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おさむの書斎

 僕の家には狭いながらも自分の書斎があります。広いスペ一スではありません。たった3畳の大きさ
 長年、書斎が欲しいと思って来て、家を建て直す際にやっと出来た一人きりになれる唯一の空間。
 他の人が何と言おうと断じてここは僕の書斎なのだ。(実情は、パソコン部屋!!??)
 日記とは別にもう少し長いスパンで、普段思っていることを書こうと思って居ります。
 このHPのメインになるようにしようと思っています。

第 1221    十条銀座商店街             2019.03.20

 春のお彼岸である。彼岸お中日(3/21)は天気が悪いとの天気予報で、3/19にお墓参りに行った。弟が亡くなって7年、父母が亡くなって5年半経つ。以来、毎年春秋のお彼岸には欠かさず墓参に行っている。
 折角外出したのだから、前から行きたいと思っていた十条銀座商店街に行ってみた。基本的におさむ爺は人がたくさん集まる行楽地、イベントなどに行くのは嫌いである。人気のディズニ一ランドにも会社の行事のお付き合いで行ったきりである。ただ、商店街散策のみは例外で、東京都北区にある十条銀座商店街には前から行きたいと思っていた。
 十条駅は埼京線沿線にある。首都圏に住んでいても埼京線には今回初めて乗った。他のJR各駅は改装されているところが多い。十条駅は未だ昭和のたたずまいで、いかにも下町風だ。
 東京都内には、戸越銀座商店街、武蔵小山商店街、アメヤ横町、築地場外市場、十条銀座商店街など、なまえの知れた大きな商店街は幾つもある。十条銀座商店街は時たまTV番組でも紹介される大きな商店街である。3/19も見たことがないタレントさんらしき3人と、テレビカメラ、音声さん、見物人などが一団となってロケをやっていた。
 ただ、たいへん残念なことに、おさむ爺が行った3/19は火曜日定休の店が多いらしく、全部が営業している訳ではなかった。十条銀座商店街は一軒ずつを見ると大きな店は見当たらない。惣菜の種類が多くて安いのが特徴である。惣菜だけでなく衣料品も安い。新品のコ一ト¥500,靴¥500、シャツ¥299という破格の表示もある。
 今では普通、トレイに惣菜を載せ、ラップで予め包装しての販売が多いが、ここでは『量り売り』している店が多くて、庶民的でとても嬉しい。他の所に比べて、衣料品、食料品などの商品価格もずっと安い。八百屋の店先に、しっかり固まったキャベツ1個¥100、泥ネギ1袋(長ネギ5~6本入っている)¥100、大根¥100と格安だった。
 おさむ爺はここで夕飯用に次の物を購入した。
焼き鳥タレ 3本、つくね 3本、皮 3本、焼き鳥 塩 3本 いずれも¥60/本
豚角煮 289グラム(¥200/100グラム)
野菜コロッケ 5個 (¥30/個)
 良く世間で見られる事象に、近くに大型ス一パ一マ一ケットが出現することにより、地元の商店街が軒並みシャッタ一の閉じられてしまうようになることがある。ス一パ一に行けば、1カ所で日用品雑貨、衣料品、食料品などみんな揃ってしまう。だが、十条銀座商店街のように個人商店がこれだけ安値販売という結束で固まれば、大型ス一パ一も中々進出が難しいのではないか。地元商店街も結束してその特徴を出して行かないと淘汰されてしまうのである。
 『お買い物は地元商店街で』という言葉が有る。大型ス一パ一の売上金は別の場所にある本社に持っていってしまわれ、地方税が地元に還元されない可能性がある。こういう面から地元商店街で消費されて、お金は地元に還元されることが望ましい。
 個人商店も中々苦しいでしょうが、頑張って欲しい。今度はまた、戸越銀座商店街に行ってみようと思う。

第 1220    背広                  2019.03.17

 おさむ爺だって、今は背広と云わず、ス一ツと云う事くらい知っている。爺は古い人間だから、つい背広と云ってしまう。夏、冬用のフォ一マル各1着を除いた、背広で着ることの出来る物は1着しか持っていない。
 クロ一ゼットにはそれでも数着の背広はある筈だ。健康診断の問診表に『20歳の時に比べて10kg以上増えましたか?』の質問がある。おさむ爺はふ節制の影響をもろに受け、14kgも増えたものだからみなズボンのお腹部分が入らなくなってしまったものばかりである。
 ある時、翌日背広で行かなければならぬ事態が発生した。試しに着てみたら上着はともかくズボンがダメだ。その時既に夜になっていたから、急遽買いに行くわけにもいかない。ズボンの後ろ側の合わせ目の縫い代に若干の余裕があって、カミさんに一杯まで広げて貰って間に合わせたこともあった。
 危機が去った後、次回に備えて普通なら体にあった背広を新調すれば良い。『喉もと過ぎれば熱さを忘れる』の諺とおり、次回背広を着る機会などいつ訪れるか分からない。何しろ学校を卒業以来、40余年ずっと工場勤めだった。得意先に行くのも大抵は車だから、作業着で済ませた。油染みた作業着で行くわけにいかないから、ロッカ一で得意先訪問用の作業着に着替えて出掛けた。通勤もジャンバ一などいい加減な格好で済ませてしまったのである。よく上司に言われたが、おさむ爺は格好などまったくと言って良いほど無頓着な性格である。
 相手の方の人柄を判断するのに第一印象と云うのがある。背広にネクタイをしていればまず良い人だと思われる。第一チェックポイント通過である。ネクタイをしていても時たま、裏地に龍か何かの図柄をしたネクタイを着用されて居る方がいらっしゃる。そういう方はおよそ白のワイシャツなど着用されていない。注意が必要である。おさむ爺はたとえ作業着着用でも有り余る人柄の良さを顔に出している。作業着でも全く心配がない。(自称である)
 都心のオフィスに通勤するわけでなし、営業職を経験したこともない。滅多に背広など着る機会がないのである。サラリ一マンでも普段背広を着なければいけない人に比べれば、被ふく費に関しては必要経費が少なくて済んだ。僕にとって、背広はサラリ一マンのユニホ一ムではなかったのである。
 『馬子にも衣裳』と云うけれど、背広にネクタイ姿はおさむ爺には全く似合わない。着ていると締め付けられているようで肩肘が張ってくる。家に帰るとすぐさま脱いでしまいたくなる。永年、着慣れた作業着が一番スッキリ似合うのである。
 着られなくなってしまったものなどいつまでとっておいたって場所を取るだけだ。捨ててしまえば良いものを、もしかしたらこれから歳を取って痩せることもあるかと思って、そのままにしてある。運動などすること滅多にないものだから、痩せることなど恐らくない。行き当たりばったりのいい加減な生活している。始末するのが面倒なだけなのである。
 たった1着だけある着ることの出来る背広だって、末っ子の息子が結婚する前に、『親の顔合わせ』が有った時に買ったものである。この時は前もって分かっていたから新調した。季節柄、薄い生地のものだから、冬場に着るには相応しくない。
 クロ一ゼットに入れてある背広は滅多に着る機会が少ないものだから、擦り切れたものなどない。この歳になれば、ボタンホ一ルのほつれや、ズボンの後の合わせ目を広げるなどカミさんに補修して貰って、間に合わせておこうと考えている。
 これは靴も同じで、普段はズック靴を履いている。革の黒靴は1足しかない。こういうのをケチと云うのだろうか、節約と云うのか知らない。体は一つしかないし、必要ないものをあえて持つ必要も有るまい。死ぬまで何とか持つだろう。

第 1219    下山の思想               2019.03.16

 五木寛之著の『下山の思想』という本を読んだ。この本を読んだのは恐らく3度目だろう。おさむ爺が50歳を過ぎた頃、上司に『この本読んでみないか』と云われ、頂戴したものである。
 要旨を簡単に言ってしまえば、『山を登って単に頂上を極めると言うだけでなく、無事に下山を終えて、初めて登山に成功したと言える』ということである。もちろん、登山を人生に喩えていることは言うまでもない。
 かつて、『人生50年』と言われた。昨今は『人生100年』という言葉すらよく耳にする。数字は確かではないかも知れないが、平均寿命としたら、男で80歳、女性で87歳と言ったところではないか。
 先ほど人生を山に喩えた。上りと下りの境目を何処かと考える時、サラリーマンなら定年を節目と考えることもできるが、勤めをしている人にとって、50歳はもう先が見通せてしまうものなのである。これから後、話を進めるに当たって、先が見えてしまう50歳前後の、前の方を『第一の人生』、後の方を『第二の人生』と称することとする。
 世の中には70歳を過ぎてもバリバリに第一の人生を歩んで方がいらっしゃる。誠にご苦労さんなことです。実際には頭は充分働いても、体の方は寄る年波で、若い人を叱咤激励して指導、指示するのは恐らく身体的にとても辛いのではないかな。
 人は人生の分水嶺を越え、その後は小さな登り坂は繰り返しあると思うが、概ねダラダラとした下り坂である。登り坂は苦しい。途中で少し休んだ時くらいしか雄大な遠景や、山道に咲く花も見ることは出来ない。その点、下りは登りより楽な気がする。周りの景色を見る余裕も出来ると思う。ただ、下りの一歩には体重を受け、ふ用意に急げば膝を痛める恐れすらある。
 下り坂に喩えた『第二の人生』には遊びの要素を含めることが出来る。まして定年後なら『遊び半分』でも構わないのではないか。
 『第一の人生』で、仕事、結婚生活、育児、住宅ローン、教育費の負担などで身心を擦り減らして来た。それらの苦難から解放されて、生活の中に遊びの要素を多く含んだ人生を送っても良いのではと云うのが『第二の人生』であろう。
 70歳、80歳を過ぎてもなお『第一の人生』に留まって働いている人は、人生の成功者とは思うが、『第二の人生』の存在を認める限りにおいては成功者と云えないのではないか。遠くの景色も見たり、道端の花を愛でたり、たまに来る孫と遊ぶ余裕もなく、会議の途中、脳梗塞で倒れ、以後はベットで寝たきりの生活なんて、何と悲しい成功者なのでありましょう。
 今は老後の面倒を子供に見て貰うなど期待する時代ではない。認知症とならないように計算ドリルをやったり、読書したり(おさむ爺は今年になって23冊の本を読んだ)、こうして上手くもない作文を書いている。足腰が弱らぬよう、散歩、スクワット、腕立て伏せもやって、少しでも自分の意思で生活出来る期間を長引かせようと、無駄な努力をしている。いよいよダメになったら、老人ホームに入ろうと思っている。
 結婚して家を出て行った子供のことは半ば忘れた方が良い。彼らは今や生活のために必死で『第一の人生』を歩んで、今まさに山を登っている真っ最中である。山登りで景色を見る余裕がなかったと同じで、親どころではないのである。

第 1218    図書館               2019.03.13(水)

 このところ、10日くらい毎に図書館に行って、3~4冊ずつ本を借りて来ている。以前は bookoff 専門だったが読み終わった本が溜まって困っていた。そんなに昼寝用の枕ばかり要らない。宗旨替えして、bookoff は止めて図書館で、読む本を調達している。
 本当はどうなのか知らないが、図書館の本は刊行してから時間の経った、年季の入った物が多いような気がする。読みたい新刊書ならば買うしかない。
 以前は棚を見て借りる本を探していた。在るのか無いのか分からずに探すと云う無駄なことをやっていた。前も書いたが、今は検索機に目覚めている。こんなに便利なことを知らないで闇雲に目的の本を探していた。
 予め家で読みたい本の題めいと著者をメモしておく。図書館に着いたら、直ぐに検索機の所に行って、メモして行った本が図書館に在るのかどうかを調べる。今貸し出し中で図書館にない本を探しても無駄だし、必ずしも本が著者ごとに纏められている訳でもないことも分かった。検索機は何処の棚に置いてあるかも教えてくれるから、探すのが誠に楽だ。
 もはや全くの手遅れだが、職業選択を誤った気がする。溶接屋などに成ろうと思わなくて、司書の資格を取って図書館の職員を目指せば良かったと思う。図書館なら静かだし、好きな本はたくさんあるし、何と言っても職員には女性が多い。
 とかく若い人はこれだと思うと突き進んでしまう傾向がある。もう遅いが司書という商売は良いかも知れない。司書になれば成ったで、仕事上の悩みはあるのだと思うが、とかく隣の芝生は青く見えるのだ。得意先からのう期遅れで怒られることもないだろうし、値引き交渉も受けることなない。お客さんから怒鳴られることもないのではと勝手に想像します。
 本当に職業選択を誤ったに違いない。世間知らずだった。

第 1217    春だね               2019.03.12(火)

 毎年、春先になると心落ちつかなくなる。冬は寒くてかなわない。暖かくなるのは嬉しいのだけれど、気持ちがソワソワして困る。月に向かって『 ワォ一!』と叫びたくなる。拙宅は野中の一軒家でもないから、月夜に叫べばご近所迷惑になるし、『 ワォ一!』と叫んだところで、ソワソワ感が収まるとも思えない。だから叫ばずに居る。毎年起こるおさむ爺の季節限定ふ安症だ。
 世の中、情報量が多過ぎるのが原因の一つだと思っている。新聞を読まないと取り残されると思い、努めて新聞を読もうと思っているが、本も読みたい。本ばかり読んでいると、新聞が読めない。こんな余った時間が有り過ぎるようなおさむ爺でももっと時間が欲しい。
 パソコンでニュ一スの電子版を読むから、世の中の事についてちょっとは分かるけど、やはり丹念に新聞は読まなければならない。天皇が退位して年号が変わる件は別として、パ一トタイマ一とは云え、工業団地の事務局に勤める以上、2019年4月から実施される『働き方改革』についても知識として修めておかねばならない。これは商売に関することだから仕方がない。
 中小企業は2019年4月からは何を、2020年にはこれをしなければならぬと知っていないと話についていけない。実を云うと経営する方も案外知っていない。事務局がアドバイスしなければならない。
 老人になって、案外ダメなのはSNSという情報伝達手段だ。LINE、Twitter、Facebook、instagramなどです。少しもやろうと思う気がしない。僕のスマホは一応LINEの設定が出来ている。パソコンでFacebookを何度か閲覧したこともある。でも、もっと知って活用しようと云う気になれない。老化現象だろうと思っているけど。
 年始に『年賀状のやり取りは今年限りに』と云う意向が書かれた賀状を3枚頂戴した。遠く離れて年1回の安否確認ふ要と云う事なのだろう。こういう意思表示はとても良い事だと思っている。おさむ爺も常々『人は人』『他人と自分を比較しない』に努めなければいけないと思いつつ、中々それが出来ない。
 情報が多過ぎるのがいけないと先に書いた。庵を組んで隠遁生活をする訳にも行かないから、少なくとも新聞、メ一ル、通話、TVくらいのところで肝心な事だけはおさめておきたい。人それぞれなのだが、おさむ爺にとっては、余計な無駄な情報が多過ぎるのだ。それを知らなければ成らぬと煽るものだから、ふ安になってくる。

第 1216    需要と供給             2019.03.07(木)

 日産自動車の元会長のゴ一ン氏が保釈された。あの変装した姿、面白かったね。無罪を主張するなら、ス一ツ姿で堂々と出て来るとばっかり思っていた。保釈される前、数人の電気工事風の人が建物に入り、しばらくして職員に囲まれて電気工事作業員のような姿にマスクをかけたゴ一ン氏が出て来た。たくさん報道の人が詰め掛けているのにバレない訳がない。
 変装しようと考えたのはゴ一ン氏なのか、周囲の人なのか。おさむ爺はゴ一ン氏の外国人特有のユ一モアと考えたい。もしそうなら全く愉快な人だ。出て来て黒のワゴン車に乗るような素振りをしたのがちょっと残念で、迷わず真っ直ぐ電気工事屋さんを装った軽ワゴン車に向かって欲しかった。
 NHKの7時のニュ一スで、保釈金の10億円がどのくらいの分量なのか画面で見せていた。100 kg あるのだと云う。もちろん保釈金は振り込みなんだけど、お金を集められたのだから大したものだ。古い話で恐縮ですが、東芝府中工場のボ一ナスを奪った3億円事件のお金も、ジュラルミンケ一スに分散されてはいたものの、さぞかし重かったことであろう。
 あの事件を契機にほとんどの会社が、給与やボ一ナスは銀行振り込みになってしまって、世のオトウサンの威厳は地に落ちた。それまでは、
 『はい、給料』
 とオカアサンに渡していた。それを子供たちも見て育った。銀行振り込みだと、オトウサンは会社に行っているから、オカアサンが銀行に下ろしに行く。オカアサンにお金を完全に握られてしまう。オトウサンの中にはATMの使い方はもとより、暗証番号すら知らない人が居る。下ろしてきたお金の中から、後日、
 『はい、今月分のお小遣い』
 と渡されると、いつも何か頂くと頭を下げると云う習慣が付いているものだから、オトウサンが働いて得て来たお金にも関わらず、条件反射的につい頭を下げて
 『すいません』
 と云ってしまう。オトウサンの権威が落ちたのはあの事件以来だ。
 朝日新聞のゴ一ン氏関連記事の写真を見ていたら、東京拘置所の前に『差し入れ屋』と書いたお店の看板が出ていた。おさむ爺は幸い、たとえ短時間でも鉄格子の部屋に入れられ拘束された経験はない。長い人生だから犯罪らしき物の身に覚えはあるが、運良く摑まっていないだけだ。多分誰でもそうだろう。
 拘留された方に差し入れすると云う需要があるからこそ、『差し入れ屋』さんがあるのだなと妙に感心してしまった。昔、最寄り駅から運転免許試験場までの間に『代書屋』さんがたくさん並んでいた。他の県は知らないけれど、神奈川県では運転免許試験場内で全て済んでしまう。今は需要がないから試験場周辺では代書屋さんはめっきり減ってしまった。
 代書屋さんは無資格で誰もが開業できるわけでもなく、『行政書士』という国家資格が要る。おさむ爺はかつてその試験を2回受験したけど、いずれもふ合格だった。落語に出て来るように履歴書、ラブレタ一、恋文の類の作成も資格が要るのかしら。夏休みの宿題の読書感想文もネットで販売しているらしい。これも代書のバリエ一ションの一つであるかもしれない。うまく行くかどうか全く自信がないけれど、恋文は代筆してみたいと思う気がする。今はメ一ルや Line があるから、恋文を代筆して欲しい人など居ないのだろうな。
 『差し入れ屋さん』、『代書屋さん』も、需要があるから、それを供給する仕事が商売となる。これは便利だからと自分で思って何か作っても、買う人が居なければ商売にならない。世の中、万事そういう仕組になっている。若い人で『自分探し』なんて云って、旅に出ようが、悩もうが、自分に合った都合良い仕事など見付けることは稀有のことだ。自分にも出来そうな仕事に自分を合わせるしかないのだな。作業着の背中に『地道』と大書して汗水流して働くことだ。

第 1215    ユニフォ一ム                2019.03.04(月)

 3/1に現在大学3年生に対する企業側の説明会が解禁となった。これを報じるテレビニュ一スを見ていて、相変わらずだなと思った。
 男子はあたかも制ふくのような真新しい紺のス一ツ。女子においては若い女性らしい明るい感じのふく装は皆無で、男子と同じように黒系の制ふく姿である。女子の場合はコ一トを着ている場合があり、これまた皆同じでベ一ジュのコ一トばかりなのである。
 企業説明会で各企業は、自社の特徴をアピ一ルして、他社との差別化を図りたいとの意図がある。学生側とて、面接の機会において自分は他の学生と違ってこういう特性を持っていますと示したいのではないのか。
 それなのに何故同じようなユニフォ一ム姿で現れるのか。これもテレビで知ったのだが、面接も予め練習をして模範解答を習得、準備しておくのだと言う。これでは『馬子にも衣装』『猫かぶり』ではないのかな。
 企業側とて『可もなくふ可もなし』の学生を採用したいと言うわけでもあるまい。そこは人事に精通した担当者が学生の人柄を吟味して採用するのだが、学生時代にスポ一ツをやって来た青年が仕事にも頑張れる根性を持つとは言い切れないし、学業の面で成績優秀の人が社会に出ても同じように優れた頭脳を発揮できる訳でもない。企業がこの人を採用して良かったと、分かるのはまだまだ先のことだ。中には箸にも棒にもかからない食わせ者を掴まされ、後悔することさえ、大ありなのだ。
 これは学生側も同様で、入社してみたらブラック企業であることが分かり、早々に逃げ出さなければならぬ事態となる。一旦就職してからの退社となれば、次は中々良い会社に入ると言うことが出来ない。正に企業と学生は『狐と狸の化かし合い』との様相となる。
 もし、私が起業してある程度の大きさの企業に成長し、学生を採用したかったら、紺のス一ツを着て、皆と同じ格好をした学生は採用したくないな。
 それなら、お前の時はどうだったのかと問われても仕方がない。もう、47年も前の話になる。やはり、紺の背広を着て入社試験を受けた。それは確か、高校の部活でマジックの同好会に入っていて、舞台奇術の衣装用に買って貰った紺の背広だ。それで成人式、入社試験、卒業式、入社式にも着て出た唯一の背広である。ただ一着しか持っていなかった。確か社長や取締役が出席している入社試験の面接では手品をやったっけ。今時、面接でこんなことやる学生もめったに居ないのでは。残念なことに、おさむ爺が勤めた会社は二社とも今はなくなって(倒産)してしまったのは悲しいことだ。
 会社の説明を聞きに行くのに、企業側がちゃんとス一ツにネクタイして来るのだから、学生側がセ一タ一にGパンでは『失礼』に当たる。礼儀正しいことからなのか。それにしたって、皆が皆紺のス一ツというこたないだろう。

第 1214    相田みつを さん               2019.03.03(日)

 書家であり、詩人である『相田みつを』さんのなまえを知らなくても、独特の文字で書かれた『人間だもの』の色紙は恐らく見たことがない方は居ないのではないか。飲食店などでよく貼られている。相田さんには失礼かも知れないが、トイレに貼られていることが多い。
 『ドジョウがさ 金魚のまねすること ねんだよな』から引用して、民主党政権当時、野田総理が言ったことから、『ドジョウ総理』と言われた事がある。
 悩んでいたり、くじけそうになった時、立ち上がる勇気をもらえる人もいる。おさむ爺も相田さんの作品を読んで慰められた。ただ、落ちこぼれそうになった人たちには効用があっても、そうでない人もいる。
『つまづいたっていいじゃないか にんげんだもの』と言う作品がある。オリンピックを目指す体操選手達はどうだろう。例えば跳馬の競技で、向こうから勢いを付けて走って来て、踏み切り板の所で飛び跳ねて、跳び箱のようなものに手を着いてクルクル回って着地をする。普通に考えればピタッと着地できる訳がない。それが当たり前だ。
 それをピタッと着地できるように選手達は日夜血の滲むような練習しているに違いない。跳馬だけでなく、床運動も鉄棒もそうだ。そんな体操の練習場に、うえ木等さん風の人が登場して、『つまづいたっていいじゃないか にんげんだもの』と言ったら、選手達は『何だこの人は! この言葉は!』と呆然とするに違いない。うえ木等さん風の人は、辺りの雰囲気を見回し、『お呼びでない。こりゃまた失礼いたしました』とかつてのめい物TV番組『シャボン玉ホリデー』のようなこととなってしまう。
 つまづいてコケルより、つまづかない方が偉い,上等だという世界で、つまづかないように日々努力している方々には相応しい詩ではない。人々の営みは大抵、何か目標に向かって進んで行くような方向あることが常です。これがなければ、努力する必要もなく、進歩がない。
 相田みつをさんの詩はおおよそ、落ちこぼれた人向けの慰め対応ばかりのような気がする。確かに世の中には頑張っても、他の人と同じように出来ない人がいる。そう言う方達を見下し、見捨ててはいけない。慰め、再び立ち上がり、挑戦させようとすることは必要だ。相田さんの詩が悪いわけではなさそうだ。
 相田さんの詩を書いた色紙をそこら中に貼りだしている私を含めた人たちが、もう少し色紙を貼り出す場所と状況を考えるべき問題なのかも知れない。自分が感銘して良かれと思っても、そう考えない人が居る。皆が自分と同じように考えると思わないことだ。

第 1213    沈黙                    2019.02.26(火)

 おさむ爺の趣味の一つに読書がある。爺はおそらくこれから生きても最長でも10年と自分の寿命を想定している。残された時間は決して長くない。どうせ読むなら良い本を読みたい。闇雲に手当たり次第に読んでも、これは時間の無駄と云うもの。
 ときたまテレビにも出演するからご存知かも知れないが、明治大学の斉藤孝教授の著書に『読書力』という新書版がある。若い人向けにどのような本を読んだら良いか、本の紹介をしている。推薦図書を一覧表にしてみた。おさむ爺が読む本は、紹介されたものばかりでは決して無いけれど、何を読もうかなと本を選ぶ際の参考にしようと思っている。
 そのリストの中に、遠藤周作氏の『沈黙』がある。遠藤周作氏と言えば『狐狸庵先生』と呼ばれて有めいだ。ユーモア小説や、若い人向けにHow to 物の著作も多い。今月も『深い河』と云う本を読んだ。これも良い本だった。
 『沈黙』はかつて読んだ気がするが、定かではない。図書館で借りて読み始めた。冒頭の3~4行読んだだけで確かに読んだことがあると思った。以前読んだ時には、今回ほど感動しなかった。その人の年齢と、読んだ時の環境が大きく影響するのだと思う。でも今回は、近年爺が読んだ本の中では一番の本だと思うな。感動した。
 豊臣秀吉はそれまで容認していたキリシタンを禁制とした。徳川幕府もこの政策を踏襲した。『沈黙』は先に日本に来ていて、消息の分からなくなってしまった師を探すことと、自分も司祭として信仰を広めようとする潜伏司祭の小説である。自分が潜伏する、捕らえられて棄教しないことにより百姓が拷問により殺されていく過程の心裡がよく表されていて引き込まれた。
 本文中には記載がないが、秀吉がそれまで容認していたキリシタンを何故禁制とし、後の徳川幕府もそれを踏襲したのか、自分なりに分かったような気がする。歴史に詳しい研究者ではないから正解かどうか分からない。でも、おさむ爺は多分こうだったんじゃないかと思っている。(何だか最近のNHKの番組みたいだ)
 こうして本を読むことによって、色々考え、想像する。これが読書の楽しみだ。恐らくおさむ爺はこれからなぜ秀吉がキリシタンを禁制にしたのか、調べ始めるに違いない。ただ読み終わるだけでなく、色々想像して関連を調べて行くと読書の裾野はどんどん広がっていく。
 普段、おさむ爺は自分が良いと思った物を勧めることなど余り無い。人それぞれだと思っているからだ。自分が良いと思ったことが、他の人も良いと思うとは限らない。良かれと思っても、他の人にはお節介と感じられてしまうことがある。ここでは『沈黙』は良かったよ程度としておこう。

第 1212    プロ                    2019.02.22(金)

 『土俵には金が埋まっている』とは大相撲 初代若乃花(二子山親方)が弟子達を励ますために使った言葉です。実際に掘った人が居るのだというから、相撲界には楽しい人が居るものです。大相撲はまわし一つの裸の男達がぶつかり合う厳しい勝負の世界です。食と寝る場所は与えられるが、幕下以下の力士は給料をもらえない。番付を上げるには土俵の上で勝たなければならない。こう言う世界におさむ爺は共感する。みんな同じの『仲良しクラブ』では能力も、技量の向上も見込めない。
 現役で働いていた頃、会社内で仕事の一部で、教育係として新入社員に1週間ほどの期間、働く際の『イロハ』を教えていた。このガイダンス終了後、彼らはそれぞれの部門に配属され、仕事をしながら、配属先の技術や仕事の仕方を学んで行く。
 当時、それぞれの部門の指導者達は、コンサルティング会社が実施している『教え方講習』を受けさせられていた。講習では『やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、褒めてやらねば、人は動かじ』という山本五十六の有めいな言葉まで出て来た。新人が理解できない、技量が向上しないのは『指導者の教え方が悪い』とまで決め付けられた。
 今、思い起こせば、そんなものは大ウソだと思っている。コンサルティング会社は経営者側の立場に立ち、短時間にある程度の仕事が出来るまでのレベルまで技能を向上させ、即戦力としたいという思惑があったからだろう。もちろん指導者の教え方の適否もあるが、受講者側のやる気や資質が大きく影響するのは言うまでもない。
 何か事情があってのことだろうが、アルバイト、派遣社員などで暮らす人たちがいる。一刻も早く正規の仕事を得て、働くことを目指して欲しい。仕事がコロコロ変われば、いつまで経ってもプロとしての実力が付かず、収入も増えない。それなりに暮らしていければ良いと言うなら、個々の人の人生に干渉は出来ないが、そんなことでは社会としては困るのだ。人生のある時期には社会という御神輿にぶら下がるのではなく、担ぎ手となって働いて頂かなければならない。
 収入が少なくて結婚できない(orしない)人が増えれば少子化問題に繋がる。人口が減れば国力は衰退し、国の存亡に関わる。
 それぞれに色々問題があると思うが、15歳~34歳の年齢で家事、通学、就業もせず職業訓練も受けていない、いわゆるニートと呼ばれる人も困った問題である。病気や障害ならともかく、理由もなく社会のお荷物になっているようではいけない。それぞれの立場で役割分担を担って頂きたい。世の中に自分の理想とするような仕事などないのだ。世の需要が有って、需要が初めて仕事となる。需要がない仕事は道楽というもの。皆、それに合わせて苦労して働いている。
 本題に戻って、高いレベルのプロと言われるような人たちはその技術習得について、『学ぶは真似ぶ』の言葉のように、手本となる師はもちろんあるだろう。あるレベル以上のこととなれば、ほとんども全ての部分において恐らく独学だ。
*人が遊んでいる時に勉強している。
*親方(指導者、先輩など)が作業をしているのを見て、その技術を盗む
*自分で本を買って研究している。
 技術部門のような書き方をしてきたようだが、表現に差異は有っても、どの仕事でも同じだ。ただ教えて貰ったことをやっているだけでは多くは望めない。頭角を現すような人、今後責任者、指導者となるような人は皆、間違いなく陰で努力をしているのだ。

第 1211    マイナス                  2019.02.21(木)

 認知症にはなりたくない。
 『まだ昼ご飯食べていない』
 とカミさんに言ったら、
 『あら、さっき食べたでしょう』
 と言われ、以後小学生の頃、ラジオ体操に行って出席のハンコを押してもらったようなカードを首から紐で吊るし、ご飯を食べる毎に認印を押すように言われてしまった。 とは、成りたくない。
 カミさんだって、晩御飯のおかずを電子レンジで温めていたことをすっかり忘れてしまう。食器を洗っている時に思い出して、騒いでいるのは日常茶飯事である。
 認知症を予防するには日頃から頭を使わないといけないという。おさむ爺は中学生の計算ドリル、たくさん本を読むこと、そしてこうして駄文を書いてなるべく頭を使おうと、無駄な努力をしている。カミさんは 『数独』、パズルの本を買って来て励んでいる。
 昨日(2/20)からちょっと 『どうしてなんだろう』 と悩んでいる。多分、中学1年から数学で 『マイナス』 の概念を学ぶ。日常生活でもマイナスは支出や赤字などでも使うから馴染んでいる。マイナスを含んだ計算でも四則計算の内で加減つまり、足し算、引き算は問題なく、引っ掛かることはない。
 問題は乗除、すなわち掛け算、割り算である。
 (一1)X(一1)=+1
(一1)/(一1)=+1 
 は、どなたも計算出来るだろう。でも、『どうして?』 となると中々理屈が分からない。誰もが計算できるのに(マイナス1)と(マイナス1)を掛けると(プラス1)になるのか。何故なのだろう。理屈は分からなくてもマイナスとマイナスを掛ければプラスになることを覚えておいて、計算出来ているだけなのだ。世の中そういうものなのだと思って計算しているだけで、本質を理解していない自分に気が付いた。まるでNHKの番組の『チコちゃんに叱られる』のようなものだ。
 そんなこと知らなくたって、ス一パ一で肉、魚、野菜を買うのに、日常なんら困ることなく暮らして行ける。私たちの生活でマイナスの数字にマイナスの数字を掛けたり、割ったりすることが実際にあるのだろうか。昨日からずっと実際の使用例がないか考えている。加減はすぐに思いついた。果たしてマイナス同士の乗除の例があるのかな。
 古い話だが、地下鉄はどうして電車を入れたのだろうか。考えると夜も眠れなくなってしまう話と同じようなことだ。
 中学生の計算ドリルとて決して侮れないものだ。こうして考えて認知症にならないと良いのだが。

 

第 1210    いじめ判決                 2019.02.20(水)

 昨日(2/19)、大津地裁でいじめ認定の判決が出た。いじめが自殺の直接要因であることが認められた。このような事件でいつも出て来る『遊び』について、『加害者が遊びと言い張るには限界がある』ことを明確に示した。
 殴る蹴る、縛って拘束する、制汗スプレーがなくなるまで顔に吹き続けるなどして、これが遊びであると言い張る加害者側の神経が分からない。
 浦島太郎の昔話で、子どもたちが亀をいじめた話を思い出した。子どもたちに取っては遊びでも、亀に取っては『命懸け』なのだ。亀を助けて太郎は竜宮城で3000年間接待を受けるほど、亀の命を助けることには、価値が有るものだった。まあ、昔話だから虚構なのは当たり前だが、亀にとっては『命懸け』には間違いないだろう。
 今時はないだろうが、子供が病気らしい野良犬を棒持って追いかけたなんてことも、あったのだろうが、これも犬に取っては『命懸け』のことなのだ。
 例え話を広げて行くと、大人の世界でも、人と人、会社と会社、国同士の争いなどに際限なく展開しかねない。例え話はここらで止めておくことにしよう。
 いじめられたことを苦にして同級生が自殺してしまった。結果として相手の命を絶っておいて、相手が死んでしまって、得られなかった人生を、自分は得ようと願うこと自体おかしな話だ。
 世の中、平等なんてことはあり得ない。裕福な家庭に生まれる。あるいは貧しい家庭に生まれる運命にある。裕福な家庭の子は十分な教育を受けられ、高給を得られる立場に立てる可能性が高い。また幼くして病気が原因で死ぬ子どもたちも居る。何も悪いことしたわけでもないのに、人並みに人生を送れずに死んで行く事実がある。
 むしろ、人生はふ平等なのだという現実の認識を、大人は子供に教えていくべきである。ふ公正、ふ平等は未来永劫なくならないものだと認めた上で、人は運命にも、能力にも、体力にも、才能にも差があるものだから、それを前提に制度によって出来るだけ同じようなレベルの暮らしが出来るようにしようじゃないか、と言うものだ。
 それには、各人が持つ様々な才能、能力、知力、体力の役割分担を担ってもらい、社会に尽くし、奉仕し、貢献することを当たり前のこととして、平等でない運命、才能、能力、知力、体力などを有効活用していこうというのが『人間の英知』ではないのかな。
 中学生くらいになったら、体の大きさ、体力差は歴然だ。体力差を以て相手をいじめるなんて潔くないことくらい分かって呉れることを期待する。それが分からないなら、周囲にいる親や大人が教えて行かなければならない。どうも、今日は理想主義になってしまったようだ。
 今回の事案で自殺が起きたのは、2011年のことだ。加害者も恐らく22歳くらいまで成長したはずだ。自分のやったことの重大さを充分認識して欲しい。いまだに『遊びだった』と言い張るなら、もっと自分を見つめ直して貰いたいものだ。
 もっとも、地裁、高裁、最高裁と3審を経て死刑が確定した人で、死刑執行引き延ばしを図って、再審請求している人の割合が80%くらいあるという。中には冤罪の人も無いとは言えないけれど、皆、自分の事となると命が惜しくなる。

第 1209    ウップン                  2019.02.16(土)

 今日の出し物は『ウップン』であります。半濁音の表示で『フに○』が付くか付かないかで全く違った意味になってしまいます。『ウッフン、そこはくすぐったいの~』と妙齢のご婦人を鳴かせたい思いはまだ重々あります。ただ、おさむ爺にはそのような場面に巡り合わせたことは、今まででの生涯にはありませんでした。
 ウップンとカタカナで書いたのには訳があります。漢字では『鬱憤』と書きます。『憤』の方はともかく、『鬱』の方は字が込み入り過ぎて、老眼のおさむ爺には文字の大きさで四角く塗り潰したような、まるで『■』とたいして変わりがない文字にしか見えません。
 過労死で亡くなってしまい、社会問題化されて、労働環境も徐々にではありますが改善されてきました。戦後の焼け野原から復興して経済大国になる過程においては、労働災害で亡くなった方や、働き過ぎて身体的にも精神的にも体調を壊して、挙げ句の果ては自死に追い込まれてしまった方々が驚くほどたくさんいらっしゃった。
 若い頃はそれでも何とか持ち堪えられる。歳を取るに連れ、段々無理が利かなくなってくるものです。体のことだけでなく、精神を冒されウツとなる方も多かった。おさむ爺も結構長いこと精神科に通い、精神薬をふく用したものです。ただ、歳を取るに連れ、誰しも体のあちこちにふ具合が出て来るのは致し方ないというものです。
 仕事上のストレスが溜まって来ると、何処かで『ガス抜き』というか、ウップン晴らしが必要です。手軽なところではお酒です。仕事帰りに同僚、部下、あるいは上司と『何処かで一杯』と言うことで、居酒屋、赤提灯のお世話になるというのが定番なところなのでしょう。
 そうなると、日本が経済大国に発展した裏の貢献の一つに、安い飲み屋街の役割が挙げられることでしょう。そこでは上司が如何に無能か、ふ当なノルマを突きつけるか、部下の尻拭いばっかり、得意先の横暴さをネタに呑み、語られた。飲み屋で愚痴を言って気分が晴れ、明日への活力となれば、まあ、考えようによっては安いものです。
 体質的にお酒を呑めない方や通勤手段が車しかなく、お酒で紛らわせない方がウップンを家庭内に持ち込むと、家庭では大いに迷惑するものです。家庭内暴力、DVとなれば、社会的な問題にも発展しかねません。また、営業職などで得意先接待のために連日酒を飲み続けて、歳を取ってからその影響から体を壊した人を何人も知っています。
 いずれにしても仕事が気楽で、楽しいものなんてことは無いのです。どの仕事も苦役です。何らかの方法でウップン晴らしをしないことには仕事は長続きしません。収入の糧であります仕事が自分の中でうまく回すことが出来るかは、如何にウップンを溜めずにいられるかに掛かって居ると言っても過言ではありません。
 定年過ぎて、週3日勤務のパートタイマーであるおさむ爺にでさえ、現役で働いていた時期に比べたら、比較に成らぬほど小さくはありますが、お金を頂戴して働く以上ストレスは感じます。おさむ爺はあと半年ほどで70歳になります。
 老後と云うのは『死に向かうバスを迎える待時間ではない』と最近思うようになりました。高齢者は多分時間がたくさん余っている。炬燵に入ってテレビ三昧の毎日を過ごすのではなく、自分の好きなこと、趣味に生かすべきと思うように成っています。
 新聞の『死亡記事欄』や『今年亡くなった方の追悼記事』など気にするようになりました。第一に見るのがその方の年齢です。平均寿命の最新データは知りません。多分男80歳、女88歳位でしょうか。亡くなった方が平均と比べてどうだったか。自分と比較して『あと6年だな』何て考えてしまう。
 次は死因です。ガン、誤嚥性肺炎、心ふ全、肝ふ全、老衰それぞれでしょうが、ガンなら60代、70代が多いような気がする。80代、90代になるとガンは通り過ぎて、死因としては少ないようだ。心ふ全や肝ふ全は若い頃の飲み過ぎや、働き過ぎが影響したかなと勝手に想像している。
 いずれにしても『ウップン』はなるべく溜めないようにして、『ウッフン、そこそこ』の路線で暮らしたいものだ。『想像色ボケ』と云う。

第 1208    意外な漢字                 2019.02.10(日)

 このWebサイトの 『おさむ』 と云うのは、もちろんネット用のハンドルネームです。私の本当のなは極々有り触れたなまえです。私の生まれた年に男児に付けられた一番多いなまえで、今まで読み間違えられた経験はありません。余りに簡単でポピュラー過ぎて、小学生の頃はもう少し凝ったなまえだったら良かったのになぁと、しばしば思ったものです。
 『まさお』と云う、これまたポピュラーななまえがあります。『正夫』、『正男』 あるいは 『真男』 が多いのではと思います。何となく 『雅夫』 と云う 『雅』 と云う字が上品で、風流な字だなと思っていました。女の子のなまえでも同じです。『雅子』 となると何処となく優雅な方を連想してしまいます。まぁ、これは自分の勝手なイメージです。
 もう、大分時が経っていますけど、かつて大相撲の幕内力士に 『雅山(みやびやま)』 と云うお相撲さんが居た。なまえからすると端正な顔立ちで、気高く、優雅で、さもイケメン風な力士を想像してしまいます。実際の顔と体付きを見たら、幻滅。これこそ看板に偽りありの見本のような力士でした。何処が 『雅だか分からない』 むつけき男(おのこ)でした。もう雅山関は引退してしまいましたが、本当のこと言ってしまいゴメンなさい。
 昨日(2/9)、南関東でも大雪との予報で、ほんの少し積もり、雪の装いでした。一日中とても寒い日でした。二月は如月(きさらぎ)と言って、寒いから更に着物を重ね着するなどと云ったものです。多分小学校の上級生の頃、『むつき、きさらぎ、やよい、うづき・・・・・・・・・』 と暗記した記憶があります。
 ここで云う 『むつき』 は 『睦月』 であります。急に捻じ曲げて 『むつき』 は乳幼児に用いるオムツ、オシメのことでもあります。時代小説などに時々出てきます。今は紙オムツに変わってしまって、ほとんど見かけませんが、昔は洗いざらした浴衣などを使ってオムツに使ったものです。他家の洗濯物を見て、オムツが干してあると 『ああ、この家では赤ちゃんが産まれたのだな』 と分かりました。今は他家の洗濯物など見ていると 『ヘンな人』 と思われてしまうから、止めときましょう。
 私は普段から国語辞典を身近に置いて分からない事があると、直ぐに調べなければ気が済まない性格です。久しぶりに 『むつき』 と云う言葉を使ったので、念のために国語辞典で調べたらオムツと云う意味の 『むつき』 の漢字が何と『雅』だったので、大変驚きました。但し、『雅』と云う字にしているのは、持っている限りでは、三省堂新明解国語辞典だけで、我が家にある他の国語辞典では皆、 『襁褓』 になっている。
 家には広辞苑などの立派な辞書はありません。試しに漢和辞典で 『雅』 を見ても、オムツ、オシメの類の意味が書いてありませんでした。娘がたまたま文学部だったせいもあって、国語辞典、漢和辞典、古語辞典は何冊かずつ有って、手近に有った 『新明解国語辞典』 だけが 『雅』 だったのでした。
 小学生だった頃、『雅』に憧れた『雅夫君』『雅子さん』も、まさか自分のなまえがオムツ、オシメだったとは知らないだろうな。そう云えば、皇太子妃も『みやび』どころか『オムツ』の意味もあったとは、お釈迦様でもご存知あるまい。

 

第 1207    定年離婚                  2019.01.31(木)

 『定年離婚』とか『成田離婚』と言う言葉を以前はよく聞いた。最近この言葉を聞く機会はめっきり減った。日本の離婚率が減ったのかと思ってネットで調べたら、1/3の夫婦が離婚するのだという。自分の周りにも離婚をした“つがい”が何組かいるが、1/3の夫婦が離婚しているとはとても実感がない。婚姻歴5~10年、年代では30~35歳が一番多いのだそうだ。この人達は定年離婚の年代ではない。
 現役時代は仕事ばかりしていて家庭を顧みなかった。定年退職した時、あるいはカミさんから離婚を切り出されるかと思っていた。幸い申し入れはなかった。家庭を顧みなかったのは事実だが、仕事ばかりで、浮気とか、ギャンブルをしたり、飲み歩いたりすることがなかったのが良かったのかも知れない。
 定年離婚して、退職金や貯金を分割して頂いたとして、お金に余裕がある内は良い。憧れていた豪華客船に乗って世界一周したところで、いずれは出発地点に戻ってくる。お金の続く限り船に乗り続けて、夏のキリギリスのような日々を送ったところで、それは繰り返しに過ぎない。いずれは冬が来てキリギリスは死んでしまう。
 船を下りて一人で暮らすとなると、やはり実生活ではどうして良いか分からない。子供の家に行って、孫が『おばあちゃん、おばあちゃん』とまとわりついて来るのは、孫の幼児期だけ。その上の歳になり、おばあちゃんが小遣いを呉れなくなったら、近寄りもしなくなる。
    『○○ちゃん、こっちにおいで』
 と言ったところで、
 『いや、おばあちゃん臭いから』
 と加齢臭を指摘されてしまう。子供は正直で、手厳しい。結局は厄介者扱いされるに決まっている。
 一人暮らしするにしても、手に職があるわけでもない。体も、頭も若い人にはとても及ばない。成田離婚の人たちとは年齢が違うのだ。彼らにはまだ市場価値がある(かもしれない)。ずっと家に居て主婦をやっていた60歳前後の人には働き口探しさえ容易ではあるまい。まだ、年金受給者の年齢に達していないかも。マンションの清掃やスーパーのパートではアパートの家賃を払ったら暮らしていけない。
 定年離婚という言葉を聞かなくなったのは、若い頃、醜い部分をさらけ出し、確認し合った相手と文句を言いながらも、一緒に生きて行くより仕方がないと気付いたのであろう。
 突然、定年離婚を切り出される亭主の方もたまったものではない。炊事洗濯などの家事はもちろんのこと、銀行のATMすら初めて触る人も出て来る。
 知り合って、結婚当初は慎んでいたが、そのうち『出物、腫れ物ところ嫌わず』で相手の前で平気で『ブッ』と放屁するようになる。お互い、配偶者の前で屁をするように成れば、たとえ幻滅、諦めであろうが、夫婦も一人前と言うところなのではないのだろうか。

第 1206    孤独死                   2019.01.28(月)

 もう5年も前のことである。朝早く、母が入院している病院から電話がかかり、『すぐ来てくれ』と言う。着替えて、歩いて10分ほどの距離の病院に駆け付けた。丁度医師が母の様子を診ていたところだった。母に取り付けたケーブルを通じて、ベッド脇のモニターの緑色の画面に心拍の様子が表示されている。
 1時間ほどベッド脇の椅子に座っていた。やがて、画面に表示されている波形の間隔が広がり、波形の高さも段々と低くなって行った。ついには波が無くなって、母は夜空のお星様になってしまった。父が亡くなってまだ1ヶ月も経っておらず、同じ誤嚥性肺炎で後を追って行ってしまった。多分、仲が良かったのであろう。
 それにしても、医師は何故、数時間後の母の死を予測できたのだろうか。長年の経験により成せる業なのか。こういうことを、母の死に目に立ち会えたと言うのであろう。父は別の老人専用の病院で亡くなった。知らせが有って勤め先より駆け付けた時には、もうすでに別室に運ばれ、周囲に花が飾られていた。死に目に間に合わなかったということだ。
 亡くなったのは、父が95歳、母は93歳まであと数日のところだった。父母の葬儀は本人達の希望で家族葬とした。1ヶ月以内に2回も葬式を挙げるとは思ってもいなかった。ふ思議と涙は出なかった。薄情な息子だったのかと悩んだ。
 テレビドラマなどで、病人が横たわる布団の周りに配偶者、子、孫などの親族が集まっている場面を時々見ます。何故か亡くなるとカクッ頭が傾く。亡くなったことの表現なのだろう。畳の上か、病院のベッドの違いはあるものの、一般庶民の現実にも有る場面でしょう。
 ああいうのは嫌だな。皆で『今か、今か』と見守って、死を待っている。中には神妙な態度を装って居ても、
『ジイサン、しぶといな』
『往生際悪いなぁ、こっちは忙しいんだから、早く逝ってよ』
 と心の中で思っている人が居るに違いない。黙っていれば、人の心の中までは読めません。布団の上で亡くなるのですから、当然、亡くなる当人は意識がないことでしょう。もし意識があって、皆が自分の周りに座って死を待っているのだとしたら、自分だったらきっと恥ずかしくて、よう死ねない。
 東日本大震災の後の避難所などで、誰に知られることなく、誰かに見届けられることなく、亡くなられる方がいらっしゃる。世間では『孤独死』と言うようだ。周りの方に見届けられようと、そうでなかろうと、誰でも死ぬ時はたいてい一人だ。無理心中で死んでも、爆弾テロで同時に死ぬことが有っても、人間はそれぞれ一人で死んで行くのだ。
 誰に見届けられることなく死ぬことが、そんなに寂しいことなのだろうか。マスコミが感情の琴線に触れるような書き方するのは意味が無い。それなら、看守や執行官に見守られながら執行される死刑囚は孤独でなく、幸せなのかい。『孤独死』という言葉は、それほど意味あることではないと思う。
 2025年に我が団塊の世代は、全て75歳以上の後期高齢者となる。太平洋戦争後、戦地から戻った兵隊さんが励んだものだから、昭和22年~24年生まれの人たちが大勢固まっている。私が生まれた昭和24年の出生数が一番多い。いつも競争ばかりさせられてきた。
 団塊の世代の人々は大概もうリタイアして、結婚していれば子や孫がいる。子は独立して家を出て行ってしまい、同居している方はそんなに多くはないのではと推測している。2025年には夫婦2人暮らし、老老介護なるものが始まっていても、ちっともおかしくない。
 『50歳まで結婚歴なし』のいわゆる『生涯未婚率』も増えている。2015年のデータで、男23.4%、女14.1%である。50歳までとしているのは、この歳に成れば、もはや自身の子を授かることがない目安で言っている。少子化問題に大きく影響を及ぼしている要因なのである。
 世に言う『孤独死』が今以上に増えても、ちっともふ思議ではないのだ。
 亡くなってしまうと、お金は有っても出来ないのは、自分自身の死後の始末だ。野晒しなら自然と風化してしまうだろうが、普通なら死後火葬しないと、衛生上よろしくない。自分で自分の火葬手続きや依頼が出来ない。どなたかに死後のお世話にならなければならない。
 私の考えでは、お通夜、葬儀、その他、何回忌の法要などは残された遺族の『見栄』だと思っている。『死んじまっちゃー、お終しめいよ』なのだ。
 概ね2025年以降、『孤独死』なんて、取り立てて珍しいことではなくなる。珍しいものでなければ新聞の社会面でも取り上げない。そこら中で起こるに違いない。人間の死後に対する考え方も変わらざるを得なくなる。

第 1205    いい湯だな                 2019.01.22(火)

 1月も下旬ともなれば、もう行楽地も混雑もしていないだろう。ここらで温泉にでも浸かってのんびりとしてみたいと、どなたも思うことでしょう。ところで、温泉に浸かると、のんびり出来るものなのでしょうかね。
 温泉旅行に行く機会は自分には余りない。2~3年に一度、せいぜい1泊2日の家族旅行に行ければ良い方だ。数少ない経験で云うと、温泉に行って本当にのんびりしたと言った気分に成ったことがない。
 会社の慰安旅行で温泉に行ったこともある。大抵は5~6人で一室。旅館に着くと割当の部屋に入り、お茶でも飲んで窓際の椅子に座って、タバコでも吸いながら窓の外の景色を眺める。そのうち、誰ともなく
 『風呂にでも行こうよ』
 の言葉を合図に、連れ添って大浴場に行く。風呂に浸かって頭にタオルを乗せ、思わず『プハー』としたところで、せいぜい30分といったところだろう。部屋に戻れば程なく宴会の時間が迫る。宴会場でお決まりの夕食、宴会、カラオケなどに興じ、飲んだくれた末にお開き。後は寝るだけ。昨夜、二次会に行った人たちが帰ってきて旅館の池に落ちたなどと言う武勇伝を、朝食の際に聞くのは何処にでもあるというもの。これじゃのんびりどころか疲れに行くようなものだ。団体の温泉旅行に『のんびり』を求めるのはまず絶対無理のようだ。
 家族での1泊2日はどうか。大体どこの温泉旅館も15時チェックインの翌朝10時~11時チェックアウトが定番というところであろう。のんびり出来るかどうかは、子供連れであるかどうかが、大きな要素を締める。小さな子供連れなら、何処に行こうがのんびりは期待出来ない。
 夕食を部屋で摂るか、家族旅行でも大広間で摂るかによっても違うが、もちろん部屋ごとに食事を運んでくれる方がゆったり出来るのは当然である。
 1泊2日の温泉旅行で、せっかく温泉に来たのだからと言って、5回も6回も温泉に浸かったと誇って言う方がいらっしゃる。貧乏癖丸出しである。何度も入ると、湯疲れと言って好ましくない。多くてせいぜい3度が限度である。
 大きな温泉ホテルではレビュー、和太鼓演奏、その地方に伝わる踊り、芸能などのショーが催される場合がある。そういった会場への出入りは禁物である。また大きな温泉街には浴衣で外出して、射的、スマートボール、パチンコ店、ヌードショーなどの施設もある。せっかく温泉に来たのだからと言って、温泉街散策の気分を得ようとする外出もふ適切である。なにしろ、『のんびり』が目的なのだから。
 『孟母三遷』というように、『のんびり』には環境整備が必須条件なのだ。雑念を払うには山の中に一軒しかないような温泉宿を選定しなければならない。それも1泊2日の温泉旅行では忙し過ぎて無理だな。山の中のひなびた温泉に辿り着くまでには、往復に時間が掛かってしまうのだ。
 川の流れの音を聞きながら、本でも読むとか、絵を描くつもりで過ごすなど、非日常の生活体験を得る覚悟で旅行に出なければ、『のんびり』はとてもじゃないけど体験できない。
 旅行に出たら、これと、あれを見てなどと、盛りだくさんの計画を立てるようなタイプの方は、初めから温泉旅行に『のんびり』を期待すると言う資格がないというものである。
 12年ほど前の単身赴任の際、住んでいたのが温泉街のすぐ裏にあるアパートだった。温泉街には足湯が何カ所もあり、歩いて5分~10分くらいの所に温泉の共同浴場が4カ所あった。アパートには内湯があったけれど、休日にはあちこち共同浴場に入りに行った。今は分からないけれど、入浴料が70円だった。温泉街特有の土産物店もほとんどなかった。一人住まいで、話し相手もなく、休日にはおのずとゆったりしていて、ずっと本を読んで過ごした。
 こんな体験は別だけれど、ひなびた温泉地で湯治場もあるくらいな場所で、自炊でもするような気で行かなければ、温泉に浸かって『のんびり』なんて味わえないだろう。
 少なくとも、都会に住む人たちは普段せかせかした生活に慣れていて、空いたわずかな時間を使って、大きな温泉場で『のんびり』過ごすなんて初めから無理な話だ。行き帰りに、渋滞、混雑に巻き込まれ、めい所をくまなく見て、お土産も買い込み、家に帰って畳の上に座り込み、『ああ、疲れた。やっぱりウチが一番』と呟くことのないようにお願いしたい。

第 1204    ISO9001,ISO14001 2019.01.19(土)

 ISOは国際標準化機構のことです。 あるいは同機構が発行した国際規格も一般にはISOと呼びます。
 人が物を購入する時、単に製品だけでなく、どのメーカーが生産したのか気にすると思います。買ってすぐに壊れてしまっては困ります。管理体制の整った会社でなければなりません。その目安になるのが、ISO9001やISO14001でした。
 国際的な認定機関に審査認定された審査機関が、認証を希望する各社を審査して晴れて認証取得となります。ISO9001は『品質管理体制』が整っているか、ISO14001は『環境管理体制』が整備されているか審査を受けます。
 勤務先の工業団地ではISO14001を13年ほど前に認証取得しました。認証に当たっては、専門のコンサルタントに付き書類などの整備の指導を受け、その費用が何百万円か掛かりました。
 もちろん企業の規模にも依りますが、私の勤める工業団地では審査費用に100万円以上掛かります。一旦認証取得した後も、体制が崩れてしまわないか確認の審査が毎年有ります。ISOの認証取得及びその維持には毎年バカにならないような費用と手間が掛かっています。
 15年以上前、日本ではISOの認証取得が盛んに論じられたことが有ります。ISOの認証取得されていないと、輸出産業ではハンディキャップになるとか、大手企業からの取引要件になったり、取得していると取引審査の際加点される、売り上げが上がるなどと喧伝されたものです。
 来週、工業団地でも毎年1回の途中の維持審査があります。でも、最近はISOの認証取得について問われる機会がめっきり減りました。ネットで海外の状態など最新データを調べて見ました。
 ISO9001(品質) 日本の取得 約33,300団体の断トツに対し、2位タイ王国の169社、アメリカ 4社、ドイツ 1社、イギリス 1社、カナダ 1社なのです。
 ISO14001(環境) 日本の取得 17,761団体の断トツに対し、2位タイ王国88社、アメリカ、ドイツ、イギリス、カナダは0なのです。
 このデータを見ると愕然とします。国際標準化機構の筈なのに、日本だけがまるで踊らされたかのように馬鹿げたような数字です。日本でもISO認証を返上が増えている。日本の企業数は大小合わせて、約400万社位有ります。今ですら、ISO認証取得は全企業の1%以下です。それだから、希少価値があるとは決して思いません。まだ、そんなものに関わっているの?!
 先進各国のデータを見ても、ISOの有用性を認めて居るところなど無いのです。理由は、認証を取ったり、維持するにはかなり大きな費用が発生する。それに見合った効果が認められない。ISO認証を取引条件とする発注側の親会社も減ってきた。直接出て行くお金だけでなく、維持するための人件費とてバカにならない。
ISO9001、ISO14001以外にも会社が取得したり、順守しなければならない規格や要求事項が増え、効果の認められないISOなど関わって居られない。
 一旦認証取得しても永年維持していくと、どうしてもマンネリ化します。費用が掛かる割りに、さしたる効果も得られないとなれば、認証を維持する企業が減るのは当たり前のこと。
 諸外国の認証取得数を見て本当に愕然とした。もう海外ではISO9001もISO14001も眼中にないのだ。断トツ桁違いに多いのは日本のみ。まるで極楽トンボだね。水戸黄門の印籠のようにいつまでも権威に縋っていても通用しない。費用を掛けて、認証を受けなくとも、あくまで必要なのは企業の実力なのだ。具体的には『品質、価格、のう期』で示されるものなのだろう。

第 1203       断捨離                   2019.01.15(火)

 時々あちこちで見掛ける『断捨離』と云う言葉がある。難しい言葉なので僕が使うのは今日が初めてだ。確か10年ほど前に流行語大賞になったような気がする。(僕の記憶のことだから間違っていたらゴメンなさい)
 意味はふ要なものを捨て、生活に調和をもたらそうという事らしい。この言葉をこれからも積極的に使おうと思わないから、この程度知っていれば良いのではないか。身辺整理をするという部分で、何処か『終活』と目的が似ているところがある。
 現天皇が今年退位をなされるという事もあって、僕が産まれた昭和20年代以降の映像がテレビに映し出される機会が増えています。戦後から東京タワー建設くらいまでは、おおよそ世間は皆貧乏であった。高度成長期を経て、国民は便利さを求めるのと同時に、身の回りには物が溢れてきた。
 自分自身を考えて、『何か欲しい物があるか?』と訊ねられても、お金以外で特に必要な欲しいものはない。お金は誰しも欲しいものです。されど、宝くじにでも当たって、今更贅沢な暮らしをしたいとも思わない。
 結婚式の引き出物に『湯のみ、急須セット』『お皿』など頂いたところで、それらは既にどちら様の家にもあり、大抵は即押入れ行きとなってしまうのではないか。しばらく留め置かれた後に、地域か学校のバザーに出されてしまう運命にある。
 強いて欲しい物と言えば、我が家には『自家用車』がない。たまに車があったら便利だなと思うことは確かにある。駅まで徒歩10分程度、商店街の買い物とて、出先での駐車場の心配をする位ならない方が良い。かえって高齢者の運転技能の方が余程心配になる。そんなことなら車など要らない。コストパフォーマンスを考えたら、僕には車は全く無駄なものである。
 長い時間を掛けて身の回りには物が溢れて来た。今では『如何に物を捨てるか』と云う時代である。物を捨てるというのは、単に年寄りの『終活』だけの話ではないようだ。新刊書の本屋に行けば、いかに物を捨てるかと云ったHow to本が売れている。
 しかし、なかなか物は捨てられない。昨年から少しずつ『終活』を心掛けているのにちっとも進まない。ダンボール箱を開けてもその品物を得た時の思いが、捨てる気を起こさせず、使いもしないのに、いつか役に立つこともあるだろうと、取り敢えず『しまっとく』となってしまう。市の廃棄物毎の指定日がなかなか合わないことも理由として挙げておこう。出来ない理由を他人に転嫁するのも有効な事である。
 時々、由緒ある古文書が出て来たというニュースがある。我が家から古文書が出て来ると言うことは絶対にないが、18年前家を建て直した時に頼んだ引越センターの段ボール箱が中身の入ったまま、開封されることなく積み上げられていることを見れば、夫婦ともいい加減な性格なのであろう。ちなみに二人ともネズミ年ではない。
 本棚に入りきれずにダンボール箱に入れて置いた本を出してみた。新書版だけで100冊以上あった。文庫本もかなりある。確かに読んだことがあるものの、中身を忘れてしまったものがほとんどだ。今年は今のところ新たに購入しないで、ダンボール箱の中から見繕って読み直しをするという、少なくともこれ以上物を増やさない消極的な断捨離になっている。

第 1202       Today is the first day  2019.01.13(日) 

 Today is the first day of the rest of my life. (今日は残された日々の最初の日です) これはどなたかが発した言葉です。かつてどこかで読んだ本に書いてあり、記憶で書いている。my life だったか your life であったか確証ありません。日記でも書きましたが、年取ると、とにかく病気になっても自分でも嫌になるほど直りが遅い。
 昨年まで、老人のマイナスイメージばかりを書いてきた。世の中には『陰と陽』『プラスとマイナス』『日陰と日向』まだまだたくさんあると思うが、老年にマイナスイメージばかりを背負わせてはいけないと思っている、今年の決意のようなものです。
 自分については、元々陽気な明るい性格とは正反対である。上のように心掛けても三歩歩いたらスローガンを忘れてしまう方だから当てにはならない。気持ちだけでも明るく振る舞いたいと思う。
 自分の好きなこと、自分の勉強でもと云うようなモノが少しでも有れば、暇のある老年ぼど恵まれた時期はないのだ。
 先日、勤めを終えてJRの最寄り駅を降りて家に向かって歩いていた時、ふと思った。
 『何故、いつも同じ道を歩いているのだろう?』
 もちろん最短距離と信じる道を歩いているのだろう。野中の一本道ではあるまいし、少し変化を付けて道を変えた所で、距離にはほとんど変化はあるまい。普段通らない横丁に、新しい発見があるかも知れない。明らかに遠回りになるが、商店街を通って歩けば、さらに目新しい変化にも巡り会える可能性大と思う次第である。
 だが、私の考え出した結論は違う。家に帰って『ただいま』と言えば、『お帰り』と言われたり、帰ると必ず緑茶を飲むこと。寝転んで新聞を読んでいても、僕が勝手に振る舞える空間があること。駅から歩いて来る間の空間の景色がいつも同じと云う、ルーティン・手順が、僕に取っての仕事と家庭の間のON*OFFに重要な要素になっているのではと考えたのです。
 何となく今年の目標としている『読書』だって、今年になって今、4冊目に取り掛かっている。本のジャンル問わずと云うことにしているが、娯楽系は極力避けようとしていることから考えると、まだ『自分には伸び代はあるかな』と自分を慰めることにしている。

第 1201       初詣                  2019.01.06(日)

 1/5 散歩がてらに川崎市高津区の『身代わりふ動』までカミさんと初詣に行って来た。帰って来て歩数計を見たら12000歩を越えていたから散歩としては上出来の距離を歩いた。
 先日、私には神も仏もない旨のことを書いたばかりだ。信じていないけれど初詣には行った。支離滅裂である。Web管理者の頭の程度が知れようと云うものだ。古くからこのサイトへの訪問者の方はご存知かと思うが、私は『村の鎮守の神様』と云うWebサイトの管理人でもあった。仏教関連の本も読んでいる。極々普通の方よりも神仏に関しては詳しいかも知れない。特定の神仏を信じてしまったら、神仏について興味を持ったり、知識を得ることなど出来ないと思っている。
 『身代わりふ動』では持って行った5円のお賽銭を入れ、一応『家内安全、病気平癒』をお願いしておいた。祈祷所の方へ廻ると、3人の僧がお経を詠んでいる。おおよそ150人くらいの方々がお経を聞いている。
 祈祷受付の所に行くと用紙が有り、祈祷を受ける方の氏めいを記載できるようになっている。一人当たり3000円以上となっている。上限はない。お経を聞いている150人ほどの方の全てが3000円以上を払ってご祈祷していただいているのではないと思う。当事者と付き添いの方が居ると思うが、この祈祷を1時間おきにやっているのだ。正月は身代わりふ動にとっては書き入れ時なのである。
 『薬九層ばい、小間物八層ばい、按摩つかみ取り、坊主丸儲け』と云う儲かる商売の例えの言葉の通り、一旦設備や衣装を揃えれば、経費は人件費程度で終わってしまう。おまけに宗教法人は税金が掛からない。まさに坊主丸儲けなのである。カミさん、息子の嫁さんに安産のお守りと、僕にもお守りを買ってくれた。こういうお札やお守りの収入もバカにならないだろう。
 本当に災難の身代わりに成ってくれるとか、極楽往生出来るとかの保証も何もないのに、人のふ安を材料として、お金を取ろうとする商売がまかり通っているのが、嫌なのだ。祈祷料一人当たりに最低料金を設定することすらおかしい。『思し召し』で十分と思うのだ。
 うまいこと出来ていて、寺院側はご祈祷をやっているよと、提示しているだけで、祈願するだけ。参拝者の方で『身代わりふ動』だから、災難の身代わりに成ってくれると勝手に先入観を持ってしまっている。それで申込書になまえを連ねてしまう。寺院側は『災難の身代わりになりますよ』とは一言も言ってはいないし、書いても居ない。どうも頭の良い人はいるものだ。

 

第 1200       新年                  2019.01.01(火)

     明けましておめでとうございます  

 旧年中は私のWebサイトに訪問下さり誠にありがとうございます。どうにか年を越すことが出来ました。どうぞよろしくお願いします。と、まずは型通りの挨拶をさせて頂きました。
 この歳に成れば、正月とて格別のこともなし。
 目標はたくさん本を読んでみたいと思うことぐらいかな。
 Webサイトも固い事ばかり書いてきました。今年は柔らかく行きたいと思って居るのだけど、どうも性格が出てしまって、中々柔らかく書けないのです。ハハハ。どうか皆様ご海洋下さい。
 昨日、こんな素晴らしい文に巡り合いました。そのまま書き写せば
 ある山村に鉄道が敷設された。一老婆切符を買いに来て曰く、端銭はまけて下さい。駅員答えて曰く、当駅では掛け値はいたしませんが、次の駅まで行けばいくらか安くするでせう。
 こんなユーモアのある文を書きたいものです。
 明日から孫が2人とそのママ(長女)が来るものだから、正月早々賑やかになりそうです。
 まあ、よろしくお願いします。

第 1199       人の評価                2018.12.30(日)

 年末になって2人の死刑囚に処刑が行われた。オウム真理教関係者と合わせれば、今年は15人に極刑が処せられた事となる。
 オウム関連で多くの逮捕者が出た時、麻原彰晃は別として、教団幹部の多くが高学歴であると話題となった。『○○大出身の頭の良い人が何故?』と云う世間の驚きの声が多かったと記憶している。○○大出身イコール頭の良い人かも知れないが、全てが人格者とイコールでは決してないのだ。
 日本の大学の選抜制度を考えると、英語なら5000以上の単語を覚え、何百かの構文を暗記し、CDを聴いて英語耳を身に付ける。数学なら定理を覚え、数多くの問題をこなす。他の教科も同じようなものだろう。刺激を与えるために予備校にも通っていたことだろう。要は選抜試験に合格するための暗記中心の事前訓練をしてきただけなのである。
 超難関大学に合格するには
1.本人の頭が試験に適合するに相応しい能力を持っていること。
2.本人が合格に向けて努力すること
3.家庭がある程度裕福であること
 超難関大学を卒業したって、数多くの中には普通に社会生活を営めることの出来ない人が出て来るのは当たり前のことなのだ。だから、『何故?』と云う疑問は余り意味がない。人を評価するに当たって、学歴だ、試験結果で評価するのは安直過ぎる。評価するにしても、身長、体重から始まったら、評価項目が多過ぎて大変だけれども、数多く面接し、何度も小論文を書かせ、1ヶ月くらい何か作業をさせてみたって、その人の評価の一部しか出来ないではないか。一時の舞い上がりは有るかも知れないが、これぞと思って結婚しても、離婚が多いのは相手を見極められなかったと云う結果なのだ。
 死刑と成った彼らが、一昔前に流行っていた『自分探し』に似たことをしていたのではと想像します。『自分は何なのだろう』と何かを求めていた。麻原彰晃に巡り合ってしまい、空中浮遊を見て『これだ』となってしまった。
 万有引力の法則を知らないのか。地球上なら、念力や思念で体が浮き上がることなどない。マジックだって空中浮遊したり、丸ノコで胴体を切断する。必ずトリックのネタがある。ロシアに銃器の調達にも行った。彼らはそんな事の判断も出来ないような欠陥者だったのだ。
 生きて行く上で大切なのは、総合的に判断が出来るか否かと言う事にあると思っている。自分で絶対的と思える一つの価値観を受入れてしまったら、それ以外の事柄を否定してしまう思考パターンに陥ってしまっている。自分達の教義に合致する、師の教えのみ推奨し、相反する場合には憎むべきものとして攻撃する。おぼろげながら自覚している、自分達が世の中からはみ出しているという劣等感の共有が、教団内部を結束させ、外部に対する攻撃性を高めていったとしか思えない。
 『自分探し』など有り得ない。働いてご飯を食べていく社会には、需要のある仕事しかない。芸術家、職人などの極めて少数の人が自分に合った仕事に有り付けるだけだ。社会に出たら、仕事に就いて『自分は自分自身で作り上げる』しかないのだ。
 そんなこと気が付くのは遅いと言われるかも知れないのは承知の上だが、ローンを抱えて一所懸命働いて居た時には、働くだけで考えもしなかった。定年後、時間に余裕が出来てやっと分かった。気付くのが遅過ぎた。
 色々なジャンルの本を読んで、決して一人に偏ることなく、様々な考えを自分の中に共存させようと思って、本を読んでいるのも、そのためだ。本当に遅過ぎたと思っている。ボーッと生きていた。

第 1198       宗教                  2018.12.27(木)

 今、『蓮如』と云う本を読んでいる。その前に読んでいたのは『歎異抄の謎』と云う本です。いずれも浄土真宗の親鸞に関係するものです。蓮如は親鸞とは200年ほど後の僧です。歎異抄は親鸞没後に間違って親鸞の教えが伝えられたり、起こってきた異議に対し、師の真意を伝えようと、弟子であった唯円の編によるものと言われています。
 歎異抄の『善人なほもつて往生をとぐ。いはんや悪人をや。・・・・・』の文章は余りに有めいでどなたも聞いたり読んだりしたことがあると思います。阿弥陀仏の御慈悲にすがり、『南無阿弥陀仏』と唱えれば誰でも、往生できると云う教えです。
『南無』はおすがりします、帰依しますと云う意味で、ナムアミダブツは阿弥陀様に帰依しますという事に成ります。『ナンマンダブ』は同じことで、方言のようなものです。日本に数多くある神仏の中で、浄土真宗では阿弥陀様が浄土への『救済担当』と言う事に成っているようです。我が家は一応、日蓮宗です。念仏は『南無妙法蓮華経』で、蓮華経に帰依しますと云う事に成り、蓮華経というお経が帰依の対象となります。(前にも書いたかな。)
 宗教に関する本を読んでいますが、私は全くの唯物的な考えの持ち主です。天国も地獄も人間が創造した概念で、全く信じていません。天国と地獄は人の頭で考えられ、図に表わされたもの。念仏を唱えれば往生出来るなんて言って民衆を欺き、親鸞は『大嘘つき』なのかも知れません。
 死んでしまって、蘇った人など居ないのですから、死後の世界を確認のしようがない。心臓が止まってしまった方にAEDによる電気ショックの処置を施し、蘇った方に『お花畑があったか?』と訊ねたことがありますが、お答え頂けなかった。
 『死んじまっちゃ お終めいよ』と云うことが私の考えです。私が死んでしまったら、通夜も葬式もいらない。死体を放置すれば衛生上良くないし、死体遺棄罪に問われてしまう。日本では土葬が認められていない。取り合えず『直葬』にて焼いて貰って、戒みようも要らない、墓などに入れる必要もなし、狭い庭の片隅にでも埋めてもらえれば、それで結構。以後の、49日、1周忌など法要一切ふ要と家人に言ってある。
 何故、宗教に関心があるのか。大人の常識として知っておきたい。宗教が世界の紛争に大いに関わっているからだ。もちろん天然資源を巡っての紛争がありますが、宗教がらみの争いも過去の歴史にたくさんある。世界は宗教抜きでは考えられないのだ。
*ユダヤ教、キリスト教、イスラム教は元はと言えば同じ神なのに、争いが絶えない。
*中東の国々に紛争が絶えないのも、第一次世界大戦でサイクス・ピコ協定と言ってイギリスとフランスが中東の国々の事情に関係なく、国境を直線で区切ったことに起因する。
*中東で自爆テロが繰り返された。死んだ後、天国に行って優雅な生活出来ると云う信仰があるからだ。天国に行けるのでなかったら、誰も爆弾抱えて死にたくないよ。
*イラン・イラク戦争も宗教戦争 ペルシャ人とアラブ人と民族は違うが、イスラムスンニ派とシーア派の戦い。イスラム国へと繋がっていく。
*EUの中で経済破綻している国は、カトリック教徒が多い国ばかり
*プロテスタントが移住した北米は繁栄した。一方、カトリック教徒が多いスペイン、ポルトガルが進出した中南米は貧困である。南米から大移動してアメリカを目指していて、トランプ大統領が軍隊まで出して阻止しようとしている大移動だって、貧困問題だ。カトリック教徒は基本的に勤勉でないことに由来していると僕は思っている。
 ちょっと挙げただけで、宗教がらみの例題はたくさんある。斯様に人々を幸福にするための宗教が反って、人々を苦しめているのだ。日本は宗教色が少なく、国境が海だからまだ良いような気がする。大人の常識程度のモノを身に着けたいから、僕は宗教関係の本も読む。
 本当は宗教がいけないのではないと思う。人は何かを切っ掛けに団体、群れ、国を形成する。隣の群れと縄張り争いが必ず起こる。争いに勝った強者は弱者から物を奪い、隷属する。群れの求心力となるのが宗教であっただけで、人間が群れを組み、周りの群れと縄張り争いをする本質は、他の動物たちとまったく変わらない。

第 1197       ゆとり                 2018.12.24(月)

 初めにお断りしておくが、本日のブログは老人の空想と、乏しい記憶に基づくものであります。その点、お含み置きの上、お読み下さい。
 昨日は天皇誕生日であった。来年4月末から5月始めに掛けて10連休と云う話があったが、あれは決定したのだろうか。そんなに休日を増やして、日給や時給の方々は生活に響くのではないのかなぁ。ラジオのニュースでこの冬のボーナスの額を聞いて、正直ビックリした。
 同じような仕事しているのに、正社員には支給され、契約社員には無支給。格差は広がるばかり。教育費の掛かる子供を抱え、無支給の契約社員だったら侘しいだろうな。僕もパートだから仕方ないけど、時給だから10連休は効くな。
 日本人は働き過ぎだと言われて休日ばかり増やしてきた。もはや日本の休日は他の国に比べて決して少なくない。過重労働など極端な人の報道ばかりが強調されて、誤った印象を与えていると思う。
 大昔のことだが、欧米では1ヶ月の夏休みを交代で取るなんて話を聞いた事がある。交代で取ると言ったって、皆が1ヶ月とも成れば会社機能は停止するに違いない。『1ヶ月の休暇を取る人も居る』の誤りではないのか。それをあたかも全ての人が1ヶ月の休暇を取ると云うように拡大報道するものだから、日本もこんなに休日が増えてしまった。
 本当だとして、食料を買い込み、家族でトレーラー引いて自然を求めてキャンプなんて聞こえは良いけど、実情は貧乏臭いじゃないか。木の枝を集めて焚き火を起こし、飯を作り、野グソをして、汚らしいところで水浴びするなんて、まるで原始人の生活体験じゃないか。まあ、1~2日だったら我慢出来ると思うけど、僕は御免だな。人類の歴史はそういう生活から脱却するために、皆で頑張って来たのではないのか。
 中国が経済発展してGDP世界第二位になっている。数年前、日本にも中国人の“爆買い”と云うのがあって大騒ぎした。あれだって共産党幹部の家族などの一部の裕福な人たちばかりの行動で、『中国の外貨ふ足になる恐れがあるから止めろ』と指令が出てたらピタリと無くなってしまった。
 私たちがテレビ報道で見ることが出来るのは、中国の都市部だけのことではないのだろうか。中国は戸籍が“都市部”と“農村”に分かれていて、相互の戸籍の移動は原則許されて居ない。地方の農村戸籍の人が都市に出稼ぎに出て都市に居座っても、戸籍は農村戸籍のままだ。都市部の画像だけ映されて、16億の人口の全てが繁栄しているかのように錯覚してしまう。農村部での生活は全く違うのではないか。都合の良い所だけが映されている。
 孫がいるから、時たまイソップ物語など絵本を見る機会がある。アリさんは真っ黒になるまで働いて過労で死んだら、労災で過労死認定して貰わなければいけない。キリギリスは夏場だけ、サウジの王侯貴族のようにもっと優雅な生活をして貰わなければいけないと思うのだ。それぞれの生き方を示しているのだから、童話も時代によって変えてもらわなければならない。
 休暇を取って、例えばハワイ、沖縄でも行ってホテルに泊まってゆったりするとして、一体幾ら有ったら、ゆとりある生活が出来るのだろうと考えたら、普通はどれも高くて出来ないよ。せいぜい年に1~2度温泉に浸かるか、連休は何処も混雑するから、何もしないでテレビでも見ているとか、本を読んでいるとか云うのがゆとりある生活と云うものだ。
 我が家の最寄り駅の改札口近くにNEWDAYSという極小のコンビにみたいのがある。そこで、朝の出勤スーツ姿で、おにぎり、サンドイッチ、お茶、牛乳等を急いで買って改札口に駆け込む人がいる。ゆとりの生活を云うなら、駅の立ち食いソバや売店を撤去すべきだな。
 ちっとお金が溜まると、豪華客船に乗って地中海クルーズなんて行って、結婚披露宴でしか飲んだ事のないシャンパンを飲むのが、夢みたいなゆとりある生活だと思っている。そんなのTV番組の『アタック25』で勝ち抜いた上、最後の問題に正解しなければ行けないよ。バカじゃ出来ない。繁華街へ行くとよく外国人旅行者を見かける。デイバッグを背負って普通の格好の貧乏臭い旅行姿ばかりだ。
 日本人はみんな一緒じゃなく、自分の余暇の過ごし方考えるべきだと切に思う次第だ。

第 1196        趣味                    2018.12.20(木)

 定年過ぎて引き続き嘱託をやっていた会社を辞めた頃だから、もう6~7年前のことになる。今までとは全く違う職種の仕事に就きたいと、就職活動をしていた。30枚以上の履歴書を書いたが、すべてふ採用だった。今までの実績と云うか、コネで今の職に就いた。僕に関して、就職活動は時間と労力の無駄であった。
 履歴書30枚以上も書くのは大変である。無職だからそこに貼付するスピード写真代も痛い。履歴書はコピーで済ませると言う訳にも行かない、一枚ずつ書いた。履歴書には『趣味』を書く欄もある。特に書くこともないので、無難な所で、いつも読書と書いておいた。
 世の中には、1年に1冊の本も読まない、本には無縁の方がいらっしゃる。本の編集者の方は年間500~1000冊読む方もいらっしゃると云うから驚きだ。私は趣味が読書いうにはおこがましいほどの量だが、本は好きだ。
 もう何年も読んだ本、著者の記録を取っている。今年の残りの日数を考え、見込みだと今年は年間74冊くらいか。毎年70~80冊の本を読んでいる。ほぼ5日に1冊のペースだ。ジャンルは問わない。何でも読むが、H系、推理小説、バイオレンス、SF、漫画は全く読まない。自分の尺度で、時間の無駄と思っているからだ。読書は『習慣・癖』である。一旦その習慣が付いてしまうと、本を読み続けることになる。気の置けない友人が居ないせいかも知れない。
 今年の読書傾向を見ると、圧倒的に『新書版』が多く、小説はそれほどでもない。僕の持っていた『新書』に対するイメイジは学術的分野に置いて、人様に伝える技術、知識、意欲がある方が書いている、格調高いがあった。かつての岩波新書のように、難しいという先入観である。
 今はそんなことはない。数えていないけれど、恐らく10社くらいの出版社が新書を発行しているのではないか? 今や新書も僕でも読めるまでレベルが落ちた。著者は読者の年齢層を考慮して本を書いている。読んでいて明らかに青年向けだな、How toものだなと思う時も多い。
 今、選挙速報や時事解説などテレビで引っ張りだこのジャーナリスト『池上 彰』氏も数多くの新書の著者になっている。彼の書いた本は数多くある。そんなにタレント(才能のある人)なのか疑問に思うようになった。人はそんなに何でも分かっている訳ではない。彼の著書を多く読んだが、その題材の本を書くために勉強をしているに違いないと思わせる節が折々に感じられる。ちょっと限界かなと感じる。
 5日に1冊のペースで新刊書を買って行くのは、僕の財布の経済破綻を招く。最近では多くの本を古本屋で調達する。安く買う分、時勢に遅れた内容となるのは致し方ない。新書の表題を見ると『○○力』と云うものが大変多い。何でも『力』と付ければ良いと思っているのではないか。例を挙げれば『伝える力』、『聞く力』、『読書力』、『書く力』、『雑談力』などなど他にもたくさんある。何とかの一つ覚えのようだ。
 出版界は下降線を辿っていると言われて久しいが、有めいになるとすぐ本を出したりする。これで出版して、誰が読むの? と云う内容のモノも多い。そういう本は程なく古本屋の店頭の100~200円のコーナーに並ぶ。出版社は天につばを吐いているようなものだ。何でもかんでも出版すれば良いと言うものではない。本を出し過ぎの様な気がする。近現代文学で夏目漱石、芥川龍之介、川端康成、志賀直哉、谷崎潤一郎、井上靖などなど多くの作家が後世に作品を残している。今の世で誰が後世まで残る作品を書いているだろうか。
 私は本を読んだら必ず心掛けていることがある。その本の主題とか、作者が言いたかったこと、書きたかったことが何だか考えるのではない。もちろん、これを含んでも居るけど、作品中の一断面でも良い、書かれていた内容の一部でも構わないから、とにかく読後感じたことを頭の中で考えることを習慣としている。
 直近で読んだ本に『さおだけ屋はなぜ潰れないか?』と云う古い新書がある。古い新書と云うのも変だ、出版されてから時間が経っていると云う意味だ。会計学の極々入門書です。ド素人の私にはとても参考になった。でも、老人だから、すぐ内容を忘れてしまうに違いない。忘れてしまって結構。それ以上に読めば良いのだと思っている。

 

第 1195        壁                     2018.12.13(木)

 今日書くことは、『もうそんなこと 我が家ではずっと前から出来ているよ』と言われてしまうかも知れない。
 12/9(日)にKDDI のコールセンターのおネエさんから電話があった。電話が掛かってきた時に、電話器の『ディスプレーに相手の電話番号が表示される』という機能の勧誘だった。我が家で既に登録されている電話番号については、電話番号でなく登録してあるなまえが表示される。キャンペーン中だから、3ヶ月間は無料になるという。
 併せておネエさんが教えてくれたのは、勧誘の電話は番号の頭が『0120』で始まる番号を使っている場合が多いから、電話が掛かってきた時、ディスプレーに表示された番号を見て、『0120』で始まる番号だったら、電話に出ることを止める選択肢もありますよと教えてくれた。
 後で知ったのだが、そんなこと言って良いのか。KDDIのコールセンターのおネエさんからの電話も0120から始まる番号じゃないか。
 その後、0120で始まる電話が掛かってきた。ディスプレーを見て、出るのを止めてしまった。我が家の固定電話に『壁』が出来た。
 携帯電話がなかった大昔にも電話には大きな『壁』があった。僕がまだ独身寮にいた20代前半だった頃、知り合った女性の家に電話すると、間の悪いことに親父さんかお母さんが出る。
 『もしもし、○○と申します。▲▲さんお願いします』
 『居りますが、娘とどのようなお知り合いでしょうか』
 『友人です』
 『ご用件は何でしょうか』
 と言われてしまう、高い障壁があった。元々こちらにはこれと言って、母上にお伝え出来る用件なんかないよ。ただ、こちらは彼女と話して、今度会う約束をしたいだけだ。
 昔はこう言った突破しなければならない電話の『壁』があった。後で彼女に会った時、『8時頃電話すると言ったのに、何故君が出ないんだよ』と苦情を言ったものだ。
 今は、若い人はほとんど皆スマホを持っていらっしゃるから、こんな思いもせず幸せだ。僕らのようなジジイが若い頃経験して居た『父上、母上の壁』を突破するのに苦労していたことなど理解出来ないことだろう。
 今、僕はスマホの通話にもメールにも『壁』を設定している。スマホの電話帳に登録していない方からの通信は、通話は『拒否』、メールは『迷惑メール』のファイルに入ることになっている。
 後から履歴を見ると、なるほど、拒否された通話は0120で始まる番号が多いし、迷惑メールのファイルには、『懸賞に当たった』、『そろそろお金返してよ』など、ろくでもないメールばかりが入っていることが多い。陥れようとしているのか分からないが、暇な奴らが何と多いことか。

第 1194        潮時                    2018.12.11(火)

 69歳です。いまだに通勤時間片道1時間15分ほど掛けて、週3日パートとして、仕事に出ています。もちろん既に年金を受給しております。2017年度の1年間は失職し、近所の子供を集め読み書き、ソロバンを教え、雨の日や夜は傘張りなどしておりました。
 自分でももう仕事に出なくても良いのではと思っている一方で、往復で2時間半も掛かる通勤時間を使っても仕事に出るのは、自分を律するためと思っています。勤めに出るとなれば、朝も早く起きなければ成りません。否が応でも他の通勤者と同じペースで駅の階段を登らなければなりません。通勤すると成れば、それなりの距離を歩きます。浪人中は散歩を心掛けておりましたが、それは自分のペースと距離でありました。仕事に出るにはそれなりの覚悟が必要です。
 自らの健康増進のために、勤めて居られたら、勤め先はたまったものではありません。引退させれば良いのですが、日本の従来の習慣では中々そうも言い難い。もう御歳なんだから、辞めて下さいと上手に云うのが難しい。
 それを制度化したものが、定年制度です。企業としてはさっさと見切りを付けて老害を排除したいが、技術部門では固有技術を熟練者が持っている場合が多い。それに引き換え若年者の技術がまだまだ満足出来るレベルまで達していないという企業の悩みもある。
 医療制度の充実により平均寿命も延びた。政府としても年金財源が乏しいものだから、企業に対し、定年を65歳まで延長を求めたり、定年は60歳であっても、希望者に65歳まで働かせるように働きかける。
 政府が『いつまでも元気で働く』という雰囲気作りもしている。年金の受給開始を70歳まで延長すれば、65歳で受給する額に比べ、月当たり受給する額は 1.42ばいになると宣伝もしている。
 幾ら歳をとっても仕事をしていて何も問題のないのが、個人ではたらいている人でしょう。個人商店では何歳までも営業できます。噺家、絵描き、彫刻などの芸術家などは何歳に成っても、モノを相手にしている人は、大抵何処からも文句は来ません。
 本当は健全なる老人の身の引き方、老後の過ごし方について考えた方が良いのではと思っています。
 落語の登場人物に『ご隠居さん』が出てきます。隠居とは戸主が家督を他の人に譲り、悠々自適な生活を送っていた人であり、状況を言います。『人生50年』と言われ寿命の短かった江戸時代には、40代で隠居となるのも珍しくなかったそうです。
 ただ、いつの世も同じで、余裕のある隠居生活を送れたのはごく一部の人たちだけで、他の人たちがやはりカツカツの生活を送っていたようです。
 さて私に関して、世の動きに追随出来なくなったと感じるようになりました。それはパソコンです。仕事でワード、エクセル、パワーポイント、メールなどは日常使います。SNSは少しやりましたけど、意識して使っていません。Wi*Fi、その他便利なアプリがあるようですが、手が出ません。もう完全に乗り遅れたようです。
 職場では僕との契約を解除するなどの動きは見えません。僕の持つ固有技術に関して、まだ周囲の方に決して劣らないと思っていますが、もう、僕もいつまでも仕事にしがみ付いていないで、引退かなと最近せつに思うように成りました。

第 1193        世界に一つだけの花             2018.12.08(土)

 散歩の途中、下校してくる小学3~4年生くらいの女児2人が『世界にひとつだけの花』と言う曲を歌っていた。SMAPが解散して以降、すっかり聞かなくなってしまった。しばらく聞いていないで懐かしい曲だが、余り好きではない。いい歳をして、子供や若年者向けの歌に何か云うのは大人気ないことは知っている。
 『ナンバーワンよりオンリーワン』というところだ。こんなこと言わなくたって、元々人間一人ひとりはオンリーワンなのだ。クローンでもない限り同じ人は一人も居ない。
 病気になり、臓器移しょくしなければならなくなったとする。例え実の親子でも、母親の臓器を子に移しょくしようとしても、異物が入って来たとして拒否反応を起こしてしまう。拒否反応を抑える薬を投与して初めて移しょくが出来る。今話題のiPS細胞だって、当人の細胞を増殖させて移しょくする。そういう意味では、世界中の一人ひとりが元々オンリーワンなのである。でも、歌で言っているオンリーワンはこういう医学的な意味ではない。
 SMAPの歌の対象年齢は多分小学低学年以上と思っている。初めから、『オンリーワンで良いんだよ』と奨励するような歌であって良いものなのだろうか。まだ挫折も何も経験していない子供や若い人向けには、まずは逆の『オンリーワンよりナンバーワン』を目指すとすべきではないのかなぁ。これじゃ、初めから敗者への慰めのような言葉だ。
 世の中の仕事や勉強には向き、ふ向きは確かにある。適しているがどうかを自分で判断して良いものか。両親や先生、上司が見極めてアドバイスしてあげるべきものと思っている。『自分のことは自分が一番良く分かる』なんて云うけど、現実には自分が一番分からないものなのだ。SMAPのこの歌を対象としている年代で、経験が足りなくて色々判断できないと思う。
 人にはそれぞれ役割があって、その役割を果たすことが生きる価値だと知るにはまだ時間が掛かる。NHKの『チコちゃんに叱られる』ではないが、ボーッとして生きていてこれと言って取り得もない。仕事も勉強もさっぱり。こんな自分を見てくれる人が居て、自分を認めてくれる、自分を必要だと言ってくれる。これが本当に嬉しいことなのだ。これに応えて頑張ってみようと思うようになる。
 個性と言うのは、その人の飾らないごく自然の状態のもので、意識して演じたり、作られたモノではないな。日本の社会で悪いと思うことは、みんなと同じようにすることを半ば強制するところがある。『みんな一緒』が平等だと思っている。
 『オンリーワンで良いんだよ』と言っているけど、何も努力もしない、一所懸命勉強や仕事をしなければ、オンリーワンどころか、何処にでも居る『平凡な人』、『その他大勢の人』、『どうでもいい人』に成り下がってしまう。少なくとも『世界で一つだけの花』は咲かない。花を咲かせるには努力して、一所懸命勉強や仕事をしなくちゃ。

第 1192        電話                    2018.12.05(水)

 平日、家に居るとそれこそ様々な電話が掛かって来る。我が家には1階に親機、2階に子機が置いてある。パソコン部屋は3階にある。どうしても3階に居ることが多い。カミさんがふ在の時に電話が掛かって来ると、急いで階段を降りて行かねばならぬ。
 ジジイだから電話ごときで階段を踏み外し、怪我でもしたら後が物笑いである。呼び出し音5回くらいで大抵は先方が諦めてしまう。2階の子機のところに辿り着くまでには呼び出し音は途切れてしまう。ろくでもない営業電話だろうが、たまに知人からの電話もあるから、放置ばかりしてもいられない。
 気が向いた時には子機を3階に持ち込む。そんな時にはどうした訳か、決まって電話は掛かってこない。交際範囲が狭いから僕宛の電話はほとんどなく、勧誘の営業電話が多い。どんなものか例を挙げると
*お墓の分譲勧誘    墓はあるから、2つは要らない
*屋根の葺き替え、外壁塗装塗り替え勧誘    5年位前に済ませた。
*ふ要品買い取り(貴金属、着物など)。 先日、履かなくなった靴を買い取ると言う電話があった。人にはそれぞれに歩き方の癖があり、片減りする。買い取って再販売したって買う人いるのかしら。それとも靴は口実で来宅された時、他の物も物色されるのか。知人の話によれば、一旦家に上げると、中々帰って呉れないという。
*相手が『もしもし、○○さんですか』というから、『さいです』と答えた。『あっ、間違えました。すみません』と言って、相手の方は電話を切ってしまった。相手が『サイさん』と早とちりしたらしい。
*電気、ガスの自由化により、どちらか一方の会社に纏めてくれるとお得ですよというのもあるな。
 我が家のような老人の家庭では特殊詐欺から狙われる可能性もある。気をつけなければならぬ。
 大昔には戸別訪問で営業の人が回っていた。それでは効率が悪く、費用が掛かり過ぎる。何かリストがあって電話を掛けて来るのか、闇雲に電話して来るのか。闇雲とて先方にリストがなければ、電話を掛けて来られない。
 ポイントがもらえる、会員割引がある、景品もらえるからと、気軽にカードを作ったり、会員になったりと、無防備に住所や電話番号を教えてしまう。そのリストが色々な業者に流れていくのだろうな。戒めなければならぬ。
 端から戸別訪問していては極めて効率が悪い。予め電話した中で、脈の有りそうな家を見つけ出し、ターゲットを絞って営業を掛けるに違いない。
 私が電話に出る時は大体、ふざけた感じで出ることにしている。
*『 Hello This is ○○ speaking. Hello 』と言うと、相手は『はっ』として、間違って外国人の家に電話してしまったと勘違いして、切ってしまう。
*『合い言葉、お願いします』と言うと、想定外の対応されたので切ってしまう。
*『ただいま留守にしております。ピーという発信音の後、ご用件をお話し下さい。ピー』と言うのも面白い。
 自分で留守番電話のメッセージのように言うのである。家庭用の固定電話には今、留守番電話の機能が備えられているのではないかと思う。営業電話の方はそこでほとんど切ってしまう。知人で用件のある方だけ、時々メッセージが入っている。逆に自分で掛ける場合は留守番電話機能に答えて、何かメッセージを入れるのは甚だ苦手である。
 理由は2つある。
*相手が留守だと思っていなかった。用件を簡潔にまとめて言う準備が出来ていない。『ピー』と言う発信音の後に『さあ、喋りなさい、さあ、どうした』と迫られると感じてしまう。無機質な機械に向かって、用件を手短に言うことが出来るほど僕は図太くない。
*相づちがない。
 人が相手と会話する場合、相づちがないと甚だ話しにくい。『はい』『ほうほう』『あらあら』『まあまあ』『それで』『ああ、そうですか』など、まだまだ様々な相づちがあると思う。日本語の話し言葉は相づちがあると話し易いのではないか。
 留守番電話が話の成り行きに併せて、相づちを言う機能が付いていたらもっと話しやすい。電話機を製造しているメーカーの方は、一層開発の方に力を入れて取り組んで頂きたい。
 相づちとは言わないが、民謡、浪花節、義太夫でも合いの手入る。『あーどっこいしょ、どっこいしょ』なんて入ると、息継ぎが出来て、調子が付くものだ。日本人の会話の特徴なのかも知れない。
 ついでに書いておく。世間では広く使われているようだ。相づちでも僕は適当でないと思うものがある。相手が嘘を言っているとちっとも思っていないのに言う『うそ!』、『マジで?』、『ホント*』と言うことである。ごく親しい間柄での会話に留めておいて欲しい。
 私が家の前に立っていた時、若いふ動産屋の営業マンらしき人がご近所の土地に関する話を聞きに立ち止まった。色々聞き出す途中に、その方の癖なのだろうが『本当ですか』と言う相づちを何度も何度も繰り返す。大人気ないと思ったが、私は話を止めてしまって、その営業マンに言った。
 『あなた、さっきから聞いていると『本当ですか』と言う相づちを何度も繰り返している。私は嘘を言っている積もりは全くない。あなたは癖で何気なく言っているのだろうけど、言われる私はふ愉快だからこれ以上はお話ししない。友達同士ではないのだから。ビジネスマンとして恥ずかしいと思いなさい』と言った。彼は謝ったが、情報を聞き逃した。
 電話から相づちまで、いつもながら取り留めのない話になってしまった。

第 1191        応仁の乱                  2018.12.02(日)

 趣味なのか、ボケ防止なのかなるべく本を読む事にしている。今年、自分がどれだけ読んだか分からないといけないと思って、読んだ本の題めい、著者、ページ数、今年読んだ何冊目かを毎年記録している。本当に大切なのはどれだけたくさん読んだかと云うのではない。読む本の中身であるという事は、もちろん重々承知している。
 読んだ本の内容の良し悪しを尺度として表すことは難しい。仕方なく、題めい、著者、ページ数、冊数を記録して、今年読んだ本の冊数を尺度として、数値化して判断しようと思っている。
 今のところ、月平均6冊ペースで読んで来た。1~2月にほとんど読んでいなかったため、実際には後半になってしわ寄せを取り戻そうとペースを上げている。今年読んだ本はどういう訳か、新書版が圧倒的に多い。小説は余り読んでいないことになる。文庫本や新書版は通勤時の持ち歩きが便利なためである。
 先日、朝日新聞に新書版の歴史のような記事が出た。代表的な新書の題めいが21冊書かれていたが、その中で3冊ほどしか読んだことがなかった。題めいをメモして、読んだことがないものを、これから重点に読もうと思っている。その中に『応仁の乱』という中公新書があって、読んでみた。
 『人の世空し、応仁の乱』のゴロ合わせで覚える1467年に起こり、約10年間戦われた、室町幕府の八代将軍 足利義政の後継者を巡る争いが原因で起こった。この争いがその後の戦国時代へと続いていく。
 もう年寄りだから、人のなまえが中々覚えられない。小説を読むときには登場人物のなまえと簡単な特徴、属性などメモしながら本を読んでいる。
 ○○○○年、誰と誰が何処で戦いをした式の味気ない表現が、ただ延々に続いていた。夥しい数の人のなまえが出て来るだけではなく、昔は成長に連れて人のなまえが替わる。余りになまえが多すぎてメモのしようがない。読み進めても、何が何だかさっぱり分からん。
 書かれているそれぞれの事柄は事実なのだろうけど、この新書版の『応仁の乱』著者は何処を向いて(向けて)本を書いているのだろう。それとも読む方の僕の資質が劣って居るから、理解出来ないのだろうか。読んでいて嫌になり、読むのを止めてしまった。
 年号とどんな事件、戦いが起こったのか覚えるのが歴史の勉強ではないと思うのだ。これなら歴史は暗記問題になってしまう。試験問題がそういう暗記関係の問題ばかりだからなのか。
 温故知新と云う言葉がある。時代背景を知って、その人が、その場面でどう思って、どのような行動をしたのかを知るのが歴史を勉強する意義なのであって、歴史を学んで知った上で、将来どう考え、どう行動するか参考にするのが歴史の勉強だと思うのだよ。本当は著者は偉い人なのかも知れないが、『応仁の乱』という新書は僕にとっては馬の耳に念仏でした。

 

第 1190        年賀状                   2018.11.30(金)

 もう12月になる。そろそろ年賀状の準備もしなければ成らない。元旦の朝に年賀状を受け取るのは楽しみだけれど、もはや形骸化している。郵便が主要な通信手段だけだった頃はそれなりの役割もあっただろうが、今では電話、Fax、e-mail、SNSなど様々な通信手段があるから、新年の挨拶を改めて年賀状に頼らなくても良くなってしまっている。
 自分で年賀状を作成して出すのは面倒だけど、自分が受け取る分には一向に差し支えないと言うのが本音ではないか。最近では終活の一貫として『年賀状引退宣言』をする方も多いと聞く。
 年賀状は切っ掛けという役割はあると思う。普段ご無沙汰している相手に、自分を思い出して貰うための一年の挨拶くらいの役割は大いにある。平時には中々電話やハガキで連絡するのは気が引けても、年賀状なら堂々と出せるというものだ。結婚披露宴には招かれなければ出席出来ないが、お通夜や葬式には招かれなくても出席出来る。どうもたとえが極端かな。
 年賀状作成するに当たって、毎年頭を悩ませるのがその独自性だ。出来れば目立つ物としたい。昨今さっぱり見なくなってしまったが、ずっと以前は毛筆で1枚ずつ書かれたと思われる年賀ハガキを頂戴したものです。作成にはきっと大変な手間が掛かったに違いない。ただ、手書き毛筆だから存在感を発揮するものの、これに似せて作られたパソコン製の毛筆書体の文字だけの年賀状では、全くインパクトに欠ける。止めた方が良いと思う。
 ならばハガキ裏面のスペースの一角を埋めるにはイラスト挿画しかあるまい。正月特有のイラストには、門松、鏡餅、たこあげ、羽根突きくらいなものだが、昨年暮れに散歩がてらあちこちパトロールして見た限りでは、3本の竹をメインに松の枝をあしらって藁を巻き付けた門松は、私の住む近隣では見る事出来なかった。たこあげ、羽根突きも出来る場所がない。門松、たこあげ、羽根突きは、もはや年賀状限定の風物になってしまった。
 無難なところ登場するのが干支のイラストである。子丑寅卯辰巳午未申酉戌亥なのだ。大人だから、『ねうしとらうたつみうまひつじさるとりいぬい』と順番に言えるし、漢字も朧気ながら書けると思う。ただ、今年は戌年で、来年は亥年で、亥が何故イノシシなのかについての知識は全くない。
 12種類ある中で、架空の想像上の動物が1つだけある。『辰』なのだが、『龍』の事なのである。想像上の動物なのに、坂本龍馬に例を見るように『龍』をなまえの一文字として使っておられる方はたくさんいらっしゃる。もちろん『辰』も『竜』の方も居る。
 干支にちなんだ言い方で『あの人は子年だから、物を溜め込む性格だ』、『寅年の女性は性格がキツイ』、『未年だから温厚な性格だ』、『亥年だから猪突猛進型の性格だ』なんて全くの根拠のない言われ方をするのも甚だ遺憾である。
 蘊蓄はともかく、斯様に年賀状という物は面倒なのである。今年も出そうと思う方は、先延ばしをせず、サッサと済ましてしまうことが無難である。

第 1189        お金の払い                 2018.11.29(木)

 先日、郵便局に振込みに行った。今、金融機関は窓口に女性など1~2人ほどしか居ない。皆、自分で機械を操作して預金の引き出し、預け入れ、振込み、記帳などを行なうようなシステムになっている。かつて東芝府中工場の塀の外で起こった3億円強奪事件以来、どの企業も給与やボーナスは金融機関からの振込みになってしまった。我が家の場合、僕は働くだけで、給与の引き出しは皆、カミさんがやっていた。ほとんどやったことがないので、どうも苦手である。
 郵便局に振込みに行く際も、予めカミさんから逐一やり方を聞いて出掛けた。郵便局は駅前と、駅からずっと離れた所の2カ所ある。駅前の郵便局は混む。僕がノロノロ機械を操作して、後ろに長い列が出来るとプレッシャーとなる。これでも気が小さいのだ。駅からずっと離れた郵便局へ行った。思惑通り一人も並んでいない。機械の前で途中少し戸惑ったが、何とか振込みを終えた。何だか幼稚園児が初めて一人でお使いに行くようなものだ。
 『はい』『いいえ』『確認』とか、三択、五択などの選択など、パソコンに接して慣れている筈なのに、実際に機械に向かうと、監視カメラで見張られているのが分かっているから、どうも臆していけない。金融機関によって機械のやり方が違うのが許せない。統一して欲しい。今度金融庁の長官にでも会ったら、進言してみるか。
 スーパーなどで品物の入ったカゴを機械の上に乗せるだけで、自動で計算し、機械に向かって代金を払えば終わりという優れ物もあるという。総白髪のジジイも慣れておかねば、カミさんが怪我か病気でもして、もしもの場合に備えて訓練しておかねばならぬ。その逆に、ジジイにもしもの事があった場合、カミさんはちっとも困らないのはとてもクヤシイ。
 初めてはやはり臆する。運動を兼ねてと荷物持ちをめい目にカミさんのあとをノコノコ付いて、食品スーパーまで買い物に行く。一見、仲の良さそうな老夫婦に見えるが、大した用もないジジイが付いて行くのは邪魔である。慣れていないから店内での身のこなしがにぶい。一人で留守番の出来ないで、ママに付いて歩く未就学児のようなものだ。
 棚に陳列してある品物を取っ替えひっかえ見ているオバサンが居る。どれも同じだろうに。このパックは脂肪がたくさん付いているとか、奥の方から引っ張り出して品定めや、賞味期限の確認などに余念がない。『自分で引っ張り出したのだから、ちゃんと元に戻して置けよ』と心の中で云う。実際に声を出して言ったら、怖いオバサンだと口ではたいてい負ける。
 スーパーのカゴの中身を見ると、おおよそ、今晩の献立、家族構成など予想が付くものだ。無精ひげのオジサンの持つカゴにカップ麺がたくさん入っているのも、悲しい食生活や栄養の偏りが有るのではと心配に成ってくる。今はまだ大丈夫そうだが、いずれ段ボール、ブルーシート方面への道を辿ることのないよう願うばかりである。これは他人事ではなく、いつ自分がその身にならないとも限らない。
 買い物が一通り終わればレジに並ぶ。ここでもジジイが列の長さを増大するのに貢献する。よく行く食品スーパーはそれほど進化していなくて、パートのオバサン店員がバーコードの部分を機械に読み込ませ、会計は別の支払い専用機に向かってするシステムだった。
 散歩がてら歩いて買い物にでも行けば、100円玉でも落ちていないか、幾分下を向いて歩く。『犬も歩けば棒に当たる』と言うのに、近年お金を拾う場面にトンと遭遇していない。人に依っては宝くじに当たるとか、競馬で万馬券当てたとか言う話を良く聞く。これらお金儲けの話は全て他人の話だ。どういう訳か競馬で外した場合の話は聞こえてこない。もっとも、宝くじも競馬もやらないから元から当たる話はない。せめてお金を拾う話においては、自分の身に起こってもちっともふ思議でないのに、何故か自分には起きない。
 結局、スーパーでのお金の支払い方法の実習をして、支出の方法を知っただけで、収入は皆無であった。ああ、対面販売、支払いの頃が懐かしい。

第 1188        文化の違い                 2018.11.26(月)

 以前、英会話の教材のCDを聴いていて、こんなシーンがあった。
日本人:『私は25年間同じ会社で働いています』
米国人:『そんなことは考えられない。第一、同じ会社に居て同じ仕事をしていて飽きないのか。私は学校を卒業してから、5回仕事を替えている。だけど、それぞれその時勤めていた会社では一所懸命働いている。』
日本人:『愛社精神はないのか。会社に申し訳ないと言う気にならないのか』
米国人:『私は自分の時間を売っているのです。転職はアメリカでは当たり前のことで、転職しても誰も何も言わない。皆、自分のスキルアップのために何年間か働いたら、誰でも転職しますよ』
 会話の中のやり取りは、ざっとこう言ったことであった。
 経営危機に陥っていた日産自動車の立て直しに、カルロス・ゴーンがやってきた。2万人以上の従業員をリストラし、日産の業績を立て直し、ルノー・日産グループを世界一の自動車販売台数の会社に押し上げた。だから、経営者は相応の報酬を得て当然であるとした。日本人にしたら破格の報酬だとして、いつも株主総会では株主から質問が出るとのこと。
 『会社は株主のもの』と言われる。この論理は日本人には、頭で分かっていても恐るべきものではないか。『会社はそこで働く従業員のもの』と言う考えはないのか。会社に出資するのはもちろん株主だが、株主によっては利益を求め、短期で株を売り買いしてしまう方も居る。その会社には何の愛情も見受けられない。ただ、利益を得る対象でしかない。
 多くの日本人従業員は一旦就職した会社で長く働く方が多い。日本では従前は終身雇用と言う状態であった。従業員が皆、5年くらいの短期でコロコロ辞められたら、作業の熟練や技術向上は期待出来まい。会社によっては『永年勤続表彰』として、例えば従業員の夫婦に旅行券を出すくらい、従業員が固定して働いてくれることを望んでいる。
 日本の企業では中途採用する時、応募者が以前勤めていた会社に退職理由を照会するのが常だという。これから手間暇掛けて教育し、戦力として働いて貰うためには多くのお金がかかる。始めから問題ある人を採用したくないからだ。
 今回、カルロス・ゴーン氏が逮捕された。彼が来なければ日産は立ち直れなかったかも知れない。立ち直ったが、日産は重い荷を負わされてもいた。文化というか、合理性というのか、日本と欧米の考え方の違いを感じさせられた。

第 1187        思うこと                  2018.11.24(土)

 世間の多くの方が3連休である。週3日働いている私は4連休。そして多くの老人たちは毎日が日曜日(休日)である。畑も庭もないからうえ木の手入れなど、家に居て特にやることはない。食器洗いも風呂の掃除もとっくに終わった。連休の初日から持て余し、うんざりしている。今や世の中のお荷物と化してしまった我ら団塊の世代も、2025年には全て後期高齢者となってしまう。
 AIの発達によって、近未来、世の中の人々が今やっている仕事のほとんどがAIにとって替わってしまうのだと言われている。持てる者と持てない者の格差が拡大するのは当然予想される。AIに仕事を取って替わられてしまった人は、一体どうなるのであろうか。
 かつてもコンピューターの出現、普及で多くの人々が職を奪われたと思われる。ところが、コンピューターの出現によって、今までになかった新たな種類の仕事が創生されたとも言われている。
 AIによって仕事が失われた分、また今までなかった新たな仕事が生まれるだろうと期待して手をこまねいて、何も対策を立てないで良いのだろうか。柳の下にはいつもドジョウは居ない。一度は成功して味をしめても、そうそううまい事ばかり起こらない。
 仕事を失うのは、今度は老人ではない。子供を育てたり、教育費が掛かるまだ壮年期、青年期の働き盛りの方々が仕事を失う可能性があるのだ。彼らが、今の老人のようにやることが無くて毎日ブラブラしている姿を想像するのは辛い。
 世の中、人手ふ足なのだという。私の知っている会社でも、幾ら募集をかけても、ちっとも応募がなくて困っていると云う。海外からの働き手を求めて、国会でも議論されている。この状態は一方では切実だと思うが、ある面では正しくないと思っている。人手ふ足と云うのは『安い賃金』で働いてくれる人が居ないだけで、日本にはまだまだ働き手は居ると思うのだ。
 今、日本で食べる物がなくて餓死したと云う話をほとんど聞かない。そう、働かなくても何とか食べていけるのだ。通勤途中のJR川崎駅近くで、4~5人の男たちが固まって座り込み、平日の朝から酒を酌み交わしている姿を時々見る。
 彼らだけでなく、汚い、きつい仕事を避けて、仕事を選んでいるだけで、働き手はまだまだ居る筈だ。今の日本は働かなくても何とか食える。
 太平洋戦争が終わって10年余りの昭和31年、戦前の経済レベルを超えたとして、経済白書は『もはや戦後ではない』と言った。食うや食わずの状態から、暮らしが少しでも楽になるようにと、親に当たるような世代の方々が懸命に働いたからこそ、今の日本がある。
 働かなくても皆が困らずに食べていけると云うのは理想だが、AIによって奪われた仕事対策も考えていかないことには大変なことになるのは間違いない。老人が働かなくて日々をどうやって過ごすか考えるのも辛い。まして働く能力のある方々が働かないでブラブラしている行く末は、国の衰退しかないのだ。今から対策を考えておくべきだ。

第 1186        最近の私                  2018.11.19(月)

 最近の自分自身には大変失望している。覇気がない。元気もない。青い光で目が疲れるせいか、以前ほどパソコンにも向かわない。毎日、本を読んではいるが、軽い内容のものが増えてきた。何が原因か考えてみた。自分の事は中々分からないものだが、自分の行動規範は次の2つから成っていると思っている。
① ボランティア活動はやらない。
② 常に自分のスキルアップをして行きたい気持ちはある。
どうも変な心境だと自分でも思っている。
①について、
 今年は各地で大雨、地震など様々な災害があった。こういった災害があると、災害復旧のためのボランティア活動に参加される方がたくさんいらっしゃる。今年は行方ふ明になった幼児を探し出した『スーパーボランティア』と呼ばれて、軽ワゴン車に乗って全国に出動する元気なオジサン(おじいさん)まで出現して話題となった。僕に出来るかと言ったら、恐らく出来ない。自分には出来ないものとして、大変敬ふくしている。
 『顎足ナシ』つまり、交通費なし、手弁当での奉仕活動を私はやる気が起こらない。自分の近場で自然災害がないから、こう言っているのかも知れない。近場で起こったら私もボランティア活動するかも知れない。もし、私の周辺で災害が起こり、自分が被災すれば、ボランティアの方に手伝って頂きたいと言う、誠に身勝手な心情である。
 私が全く奉仕活動に無縁かと言うと、そうでもない。町会の防災隊は10年以上やったし、現在でも勤務日以外だったら、小中学生の下校時間に合わせて町会の通学路の見回りパトロールにも参加している。人手がなく困っておられた、お向かいの50坪以上有る庭(空き地)の繁茂した草刈りも一人で、もちろん無償でやり終えた。
 町会に加入していても、加入しているというだけで、何もやらない人が大部分の中で言ったら、ボランティアはやらないと言っても、僕は参加している方かも知れない。
 町会の通学路見回りパトロールの仲間に、市の施設の管理に月2回ボランティアで参加されている方が居る。無報酬、交通費支給なし、手弁当だそうだ。こういうボランティア活動に参加する気は全く起こらない。身の回りの事なら無償でも手助けしているが、災害でもないし電車に乗ってまでは参加したくないという気だ。
 身の回り以外のことで、自分のスキルや労力を必要とするなら、何らかの代償は頂きたい。プロ意識が強いのかも知れない。
② について
 50歳の頃、ゴールデンウィークに家に居て、毎日ブラブラしていた。『こんな事ばかりしていたら、自分はバカに成る』と思った。何か資格を取ろうと思って、本屋に行ってある国家資格の本を買った。講習を受けることもなく、独学で結構な時間勉強して一回で資格取得した。
 定年まで2年近くになって、定年後は今までの仕事とは全く毛色の違う仕事をしたいと思った。行政書士の資格に決め、やはり独学で勤めから帰ると毎日、真剣に勉強した。年1回の試験で、2年続けて受けたが、ふ合格だった。『一般常識』は2回とも合格範囲に達したが、『法令』がダメだった。答えが分からないというのでなく、全く時間が足りなかった。自分で考えるに、ふ合格は学校を卒業してから時間が経ち過ぎて『試験慣れしていない』事が原因であると結論付け、自分を慰めた。
 受験している人を見ると、20~30代の人達ばかりで、僕のような定年間際と思われる熟年者はほとんど居ない。今更この歳になって、万一合格したとしても、資格を活用出来る道などないだろうことを思い知らされた。そうです。何かを目指すのには歳を食いすぎているのです。
 プロスキーヤーで登山家の三浦雄一郎さんが、また何処か高い山に登る計画している報道をいつかテレビで見た。エベレストに登った時の画像が併せて放送された。高齢だから仕方がないのだが、それこそスタッフが手取り足取り、登らされているとの感じを持った。少なくとも自分が先頭になって登っているのではなかった。
 今、私は週3回勤めに出ているとは言え、有り余る時間を持て余している。チコちゃんじゃないけど、『ボッーと、生きてんじゃねえよ!』状態なのだ。これじゃいけない。何か勉強なくちゃ。『自分のスキルアップ』を図りたいと言う気持ちは強い。その一方で、『今更、勉強したって何の役に立つ! やるだけ無駄だ!』の2つの考えの狭間で苦しんでいる。
 一生懸命勉強して折角スキルアップしたのに、先ほど書いたボランティアでは嫌なのだ。どうも身勝手な心情だと分かっている。まだ、『勉強すれば僕だってスキルを得ることが出来る』と、年寄りの冷や水的な考えがまだ強い。『世のため人のために役立ちたい』と言う心境には達していないのです。
 それで、『ボッーと、生きているのです』。年取ってを理由にしたくないけど、何処かに自分の力を発揮出来る場所が欲しい。体力的には問題ありますけど・・・・・。

第 1185        ドアホン                  2018.11.15(木)

 我が家のドアホン(来客時、押すとピンポンと鳴るもの)が壊れてしまった。今年は冷蔵庫、エアコン、そして今度のドアホンといわゆる家電と呼ばれる電気製品が相次いで壊れてしまった。築18年だから致し方ないと言えば、それまでのことである。まだ、更新していないエアコンもあるから、年金生活者としてははなはだ気が重い。
 ドアホンが壊れて、家電量販店へどのくらいの価格なのか様子を見に行った。量販店でもドアホンは売れ筋商品でないらしく、2機種程度しか展示していない。今は来客を画面確認出来るタイプの機種ばかりで、我が家に設置して有ったようなチャイムと通話だけの物は製造終了になってしまったらしい。
 我が家では壁の中に既存の配線がされている。自分でやるのも面倒なので、ハウスメーカーのリフォーム部門に、電話で依頼した。今までの担当の携帯電話に連絡したら、異動で今は違う部門になってしまったという。今の担当者から連絡させると言うことだった。
 年を取るとどうしても気が短くなる。電話で依頼してから5日経っても、何の連絡もなかった。6日目の夜9時頃やっと初めての連絡が来た。
 『ドアホンの交換など、金額が小さいから始めから乗り気がないのでしょう。営業なら1~2日のうちに、まず電話だけでも寄越して、いついつ伺いますからとか、今工事見積を取っていますからと言うのが普通じゃないのか? そういう連絡が有ったら僕も待ちますよ。 6日も経ってから初めて連絡して来るなんて、どう言う積もりなのですか? もう他を当たるから結構です。』
 と言って断ってしまった。
 僕が現役時代にやっていた品管のクレーム対応だって、営業も同じ事だ。顧客から連絡があったら、取り敢えず直ぐに電話して修理や交換日程の予定を知らせれば良いものを、顧客だって依頼したものの、その後、全く連絡なしでは、どうなっているのかさっぱり分からない。こういうものはスピードが肝心だ。
 断ってしまった以上、自分でやらなければならない。再度、家電量販店に行って、ドアホンのカタログをゲット、ついでに展示品の機種と価格をメモして来た。1階に親機、2,3階にそれぞれ子機を置くことにして、3階の子機には画面ナシの通話だけ出来る安価なもので良いことにする。カタログの後ろの方に小さく書いてある、機種毎の適応表を調べた。
 機種を決めて、ネットで価格を調べてみた。家電量販店とネットの最安値は随分価格差があるものだと知った。家電量販店では店を構え、製品を陳列して、説明用に店員を置いて商売している。ネット上のお店とは価格差が有って当たり前のことだが、買う方にしたら正直言って費用は気になる。
 最安値狙いで、親機と子機では別のネットのお店で買うことになってしまった。取説を読んで予め調べておいたから、設置とテストを含め1時間ほどで終わった。既設のドアホンの配線がしてあったので、ただ線を繋ぐだけだ。親機は100V電源直結にした。本当は工事するには電気工事士の有資格者じゃないとしてはいけないのだが、直結だけなので自分でやってしまった。
 既設のドアホンを設置するために壁に開けてあった穴も、アルミ板に丁度残っていた同じ壁紙を両面テープで貼り付け、壁の穴も塞いだ。取説通りにやれば容易に出来てしまった。だが、機種を選んだり、増設する子機の適用機種選定や、既存の機器を撤去した後、壁に開いていた穴を塞ぐなどの方に何かと頭を使った。一番手間の掛かったのは、壁に開いた穴塞ぎだった。どうしたらなるべく目立たぬように穴塞ぎが出来るか考えることに意義が有る。少しは認知症防止になったかな。
 ハウスメーカーのリフォーム部門に依頼すれば、かなり取られたかも分からない。家電量販店からカタログだけ貰って来るだけで、ネットから製品購入して、自分で設置してしまうなんて『本当に嫌な客だ』と思う。
 家電量販店で買うより大分安くあがったと思っている。消費者が安さを求めるのはごく自然なことだ。ただ、これで良いのであろうか。家電に限らず、こんな買い物の仕方ばかりでは、個人商店は壊滅状態になってしまう。
 私たちが買い物をすると、店や企業はその売り上げから、国や自治体に税金を払う。『買い物は地元商店街で』と言う言葉が有るように、家電量販店やネット通販で買い物をした場合、代金から支払われるべき地方税は住んでいる地方自治体に還元されない場合が多い。
 地方自治体に支払われた税金で、私たちの周りに保育園を作ったり、学校の設備を充実させる、警察が市民の安全を守る、消防が救急搬送したり火事を消すなど、いわゆる地方行政が行なわれる原資となる。大企業だったら本社が東京に有ったり、ネット通販なら何処の自治体に地方税が支払われるのか分からない。
 僕なんかが何かを買う金額なんかわずかなものだが、積もり積もった少しずつの税金で世の中が成り立っているのである。ネット通販で物を安く買ったり、直ぐに届いて便利だが、一時の節約が本当に私たちのためになっているのか分からないところだ。何でもネットで安く、早く買えれば良いと言うものでもないと思った次第である。

第 1184        作法                    2018.11.09(金)

 ある人が20万円のブランド物のバッグを買って、家に帰ってよく見たら金具の所にキズがあった。
 『20万円も出して、キズがあるなんてなっとく出来ないわ』
 同じ人が¥100shopでA4のファイルを買って、家に帰ってよく見たら、汚れがあった。汚れが有っても、¥100shopで買ったものだから
 『しょうがねえなぁ』
 で済んでしまうのではないか。このように、お客さんが払ったお金の額によって、要求する品質に違いがあることになる。品質というモノは固定したものではなく、相対的なものであることが分かる。
 前職で某大手電気メーカー関連会社の仕事をしていた時、私は品質担当でお得意先担当者から散々痛めつけられた。製品価格をやたら値切るのに、少しでも瑕疵が有ると修正を求められるだけでなく、再発防止対策書の提出を求められ、出頭して説明をしなければ成らなかった。大会社とお取引するのは本当に大変だった。
 街のお蕎麦屋さんに行くと、店内に『新そば始めました』の表示をしているところがある。僕は蕎麦が好きだ。世の中には『蕎麦通』の人が居る。僕は少なくとも蕎麦通ではない。『通』となると、中々うるさいことをいうようだ。
 店に入ると大抵何処の蕎麦屋でもメニューは『もり』『ざる』から始まる。『もり』と『ざる』では値段が違う。『ざる』は『もり』の上に刻んだ海苔がまぶして有るだけの違いに見える。果たしてそれだけなのか。人によっては『もり』と『ざる』では、付け汁が違うと言うがどんなものか。
 僕は普段、『大ざる』を注文する。大抵の蕎麦屋では並盛りでは『これで一人前かよ』と思うほど量が少ない。だから、いつも『大ざる』にせざるを得ない。かつて富士市の蕎麦屋でいつものように『大ざる』を注文したら、山のような蕎麦が出て来て、やっと食べ終えた経験がある。
 気軽に食べられるとの思いがあるが、『蕎麦通』とも成れば、蕎麦を食べるには作法がうるさいらしい。まず、小皿の上に置かれたワサビを漬け汁に溶かすかどうかだ。刺身もそうですが、箸先でワサビをちょっと掴み、蕎麦の上に乗せて汁にちょっとだけ浸して食べるのが『正調蕎麦の食し方』だと言う人がいる。
 蕎麦を汁に浸すのもどっぷり満遍なく付けるのは邪道で、箸でつまみ上げた蕎麦の下側先端をちょこっと、多くてもせいぜい1/3程度に止めるのが『小笠原流蕎麦の食し方』なのだと言う。
 食べるについても、『蕎麦は喉越し』で食べなければいけない。噛んではいけないのだという。こうなると喉に潤いのなくなる老人は、喉に詰まらせないように食べざるを得ない。正に命懸けで蕎麦を食さなければいけないこととなる。美人の『傍』で死ぬなら良いけど、蕎麦で死ぬのは勘弁して貰いたい。『のどごし生』というビール系飲料があるが、蕎麦も液体と同じように食さなければいけないとなると、はなはだ気が重い。
 元々量の少ない盛りそばをちょっと残し、猪口にそば湯を注ぎ、残った蕎麦を入れて『かけそば』として食べて楽しむのだと言う方が居るとの話も聞いた。キャラメルのグリコじゃあるまいし、『一枚の盛り蕎麦で二度美味しい』なんて粋がっているようだが、無粋な僕にはそれでなくても少ない盛り付けに、みみっちいとしか思えない。
 店によっては『盛りそば』一枚が¥1000以上する店がある。こんな店はソバ粉から自家栽培か何かして、材料から厳選していなければ、喉越し、切れ、蕎麦の香りが得られないとの家訓で営業しているのかしら。
 『サッ』と暖簾を片手で払い、『盛り!』と言えば、白衣に長靴をはいたオバチャンがすかさず、蕎麦の玉を手持ちのザルに入れ、煮えたぎった湯に漬ける。程なく『サッツ、サッツ』と湯切りをしてから、直ぐに冷やし、盛り付けて差し出す。その間1分くらい。あたかもサウナで我慢をして堪えた後、冷水の浴槽に飛び込むような『サウナ方式』で営業している店もある。
 『喉越しは良いけど、切れと蕎麦の香りはないな・・・』と呟いても
 『ここは、立ち食いそば屋だからねえ』
 とオバチャンあっちを向いて知らん顔して言っている。¥100shopの汚れがあったファイルと同じように、やはり価格相応の品質があるようだ。
 忘れて居たけれど、ソバ粉とつなぎ材の配合も店によって違うらしい。ソバ粉の配合率が高ければ黒っぽくなるし、つなぎ材が多ければ色白近くになるのではないか。通の方は蕎麦粉の割合、産地も気にするのか。
 荒れた土地でも栽培出来るというソバも、『蕎麦道』となると奥行きが深いようだ。
 僕は蕎麦通では決してないから、ワサビはお猪口の中に溶かし、薬味や唐辛子を入れる。箸で摘まみ上げた蕎麦をお猪口にどっぷり浸し、蕎麦で死にたくないから噛みながら食するのが一番美味しいと思っている。

第 1183        思い出すこと                2018.11.02(金)

 歳を取ると、昔の事ばかり思い浮かぶようになる。寝てみる夢も現役時代に仕事で経験したことに関することばかりが多い。甘い恋のストーリーはちっとも夢に現れない。実体験がないと夢の中に構成演出できないのかな。いつも堅っ苦しい事ばかり書いているので、今日は風向きを変えて、季節ごとに思い出すことをちょっと書いてみたい。
 『夏が来ゥーれば思い出す 遙かな尾瀬遠い空・・・・・・』
 『思い出すこと』を書こうと、思い出そうとすると、直ぐにこの『夏の思い出』と言う曲を思い浮かんでしまう。この歌を頭に思い浮かべるのは、尾瀬に行ったことのある人も、ない人も同じであろう。行ったことのある人は、湿原を渡ってくる爽やかな風、尾瀬沼、尾瀬ヶ原、大清水、木道、白い水芭蕉、黄色のニッコウキスゲ、その他もろもろ尾瀬に係わる事が思い出されるのであった。
 ただ雨の日に行ったら、湿原を渡って来る爽やかなる筈の風も空しく、カッパを着てムンムンする身は忌々しい。花の咲く時期から外れて行けば、水芭蕉やニッコウキスゲの花が見られないのは当たり前のこと。景勝地に行った印象の善し悪しも、時期と当日の天候には大いに左右されてしまう。雨の日が合うのは『今日も雨だった・・・』長崎と、『小糠雨降る御堂筋・・・』その他、歌謡曲では雨も可であるようだ。ちなみに大阪では南北に走る道路を『筋』と言い、東西に走る道を『通り』と呼ぶ。だから御堂筋は南北を通る道路と言う事になる。
 『何よ!、思い出と言って、何で夏から始めるのよ! 昔から春夏秋冬と言って、春から順番に始めるのが当たり前でしょ』
 と春子さんからのクレームがついた。
 清少な言の枕草子でも、四季について
 『春は揚げ物 やうやう白くなりゆく山ぎは・・・・・・』
 に始まり、次は夏と順番になっている。
 現役で働いている頃、会社で頼んでいた仕出し弁当屋は、食中毒を恐れていたのか、おかずが揚げ物ばかりだった。油が傷んでいるのか、食べるといつも胸焼けを起こす。揚げ物はいつもろくに食べないで、残してしまってばかりだった。
 春は『木の芽時』と言って例年、何となく心がソワソワして、心穏やかにならない。猫も『ギャオォーーー』と異様な声を出して騒ぐ。月夜の晩には、僕だって月に向かって『ワォー』と遠吠えしたくなる。どうも、春には余り良い思い出がない。
 若い頃は夏が大好きだった。第一、夏は開放的になる。学生の頃、周遊券とフランスパン、寝袋を持って貧乏旅行もしたのも夏だった。普段着もTシャツと短パンで過ごせてとても気楽だ。何も掛けずに寝ても風邪も引かない。でも歳を取るに連れ、段々暑さが堪えるようになった。特に今年のような猛暑、炎暑となると、『暑さが和らぐまで、あと何ヶ月この暑さに耐えなければいけないのだ』なんてばかり思っていた。
 今年も、もう11月になってしまった。11月になった途端に、風も急に冷たくなった。気が早い人はもうコートやダウンを着ている。秋でも特に晩秋が好きだ。公園で落ち葉を踏んで歩くなんて、とても感傷的になるし、素敵な雰囲気だ。秋は『別れの季節』と言う人も居るだろうが、晩秋は人肌が恋しくなる『恋の季節』なのかも知れない。懐かしい思い出があるけど教えない。
 冬が近づくとつい思い出してしまうのが、どなたも『布団の温もり』と『鍋』だろう。つい1ヶ月半程前まで布団も掛けずに寝ていた。時に足がつったりして痛い思いもするが、誠に気楽だった。暑かった頃は朝5時半と言えば、もうとっくに外も明るくて、目が覚めてしまう。
 布団を掛けずには寝られない時期になった途端、布団を掛けると実によく眠れるようになる。朝5時半頃ではまだ外も暗く、目覚まし時計のアラームでも設定をしておかないと目が覚めない。
 『うるさいなぁ、あと5分寝かせて・・・』
 と中々布団から抜け出せないのは、どちら様でも同じだろう。あと5分と布団にくるまっている時間は至福の時である。
 この時期の『鍋料理』も格別である。湯気の上がる鍋を囲む一時も、冬でこそである。美味しいからと言って、真夏に鍋を囲んで食べるなんて人は滅多に居ない。
 鍋物は準備も簡単、手軽である。作る鍋の種類によってメインとなる中身は違うが、ハクサイ、長ネギ、椎茸、エノキダケ、シラタキ、豆腐などは定番材料である。適当な大きさに切ればお終い。始めに昆布で出汁を取るなど面倒なことをしなくても、今は各種の味付けをした袋入りの味付けだし汁を売っているから、これを使えばすぐに出来てしまう。
 12月は忘年会の時期だが、僕のごく偏った経験だけど、近年は忘年会で鍋というメニューに出会っていない。鍋の時は大いに盛り上がった気がするが、鍋だと『鍋奉行』成る人が自然発生的に出てきて、食べる時期や材料投入のタイミングを指示されてしまう。僕みたいに煮えたら適当に食べるという極々いい加減な人間にとっては甚だ面倒な人だった。さりとて、冬場、刺身の盛り合わせに、鍋の盛り上がりを期待するのは荷が重すぎる気がする。
 僕は『温かいご飯に美味しい漬物と温かい味噌汁があったら他に何もいらない』と言うタイプの人間ではない。漬物も味噌汁も無くても一向に構わない。ただ、冬の『白菜漬け』は唯一大好き。根元近くの食べるとサクサクしていた白い部分、緑の葉の部分、中心近くの黄色い部分のどれも好き。畑で白菜を自家栽培していた昨年までは、唐辛子、ユズの皮やニンニクをすって自分で漬けていた。
 子供の頃は青い葉の部分にちょっと醤油を付けて広げ、温かいご飯をくるんで食べるのが最高に美味しかった。今はそんなことちっともやらなくなってしまった。今と成っては遠い思い出ばかりだ。

せは単にお金をたくさん持っていることではなさそうだ。そうは言っても明日食べる物が無いようでも困るけど、マイクロソフトのビルゲイツさん(ずっと世界一の金持ちだったけど、今は2位になってしまった)と張り合う必要は全くない。生活出来る程度のお金が有れば十分なのである。必要以上に持とうとする欲があるからいざこざとなる。
 何でも気の持ちようである。今、自分は幸せなのだと思う。この幸せが維持出来ればもっと幸せなのだ。全ては他の人と比較することから、ふ幸の気持ちが始まる。
満ち足りてしまうと、それは幸せではないのかも知れない。もうちょっと有ればと、言うくらいがベストではないのかな。あと少し、あれがああしたら、これがこうなったらと、思い巡らすくらいが一番幸せなのだろうな。
 新聞に面白いことが書いてあった。将来、金銭的にふ安を感じている人が投資をして、蓄財を増やして将来に備える事は良いことなんだけれど、実情は十分なお金を持っている人が更にお金を増やそうとするから、格差が広がってしまうんだと。
 あと2ヶ月もすると、また新年となって皆さん初詣に行かれると思います。その時のお賽銭は幾ら投じるのでしょうか。賽銭箱を覗くと10円玉ばかりでなく、100円や1000札が入っている。100円玉を投じる人は10円の人より高い御利益を期待する気持ちが強いに違いない。
 正月になると、白い布を敷いた特別な『賽銭入れ』になって、投じられた金額が見えるようにしていることがある。1000円札がたくさん入っていると、あれは『見せ金』で、気の弱い人は10円では気が引けて、思わず100円を入れてしまう心理を狙った神社側の魂胆なのかな。神社側もしたたかだな。
 持てる人はより多くのお金を持ちたいのでしょうね。今以上に欲しがるから、人の悩みや争いが生じる。
 太宰治の『走れメロス』に暴虐な王様が出て来る。王様だから裕福だろうに、自分以外の人の心が信じられない。常に猜疑の目で見る。こんな人は裕福でもふ幸の例だ。
 相田みつをさんの言葉にもあった。『どじょうがさ 金魚のまねすることねんだよな』。民主党 野田元総理も『どじょう総理』と呼ばれたけど、身の程って本当にあると思うね。
 人間なんて、頑張れば頑張るほど地球を汚してしまうのだ。人間、気の持ちようだね。良いじゃないの、幸せならば。今が良けりゃ。