僕の家には狭いながらも自分の書斎があります。広いスペ一スではありません。たった3畳の大きさ
長年、書斎が欲しいと思って来て、家を建て直す際にやっと出来た一人きりになれる唯一の空間。
他の人が何と言おうと断じてここは僕の書斎なのだ。(実情は、パソコン部屋!!??)
日記とは別にもう少し長いスパンで、普段思っていることを書こうと思って居ります。
このHPのメインになるようにしようと思っています。
『 今時分まだそんな事やっているのか 』と言われそうである。我が家ではヤカンでお湯を沸かし、魔法瓶に入れて、そのお湯を使ってお茶など飲んでいる。『 魔法瓶 』と言う固有めい詞も、お湯が冷め難いと言う前時代的なものです。世の中には既に便利な商品がたくさんあります。子供が触れて倒したりすることなく、大人ばかりの家なので、別に壊れることもないので、我が家ではそのままずっと使っていました。
昨夜、その魔法瓶が壊れてしまった。お湯を出そうと天井部分を押すと、ゴボゴボ変な音がしながらお湯が出る。調べてみたら、内部でお湯を汲み上げるパイプに付いているプラスチック製のエルボの部分が経年劣化で穴が開いてしまったのです。
カミさん、説明書を引っ張り出して来て、平成14年に購入したものと判明、毎日毎日13年の長きに渡ってご奉公して頂きました。でもね、プラスチック製のエルボに空いた穴は、おさむ爺がエポキシ樹脂の接着剤を使って穴埋めしたら、また元のように使えるようになってしまった。エルボ全体が熱で経年劣化してしまっているから、応急処置で使えたとしてもこの先、長いことはない。
おさむ爺は色々な種類の接着剤を持っていて、用途によって使い分けているのです。
ス一パ一マ一ケットの『 西友 』がこのところで閉店し、改装してディスカウントストアとして生まれ変わるということになっている。日用品や食料品は通常価格だけれど、衣料品、雑貨品その他の在庫品の割引販売をしている。
西友に行ってみた。魔法瓶は買わなかった。正しくは今時分、魔法瓶を買う人など居ないと見えて、魔法瓶は売っていなかったのである。今はどちらのお宅にでもあるのでしょうが、湯を沸かし、保存しておける電気ポットを買ってきた。
来年の5月末で、結婚してから50年になる。我が家には壊れないから、物持ちが良いのか、ずっと使い続けているものがある。ガス炊飯器、ご飯の保温ジャ一、米びつ、飯台、ヒノキのまな板、タンス、鏡台、・・・・・数え上げたら他にも50年選手はたくさん居るのだ。何回か引っ越しをしたけれど、物持ちが良いというか、ケチなのか、人生を共にした生活の備品はたくさんあった。
電気製品はほぼダメで手が付けられないけれど、おさむ爺が直して使っているものもかなりある。ただ、穴の開いたアルミ鍋をリベットで修繕したものはいつだったか捨てた。譬え年金生活でもそれほどは生活に困っていない。趣味みたいなものです。
昨日(12/21)、久しぶりに長い時間テレビ番組を見た。漫才師日本一を決める『 M一1グランプリの決勝戦 』をやっていたので途中から見ました。今年で21回目なのだと言うですが、M一1グランプリと云うなまえは知っていましたが、初めて見ました。ずいぶん盛んなものでした。
演芸番組でも落語は好きなのですが、漫才はそれほど好きではない。今となっては大昔ですが、大阪に行った際、『 なんばグランド花月 』に入ったことがあります。大阪は演芸では落語よりも漫才の方が盛んです。その時、『 吉本新喜劇 』と言うのも、併せて初めてナマで見ました。バカバカしいのを承知で見ると、新喜劇も楽しいものです。今でもテレビのBS265チャンネルでも時々見ています。
花月では漫才が連続して出て来ました。いずれも『 叩き漫才 』と言って、相方を何かと言うと直ぐに何度も叩くのです。『 どつき漫才 』と言うのもあるようですが、私は譬え漫才でも、相手を叩くのは『 芸でも何でもない 』と思っています。以前、グランプリを受賞して、テレビでも見かけますが、直ぐに叩きが始まる漫才師さんたちは好きではありません。芸がないのでしょう。やたら叩いて、笑いを取ろうとするのです。
芸でも何でもないと思うもので、過去に『 モミジマンジュウ 』と叫んでいた漫才師さんが居ました。それまでの漫才の噺のいきさつに関係なく、『 モミジマンジュウ 』と叫ぶ。それを聞いて観客も拍手喝采する。演者も聴衆をバカにしていますが、そんなことに応答する観客もバカです。後に売れなくなって漫才師さんも振り返って言っていました。一時は大変な人気でしたが、今は凋落してしまってコンビも解散しています。当たり前です。
落語好きで、漫才はそれほど好まないのは、おさむ爺の『 偏った嗜好 』です。それでも、もう亡くなってしまいましたが、『 てんやわんや 』さんや、『 内海桂子・好江 』さんの漫才は好きだったのです。
今年、漫才グランプリと言う催しに参加された漫才師さんは 11,521組もあって、毎年参加する組が増えていると言うのですから驚きです。もちろん、既に顔やなまえが売れて、テレビ・ラジオなどで漫才以外の分野でも活躍されている方々は、今回のグランプリには出場されていないのでしょう。おさむ爺の好みに関係なく、まだまだ漫才のブ一ムなのでしょうね。
図書館で『 ネガポ辞典 』と言う本を見つけ、借りて来ました。ネガティブな言葉をポジティブに変換と書いてあります。この本を読んだからと言って、僕が76年間かけて培い、熟成してきたネガティブな性格が、一転して明るく変換されることはないと思う。
この『ネガポ辞典』の中の言葉の例題を挙げてみると
*『流行に疎い』という言葉は
① 伝統を大切にする
② ゆったりしている
③ 個性がある と変換される。
*『存在感がない』 影の薄い少女の独り言
(ネガ) 『私って、やっぱり存在感がないのかな?』は
(ポジ) 『私って、周りに溶け込むのがうまいのかな?』という言葉に変換。
*『愛想が悪い』は
① 媚びを売らない プライドを持っており、自分より上の者に媚びへつらう事がない
② 他人に流されない 当初の自分の意思を貫き通すことが出来る
③ 気疲れすることがない 無理に笑顔を作らないため、気を使い過ぎて疲れることがない。
といった具合で、ネガティブな事に対して見方を変えて、ポジティブな言葉に変換しようとするものであります。こう言った事例がおよそ160ペ一ジに渡って書かれています。お遊びとは言え、『 ネガポ辞典制作委員会 』の方々のご苦労を推察することが出来るのであります。
悩み事をお持ちの方は一読された方が良いかとも思います。ただ、ネガティブな考え方には、『なにくそ、負けるものか』という困難や障壁に反発の要素もあるので、満更すべてが悪いと言う訳でもありません。
モノの見方の方向を変えるだけで、事態、状況そのものが改善?されるわけではない、言葉遊びの領域の話でした。
私が育った家に電話機が来たのは、私が小学校低学年だったから、今から70年近く前だった。居ながらにして遠く離れた人と会話できると言うとても便利な機能を持ったものです。今のようなプッシュボタン式でなく、ダイヤル式であった。どれも黒電話であったが、電話機にカバ一を付けたり、電話機用の座布団を作ってその上に乗せて、家族の者は皆大事に使った。
今、我が家の電話は常時『 留守番設定 』にしてある。必要な相手の電話番号を予め登録しておく。登録した範囲内の人から掛かって来た場合には電話機が教えてくれるから、受話器を取って話をすれば良い。
登録外の方からの電話が掛かって来た時は、4回呼び出し音が鳴った後、『 ただいま電話に出ることが出来ません。御用の方はFAXを送信して下さるか、ピイ一と言う発信音の後、ご用件をお話しください 』と言う音声メッセ一ジが流れる。本当に用事のある人はピイ一の後に、メッセ一ジを入れて下さいます。メッセ一ジを入れ始めた段階でなまえを言って下されば、知っている方ならすぐに受話器を取れば話ができる。
呼び出し音が4回鳴った時点で電話を切ってしまう方の電話番号をパネルで見る。ほとんどの場合は『 番号非通知 』である。自らなのらない匿めい性の電話で、広告宣伝、勧誘、もっと悪ければ詐欺の電話か、我が家が今留守にしているかどうかを確認電話で探って来ることが多いのではないかと推測致します。ですが、本当に用事のある方には大変申し訳ないと思っています。警察でも犯罪防止のため、『 家庭電話は留守番設定にして置きなさいよ 』と推奨しているのだから、我が家が特別のことをしている訳ではないと思います。
私は古い人間です。人は額に汗して働くものだと思っている。悪いことをする人が手間を省いて、めいぼを使って片っ端から電話を掛け捲り、カモとなるような人を探している。悪事を働く業界ではめいぼそのモノが取引されているとの話を過去に聞いたことが有ります。
めいぼが悪事に使われる元ネタになると言うので、『 個人情報保護法とやら 』で学校や色々な団体がめいぼを作らなくなってしまった。以前だったらめいぼを見て、年賀状を書いたり、色々活用の道が有ったのに、すっかりふ便になってしまった。
折角便利な電話を悪用する人が居るから、便利なツ一ルが安心して使えなくなってしまった。
インタネットも同じです。あっという間に情報が世界中に広まります。大変便利なツ一ルですが、ウソの情報、フェイクニュ一スが飛び交っている。選挙の際も相手陣営を貶める情報が溢れている。
現在の米国大統領でさえ、その陣営が過去に誤った情報を拡散させたと言われています。この『 おさむの自由区域 』も、誤情報を流しているかも知れないよ。
ウソの情報やニュ一スで世界が動くし、相手のシステムのセキュリティの脆弱さを突いて、相手の団体のシステムを破壊してそん害を与え、身代金を取ろうとか、詐欺で金をむしり取ろうとする。
こんなことやっていたら、今後インタ一ネットにとって大きな障害になってくる。ネット上の情報はウソや間違いだらけで危なくて使えないと言うことになれば、インタ一ネットやSNSは多くの人にマイナスの利益を与えるものとして、まともに相手にする対象ではなくなってしまう。
電話にしろ、インタ一ネットにしろ大変便利なものが、悪事を企む人が使うことによってダメな事になってしまうことが嘆かわしい。
だからと言って、新聞、雑誌、書籍など紙ベ一スの媒体が正しいことをやっているかと言うのも、確たるとは言えないことがある。
新聞でスク一プとして大々的に取り上げ、非常に影響が大きかったことでも、それが後で間違いであったと分かった時、大々的に取り上げた割には、謝罪訂正記事はすごく小さく書かれている。それに、新聞社の都合の悪いことにはほとんど触れない。どの新聞社にも傾向は必ずある。
書籍が少しはマシかなと思うのが、書いている人、作者がはっきりしているので、私が本好きと言う訳でもありませんが、味方しているみたい。出版界が落ち込んでいますが、少しは盛り返すのではと言う淡い希望を持っているのであります。
顔が見えない、匿めい性の高い、誰が投げた石なのか分からないようなモノが、みんなが使って便利な媒介に入り込み、便利な機能を活用できる頭脳を使って悪いことをする。悪いことに使う人が多くなれば、折角便利な機能がダメになってしまう。素晴らしい頭脳はみんなのためになる事に使って欲しい。
昨日(11/28)の夕食後から1週間の間、ピロリ菌除去の薬をふく用することになった。ふだん調剤薬局で出して貰う錠剤と違って、1回に飲む5錠の薬をプレ一ト上に配置してあり、必ず一度にこれを飲むようにプログラムされている。これから14回に渡って、毎朝夕にふく用し続けなければならない。
ここまで来た経緯を書いておいた方が良いと思う。
①10月後半から腹部に違和感があった。メタボの膨らんだお腹をへこませようと常々腹筋運動をしている。初めは筋肉痛かなと思っていた。ジイは22年前に胃腸病院に入院したことがある。以来20年以上も胃カメラの検査をしていない。この際、検査してもらおうと思った。
② 診療所では胃カメラ検査できないと思い、11/4に総合病院に行った。
③ 問診、触診、尿検査、血液検査、X線、CT検査を受けた後、胃カメラ検査の予約をした。いきなり当日の検査は出来ないようだ。
④ 11/19 胃カメラ検査を受診。胃がん、潰ようの類はなかった。胃の粘膜の一部を採取して、ピロリ菌の有無の検査をすることになった。採取したものを培養して有無を判定する。
⑤ 11/27、先日受けた胃カメラ検査の結果の説明を受けた。胃の中にピロリ菌がいるとの結果説明を受けた。このままにしておくと、胃がんや胃潰よう、十二指腸潰ようの原因となる。ピロリ菌除去の薬を飲んで除去した方が良いとのこと。
⑥ 指示に従って7日間、薬をふく用する『 ピロリ菌除去大作戦 』が始まる。
⑦ 作戦終了後、1カ月以上経過してから、除去作戦が成功したかどうか検査する。
⑧ 検査結果を聞く。NGであれば、薬を変えて、『 ピロリ菌除去大作戦 Part2 』が始まる。
何か、腹部に違和感がある。『 20年以上胃の検査をしていないから、念のために調べてもらっておこう 』が、飛んでもなく事態は進展してしまった。ピロリ菌だって昨日、今日、僕の胃に住み着いたのではあるまい。それがどうして今になって『 胃痛 』の原因として現われて来たのであろうか?
根本的な原因は何なのか? それが分かれば Very good なのだが、世の中、そんなに明確に割り切れるものでもない。その『 はっきりした原因 』が存在するのかどうかも分からないのだ。医師は『 慢性胃腸炎持病のところに、ストレスが加わって痛みが発現したのではないか 』と言う。
『 ストレス 』と言う言葉は、はなはだ曖昧模糊、便利な言葉であります。いつからだか分からないけど、医師に限らず、誰もが分からないことをストレスと言って片付けてしまうようになった。
何しろ、ストレスと言えば、体のふ調に関しては何にでも適用出来てしまう。ストレスだけでなく、もう一つ年配者にとってとてもシャクに触るのが、『 加齢 』と『 歳のせい 』であります。確かに機械も経年変化でガタが来る。そんなことが人間にも当てはまることは百も二百も承知である。でも、ろくに調べもしないで、年寄りと見れば直ぐに歳のせいだと言って欲しくない。こんな直ぐに『 ストレス 』とか『 歳のせい 』の二つの言葉を用いる医者は、『 私の手には負えませんよ 』と言っているのと同じである。直ちに医師免許剝奪した方が良い。
車が故障してしまい修理工場に持ち込んだら、修理屋のオヤジがボンネットも開けず、一目見て『 あっ、こりゃ一ストレス溜まっているねぇ 』と言い出したら、もうその修理工場には二度と行かない。行くもんか。
ストレスが起因する胃腸炎では、場合に拠ったら内科に行くよりも、精神科に行く方が適切かもわからない。そのストレスの根本となる原因は何か? となるのだが、圧倒的な理由が明白ならば、治療、対処の方法も考えられる。日常生活の中の微小なストレスの集合体であったなら、治療は困難を極めるに違いない。
僕はすでにリタイアしていて、仕事上のストレスはないはずである。それなのに胃腸炎になってしまった。私の神経が如何に繊細に、デリケ一トに出来ているかは、以前から承知しているところである。誰も言ってくれないから、自分で言うのである。自分で言うのだから間違いない。
私に限らず、現代に生きる人々は自分でも気づかないようなストレスを、自分でも意識しないうちに知らず知らずのうちに体内に蓄積し続けて、体の調子をそこねていることもあるようです。
自分でも気に掛けないような地味なストレスが生活の中に存在しているので有る。ここは努めて楽天的な気持ちで生きることを心がけましょう。でも、みんなが楽天的な人になってしまったら、世の中、酷いことになりそうだけど。
10月の下旬から、お腹の上部に違和感があった。別に食欲がない、ムカムカして吐き気があるなどの症状はない。ジイは普段から腹筋運動をするものだから、初めは筋肉痛かなと思っていた。22年も前だが、『 腸上皮化生 』と言う病気になって10日ほど入院経験があったから、『 また入院する事態になっては困る 』と気になった。
違和感はずっと続いた。以前入院した時からもう20年以上も経つので、この際、きちんと調べてもらおうと、胃カメラの検査が出来そうな病院に朝食を取らずに行ってみた。さすがに行った当日の胃カメラの検査は無理で、問診やレントゲン検査、CT 、血液検査などを受け、薬の処方と胃カメラの予約をして頂いた。
処方された薬は、『 胃酸を抑える薬 』と『 胃の内壁を保護する薬 』であった。ここでジイはハタと気が付くのであった。市販の胃薬には大きく分けて2種類あります。『 食べ過ぎなどの消化を促進する薬 』と『 胃痛、胃炎など胃の荒れを修復する薬 』です。
ジイが22年前に入院した時は、胃痛、胃炎の方の症状でげっぷと共にコ一ヒ一色の液が出てきた。コ一ヒ一色と言うのはすでに患部から出血しているということです。入院した当初は3日ほど胃液の分泌を抑えるために絶食でした。胃液は塩酸です。胃が荒れて傷んだところに、胃酸が触れて胃が痛むのです。今回、違和感があるのに、胃液の分泌を促す消化薬を飲んでしまったのです。全くの逆効果でした。胃が荒れて傷むときに、胃液の出を促進する消化薬を飲んでいたのです。素人考えは恐ろしい。
さて、今日が胃カメラの検査を受ける当日です。“うがい手水に身を清め” 前日は午後9時までに消化しやすく軽めの食事にして下さい。くれぐれも当日は何も食べずに、飲むとしても水か白湯だけと言う注意事項を遵守してと言いたいのですが、昨夜は外食して200gのハンバ一グライスを食べてしまった。午后6時半頃でしたからまあ、勘弁してください。
今朝、病院での受付の後、写りをよくするための薬を飲み、喉に液状の麻酔薬を施し、マウスピ一スを口にして横になる。口からカメラのチュ一ブを挿入され。目を横に向けるとモニタ一で、内部の様子を見ることが出来た。素人目にも何かおかしな様子は見受けられない。これはガンでも潰瘊もないことは明白である。
カメラのチュ一ブには目盛りがふってある。口から80cmの深さまで挿入したことが分かる。家に帰ってスケ一ルで大雑把に体のどの辺までカメラの先端が入ったのが分かる。『こんなところまで入るのかよ』と言うことを実感した。
施術後、医師から『 ガン、潰瘊の類の兆候はなく慢性胃炎です 』の診断を受けた。ジイの家系ではガンの人がいないので、恐らくガンではないと思っていたが、やはり検査前までは『 もしガンや胃潰瘊で入院となったらどうしよう 』と数日前から、心配しても仕方のないことをくよくよ繰り返して気にしていたのであります。
通常のジイの考え方は、『あれこれ悩んで心配するより、ちゃんと調べてもらい対処した方が良い』と言うことなのです。
来週、内科医よりピロリ菌の検査結果を含めた説明があるそうで通院します。会計を済ませて調剤薬局へと向かいました。未だ麻酔の効果が完全に抜けきっておらず、普段から『ボ一ッ』としているジイが、麻酔によりますます『ボ一ッ』の2乗くらいの『ボ一ッ』加減で帰ってきました。
我が家の長男は知的障害である。障害を持つ子供の親が持つ共通の悩みは、『 自分たちが生きている間は、この子の面倒を見ることが出来るからいい。自分たちが亡くなってしまったら、この子は一体どうなってしまうのだろう? 』 と言う事であります。
川崎市高津区に息子が44歳に成っても、 『 親離れ出来ない息子と、子離れできない親 が居たんだとさ 』 なのである。 親の方は普通、息子より先に死ぬ。親は自分が死ぬ前に、障害の子の道筋を付けておいてやらねばならないのだ。
我が家でも親の年齢的にもうギリギリのところに来ていると感じている。親が動けなくなってしまうからだ。ここのところで、息子をグル一プホ一ムに入れようと、11/3~11/7までを体験入所として、その後は、続いてホ一ムの暮らしをさせようと目論んでいる。
障害を持つ子の親の中には、親が80~90歳まで、子供と同居している場合もあると言う。親が90歳だと、子は大抵 60歳過ぎている。グル一プホ一ムあるいは施設に入れるにしても、区役所に行って所々の手続きをしたり、地域の支援センタ一に相談したりと、中々手続きが煩雑なのである。80~90歳になるともう中々動きが取れない。弊ジイだって、もう面倒くさくて放り出したくなる。手続きだけでなく、布団やら日常生活を送るための用具やらも揃えて、身の回り全般の準備をして、ホ一ムに持ち込まなければならない。
健常な子であれば、大昔では奉公に出されたり、昭和30年代でも集団就職なるものが有って、中学卒業後、皆揃って学校の制ふくを着て、大きなバッグ一つ提げて、集団で列車に乗り、否応なしに15歳の時親離れした。進学や就職などの機会に親元から離れて暮らすように成る方も多い。時期は大分遅れましたが、ジイも22歳の時バッグを抱えて独身寮に入った。
障害が有ろうと無かろうと、それぞれの時期になれば、早かれ遅かれ親離れ子離れしなければいけない宿命にある。
知的障害に限らないけど、障害の子は健常の子に比べ、色々面倒をみなければいけなく手間が掛かる。僕ら夫婦も今年中に、最後のひとりの子離れを踏み出せるかなと言う、今まさに子離れ現在進行形なのである。弊ジイ夫婦に神が下された試練と思っとります。
子の方でも今までぬくぬく育てられた親元を離れての試練を乗り越えなければいけないのです。親の方も色々と気遣う点もあって、ジイも恥ずかしいことに胃炎になってしまい、病院に行ったら今月中旬に胃カメラでの検査をすることになってしまった。もう、20年以上胃の検査もしていないから良い切っ掛けだと思うことにしている。
私が育った家は地域の商店街の端っこにあって、その頃、商店のほとんどが個人営業の商店であった。八百屋、魚屋、肉屋、荒物屋(雑貨屋)、豆腐屋、牛乳屋、タバコ屋、自転車屋、本屋、文房具屋、写真館、氷屋(季節によって氷屋になったり、燃料屋になったりした)etc.ここで思い出せないほどたくさんの種類の商店があった。
一年に一度小学校の同窓会が開催される。早めの時間に行ってその地を歩けども、子供の頃からあって、現在もそのままの店舗など全くと言って良いほど見当たらない。恐らく資本の大きなコンビニ・ス一パ一マ一ケットの進出で経営が立ち行かなくなっての廃業であろう。
今までは大規模店の進出での商店の廃業であった。
ちょっと前から、AIやテクノロジ一の進歩で近い将来なくなってしまうであろう仕事と言う『 おどし 』が盛んに言われるようになった。サイトでも見ようと、ちょっとそれらしいサイトを覗いて見た。
そのサイトで、将来なくなってしまうであろうと書かれていた職業は
1.薬剤師
2.タクシ一ドライバ一
3.コンビニ・スーパ一などのレジ打ち
4.警備員
5.総務、経理、人事 他の一般事務 であった。
その他にも銀行員、プログラマ一、卸売り・物流業、ス一パ一・コンビニ店員などなど、あらゆる業種に及び、将来有望な仕事など有りはしない。いつの世もきっと目先が利いて、金持ちの人が栄えるのである。
小さな子供に『 ぼく、大きくなったら何になるの? 』と訊ねて、『 僕、電車の運転手さんになりたいの 』なんて言われたって、その子が大きくなった時に、電車の運転手の仕事があるとは思えない。
同窓会のグル一プラインで『 もう新聞屋の仕事なんかなくなるのでは? 』と私が投げ掛けた。
1. 今、紙の新聞は金が掛かり過ぎている。朝、暗いうちから各戸に新聞を宅配するなんて将来に渡って考えられない。新聞販売店も必要だし、新規勧誘をし、古紙の回収もする。とても古臭い仕事のやり方の匂いがする。
2.紙も必要だし、印刷所もいる。出来上がった新聞を販売店に運ぶ必要がある。
3.新規卒業の頭脳明晰の学生が多数入社する。
4.テレビ・ラジオ・ネットニュ一スから得られる情報で十分で、今、紙の新聞を契約しない若い世代の世帯はたくさんある。
5.私は中高生の頃、弁当を新聞で包んでもらった世代です。弁当箱から染み出た汁を新聞紙が吸ってくれた。 僕より更に遡った世代では、ぼっとん便所で尻を拭くのに使っていたと言う。もはや、新聞古紙が使われることはないのでは?
もう、新聞が紙である必要は薄れてきたと話した。ただ、新聞が情報の内容をきちんと整理して、評価したり、かみ砕いて解説してくれる役割は大きい。そんなことで、ネット新聞が有ったら『 いいね 』と言うことに落ち着いた。
僕が知らなかっただけで、世の中に『 電子版の新聞 』は既に有ったのです。恥ずかしいね。僕の家は朝日新聞と契約しています。2021年9月にはすでに電子版の『 朝日ID 』と言うのがあった。紙の新聞の契約をしていれば、電子版を追加料金なしでパソコンやスマホで見ることが出来るのです。当時の新聞切抜きを持っていました。後で登録しようとして、延び延び放置したままでした。
早速、『 朝日ID 』と言うサイトがって、『 紙面ビユ一ア一 』と言うコ一ナ一に登録しました。今日の新聞はもちろん、読みそこなった過去の新聞も読むことが出来ます。
知らないと言うことは恐ろしいものです。
私、競馬、競輪、競艇などのギャンブルを今まで一度もやったことのない堅物です。電子版の新聞も、過去の新聞閲覧だけでなく、長年契約を続けている『 僕にだけ特別に、明日の新聞』を今日、閲覧させてくれたら、私は齢76歳にして遅れ馳せながら、ギャンブラ一に大変身するのです。・・・・
出版業界と図書館との関係を私は全く知りません。図書館の棚に並べてある本は発行されてから、ある程度の期間経過してから、図書館の棚に並ぶのではないか? と想像しています。
何のル一ルもなく、発行されたら直ぐに図書館の棚に並ぶようでは、作家の方々や出版社は本が売れずに困ってしまう。消費者・読者の皆さんは本を買わずに図書館で借りてしまうから、本が売れなくなってしまう。実情は知りませんが、何らかのル一ルがなければ出版業界から苦情が出て当たり前です。
おさむジイは自分の手元に置いておきたい資料もあり、もちろん、新刊の書店で本を買い、最寄り駅近くの書店にありそうもないものはネットでも購入もします。ただ、終活の都合もあり、日常読む本のほとんどは図書館から借りて来て読んでおります。
もうだいぶ時間が経過しておりますが、一時期『 ○○力 』という題めいの本の発行が続いた時期がありました。一つヒットすると『 ソレッ 』とばかりに、2文字熟語に『 力 』の文字を追加して、『 ○○力 』と言うあまり耳慣れない3文字熟語を作り上げ、本のなまえに付けたり、4文字以上の『 ○○○○力 』と言う言葉を本の題めいに仕立て上げるのです。
こうして、図書館のハウツ一本が並ぶ新刊書コ一ナ一には『 ○○力 』の本が並ぶのである。
例えば、3文字熟語の本では、『交渉力』、『直観力』、『逆転力』、『雑談力』、『実行力』、『多動力』、『決断力』、『空腹力』、『趣味力』、『決断力』etc. これ、実際の本の題めいなのです。
4文字以上の題めいの本には『捨てる力』、『聞く力』、『叱られる力』、『指めいされ続ける力』等々があります。もっとたくさんあると思いますが、一々書き上げるのも面倒だから、もう書きません。
『柳の下のドジョウ』じゃあるまいに、一つヒットが出たからと言って、すぐに真似をする。 『合成力』、『模倣力』、ばかりでなく、もう少し作家や出版社の皆さんは、『発想力』、『構想力』、『語彙力』、『国語力』を働かせて題めいを決めてもらいたいと思います。
ここで、本の題めいから離れて、2文字の『 〇力 』、3文字の『 ○○力 』、4文字以上の『 ○○〇力 』にはどんなものがあるのか、参考にネットで参照してみた。有るは、有るは、世の中にはご親切と言うか、ヒマ人と言うのか、丁寧にア行、カ行、サ行・・・・と分類して提供してくださっているサイトもある。ご苦労様、ありがとうございます。
さて、おさむジイも後期高齢者として、歳を取ることによって得た、恐らくマイナス効果ばかりで、ちっとも役に立たないであろう老人の能力『 ○○力 』を考えてみたくもなるぞなもし。
*つまずき、直ぐに転倒する能力 『 転倒力 』
*3歩歩いたらもう忘れてしまう能力 『 忘却力 』
*散歩に出かけても帰って来られなくなってしまう能力 『 徘徊老人力 』
*都合の良いことは聞こえるけど、都合の悪いことは聞こえない能力 『 選択性難聴力 』
*バレてもすぐとぼける能力 『 好色老人力 』
*直ぐにオムツを濡らことの出来る 『 失禁力 』
*転ぶと骨折しやすい能力 『 骨粗しょう症力 』
*混雑したトイレでは後に並んでいる人に迷惑をかける能力 『 前立腺肥大力 』
そんなものくだらないからもう止めるけど、まだ、白内障ほか、老人が歳を経ることに拠って体得した能力(?)はたくさんあるのです。
昔は長老の経験が役に立って、集落の人々から尊敬された時もあったようですが、時代は変遷してしまったようです。
夫婦もおよそ50年近くもやっていると、いわゆる『 夫婦の会話 』と言うのも、自然と少なくなって来るものである。日常の出来事以外に話題がないのである。すでにリタイアしているし、この夏の猛暑だからずっと家の中に居て、社会との繋がりもほとんどなかった。元々無口の方だから、話をする機会が随分と減った。
通常の会話において、舌が回らないというか、『 ろれつが回らなくなって来たな 』との自覚を最近持つようになった。
高齢になって、それでなくとも認知症発症のリスクが高いのに、口を動かして発声することが減っていることをそのまま放置するのは、危険であると思っている。人間、のんべんだらりと生きていてはならない。認知症に成らぬよう、積極的に声を発する努力はしなければならないのである。
このことは前にも気が付いて、主に志賀直哉の短編小説の音読をしていた。3日間ではなく、もう少し長い期間やっていたが、そのうちしないようになってしまった。
何としても、音読を生活の中に取り込んで『 習慣化 』しなければいけない。我が家は朝日新聞を購読している。新聞なら毎日ほぼ欠かさずに読む。『 そうだ、天声人語なら良いだろう 』と、音読して読む対象を『 天声人語 』に変えてみた。今のところ、前にやっていた短編小説より長く続いている。ずっと続けて習慣となるのが良いのだが。でも、ちょっと長さが短いかな?!
今シーズン、初めてサンマの塩焼きを食べました。私にとっては初物である。初物を食べると75日寿命が延びると言われている。75日と言えばおよそ2か月半。いろいろな初物を5種類も食べれば、寿命が1年延びると言う訳だ。ジンギスカンもふ老長寿の薬を探させなくとも、初物を食べ続ければ良かったのである。また、初物を食べる時は、東を向いて『 ハッハッハ 』と大声で笑えばよいのだとも言います。
いずれにしても、人間の食べるものはすべて、他の命ある生物を食べているのです。食品ロスの起こらないよう感謝して食べなければならないのであります。
今年のサンマは大きい。太っていて長い。昨年までの数年間はサンマの漁獲量も少なくて、小さく痩せていた。今年のサンマは魚好きにはとてもありがたい。
サンマは脂が乗ってとても旨かった。昔なら、サンマは大衆魚で七輪に炭を起こして、ジュウジュウ周囲に匂いを発散させて焼いたものです。近所からサンマの焼く匂いがしたら、『 あのうちの夕飯のおかずはサンマだ 』と分かったものです。今、密集した住宅事情では、七輪でサンマを焼くような贅沢は許されないので有りましょう。
殿様が急に思い立って、遠乗りに行くことになり、弁当を作る暇もなく出発して、目黒まで来た昼時に、殿様の一行の鼻先に匂ってきたのがサンマを焼く時の匂い。農家から焼いたばかりのサンマを求めて来て、空腹時に脂の乗ったサンマを初めて食べたのですから堪りません。その際の展開が落語の『 目黒のサンマ 』と言う噺です。
昨年あたりまではサンマもふ漁で、高級魚と言われた時期もありました。元々、サンマは庶民の食する魚でありました。塩焼きにすると黒くて長くて、内臓も食べてしまう。サンマの内蔵の苦いところが何とも言えない。と“通”のようなこと書きます。あの苦さは獲れてから時間が経過して、胆汁が沁み出して来ているから苦いのです。余りに苦いのは新鮮でないということになります。以前私、東北でサンマの塩焼きを食べたことがありましたが、ちっとも苦くなかったのです。
私は多分、魚の食べ方が下手ではありません。もちろん、サンマも内臓まで食べますが、内臓のところにサンマのウロコが紛れ込んでいます。ウロコは除去して食べています。私たちの見るサンマの外観はウロコが無くつるっとした表面になっています。捕らえられた時に暴れて、ウロコが取れ、飲み込んでしまったモノが内蔵の中にあるのです。
我が家も密集した市街地にあるものですから、七輪で炭火焼すると言う訳に行きません。ガスコンロに付いている『 グリル 』の中で焼きます。以前はグリルの中の網の上に並べて焼いていました。魚の脂が飛び散ってグリルの中は、脂だらけになってしまう。
今は、『 クックグラン 』と言う商品めいの容器にサンマを並べ、蓋をしてからグリルの中に入れて火を点ける。容器には排気口のような穴が開いていて、半分蒸し焼きのような感じでサンマが焼ける。焼け具合にムラがなく、まるでプロの人が付きっきりで見ながら焼いたような実に体裁よい外観に焼ける。おまけにグリルの中に魚の脂が飛び散ることないので、グリルの中が脂で汚れることはほとんど無い。
その代わりに、『 クックグラン 』の中は脂が飛び散っている。ネットで調べるとクックグランを使ったレシピを得ることが出来る。魚を焼くことを始め、クッキ一まで焼くことが出来る。食後の食器洗いは僕の役目です。魚も焼けば、クッキ一も焼くとなればクックグランの洗浄はとても気を使って入念にやらなければなりません。
最後に、サンマの味の方ですが、七輪で炭火焼に勝るものはないと思います。 ただ、何分にも比較する『 七輪・炭火焼によるサンマの味 』が、もう60年くらい前の記憶が基準となっています。これはすでに頭の中に幻想として築き上げられてしまっているものでしょうから、老人特有の『昔は良かった』と同類になってしまっていることは否めません。
小説ではないけれど、お笑い芸人で、作家の又吉直樹さんの本を読んでいたら、数冊の本の紹介が出ていました。題めいと作者をメモしておいて、図書館に行った時に探して、2冊借りてきた。
最近ではありませんが、2冊とも芥川賞受賞の作品であった。
時々、芥川賞、直木賞の受賞の発表があります。念のために書いておきますが、芥川賞は優れた作品を書いた 新鋭作家 に贈られるもので、普通はベテランの作家が受賞されることはありません。従いまして芥川賞を受賞される作家は若い方が多い。
さて、借りてきた2冊の本である。読み始めてみましたが、ちょっと私には歯が立たない、難しい。本を読むということは、ただ字面を目で追っていくだけではダメで、文を読んでその内容の情景を頭の中に描けなければ、本の中に入り込めず、読み進めることが出来ません。今回は私の頭の中にイメ一ジを中々築き上げられないのです。
学生の頃、英文法で主語 S、動詞 V、目的語 O、補語 Cと、その文型が 『 SVOO 』とか『 SVOC 』とかに分けて、例文を読んでいました。 だが、実際に使われる英文では否定の語を強調するために『 倒置 』が用いられたり、強調に『 Do 』が加えられたりして、文の構成の順番を変えられたりすると、とたんに頭が混乱してしまうのです。
借りてきた本はもちろん日本語で書かれていますが、私のような老人には若い人たちの様々な手法に中々追いつけないのです。
ある作家の方は、私が初めて見るような難しい熟語の連発で、私以外の読者の方もまた、おそらく読めないであろうから、多くの熟語にルビがふってある。中には私が普段使っている古い版数の『 新明解国語辞典 』にも載っていない熟語さえある。その内、そんな度々では辞書を引いて意味を調べるのも嫌になってしまう。その作家の方の作風なのでしょうが、世に一般にある『 文章の書き方 』のハウツウ本ではたちまちノウグッドの手法と評価されそうな文だ。日記などの自分の覚書を除けば、文は相手に読んでもらうためにある。 とジジイは思うのであります。おさむジイは負け惜しみにつぶやくのであります。
2冊とも芥川賞の審査員の方々が優れた作品として認めたのであるから、おさむジイの歯が立たなかったのは、ひとえに読解力と根気の無さに加えて、時代の移り変わりに追随していけない脳の衰えに原因があるのであります。
さらに負け惜しみを加えて書いておこう。昨今思うのは、自分にとって新しい技術や技法はもういらないな。今までに接して来て蓄えてきたモノですらロクに使いこなせていない。この上、何か新しいモノを仕入れたところで、第一、終活しようと思っているのに置き場がないよ。ジイの脳内の容量を4畳半にたとえたとして、6畳分のモノを押し込もうったって、足の踏み場がないぞなもし。
スマホについて書けば、色々なご意見が有る事でしょう。予め注釈を入れて置いた方が良さそうだ。ジイジもバアバもスマホの知識がほとんど有りません。
電車がそれほど混んでいなくて、運良く座れたとする。見ると、向かい側の7人掛けのシ一トに座った全ての人が各自スマホを覗いている。何か奇異に感じる。
こちら側の座席でも、居眠りしている方を除けば、同様にスマホに熱心なのである。同じようなことしているのを見ると、まるで何か新興宗教にでも取り付かれた集団の中に紛れ込んだかのようだ。洗脳され、高額のツボでも買わされなければ良いのだが。
折角座れたのだから、本でも読んだ方がとても有意義だと私は思うのだ。ただ、各自にはそれぞれの考えが有り、スマホを見ようが、本を読もうが勝手である。人にはそれぞれに価値観が有り、各自の価値観を尊重しなければいけない。
私が本好きだからと言って、向かい側に座っている乗客に向かって『 本でも読んだ方が良いですよ 』などと、声を出して言う事は決してありません。ただ、心の中で思うだけです。
それでは、僕が電車の中でスマホを全く使わないかと言えば、極くまれに電車の『 乗換案内 』や、行ったことのない場所の『 マップ 』を見る程度はあります。頻度は極々低い。
スマホを持っていても通話は『 Lineの通話 』がほとんどで、電話回線での通話は少ない。Line以外のSNSもほとんど使うことはなく、昔のガラケーで十分なレベルなのである。だから僕の場合、一度フル充電すれば1週間は持つ。
他の方はどうか知りませんが、一般のジイさんやバアさんのスマホの使っているレベルはこんなものなどではと想像するのです。 高齢者でも自由自在に使用している方も実際に居ると思うのですが、あくまで私の想像です。
カミさん、僕と同じようにほとんどスマホを使っていないのに、4年使っている機種で毎日充電しなければ成らないのです。バッテリ一の消耗が激しい。僕のは一週間持つのを知っていますから、自分のスマホのバッテリ一が劣化しているのではないか、あるいは4年間使っているのだから、もうスマホ自体が草臥れているのではと思っていたようです。
スマホのショップの予約を取って、バッテリ一交換か、4年間使ったのだから機種の変更が必要なのか、相談に行きました。
ショップのお兄さんに言われたこと
① スマホはふつう毎日充電するのは当たり前なのです。お兄さんは1台の機械を使っていて、1日に2回充電している。高速充電すれば1時間ほどで充電できる。おさむジイのスマホは4年以上使っていて、1回/週の充電はちょっと運が良い。
② カミさんのスマホの『 設定 』からバッテリ一の『 健康状態 』を調べてもらったら、『 健康状態良好 』だった。 カミさんのスマホのバッテリ一は劣化していないと言う事でした。
ショップのお兄さんは正直な方だったのである。客の方から相談に来たのだから、『 バッテリ一も寿命ですよ 』とか、『 もう4年も使ったのですから、新しい機種と交換した方が良いですよ 』と言うのが普通だと思うのです。
ジイジもバアバも標準的な充電の頻度や、バッテリ一の健康診断の仕方を知らなかったものだから、スマホのショップに相談に行ったのです。①と②の説明を聞いた後に、機種交換の説明を聞いたって、もう上の空です。
カミさんのスマホが健在なら聞く耳持たないよね。ジジイもバアバもスマホの知識が無かったと言うことです。 『 先達はあらまほしきことなり 』でした。
考えてみると、私たちは子供の頃から色々な筆記用具を使っています。小学生の頃はもっぱら鉛筆、その後は、シャ一プペンシル、ボ一ルペン、万年筆、筆と言ったところでしょう。筆は学校の習字時間にしか使っていません。一時期万年筆を使った時期も有りましたが、今は所有もしていません。
今はボ一ルペンを使うことが一番多いかな。幾分値の張るものは全体が金属のボディで出来ています。上向きでも書けるスペ一スペンなども有ります。僕なんかが使う物はごくごく安値な、握る部分が透明のプラスチック製で、中のチュ一ブに入ったインクの減り具合が分かるモノです。
ただ、このボ一ルペンもインクを最後まで使い切った経験が『 ある時期 』までなかった。大抵はしばらく使わないうちに、インクが先端のボ一ルの部分で固まってしまって書けなくなってしまった。
最近はそんな経験はないけれど、ずっと以前はボ一ルペンを逆さに置いておくとインクが流れ出て、手や衣類を汚してしまうことも有った。
先ほど、『 ある時期 』までボ一ルペンを使い切ることがないと書いた。たまに途中で書けなくなって廃棄してしまうこともありますが、仕事をリタイアした後はほとんど、最後まで使い切ってしまうようになった。大抵は2~3週に1本の割だ。あまり長い期間でなく、集中して使うことが肝要のようです。
自分でも結構早いなと思って、ボ一ルペンを摑む部分に使用開始年月日を刻んでおく。やはり2~3週間で使い切ってしまう。決して無駄遣いしている積りはなく、普通に使っていて使い切ってしまうのだから仕方がない。モノを考える時に、考える項目やプロセスを書いて整理する癖があり、その時に使うせいかもしれない。
HP用にテキスト文を書いて(打って)います。その下書きに使っているのではと思われるかも知れません。HPの場合はいきなりパソコンに打ち込んで、1~2回読み直して修正しUPしてしまいます。ずっと後から読み直して、文がおかしいとか、明らかに打ち間違いが出て来てしまうのはこの推敲が足りないからです。
¥100shopに3色のボ一ルペンとシャ一プペンシルがセットになった、いわゆる『 3色ボ一ルペン 』を売っている。3色のボ一ルペンのそれぞれの色に役目を付けて、例えば『 赤は仕事関係の予定 』、『 青は遊び 』、『 緑は家族の関連 』の予定を手帳に記入するなんてことをやっている方がいらっしゃる。
僕の経験では、どうしても使用頻度に偏りが出て、『 赤 』が一番先に無くなってしまう。当初の役割分担の目論見は出来なくなってしまい、次の3色ボ一ルペン購入の運びとなってしまう。老人の『 もったいない精神 』から、残った『 青色 』、『 緑色 』もとにかく他に用途に使います。
斯くして、私の机のペン立てには、シャ一プペンシル機能のみが使える『 元3色ボ一ルペン 』が3本残り、いずれ来るとも分からないシャ一プペン機能の出番を待っている。今の僕はシャ一プペンシルを使う頻度が激減してしまった。僕の精神異常のせいも有って筆圧が高く、シャ一プペンシルの2Bの芯がたびたび折れてしまうのだよ。
我が家の斜め前にドラッグストアがある。このところ、このドラッグストアに行く機会もだいぶ減ってしまった。暑いから、ただ単に私が行かないだけで、家人は今まで通り行っている。
今年はお米の価格が高騰したり、ス一パ一のお米用の棚が空っぽになって大騒ぎした。農林水産省の見解では当初、集荷業者、中間流通業者が価格を吊り上げるために、売り惜しみして、業者の倉庫に備蓄しているから、米の価格が上がっているのではと言う見解を出していた。
何だか、時代劇の『 米問屋の○○屋 』のような話だ。○○屋が米蔵に大量の米を備蓄し、大儲けを企んでいて、お代官にお目こぼしに小判の詰まった菓子折りを献上する場面を見るかのようだ。結果から言えば、農林水産省の役人の見当違いだった。テレビの時代劇番組の見過ぎなのではないか?
その後の調査で、中間の業者が倉庫に積み上げていることはほとんどなく、農林水産省が立てている『 需要予測 』より、実際の消費の方が38万トンも多かった。米が足りなかったのである。需要予測が狂ったのは、インバウンドつまり外国からの旅行者が増えて、日本食を食べたことも米ふ足の要因の一つなのだと言う。
私も以前ほど行かないと言うだけで、『 世間見 』のために、時にドラッグストアにも足を運ぶ。以前、お米は10 kgの袋入りがほとんどであった。今は大抵が5 kg入りになっている。
最新のお米の価格はふ案内ですが、5 kgで3500円台なのではないのでしょうか? もちろん¥4000以上の銘柄も有りますが、10 kgで1万円を超えるとイメ一ジ的に打撃が大きいから、5 kg売りにしているのでしょう。
『 のど元過ぎれば熱さ忘れる 』で、ちょっと前まで、毎日何度も報道されていたお米の価格や手に入らないと言う報道はすっかりなくなってしまった。日本人は『 熱し易くて、冷めやすい 』と言うけどホントだね。
今まで政府は米の需要予測からずっと減反政策を取っていた。ここに来て一転して増産政策を取るのだと、まったく安直な世の中です。
その昔、『 貧乏人は麦を食え 』と言って、八方からお小言を頂戴した政治家が居ました。後に首相にもなりましたが、1950年当時、池田勇人蔵相が『 所得の少ない方は麦、所得の多い方はコメを食うと言うような経済原則に沿った方へ持って行きたい 』と言ったとか。
お米が品薄だったり、米の価格が上がっても、今回、麦を食べると言う発想がほとんど出て来ていない。麦を食べることはそれほど後ろ指を刺されるほどの事なのでしょうかネ? 急に麦を食べる人が増えても、今度は麦の需給が問題となってしまうだけだけど。
*お米と麦の価格の対比をしなければいけない。麦はお米よりそんなに廉価なものなのか
*代替に麦を食べると言っても、麦そのものをたくさん売っていません。確かに麦も売っていますが、米に少量混ぜて食べるくらいの量しか売っていない。
*僕らが子供の頃、弁当に麦の混じったご飯を持って来ている子が、弁当を隠すようにして食べていた光景を見ているけど、そんな恥ずべきことだったのか ?
*トロロご飯には麦飯は相場であるけど、まあ、トロロご飯は流し込むようにして食べてしまう。僕は麦を食べるのはそんなに卑下して食べるものではないと思っています。うどん、蕎麦、パン、スパゲティなど麦に由来する食べ物はたくさんある。
*今、『 江戸の【新】常識 』と言う本を読んでいる。それに拠れば、江戸時代、『 生産者たる農民の大半は普段米を食べられなかった。年貢米をおさめても手元に半分以上米が残った。その大半を換金のために売り払ってしまうからである。主に麦やアワ、ヒエなどの雑穀を常食していた 』と書いてあった。こんな記述により、多くの人が麦が米よりも廉価で、レベルの低い食べ物のイメ一ジをうえ付けられていたのだ。
*僕も米と麦の価格差をちょっと調べてみた。『 貧乏人は麦を食え 』どころではないのである。麦の方が却って高い。昔は安かったのかな?
『 ご趣味は?』と問われて、『 読書です 』と答えるのは、何処となく高尚な趣味の持ち主で、人格も良さそうな印象を相手の方に与えるのではないか。一口に本と言っても、ジャンル、内容は多岐に渡る。児童書からことに拠ったらエロ本まで様々であろう。趣味を問われた時に、読書が趣味と言っておけば、趣味が『 競輪・競馬・麻雀・パチンコ 』よりは、相手の方に無難な印象を与えるのではないでしょうか。
本を読むということは、読まなければ死んでしまうと言う性質のものではない。読んだ方が良いのかもしれないが、読まなくたって別に困るということもない。
現に世の中には一年に一冊も本を読まないという人はゴマンと居る。読まないからと言って、生活に支障をきたすなんて話も聞いたことがない。『 本を読め、読め 』と、本を読むことの効用を説くのは、本が売れれば幾ばくか収入の足しになる、著作者、出版社、書籍の取次業者、書店などの利害関係者の回し者だと疑った方が良い。(戯言です)
若い人が本を読んで知識を得ることにより、学業や仕事に有効だったり、人間形成に役に立つという効果はきっとある。若い人は寸暇を惜しんでたくさん本を読むべきである。
老い先短い、老人である僕が今更、本を読む必然性はない。本を読むことによって得た知識などを生かす場所がないのだ。併せて、読んだ内容など明日になったら、好むと好まざるとに関わらず、脳内から自動消滅、忘れてしまうからだ。老人にとって本を読むことは、お迎えが来るまでの単なる『 暇つぶし 』に過ぎない。
老人でも本を購入して読む場合には、幾ばくかの社会貢献、経済効果を期待できる。金も出さずに図書館で借りて読もうなんて思っている老人は困りものなのである。老人は時間的余裕を十二分に持っている。借りて来て読もうとする場合は貸出限度一杯まで借りて来る。いざ、若い人が借りようと思って検索機で調べても、無常にも『 貸出し中 』の表示が出てしまうのである。 図書館では中々借りたい本には巡り合えないのである。
たとえ、老人には本を読む必然性はなくとも、僕は本を読む。『 そこに本があるからだ 』ではなく、他にやることがないからかなぁ。
フェイクニュ一ス、特殊詐欺など、昨今はウソや騙しの世の中になっている。貧乏な老人が住む我が家にも変な電話がかかって来る。固定電話は普段、留守番設定にしているのですが、伝言機能に『 電話料金の未払いがあって、払って頂けないと電話が使えなくなります 』と真面目腐って伝言を入れてくる。そんなことウソだと分かっているから、聞いているこちらは余裕があり騙されない。笑って聞いているが相手の男は騙そうと真剣なのであろう。
敵は騙しのプロなのだから、あの手この手と日々研究しているのである。こうなると、私は騙されてしまう人々に好感を持ってしまう。老後の資金のすべてを取られてしまったというのは、本当に悲し過ぎる。騙されて被害を被った方は、きっと腹立たしく思っておられると察しますが、騙されて取られた金額がそれほどでもない場合には、『 勉強になりました 』と言った心の余裕を持ちたいものです。その勉強も予め授業料が設定されているなら良いのだが、残念なことに適正標準価格が表示されない性質を持っている。
フェイクニュ一スや特殊詐欺以外にはウソはないかと言えば、そんなことは全くない。世の中ウソだらけである。
例えば、お芝居はウソの積み重ねである。ウソの山で出来ている。この場合には『 虚構 』と言う体裁の良い言葉を使っている。人々はわざわざ電車賃を使ってウソの山を見に行き、泣き笑っている。
テレビのBS265は『 よしもとの番組 』を放送している。ジジイは『 よしもと新喜劇 』の放送を時々見ている。あんなもん、初めからバカバカしい、くだらないと分かっている。どうしたわけか、バカバカしいと分かっていても見てしまう。テレビだけでなく、実際に劇場まで見に行く方もいる。20年以上前だが、ジジイも難波グランド花月と言う劇場で、もちろん入場料を払って見たことがある。
小説、アニメ、映画、その他では『 虚構 』と言っていますが、内容は皆ウソばかりで、ウソを承知で作成し、見たり、読んだり、鑑賞しているのです。ウソだと分かっていて、ウソの世界を見ているのだから安心して見ていられる。
『 金もいらなきゃ、女もいらぬ、わたしゃ、も少し背が欲しい 』と言ったボ一イズものの演芸があったけど、最近見なくなった。私たちの周りにも、時には変な方が現れる。金は要らぬ、めい誉もいらぬ、自分はもっぱら無私、無欲、滅私奉公など大それた言葉を発することのできる人間が現れる。そんな人間は何だか信用できそうにない。これに反して金は好きで、女は大好き、めい誉心も強くて、オッチョコチョイで自分の利益となることなら何でもする(犯罪はのぞく)ような人は、僕としてはずっと付き合い易い。正直言ったら僕だってそうだ。ことに拠らずとも、表面は善人ぶって、中身は偽善者なのです。
もう、大変な威力を発揮していることは皆さん御存じですが、SNSだって選挙の際に絶大なる威力を発揮している。僕自身も気を配って見たり読んだりしている。
新聞やテレビ・ラジオのニュ一スですら、真実を伝えていない。会社の方針に沿って、都合の悪いことは言わない、書かないのである。
新聞でも初め大々的に誤った記事を出しておいて、読者に誤った情報をうえ付けておきなが、後で『 間違えました 』と書いた訂正謝罪記事の何と小さいこと。訂正記事は初めの何ばいも大々的に流さないと、読者に定着した誤った認識は払拭出来ない。
そんな世の中で、私たちは何処までが本当で、どこからがウソなのかを見極める目を育てなければならないのです。世の中何を信頼してよいか分からない。僕たち高齢者の全員が『 騙され予備軍 』なのであります。気を付けようね。
『 昼は何食べる? 』と言われる。カミさんは冷やし中華のモトが一人分、冷蔵庫内に残っているから、それを食べると言っている。そう言えば、カップ麺は食べているけど、専門店のラ一メンも、鍋で調理するインスタントラ一メンも、どちらもここしばらく食べていないことに気が付いた。食べていないと知ると無性に食べたくなるのが我儘なところである。
階段横にある箱内の在庫状況を調べたら、カップ麺は各種あるが、調理するインスタントラ一メンは一つも在庫がない。今日は気温が35℃にもなる猛暑の予測だが、暑い時こそ熱いものを食べたくなる。一度食べたいと思うと、何とかして食べたいのだ。我が家の斜め前はドラッグストアなのです。ちょっと買い物袋と財布をもって出れば、すぐに入手出來るのです。
『 サッポロ一番 塩とんこつ 』と『 明星 チャルメラしょうゆ味 』とモヤシを買ってきた。2種類買って来て、『 さてさて、さては南京玉すだれ どちらにするか? 』 どちらも捨てがたい。沈思黙考の末、『 塩とんこつ 』を食することにした。チャルメラは次回のお楽しみとする。
インスタントラ一メンなのだが、昔は確か『 即席ラ一メン 』と言っていた。最近そのなまえをすっかり聞かなくなってしまった。ジジイの『 化石化 』を象徴する言葉なのか?
ラ一メンの袋に500mlの水を沸騰させなど書いてある。60年以上前に即席ラーメンなど、毎日のように作ったのである。その頃の勘で水の量など『いい加減』。
水が沸騰するまでの時間を使って、豚バラ肉を切り、長ネギも刻んでおく。モヤシも洗って笊に入れ水切りをしておく。
水が沸騰すれば、まず豚バラを投入して湯の中でバラバラにほぐす。先日、キッチンタイマ一を買ったものだから、タイマ一の顔を立て、使ってみる事にする。3分にセットして麺を入れる。しばらくするとアクが出てくる。このアクを退治することが、正義の味方の役目であるのだ。
キッチンタイマ一が示す残り時間20秒を示すところで長ネギを投入、残り10秒のところでモヤシを入れたのである。モヤシなどシャキシャキ感がある方が良い。
タイマ一の指示で火を止め、袋入りの味付け粉末を入れてかき混ぜ、直ちにドンブリに移し替える。もう一つ添付されているゴマをパラパラとまき散らせば出来上がりなのである。
我が高校生の時に食べたモノより格段美味しくなったように感じる。本当のところを言えば、60年も前に食べた即席ラ一メンの味などとうの昔に忘れてしまっている。格段に美味しくなったと言うのは、即席ラ一メンのメ一カ一殿に対するお世辞、社交辞令の類である。食後、ドンブリや鍋などを自分で洗って片付けるのは、60年前と何の変りもない。
小学校のクラス会は例年6月の第3土曜日に開催される。今年は幹事さんのご都合で7/5となった。小学校のクラス会に出席してきました。児童数が少ない過疎地並みでもないのに、恐らく全く珍しいと言うか、小学校の怠慢なのか、このクラスは6年間クラス替えが一度もなかった。親御さんの仕事の都合などで、もちろん転入転出は有りましたが、6年間ずっと同じクラスの方々もたくさんいらっしゃる。
早生まれの方は来年ですが、クラス仲間は今年、数え年で祝う『 喜寿 』なのであります。コロナ蔓延の時期に、クラス会は中止となりましたが、毎年開催されてきました。いつも同じ幹事さんのお世話になって、幹事さん以外の出席者は誠に気楽なクラス会なのであります。
私たちは団塊の世代で、1クラス50人以上おりました。クラス会出席者もこの頃はほぼ決まってしまい、15人前後でしょうか。出席率で3割くらい。皆さん、小学生時代を懐かしんでいるのはもちろんですが、何故、毎年同じような顔ぶれのクラス会に出席なさるのですかね?
『 人生訓 』や『 生き方 』など書かれたハウツ一本を読みますと、必ずどの本にも一番先に、書かれている事柄が『 自分を他人と比較してはいけない 』『 自分は自分 』と言うことだと思います。
クラス会って、まあ、難しい面を多く含んでいます。現役世代のクラス会ならどの会社に勤めていて、役職は、年収はどんなものか何てことなのでしょうが、クラス会でそう言った話が出るのは良くない。もし出たら、止めた方が良い。人生では勝ち組、負け組の方がどうしても出てしまう。自分が負け組だと思っている方は、居た堪れなくなって次回からは出席されなくなってしまう。
『 他人と比較してはいけない 』と言っても話の端端にどうしても関連したことが出てしまう。
私たちは今、ほぼ全員がリタイアして、(一人だけまだ仕事なさっている方が居ました)年金生活を送っていらっしゃる。(配当で暮らしが楽な人が居るかどうか知らん)比較しないことは非常に難しい。どうしても、友人の様子を観察してしまうことになる。
*ボケの兆候が現れていないか
*頭髪量の比較
*シミ、シワなど老化に関わる外観品質
*話題の豊富さ
*日頃行っている、散歩、体操、運動などの状況
*日々の過ごし方、趣味など
*会話に対する反応速度、的確さ
*居住地域でのボランティア活動
*趣味のサ一クル活動、カルチャ一センタ一参加など
*にじみ出る生活の程度
その他、人それぞれ観測する比較の対象は違うと思います。
自分を他人と比較してはいけないと分かっては居ますが、そこは『 建前と本音 』で、それぞれあまり口に出すことなく、暗黙裡に自己と比較して、安堵したり、『 勝った、負けた 』と思っているのであります。
会話の中で、頭の回転が素晴らしく、実に素早く、的確に反応される女性が居りました。この方は決して認知症などに成らないなと、羨ましく思った次第です。
爺が一番関心のあったのが、やはり認知症の兆候がないかの観測。今回出席された方にはまったく見受けられませんでした。もう喜寿ですから、居てもおかしくない。出席されていないクラス仲間にはあるいはいらっしゃるかも知れないし、あるいはもっと悪い事態になっているかもしれない。
いつも書いているから分かっていらっしゃると思いますが、僕もほぼ毎日、『 体操 』『 漢字書き取り 』『 算数ドリル 』をやっている。算数ドリルではほとんど感じないが、漢字書き取りではしばしば自らの愚かさ、ボケさ加減を感じる。何度繰り返してやっても忘れてしまうし、覚えられないのだ。
例えば『 慢 』と『 漫 』の使い分けが正しく出来ますか?
『 慢 』は 慢性、自慢、我慢、怠慢、高慢、緩慢 etc.
『 漫 』は 漫才、漫画、漫歩、漫然、漫遊、漫談、冗漫、散漫 etc.
『 堕 』と『 惰 』の使い分け
『 堕 』は堕胎、堕落 etc.
『 惰 』は惰眠、惰性、惰力、怠惰 etc.
等々、同じような形の文字でも、使い分けの違う組み合わせなど、それはもうたくさんあるのです。爺は2種の書き取りのテキストを使っていますが、1周するのに3~4カ月掛かる。もう10周くらいやっているのに、頭の中の記憶装置に一向に定着する気配がないだけでなく、今迄書けていた熟語すら今回は新たに忘れて書けなくなってしまう場合が多発する。いっそのことハングル文字のようにしてしまえば楽なのにとも思いますが、漢字には『 尊重しなければ成らぬ漢字の文化 』がある。
こんなことHPに書いて、ボケの下り坂に踏ん張りを掛けているのは、もうバレているのですが、クラス会にては面と向かっては何もやっていない風を装っている。
人生を送るにあたって、他人と比較してはいけないと頭では分かっているのに、実際問題では皆、無意識に比較しているのだなぁ。
7月となりました。早いもので2025年も、もう半分過ぎてしまった。毎年、年始に『 今年こそは100冊の本を読もう 』と目標を立てます。2022年まではほぼ毎年目標をクリア出来ていました。2023年、2024年は目標まで達しなかった。今年こそはと頑張っている。
実は2022年までは勤めていたのです。片道1時間半の通勤時間が、規則的な読書時間確保となっていたのです。2023年以降は毎日が日曜日で自由になる時間がたくさんある筈なのに、いつでも読めると思うと、それが却って災いする。
年間100冊の本を読むと言うことは、簡単に喩えて言うと、『 一週間に必ず2冊ずつ本を読む 』と言う事なのです。特に長い小説や厚い本などを除けば、新書版や文庫本など、1週間に2冊の本を読むのは割り合い簡単です。でもね、1年は52週ですから、52週連続して、必ず毎週2冊ずつと言うのはかなりキツイ。
1週サボって1冊しか読めなかった。次の週、または別の週にふ足分をカバ一すれば、もちろんOKです。とは言え、度重なるともう大変。目標達成できなくなってしまう原因となる。毎週の積み重ねがとても大切です。
一応どんな本を読んでも良いと自分では思っていますが、自分の好みで自然と、バイオレンス物、H系、漫画、推理小説、SF、時代劇風のモノなどは読まなくなってしまった。(これは、爺の好み、尺度ですからお気になさらないで下さい) 爺が読むのは新書系の本が多く、途中に小説を取り混ぜれば、読んでいない本などもう気ちがいになるほど、たくさんある。
爺は76歳なのであります。老い先短くて読む本も選び、内容の薄い本を読んでいる暇などないのです。パソコンで『 一生の内に読んでおきたい100冊の本 』などと言うようなキ一ワ一ドで検索すれば、読んでおくべきような本の題めいなどのリストを直ぐに手に入れることが出来ます。
年間100冊の本などと言わず、1冊の本をじっくり時間掛けて読むと言うのも一つの読書法であります。爺の場合はもう『 認知症真っ最中 』なのである。本を読んでも、それこそ3歩あるけば、内容を忘れてしまうのである。爺の脳内の『 知識の濃度 』をある程度の水準で維持するには、籠の中のリス(?)が車を走り続けるように、絶えず本を読んでいなければ成らないのです。
作家、著述家の方々が骨身を削って書き上げた本から、知識を得たり、感動させて頂くのです、出来れば本を購入して読むべきものである。ただね、本音を言えば、本を読んだ後、毎年毎年100冊前後の蔵書が増えることは、ウサギ小屋に住む住民にとっては大変困る事態なのであります。本を読み終わったら、古書店に持ち込んで売却すればよいのですが、実際に売ってみると、購入価格に比べてため息の出るくらいの価格でしかお引き取り願えない。
爺とて自分で必要と思う本は年間でも10冊程度は買っています。
その他の本は2週間に一度、市立図書館に行って借りて来て読んでいます。爺の行く図書館は川崎市内では一番大きい。図書館にはどのくらいの数の蔵書があるのか知りませんが、図書館と言えど、中々希望する本には簡単に巡り合えません。
予め、借りたい本を10冊くらいメモしていきます。図書館では本棚に向かう前に、先ずは検索機で『 この図書館に蔵書しているのか 』『 貸し出し中か 』『 どの棚に置いてあるか 』を調べてから本棚に向かいます。人気のある本は何方も読みたいと思っているのです。10冊メモして行って、巡り合えるのは2~3冊程度ですかねぇ。
読んだ本は記録してあり、6月末時点で、54冊読んだ。年の半分の時点で、ちょっと貯金が出来ている。この先も頑張る積りです
えらく久しぶりに作文練習帳に文を書くような気がします。自己顕示欲旺盛、目立ちたがり屋のバカジジイも、しばらく書き込みをしていないと、やはり何となく寂しくて、また書き込みをしようと言う気になるものです。
今日はまた、変わった題目である。もちろん僕も体育の専門家ではないので、あるいは考え違いが有るかも知れない。予め言っておきますが、間違っている場合はご容赦願いたい。漫画風に筋肉の絵を描いて両側の細くくびれた部分が骨に繋がっていて、関節を曲げたり、伸ばしたりする。筋肉の両脇の部分を頭筋と言う。
腕を曲げて腕力を鼓舞する如く力コブを作る。上腕の前面側の筋肉を『 上腕二頭筋 』と呼ぶ。筋肉の端部側が2つに分かれているので、『 二頭筋 』と言う。上腕三頭筋は腕の後ろ側にある大きな筋肉で、筋肉の端部側が3つに分かれて骨と繋がっているので、『 上腕三頭筋 』と言うのである。力自慢の腕が太い方がいらっしゃるが、その方は大抵、上腕三頭筋が太いのである。
爺は着衣の状態の外眼は『痩せて』見えるようである。ご存じと思うが、『 BMI 』と言う指標がある。『 体重を身長の2乗で割ったもの 』である。BMIの指標で概ね『22』が標準的な値である。BMIによるおさむ爺の標準的な体重は57kgほどなのだが、爺の現在の体重は66~67kgくらいでおよそ10kgオ一バ一なのである。BMIで言えば『24』に届くかどうかと言うところ。ちなみに『25~』は肥満と言われる領域になる。
爺の10kgオ一バ一について、体じゅうに満遍なく肉や筋肉が付いているのならこれはまだ許せる。そうでないから困っている。お腹周辺と、腰の背面側の両脇に『 脂肪 』が集中している。
この歳になれば、海やプ一ルに行って裸体を晒すこともないが、おさむの美意識が許さない。『 お腹の脂肪を取る 』をキ一ワ一ドにあちこち検索すると、お腹を凹ます体操情報が得られる。運動項目をリストアップし、日々実施したか記入する表を作成した。外出などの行事がなければ、ほぼ毎日30分~1時間の運動を自らに課して、日毎チェックの数が増えることを楽しみに、自己満足していたのである。
仕事をリタイアした後は、8000歩/日 歩くなど、自らに厳しく課題を課して行かないと、老人の体力は落ちるばかりである。と言いながら、おさむ爺はほとんど歩いていない。
『 お腹の脂肪を取る 』をスロ一ガンに、歩くことより、『 自重筋トレ 』を励むことを選択したのである。筋肉モリモリのボディビルダ一のような体に成ろうなんて願望は全くない。持っている器具も、自家製 鉄アレ一1個、自転車のチュ一ブ1本のみ。後は椅子くらいなもの。もっぱら自分の体重を使った『 自重筋トレ 』である。
普通、何も運動をしていなければ、先ほど言っていた上腕の後ろ側の『お肉』はタプタプである。体操をしているとあちこちの筋肉が鍛えられてくる。
もう、10年ほど前からですが、体中のあちこちの皮下に塊が出来るようになりました。形成外科に行って診断を受けたら、『 脂肪腫 』だろう、恐らく良性だろうと思うが、取り出して病理検査を行わないと判断できないと言われた。6/19に大学病院で上腕後ろ側から検査のために腫瘊(食指の第一関節ほどの脂肪の塊)を取り出してもらいました。脂肪診断だから、『 しぼう診断 』など使い古されたギャグは言いません)昔話の『こぶとり爺さん』も多分顔に出来た脂肪腫ではないかと想います。
『 抜糸までは激しい運動するな 』と言われ、家でもずっと大人しくして、運動もしていませんでした。昨夜(6/25)、風呂上りに患部に薬を付けようとしたところ、たったの1週間ほどで、おさむ爺の上腕三頭筋はすっかり衰えて、腕の後ろ側がタプンタプンに成っているではありませんか。本当にガクッと来ました。
私の住む横丁の一番奥に私より年配の爺さんが住んでいます。(した。かな)仕事を辞めてから毎日歩いていました。『 最近、見かけないな 』と思っていたら、入院なさっているとの由。『 老人は1週間寝たきりに成ってしまうと、もう歩けなくなってしまう 』と言います。あんなに毎日歩いていた方でも、もう足が衰えて寝たきりに成ってしまうんだなと思った次第です。
抜糸後は運動を必ず再開して、きっと元のように戻そうと思って居ります。
まだ5月だと言うのに、気温が30℃を超える地域が現れた。ただ、昨年、一昨年ほどの暑さにはならないのだとの予報です。何故そんなことが分かるのかと言えば、海水温が昨年ほど高くなっていないとのことです。太平洋の海水温で夏の暑さを予測できるなんて、私にとっては大変興味深いことです。海水温が昨年ほど高くないなら、強烈な台風発生の頻度も少ないのかしら。
天気予報もここ十年ほどでかなり精度が上がりました。古い話ですが、60年も前の、1964年の東京オリンピックの開会式当日の好天を、前日に予想出来なかった。もっと古くて、1959年、5000人以上死者、行方ふ明者の被害をもたらした超猛烈台風の伊勢湾台風の来襲情報を、本州に近付く少し前の時まで分からなかった。台風被害に対する準備をすることが出来ずに、多数の死傷者を出してしまった。
スマートフォンのアプリで『 雨雲レーダー 』を調べると、『 15分後に雨が降り出します 』とか、『 今降っている雨はあと30分後に上がります 』などの情報を教えてくれます。今居る場所やこれから出掛ける外出先でのお天気情報がピンポイントで入手できる時代になったのです。
テレビ、ラジオでは未だに『 神奈川県ではところにより、雨が降るところがあるでしょう 』なんて天気予報を流しています。実際に丁度、雨に降られれば、『 自分が居たところが、丁度ところに拠って、雨に降られたのか 』、あるいは雨に遭遇しなければ、『 自分が居た場所はところに拠らなかったのだ 』なんて、何とも呑気な情けないような事になります。自分ではスマホのアプリ、『 雨雲レーダー 』による情報はかなり信頼できると思っています。
私たちが子供の頃、遠足や運動会の天気は、空を仰いで祈るしかありませんでした。“てるてる坊主”を軒先に吊るしたものですが、最近のお子さんはこんなおまじないのような習慣・儀式はやらないのでしょうか? 軒下に吊るしてある“てるてる坊主”を見ることも無くなってしまった。
おまじないのてるてる坊主を軒下に吊るし、そのご利益で晴れた時の嬉しさっていったらないです。僕の小学生の頃には下駄を履いている子供は居なかったけれど、『 あ~した、天気になあれ~ 』とズック靴を飛ばしていたものです。その時代の方がずっとゆったりとして豊かだったような気がします。
ただね、その頃はまだ子供で生活苦も感じていなかったから、『 豊か 』なんて書いているのかも知れません。まだ、太平洋戦争が終わってから、10~20年くらいの時期ですから、皆まだまだどの家庭も貧しかった時代の事です。
丁度良い具合に今、“『その日暮らし』の人類学 ” 小川さやか著、光文社新書と言う本を読んでいる。まだ 1/4 ほどしか読んでいませんが、現代に生きる人々にとって、『 生き方について 』かなり考えさせられる指摘です。読後に書いてみたいと思います。
身の回りで次のような会話が平然とされていることに気が付くものです。
『 この間、○○のお店で□□を食べたけど、とても美味しかった。改めて感じたけれど 、○○のお店の□□を食べたら、もう他のお店で□□を食べる気にはならないわ 』とAさんが言った。Aさんに限らず、こう言った会話は私たちの身近で何処にでも転がっているものです。
随分、恥知らずの大雑把な方だと思います。『 蓼食う虫も好き好き 』で、『食』に関わる好みは人それぞれなのであるだけでなく、たとえAさんでも、その日の体調、気温、湿度、風向きなどなど、またそのお店にたまたま、子連れのお客さんが居て、小さな子供が店内を駆けずり廻って、ふ快な思いをしながら食べたのでは、同じ品目の□□の筈の味の感じ方は全く変わってしまうのです。
数回食べただけで、この界隈の店では○○のお店の□□が最良だと決め付けたり、『 ○○のお店の□□はとても美味しい 』と結論付ける厚顔さには呆れてしまう。言われたBさんも少なからず影響を受け、自分も○○のお店の□□を食べたことがなければ、一度は食べてみない事には会話から取り残されるのではと思うのであった。個人の嗜好を決まったことのように結論付けるのは大変な迷惑なのであります。そんなお店に行ったことは有りませんが『 星☆の数が何たら 』と云う評価も余計なお世話だなとヤッカミ半分で想います。
明治時代の文豪に夏目漱石と言う方がいらっしゃった。官費で留学された大変優秀な方ですが、留学先で世間の評価や評判とか、友人知人がハマってしまう事に影響され、異国の地で精神的に病んでしまった。
後に漱石流の『 自分本位 』と言う考えを基準として、周囲の考えを気にせず、自分の考えを大切にするという考えを表している。
戦争以前の日本では、『 親兄弟、家族のため、村や国のために 』との教育がなされて、多くの方々が亡くなりました。戦後育ちの僕たちは、自分の人生は自分で決めると言う考え方が尊重されて来たのであります。
『 柳の下にドジョウはいない 』と言うことわざがあります。一度、 柳の下にドジョウがいたのを見た人は、『 柳の下にはドジョウが居るものだ 』と一回の経験から勝手に思ってしまって、その考えが広まってしまったのかも知れない。たまたま柳に木の下にドジョウが居たのを見て、一つの視覚情報を得ただけなのに、勝手に一般化して法則にしてしまう方がいるからこそ、『 いつもドジョウが居る訳ではない 』と否定することわざを作らなければ成らなくなってしまうのです。
次の話もよく有りそうなことです。風邪を引いた時に、『 この薬を飲んだらすぐに治った 』と言う経験から、『 この薬はよく効く 』と勝手に一般化して“風邪引きさん”に喧伝し、暗に従わせようとするのである。
その人にとって風邪が治ったのは、栄養あるものを食べて早く寝たからか、もう既に風邪が完治する時期に達していたので治ったのか、本当に薬の効果で治ったのか、実際のところは分からないのであります。
自分の限られた範囲での経験則や判断をすぐにル一ル化して、他の人にも適用化させたがる方が世の中には何と多いことか。その多くは善意の基に無意識に行われているのだろうがところが始末が悪い。そのほとんどが『 余計なお世話 』であることをよく考えた方が良いと信じている。
元々自分は口が達者に動く方ではない、活舌も悪いと思っている。それでも在職中は工業団地の工場見学の案内人やら、プレゼンテ一ションの仕事もあって、人前で話すことも多かった。仕事を辞めてから3年経って、元々口数の少ないところ、益々喋る機会が減ってしまった。
別に何の理由が有る訳でもないが、妻との会話も必要以外には喋らなくなってしまった気がする。来年の5月末には丸50年にも成るので、取り立てて話すことも無くなってしまったのである。
もう大分前から、何か喋ろうとすると、咄嗟に言葉が出ないようになっている自分に気が付いていた。自分は吃音ではない。もう亡くなってしまったが、落語家の三代目三遊亭圓歌(かつての歌奴)さんは、子供の頃、吃音であったというが、地道な弛まぬ訓練の結果、噺を商売とする職業にも成ったのである。
逆に人間の生来持つ機能でも、使わなければ、段々と衰えてしまう。それどころか、早晩認知症に成ってしまう可能性大なのだ。
僕も言語能力の衰えを自覚して、日常、落語の『 じゅげむ 』や『 厄払い 』の口上を大きな声を出して唱えるように心掛けてもいた。
自治体の広報誌やカルチャ一スク一ルのチラシなどから、手軽に出来そうな『 朗読 』のサ一クルや講座などがないかも探していた。
時間の拘束なども関係なく、声を出して本を音読すれば良いのだと思って、昨日(5/8)より、短い小説を選んで音読を始めてみた。丁度手頃なサイズの本が有った。志賀直哉の本があって、手始めに昨日は『 小僧の神様 』、そして今日、『 清兵衛と瓢箪 』を大きな声を出して音読してみた。
ラジオなどで時々朗読の番組があります。もちろんあんなに上手に出来ません。初めから上手く出来るはずもない。何十回も練習して始めて成せる技なのでありましょう。
ちなみに、選んだ作品は旧仮な遣いで、漢字も旧の漢字を用いていて、何と読むのか分からない漢字が頻出、ジジイでも容易に読めない。漢字は漢和辞典を引き引き読み進めている。調べた結果、ルビを付けた。
せいぜい、20~30分で読み終わることの出来る短い小説を何篇か選んで、それらをとっかえひっかえ選んで、毎日繰り返して音読すれば、認知症の発症を少しでも遅らせる事が出来るに違いないと信じることにしよう。
今、『 中学生までに読んでおきたい日本文学⑤ 家族の物語 』という本を読んでいます。全10巻ある内の5巻目です。この本は図書館で借りたのですが、図書館の中でも子供向けの本が置いてあるエリアにあったのです。
初め『 中学生までに読んでおきたい 』とあるので、ちょっと甘く見ておりました。私、自分ではごく普通の方よりは本をたくさん読んでいる方だなとの自負があったのです。その鼻柱はペキンと折られてしまいました。5巻目には13人の古今の有めいな作家のおなまえと作品が連ねてある短編集です。中学生までに読んでおきたい筈の目次の作品の題めいを見てどれ一つ読んだ事がないのです。
読み進めると、下の欄外に事細かく注釈が書いてあります。私はジジイですから75年の生活体験があり、今の中学生はこんなことまで注釈に書かないと理解出来ないのかと思うのですが、これは現実なのでしょう。
実を言って、ジジイは昔の貧しかった時代の様子を読んで、涙して読み進めております。ジジイの読書量もまだまだだなぁ、もう歳で命の方は先がないのに、読書は先が長い。
足掛けと言ってもここでは、相撲やレスリングなどの格闘技の技ではありません。例えば、『 足掛け3年 』などと表すときに用いる『 足掛け 』であります。国語辞典によれば、『 期間を数える時に、1年・1月・1日に満たない最初と最後の端数も一つとして数える方法。例えば3/3から4/2までは足掛け二月(ふたつき)で、丸一月(ひとつき) 』なのであります。
この数え方は『数え年』の数え方と同じです。数え年では、産まれた時が1歳、その子の誕生日に関わらず、すべての人が一斉に次の正月を迎える毎に歳を重ねていく数え方です。極端なことを言えば、12/31に産まれた方は、産まれた時点で1歳、翌日の元旦には2歳に成ってしまう。
今は七五三とか、古希、喜寿、米寿などの寿年にしか使われていません。数え年に関する知識のない方は、満年齢でされている方も多いです。まあ、そんなことには目くじら立てて主張すべきことではなく、人それぞれのお考えでやれば良いことです。
カミさんが旅行会社のパンフレットを見て、『 今年、50年なのだから 』と言って何処かに行こうと考えているようです。確かに今年の5月末で、我が夫婦も結婚して満49年になります。満50年には1年ふ足です。正確に言えば『 足掛け50年 』なのであります。金婚式なのでありましょうが、足掛けでも何処かに旅行に行こうと言うのは賛成であります。
とにもかくにも、50年と言うのは長い年月です。どちらがと言えば差し障りがあるでしょうが、お互いに耐え忍んで来たからこそ持ち堪えることが出来たと言うところなのでしょう。お陰様で、子供も3人授かることが出来、夫婦としての使命も果たせたのではと思っております。
日本でも少子高齢化が叫ばれて久しい。人口は経済成長の原動力であります。これから日本は一体どうなってしまうのでしょうか?
話題は少子化と言うことになりますと、地球の人口は年々少しずつ増えております。日本より状況が酷い韓国は一体どうなってしまうのでしょうかね。韓国の人口はおよそ5000万人くらいです。一人の女性が生む子供の数『 合計特殊出生率 (2024年版)』で0.9です。よほどテコ入れでもしないと、韓国は衰退・消滅してしまう。
隣国の中国も人口が減少化して、『 高齢化社会 』になっています。かつての 『 一人っ子政策 』という人口抑制政策のツケが出ているのです。働き手がふ足して来ています。
中国の政治家たちは日本に『 歴史問題を忘れるな 』とたびたび言い続けています。自分たちこそ、歴史を学んだ方が良い。中国は領土を広げようとしている。東シナ海や南シナ海で自らの領土を拡大する方向に進んでいます。
併せて発展途上国に融資をして、中国からの借金で途上国は借金まみれです。今はあまりうまく行っていないようですが、あの 『一帯一路』もそうです。借金してまで港や建物を作ろうなんて考える途上国のトップも悪いのですが、金を貸した中国も途上国を借金漬けにして、金を返せなくなった港の使用権を得るなど手を広げて来た。
歴史に学べと言うのは、モンゴル帝国や、オスマントルコも破竹の勢いで領土を広げました。領土を広げれば広げるほど、それを維持するための軍事力が必要となる。軍事力を増強するには、国民から税金を多く徴収しなければ成らなくなって、国民は重税に耐えられなくなって疲弊してしまう。
中国はもう既に成長に暗雲が漂い始めていると言われる、少子高齢化の中国が、いずれ衰退が加速度的に進むに違いないと思っています。
トランプ大統領も色々な政策を発表して自国民はもとより、周辺各国を驚かせていますが、同じようにグリ一ンランドやガザの領有について案を述べています。自分の所の間口を広げることには金が掛かるのですから。
例によって、足掛けから脱線してしまいましたが、一つの夫婦も『身の丈を考え』、一歩ずつ生活を考えて行かなければいけないことは変わりません。このブログでは政治のことは書かないつもりでしたが、つい余計なことを書いてしまったようです。
僕が育った家に白黒テレビが来たのは、小学校3年生(1958)くらいの時だったか。チャンネルを変えるのも、今のリモコンボタン式と違って、回転させる方式で良く故障した。何しろ16インチくらいの白黒テレビで、どういう訳だか部屋を暗くしてテレビの前で正座して見ていたことを思い出す。
当時はテレビ局もまだ充実していなくて、アメリカからドラマなどの番組その物を購入して、音声を吹き変えて放映していた。広い芝生の庭があって、明るい雰囲気のパパとママが居て、子供たちは3人くらい。ママが大きなオーブンを使ってアップルパイを焼いていた。アメリカと言えば『 ママの焼いたアップルパイ 』がアメリカの中流家庭の象徴だったように思えます。
小学生だったから、アメリカってこんなに豊かで素晴らしい国なんだと、子供たちは皆、印象付けられたと思う。小学3年でも先の戦争で日本を打ち負かせた相手だと知っていた。こんなに力のある国と戦争しても勝てるわけないと感じていた。
僕も老い先短いものだから、なるべく有意義と思われる本を読みたい。ネットで『 社会人が読んでおきたい100冊の本 』と言う言葉で検索して、読む本を選んでいる。得られたリストを持って図書館に行くようにしている。図書館で蔵書の検索をしても、所蔵していなかったり、”貸し出し中”であったりと、検索した本に直ぐにあり付ける率は割合低い。
そのリストにあった本で、書かれたのが2007年だったから、もう18年経過している本ですか『 貧乏大国アメリカ 』と云う岩波新書を昨夜(3/16)に読み終えた。
白人の方もそうですが、先祖がアフリカ系の方や、ヒスパニックの方の貧困が深刻のようだ。アメリカ人と言うと太った方が多いように感じる。本の中では『 太っているのは貧困の象徴 』だと書いてある。医療費も医療保険も高くて、中々治療も受けられない。貧困から抜け出そうと軍隊に入るのもそう簡単に解決策とならない。かえって泥沼に入り込む可能性もある。効率を考えた民営化、市場主義も状況を悪くする元凶に成っている。
本に書かれていることのが、アメリカの現状を表わしているとは思わないが、アメリカと言う国の弱さ、脆弱性の一面を知ることができたような気がする。本の紹介をしても表し切れない。時間があったら、読んでみたらと思います。
最近、僕のHPの『 日記 』『 作文練習帳 』において、写真が増えたと思います。このHPを作ろうと思った時には、文が書きたかった。インタ一ネットと言う道具を使って拙い文を発信してみたかったのです。僕にとっては、『 折鶴 』、『 ウクレレ製作記 』、『 ザリガニ 』はオマケみたいなもので、あくまでも自分の考え方を書き込む雑記帳のようなものを作りたかったのです。
誤解して頂いては困りますが、だからと言って、『 折鶴 』、『 ウクレレ 』、『 ザリガニ 』をいい加減に作った積りは全くありません。やる以上は全力を傾けた積りです。
日記にも作文練習帳も『 テキスト形式 』に拘ってきました。画像はとてつもない威力を発揮することは僕も分かっています。100の言葉で説明しても理解し難いことでも、1枚の写真をご覧頂くことで、分かって頂ける事は十分あると分かっております。だけど、ずっとテキストに拘って来ました。
作文連絡帳(始めの頃は書斎)においても、1600項も駄文を書いて来て、昨今はおさむ爺もあまり書くネタが無くなって来てしまったと言うのが正直なところなのです。もう直に勤めを辞めて丸3年になります。外に出ないで家の中にばかりいて、テレビもほとんど見なければ書くネタなんかないんだよね。
たびたび作文を書かなくなったせいで、表現力が大分落ちてしまったように自分でも思っています。それを補完する意味で写真を取り入れるようになったに違いない。初めの頃の意思と違って、最近では画像も良いかなと思っている。でもね、HPで書こうとすることに全くの関係ない花や景色は『 賑やかし 』に過ぎないと思うから載せないことにしようと思っています。
製造業で働いていた62歳までのある時期のかなり長い間、精神科に通っていました。かなりな期間、品質管理と言えば体裁が良いですが、会社の製品のクレ一ム係を担当やっていました。自分がチョンボしたなら仕方ありません。会社内の他の誰かがミスしたことを、会社のクレ一ム係としてお客さんの所に行って謝らなければなりません。お客さんによっては、怒鳴り散らす人も居れば、『 直ぐに代替品を持って来い 』とも言われます。
会社は受注生産の製品を製造していましたので、代替品など直ぐに持って行けないのです。お客さんと会社の製造部門の『 そんな短い期間で出来る訳がない 』との板挟みで苦しみました。なまじの精神の持ち主でなければ、長く務まる仕事ではないと思っていました。
自分でも苦しくて、家族の生活も有るので、精神科に通うことになったのです。その際に、抗ふ安剤、抗うつ剤を処方され飲んでおりました。だらだらと長い間飲み続けると依存性がつき、急に止めると変な症状が出ると言われています。
もう、嫌だと62歳で製造業から抜け出し、以降72歳までは製造業ではなく、比較的気楽な仕事を見付けて、抗ふ安剤、抗うつ剤からは離れることが出来ました。
睡眠に関しては、僕は寝付きが良いのですが、製造業を離れて完全にリタイアした今でも、ほとんど毎日のように、夜中に目が覚めてしまい、夜中に1時間ほど眠れずにおりました。月に一度通っている内科医にお願いして睡眠薬を処方してもらっておりました。
睡眠薬は『 依存性はある 』とのことです。量を少なくすれば依存の度合いも低減できるのではと、錠剤をハサミで1/4くらいに分割し、少なくして寝る前に飲んでおりました。夜中にも目覚めるのですが、飲まずに寝るとのはかなりの違いを実感します。でもこのままずっと睡眠薬に頼った生活は嫌だとずっと思っていました。
自己暗示かも知れませんが、ネットで気持ちを安定させる方法を見付けて実施したところ、始めてから半月間ほどです。お陰様で夜中に一度も目が覚めず、目が覚めたら朝でしたと言う状態になりました。もちろん睡眠薬なしです。
それはツボのお陰だと思っております。ツボと言っても『 統一教会のツボ 』はお金が大変かかる高価なものだそうですが、僕の言うツボは無料、タダです。ネット見ていたら、『 快眠のツボ 』、『 入眠のツボ 』、『 リンパのツボ 』など、それこそありとあらゆるツボを紹介するサイトがあります。
人それぞれで、効用に違いがあると思います。たまたま、僕にはそのツボが合ったのだと思います。ツボではなく自己暗示かもしれません。寝る前に教えられたツボを刺激(指で押す)しただけで、夜中に目覚めることが無くなってしまった。
今のところ、睡眠薬を飲まずに済んでいます。『 想うツボ 』ですな。私にとっては睡眠です。併せて『 血糖値を下げるツボ 』も刺激しておりますが、こちらは健康診断の際に血液検査でもしなければ、効果が分からないので、次回血液検査までのお楽しみ。
僕は、後いくらもしないうちに死ぬ。今75歳なんだけれど、ほんの50年も前だったら、もうとっくに死んでいてもおかしくない年齢なのです。医療が進んで、もう社会に役にも立たないのに、取り合えず生かされている。
ときたま国から『 平均寿命 』と云うものが発表される。最新版はどうだか知らないけれど多分、男が81歳くらいで、女が87歳くらいだったと思う。これを見て(聞いて)、自分の年齢と照らし合わせて、『 自分はあと平均して何年生きる 』なんて言って人が居るけど、それは大きな誤りです。
あの発表される数値は、今生まれた人、つまり“新生児”がこれから平均して何年生きるか、言い換えると『 新生児の平均余命 』を表わしています。今生きている人の平均余命ではありません。
それでは、今生きている人の平均余命はどうなのかと言うと、厚生労働省から示されている。 『 平均余命 』のキ一ワ一ドにて、ネットで検索すれば、年齢階層別に表で見ることが出来ます。
普通は、先ほどの新生児の平均余命から考えた余命より長いと思います。新生児が自分と同じ年齢になるまでの過程に、病気をしたり、交通事故に遭って亡くなる可能性がある筈で、新生児の平均余命を押し下げている。自分はそれらの障害を乗り越えて今の年齢になっているので、意外に自分の平均余命は長いのです。
平均余命など書く積もりでなかったのです。何処かで脱線してしまって止まらなくなってしまった。本が好きなのだけれど、僕にはもう老い先が短い、残された時間が少ないのです。残された時間のうちでも、最期の方では本も読めないと思うのです。僕に残された、その短い時間にどうせ読むなら良い本を読みたい。でもね、自分で調べて判断するとしても、良い本かそうでないかは、読んで見なければ分からない。ただ、世の中にはお節介な(親切な)方が居て、ネットにアップされていて教えて下さっている。
取り合えず、『 社会人が読んでおくべき本 』というキ一ワ一ドで検索してみた。相当するようなサイトが出てきたよ。早速、リストをコピ一して、図書館に行った折に、その中の一つを“図書の検索”をしてみた。図書館の蔵書の中に在って一冊借りてきたよ。
読んでみた。残念ながら、ジジイが読む本ではなかったな。若い人が読むようなハウツ一ものだった。例えば、引っ込み思案な、臆病な、何事にも消極的な人を励ますことが書いてあった。
言葉は違うのだけど、『 前向きに生きるためには、自分に自信を持とう 』と云うようなことが、真面目くさって書いてある。アホかいな。該当して悩んでいる人は、それが出来ないから、青年になっても交際している女(または男)友達は居ないし、みんなで集まっても黙っていたり、隅っこの方に居たり、仕事が上手くいかず悩んでいるのです。
『 自分に自信を持とう 』と云うのは、『 羽は持っていないけど、ビルの屋上から羽ばたいて飛び出してみましょう 』と云うほど難しいことなのです。若い人を励まそうと思うには、もっと根本のことを伝えなければいけないと思うな。ハウツ一の本より、相応しい小説を読むことを薦める方が良いような気がします。『 こんな本を読んでみたら 』と本の紹介する方が良いと思うな。
『 自分に 自信を持とう 』と云う本は途中で読むのを止めてしまった。ジジイもね、中学生や高校生の頃は引っ込み思案で、臆病で、何事にも消極的な嫌な性格だった。悩んでいる人は自分の性格の弱さを、もう十二分に承知しているのです。こんな性格のままでいると、『 これから社会に出て、やっていけない 』と気付かないといけない。それならどうしなければいけないのか、自分で悩んで乗り越えなければいけないのです。
なまえは覚えていないけど、ストレスに関する学者さんが『 ストレスがゼロとなったら、その人間は滅びる 』と何処かの本に書いてあった。ストレスが有るからこそ生きるための抵抗力が備わる。一年中、同じ温度で何の刺激も無ければ、その人間は心身ともに脆弱となり、抵抗力が無くなり、免疫力を失うのだと。
人間の誰もが、背が高くて、聡明で、美しくて、体が丈夫で、強い存在ではありません。産まれ付き臆病な人も入れば、体が弱い人や、泣いてばかりの人も居る。世の中には、病気や障害が無くても50、60歳になっても異性を知らない方さえ居るのです。でもね、そんな弱虫な、臆病な性格の男(女)でも、自分の弱さを意識しながら一生懸命努力しようとする姿はきっと立派だと思います。
『 すずめ百まで踊り忘れず 』と云う言葉が有ります。子供の頃に覚えたことは、後々、大人になっても忘れないと云う意味だと思います。
ボケ防止に漢字の書き取りの練習をやっています。『 じんそく 』と云うのは、漢字で書くと『 迅速 』なのであります。迅速と云う字に達するまで、私にとっていつも思い浮かべる言葉は、『 出前迅速 』なのです。私が『 迅速 』と云う漢字を覚えたのは『 出前迅速 』と云う看板からでした。
子供の頃、町のラ一メン屋さんや日本蕎麦屋さんの看板や幟に、よく『 出前迅速 』と云う言葉が書いて有りました。家庭から電話で何か出前を注文しても、中々届かない。痺れを切らして、電話で催促をすると、『 今、出ました 』、『 今、やってます 』と云う回答が定番でありました。
『 出前迅速 』と云う言葉は、『 うちの店では出前のご注文を頂いても早く配達しますよ 』と云う宣言なのです。『 出前迅速 』と云う言葉が有ることは、一般的に出前と云うのは中々早く配達されないものだという事に成ります。
今、調理された料理をバイクや自転車で運ぶ専門の『 宅配 』と云うのが商売になっているようです。早く届くとか、スピ一ドは営業上の大きな武器となることでした。
私も時々ネットで買い物をします。先日もネットで本を買いました。ネットの本屋さんから、○○日に発送手続きをしました。『 ゆうメ一ル 』でお届けしますとのこと。
私、ゆうメ一ルによる配達は経験したことありませんでした。発送手続きをした翌日か、その翌々日に着くのだろうと思って、留守にして受け取り出来なく、再配達をお願いするようでは申し訳ないと思って、ずっと家におりました。
でも来ませんでした。そう云えば、郵便に関するものは『 土日配達なし 』なのでした。配達は、対面の受け渡しでなく我が家の郵便受けに入って居りましたから、対面の受け取りはふ要で良かったのでした。
結局、受け取ったのは土日を挟んで、発送手続きの日から6日目でした。もし、黒猫ヤマトや佐川急便なら、発送手続き日の翌日か、悪くても翌々日には着きます。土日配達なしと云うのもありません。ラインで配達の連絡も暮れます。
ゆうメ一ルは配達の状態のチェック機能がないそうです。遅いし、品物の後追いも出来ないなら、宅配便と勝負出来ないね。こんな『 殿様商売 』のようなことをやっていたのでは先が知れる。
最近のハガキや封書も以前に比べたら配達されるまでにえらく日数が掛かるようになった。宅配便とゆうメ一ルの費用はどうなっているのか知りません。恐らく宅配便の方が高いと思いますが、『 時は金なり 』と言いますからね。
今回、ゆうメ一ルは我が家の郵便受けに入れて頂きました。少し、大きくなって、対面で受け渡しをするようになると、再配達をするようだと申し訳ないので、受け渡しのために在宅していなければならないのも、配達予定日が分からないとちょっと困ったことになるなぁ。
本を読むのが好きです。もう僕も75歳ですから、これからそうそうたくさんの本を読むわけには行かないと思う。終活もしなければいけない。本は買うと溜まってしまって処分に困る。なるべく本は買わずに図書館で借りるように心掛けています。そんな訳で、もうずっと長い期間、2週間に一度は図書館通いをしております。
今はただ闇雲に読んでいるのです。僕には残された時間が少ない。読んでみてガッカリするような本は、出来れば時間の無駄だから読みたくない。『 先達はあらまほしきものなり 』と徒然草の中で兼好さんが書いているように、何を読んだら良いのか、教えてもらいたい。使える手段は活用したい。
“ 社会人が読んでおきたい100冊の本 ”と言うキ一ワ一ドを使ってパソコンで検索したら、100冊ではなかったが、80冊くらいの丁度良さそうなリストが出て来た。内容はまだ良く分からないけれど、新書版のリストのようだった。
僕もジジイでありますから、その中で読んだことあるに違いないものが有るのではと見れば、読んだことのあるものは、80冊くらいの中のたったの2冊しかなかった。『 山は高ければ挑戦し甲斐のあるものだ 』。著者もゆうめいな方がたくさん入っている。リストを印刷して、図書館にあるものを頑張って読もうと思う。読むような本がたくさんあることは本当に嬉しいことです。
リストの中の著者めいや本のなまえから推察すると、小説やエッセイなどの文芸書のリストではないようです。毎度、新書版だけでは正直言って飽きる。別途、文芸書のリストも探してみて、二本立てで行こうと思う。
毎年、年初に思うのですが、良い本を読みたいと言っても数値化しないと目標達成できたかどうか判断できない。
1.年間100冊読了を目標とする。月に8冊以上は読まなければ成らぬ。1月は8冊クリアできそうだ。
2.文芸書なら、純文学、中間小説までで、大衆小説に属するようなものは読まない。
3.ジャンルとしては、自分の好みの問題で バイオレンス、H系のモノ、SF、推理小説、漫画 その他は読まない。
ジジイの目標だけど、どうなることやら。


昨年の秋に上野の博物館で埴輪展が開催されました。おさむ爺も11/30に見に行きました。大変な数の人が鑑賞に来ていました。本当にこんな数の方々が埴輪に興味を持たれていたのでしょうかね。あまりの人出の多さに驚いてしまった。
さて、おさむ爺はリタイアしてしまって、要するに暇なのだよ。3枚の埴輪の絵を描いてみました。水彩画。
ある日、絵を描いてみたいなと思ったのが、確か一昨年の秋だったか? 暇だったのだと思う。カミさんに子供たちが小学生の頃使っていた水彩画の道具があるかどうか聞いたら、あると言う。『 よし、じゃぁ、やってみよう 』
早速、100 円ショップに行って、画用紙と12色の水彩絵の具を買って来た。何もケチって100円ショップで資材調達した訳ではないのです。我が家近くには文具店がないのです。私が越して来た45年くらい前には確かに、個人営業と見られる文具店が何軒も存在した。経営が成り立たないらしく、一軒減り、一軒減りで、とうとう無くなってしまった。
今や、私の周辺ではノ一トやボ一ルペンは100円ショップでしか買えなくなってしまった。色々な文房具を買おうと思ったら、電車に乗って買いに行かなければならないのである。世の中変わってしまったのだ。
初期投資200円(税抜き)で水彩画を始めることになった。子供たちが使っていた、パレットや筆はもちろん活用しました。絵具もあることはあったが、30年以上前の絵具で、既に固まってしまったものも多く、まだ使えそうなものはもちろん使っています。
お絵描き教室に通って習っている訳でもなし、すべて自己流。図書館で水彩画の本は借りて来て、この状態で船出しました。とにかく、描きまくり。もうかれこれ20枚くらい書いたのではないでしょうか。
昨年、埴輪展に行ったので、私も『 水彩埴輪展 』をやってみようと3枚描いてみました。先生に習った訳でもなし、全くの素人水彩画です。普通なら、趣味で絵を描くことが有っても、自分だけの世界に留めておくのが一般でしょう。おさむ爺は75歳です。既に面の皮が充分肥厚しております。折角書いたものですから、どなたでも見て頂きたいと思うのが人情です。どうぞ、ご遠慮なく笑ってやって下さい。
おおよそ自分を含め人と云うのは、始末に負えないものだと思います。自惚れるし、つけ上がるし、劣等感・優越感、ねたみ・そねみを持ちます。その他にも表現の仕方は様々ですが、状況に合わせて、その都度様々な感情を持つものです。
もし、人が社会生活を営まず、単独で行動していたならば、このような感情を持たないものだと思います。自惚れ、つけあがり、優越感・劣等感などなど、全ては自分以外の他人が居るからこそ、心の中に湧き上がって来るものなのです。自分以外に比較する相手が居なければ、このような感情は起こらないに違いありません。一人暮らしの人が、大きな音で放屁しても面白くも、可笑しくもありません。
全ては他人との比較です。自分を他人と比較しての自己評価と、同じことを相手の方や第三者が評価をして、自分の評価が高い方で一致していれば、心悩ますことはほとんどありません。
自分が思っているほど、他人が評価して呉れていないのではと云う猜疑が、全ての始まりなのではないのでしょうか。人々はそれに苦しみ悩みます。
この事を知っている修行している行者は、他人に影響されないよう、人里離れた山に籠もり修行をします。
世俗を超越した、並外れた人なら、世俗の中に身を置いても修行は出来るはず。世俗を離れた所でしか修行が出来ないような行者はやはり凡人なのでしょう。『 よし、コレで大丈夫 』と思って、自分では悟りを開いたと思っても、山里に下りれば、やはり煩悩に苦しむに違いない。
よく、諺にある、『 医者のふ養生 』、『 坊主のふ信心 』、『 儒者のふ身持ち 』と云うように、その道に長けた人でも自分のことには、何かと目が届かないものなのです。
会社勤めをしていた若い頃に、自分の仕事が会社の中で一番忙しく、重要で、私が居なくなっては会社はとても困るなんて、世間知らずの自惚れた時期もありました。上司は仕事も出来ず、ボンクラだ何て思っていたことも正直言えばありました。自分の遣っている仕事に対する対価も、もっと評価されてしかるべきだ、何て感じていたことも確かです。今、当時のことを考えると、世間知らずの大バカだったと思います。
確かにある一箇所に注目すれば、自分は他の人よりも優れた能力を持っているかもしれない。ただ、それはある一面に限られます。総合的に評価すれば、自分よりはるかに勝っている方はたくさんいらっしゃる。
組織は欠員が出れば、それは一時期困ることがあるかもしれませんが、その方が居なくても組織は成り立ちます。斯様に一個人の力は弱く。皆が纏まった総合力は強い。若い頃は中々このことに気付かないものです。人は皆、ちょっとの切っ掛けで、天狗になったり、劣等感を持ったり、思い上がったり、落ち込んだりします。本当に人は始末の悪いものだと思います。
人を批判する時は、概ね自分も悪いところがあるものです。
おおよそ、私が苦手としていることは『 整理整頓 』であります。それこそ小学生の頃から、また就職してからでも、こうしてリタイアした今でも、私の生活圏の中でいつも心の片隅で意識していた標語は『 整理整頓 』でありました。もっとも、中学3年の半ばまで自分専用の机は持っていなくて、円形のちゃぶ台で勉強していましたから、その面では机の上の整理整頓は当てはまらないかも知れません。
在職時の私の机の上はそれこそゴミの山、自宅の机の上も本や雑誌が積み重ねてあります。ワ一プロ機能である単語の変換をした時、次にその単語が出た場合に、すぐさま同じ熟語に変換されることを学習機能と言います。一度経験したら、次にはそれに対応する機能です。私には60年以上経ても、整理整頓に関する学習機能がまったく無いと言う事に成ります。
負け惜しみに、あまりに整然としているところは、『 生活感がない 』とうそぶいております。
どなたかに机の上や、周辺を整えられでもしたら、見たいものが何処に在るのか見付からず、かえって困ってしまいます。ゴミの山ですが、何が何処に置いてあるのかは分かっている積もりなのです。
在職中ですが、帰宅時には机の上には電話他はほとんど何も無い状態で会社から帰られる方がいらっしゃいます。数多くの配布資料や仕事で使う書類など、どうなさっているのでありましょう。整理するのは、必要なものと、要ない書類を区別し、要ない資料と判断されたものは廃棄してしまっているに違いありません。ある時など、必要なのに誤って廃棄してしまったらしく、私の所に来てコピ一させて欲しいと依頼して来たこともチラホラ。
20余年前、家を建て替える時に、本、雑誌、その他のガラクタ類の、私の所有物の大半を捨てました。当座使わなくても、これはきっといつか使えると思って取っておいた物、若い頃、涙して読んだ青春の思い出の本などです。感傷に浸ってまた見始めると切りがありません。心を鬼にして廃棄いたしました。おおよそ、物を整理出来ない人の根本は、『 これはきっといつか使える。取り合えず、トットコ 』なのだと思います。
今になって、『 これは確か、持っていたな 』と思って探してみますが、結局は無いと分かって、一抹の寂しさは有るものの、無くてもナンとかなるものです。これまでに書いたことは『 整理 』ではなく、『 片付け 』と云う範疇の事でした。
『 大人の整理 』とは集めた情報を必要な時に取り出せることじゃないか。それが『 整理 』なのです。私、23歳くらいの時、独身寮に居て、自己投資の積もりで平凡社の世界大百科事典を購入しました。その当時の価格で10万円以上したと思います。当時の私の給料2ヶ月分では買えなかった。それが役に立ったかといえばノンです。引越しの度に重たい思いをして運びました。コスパは非常に悪かった。
今は、どうかと言えば分からない事があれば、スマホかパソコンで検索すれば大抵のことはタダで分かってしまう。地図も要らない、列車の時刻表も要らない。場合に拠っては新聞すら購読なさっていない方すら居る。
個人的に集めた資料・情報もただ集めただけで、すぐに取り出せなくちゃ何の役にも立たないよね。身の回りの整理整頓も大切の様ですが、『 知的な整理 』もとっても難しい。
『 箱根駅伝では何が起こるか分からない 』と駅伝界では言われているらしい。取り敢えずは、青山学院が昨日、往路優勝し、今、6区の走者が先頭で箱根の山下りをしている。総合の結果はまだ分からない。
青山学院大学とは苦い縁がある。僕がまだ60歳になっていない頃、多分58歳くらいの頃の11月だったと思う。青山学院大学の相模原市淵野辺駅近くのキャンパスに『 青山学院 箱根駅伝出場 』と言う大きな横断幕が張られているのを見た。
あれからもう18年くらい経つのではないか。当時、駅伝界では『 青山なんて、誰も洟もひっかけない存在 』であった。今では駅伝では常にトップ争いをする強豪校となった。学力ではトップ争い出来ないものだから、駅伝でなまえを売っていると陰口を言う人も居る。
こんなジジイが青山学院と何の関係があるのだろうか? 私の勤めていた会社は私が55歳より上の頃は、会社の業績が芳しくなかった。もう、ずっとボ一ナスも出なかったようにも思う。僕が57歳の時に『 成田空港の表示板 』を作るように、結果として8か月間出向となったのも、『 口減らし 』がしたかったのではと思っている。窓際族と言うのは力のある会社の話で、力のない会社は関連会社に出向となった。
そんな私も、22歳の時から鉄鋼関係の工場勤め、途中こちらも業績が悪くて、希望退職で転職したものの、以後も製造業の工場勤務が続いた。
『 もう、製造業には飽きた 』と思っていた。ボ一ナスも出ない会社に嫌気をさし、『 行政書士 の資格でも取ろうかい 』と思って、勉強したのであります。行政書士と言うのは、いわゆる代書屋さんです。行政の窓口に提出する書類を申請者に代わって作るのが仕事で、一応、国家資格であります。
今の時代、弁護士さんや税理士さん、弁理士などの資格を持っていれば、食いっぱぐれないのでしょう。行政書士レベルの国家資格を持っていても、中々オマンマを食べて行けるわけではないようです。資格対策の本にはどれも良さそうなこと書いてあります。私、『 第1種 衛生管理者 』、『 X線作業主任者 』、『 公害防止管理者・騒音 』の国家資格を持っていますが、何の足しにもなりません。
話が大分逸れました。休日に空いている校舎、教室を試験会場として貸し出す大学があります。行政書士の年1回試験として使われたのが、青山学院大学の相模原キャンパスだったのです。私の行った学校は殺伐とした雰囲気でしたが、さすが青山学院は雰囲気が違う。木々があり、花壇も整備され、ベンチも置かれています。青山なら女子大生もたくさんいることでしょう。
こんな学校なら、さぞかし学業にも身が入るでありましょう。何となれば、横浜線の淵野辺駅周辺にも商店くらいはありました。およそ最寄り駅周辺には遊ぶ場所なし。青山学院の相模原キャンパスは多分、当時の新日本製鉄 溶接技術研究所の跡地に建設されたものなのです。この溶接技研には、私、何十回と通いお世話になったことが有るのです。
行政書士の試験を受けました。どうも、まずかったのは私のような年配者は全くと言って良いほど居ないのです。若い男女ばかり。定年間際のジジイの来るような場所ではなかったのです。『 資格を取るには遅すぎた 』模様です。
1年間ずつ2回勉強しましたが、いずれも『 ふ合格 』 でした。自分としては相当頑張って勉強した積りでした。卒業してから多くの時間が経ち、』『 試験慣れ 』に欠けてしまってことも一因として有るでしょう。
箱根駅伝出場の横断幕の張られた青山学院はその後、駅伝界では大活躍です。おさむ爺はその後62歳にして会社を飛び出し、製造業から脱出しました。青山のような活躍とはなりませんでした。
明けましておめでとうございます
私の住む南関東では、昨日の元日、そして今日も快晴の日本晴れで、これが5日まで続くらしい。穏やかな正月と言って良いでしょう。一方の日本海側は連日の雪で飽き飽きしてしまうでありましょう。わたしももう20年近くになりますが、一冬だけ山形で暮らしましたから、雪の中の生活は分かる積もりです。
私、平素はお酒を呑みません。正月だとてカミさんとお銚子1本、小さなお猪口で一人当たり3~4杯でしょうか、日本酒を呑んだらそれだけですっかり酔ってしまった。少なくとも午前中はコタツで寝てしまった。持ち直したのは午後の2時頃で、お猪口3~4杯の酒で、ほぼ1日棒に振ってしまった。今日は初詣に行くだろうから、朝お酒を呑むのは止めにしました。
家族3人で初詣のハシゴをして来ました。2神社2寺院のハシゴ詣であります。2寺院については奈良時代創建のとても由緒ある立派なお寺さんなのに、両方とも参拝者が少ない。片方の寺院は私たちが参拝に訪れた際に境内にはどなたも居なかった。 ご利益を疑ってしまったよ。
そんな訳で、今年もどうぞよろしくお願い致します。