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おさむの書斎

 僕の家には狭いながらも自分の書斎があります。広いスペースではありません。たった3畳の大きさ
 長年、書斎が欲しいと思って来て、家を建て直す際にやっと出来た一人きりになれる唯一の空間。
 他の人が何と言おうと断じてここは僕の書斎なのだ。(実情は、パソコン部屋!!??)
 日記とは別にもう少し長いスパンで、普段思っていることを書こうと思って居ります。
 このHPのメインになるようにしようと思っています。

第 1194        潮時                    2018.12.11(火)

 69歳です。いまだに通勤時間片道1時間15分ほど掛けて、週3日パートとして、仕事に出ています。もちろん既に年金を受給しております。2017年度の1年間は失職し、近所の子供を集め読み書き、ソロバンを教え、雨の日や夜は傘張りなどしておりました。
 自分でももう仕事に出なくても良いのではと思っている一方で、往復で2時間半も掛かる通勤時間を使っても仕事に出るのは、自分を律するためと思っています。勤めに出るとなれば、朝も早く起きなければ成りません。否が応でも他の通勤者と同じペースで駅の階段を登らなければなりません。通勤すると成れば、それなりの距離を歩きます。浪人中は散歩を心掛けておりましたが、それは自分のペースと距離でありました。仕事に出るにはそれなりの覚悟が必要です。
 自らの健康増進のために、勤めて居られたら、勤め先はたまったものではありません。引退させれば良いのですが、日本の従来の習慣では中々そうも言い難い。もう御歳なんだから、辞めて下さいと上手に云うのが難しい。
 それを制度化したものが、定年制度です。企業としてはさっさと見切りを付けて老害を排除したいが、技術部門では固有技術を熟練者が持っている場合が多い。それに引き換え若年者の技術がまだまだ満足出来るレベルまで達していないという企業の悩みもある。
 医療制度の充実により平均寿命も延びた。政府としても年金財源が乏しいものだから、企業に対し、定年を65歳まで延長を求めたり、定年は60歳であっても、希望者に65歳まで働かせるように働きかける。
 政府が『いつまでも元気で働く』という雰囲気作りもしている。年金の受給開始を70歳まで延長すれば、65歳で受給する額に比べ、月当たり受給する額は 1.42ばいになると宣伝もしている。
 幾ら歳をとっても仕事をしていて何も問題のないのが、個人ではたらいている人でしょう。個人商店では何歳までも営業できます。噺家、絵描き、彫刻などの芸術家などは何歳に成っても、モノを相手にしている人は、大抵何処からも文句は来ません。
 本当は健全なる老人の身の引き方、老後の過ごし方について考えた方が良いのではと思っています。
 落語の登場人物に『ご隠居さん』が出てきます。隠居とは戸主が家督を他の人に譲り、悠々自適な生活を送っていた人であり、状況を言います。『人生50年』と言われ寿命の短かった江戸時代には、40代で隠居となるのも珍しくなかったそうです。
 ただ、いつの世も同じで、余裕のある隠居生活を送れたのはごく一部の人たちだけで、他の人たちがやはりカツカツの生活を送っていたようです。
 さて私に関して、世の動きに追随出来なくなったと感じるようになりました。それはパソコンです。仕事でワード、エクセル、パワーポイント、メールなどは日常使います。SNSは少しやりましたけど、意識して使っていません。Wi*Fi、その他便利なアプリがあるようですが、手が出ません。もう完全に乗り遅れたようです。
 職場では僕との契約を解除するなどの動きは見えません。僕の持つ固有技術に関して、まだ周囲の方に決して劣らないと思っていますが、もう、僕もいつまでも仕事にしがみ付いていないで、引退かなと最近せつに思うように成りました。

第 1193        世界に一つだけの花             2018.12.08(土)

 散歩の途中、下校してくる小学3~4年生くらいの女児2人が『世界にひとつだけの花』と言う曲を歌っていた。SMAPが解散して以降、すっかり聞かなくなってしまった。しばらく聞いていないで懐かしい曲だが、余り好きではない。いい歳をして、子供や若年者向けの歌に何か云うのは大人気ないことは知っている。
 『ナンバーワンよりオンリーワン』というところだ。こんなこと言わなくたって、元々人間一人ひとりはオンリーワンなのだ。クローンでもない限り同じ人は一人も居ない。
 病気になり、臓器移しょくしなければならなくなったとする。例え実の親子でも、母親の臓器を子に移しょくしようとしても、異物が入って来たとして拒否反応を起こしてしまう。拒否反応を抑える薬を投与して初めて移しょくが出来る。今話題のiPS細胞だって、当人の細胞を増殖させて移しょくする。そういう意味では、世界中の一人ひとりが元々オンリーワンなのである。でも、歌で言っているオンリーワンはこういう医学的な意味ではない。
 SMAPの歌の対象年齢は多分小学低学年以上と思っている。初めから、『オンリーワンで良いんだよ』と奨励するような歌であって良いものなのだろうか。まだ挫折も何も経験していない子供や若い人向けには、まずは逆の『オンリーワンよりナンバーワン』を目指すとすべきではないのかなぁ。これじゃ、初めから敗者への慰めのような言葉だ。
 世の中の仕事や勉強には向き、ふ向きは確かにある。適しているがどうかを自分で判断して良いものか。両親や先生、上司が見極めてアドバイスしてあげるべきものと思っている。『自分のことは自分が一番良く分かる』なんて云うけど、現実には自分が一番分からないものなのだ。SMAPのこの歌を対象としている年代で、経験が足りなくて色々判断できないと思う。
 人にはそれぞれ役割があって、その役割を果たすことが生きる価値だと知るにはまだ時間が掛かる。NHKの『チコちゃんに叱られる』ではないが、ボーッとして生きていてこれと言って取り得もない。仕事も勉強もさっぱり。こんな自分を見てくれる人が居て、自分を認めてくれる、自分を必要だと言ってくれる。これが本当に嬉しいことなのだ。これに応えて頑張ってみようと思うようになる。
 個性と言うのは、その人の飾らないごく自然の状態のもので、意識して演じたり、作られたモノではないな。日本の社会で悪いと思うことは、みんなと同じようにすることを半ば強制するところがある。『みんな一緒』が平等だと思っている。
 『オンリーワンで良いんだよ』と言っているけど、何も努力もしない、一所懸命勉強や仕事をしなければ、オンリーワンどころか、何処にでも居る『平凡な人』、『その他大勢の人』、『どうでもいい人』に成り下がってしまう。少なくとも『世界で一つだけの花』は咲かない。花を咲かせるには努力して、一所懸命勉強や仕事をしなくちゃ。

第 1192        電話                    2018.12.05(水)

 平日、家に居るとそれこそ様々な電話が掛かって来る。我が家には1階に親機、2階に子機が置いてある。パソコン部屋は3階にある。どうしても3階に居ることが多い。カミさんがふ在の時に電話が掛かって来ると、急いで階段を降りて行かねばならぬ。
 ジジイだから電話ごときで階段を踏み外し、怪我でもしたら後が物笑いである。呼び出し音5回くらいで大抵は先方が諦めてしまう。2階の子機のところに辿り着くまでには呼び出し音は途切れてしまう。ろくでもない営業電話だろうが、たまに知人からの電話もあるから、放置ばかりしてもいられない。
 気が向いた時には子機を3階に持ち込む。そんな時にはどうした訳か、決まって電話は掛かってこない。交際範囲が狭いから僕宛の電話はほとんどなく、勧誘の営業電話が多い。どんなものか例を挙げると
*お墓の分譲勧誘    墓はあるから、2つは要らない
*屋根の葺き替え、外壁塗装塗り替え勧誘    5年位前に済ませた。
*ふ要品買い取り(貴金属、着物など)。 先日、履かなくなった靴を買い取ると言う電話があった。人にはそれぞれに歩き方の癖があり、片減りする。買い取って再販売したって買う人いるのかしら。それとも靴は口実で来宅された時、他の物も物色されるのか。知人の話によれば、一旦家に上げると、中々帰って呉れないという。
*相手が『もしもし、○○さんですか』というから、『さいです』と答えた。『あっ、間違えました。すみません』と言って、相手の方は電話を切ってしまった。相手が『サイさん』と早とちりしたらしい。
*電気、ガスの自由化により、どちらか一方の会社に纏めてくれるとお得ですよというのもあるな。
 我が家のような老人の家庭では特殊詐欺から狙われる可能性もある。気をつけなければならぬ。
 大昔には戸別訪問で営業の人が回っていた。それでは効率が悪く、費用が掛かり過ぎる。何かリストがあって電話を掛けて来るのか、闇雲に電話して来るのか。闇雲とて先方にリストがなければ、電話を掛けて来られない。
 ポイントがもらえる、会員割引がある、景品もらえるからと、気軽にカードを作ったり、会員になったりと、無防備に住所や電話番号を教えてしまう。そのリストが色々な業者に流れていくのだろうな。戒めなければならぬ。
 端から戸別訪問していては極めて効率が悪い。予め電話した中で、脈の有りそうな家を見つけ出し、ターゲットを絞って営業を掛けるに違いない。
 私が電話に出る時は大体、ふざけた感じで出ることにしている。
*『 Hello This is ○○ speaking. Hello 』と言うと、相手は『はっ』として、間違って外国人の家に電話してしまったと勘違いして、切ってしまう。
*『合い言葉、お願いします』と言うと、想定外の対応されたので切ってしまう。
*『ただいま留守にしております。ピーという発信音の後、ご用件をお話し下さい。ピー』と言うのも面白い。
 自分で留守番電話のメッセージのように言うのである。家庭用の固定電話には今、留守番電話の機能が備えられているのではないかと思う。営業電話の方はそこでほとんど切ってしまう。知人で用件のある方だけ、時々メッセージが入っている。逆に自分で掛ける場合は留守番電話機能に答えて、何かメッセージを入れるのは甚だ苦手である。
 理由は2つある。
*相手が留守だと思っていなかった。用件を簡潔にまとめて言う準備が出来ていない。『ピー』と言う発信音の後に『さあ、喋りなさい、さあ、どうした』と迫られると感じてしまう。無機質な機械に向かって、用件を手短に言うことが出来るほど僕は図太くない。
*相づちがない。
 人が相手と会話する場合、相づちがないと甚だ話しにくい。『はい』『ほうほう』『あらあら』『まあまあ』『それで』『ああ、そうですか』など、まだまだ様々な相づちがあると思う。日本語の話し言葉は相づちがあると話し易いのではないか。
 留守番電話が話の成り行きに併せて、相づちを言う機能が付いていたらもっと話しやすい。電話機を製造しているメーカーの方は、一層開発の方に力を入れて取り組んで頂きたい。
 相づちとは言わないが、民謡、浪花節、義太夫でも合いの手入る。『あーどっこいしょ、どっこいしょ』なんて入ると、息継ぎが出来て、調子が付くものだ。日本人の会話の特徴なのかも知れない。
 ついでに書いておく。世間では広く使われているようだ。相づちでも僕は適当でないと思うものがある。相手が嘘を言っているとちっとも思っていないのに言う『うそ!』、『マジで?』、『ホント*』と言うことである。ごく親しい間柄での会話に留めておいて欲しい。
 私が家の前に立っていた時、若いふ動産屋の営業マンらしき人がご近所の土地に関する話を聞きに立ち止まった。色々聞き出す途中に、その方の癖なのだろうが『本当ですか』と言う相づちを何度も何度も繰り返す。大人気ないと思ったが、私は話を止めてしまって、その営業マンに言った。
 『あなた、さっきから聞いていると『本当ですか』と言う相づちを何度も繰り返している。私は嘘を言っている積もりは全くない。あなたは癖で何気なく言っているのだろうけど、言われる私はふ愉快だからこれ以上はお話ししない。友達同士ではないのだから。ビジネスマンとして恥ずかしいと思いなさい』と言った。彼は謝ったが、情報を聞き逃した。
 電話から相づちまで、いつもながら取り留めのない話になってしまった。

第 1191        応仁の乱                  2018.12.02(日)

 趣味なのか、ボケ防止なのかなるべく本を読む事にしている。今年、自分がどれだけ読んだか分からないといけないと思って、読んだ本の題めい、著者、ページ数、今年読んだ何冊目かを毎年記録している。本当に大切なのはどれだけたくさん読んだかと云うのではない。読む本の中身であるという事は、もちろん重々承知している。
 読んだ本の内容の良し悪しを尺度として表すことは難しい。仕方なく、題めい、著者、ページ数、冊数を記録して、今年読んだ本の冊数を尺度として、数値化して判断しようと思っている。
 今のところ、月平均6冊ペースで読んで来た。1~2月にほとんど読んでいなかったため、実際には後半になってしわ寄せを取り戻そうとペースを上げている。今年読んだ本はどういう訳か、新書版が圧倒的に多い。小説は余り読んでいないことになる。文庫本や新書版は通勤時の持ち歩きが便利なためである。
 先日、朝日新聞に新書版の歴史のような記事が出た。代表的な新書の題めいが21冊書かれていたが、その中で3冊ほどしか読んだことがなかった。題めいをメモして、読んだことがないものを、これから重点に読もうと思っている。その中に『応仁の乱』という中公新書があって、読んでみた。
 『人の世空し、応仁の乱』のゴロ合わせで覚える1467年に起こり、約10年間戦われた、室町幕府の八代将軍 足利義政の後継者を巡る争いが原因で起こった。この争いがその後の戦国時代へと続いていく。
 もう年寄りだから、人のなまえが中々覚えられない。小説を読むときには登場人物のなまえと簡単な特徴、属性などメモしながら本を読んでいる。
 ○○○○年、誰と誰が何処で戦いをした式の味気ない表現が、ただ延々に続いていた。夥しい数の人のなまえが出て来るだけではなく、昔は成長に連れて人のなまえが替わる。余りになまえが多すぎてメモのしようがない。読み進めても、何が何だかさっぱり分からん。
 書かれているそれぞれの事柄は事実なのだろうけど、この新書版の『応仁の乱』著者は何処を向いて(向けて)本を書いているのだろう。それとも読む方の僕の資質が劣って居るから、理解出来ないのだろうか。読んでいて嫌になり、読むのを止めてしまった。
 年号とどんな事件、戦いが起こったのか覚えるのが歴史の勉強ではないと思うのだ。これなら歴史は暗記問題になってしまう。試験問題がそういう暗記関係の問題ばかりだからなのか。
 温故知新と云う言葉がある。時代背景を知って、その人が、その場面でどう思って、どのような行動をしたのかを知るのが歴史を勉強する意義なのであって、歴史を学んで知った上で、将来どう考え、どう行動するか参考にするのが歴史の勉強だと思うのだよ。本当は著者は偉い人なのかも知れないが、『応仁の乱』という新書は僕にとっては馬の耳に念仏でした。

 

第 1190        年賀状                   2018.11.30(金)

 もう12月になる。そろそろ年賀状の準備もしなければ成らない。元旦の朝に年賀状を受け取るのは楽しみだけれど、もはや形骸化している。郵便が主要な通信手段だけだった頃はそれなりの役割もあっただろうが、今では電話、Fax、e-mail、SNSなど様々な通信手段があるから、新年の挨拶を改めて年賀状に頼らなくても良くなってしまっている。
 自分で年賀状を作成して出すのは面倒だけど、自分が受け取る分には一向に差し支えないと言うのが本音ではないか。最近では終活の一貫として『年賀状引退宣言』をする方も多いと聞く。
 年賀状は切っ掛けという役割はあると思う。普段ご無沙汰している相手に、自分を思い出して貰うための一年の挨拶くらいの役割は大いにある。平時には中々電話やハガキで連絡するのは気が引けても、年賀状なら堂々と出せるというものだ。結婚披露宴には招かれなければ出席出来ないが、お通夜や葬式には招かれなくても出席出来る。どうもたとえが極端かな。
 年賀状作成するに当たって、毎年頭を悩ませるのがその独自性だ。出来れば目立つ物としたい。昨今さっぱり見なくなってしまったが、ずっと以前は毛筆で1枚ずつ書かれたと思われる年賀ハガキを頂戴したものです。作成にはきっと大変な手間が掛かったに違いない。ただ、手書き毛筆だから存在感を発揮するものの、これに似せて作られたパソコン製の毛筆書体の文字だけの年賀状では、全くインパクトに欠ける。止めた方が良いと思う。
 ならばハガキ裏面のスペースの一角を埋めるにはイラスト挿画しかあるまい。正月特有のイラストには、門松、鏡餅、たこあげ、羽根突きくらいなものだが、昨年暮れに散歩がてらあちこちパトロールして見た限りでは、3本の竹をメインに松の枝をあしらって藁を巻き付けた門松は、私の住む近隣では見る事出来なかった。たこあげ、羽根突きも出来る場所がない。門松、たこあげ、羽根突きは、もはや年賀状限定の風物になってしまった。
 無難なところ登場するのが干支のイラストである。子丑寅卯辰巳午未申酉戌亥なのだ。大人だから、『ねうしとらうたつみうまひつじさるとりいぬい』と順番に言えるし、漢字も朧気ながら書けると思う。ただ、今年は戌年で、来年は亥年で、亥が何故イノシシなのかについての知識は全くない。
 12種類ある中で、架空の想像上の動物が1つだけある。『辰』なのだが、『龍』の事なのである。想像上の動物なのに、坂本龍馬に例を見るように『龍』をなまえの一文字として使っておられる方はたくさんいらっしゃる。もちろん『辰』も『竜』の方も居る。
 干支にちなんだ言い方で『あの人は子年だから、物を溜め込む性格だ』、『寅年の女性は性格がキツイ』、『未年だから温厚な性格だ』、『亥年だから猪突猛進型の性格だ』なんて全くの根拠のない言われ方をするのも甚だ遺憾である。
 蘊蓄はともかく、斯様に年賀状という物は面倒なのである。今年も出そうと思う方は、先延ばしをせず、サッサと済ましてしまうことが無難である。

第 1189        お金の払い                 2018.11.29(木)

 先日、郵便局に振込みに行った。今、金融機関は窓口に女性など1~2人ほどしか居ない。皆、自分で機械を操作して預金の引き出し、預け入れ、振込み、記帳などを行なうようなシステムになっている。かつて東芝府中工場の塀の外で起こった3億円強奪事件以来、どの企業も給与やボーナスは金融機関からの振込みになってしまった。我が家の場合、僕は働くだけで、給与の引き出しは皆、カミさんがやっていた。ほとんどやったことがないので、どうも苦手である。
 郵便局に振込みに行く際も、予めカミさんから逐一やり方を聞いて出掛けた。郵便局は駅前と、駅からずっと離れた所の2カ所ある。駅前の郵便局は混む。僕がノロノロ機械を操作して、後ろに長い列が出来るとプレッシャーとなる。これでも気が小さいのだ。駅からずっと離れた郵便局へ行った。思惑通り一人も並んでいない。機械の前で途中少し戸惑ったが、何とか振込みを終えた。何だか幼稚園児が初めて一人でお使いに行くようなものだ。
 『はい』『いいえ』『確認』とか、三択、五択などの選択など、パソコンに接して慣れている筈なのに、実際に機械に向かうと、監視カメラで見張られているのが分かっているから、どうも臆していけない。金融機関によって機械のやり方が違うのが許せない。統一して欲しい。今度金融庁の長官にでも会ったら、進言してみるか。
 スーパーなどで品物の入ったカゴを機械の上に乗せるだけで、自動で計算し、機械に向かって代金を払えば終わりという優れ物もあるという。総白髪のジジイも慣れておかねば、カミさんが怪我か病気でもして、もしもの場合に備えて訓練しておかねばならぬ。その逆に、ジジイにもしもの事があった場合、カミさんはちっとも困らないのはとてもクヤシイ。
 初めてはやはり臆する。運動を兼ねてと荷物持ちをめい目にカミさんのあとをノコノコ付いて、食品スーパーまで買い物に行く。一見、仲の良さそうな老夫婦に見えるが、大した用もないジジイが付いて行くのは邪魔である。慣れていないから店内での身のこなしがにぶい。一人で留守番の出来ないで、ママに付いて歩く未就学児のようなものだ。
 棚に陳列してある品物を取っ替えひっかえ見ているオバサンが居る。どれも同じだろうに。このパックは脂肪がたくさん付いているとか、奥の方から引っ張り出して品定めや、賞味期限の確認などに余念がない。『自分で引っ張り出したのだから、ちゃんと元に戻して置けよ』と心の中で云う。実際に声を出して言ったら、怖いオバサンだと口ではたいてい負ける。
 スーパーのカゴの中身を見ると、おおよそ、今晩の献立、家族構成など予想が付くものだ。無精ひげのオジサンの持つカゴにカップ麺がたくさん入っているのも、悲しい食生活や栄養の偏りが有るのではと心配に成ってくる。今はまだ大丈夫そうだが、いずれ段ボール、ブルーシート方面への道を辿ることのないよう願うばかりである。これは他人事ではなく、いつ自分がその身にならないとも限らない。
 買い物が一通り終わればレジに並ぶ。ここでもジジイが列の長さを増大するのに貢献する。よく行く食品スーパーはそれほど進化していなくて、パートのオバサン店員がバーコードの部分を機械に読み込ませ、会計は別の支払い専用機に向かってするシステムだった。
 散歩がてら歩いて買い物にでも行けば、100円玉でも落ちていないか、幾分下を向いて歩く。『犬も歩けば棒に当たる』と言うのに、近年お金を拾う場面にトンと遭遇していない。人に依っては宝くじに当たるとか、競馬で万馬券当てたとか言う話を良く聞く。これらお金儲けの話は全て他人の話だ。どういう訳か競馬で外した場合の話は聞こえてこない。もっとも、宝くじも競馬もやらないから元から当たる話はない。せめてお金を拾う話においては、自分の身に起こってもちっともふ思議でないのに、何故か自分には起きない。
 結局、スーパーでのお金の支払い方法の実習をして、支出の方法を知っただけで、収入は皆無であった。ああ、対面販売、支払いの頃が懐かしい。

第 1188        文化の違い                 2018.11.26(月)

 以前、英会話の教材のCDを聴いていて、こんなシーンがあった。
日本人:『私は25年間同じ会社で働いています』
米国人:『そんなことは考えられない。第一、同じ会社に居て同じ仕事をしていて飽きないのか。私は学校を卒業してから、5回仕事を替えている。だけど、それぞれその時勤めていた会社では一所懸命働いている。』
日本人:『愛社精神はないのか。会社に申し訳ないと言う気にならないのか』
米国人:『私は自分の時間を売っているのです。転職はアメリカでは当たり前のことで、転職しても誰も何も言わない。皆、自分のスキルアップのために何年間か働いたら、誰でも転職しますよ』
 会話の中のやり取りは、ざっとこう言ったことであった。
 経営危機に陥っていた日産自動車の立て直しに、カルロス・ゴーンがやってきた。2万人以上の従業員をリストラし、日産の業績を立て直し、ルノー・日産グループを世界一の自動車販売台数の会社に押し上げた。だから、経営者は相応の報酬を得て当然であるとした。日本人にしたら破格の報酬だとして、いつも株主総会では株主から質問が出るとのこと。
 『会社は株主のもの』と言われる。この論理は日本人には、頭で分かっていても恐るべきものではないか。『会社はそこで働く従業員のもの』と言う考えはないのか。会社に出資するのはもちろん株主だが、株主によっては利益を求め、短期で株を売り買いしてしまう方も居る。その会社には何の愛情も見受けられない。ただ、利益を得る対象でしかない。
 多くの日本人従業員は一旦就職した会社で長く働く方が多い。日本では従前は終身雇用と言う状態であった。従業員が皆、5年くらいの短期でコロコロ辞められたら、作業の熟練や技術向上は期待出来まい。会社によっては『永年勤続表彰』として、例えば従業員の夫婦に旅行券を出すくらい、従業員が固定して働いてくれることを望んでいる。
 日本の企業では中途採用する時、応募者が以前勤めていた会社に退職理由を照会するのが常だという。これから手間暇掛けて教育し、戦力として働いて貰うためには多くのお金がかかる。始めから問題ある人を採用したくないからだ。
 今回、カルロス・ゴーン氏が逮捕された。彼が来なければ日産は立ち直れなかったかも知れない。立ち直ったが、日産は重い荷を負わされてもいた。文化というか、合理性というのか、日本と欧米の考え方の違いを感じさせられた。

第 1187        思うこと                  2018.11.24(土)

 世間の多くの方が3連休である。週3日働いている私は4連休。そして多くの老人たちは毎日が日曜日(休日)である。畑も庭もないからうえ木の手入れなど、家に居て特にやることはない。食器洗いも風呂の掃除もとっくに終わった。連休の初日から持て余し、うんざりしている。今や世の中のお荷物と化してしまった我ら団塊の世代も、2025年には全て後期高齢者となってしまう。
 AIの発達によって、近未来、世の中の人々が今やっている仕事のほとんどがAIにとって替わってしまうのだと言われている。持てる者と持てない者の格差が拡大するのは当然予想される。AIに仕事を取って替わられてしまった人は、一体どうなるのであろうか。
 かつてもコンピューターの出現、普及で多くの人々が職を奪われたと思われる。ところが、コンピューターの出現によって、今までになかった新たな種類の仕事が創生されたとも言われている。
 AIによって仕事が失われた分、また今までなかった新たな仕事が生まれるだろうと期待して手をこまねいて、何も対策を立てないで良いのだろうか。柳の下にはいつもドジョウは居ない。一度は成功して味をしめても、そうそううまい事ばかり起こらない。
 仕事を失うのは、今度は老人ではない。子供を育てたり、教育費が掛かるまだ壮年期、青年期の働き盛りの方々が仕事を失う可能性があるのだ。彼らが、今の老人のようにやることが無くて毎日ブラブラしている姿を想像するのは辛い。
 世の中、人手ふ足なのだという。私の知っている会社でも、幾ら募集をかけても、ちっとも応募がなくて困っていると云う。海外からの働き手を求めて、国会でも議論されている。この状態は一方では切実だと思うが、ある面では正しくないと思っている。人手ふ足と云うのは『安い賃金』で働いてくれる人が居ないだけで、日本にはまだまだ働き手は居ると思うのだ。
 今、日本で食べる物がなくて餓死したと云う話をほとんど聞かない。そう、働かなくても何とか食べていけるのだ。通勤途中のJR川崎駅近くで、4~5人の男たちが固まって座り込み、平日の朝から酒を酌み交わしている姿を時々見る。
 彼らだけでなく、汚い、きつい仕事を避けて、仕事を選んでいるだけで、働き手はまだまだ居る筈だ。今の日本は働かなくても何とか食える。
 太平洋戦争が終わって10年余りの昭和31年、戦前の経済レベルを超えたとして、経済白書は『もはや戦後ではない』と言った。食うや食わずの状態から、暮らしが少しでも楽になるようにと、親に当たるような世代の方々が懸命に働いたからこそ、今の日本がある。
 働かなくても皆が困らずに食べていけると云うのは理想だが、AIによって奪われた仕事対策も考えていかないことには大変なことになるのは間違いない。老人が働かなくて日々をどうやって過ごすか考えるのも辛い。まして働く能力のある方々が働かないでブラブラしている行く末は、国の衰退しかないのだ。今から対策を考えておくべきだ。

第 1186        最近の私                  2018.11.19(月)

 最近の自分自身には大変失望している。覇気がない。元気もない。青い光で目が疲れるせいか、以前ほどパソコンにも向かわない。毎日、本を読んではいるが、軽い内容のものが増えてきた。何が原因か考えてみた。自分の事は中々分からないものだが、自分の行動規範は次の2つから成っていると思っている。
① ボランティア活動はやらない。
② 常に自分のスキルアップをして行きたい気持ちはある。
どうも変な心境だと自分でも思っている。
①について、
 今年は各地で大雨、地震など様々な災害があった。こういった災害があると、災害復旧のためのボランティア活動に参加される方がたくさんいらっしゃる。今年は行方ふ明になった幼児を探し出した『スーパーボランティア』と呼ばれて、軽ワゴン車に乗って全国に出動する元気なオジサン(おじいさん)まで出現して話題となった。僕に出来るかと言ったら、恐らく出来ない。自分には出来ないものとして、大変敬ふくしている。
 『顎足ナシ』つまり、交通費なし、手弁当での奉仕活動を私はやる気が起こらない。自分の近場で自然災害がないから、こう言っているのかも知れない。近場で起こったら私もボランティア活動するかも知れない。もし、私の周辺で災害が起こり、自分が被災すれば、ボランティアの方に手伝って頂きたいと言う、誠に身勝手な心情である。
 私が全く奉仕活動に無縁かと言うと、そうでもない。町会の防災隊は10年以上やったし、現在でも勤務日以外だったら、小中学生の下校時間に合わせて町会の通学路の見回りパトロールにも参加している。人手がなく困っておられた、お向かいの50坪以上有る庭(空き地)の繁茂した草刈りも一人で、もちろん無償でやり終えた。
 町会に加入していても、加入しているというだけで、何もやらない人が大部分の中で言ったら、ボランティアはやらないと言っても、僕は参加している方かも知れない。
 町会の通学路見回りパトロールの仲間に、市の施設の管理に月2回ボランティアで参加されている方が居る。無報酬、交通費支給なし、手弁当だそうだ。こういうボランティア活動に参加する気は全く起こらない。身の回りの事なら無償でも手助けしているが、災害でもないし電車に乗ってまでは参加したくないという気だ。
 身の回り以外のことで、自分のスキルや労力を必要とするなら、何らかの代償は頂きたい。プロ意識が強いのかも知れない。
② について
 50歳の頃、ゴールデンウィークに家に居て、毎日ブラブラしていた。『こんな事ばかりしていたら、自分はバカに成る』と思った。何か資格を取ろうと思って、本屋に行ってある国家資格の本を買った。講習を受けることもなく、独学で結構な時間勉強して一回で資格取得した。
 定年まで2年近くになって、定年後は今までの仕事とは全く毛色の違う仕事をしたいと思った。行政書士の資格に決め、やはり独学で勤めから帰ると毎日、真剣に勉強した。年1回の試験で、2年続けて受けたが、ふ合格だった。『一般常識』は2回とも合格範囲に達したが、『法令』がダメだった。答えが分からないというのでなく、全く時間が足りなかった。自分で考えるに、ふ合格は学校を卒業してから時間が経ち過ぎて『試験慣れしていない』事が原因であると結論付け、自分を慰めた。
 受験している人を見ると、20~30代の人達ばかりで、僕のような定年間際と思われる熟年者はほとんど居ない。今更この歳になって、万一合格したとしても、資格を活用出来る道などないだろうことを思い知らされた。そうです。何かを目指すのには歳を食いすぎているのです。
 プロスキーヤーで登山家の三浦雄一郎さんが、また何処か高い山に登る計画している報道をいつかテレビで見た。エベレストに登った時の画像が併せて放送された。高齢だから仕方がないのだが、それこそスタッフが手取り足取り、登らされているとの感じを持った。少なくとも自分が先頭になって登っているのではなかった。
 今、私は週3回勤めに出ているとは言え、有り余る時間を持て余している。チコちゃんじゃないけど、『ボッーと、生きてんじゃねえよ!』状態なのだ。これじゃいけない。何か勉強なくちゃ。『自分のスキルアップ』を図りたいと言う気持ちは強い。その一方で、『今更、勉強したって何の役に立つ! やるだけ無駄だ!』の2つの考えの狭間で苦しんでいる。
 一生懸命勉強して折角スキルアップしたのに、先ほど書いたボランティアでは嫌なのだ。どうも身勝手な心情だと分かっている。まだ、『勉強すれば僕だってスキルを得ることが出来る』と、年寄りの冷や水的な考えがまだ強い。『世のため人のために役立ちたい』と言う心境には達していないのです。
 それで、『ボッーと、生きているのです』。年取ってを理由にしたくないけど、何処かに自分の力を発揮出来る場所が欲しい。体力的には問題ありますけど・・・・・。

第 1185        ドアホン                  2018.11.15(木)

 我が家のドアホン(来客時、押すとピンポンと鳴るもの)が壊れてしまった。今年は冷蔵庫、エアコン、そして今度のドアホンといわゆる家電と呼ばれる電気製品が相次いで壊れてしまった。築18年だから致し方ないと言えば、それまでのことである。まだ、更新していないエアコンもあるから、年金生活者としてははなはだ気が重い。
 ドアホンが壊れて、家電量販店へどのくらいの価格なのか様子を見に行った。量販店でもドアホンは売れ筋商品でないらしく、2機種程度しか展示していない。今は来客を画面確認出来るタイプの機種ばかりで、我が家に設置して有ったようなチャイムと通話だけの物は製造終了になってしまったらしい。
 我が家では壁の中に既存の配線がされている。自分でやるのも面倒なので、ハウスメーカーのリフォーム部門に、電話で依頼した。今までの担当の携帯電話に連絡したら、異動で今は違う部門になってしまったという。今の担当者から連絡させると言うことだった。
 年を取るとどうしても気が短くなる。電話で依頼してから5日経っても、何の連絡もなかった。6日目の夜9時頃やっと初めての連絡が来た。
 『ドアホンの交換など、金額が小さいから始めから乗り気がないのでしょう。営業なら1~2日のうちに、まず電話だけでも寄越して、いついつ伺いますからとか、今工事見積を取っていますからと言うのが普通じゃないのか? そういう連絡が有ったら僕も待ちますよ。 6日も経ってから初めて連絡して来るなんて、どう言う積もりなのですか? もう他を当たるから結構です。』
 と言って断ってしまった。
 僕が現役時代にやっていた品管のクレーム対応だって、営業も同じ事だ。顧客から連絡があったら、取り敢えず直ぐに電話して修理や交換日程の予定を知らせれば良いものを、顧客だって依頼したものの、その後、全く連絡なしでは、どうなっているのかさっぱり分からない。こういうものはスピードが肝心だ。
 断ってしまった以上、自分でやらなければならない。再度、家電量販店に行って、ドアホンのカタログをゲット、ついでに展示品の機種と価格をメモして来た。1階に親機、2,3階にそれぞれ子機を置くことにして、3階の子機には画面ナシの通話だけ出来る安価なもので良いことにする。カタログの後ろの方に小さく書いてある、機種毎の適応表を調べた。
 機種を決めて、ネットで価格を調べてみた。家電量販店とネットの最安値は随分価格差があるものだと知った。家電量販店では店を構え、製品を陳列して、説明用に店員を置いて商売している。ネット上のお店とは価格差が有って当たり前のことだが、買う方にしたら正直言って費用は気になる。
 最安値狙いで、親機と子機では別のネットのお店で買うことになってしまった。取説を読んで予め調べておいたから、設置とテストを含め1時間ほどで終わった。既設のドアホンの配線がしてあったので、ただ線を繋ぐだけだ。親機は100V電源直結にした。本当は工事するには電気工事士の有資格者じゃないとしてはいけないのだが、直結だけなので自分でやってしまった。
 既設のドアホンを設置するために壁に開けてあった穴も、アルミ板に丁度残っていた同じ壁紙を両面テープで貼り付け、壁の穴も塞いだ。取説通りにやれば容易に出来てしまった。だが、機種を選んだり、増設する子機の適用機種選定や、既存の機器を撤去した後、壁に開いていた穴を塞ぐなどの方に何かと頭を使った。一番手間の掛かったのは、壁に開いた穴塞ぎだった。どうしたらなるべく目立たぬように穴塞ぎが出来るか考えることに意義が有る。少しは認知症防止になったかな。
 ハウスメーカーのリフォーム部門に依頼すれば、かなり取られたかも分からない。家電量販店からカタログだけ貰って来るだけで、ネットから製品購入して、自分で設置してしまうなんて『本当に嫌な客だ』と思う。
 家電量販店で買うより大分安くあがったと思っている。消費者が安さを求めるのはごく自然なことだ。ただ、これで良いのであろうか。家電に限らず、こんな買い物の仕方ばかりでは、個人商店は壊滅状態になってしまう。
 私たちが買い物をすると、店や企業はその売り上げから、国や自治体に税金を払う。『買い物は地元商店街で』と言う言葉が有るように、家電量販店やネット通販で買い物をした場合、代金から支払われるべき地方税は住んでいる地方自治体に還元されない場合が多い。
 地方自治体に支払われた税金で、私たちの周りに保育園を作ったり、学校の設備を充実させる、警察が市民の安全を守る、消防が救急搬送したり火事を消すなど、いわゆる地方行政が行なわれる原資となる。大企業だったら本社が東京に有ったり、ネット通販なら何処の自治体に地方税が支払われるのか分からない。
 僕なんかが何かを買う金額なんかわずかなものだが、積もり積もった少しずつの税金で世の中が成り立っているのである。ネット通販で物を安く買ったり、直ぐに届いて便利だが、一時の節約が本当に私たちのためになっているのか分からないところだ。何でもネットで安く、早く買えれば良いと言うものでもないと思った次第である。

第 1184        作法                    2018.11.09(金)

 ある人が20万円のブランド物のバッグを買って、家に帰ってよく見たら金具の所にキズがあった。
 『20万円も出して、キズがあるなんてなっとく出来ないわ』
 同じ人が¥100shopでA4のファイルを買って、家に帰ってよく見たら、汚れがあった。汚れが有っても、¥100shopで買ったものだから
 『しょうがねえなぁ』
 で済んでしまうのではないか。このように、お客さんが払ったお金の額によって、要求する品質に違いがあることになる。品質というモノは固定したものではなく、相対的なものであることが分かる。
 前職で某大手電気メーカー関連会社の仕事をしていた時、私は品質担当でお得意先担当者から散々痛めつけられた。製品価格をやたら値切るのに、少しでも瑕疵が有ると修正を求められるだけでなく、再発防止対策書の提出を求められ、出頭して説明をしなければ成らなかった。大会社とお取引するのは本当に大変だった。
 街のお蕎麦屋さんに行くと、店内に『新そば始めました』の表示をしているところがある。僕は蕎麦が好きだ。世の中には『蕎麦通』の人が居る。僕は少なくとも蕎麦通ではない。『通』となると、中々うるさいことをいうようだ。
 店に入ると大抵何処の蕎麦屋でもメニューは『もり』『ざる』から始まる。『もり』と『ざる』では値段が違う。『ざる』は『もり』の上に刻んだ海苔がまぶして有るだけの違いに見える。果たしてそれだけなのか。人によっては『もり』と『ざる』では、付け汁が違うと言うがどんなものか。
 僕は普段、『大ざる』を注文する。大抵の蕎麦屋では並盛りでは『これで一人前かよ』と思うほど量が少ない。だから、いつも『大ざる』にせざるを得ない。かつて富士市の蕎麦屋でいつものように『大ざる』を注文したら、山のような蕎麦が出て来て、やっと食べ終えた経験がある。
 気軽に食べられるとの思いがあるが、『蕎麦通』とも成れば、蕎麦を食べるには作法がうるさいらしい。まず、小皿の上に置かれたワサビを漬け汁に溶かすかどうかだ。刺身もそうですが、箸先でワサビをちょっと掴み、蕎麦の上に乗せて汁にちょっとだけ浸して食べるのが『正調蕎麦の食し方』だと言う人がいる。
 蕎麦を汁に浸すのもどっぷり満遍なく付けるのは邪道で、箸でつまみ上げた蕎麦の下側先端をちょこっと、多くてもせいぜい1/3程度に止めるのが『小笠原流蕎麦の食し方』なのだと言う。
 食べるについても、『蕎麦は喉越し』で食べなければいけない。噛んではいけないのだという。こうなると喉に潤いのなくなる老人は、喉に詰まらせないように食べざるを得ない。正に命懸けで蕎麦を食さなければいけないこととなる。美人の『傍』で死ぬなら良いけど、蕎麦で死ぬのは勘弁して貰いたい。『のどごし生』というビール系飲料があるが、蕎麦も液体と同じように食さなければいけないとなると、はなはだ気が重い。
 元々量の少ない盛りそばをちょっと残し、猪口にそば湯を注ぎ、残った蕎麦を入れて『かけそば』として食べて楽しむのだと言う方が居るとの話も聞いた。キャラメルのグリコじゃあるまいし、『一枚の盛り蕎麦で二度美味しい』なんて粋がっているようだが、無粋な僕にはそれでなくても少ない盛り付けに、みみっちいとしか思えない。
 店によっては『盛りそば』一枚が¥1000以上する店がある。こんな店はソバ粉から自家栽培か何かして、材料から厳選していなければ、喉越し、切れ、蕎麦の香りが得られないとの家訓で営業しているのかしら。
 『サッ』と暖簾を片手で払い、『盛り!』と言えば、白衣に長靴をはいたオバチャンがすかさず、蕎麦の玉を手持ちのザルに入れ、煮えたぎった湯に漬ける。程なく『サッツ、サッツ』と湯切りをしてから、直ぐに冷やし、盛り付けて差し出す。その間1分くらい。あたかもサウナで我慢をして堪えた後、冷水の浴槽に飛び込むような『サウナ方式』で営業している店もある。
 『喉越しは良いけど、切れと蕎麦の香りはないな・・・』と呟いても
 『ここは、立ち食いそば屋だからねえ』
 とオバチャンあっちを向いて知らん顔して言っている。¥100shopの汚れがあったファイルと同じように、やはり価格相応の品質があるようだ。
 忘れて居たけれど、ソバ粉とつなぎ材の配合も店によって違うらしい。ソバ粉の配合率が高ければ黒っぽくなるし、つなぎ材が多ければ色白近くになるのではないか。通の方は蕎麦粉の割合、産地も気にするのか。
 荒れた土地でも栽培出来るというソバも、『蕎麦道』となると奥行きが深いようだ。
 僕は蕎麦通では決してないから、ワサビはお猪口の中に溶かし、薬味や唐辛子を入れる。箸で摘まみ上げた蕎麦をお猪口にどっぷり浸し、蕎麦で死にたくないから噛みながら食するのが一番美味しいと思っている。

第 1183        思い出すこと                2018.11.02(金)

 歳を取ると、昔の事ばかり思い浮かぶようになる。寝てみる夢も現役時代に仕事で経験したことに関することばかりが多い。甘い恋のストーリーはちっとも夢に現れない。実体験がないと夢の中に構成演出できないのかな。いつも堅っ苦しい事ばかり書いているので、今日は風向きを変えて、季節ごとに思い出すことをちょっと書いてみたい。
 『夏が来ゥーれば思い出す 遙かな尾瀬遠い空・・・・・・』
 『思い出すこと』を書こうと、思い出そうとすると、直ぐにこの『夏の思い出』と言う曲を思い浮かんでしまう。この歌を頭に思い浮かべるのは、尾瀬に行ったことのある人も、ない人も同じであろう。行ったことのある人は、湿原を渡ってくる爽やかな風、尾瀬沼、尾瀬ヶ原、大清水、木道、白い水芭蕉、黄色のニッコウキスゲ、その他もろもろ尾瀬に係わる事が思い出されるのであった。
 ただ雨の日に行ったら、湿原を渡って来る爽やかなる筈の風も空しく、カッパを着てムンムンする身は忌々しい。花の咲く時期から外れて行けば、水芭蕉やニッコウキスゲの花が見られないのは当たり前のこと。景勝地に行った印象の善し悪しも、時期と当日の天候には大いに左右されてしまう。雨の日が合うのは『今日も雨だった・・・』長崎と、『小糠雨降る御堂筋・・・』その他、歌謡曲では雨も可であるようだ。ちなみに大阪では南北に走る道路を『筋』と言い、東西に走る道を『通り』と呼ぶ。だから御堂筋は南北を通る道路と言う事になる。
 『何よ!、思い出と言って、何で夏から始めるのよ! 昔から春夏秋冬と言って、春から順番に始めるのが当たり前でしょ』
 と春子さんからのクレームがついた。
 清少な言の枕草子でも、四季について
 『春は揚げ物 やうやう白くなりゆく山ぎは・・・・・・』
 に始まり、次は夏と順番になっている。
 現役で働いている頃、会社で頼んでいた仕出し弁当屋は、食中毒を恐れていたのか、おかずが揚げ物ばかりだった。油が傷んでいるのか、食べるといつも胸焼けを起こす。揚げ物はいつもろくに食べないで、残してしまってばかりだった。
 春は『木の芽時』と言って例年、何となく心がソワソワして、心穏やかにならない。猫も『ギャオォーーー』と異様な声を出して騒ぐ。月夜の晩には、僕だって月に向かって『ワォー』と遠吠えしたくなる。どうも、春には余り良い思い出がない。
 若い頃は夏が大好きだった。第一、夏は開放的になる。学生の頃、周遊券とフランスパン、寝袋を持って貧乏旅行もしたのも夏だった。普段着もTシャツと短パンで過ごせてとても気楽だ。何も掛けずに寝ても風邪も引かない。でも歳を取るに連れ、段々暑さが堪えるようになった。特に今年のような猛暑、炎暑となると、『暑さが和らぐまで、あと何ヶ月この暑さに耐えなければいけないのだ』なんてばかり思っていた。
 今年も、もう11月になってしまった。11月になった途端に、風も急に冷たくなった。気が早い人はもうコートやダウンを着ている。秋でも特に晩秋が好きだ。公園で落ち葉を踏んで歩くなんて、とても感傷的になるし、素敵な雰囲気だ。秋は『別れの季節』と言う人も居るだろうが、晩秋は人肌が恋しくなる『恋の季節』なのかも知れない。懐かしい思い出があるけど教えない。
 冬が近づくとつい思い出してしまうのが、どなたも『布団の温もり』と『鍋』だろう。つい1ヶ月半程前まで布団も掛けずに寝ていた。時に足がつったりして痛い思いもするが、誠に気楽だった。暑かった頃は朝5時半と言えば、もうとっくに外も明るくて、目が覚めてしまう。
 布団を掛けずには寝られない時期になった途端、布団を掛けると実によく眠れるようになる。朝5時半頃ではまだ外も暗く、目覚まし時計のアラームでも設定をしておかないと目が覚めない。
 『うるさいなぁ、あと5分寝かせて・・・』
 と中々布団から抜け出せないのは、どちら様でも同じだろう。あと5分と布団にくるまっている時間は至福の時である。
 この時期の『鍋料理』も格別である。湯気の上がる鍋を囲む一時も、冬でこそである。美味しいからと言って、真夏に鍋を囲んで食べるなんて人は滅多に居ない。
 鍋物は準備も簡単、手軽である。作る鍋の種類によってメインとなる中身は違うが、ハクサイ、長ネギ、椎茸、エノキダケ、シラタキ、豆腐などは定番材料である。適当な大きさに切ればお終い。始めに昆布で出汁を取るなど面倒なことをしなくても、今は各種の味付けをした袋入りの味付けだし汁を売っているから、これを使えばすぐに出来てしまう。
 12月は忘年会の時期だが、僕のごく偏った経験だけど、近年は忘年会で鍋というメニューに出会っていない。鍋の時は大いに盛り上がった気がするが、鍋だと『鍋奉行』成る人が自然発生的に出てきて、食べる時期や材料投入のタイミングを指示されてしまう。僕みたいに煮えたら適当に食べるという極々いい加減な人間にとっては甚だ面倒な人だった。さりとて、冬場、刺身の盛り合わせに、鍋の盛り上がりを期待するのは荷が重すぎる気がする。
 僕は『温かいご飯に美味しい漬物と温かい味噌汁があったら他に何もいらない』と言うタイプの人間ではない。漬物も味噌汁も無くても一向に構わない。ただ、冬の『白菜漬け』は唯一大好き。根元近くの食べるとサクサクしていた白い部分、緑の葉の部分、中心近くの黄色い部分のどれも好き。畑で白菜を自家栽培していた昨年までは、唐辛子、ユズの皮やニンニクをすって自分で漬けていた。
 子供の頃は青い葉の部分にちょっと醤油を付けて広げ、温かいご飯をくるんで食べるのが最高に美味しかった。今はそんなことちっともやらなくなってしまった。今と成っては遠い思い出ばかりだ。

第 1182        無印良品                  2018.10.31(水)

 街中でよく見かけるカンバンあるいは、商標です。学校を卒業しても就職先の決まらなかった長女が、当時スーパー西友の中に在った『無印良品』のお店にアルバイトとして勤務したことがある。従業員割引で、一時は無印良品の商品を随分使わせて頂いた。
 会社のなまえは(株)良品計画と言って、西友のプライベートブランドを扱っていたのが原点だという。衣類、生活雑貨、食品など幅広い品揃えから成る品質の良い商品を扱っているようだ。何も私は無印良品の宣伝をしている訳では決してありません。
 先ほど、プライベートブランドと書いたが、相対する言葉はナショナルブランドと言います。単にブランドと言われることが多い。ブランドと言うとすぐ、ルイ・ヴィトン、エルメス、バーバリー、グッチ、シャネル、ティファニー、カルティエなどの高級ブランド商品を思い浮かべる方もいるかも知れない。私には高価というイメージばかりで、これらの商品には全く縁がありません。Malaysiaの中華街の露天商で偽ブランド、まがい物のカルティエの腕時計を買った事があるのが、唯一のご縁です。
 ただ、それだけがブランドなのでは決してありません。日本の電化製品ではパナソニック、日立、東芝、シャープなど、車ならトヨタ、日産、ホンダ、スズキなど、ビールならキリン、アサヒ、サントリーなどなど、まだまだ多すぎてここに挙げていませんが、世界的にも有めいなブランドはたくさんあります。
 特に宣伝もせず、社めいも世間的にほとんど知られていませんが、ナショナルブランドに劣らないような、品質の良い、優良な製品を世の中に送り出しているメーカーさんはたくさん在ります。そういう商品の一部を取り上げて販売しているのが、『無印良品』なのです。
 さて急に話を無理やりねじ曲げて唐突に、私たちは一体何なのであろうか? 有めい人なら自分のなまえをブランドとして世に売り出している。例えば『経済アナリスト 森永卓郎』と言って放送局や新聞・雑誌に登用されて、評論や解説をし記事を書いて、その対価を得る事が出来る。
    歌手の方々も、所属事務所を通し自分を使って貰うことにより、テレビ、ラジオに出演したり、コンサートを開いて貰って報酬を得ることが出来る。それぞれのなまえがブランドとなり、売り出すことが出来るのです。
 特別の才能のない、その他大勢の凡夫たちは『無印サラリーマン』、『無印主婦』、『無印ジイジ、バアバ』その他、挙げたら切りがないけど、皆さんはほとんど『無印○○』なのです。確かにどなたもそれぞれなまえをお持ちです。有めいな方でなければ、皆さんは『ただの人』、『プライベートブランドのようなもの』なのです。
 自分は優良・有めい会社に勤めているから、自分は『無印サラリーマン』ではないとのご意見をお持ちの方が居るかも知れない。例えば自分は『○○会社の営業部長の▲▲です』とおっしゃる方がいるかも知れない。
 『自分が居なければ会社はおかしく成ってしまう』などなど思う、自信たっぷりな方が居るようですけど、それは全くの思い違いなのです。虎の威を借る狐で、厳しいような言い方ですけど、あなたの代わりは幾らでもいるのです。オーナーやごく一部の取締役を除けば、会社を辞めれば『ただの人』なのです。
 ほとんど全ての勤め人は言わば、『無印サラリーマン』なのです。在職中にはそれなりの地位に就いて、たくさん来ていた年賀状も定年退職した途端に、受け取る年賀状の数が愕然と減ってしまうことにより思い知らされる。そんな方は、あなたにブランド力が有ったのではなく、会社のブランドが高かったのです。
 無印サラリーマン、無印主婦ほか多数の『無印』も、『良品』であるかどうかは、私には分からない。中には会社内で無能と陰口を囁かれ、鼻つまみ者の『ふ良品』の『無印サラリーマン』もいるかも知れない。自分では『無印良品サラリーマン』だと自信を持っている方もいるだろうが、評価は自分で決めるものではなく、周りの人々が決める事なのです。
 『無印良品人間』になるには、会社内だけで通用する技術だけでなく、外に出しても充分通用する技術を身に付けるとか、誰からも慕われる人間性、他の人が持っていないような知識などを高めるなど、自らのブランド力増強に努めなければならないのだろうな。

第 1181        魚取り網   2018.10.29(月)

 いつも散歩のコースにしている『せせらぎ遊歩道』の細い水路には、小さな魚、ザリガニほか、色々な水性動しょく物が生息している。僕が散歩する時間には小学生低学年の子どもたちが、また休日には小さな子を連れた家族連れの人たちが、網を持ったり、ザリガニ取りのスルメを吊した糸を垂らして楽しんでいる。
 遊歩道の水路の水源は浄水場で処理された、元はと言えば下水だ。遊歩道を歩く人たちの邪魔になるので、『竿を使っての釣りはしない事』という表示がある。網を使ったり、ザリガニ取りの仕掛けを使って遊ぶ事は禁止されていない。
 前にも書いたが、僕は水辺の水生動物が好きだ。土曜日(10/27)に散歩していて、僕も小さな魚取りをして、家で飼って世話をしてみたいとずっと思っていた。今までやらなかったのは
① 小さな魚とて生命がある。自然のままに置いておく方が良い。
② 小さい子を連れて居るわけでもないのに、いい年をした白髪のジジイが、網を持って魚取りをしているのを顔見知りの人に見られて、その人が何と思うだろうか?
 が理由であった。
 土曜日(10/27)の散歩の時は、『明日はカミさんも、息子も留守で、一日中一人で居る』ことで、自分もやってみたいと強く思うようになった。散歩の途中で商店街に立ち寄り、魚取りの網を探すことにした。『確か¥100ショップにあったな』と思い、『もしなければ雑貨屋に行けばあるだろう』と目論んだが、いずれも時季外れで入手出来なかった。
 『♪思い込んだら試練の道を 行くが男のど根性 真っ赤に燃えた・・・・♪』の心意気なのである。唐突に『巨人の星』のメロディーの星 飛雄馬の気分に成ってしまう。何とも、いつまでも少年の心を忘れない僕の単純なところだ。家に帰って早速材料集め。
① ミカンが7~8個入って売られている赤いネットを使えば良い。カミさんに聞いたら有ると言う。我が家にはこういう使い捨てのモノが後生大事に取ってあるのだ。だから、家の中の整理整頓が出来ない。 3枚調達
② 網の外枠は胡蝶蘭の花を支えていた針金。鋼線にも種類があって、ただの針金だとヘナヘナしてしまう。胡蝶蘭を支えていた針金は硬鋼線と言って中々曲がらずに強い。昔の職業柄ジイサンはそこら辺に詳しい。クリーニング屋で付いてくる針金のハンガーも硬鋼線だが、あれでは細すぎる。材料選択にも中々の吟味が必要だ。
③ その他、結束バンド、水槽のエアーポンプのブクブク用チューブ、裁縫道具など
④ 竿は園芸用の支柱の壊れたもので、1m程の長さのモノを使用する。
 まず、ネットの方から取り掛かる。ミカンが7~8個入るネットだけでは小さ過ぎて使えない。ネットを裂いて連結する。ネットには丸くなろうとする癖が付いていて甚だやりづらい。裁縫道具を使い、3枚のネットで筒状のモノを作りあげる。
 こう書くといとも簡単に出来たようだが、老眼だから針の穴に木綿糸を通すだけで一苦労である。荒く縫うと穴から小魚が逃げるといけないとなるべく細かく縫う。
 針金を曲げて適当な大きさに曲げて枠を作った。ネットで作った筒状の網を外枠に合せて配置する。縫い付ける前には洗濯バサミを使って仮固定しておいた。
 枠に取り付け工事(大袈裟だけど)完了後は、ブクブク用のエアーチューブを縦方向に裂いて、ネットを縫い付けた外枠部分で糸が破そんしないようにチューブを巻き付け、念のため結束バンドで固定。
 園芸用支柱に外枠の端部を挿入して抜けないようにハンマーで潰して固定した。夜の9時過ぎに、外で潰しの作業をやったから、
 『あそこのジイサンまた何かやり始めた』
 とご近所の皆さん、および通行人の方々が思ったに違いない。何ともご近所迷惑な話だ。接合部は危険防止のためエポキシ樹脂で穴埋めして、安全衛生上の心配りも万全である。
 時期が合えば¥100ショップで買っても¥200~300(¥100ショップでも¥200~300の商品はある)で買える物を、3時間も掛けて自作の魚取り網を作るなんて本当にどうかしている。だが、自己評価では質実剛健の魚取り網が出来た。
 旅行に行く時の楽しみの半分は、行く前のプランを練るところにあるのです。魚取りも行く前の手製の網を作る時に、『どのように設計するか』考え、慣れない裁縫道具を使いながら、この部分はどうしようと工夫する事が、負け惜しみだが大変意義があると言える。
 何でも手製の物を作ることは、認知症発症を遅らせるに違いないと作業中確信した。どの材料を使って、どう構想を練るかに始まり、裁縫道具を使う作業は根気の集合体だ。何でも出来合いを買ってくれば良いというものでは決してない。今回の網作りで使った材料は全て我が家に有った物で、このために新たに何か購入した物は無い。
 10/28、魚取りに行った。流れの穏やかな所にパンの小片を投げ、魚が食べに集まったところですくい上げ、1cm~6cmほどの小魚50尾ほど取って来て、今我が家の水槽で泳いでいる。中にはグッピーも何尾か混じっていた。
 水槽にはブクブクも付いているし、きちんと餌もやっている。獲って取って来てまだ一匹も死んでいない。中に鯉の稚魚か何かが居て、育って大きくなってしまったら、我が家では飼えないから、その時はせせらぎ遊歩道の水路に戻すしかない。
 泥棒は人の目を気にするが、魚取りで感じたのは、魚をすくいながら声をかけられたのは、年配の夫婦連れで散歩していた奥さんの方で、『何が取れるのですか?見せて』と言われたただ一回だけ。何十人も通り過ぎたが、公序良俗に反することでなければ、白髪のジジイが何をしてようと皆さん関心がないのだ。
 こんなことしたら他の人がどう思うかなんて、全くの杞憂だった。今までも何かと他人の目と、こんな事したら何て思われるだろうという考えが足枷になっていた。僕もこれから色々な事をやるだろうけど、公序良俗に反しない限り、人がどんなに思うかなんて気にすることは全くないのだと言うのが今回の教訓である。皆、自分のことで精一杯なのだ。そうじゃないかと思うのは自惚れなのである。

第 1180        歴史                    2018.10.26(金)

 今年2018年は『維新150年』なのだという。朝日新聞の連載に依れば、会津の人たちに取っては『戊辰150年』なのだそうだ。会津藩主 松平容保は京都守護職に任命され、京都の治安維持という重責を務めたにも係わらず、薩長を中心に作られた新政府によって、『朝敵』『賊軍』の汚めいを着せられ、政府軍と戦って敗れてしまった。NHK大河ドラマ『西郷どん』では前々回、前回くらいで、ここらへんのことを放送していた。
 会津の人たちにとっては戊辰150年であり、いまだに長州に遺恨を持っている人も居るのだと。朝敵、賊軍の汚めいを晴らしたく、長州 山口県出身のあべ首相に『会津は賊軍ではない』と宣言して貰いたいのだとか。
 『歴史に学べ』という言葉があるが、歴史は必ずしも事実を伝えるものではない。『勝てば官軍』という言葉があるように、歴史は常に勝者にとってまずい部分は消去され、都合の良い部分だけ描かれてきた。『勝者の歴史』なのである。勝てば事実を曲げて、どんなに都合良いようにも書けるのである。
 太平洋戦争の戦前、戦中に生まれでもその頃はまだ子供で、戦争に関する責任を負うまでの年齢に達していない人たちや、戦後生まれの人達の合計が、日本ではもう圧倒的な多数という割合に成ってしまった。
 今、あべ首相が訪中しているが、中国や韓国からはまるで人質でも取られたかのように、歴史問題とか日本の戦争責任を問う声は一向に収まらない。『何で関係ない俺たちまでが責められなきゃ成らないんだ』と僕を含めて多くの日本人がこのことに関して大いにふ満である。
 中国にはODAで3兆円以上、韓国には日韓基本条約で賠償金を支払っているのに、それぞれの国民には知らされていないようだ。いつまでも社会ふ満を抑え、関心の矛先を代える宣伝手段として、反日運動、歴史問題が政治的手段、材料として使われてしまっている。
 まるで親からマイナスの相続をしてしまったかのようだ。少しでも早く相続放棄したい気分である。親から子への相続にもプラスとマイナスがあるから、十分注意しなければならない。
 『戊辰150年』だから、会津の方が2ばいも長く恨み続けていることに成る。会津の方とて、戊辰戦争当時の方が生存している訳では決してない。先祖の恨みの持続である。あな、恐ろしや。身近なところでも、いじめた方は月日が経てばとっくに忘れてしまうけれど、いじめられた方は自分が受けた屈辱を決して忘れることはないと同じだな。
 自分たちが持っている歴史認識とは異なる捉え方、理解の仕方が、他の国民、他の民族その他の立場、立場であるに違いない。二人居ればそれぞれ考えが違うように、世の中には様々なものの見方、考え方がある。
 相手の考えには賛成出来ないけれど、相手の立場になって誠実に物事を組み立てて考えてみようという心がけを持ったら、世の中の諍いの何割か削減出来るようになると思うのだが。

第 1179        昨日の私                  2018.10.24(水)

 赤ちゃんの成長は大変早い。産まれたばかりと生後1ヶ月では見違えるほど違う。そんな赤ちゃんでも、一日ずつの変化はごくわずかだ。それでも、ある日寝返りが出来るようになり、ハイハイするようになり、つかまり立ちし、二足歩行出来るようになったり、何事か言い出し、表情も変える。
 4歳と1歳9ヶ月になる孫がいます。下の子は今アンパンマンが大好き。幼児用の雑誌を見ては、アンパンマンを指さし、『アンパン』と言います。4歳の孫はもうアンパンマンは卒業して、『ちびまるこ』やプリキュアに興味が移ってしまった。子供の成長はとにかく早い。
 飲酒して130km/hものスピードを出して運転し、死傷事故を起こした高杉祐称容疑者では事故を起こす前は自由の身だったが、今では拘束された身になってしまった。事件前後では彼の身に大きな変化が起きた。平凡なる生活を送るジイサンである私においては、『昨日の私』は『今日の私』と変わりがない。
 私のような老人では、日々の自分の変化には気付かない。しかし何年か経てば、身体的に今まで出来たことが出来なく成ってしまったことを自覚する。子供と違ってプラス成長でなく、マイナス成長、すなわち退化と言うべきものだ。
 以前、自分にはまだ『伸び代がある』と大言壮語した。ボケの発症を少しでも遅らせようと毎日、新聞や本を読んで日々新たな知識を得ています。しかし新たに入力された分、私の中から滅多に使わない知識が知らずに排出(忘却)されてしまっているだろうから、差引き伸びていない可能性は大いにあると思うのだ。トホホホ
 20歳を過ぎると毎日10万個もの脳細胞が消滅して行くのだと言うことを何処かで読んだことがある。心配になって計算してみた。仮に寿命が80歳として、20歳以降の60年間に約22億個の脳細胞が消滅してしまうことになる。最盛期には140万個もの脳細胞が有るそうだから、80歳までに消滅してしまう量は全体の15.6%に過ぎない。老人になってボケることを考えたらまあ妥当な線ではないのかな。
 毎日脳細胞が10万個ずつ減っても自覚症状は全くない。僕にとっては昨日の私も、今日の私も同じである。それどころか明日の私も、明後日も、その先の日もと、連綿と『昨日と同じ』を繰り返し続けて行けば、赤ん坊の時の私も、69歳の私も同じになってしまいそうだ。
 人の一生は毎日ほんの少しずつの変化の連続なのである。変化は目に見えない程だが、69年掛けて赤ん坊から総白髪のジジイに成ってしまった。
 中学生の頃、社会科の先生より『常識』という言葉の意味を教わった。記憶には、短期の記憶と長期の記憶があって、短期の記憶はすぐに忘れてしまうけど、中学生の時に知った長期の記憶は何故か今もそのまま覚えている。常識とは『ある時代、ある場所で、多くの人々が正しいと考える事柄』だった。
   時代、場所が係わっていることを条件としている以上、常識だって固定のモノでは決してない。世の中の常識も少しずつ、気が付かない程度に変わって行く。老人はこの変化に気付かず、いつまでも自分の尺度を保持したがる。いつの間にか変化に追随出来ず、気付いた時には、時代遅れになっているのだ。今、若い人の間ではSNSは当然のことだ。
 『自分はいつも誰かと繋がっている束縛感がいやなのだ』
 とか、何とか言って相変わらず連絡には e-mail を使っているのだ。

第 1178        個性は何処に?               2018.10.23(火)

 街を歩いていると時として同じ柄のシャツに、同じようなズボンをはいた人に出くわすことがある。何となく気まずい。相手方の人も気付いて、きっと同様に思っていることだろう。女性の場合にはこれを一層気にするであろう。すれ違う数秒から十数秒間のことなら、それでも何となくやり過ごすことも出来る。出席した会合で全く同じふく装だったら居たたまれない。当然、周囲に居る方も気付く。二度とこのふくを着ることはないのではないか。
 住んでいる地域が近くて、同じ衣料品店で購入すれば、同じふく装に成ってしまう可能性は多々ある話だ。皆さん自分のふく装を個性と考えているからだろう。
 一方、会社や工場での作業着なら、中には襟を立てたりする方も居るけど、皆同じふく装でもちっとも気にならない。今の作業着はカラフルでデザインも凝っていて、昔の灰色や濃紺の作業着はもちろんまだたくさんあるけれど、変わりつつある傾向だ。隣の会社の作業着の方がデザイン、センスとも優れているなんてことも、きっとあることでしょう。同じ作業着を着るのは単に汚れ防止だけでなく、会社内の連帯意識高揚の意味もあるのです。
 私の居る工業団地の視察でも、若い男性の集団では、決まって濃紺のスーツを着て来る。せいぜいネクタイが違うくらいで全く代わり映えがしない。彼らにとってはスーツは自前でも、何処に行くのにも無難なユニフォームなのです。
 設立当時は私ふくだった学校なのに、父兄の要望で制ふくを決めた所もあると聞く。私ふくだと毎日同じ格好で通学する訳にも行かない。返ってお金が掛かるからと学校着を決めたそうである。
 中々ふく装でセンスや個性を表現するのは難しいところだ。
 商店街を歩いていたら、6~7人の女子高生の集団が歩いてきた。S校の駅までの通学路がこの商店街になるのだ。ウェストのところで巻き上げて、皆さんスカートの裾を膝上20~25cmにしている。この頃の子は皆背が高くてスラリとしている。後から付いてくる男子高生2人の存在感は極めて薄い。ジイサンも短いスカートが好きだ。
 女子高生という多感な時に、制ふくだから仕方ないとして、何故皆同じ格好をしているのだろうか。一人くらい皆と違った格好をしている方が居ても良さそうなのにとも思う。スカートを短くしてはく事までが、『制ふくの着方が標準』なのであろう。だから皆と同じでなっとくできている。
 ただいつの世にも例外はある。親の遺伝子を見事引継ぎ、短躯、横に背の高い女子もいる。何を勘違いしたのか『私も遅れてはならじ』とばかりスカートを短くはき、蚊に食われた又ズレした太くて短い足を露出するのは、甚だ滑稽ですらある。誰か忠告してあげれば良さそうなものだ。本人が『自分には合わない』と気付いてくれればベストなのだが、受け取り方次第では『いじめ』と成り兼ねない。日本社会には『みんな一緒』と言う事が平等であることのように思い込んでいる面がある。
 きっと私ふくの場合にはずっとオシャレして、他の子とは一緒でない自分らしさを表現してほしい。

 

第 1177        坂の上の雲            2018.10.22(月)

 司馬遼太郎さんの『坂の上の雲』は明治維新が終わり、日本が近代国家として一歩を踏み出し、日露戦争まで至る時代を描いています。坂の上の雲を目指して懸命に坂を登る。坂の上に到達してみたら、雲はさらに手の届かないところにあった。
 人の幸せも同じであろう。上を向いたら切りがない。下を向いたら後がないではなくて、これも切りがない。幸せは単にお金をたくさん持っていることではなさそうだ。そうは言っても明日食べる物が無いようでも困るけど、マイクロソフトのビルゲイツさん(ずっと世界一の金持ちだったけど、今は2位になってしまった)と張り合う必要は全くない。生活出来る程度のお金が有れば十分なのである。必要以上に持とうとする欲があるからいざこざとなる。
 何でも気の持ちようである。今、自分は幸せなのだと思う。この幸せが維持出来ればもっと幸せなのだ。全ては他の人と比較することから、ふ幸の気持ちが始まる。
満ち足りてしまうと、それは幸せではないのかも知れない。もうちょっと有ればと、言うくらいがベストではないのかな。あと少し、あれがああしたら、これがこうなったらと、思い巡らすくらいが一番幸せなのだろうな。
 新聞に面白いことが書いてあった。将来、金銭的にふ安を感じている人が投資をして、蓄財を増やして将来に備える事は良いことなんだけれど、実情は十分なお金を持っている人が更にお金を増やそうとするから、格差が広がってしまうんだと。
 あと2ヶ月もすると、また新年となって皆さん初詣に行かれると思います。その時のお賽銭は幾ら投じるのでしょうか。賽銭箱を覗くと10円玉ばかりでなく、100円や1000札が入っている。100円玉を投じる人は10円の人より高い御利益を期待する気持ちが強いに違いない。
 正月になると、白い布を敷いた特別な『賽銭入れ』になって、投じられた金額が見えるようにしていることがある。1000円札がたくさん入っていると、あれは『見せ金』で、気の弱い人は10円では気が引けて、思わず100円を入れてしまう心理を狙った神社側の魂胆なのかな。神社側もしたたかだな。
 持てる人はより多くのお金を持ちたいのでしょうね。今以上に欲しがるから、人の悩みや争いが生じる。
 太宰治の『走れメロス』に暴虐な王様が出て来る。王様だから裕福だろうに、自分以外の人の心が信じられない。常に猜疑の目で見る。こんな人は裕福でもふ幸の例だ。
 相田みつをさんの言葉にもあった。『どじょうがさ 金魚のまねすることねんだよな』。民主党 野田元総理も『どじょう総理』と呼ばれたけど、身の程って本当にあると思うね。
 人間なんて、頑張れば頑張るほど地球を汚してしまうのだ。人間、気の持ちようだね。良いじゃないの、幸せならば。今が良けりゃ。

第 1176        計算尺              2018.10.20(土)

 僕が育った家では少なくとも僕が家を出る22歳の時までかまどでご飯を炊いていた。父は職人だったから木片が出て、その処分方々かまどを使っていた。その後、父が歳を取って廃業するまで続いていたものと思う。風呂も木片を燃やして沸かせていた。子供の頃から手伝っていたからもちろん焚き火をすることが出来る。
 小学校の校庭を借りて町内会の運動会をする時に、防災訓練を兼ねて昼食のおにぎりを作るためにかまどを並べて炊き出し訓練した。防災担当の役員は皆さん僕より年長だったから、皆、火を起こすことは出来た。
今は浴槽の底の栓をしてボタンを押せば、お湯が出てきて浴槽を満たしてくれる。もちろん温度調節も自在だ。内釜にお米を入れ、目盛りに合わせて水を入れボタンを押して、しばらく待てばご飯が炊ける。お陰でもう何十年とおこげご飯を食べたことがない。ボタンを押しさえすれば火を扱える。今時の若い人たちが火を起こせるかのことは言わない。程度の差こそあれ、産まれた時からこうなっていたのだから仕方ない。
テレビもリモコンのボタンを押しさえすればよい。昔はチャンネルと言ってつまみを廻して各テレビ局の番組を変えた。電話もダイアルの穴に食指の先を入れて番号を廻したが、今、手近なところでは、アニメ『サザエさん』のテレビ番組でしか、そんな電話は見ることが出来なくなってしまった。
 探し物をしていて、パソコン台の下のダンボール箱の中から計算尺が出て来た。僕が学生の頃、理工系の学生は誰もが持ち歩いていた。スライド式の計算尺にはたくさん機能があるが、主に数字の乗除の計算に使っていた。答えも上3桁の概略計算しか出来ない。残念ながら足し算、引き算は出来ない。最近、身近で見たことがない。若い人は計算尺の存在知らないだろう。
 僕が初めて自分の電卓を持ったのは、24~25歳の時だ。仕事に使うのにどうしても電卓が必要だったので買った。僕が勤務していた工場には450人ほど居たが、多分僕が最初だと思う。同僚が皆見に来た。数字8桁で単三電池2本入れて使い、¥35,000位した。当時の僕の給料は手取りで7万円くらいだったと思う。今では100円ショップで電卓を売っている。これもボタンを押せば計算出来る。
 設計屋さんが使うドラフターと云う道具も最近全く見なくなってしまった。ドラフターに向かってワイシャツの袖をまくって仕事する設計屋さんの姿はカッコ良かった。多分技術系の人はどなたも憧れたのではと思う。今はCAD と言ってパソコンに入れたソフトを使ってキーボードを打って作業をする。事務の仕事をする方もパソコンを使うから、仕事する姿は同じようなものである。ちっともカッコ良くない。
 こうして考えると世の中の作業はボタンを押す作業に取って代わってしまったものが多い。
 我が家の前で木造建売住宅を10棟建設中だ。1棟に付き1人の大工さんが担当している。腰のベルトにハンマーを下げていることはいる。我が家の窓からも、外に出ても間近に見える。その大工さんがノコギリ、ハンマー、カンナなどを使っている所を見たことがない。予め工場で半製品として作られて来た物を組み立てているだけだ。ほとんど全ての作業を、電動工具、空圧工具でやっている。
 僕らが子供の頃、大工さんが居て、カンナの刃先からカンナ屑がシューッと薄い紙のように飛び出して来るのを間近で見て、『すげえな』と思っていた。僕だって職人の子である。子供の頃から家業の手伝いをしていたから、もしかしたら、家の前で建売住宅を建てている大工さんよりカンナかけは上手かも知れない。家のお勝手で使う包丁だって僕が研ぐ。あまり切れるように研ぐと、使っていて怖いから、そんなに切れるように研がないでくれとカミさんに言われる。
 刃を素晴らしく研ぐ職人だって、鉛筆を削ることすら危ないからと言って、子供にナイフを使わせない時代になってしまったから、もうどうしょうもない。何でも同じ物をポンポン機械で完璧に作ってしまうような時代になってしまったのだ。出来栄えは別として、効率で言ったら職人芸でも機械には負けてしまう。
 もう、職人技、めい人芸、技能なんか要らなく成ってしまったのかも知れぬ。多分、『本物を見分ける目』を持った、本当の金持ちが居なくなってしまったのだろう。
 自然災害か何かになって、電気もガスも水もない、自分自身で火を起こして暖を取ったり、食べ物を得なければ成らなくなった時には、どうするのかね。もしかしたら、縄文人の方がよほど生存能力に長けているに違いない。

第 1175        持てる幸せ、持てない幸せ    2018.10.17(水)

 住宅展示場の建物の部屋やテレビCMに出てくるような部屋を見ると、余計な物がなく良く整理されている。余り他の人の家にあがった経験がないので、他の家の実情は分からない。少なくとも我が家では段ボール箱が部屋の隅に積み重ねられていたり、捨てるモノの種類によって分別のために部屋にゴミ箱が複数あったり、スーパーのレジ袋がサイズ別に分けて置かれていたり、読み終わった新聞が積んであったりとずっと雑然としている。
 お掃除ロボットと言えば、『ルンバ』しか思い付かない貧困な頭をしているが、およそ我が家においてはそれらが活躍する場がないのである。部屋の中で備品が整理して有ればこそ『お掃除ロボット』も活躍出来る。あれこれ積み上げられていれば、ロボット君も動き回れないのである。従って、我が家にはお掃除ロボットはふ要である。
 僕の好みとすれば、ごろ寝をするのに雑然としていた方が落ち着く。余りに整理されて居たら『生活感がない』と憎まれ口でも言わざるを得ない。そう言えば住宅展示場もテレビCMの部屋も人が住んでいないから、体裁良く整理されているのだ。
 落語に出て来るような貧乏長屋で、何もないような場合には、今回の題に係わらず『持てないふ幸』であるのかも知れない。
 どなたもそうだと思うが、孫は可愛い。ジイジもバアバも孫に色々なモノを買ってやる。孫はそれで遊ぶ。飽きれば、放り出して別のおもちゃで遊ぶ。時代が違うのに、自分たちが小さかった頃と比べるのはおかしいことだが、僕たちの頃は社会全体が貧乏で当然そんなにおもちゃがなかった。ないならないなりに、子どもたちは自分で遊ぶ物を作ったり、考えて、工夫して遊んだ。自分自身で考える余地があった。
 自分で作らなければ成らない状況が当たり前だった。雨が降って外で遊べない日には、小学校に入る前の僕は、人や馬の形にハサミで紙を切って、馬に乗せたり、戦わせたりして一人で遊んだ。そんな物でも想像を張り巡らせて遊ぶとめちゃくちゃ楽しかった。第一、今の小さな子供は危なくて外で遊べない。おもちゃが豊富にある現代の子供と、考えながら工夫する子供と、本当はどちらが幸福であるか分からない。
 お金がなくてモノが買えない貧乏はふ幸だけれど、お金が有ってふ要品を処分してシンプルライフの生活をするのもこれまた大変だ。書店に行くと『整理術』に関する本がたくさん売られている。
 整理術のハウツー本は有っても、『とっとく術』のハウツー本は売っていない。人は元来何でも取っておいて、しまっておく習性が有るからだ。それが証拠に、どなたも引き出しを開ければ分かる。
 医者で処方された2列に配置されてプチッと押せば出て来る錠剤、『はて、これは何の薬だったかな?』、もう家にはその電化製品はなくなってしまった器具の取扱い説明書、2色の内片方が書けなく成ってしまったボールペンなどなど様々な物が出て来るに違いない。
 この段階に至っても、『これは何かの役に立つに違いない』と言う取捨選択の判断の下、『取り敢えず、とっとこう』と元の位置に戻される幸せなモノはたくさん有るのである。従って、判定会議に掛けても品物は中々減らないのである。捨てると決めても、市にはゴミの収集に関する様々な約束事があって、中々直ぐには捨てられない。
 私は老人である。いつ死ぬとも限らない。死んだ後、品物の整理をしていて
『お爺ちゃんも好きだったのね』
 と息子の嫁さんにでも言われることの無いよう、その手の本、雑誌、CDの類は全て処分してしまったのは云うまでもないことである。
 貧乏人には持てない高価な装飾品を、お金持ちが財産として持つことは可能である。買う方は満足して、それでも良い。ただ相続など後になって換金しようとしても、利殖としての効果が期待出来ない場合が多々あるものだ。お金をたくさん持っていたからと言って必ずしも幸せとは成らない。
 物を所有したり、捨てたりすることは、中々難しいことなのだ。だからと言って躊躇してばかりいると便利さを享受出来ない。ただ言えるのは、家の中の整理が行き届いている方の押し入れや、蔵の中から将来、古文書や古びた実は高価な壺が発見されると言うことは決してないであろう。

第 1174        楽がいい            2018.10.13(土)

 先日、安室奈美恵さんが引退した。テレビを見ていたら、涙ぐんで居るファンの人が何人も映し出されていた。『自分の人生は安室さんに依るところがとても大きかった』などと涙ぐんで言う方も居て、『ほんとかいな?』と思う。
 『あんたの人生そんなモノなのか』と言いたいところだけど、各人の嗜好は尊重しなければならぬ。人それぞれだし、ファンの気持ちともなれば、自分には分からないモノである。
 およそ38年前に私が現在住んでいる場所に引っ越してきて、お向かいは土建屋さんだった。毎朝6時半くらいになると、社長の怒鳴り声が聞こえた。社長は体格の良い方でいつも怖い顔をして近寄りがたい人だった。7時になると何台ものトラックが続けて今日の工事現場に向かって出掛けて行った。初めはとんでもない所に引っ越してきたものだと思った。
 十数年前に土建屋さんを廃業された後は、社長さんはガラッと変わって優しい顔に成った。十年以上畑を貸して頂いた。今は入院されている。先日奥さんと話をしていたら、社長は若い頃(15年くらい前)、ある女性歌手のコンサートと言うと、仕事を息子に任せて北海道から九州まで追っかけて出掛けてしまっていたものだという話を聞いた。仕事を止めた後でも大きな体で、お金をたくさん持っているだろうに、いつも作業着に長靴を履いていた姿からはとても信じられないような事だった。
 僕には歌手や女優さんのファンになったり、憧れてレコードやCDを買ったなどということもない。いつも僕の中に冷めた部分があって、むしろ他の人がファンとしてどなたかに夢中に成れること自体を羨ましく思っていた。僕のこれまでの人生の中で、女性歌手や女優さんに夢中になった事は一度もない。自分自身が素直でないのかもしれない。
 自分のことは中々分からないものである。日頃、回転数が少ないから、キャパを超えた回転数に上昇し、エンジンが焦げる臭い、直ぐさまエンジンを切って冷却すべしなんて場面には成らないのだ。
 トロイから急激に回転数を上げろと言われてもとても無理なのです。自分には出来ないだろうと思うようなことには、初めから無理しない主義なので、トロイまんまで結構、周囲をイラツかせてしまうのだろう。 そんな私は自らの回転数アップに耐えきれず、ブレーカーが落ちてしまうような経験はしたことがないと思っている。この歳に成って今更性格なんぞ変えられようにない。
 『日記』や『書斎』で口先だけで(キーボードを打つから指先だけで)、別人を演じたり、架空の人物を作ったり出来るのだろうけど、小説家のように自由に人物を表すことが出来ない。どうしてもボロが端々に出てしまう。 自分が思う本当の僕は、内向的で臆病なのだ。僕を知る人は即座に、『どこが!?』とおっしゃるかも知れない。弁護すれば、他の人の人が見る自分は、マイノリティな性格を隠すための虚勢を張っているに過ぎない。
 時たま、テレビでRIZAPのCMを見ることがある。男性でも女性でもお腹がブヨブヨ膨らんでいるのは大変見苦しい。すかさずbefore―afterの画像を見せつけられる。体脂肪を減らし、八つに割れた腹筋を見せられる。あんなにハッキリ体型が変わった後は、自信も出て性格も積極的になるのではと想像もする。
 でも、腹筋が割れなくても良い。楽でストレスがない方を重要視する。正面だけでなく脇腹にも脂肪が溜まっても、サイズの大きなズボンを買えば良い。そうして食欲を満たし、自分を甘やかしている方が楽で良いのだ。それはきっと早期治療が遅れ、手遅れとなる。結果はどうでも自己責任だから仕方がない。『あの時、ああしておけば良かった』と悔やんでも始まらない。その時にはこの『書斎』の方針を苦渋なモノへと変えざるを得ない。人間、いつもダメージ・深手を負わないと性格なんか変えられない。楽が好きなのだ。

 

第 1173        マイカー            2018.10.11(木)

 これから書くことはマイカーを持っていない私のやっかみでもある。
 我が家ではマイカーを所有していない。およそ移動手段と言うべきエンジン、モーターなどの動力付き乗り物は持っていない。我が家の交通手段としては、電車・バスなどの公共交通機関と、足を動力源とする『踏んだらバイク』のチャリと徒歩だけである。
 もちろん、私とてオーナードライバーだった時期はある。でも長い人生で車を持っていて本当に良かったと言うのはただの一度しかない。ひどい土砂降りの深夜に、産気付いたカミさんを病院に連れて行った時だけだ。夜、8時とも成れば人通りも途絶えてしまう、当時神奈川県の郡部に住んでいたから、タクシーなど電話して呼んでも中々来ない場所だった。
 マイカーが有れば便利だと言う程度のことならしばしばある。そんな時にはタクシー、レンタカー、今ならシエアカーでも利用すれば十分である。
 ただ、私の言っているのは公共交通機関が網羅されている都市部に限られる。地方では成り立たない。場合によっては大人一人に対して一台ずつ車を持たなければ生活が成り立たないと言う現実は、単身赴任していた時に身に染みて知った。雪深い地方では夜間に歩いていたら疲れて凍死してしまう恐れすらある。ここでは公共交通機関が充実した都市部限定の話としよう。
 変則の勤務時間設定や夜遅くまで働く人も、除外して考えなければならないだろう。ここでは自家用車のみの話であり、当然トラックなどの商用車も対象外である。
 マイカーはとにかく金食い虫である。車の購入費用の他に、自動車取得税、重量税、自動車税、軽自動車税などの税金の他、定期点検、車検費用など諸々の費用が掛かる。その他、自宅に駐車スペースがなければ、月極駐車場代が掛かり、万一の時に備えて保険にも入らなければ、うかうか運転も出来ないのである。
 イラン原油の買い控えがあり、OPECが原油を増産しない方針のため、この節はガソリンの高止まりである。散歩でスタンドの前を通ったら、レギュラーガソリンで¥158であった。15km/㍑の燃費の小型車でも1km走るためには燃料代が¥10以上掛かる。
 車通勤していて毎日利用している人ならまだしも、平日には駐車場に停め、土日祝日にしか乗らないような方は最悪である。月々車に掛かる費用を計算してみると良い。コストパフォーマンスつまり費用対効果を考えたら、車を持つ事の大変さに身に詰まされることだろう。
 スマホ、ガラケーなどの携帯電話も費用対効果は悪いと思う。支払う料金ほど通話やメールにお金を掛けているとはとても思えない。話題のSNSだが、SNSから離れようとしている方が増えているのだという.他人と四六時中繋がっている拘束感、人との交際する煩わしさから抜け出したい人たちだ。当然の話である。
 国が携帯電話料金を値下げするよう働き掛けているようだが、何故か車に掛ける税金を下げるような動きはない。税金は取れるところから取れば良いのだと言う方針だからだろう。
 日本にも『3C』つまり、カー、カラーテレビ、クーラーを持つことがステータスである時代があった。若者がこぞって自分の車を持つ事を望み、横に彼女を乗せてドライブすることにみな憧れていた。バブルの頃は女性にアッシー君として使われた悲しい青年も居た。
 最近の若者はさして車の所有を望んでいない方が多い。費用対効果から、マイカーの有用性を感じていないのだと思う。車離れなのだ。利に聡い若者はマイカーに費用が掛かり過ぎていることが分かっているのである。
 車は温室効果ガスの発生源であることも追加しておこう。
 いつもならここらで終わるのだが、今までのことは余りに一方的である。今日はタクシーにまつわる悲哀も述べておきたい。
 タクシーに使われている車は、トヨタと日産車が多い。クラウンかセドリックである。トヨタで言えば、クラウンでもタクシー仕様車で『comfortable(心地よい)形容詞』のめい詞形の『COMFORT』と言っても、中は如何にもタクシーという感じだ。何処が心地よいのか分からん。個人タクシーの場合には会社組織の車と違って、燃費を考えてハイブリッド車のプリウスもあれば、中には高級車の仕様の場合も有りまちまちだ。
 タクシーを待っている時には、様々な思惑が交錯する。普段のタクシー乗り場には客もなく、運転手同士が降りて世間話をしている場合すらある。夕方から急に雨等という時には、タクシー待ちの列は長くなる。急に雨でも降れば、『需要と供給』の優位性が突如逆転するのであった。
 走ってタクシー乗り場に駆けつけ、長い列を目にした時の落胆、無念は筆舌に尽くしがたい。絶望に打ちのめされ、仕方なく行列の最後尾につく。こんな時に限って、待てど暮らせど車は来ない。行列の長さは中々減らず、自分の番にはほど遠い。今乗り込む人だって散々待った末なのに、行列に並ぶ人たちは嫉妬と羨望の入り混じった目で眺めるのであった。みんな大人だから平静を装って居るけれど、この時ほど心の中では感情の炎を燃やす場面は滅多にない。
 しばらく待って一台が来た。一人が乗り込む。自分だって一人で乗るくせに、一台に一人では効率が悪い。3人か4人ずつ乗らないと行列の長さは減らないと、無理難題なことを誰しもが思うのである。
 つい先ほどまで一人で乗り込んでいる列の前の人たちを恨んでいたくせに、いざ自分が乗り込みシートに腰を下ろせば急に安息の場を得て、一人で乗ったことについて、行列に並ぶ皆から恨まれていることすらすっかり忘れてしまうのであった。
 自分の前に並ぶ二人のサラリーマン風の人が親しそうに話をしている。列は進み、今度来るのに二人組が乗って、その次が自分だとなると、急速に安堵の念が広がる。二台が続けて来た。後ろのタクシーが自分のものだ。
 前の車が止まり、二人組みのうち一人が乗り込む。後ろのタクシーにはもう一人が乗ってしまった。オレの車の筈なのに『ブウ』と音を立てて行ってしまった。二人は知り合いであり、二人で一緒に乗る筈だったのに、行き先は別々だったのだ。この時の落胆、絶望感はどう表現して良いか分からない。その後、また暫くは車が来なかった事は書くまでもない。
 こんな時にはマイカー所有も捨てがたい。寒い時期ならなおさらだ。人の願望なんてその場その場でいい加減なものである。

第 1172        やはりちょっと違うな      2018.10.07(日)

 およそブログなんて云うものはいい加減なものなのだと思う。web上で本みょう使っている人はもちろん居るだろうが、ハンドルネームと云う架空のなまえで書いている人も多いのだと思う。普段の自分が居て、成りたいと希望する人物像になって書くことだって可能である。私はジジイだが、若い女性を騙って書くことだってOKなのである。
 ここでは『おさむ』というハンドルネームを使ってはいるが、HPを訪問して下さる方は大抵僕本人と面識ある方が多いのではと想像しています。僕自身、願望も含め勝手なことばかり書いている。反論されると心が揺らぐので訪問される方よりの通信手段である掲示板もいつまでも『工事中』として敢えて開示していない。  第1171 で『ストレス』と云う題で書いてweb上にupしたが、どうも自分としては自分と余りに乖離していると思っている。
1.マイペース人間は合っている
2.頭の中が空っぽでボッーとしていることが多いのも正しいと思う。
3.今の仕事は、62歳までの現役で働いていた当時に比べたら、得意先の人に怒られることも、のう期に追われることもなく、天と地と違いで大変楽だ。
4.自分もキャリアを踏んできたから、他の人だったらとても嫌と思うことでも、差ほど苦労を感じないで乗り越えられる技を得ていることも確かだと思う。

 だが、ストレスを余り感じていないかと言ったら、やはりそれは間違いであろう。現役時代に感じていた、胃がキリキリ痛んだり、酒も呑んでいないのにトイレで胃液を吐いたり、いつも眉間に皺を寄せて難しい顔をしたりするほどのストレスは無くなったと云うところが正解なのだと思っている。
 『ストレス』と云う小文をアップしたものの、どうも自分とは懸け離れ過ぎているなと思いちょっと書いてみた。
 ただ、全くストレスのない生活なんか有り得ない。ストレスが有るからこそ改善や進歩があるのだ。ストレスが無くなればたちまち認知症、色ボケ老人と化す。適当なストレスが有ってこそ、人は生きられるのだと思う次第であります。

 

第 1171       ストレス             2018.10.05(金)

 物体に外力が作用すると、物体内部には元の形状を保とうとする抵抗力が生じ、破断に至らない限り外力と釣り合っている。この抵抗力を応力(ストレス)と称する。外力に耐えられなくなれば破断する。
 こんな難しい事を言わなくとも、木の枝を曲げようとすると、戻ろうとする力を感じる。更に力を加えていけば枝は折れる。日常経験して当たり前なことに、学問ではことさら難しい理屈を付ける。簡単なことに難しい理屈を付けなければ成らないのが学問なのである。そうでもしなければ、安っぽく権威が備わらないと思っている。ただ日常経験する枝を曲げる程度のことなら良いのだが、橋や建物などの構造物を作るには、勘という訳にもいかず、やはり強度計算が欠かせない。
 ストレスは病気の元になるらしい。人間にも強度のストレスを与えれば、曲げた木の枝のように折れてしまう。ストレスを溜めないためには、一日のうち、ほんの数分でも良いから何も考えずボーとした時間を持つことが必要だという。禅の世界では無念無想の瞑想の世界に入る訓練をする。座禅を組む時、女性の肢体でも思い浮かべてしまうと、それは妄想であり教官の僧に平板で叩かれることとなる。
 私、頭空っぽでボッーとしていることが多い。意識して空っぽにしようとしなくても、気付くと空っぽでボッーとしている。今はこうでも、現役で働いて居た頃は眉間にしわを寄せていつもピリピリしていたような気がする。今の自分ではNHKのチコちゃんに『ボッーと生きてるんじゃないよ』と叱られそうだ。
 今、自分があまりストレスを感じて居ない分だけ、周囲にいる他の人が私の分のストレスを受けているのではないか。大体、ストレスを感じていないと思われる自分は他人から好かれていないに違いない。私は典型的なマイペース人間である。自分の好きなことを自分のペースでやっている。
 確かに今も勤めはしている。通勤時は電車が混んでいるが仕方ない。仕事は現役時代と比べたら、得意先担当者に怒られる訳でも、のうきに追われることも少ない、緊迫感のない “お茶の子さいさい、甘茶でかっぽれ”なのである。
 もし、今の仕事を他の人が代われば、その人は大いに緊張してストレスを感じるかも知れない。それは私の経験と長年積み重ねた年期というものだろう。
 『ストレスを感じていない自分て、何と素晴らしい』のだと思っていたら、とんでもない思い違いをしていることに薄々気付いている。
 しかし、他の人のことばかりを思って、自分を押し込んで封じ込めてしまうと、心の病気になってしまう。一方、自分ばかりを前面に押し出せば嫌われ、鼻つまみ者になってしまう。そこは絶妙なバランス感覚が必要なのだ。 最近の自分はマイペース人間ゆえ、思いやりの心が乏しい。たまには他の人のことも考えるべきである。自己チュウだけではいけないのだ。ただ、現役時代に仕事一本槍、仕事人間(自称)だったことを思えば、今は自分の嗜好を満たすモノに打ち込んでも良いのではと思っている。
 『たで食う虫も好き好き』で、趣味、嗜好はどなたも個人個人違う。他人の嗜好を羨ましがることはない。羨ましいなら自分もやれば良いのだ。趣味のことをやって気晴らしになり、活力が生まれるなら大いにやるべきだ。自分のためにやるのであって、他人の目を気にする必要は全くない。
 他人が自分のことをどう思うかの思惑を気にしなく成って来たところをみると、マイペースだし、自己チュウと言えると思うのだ。自分がやっていることに、価値を見出せないようなら全く意味がない。自分の趣味は他人のためにあるのではなく、自分のためにやるのである。それでストレス解消となれば、万々歳。

 

第 1170       十月               2018.10.03(水)

 十月は何となく嫌いだ。一月に新しい年が始まって、『ようし、今年はやるぞ』と思ったものの、三歩しか歩いていないのに、もう今年の目標を立てたことすらすっかり忘れてしまっている。やがて二月になり、三月になって、つまり結局何もやらずに月日ばかり重ねて、とうとう十月になってしまったのである。
 十月になれば残り三ヶ月、もう先が見えて来てしまった。私の身が人生の黄昏時であることと重ね合せて気が重い。十二月半ばともなれば、ジタバタもせず、ほぼ諦めも付いて、新しい手帳でも買って来年の抱負など書いてみることに成るのが通例のことである。
 職場では早々忘年会の日程を決め、会場の予約もした。社員各位には早めの『忘年会開催のお知らせ』を出し、『出欠の調査は後日致します』と書きつつ、各自に日程確保の依頼をしたのであった。
 十月が気を重くする理由はいくらでもある。
1.段々寒くなってくる。
2.衣類をたくさん着けなければならない。夏場のTシャツ、短パンはえらく楽であった。
3.朝起きるのが辛くなる。起きる前の『あと5分』というのは至福の時である。
4.一日が短くなる。一日の物理的長さは変わらないのだけれど、朝は暗いし、夕方は5時にもなれば暗くなってしまう。日の出とともに起き、暗くなったら寝てしまう縄文人のDNAを引き継いで居るものだから、暗くなれば『もう今日も終わりだ』という気になってしまうのだ。ならば夏至の頃はさぞかし精力的に活動出来そうなものなのに、その頃はその頃で暑くて何もやる気が起こらない。木陰で昼寝でもという誘惑に負けてしまうのである。人間生来、誰しも楽な方向へ傾く行動規範が備わっているようだ。
5.悪いことばかりでもない。寒い日にコートを着れば胴長短足が目立たないと言う利点もある。襟でも立てれば、他の人が何と言おうと、自分だけは何となくニヒルな感じにも成るのである。だが、誰も何も言ってくれない。ジジイなんか眼中にないのである。

 十月と言えばまだ寒くはないのに、これから寒さに向かうと考えただけで、『冬期ウツ状態予備軍』が目覚めてしまうのだ。京都大学 本庶 佑 特別教授の助けを借りて、冬期ウツ状態予備軍の働きを抑えるオプジーボの親戚筋の新薬でも開発して頂かざるを得まい。どうも、年寄りは愚痴が多い。『グッチ書蔵の自由区域』となまえを改めようかい。
 しかし、よく考えなくとも古稀なのである。未だ満員電車に揺られて通勤している身ではあるが、いつまでも仕事にしがみ付いていないで、後進に道を譲るべき歳であるのも確かなのである。
 年初に『今年はやるぞ』と思うこと自体が誤っているのかもしれぬ。『仕事頑張らない宣言』、『道楽やるぞ宣言』をすべきだったのだ。
 ノーベル医学生理学賞の本庶教授の記者会見を見ていると、爺ちゃんになっても頑張っている姿勢が有り有りとして見える。のっけから『教科書など信用するな』の強硬発言だから、爺ちゃん頑固なのだろうな。

第 1169       健康診断             2018.09.30(日)

 毎月1度通っているクリニックへ行って、8月に受けた健康診断の結果を聞いてきた。この歳になったら、体のどこかに異常があるのは当たり前である。前からずっと肥大型心筋症と言われているから、これはもう承知している。
 血液検査に NT-proGNP という項目があって、心筋梗塞に成り易いかどうかを示すと言う。基準値125以下のところ10ばい以上の数値であった。毎度のことだから、それほど気にもしていない。これに伴い、当然心電図の波形も良くない。
 こんなことで、毎回通常の健康診断より、ずっと多くの項目の検査を受けている。この歳になって、他の血液検査の項目は全て基準値内に収まっている。どうだ凄いでしょう。まるで青年のようだ。強いて言えば糖尿に関する値だけが基準値内だが、上限ぎりぎりだ。
 体重はBMIという指数で標準体重の真ん中になっているのに、医師は毎度体重を落せと言う。落せばNT-proGNPも、糖尿に関する値も下がると言う。毎日、風呂上りに食べるアイスクリリームも止めなければならんのか。習慣になっているからとても寂しい。
 『酒も煙草も 女もやらず 百まで生きた 馬鹿がいる』という都々逸がある。酒を呑むと胸が苦しくなってしまう。もう4~5年は全く呑んでいない。だから肝臓障害の指標となるγーGTPが低いのは当たり前だ。百まで生きてバカと言われたくないから、タバコをパカスカ吸ってせっせと税金を払っている。
 血液検査は青年レベルでも、考えれば自分でも老いたなと思う。
1.洗面所の電灯スイッチの消し忘れが多い。いつもカミさんに文句言われている。
2.『社会の窓』のファスナーの上げ忘れがよくある。用足し後ではなく、ズボンをはき替えた時によく忘れる。
3.本を読んでいて登場人物のなまえと関係が分からなくなってしまう。これでは困るので、本を読む時には必ずメモ用紙を脇に置いて、なまえと関係をメモしておくから、以前より理解度が上がったような利点もある。
4.以前はこんなことなかったけど、電話で人と話をする時には要点を必ずメモする。とにかく新しく記憶することは悉く忘れるから、それ相応の対策を施さねばならぬ。
5.念のため言うが、アテント薄型パンツのお世話にはまだなっていない。

 どうも男は60歳を過ぎると本気で老化を気にする傾向にある。男はとかく騒ぎ立てる。本当に老け込んでいった時には、いたずらに騒がないことだ。見苦しく騒ぐのはいつも男だけだ。
 小学校の時、『廊下は静かに歩きましょう』と散々言われた。毎年欠かさず健康診断を受けて、せめて自分だけは見苦しくなく老いて行こう。
 『老化は静かに歩みましょう』というところだな。皆さんも健康診断は必ずして下さいね。

第 1168       最後               2018.09.29(土)

 私も既に69歳だから、外出中、家の中、あるいは寝ている最中など、いつ死んだとしてもおかしくない。小説、ドラマなどに、happy end と言うのがあるが、人生においても健やかに死ねる happy end で終わりたいものである。
 だが、神はそんなことは許してくれまい。happy end があれば、unhappy end すなわち bad end も大ありだ。 出来れば、死ぬ間際まで意識がハッキリしていて、『ああ、これで死ぬんだなぁ』と思いながら、だんだんと意識が遠のいて fade out して行けば最高と思う。理想はそうだが、病死で死ぬ場合、死の間際まで意識がハッキリしているなど普通はないことである。
 9.11で貿易センタービルに航空機が激突した際、男性が真っ逆さまに落ちていく画像が有った。残酷だからもうその画像は映し出されないだろうが、彼は落下しながら、『これで死ぬんだなぁ』とは思ってはいないだろう。既に気絶していたに違いない。
 よく年取ってから一人住まいか何かで、他の人に知られることなく亡くなってしまう方がいる。『孤独死』と世間では言っているようだ。たとえ事故か何かで複数の方が同時に亡っても、人が死ぬのはそれぞれ別々だ。家族に見守られて死のうが、亡くなるのは本人だけだから、皆、孤独死なのである。見守られようが、人知れず死のうが大した差はない。死んじまっちゃお終いなのだ。
 happyだbadと書いたけれど、歩道を歩いていたら突如車が暴走して歩道に乗り上げて来て、巻き添えで亡くなってしまうような事がある。運悪く突然の事故で最後を遂げてしまうような死を除いて、まだまだ努力次第で、人生happyで終わるように仕向ける余地はあるのだと思っている。
 死ぬ段となり、自分の人生を振り返って、自分の人生が充実して居たとなっとくできるならhappyだし、まだやることが有って、無念だったらbadなのだと思う。実はこの歳に成っても『まだ、伸び代はある』と思っています。
 この歳に成って今更そんなことやって何に成ると言われるかも知れない。僕自身の目標だから具体的には書かないけれど、自分に課したものをやり続けている。人生観なのだろう。
 かつて日本赤軍が日航機ハイジャック事件を起こした時、時の福田赳夫首相が『人の命は地球よりも重い』と言って、身代金を払った。
 僕は違うと思うな。怒られてしまうかも知れないが、一所懸命生きようとしてこそ尊厳のある生き方で、心臓が動いて生きて居さえすれば尊厳のある生き方ではないと思うのだよ。地球より重い尊厳ある死を迎えたいなら、尊厳ある生き方をしなければいけない。もはや、回復の見込みがなく、意識も回復せず、心臓が動いているだけなら、延命処置は止めた方が良い。無駄である。尊厳ある生き方をしてこそ、命は重いのである。
 例えば、高齢の父が意識もなく、入院していて、『先生、何とか助けて下さい』と、子なら医師に頼むだろう。時を経ても事態が変わらず、毎月の入院費用が50万も掛かったら、そりゃ2~3ヶ月も入院されたら、普通のサラリーマンだったら付き添いや介護疲れも出てくるし、『オヤジ、もうそろそろ逝ってくれ』と誰しも心の中で思うものだ。それが自然と云うものだ。これは医療費の無駄というもの。
 そんなことにならないよう、体が動き、頭がしっかりしている間は歳を取っても『自分の伸び代』を信じて努力をして行きたい。それが生き様と言うもの。自分で物事の判断できなくなり、意識が無くなってしまったら、生きている価値はないと思っている。そんなことになったら、僕をどこぞに放置でも、遺棄でもして貰って構わない。

第 1167       貧乏性              2018.09.26(水)

 ペットとして飼っているザリガニが1匹と成ってしまった。これでは卵をふ化させて大きく育てるあげるブリーダーとしての目論見は成すことが出来ない。9/22に県立の森林公園に行って3匹調達してきた。
 森林公園では動しょく物の採集は禁止である。ただ、増えすぎてしまって、外来種であるザリガニだけは捕っても良いことになっている。森林公園に行くと親子連れがザリガニ釣りをしている。釣っても家で飼えない人たち用に、出入り口にバケツが置いてあり、そこにザリガニを放して帰るようになっている。僕はそのバケツにザリガニを調達に行くのだ。
 本来なら棒の先にスルメを付けたたこ糸を結び付けて、僕もザリガニ釣りをしたい。だが、だしにする小さい子が居ないのだ。
 いい大人がザリガニごときを何故欲しがるのか。欲しがる理由を世間に向けて説明出来るようでは、まだ十分な『お変人』ではない。他人によく分かる理由で行動しているようでは、善良な一般市民になってしまう。
 子供の頃から、何故か水生動物が好きだった。だからと言って、立派な水槽で熱帯魚など飼う気にはとてもならない。タダで調達できる自然界に生きる生物でなければならないのだ。
自分の子供が小さな頃、多摩川ですくって来た1.5cmほどの小さな魚を25cm以上のフナまで育て上げたことがある。大きな水槽を買っても置き場がなく、飼いきれなくなって多摩川に戻した。恐らく、貧乏性が染み付いていて、お金を出して買わなければ手に入らない熱帯魚などは飼えないのであろう。
 小学校に入る前の事だったと思うが、小さな石を集めて居たこともある。今ならミニカーの収集に相当するのであろう。僕は戦後生まれだが、戦争が終わってまだ10年ほどの頃だから、日本中がまだ貧しかった。その頃でもおもちゃはあったと思う。でも、子供ながらに家の状況が何となく分かっていて、買ってと言い出せなかったのであろう。
 集めた石をきれいに洗って、飽きずに眺めていたものだ。母に
 『そんな物、集めて何にするの?』
 と咎められたような記憶がある。僕と母の間に、脳のある部分に共通性がないから、他人には僕が何故石を集めるのが理解できないのだ。水を入れた瓶に小石を入れておくといつか宝石に変わると本気で信じていた。
 子供の頃の体験がこんなジジイになっても深層心理の部分に残って居るのではと思う。もちろん、今なら蛍光灯、ポンプなどの付帯装置の付いた大きな水槽と、中に入れる魚くらいは買えるだろう。
 だが、蛍光灯付きの立派な水槽は趣味・嗜好の問題である。よく粗大ゴミ置き場に捨てられている。水槽の末路である。そんな物買って、何の生活に役立つのかと直ぐに考えてしまう。今ザリガニを飼っている容器は確か¥600もしない、透明の蓋付きの衣装ケースだ。もちろん、昔使っていたポンプは付けている。ザリガニを飼うのを止めたら洗えば本来の衣装ケースになる。
 子供の頃、うえ付いてしまった感覚はいつまで経っても残っているものだと深く感じるものである。

第 1166       電車の中の風景          2018.09.21(金)

      

 連れがなく、一人で電車に乗って座れた時は大抵、本を読むことにしている。家に居る時よりもどうした訳か本に集中できる。本を読まない時には、さりげなく周囲の人物観察、暇つぶしに電車内の風景を見るのである。窓から外を見るわけでもないのに、風景と云うのもおかしいか。あくまでさりげなくすることが肝心である。真剣に人物観察して、下手に言い掛かりを付けられては敵わない。
 電車に乗って座っている人の中で眠って居る人は実に多い。人は産まれる前、お母さんの胎内にいた時に聞いたお母さんの心臓の鼓動音と、電車の走行音が酷似しているとのこと。年を経ても人は胎児の頃の記憶を覚えていて、電車に乗って座ると安心して眠ることが出来るのだとテレビ番組で言っていた。
 電車の中で眠って居る人はまた、眠りながら節約モードになっている。『節約タイプ』の人と呼ばれている。こういうかたがたは、家に居ても水道の蛇口から水がポタポタ落ちたり、家の中で人の居ない場所に電灯がついていることがとても気になるのだ。
 万事金の掛かることは避けたい。人生余計なことはしない。そういう人生観を顔に漂わせながら眠っているのだ。私ももちろん眠ることがある。眠ると自然と口の締まりが疎かになってしまう。よだれでも流しはしないかが、とても気になるのだ。もちろん、流した経験が有るから言っている。よだれでも粘性高い場合で、口から垂れ下がり、電車の動きに合わせて振り子のようにユラユラと漂っているのは何としても避けたい。年を経て、たとえ老人となった今でもこれは恥ずかしい。
 上を向いて大口を開けて寝ている方も時に見受ける。うら若き女性でも堂々と開けて寝ている方を時々見受けることがあるから、注意されたい。自分が立っている場合、その大口に向けて鼻クソでも投げ込みたいと言う衝動を感じるのは私だけではあるまい。
 隣に座った方が眠って、寄りかかって来るのも困る。若い女性の場合には許すが、おのこの場合は遠慮したい。ちょっと体を動かせば元に戻るが、また寄ってくる。一々対応するのも面倒なので、余程のことでなければ、私の場合は許容してしまう。
 スカートを履いた女性の方は大抵腿をきっちり合わせて座っている。スカートが短くて、思わず股が空いた時に、向かい側の人にパンツでも見られたら恥ずかしいと思っての事だろう。別に何も履いていない訳でなし、それほど気にするほどの事もないと思うのだが。
 男の場合、女性のように腿をピッタリ合わせて座ることはほとんどない。女性はあの格好は苦痛ではないのか。 『脂肪の付いたお腹を凹ます』関連の本を読んで知ったことがある。年を経ると体中の筋肉量が衰え、代謝が減ってしまう。お腹を凹ますには、単に腹筋運動するだけでは効果が薄い。全身の筋肉を鍛えて、脂肪の付きにくい体にしなければ成らぬと書いてあった。
 一例として椅子に深めに腰掛け、背もたれに背中を付けず、姿勢を正して、腿をピッタリ合わせて座ることをやってみるように書いてある。スカートの女性がいつもやっている腿をピッタリ合わせて座ることである。実際にやってみた。ごく短時間ならどうと言うことない。気を抜くと直ぐに段々開いてしまう。ずっと意識し続けなければならない。これが実に辛い。女性は慣れていて平気なのだろうか。男の場合、股の真ん中に女性にはない突起物が有るからではない。筋肉量が落ちているからだ。
 近年ではスマホを覗いておられる方が非常に多い。別に迷惑を掛けている訳ではないので一向に差し支えないが、一人忘我の域に入り込んでるような方も居て、ちょっとぶ気味である。
 一列7人掛けの座席に座った方が皆さんスマホを覗いて居る場面に出くわすこともあるが、何か新興宗教に入信したのではないかとさえ思ってしまう。
 歳を取って体の機能が落ちてきている。どうか、他の人のご迷惑にならないよう、くれぐれも注意している次第である。

第 1165      若者よ                 2018.09.20(木)

 仙台宮城野市で派出所の警官殺害事件が起きた。容疑者は被害にあった警官とは別の警官に拳銃で射殺されてしまったので、犯行に至った原因は分からない。被害にあった警官の拳銃はホルダーに入ったままだと言うから、拳銃を奪って別の犯行に使おうとした様子ではない。
 あくまでも私の想像だが、新聞に載っていた証明用写真を見れば、体育会系の鍛えた体のようではなく、どちらかと言えばヤサ男に見える。年齢が21歳だと言うから、浪人でもしていなければ大学3~4年生なのであろう。 就職にでも悩んでいたのであろうか。とにかく何らかの理由があってのことだ。個人的な悩みを晴らすために、無関係な他人を害することはもっての他である。
 ひところ、『自分探しの旅に出る』『本当の自分を探して』などと言っていた時分があったが、今はどうなってしまったのだろうか。若者の悩みは普遍のモノだから、誰でも一度は通る道である。旅に出たって自分探しなんか出来るわけない。幾ら悩もうが、素敵な女性と知り合って、舞い上がってしまえば、『自分探し』なんかで悩んでいたことすら忘れてしまう。
 就職に付いても自分にあった仕事なんか、芸術や特殊な職人関係などごく一握りの人にしか当てはまらないのでは。その他大勢の凡夫にとって、天職と自分で言える職業にあり付けるなどと言うのは、夢の又、夢なのである。
 『自分に合った仕事』なんか、そこらに転がっていない。有る訳ないのである。社会に必要だから仕事が存在するし、存続出来る。言い換えれば、仕事には社会のニーズが必要なのである。ニーズがなければ、自然消滅する。社会のニーズは変わらないものではなく、時代によって社会のニーズは変わる。大企業と言えどニーズに応えられなければ、没落の道を辿る。『技術の東芝』だって社会のニーズに対応出来なく、『社会的体裁』を保とうとして、ふ正経理問題を起こしてしまった。
 仕事は自分のためにあるのでなく、社会のニーズで仕事があると言う事を肝に銘じておかなければならない。ベンチャービジネス、起業なんてことがある。社会にはみんなが見落としていた『隙間』とか、『穴』がある。ベンチャービジネスは、社会に空いている隙間や穴を埋めるだけで、一時の流行としては有り得るだろうけれど大抵は長続きしない。
 松下電器、ホンダ、ソニー、カシオ計算機、日清食品、ダイエーなどなど、創業者の地道な研究と努力で大きくなった会社は確かにある。だが、数えるほどでしかない。大塚家具のように社会のニーズに適応出来なくなってしまった会社も多いのである。僕が就職する時、『寄らば大樹の陰』なんて言葉も有ったけど、今と成ってはもう死語である。大企業とて明日をも知れぬのである。
 世の中から比べれば、自分個人なんてほんのケシ粒(アンパンの上に乗せてあるツブツブ)に過ぎない。世の中が変わると言うよりも、生きるためには自分が変わるしか仕方あるまい。時代の変化に対応出来るよう、体を鍛えると共に勉学に努めることだ。
 若者が『自分探し』をしようが、『本当の自分を探そう』が、それはそれで、時期のモノだから良いと思う。ただ、天職に就ける人はごく一握りの才能と努力をした人で、凡夫はどこかに就職をして、自分を変えて働くしかないな。それが嫌なら、山にでも篭り、仙人にでもなって霞でも食っているしかない。
 今まで書いたことは、69歳のジジイが思ったことだ。そんな筈がないと思うなら、『若者よ大いに悩め』。ただ、自分で悩むのは自由だか、他人を傷付けたり、殺めたりする事は止めてくれ。

第 1164      なごや城天守               2018.09.14(金)

 新聞を読んでいて興味深い記事を見付けた。なごや城の天守を木造復活する計画に関する話だ。建物5階までは内部にエレベータが設置されている。史実に忠実な復元を掲げる。なごや市長は、新たな木造天守(最上部7階)部分にはエレベータを設置しない方針を表明した。内部に設置すれば梁や柱を切断しなければならず、外部に設置すれば外観をそこなうと云う理由だ。
 これに対し、複数の障害者団体が『障害者差別だ』と主張し、エレベータ設置を要求している。車椅子の代表者が市役所前でハンガーストライキをするなど抗議活動が続いている。
 市長はエレベータの代わりにドローンや移動補助ロボットなど『新技術』を使った複数の案を話し合いの過程で示したが、『ドローンで運ぶなんて、私たちを荷物だと思っているのか』と反発した。
 この記事を書いた記者が述べていたが、『将来、遠足で訪れた車椅子の子供が1人だけ一緒に上がれなかったらどんな気持ちになるのか』と問うていた。
 話のあらましはざっとこんなところである。難しい問題である。私の思ったことは
① 学校、役所、駅などの公共施設並びに私的なビルでも中で働く人、居住者のためのバリアフリー化を進めるのは当然である。だからと言って何でもかんでもと云うのには頭を傾げてしまう。成されていないからと言って即、『障害者差別』と言って騒いで良いのか。自ずと限界があると思う。
② エレベータに乗って天守まで登って何とする。大抵は外に出て欄干の内側から市内の家並み、ビル、周辺の山々、あるいは海を眺めるだけであろう。それ以外に思い当たらない。内部はエレベータ設置のため、梁や柱は切断され、城が建造された当時の状態とは全く違う筈。天守閣などその勇姿は外側から眺めるものだ。
③ 高い所から市内あるいは周辺部の眺望を眺めるには、なごやならもっと適した、天守よりも更に高い、エレベータ設備の完備した安全なビルなどたくさんあるでしょう。レストランなど最上階近くにある場合が多い。何故そこを活用しない。目的が何処にあるかだ。天守に拘る必要もないだろう。
④ 天守を史実に忠実に木造で再現するというコンセプトも評価しなければならない。なごや城がいつ建造されたのかふ勉強で知りません。当時の建築方式や技術を勉強したい、お城に興味を持たれていて研究されている方もたくさんいらっしゃる。そういう方達への配慮はどうなるのか?
⑤ 新聞記事を書いた記者が『遠足に行って1人だけ・・・・・云々』と書いている。こういう話になると、決まって『子供』をネタに持ち出す。子供と書けば良いと思っている、その考えが嫌だ。子供を持ち出すととかく感情論になり兼ねない。
⑥ 世の中100人居れば、100人の事情がある。『みんな違って当たり前だという認識で互いに認め合う』何故、みんな一緒の同一行動でなければならないのか。 障害を持つ子が居て、困っていたら助ける。目のふ自由な方が白杖を持って歩いていたら、脇に避けて、進路を空ける。その他たくさんあると思うが、これが基本だと思う。生まれながらに大金持ちの家に生まれた子と、明日の食べ物に苦労する家の子が居るのも客観的事実としての差がある。すべてに平等、同じようになんてありえない。
⑦ 人は高い所に登りたがる。富士山やエベレストにも登りたいが、大抵は自分の能力を勘案して諦める。人工のモノにはバリアフリーを求めるが、自然のモノには何も言わない。片手落ちではないのかな。僕だって観光地や行楽地に旅行したい。心臓に持病があるから、長い坂道が予想される所には行けない。どうしても制約がある。酒の美味さも知っている。だが、ここ4~5年、残念だけど酒は呑んでいない。呑み会で友人が酒を呑んでいて騒いでいるのも、横目で見て我慢している。

 LGBTの人もそうだ。同姓婚を認めるとか、遺産相続問題など様々な問題を持っている。世の中、色々な人たちが居て、助け合い、認め合って共存しなければならないのは間違いないと思う。
 ちょっと気になったのが、車椅子の代表者が市役所前でハンストをしたことだ。駄々っ子が売り場の前で、床に寝転んでバタバタしているように思えてならない。あくまで話し合いでやって欲しい。
 かつて、こんなことがあった。まさかこうはならないと思うが、
 自分達が世の中で弱者であると思い込む。そのコンプレックスの共有が、内部の孤立化、一元化、同質化を導き、外敵作りで結束する。これで外敵に対する攻撃性を高めたのが、オウム真理教である。
 全米ライフル協会という400万人という組織も、政治家や政党に巨額な献金をする。米国では銃による乱射事件で、年間何万人もの方が亡くなっているのにも関わらず、米国の銃規制は一向に進まない。
 人は集まると大きな力をなす。自分とは考えが違う人たちの存在を常に意識することが肝要だ。排除すると云うのでなく共生を考える。当たり前すぎるかな。

第 1163      老人の日                 2018.09.10(月)

 先日、カミさんが長女の家を訪れた。長女も1歳8ヶ月の下の子を連れて用事を済ませて帰宅したところだった。長女が
 『あっ、ハガキ買って来るのを忘れた』
 と言ったとさ。幼稚園年中の4歳の孫が老人の日に合わせて、ジイジとバアバ宛にハガキに何事か書いてお手紙を出すらしい。もちろん、宛先は長女が書いて、裏面は4歳の孫が書く。一旦幼稚園に持って行き、先生に見せるのだと言う。以前は確か『敬老の日』だったと思うが、カレンダーを見たら呼称が替わって『老人の日』となったようだ。
 我が家に孫たちが来た時、孫の前では自分のことを『ジイジ』と言うし、孫も僕のことを『ジイジ』と呼ぶ。カミさんも同じように『バアバ』と言うし、言われている。
 老人の日にハガキを頂けると言う話を聞いた時、自分がその『ハガキの宛先』であるという認識がなく、気が付くまでほんの数秒を要した。
 15歳~64歳の生産年齢人口はとっくの昔に過ぎていて、65歳以上が高齢者であることはもちろん知っているし、孫の前では『ジイジ』と言い、呼ばれることは十分心得ている積もりだ。ただ、『老人』とちょっと言葉が変わると、まごついてしまった。もうアラセブンなのだから、十分老人の資格を有している。歳相応の心構えが必要なのだ。
 自分では普段から意識していないものだから、戸惑ってしまった。『老人の日』が近付き、孫からのお手紙を楽しみに待ちたい。
後でカレンダーを見直したら、9/15 が『老人の日・老人週間』で、9/17が『敬老の日』と書いてあった。何じゃ、こりゃ!?

第 1162      秋の七草                 2018.09.07(金)

 9月に成ってもまだ暑い日が続いています。それでも猛暑と言われた頃に比べれば大分涼しくなった。夜になって虫がコロコロと鳴いているのを聞くと、何故か物悲しくなってしまう。理由がよく分からないが、何かにトラウマがあるのかも知れない。小さい頃からコロコロと鳴く虫の音はあまり好きではなかった。
 職場の玄関脇のしょく栽の枝を下ろしていて、ふと建物脇の雑木林を見て、木に覆い被さるように獰猛に繁茂している葛の中に、小さな花が咲いているのを見付けた。房状に咲く赤紫色の可愛らしい葛の花だ。葛は『秋の七草』の一つである。山上憶良が秋の七草の起源だと言う。まだ暑さは残っていますが、着実に秋になっているようです。
 小学校で習っているはずなのに、春の七草は覚えているが、秋の七草は何故か覚えられない。それでもいくつかは知っている。萩、尾花(ススキ)、葛、なでしこ、女郎花、桔梗、あと一つが出て来ない。調べたらフジバカマだった。園芸店に行くと『なでしこ』など、春にも咲いているのに。
 この葛だが、どんなしょくぶつなのかはあまり皆さんに知られていないようだ。大人の方なら葛を一度も見たことがない方は、まず居ない筈だ。ただ、これが葛というしょく物であることをご存じないだけだろう。現物となまえが一致しない。まして葛の花などまるで意識の外なのではないか。
 鉄道線路脇、高架の高速道路の桁下、空き地、崖などに、葛は一種獰猛とも言えるほど繁茂しています。葉の大きさは5~10cmほどのもの。葉は3枚一組のようにして生えている。こう言われれば大人の方なら、『ああ、あれか』と思い当たることでしょう。
 こんな獰猛に繁茂する始末が悪いしょく物が、どうして万葉集で山上憶良に『秋の七草』として詠まれたことでしょう。この葛も花だけは、ちいさくて赤紫色の可愛らしい花だ。花に関してだけは和歌に詠まれてもなっ得します。
 葛の根からは『くず粉』というデンプン質が取れます。和菓子屋さんに行くと、『葛桜』と言って、餡子を無色の半透明の物で包んだ物があります。あの外側のブルブルした物がくず粉から作られています。なお、川崎大師近くの土産物店で売っている『久寿餅』は小麦粉で作られていて別物です。ひらがなではなまえが似ていますが、お間違いなく。
 子供の頃、冬に風邪などひいて寝込んだとき、母が『くず湯』だと言って、どろりとした熱い飲み物を作ってくれた。とても嬉しかった。あれは我が家では片栗粉で作った物だった。『あんかけ蕎麦』『堅焼き蕎麦』の上にのっているどろりとした『とろみ』のようなものだな。

第 1161      警告                   2018.09.04(火)

 大型で猛烈な台風21号が徳島県に上陸、その後日本海を北上すると天気予報で言っている。7月に豪雨があったばかりの人たちにとっては、弱り目に祟り目だ。
 関東では6月下旬に梅雨が明け、連日暑い日が続いた。『真夏日』『猛暑日』『熱帯夜』『熱中症』などの言葉を聞かない日が無かったのでは思うほど、暑い日が続いた。放送でも連日、『クーラーを使え』『熱中症対策をしろ』という言葉を繰り返していた。
 ちょっと驚いたのは、クーラーの壊れた病室で扇風機だけ置いた病室で患者が相継いで亡くなった。『殺人罪を視野に捜査する』と言う事を聞いたことだ。クーラーなど一般家庭にも浸透して来たのは、ほんの数十年前からだろう。それまでは、よしず、すだれ、団扇、扇子、打ち水、風鈴、行水、スイカ、大金持ちなら軽井沢、那須に避暑の世界で、良くて扇風機だ。それがクーラーが故障して扇風機の病室では殺人罪を問われるとなると、世の中変わったものだ。
 我が家でもこの夏は、冷蔵庫、エアコンが相継いで壊れ、需要が多くて中々設置して貰えなかった。やはり、この夏は猛暑であったのだろう。今年限りであって欲しいが、そうは行かないだろう。地球温暖化が言われるようになって久しい。
 海水温が上がって、湿った空気が流れ込むと豪雨になる。雨が降ると、平年の1ヶ月分の雨が一度に降るなんてことはざらにある。併せて台風も次から次へと連日発生した。台風21号のように大型で猛烈な台風が発生する度数もきっと増えることになるだろう。
 産業が発達して、地球が何億年も掛けて作り上げた化石燃料を、ここ200~300年で何も制限を掛けることなく一気に使い切ってしまうような事態に対するツケなのであろう。人間の脳は暑さに弱い。地球環境が大幅に変わって、人間滅亡の日も近い。猛暑、大雨、大型で猛烈な台風は人類に対する警告なのかも知れない。