと     2017.12.02(土)

 今まで面倒臭くてやっていなかったが、実際にやってみて、つくづく良かったと思うことが有る。それはごく簡単なことなのだ。傍に雑記帖を置いて、読みながらメモしていくことだ。やってみたら、あまり負担にならない。
 小説を読んでいて登場人物が少なければ良いが、多くなるとその人達のプロフィールは、老年になると中々覚えていられない。ちょっとメモしておくととても理解しやすい。それを他の本にも応用してみた。
 今、『ニュースのなぜ?は世界史に学べ』(SB新書 茂木 誠 著)と言う本を読んでいる。久米 宏氏 絶賛!『ニュースステーションを担当する前に読んでおきたかった』と本の帯に書いてある。なるほどメモしながら読んでいくと、大変良く分かる。
 このような新書では、今、何処からも引っ張りだこの有吊な池上 彰氏や佐藤 優氏の著書や、韓国、中国の反日に関する新書は,それこそ何十冊も読んだ。読んだ当初は理解できても、すぐに忘れてしまい印象が薄れてしまう。字面を目で追って読んだり、理解した気になってしまっていたのだ。傍らに雑記帖を置いてメモしながら読んでいたら、もっと理解度も変わっていたに違いない。
 メモはちゃんと書こうなどと、決して思わないこと。著者の言おうとしていることを、ちょっとメモして行くだけだ。他の人が見ても分からない。自分が分かればよいのだ。メモ用紙に書くと何処かになくなしてしまうから、雑記帖が良い。当然読む速度は遅くなる。電車の中では難しいかも知れない。
 『ニュースのなぜ?は世界史に学べ』は自分の知らないことばかりで、目から鱗は大げさだけど、この文を読んで下さる方も、機会が有ったら是非お読み下さることをお勧めする。ただし、雑記帖を傍らにメモしながらでないと、効果は薄いかも分からない。
 もうじきクリスマスである。キリスト教にはカトリックとプロテスタント、その他が有るのは何方もご存知であろう。日本人の多くが『葬式仏教』の仏教徒(?)である。キリスト教の両者の大きな考え方の違いなど、私を含めての多くの日本人には関心がない。クリスマスなど、商戦合戦や、サンタクロースや、プレゼントをあげたり、もらったりするくらいで、信仰心の希薄な日本人にはどうでも良い事なのだ。10月末のカボチャのお祭りももう忘れた。
 一例を挙げれば、EUの中で、イタリア、ギリシャ、スペイン、ポルトガルは財政危機に見舞われている。特にギリシャは酷い。ドイツには資源らしい資源もないのに、EUの中ではドイツが一人勝ちである。イタリア、ギリシャ、スペイン、ポルトガルはカトリック教徒が多く、ドイツは勤勉に働くプロテスタントなのだ。カトリックの国々は『勤勉・蓄財は罪』という教えで、詰まるところは働かないのだ。
 かつてアメリカに移民したのは、プロテスタンのイギリス系の人が多い。勤勉に働いてアメリカは超大国になった。一方、中南米に乗り込んだのは、カトリック系のスペインやホルトガルだ。発展度合いがアメリカとは歴然と異なる。
 ただ、アメリカの繁栄を求めて、ヒスパニック系の移民の割合が増えていく現状を考えれば、アメリカも衰退の一途を辿るであろうな。
 本に書いているように、宗教の違いだけではないとは思うが、宗教の影響が幾分でも有ったことは否定できないだろう。
 話は大分それてしまった。本当は雑記帖を傍らに置いて、メモしながら本を読む話だった。くれぐれも言って置きますが、紙片にメモは紛失するからダメ。中には体系的に書いておく内容も有るでしょうが、雑記帖はあくまでもメモ書きです。雑然と書いてあることが肝心、自分が分かれば良い。
 本を読み終わったら、一度くらいは雑記帖を読み直すことも良いと思う。頭の中にただ読むより、印象深く、理解度が高ければそれで良い。そしてたくさん読むことだ。
 12月になって、今年もあと僅かだ。昨年は働いていて、年間に81冊の本を読んだ。暇を持て余している筈の今年の予測では、これから努めて読んでも恐らく50冊ちょいだろう。もちろん本は冊数という数の問題でなく内容だ。勤めと言うタガが外れて、堕落しているのであろう。

 

第 1075        リーダーシップ        2017.11.28(火)

 昨日、横浜山下公園近くのホテルまで講演を聞きに行った。講師は㈱横浜DeNAベイスターズの初代社長であった池田 純氏である。
 ホール内に入場されて来た氏にはちょっと意外な印象を持った。割に小柄で、スーツ着用されていたが、革靴は履いておらず、スニーカーのようなものを履かれていた。若くて物怖じしていない感じを持った。DeNAが赤字24億円の横浜ベイスターズを買収して、初代社長となり、黒字5億円にした方だ、現在41歳でもう退任されているが、35歳の時に社長になられた。
 社長に就任後、側近の方から社長は球場の観客数を目視で観測出来るくらいにならなければいけないと指導されたと言う。今はスタンドの観客数を入場時に計測して正確に把握できるが、驚いたことに2010年くらいまでは、経験豊富な人がスタンドを見回して、勘で入場者数として居たと言う。
 横浜ベイスターズはそれまで、毎年5~6位と低迷した毎年Bクラスの球団であった。彼は観客動員数を年間110万人から194万人へと5年間で180%増員した。売上も倊増し黒字化を実現した。
 マーケティングという手法を使って、観客の性別、年齢層を調べた結果、20代~30代男性をターゲットとした方策を実施した。彼女や妻子を気軽に連れて来られるよう、トイレなどの設備改善も行なった。
 前のことだから覚えていらっしゃらない方も居ると思うが、ベイスターズの試合が面白くなかった観客に代金を返却したり、1試合の入場料を100万円とすることも実施して、世の中を驚かせた。もちろん、試合観戦だけでなく、当時の中畑監督やGMの高田氏も同行するクルージング込みの案を実行した。
 一般社会では、社長と言えば若くて40代、普通なら50代以上という感覚がある。50代以上の社長ならば、恐らく従来の常識の枠から抜けきれず、マーケティングという科学的手法を使う事も思い付かず、奇抜なアイディアも出て来ない。赤字体質の球団を経営をこれほどまで改革出来なかったであろう。
 池田氏のモットーをメモしておいた。
*何かやろうと思ったら、モチベーションを下げない。
*パフォーマンスを上げること。
*なりたい自分の姿を明確化すること。
*守るべきことばかりではなく、変えるべき事を考える。
*なりたいブランドを作る。
 全部は書き切れなかったが、おおよそこのようなことだった。
 自分について言えば、上のことは僕にはほとんど当てはまらないし、その情熱も湧いて来ない。
 池田氏は現在DeNA横浜ベイスターズの社長ではない。契約期限が切れて辞職している。ベイスターズには愛着があるが、あっけらかんとして、次の仕事に就いて活躍している。
 もし仮に、自分がベイスターズの社長の立場になれば、やはり保身を考えてしまうであろう。だが、それでも色々な方策も考えると思う。空想の中では積極的に振る舞えるのに、一旦会議に臨めば、誰もが思いつくような無難なことを言って、からっきし意気地がなくなってしまう。自分は途端に一番そうなりたくない自分に変わってしまうに違いない。
 考えて来たものは胸の中に押し込んで、心の中では地団駄踏んでいるのに、何気ない顔になって当たり障りのない世間話を交えてしまうのではないか。
 帰りにみなとみらい線に乗るために駅に着いたら、ここにも地下駅の太い柱のそれぞれにベイスターズ選手の大きな写真が張り出してあった。『横浜イコール港』というイメージも段々変わって来るのではないか。日本シリーズの時には観客が球場に入り切れなかった。ベイスターズがいつも優勝に絡むように強くなり、ペナントレースの平時の試合でも球場が満員となるように望む。

 

第 1074     年賀状              2017.11.25(土)

 今時、年賀状ハガキの裏側の文字記入や図柄など贅沢を言わなければ、ネットに繋がったパソコンとWord が有れば、寄せ集めの配置などものの30分も有れば出来てしまう。ネットに繋がっていなくても、市販の年賀状作成用の本を買ってくれば、同じように出来る。
 一度だけ表面印刷の住所録作りに手間が掛かる。一旦作ってしまえば、何年も使える。あとは、年賀状印刷の所要時間はプリンターの能力と印刷枚数による。
 簡単に出来ると分かっていても毎年、年末も押し迫って、いよいよと言う時まで重い腰が上がらないのが年賀状作成と言うものだ。
 世間一般のことは、始動さえしてしまえば道半ばまで出来たと言っても過言ではない。誰もが作業に取り掛かるまでの時間が長い。
 昔は版画用のゴム板を買って来て、彫刻刀で多色刷りなどに挑戦したものだが、今はとてもそんな面倒臭いことをやる気が起こらない。イモ版とか、あぶり出しと言うのもやった。とても懐かしく思う。ちなみに、ゴム版を使って版画を刷る場合に、絵の具に糊を混ぜると色の乗りが良い。
 時に、毛筆の手書き年賀状を頂戴することがある。何枚書いているのか知りませんが、何日も掛け、相当な時間と手間が掛かっているに違いない。その根気には頭が下がります。仮に筆に自信があっても、とてもやる気が起こらない。
 僕はやった事がないけれど、その昔、『プリントごっこ』と言う物があった。今もやっている方がいるのかしら。
 皆さんがパソコンで図柄の印刷する時代こそ、版画で製作した、手間隙掛かった年賀状がその存在感を増すというものだ。
 それにつけても、プリンターのインクは高いなぁ。プリンターメーカーの純正インクを使わずに、安いインクを使ったらプリンターの調子が悪くなったという話をよく耳にします。それで純正インクを使い続けている。プリンターの本体価格を低くしてインクで稼ごうとしている意図なのだろうけれど、孫の写真印刷なんかすると、みるみるインクの残量が減って行く。トホホ・・・。
 純正インクはいくらなんでも高過ぎるよ。何とかしてくれ。

 

第 1073     ドリア               2017.11.22(水)

 11/21の読売新聞夕刊『発言小町』のコーナーにこんな書き込みがあった。『昨年65歳で定年退職になった夫が、ようやく自由の身になったと、毎日のようにゴルフや釣りに出掛けてしまう。退職後には一緒に旅行でも楽しむものと思っていたら、期待はずれ。長年支えた妻へのねぎらいの言葉もなく、一人遊び三昧の生活をしている』との妻のぼやき発言の掲載があった。
 一方で、世の中には相反する亭主も居る。定年退職後の夫が毎日家に居て、家事に関することは何もせず、一日中寝転んでテレビや新聞を見ながらゴロゴロしていて、鬱陶しくてたまらないと言う別の意見もよく耳にします。
 両極端の定年後の亭主像である。一体定年後の夫はどう振る舞えば良いのであろうか。始めの方の行動はある面羨ましい。だが、所詮はお金の問題だ。軍資金がなければ出来ないことである。孫にも何か買ってやりたいし、年金だけでは生活も苦しい。少しは蓄えが欲しいところである。余程の財がなければ、毎日外出して遊びまわるのは出来ないことだ。
 私の場合は、退職後、家には居ることがほとんどだ。一日中テレビを見ながら居間でゴロゴロしていることはない。テレビゴロゴロではカミさんに疎んじられる事を知っていたからだ。担当の家事が終わってしまえば、食事時以外はほとんどパソコン部屋に居る。夕食後はパソコン部屋に行くことはなく、ほとんど居間に居る。勤めていた頃と同じようなパターンだ。
 一緒に外出する場合の提案は、ほとんどカミさんがする。我が家の外出パターンはカミさん主導で行われて居て、僕はカミさんの提案に従うと言っても良い。昨日も砧公園に紅葉見物に行って来た。帰りのバスの終点が二子玉川で、丁度昼時を過ぎていたから、ショッピングモールのビルの7階のレストラン街で昼飯を摂ることにした。
 『何、食べる?』と訊ねられて
 『ドリア』と答えた。
 エレベーターに乗って、レストラン街に行った。カミさんが用足しに行っている間に、日本蕎麦屋のウインドウを覗いたら、カレー蕎麦が単品で税抜き¥1400と表示されている。ざるソバも同様のいい値段だ。私なんぞの行く街中の蕎麦屋だったら、¥700~800と言うのが相場だろう。ここはえらく高い。
 僕がドリアと言ったのは、外食で日本蕎麦、トンカツ、中華そば、スパゲッティなどはもう何度も経験しているから、自分の『食』の範囲を広げたかったからだ。恥ずかしながら、ドリアを食べるのは生涯にして2回目だ。しかも、初めて食べたのも今年になってからのこと。それまで、そのなまえや存在すら知らなかった。
 ご存知ない方のために説明すれば、オムライスの卵の厚いものに、ベーコンやキノコを添えて、全体をとろけるチーズで覆っているようなもので、さして高級なものではない。
 二人用の席が並んでいて、席に案内された。左隣の席には外国人の男と日本人女性の若いカップルが居た。男の方が盛んにしゃべっている。きっと何処かでナンパしたに違いない。男のしゃべる英語は簡単な事ばかりで、隣に居る僕にも解る。女性の方は英語が堪能でないらしく、極々簡単なことしか言わない。繁華街でよくこうしたカップルを見かける。何故か決まって、『私には外国人の彼がいるの。どんなもんだ!羨ましいだろう』と同年代の女性に向けて誇らしげな顔付きをしているように見える。どうせ、体を弄ばれて寂しい結末を迎えるに違いない。想像ですけど。
 右隣の席には僕らよりは若い夫婦のようだ。旦那の方はサラリーマンならまだ定年には達していない感じがする。それにしても平日の午後にこうして夫婦で食事して居られるなんて、自由業かな。朊装も遥かにオシャレしている。
 やはり、ドリアの店は僕には似合わないかも。彼らを見ると、いかにも自分が場違いな所に来てしまったような気になる。経験が足りないと言うか、垢抜けていないのであろう。
 2回の住宅ローンを払うために懸命に働いて、ろくに家族で外食などしなかった。(出来なかった?)今は仕事をしていないから、背広など要らないが、体型が変わってしまって、着られる背広も一つしかないし、履いているスニーカーも靴屋の店先の山積みの品だ。
 ドリアは先ほどのカレー蕎麦よりもずっと安い。決して高級な食事でも何でもない。それなのに気後れした感じを持ってしまう。今まで使って来たお金の総額の問題なのか。おおよそ、スマートさがない。
 他の人がオシャレしている事は分かる。自分はファッションにはまるで興味がないのだ。垢に染まった物は論外だけれど、破れていたり、みすぼらしい格好でなく、暑さ寒さに応じた朊装なら、それで十分だと思っている。外出着ではないが、やはり永年着慣れた作業着姿が僕には一番似合う。ドリアでなく、定食屋が僕には最も相応しそうだ。

第 1072     桜新町               2017.11.16(木)

 神社にお参りに、桜新町まで行ってきた。ようは暇なのである。それがどうしたと言われれば、何も言えない。
 神社にお参りに行く時、拝殿前でお賽銭を入れ、鈴を鳴らす。その後、『二礼、二拍手、一礼』をするのが、一般的な神社のお参りの仕方である。『二礼、四拍手、一礼』をお参りの作法とする神社があると聞いた。
 かつて、『村の鎮守の神様』というHPを開設していた者としては、ぜひ参拝しておきたいとの気持ちになり、ただそれだけの理由で田園都市線の桜新町まで行ってきた。神社のなまえは『桜神宮』と言う。
 携帯を持って行けば、予め地図で所在地を調べておかなくとも大丈夫だと思っていた。駅の出口を出たら、地図アプリが全く作動しなかった。已む無く、人に訊ねればすぐに判った。元はもう少し敷地が広かったらしいが、恐らく経営上の都合で、敷地内を区分して『桜幼稚園』を作ったらしく、神社としては中小規模のものだった。
 ご祭神にはたくさんの神様が連吊で書いてある。左右の灯篭は普通、石製の物が多いが、木製で彫刻が施してあった。狛犬は見当たらなかった。拝殿に向かうと、なるほど『二礼、四拍手、一礼』と書いてある。この神社の作法に従ってお参りをさせて頂いた。世の中には、『うちの神社は、二礼、八拍手、一礼』がお参りの仕方だと言う所もあるという。へそ曲がりか、目立ちたがりか、うちは他とは違うと言う神様がいるのかしら。八百万の神と言うほどたくさんあるのだから、変わり者の神様がいても仕方がない。
 いつも、『しまった!』と思うのだが、作法に従い『二礼、二拍手、一礼』するうちに、どのタイミングで願い事をするのであろうか。作法に気を取られているうちに、最後の『一礼』になってしまって、願いをする機会を失してしまうのだ。『家内安全』『病気平癒』『学業成就』『入学祈願』『良縁祈願』などなど、『入学祈願』『良縁祈願』はともかく、例え少額の5円でもお賽銭を投入する以上は、たくさん願い事を叶えて欲しいのだ。神社にお参りする時は、願い事をする機会を逸しないよう気を付けねばならぬ。
 中には疑り深い人もいる。神社仏閣を御参りする時に、ご朱印帳を持ち歩く人が居る。朱印はその神様や仏様が、『確かに願い事を聞きましたよ』という印を押して貰うものである。神様も仏様も参拝者が大勢来るから、一々メモしておくのも大変である。参拝者から信用してもらえないのか自ら認めたようなものだ。たいてい、300円を要する。
 桜神宮のご神紋は桜の花だった。神社の神紋は巴紋が多いが、桜の花の神紋は初めて見ました。神木になるような大きな木は見当たらなかった。小さな神社なのでお参りはすぐに終了。
 折角、桜新町まで来たのだから、『長谷川町子記念館』に行った。小田急線の『祖師谷大蔵』の街がウルトラマンの街であるように、桜新町は『サザエさん』の街である。街中のあちこちにサザエさんのファミリーの像が建てられている。
 像だけでなく、サザエさんのクッキーや、ウィンドウにはサザエさんファミリーの人形などサザエさんにちなんだ物が溢れた街だ。こんなに国民に親しまれたマンガも珍しい。残念ながら、国民栄誉賞を受賞されたのは、長谷川町子さんが72歳で亡くなった翌年だった。
 スマホのアプリが使えず、メールも通話も出来ない。帰りに通信業者の店に立ち寄った。電波の受信が出来ない状態になっていた。時たまこういう状態が起こるそうである。電源を入れ直して再起動したら直った。スマホ初心者だから、また何処か訳も分からずボタンをタッチしてしまったかと思った。単なる機械のトラブルであった。土地勘のない場所で、地図アプリが使えず残念でした。

 

第 1071     仕組                2017.11.11(土)

 皇室で赤ちゃんが生まれてなまえが付けられると、その時点からその子は『様』と言う敬称を付けて呼ばれる。その子に何が出来るという能力に関係なく、様という敬称付きで呼ばれる。これは天皇でも皇太子でも同じで、彼らがその位置に居るについて、特別の能力や業績が有していることに由来していない。歴史上、紆余曲折があったようだが、彼らの遠い昔の祖先はとてつもなく喧嘩が強かったり、頭が良くて部族か何かの『長』となったのが始まりで、それを連綿と引き継いでいるのであろう。
 原始の時代から、食料を得るには複数の人間が集まって、協力をし合えば獲物を獲りやすい。自ずと、そこにはリーダー(長)と言うのが現れる。多分、経験豊富な長老とか、喧嘩の強い者がなるのだろう。リーダーは獲物の取り分も多い。ここでもう、格差が生じてしまう。リーダーを中心に縄張りと言うのも出来る。隣のグループとも争いにもなる。力と力の争いである。
 ここまでは他の動物たちも同じだ。ライオンにしろ、トドにしろ、1匹の強いオスが多数のメスを抱えハーレムを形成し、狩りの場所を巡って、縄張り争いを演じる。他から別のオスがボスの座を狙って来れば、戦いが起きる。群れ同士の争いも起こる。ただ、1匹のオスでは形成する縄張りも、メスの数も自ずと範囲が限られてしまう。人間と他の動物の違いは『家来、配下』という仕組を持っているかどうかだろう。
 隣り合わせの部族との争いに勝ち、段々大きくなると、一人ではとても領地を治め切れない。朊従する配下にその場所を分割して与え治めさせる。治める民からは、民が生きられる程度の物を残して、残りは奪い取って、次の戦に備えて武器を調達したり、裕福な生活をする。
 見せしめに、配下の者や民を殺すことは有っても、グループ内、皆殺しと言う事はない。家来や民、百姓が居なければ、戦争に勝てない。民、百姓は食物を作る道具、手段であると同時に、戦時には雑兵として、戦いの手段でもある。
 今川、北條、武田、上杉、織田、豊臣、徳川などなどの家々はこうした事の積み重ねで、体制を組み上げて、成り上がって来た。例え、当代がへなちょこの殿様で有っても、遠い祖先はめっぽう喧嘩の強い人や、頭の良い人が居て、築き上げて来たものなのだ。
 明治以降、形は違っても争いは続く。試験という制度を使って、優秀な人材を役人として登用したり、選挙と言う制度を用いたりする。『腕力重視』から『脳力・能力重視』と変わって来てはいるが、決して戦いは終了していない。それは、主に『競争』という考え重点となっていると思える。
 近年でも、同じ考え方か、近い考えの人達が政党を組み、他の考えの人たちの政党と選挙で競い合う。多数の支持を得た党が、自分達の都合の良いような仕組を作り、政策を実行していく。あまり、一部の利益を優先して偏った政策を行うと、次の選挙に勝てなくなってしまう。そこは、やはり民を生かさず、殺さずの按配の政策を実施し続けなければいけない。
 政治の世界だけでなく、民間も同じだ。電通と言う広告代理店がある。博報堂など同業他社に比べ売上は断トツ1位である。ここも競争である。『雑兵』であった高橋まつりさんも君主の競争のために働き過ぎて短い命を断ってしまった。
 社会は企業の競争のために人件費を圧縮する手段として、『自分たちの都合の良い時だけ雇用する制度』として非正規雇用の派遣社員や契約社員の制度を生み出した。
 本人の努力が足りなかったのだと言われれば、それまでなのだけれど、非正規雇用で低賃金で働く人たちの犠牲によって、所得格差拡大という社会問題を起こしている。先日、久しぶりに世田谷区を散策した。広い庭付きの大きな家、2~3台の車が入るようなシャッター付きのガレージを持つ家が並んでいた。門扉にはセコムのラベルが貼ってあった。
 世の中にはこれより、もっとずっと裕福な家があるだろう。一方、家の素材がダンボール、ブルーシートであり、隙間から夜空が見えるような、花鳥風月を友とする家に住む人が居るのも現実だ。
 これだけ世間で騒がれているのに、2017年には『いじめ』問題が増えているのだと言う。複数の人が寄ればグループが出来、自然発生的にリーダー格の人が出て来てしまう。異を唱えれば排除されてしまうのは、衆議院選前に見たばかりだ。
 複数の人が居て、グループが出来、リーダー格が出来てしまうのは、人間に限らず動物でも起きていて、本能に起因するものと思える。『皆、仲良く勉強しましょう。学校生活を送りましょう』と声高に言おうと、動物が生来持って生まれた本能ゆえ、少しは改善されても、いじめは根絶は出来ないと思う。いじめられたら逃げるしかないのか。
 働き過ぎたり、学校でいじめにあって自殺して報道されるのは極々一部である。日本では近年、年間3万人を切ったとは言え、1000人の内2人以上の方が、毎年自らの命を断っている。学校のいじめより、社会のいじめの方がよほど陰湿で、深刻だ。学校のいじめに耐えられないなら、社会でも行き延べられまい。
 日本は北方領土の返還を求めている。開発援助だけ求められて、中々進展の兆しが見えない。元々日本人が住んでいたから、『日本固有の領土』と主張している。他国と陸続きであるロシアは戦争により、国境は変わるものだと基本的に思って居るに違いない。日本固有の領土と言っても島国だ。陸続きの国々の国境は戦争により変わるもの、領土は戦争で勝ち取るものという基本の考え方を持つ人には、『固有の領土』という考え方が理解できないのではと推察する。それを言えば、パレスチナを始めとする、中東問題は起こらない。世界中に領界争いは幾らでもある。
 北方領土が帰らないのは、結論から言えば、日本に力が無いからだ。本文は下書きした上で書いているのではないから、何か思い付くたびに、長々色々なことを書いてきた。力が無ければ、主張は通らないし、生きられないのかなぁ。北朝鮮はそう思っているに違いない。

 

第 1070     弁護士               2017.11.10(金)

 東京都目黒区の生まれである。ネットで江戸(御府内)の範囲を調べたら、私の生まれた場所は東京生まれと言えど、江戸市中ではない。
 落語『目黒のサンマ』でも、殿様が遠乗りして、鷹狩りに行ったくらいだから、目黒には昔、野ウサギなんぞいた所なのであろう。従って、私は目黒生まれでも『江戸っ子』ではない。
 父は日本橋、母は芝の虎ノ門の生まれである。私の体には『江戸っ子の血』が継承されていると思える。『江戸っ子』と言うのは、威勢が良さそうだけど、あまり良い意味に使われない。おっちょこちょいで、直情的で、論理・理屈方面に関してはからっきしダメである。自分もこういう『側面』を多大に持ち、子供の頃からそんと後悔ばかりしている。
 他人を害したり、殺傷、騙してお金を巻き上げるなど悪いことをやっておきながら、刑罰の方は御免蒙むるなんて、下劣な根性の持ち主と、職業とは言え、その弁解を手助けし、あわよくば、刑罰を逃れようなんて企む人たちが居る。
 弁護士は社会的には栄誉ある職業であると思う。でも私自身、あまり波長が合わない。私がこれから犯罪を犯した場合、お世話になって『朝令暮改』でまた豹変するかも知れないが・・・・。弁護士になるには、他人が寝ている時間ですら猛勉強してやっと司法試験に合格する。頭が良くなくては成れない。
 弁護士になった暁には、社会的地位を得て、高収入が得られ、大きな家に住み、将来に渡り食いぱぐれない職業なのだろう。私は夜は寝たいし、犯罪者の弁護などしたくない。
 例えば、青酸殺人事件の筧 千佐子被告の裁判で、始め『黙秘します』と言ったのは、弁護士からの入れ知恵であろう。『忘れました』もそうかも知れない。この裁判で弁護側は、被告の認知症を理由で『公判が維持出来ない』という方針を採っている。弁護士も筧被告の犯行を認めた上で、それなら方向転換して、『認知症で公判が維持出来ない』として、刑罰を逃れる作戦であると思える。
 子供の頃、いたずらをしたらしたで、見つかって、怒鳴られたり、叩かれたりするのは当たり前のことだった。犯罪を起こし、捕まって『私はやっていません』と言うのは、自分はどうも、潔しとしない。たまに冤罪というのがあって困るけどね。やっていないなら、徹底して『私はやっていません』というべきだ。
 『やっている』のに『やっていません』と言うのは卑劣だ。その被告の手助けして少しでも刑罰を軽減しようとするような仕事には私は向かない。議論に長けた人が善人とは限らない。やり込められる方が悪人とも決まらない。(もちろん、私には司法試験に合格するような資質も実力も才能もない)
 時々、思い出したように、死刑が執行されたとの報道がある。すると、決まって弁護士の組合の方から、『死刑制度反対』のメッセージが出される。死刑判決を受けるような極悪人には極刑を受けて償ってもらわなければ、どうして被害者の無念が幾分でも晴らせるのか。
 サリンを撒いたオウム真理教でも、まだ誰も死刑執行が行われていない。今度の座間の『自殺願望』事件で9人もの人々を殺した白石容疑者も、裁判が行われれば、恐らく死刑判決だろう。犯罪が行われ捕まった報道に、国民は驚き、震撼し、恐れられる。国民の誰もが白石容疑者を憎む。だが、裁判を行ない、死刑が確定して、年月を経て死刑が執行されると、決まって弁護士会は『死刑制度反対』のメッセージを出すに違いない。直情的な私には訳が分からない。

第 1069     朝令暮改              2017.11.08(水)

 『朝令暮改』 朝に命令を出して、夕方それを変える事。法令が出ても、すぐにあとから改められて、あてにならないこと。(岩波 国語辞典による)
 自分の説が変わらないのは、成長、発達していない証拠である。
 青酸化合物殺人事件で、筧 千佐子被告が地裁の法廷で、『黙秘します』と宣言した直後に、検察官の質問には『毒を飲ませました』と証言し、2日後には『忘れました』と言うもようなのだ。
 実は昨日、シルバー・スマホ・デビュー致しました。
 以前から当HPを訪問して下さる方はご存知でしょうが、電車の中で座っていらっしゃる方が、軒並みスマホを覗き込んでいるのは、一種異常だとか、そんなに他の人と繋がっていないと心配なのか、あるいは営業の人以外、移動しながらの通信手段は要らない。『費用対効果』を考えたら、あんなにバカバカしい物はないなどと、散々申し上げてまいりました。
 昨日、カミさんのガラケーが壊れてしまいました。通信業者に持ち込んだところ、機種が古いためもはや、修理対象の機種に当てはまらず、新しい機種を購入して欲しいとの由。この際、カミさんは簡単なスマホに変更したいと希望した。
 私も一人で散歩に出て、心臓の持病を持つ関係でいつ具合が悪くなるか分からん。と言う事で、カミさんと同じシルバー・スマホ契約となった次第である。
 店で見積を出して頂いたら、機械購入費を月々24回の割賦で払う関係上、『費用対効果』の面で、スマホはとても太刀打ちできそうにはない。やはり皆さんが持って使っていらっしゃるのを見れば、僕も欲しい。また、歳を取って、スマホも使えないのかと思われたくないという気持ちもある。
 カミさんと同じ機種なのだが、やはりパソコンに慣れているせいなのか、僕の方が少し慣れが早い。こんなことなら、シルバー・スマホでなくとも良かったような気もする。
 ガラケーを止めてから1年以上経つ。それまで、ガラケーには紐を着けて、首に下げ、胸ポケットに入れていた。そんな関係で、以前のガラケーの紐を外してスマホに付け替えて、胸ポケットに入れた。散歩の際に見たら、おおよそ首から紐で吊るしている人など居ない。
 胸ポケットに入れ携帯しても、ちっともメールや通話が来ない。それはそうだ。『スマホ・デビュー』したことは娘や息子他、数人しかメールアドレスや電話番号を知らせていないからだ。連絡が来る筈ないのだ。今時分、スマホなど珍しくもない。皆さん忙しいのだ。でも、ちょっと寂しい気もする。
 今頃、開設の連絡をすれば、『まだ持っていなかったのか』と言われてしまうだろう。『携帯電話の番号が変わりました。メールアドレス変更しました』と連絡すれば、『オレオレ詐欺』と間違われてしまう。だから、あまりあちこち連絡しない。
 私は家に居る時、ほとんど3階に居る。カミさん、『ご飯だよ』の連絡は、玄関のインターホンの室内受話器に付いているブザーで知らせる。ブザー1回鳴らすと、『誰か来たから、降りて来て』であるし、ブザー2回鳴らすと『ご飯だよ』の合図である。まるで、昔の路面電車と同じだ。あれも、1回『チン』と鳴らせば、なに、『チン、チン』と2回鳴らせば、かに、の約束事が運転手と車掌の間で取り交わされた合図なのだ。
 3階に居たら、スマホに通話の受信の音がしている。何だろうと思って出たら、カミさんから、『ご飯だよ』の連絡であった。
 こうなれば、自分の説が変わらないのは、発達していないことの証拠と開き直るのだが、外信でなく、家内で使うようなのは『かけ放題』ではあるが、やはり、お金の無駄であるに違いない。決して大きな家ではないのだ。

 

第 1068     桂 三木男              2017.11.01(水)

 時々、会話の最中に、可笑しい場面でもないのに、自分が喋った後、『ワッ、ハハハ』、あるいは、『ハッ、ハハ』と言う方を見受ける。真剣な討論でもこれをやるり、繰り返す。初めてお話した時、この人、頭がおかしいのではとさえ、思った。聞いていて、ふ愉快な気分にさせられる。
 多分、自分の話に自信がないか、照れ隠しか、気弱なのかも知れない。以前勤めていた会社の工場長がそうだった。私の後輩にもこの癖の人が居た。会議中、これをやったものだから、『何が、可笑しいのだ!』と常務から叱責された。ふ快に感じるのは私だけではなかったのだ。それ以降、本人も気にして、注意しているようだった。
 『気合だ! 気合だ!』と言う、レスリング浜口京子さんの父である、アニマル浜口氏も言うが、あれはTV出演の際の演技で、普段は言わないようだ。
 私は落語が大好きです。寄席に行くには遠いけど、1年に3回ほど行きます。落語の速記本もたくさん読んだり、CD、カセットテープでも聞く。特に好きな噺家さんは決めない。皆さんそれぞれ、個性があってそれぞれが好きだ。
 もう大分まえのこと、ラジオで林家たい平さんが、若手二つ目の噺家さんを招いてのトーク番組があった。そこに三木男さんがゲストとして招かれたことがあった。その三木男さんが、『ハッ、ハハハ』の癖の持ち主だった。可笑しな場面ではないのに、自分が喋る後に、たびたびやらかす。話芸を生業とするのに、聞いている者をふ快にさせるのでは、噺家失格である。一度で嫌になってしまった。僕は落語界に”嫌いな噺家さん”を作りたくない。
 桂 三木男さんは、『昭和のめい人』と言われた、三代目桂 三木助を祖父に、四代目を叔父さんにもつ、サラブレッドである。これから、修行に修行を重ね、将来は五代目 桂 三木助を継ぐ家筋であった。
 彼が将来、噺家を自分の生業とすることを決心し、前座修行を始めた時から、周囲から将来は『桂三木助』の大めい跡を継ぐと見なされ、言い続けられて来た筈。彼のオジイサンは『昭和のめい人』と呼ばれた人で、宿命とは言え、前座、二つ目の三木男には、将来の『三木助』のなまえは重すぎた。彼の『ハッ、ハハハ』の癖は、自信のなさ。照れ隠しの表明に違いないと思っていた。
 お節介は承知で、林家たい平さんのホームページから、『たい平さんから、三木男さんに注意してやって下さい』とのメールを入れた。たい平さんから、『三木男君に注意をします』との、結構長いメールの返事があったと記憶している。
 余計な事とは思ったが、三木男さんが、オジイサンやオジさんの後を継いで、めいじん、上手となって貰いたくのことだ。まさか、高座ではやらないだろうが、話芸を生業とする人は、普段から注意しなければいけないことだ。
 その後、寄席、テレビ、ラジオでも、三木男さんの話芸に接する機会はなかった。
 落語協会の秋の真打昇進の発表があった。この度、三木男さんが、真打昇進すると共に、目出度く、『三木男改め、桂 三木助』を襲めいする事となった。恵まれた家系とはいえ、大変素晴らしいことである。高座では絶対ないだろうが、これからは、トーク番組に出演機会も出て来るだろう。其の時、『ハッ、ハハハ』の癖は無くなったか、非常に楽しみである。
 真打となり、桂 三木助を襲めいしたからと言って、祖父の三代目三木助の話芸には足元にも及ばない。これから精進して修行を重ね、めい人、上手と呼ばれる大看板になって下さることを切に望みます。
 ついでに書きますが、日本TVの人気番組『笑点』を私あまり好きでありません。あの『大喜利』は落語でも何でもありません。噺家さんの余芸、TV向けの『お遊び番組』に過ぎません。どうも人気ばかりが先行しているような気がする。
 5代目古今亭 志ん生、6代目三遊亭 円生、8代目桂 文楽、3代目三遊亭 金馬、3代目桂 三木助、5代目柳家 小さんなどの、皆さん亡くなってしまった。彼らの噺は、CDでしか聞くことが出来ない。でも、時間をおいてまた聞けば、いつも新鮮な感じをもたらしてくれる。